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2003-07-30

阿久悠「甲子園の詩」

 阿久悠の公式サイト。個人的に最も好きなサイトの一つである。『逆耳の戯言』でも以前、紹介したが再び――


 全国の球児達が甲子園を目指して奮闘している。昨日は東東京の決勝戦が行われ、二松学舎大付属をくだして都立雪谷が代表を決めた。都立高校としては3校目の代表になるそうで、初の甲子園1回戦突破を目標に掲げていた。


 巡り来る夏の甲子園を、阿久悠は「スポーツニッポン」で謳い上げてきた。今から20年も前になろうか、ふと耳をそばだてるとラジオから、阿久悠の朗読する声が聴こえてきた。それは、前の日に見た高校球児の熱戦を心憎いまでに表現し尽くしていた。題して「甲子園の詩 一瞬の神の子らへ」――

 試合を見なくとも心震わせる言葉に酔い痴れることができる。だが、試合を見れば、尚一層、堪能できることは間違いない。私が初めてラジオで聴いた際の衝撃はいまだ忘れることができない。同じ野球を見ながら、私が全く見つめ得なかった視点から繰り出される言葉の数々。言葉を聞いた瞬間に、「そうだった。確かにそうだった」と思わせる強烈な説得力。そして何にも増して、球児達に寄り添い、励まし、讃える心の広がり。


 今年もまた“熱い夏”が始まる。奇っ怪な少年事件に目を奪われ、危機感ばかりを募らせる大人が占める中にあって阿久悠の言葉は、一生懸命来る日も来る日も練習に明け暮れた高校生達への信頼から発せられた、心強いメッセージである。

2003-07-24

『さらば、わが愛 覇王別姫』

 カンヌ映画祭パルム・ドール大賞を受賞。既にご覧になった方も多いだろう。私は今回で2度目。最初に見た時と余りにも印象が異なったため、書き残しておく。


 京劇『覇王別姫(はおうべっき)』とは『史記』に書かれている項羽と虞姫(ぐき)の故事「四面楚歌」を描いたもの。


 私が初めてこの作品を見た時に感じたことは以下のページの所感と全く一緒であった。

 前半の清々しさと、後半のおどろおどろしさは全く相反するもので、尻すぼみの印象が強かった。


 6本の指があるため劇団への参加を拒否されるや否や、母親はその場で鉈(なた)をふるって我が子の指を絶つ。体罰を伴う過酷な訓練の中で助け合う子供達。二人の少年が耐えかねて脱走。彼等は京劇の観客席にもぐり込む。感動の余り、二人は涙を流し一人の少年はこう言う。「彼等はあれだけの演技ができるようになるまで、どれほど打(ぶ)たれたことだろう。俺は必ず京劇役者になるぞ!」(主旨)。小気味いいエピソードをふんだんに盛り込んで少年達は大人になってゆく。


 厳しい訓練は現在でも変わらぬようだ。以下――

 兄弟のようにして育った二人が大スターとなる。しかし、この二人は文化大革命と日中戦争という歴史によって翻弄される。彼等は普通の人間だった。裏切り、密告、そして衰え――。善意はしっぺ返しを食らい、悪意は逞しく大手を振って歩き回る。そこに少年時代の優しさは微塵もなかった。


 一人は保身に走る弱い人間だった。もう一人は激情に身を任せ、わがままに振る舞う俳優となった。歴史が彼等に与えた結末は文字通りの“四面楚歌”であった。


 だが、チェン・カイコーが彼等に注ぐ眼差しはどこか優しい。伝統芸能を支えてきたのは英雄ではなく、厳しい訓練に耐え抜いた普通の人間だった。それでも彼等には京劇しかなかった。彼等にとって生きるとは、舞台で躍ることだった。その一点だけは、時代がどれほど変わろうとも、彼等を変えることはできなかった。彼等は互いを裏切った。しかし、京劇を裏切ることはなかった。


蛇足


 女形を演じるのはレスリー・チャン。比類なき演技といってよい。香港映画界の大スターであった彼は去る4月に飛び降り自殺をした。彼は実生活にあっても同性愛だった。恋に悩み、鬱症状が出たためと推測されている。本作品と全く同じ生き方をしてしまった。惜しまれてならない。


さらば、わが愛/覇王別姫

2003-07-11

「親は市中引き回しで打ち首に」/鴻池防災担当相


 政府の青少年育成推進本部の副本部長を務める鴻池・防災担当相は11日午前の閣議後の記者会見で、長崎市の少年による男児殺害事件に関連し、「厳しい罰則をつくるべきだ。(罪を犯した少年の)親は市中引き回しのうえ打ち首にすればいい」などと発言した。


【朝日新聞 2003-07-11】

2003-07-08

四十にして山崎まさよしを聴く〜「未完成」


 先日、四十の誕生日を迎えた。もちろんこの私の話だ。論語では「四十不惑」と説かれる齢(よわい)だが、人知れず「四十 Fuck!(クソ!)」と駄洒落を飛ばして悦に入っていた。


 友人の一人から山崎まさよしのニューアルバム『アトリエ』をプレゼントされた。以前から、「山崎の『未完成』は好い曲だ!」と私が話していたことを心に留めてくれていたようだ。


 CDケースがどうも重いと思っていたら、自らが撮影したというポートレートが付録になっていた。こんなモン要らねーーーんだよー、音楽だけで真っ向勝負しやがれ!


 山崎まさよしの特徴は声量の乏しい鼻に掛かった声と、うねるような、ねちっこい歌い回し&グルーヴ感溢れるギターということになろうか。これは私の持論になるが、「日本のジャミロクワイ」と言っていいだろう。山崎の方がブルージーな印象が強い。


 で、私が気に入っている『未完成』だ。誤解のないように前置きしておくが、この歌が好きだからといって私が未完成だというわけではない。私は既に8歳にして完成された人格の持ち主だった。「短気という人格」だが……。


 歌詞の内容は、だらしのない、ひ弱な男の孤独を歌ったもの。ハッキリ言って40になる男性が聞きたくなるようなものではないね。


 この曲の好さは70年代のフォークソングを思わせる一直線のヴォーカルにある。私の世代であればイントロを聴いただけでノックアウトされることだろう。ドラムが音頭を取り、オルガンとアコースティックギターがバックを支え、エレキギターが絡みつく。


 歌詞については先ほど腐しておいたが言葉は大変生き生きとしている。次に来るボキャブラリーが読めない。易しい言葉でありながらハッとさせられる。


 ゆっくりと日が翳るゆるい坂道に

 あてどなく転がっている夢がある

 ざわめきを離れた狭い路地裏に

 やるせなさを紛らす歌がある


 我が家の近所の坂道に「夢」が転がっているかどうかは知らない。この歌詞の凄さは、青年が坂道の上をきっちりと見上げているのではなくして、坂道に向かいながらも迷い揺れている視線を見事に捉えているところにある。そして後半2行は、そういう若者に寄り添うことを望む山崎自身の独白だ。こりゃ、ただ者じゃないね。


 日を数えるごと染み付くズルさを

 開き直ってみたり 言い訳にしたり


 山崎は青い。だが心地好い青さである。この曲を耳にすると私は何も手につかなくなる。


D


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アトリエ