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2004-11-24

『ドッグヴィル』

ダンサー・イン・ザ・ダーク』に衝撃は受けたものの、ラース・フォン・トリアーの名前は私の記憶にくっきりとした刻印は残さなかった。ひょっとすると、自分の方から避けていただけなのかもしれない。この監督が提示する“人間の醜悪さ”は誰もが目を背けたくなるほどの迫真性があり、物語には二重三重の仕掛けが隠され、とてもじゃないが、行楽目的で映画館に足を運ぶ人々が見るべき作品ではない。


 たまたま、レンタルビデオ店で手に取った作品に、「ラース・フォン・トリアー」の名前があった。ニコール・キッドマンという女優の名前は知ってたが、出演している作品を見たのは初めてだった。だが、そんなことはどうでもいい。


 一度目で私は挫けた。小学生の時、学校で無理矢理見せられた演劇を思い出した。ガランとした倉庫みたいな場所で、まともなセットもなく、白いチョークで線を引かれた舞台で、アメリカの辺境に住む村人達が、ただダラダラと毎日を過ごしているようにしか見えなかった。


 私は十分過ぎるほど短気な性質だが、その一方で貧乏性でもあった(笑)。このまま、250円のレンタル料金を無駄にするのも癪(しゃく)に障る。そこで例の如く、「超映画批評」と、「みんなのシネマレビュー」で調べた。いずれも高評価だった。私は、あらん限りの集中力を総動員して、再びブラウン管に向かった。


 プロローグと9章から成るこの作品は、第5章あたりから風雲急を告げる。それ以前はやや長い伏線と考えて、強い意思をもってフィルムを睨み付けなくてはならない。


 これほど気の滅入るカタルシスを覚えたことは、いまだかつてなかった。私は休日前の午前2時に見終え、めまぐるしく動く脳味噌に気分が悪くなったまま、3時になってようやく眠りに就いた。そして、ドッグヴィルという文字が明滅して、目を醒ましたのは午前5時だった。映画を見て、二日酔いになったのは生まれて初めてのことだ。


 ラース・フォン・トリアーが観客に与えるのは、余韻ではなく激痛だ。そして、心の中の何かを掻き乱し、戸惑わせ、翻弄してみせる。現実と非現実とが錯綜し、人間の善と悪とがクローズアップされ、不安という名の厚い雲が重くのし掛かってくる。


 壁のない舞台は、町の全てが見渡せる。虚構といえば全てが虚構の世界。そこで営まれる人間ドラマ。しかし、もう一段の仕掛けがあって、グレース(ニコール・キッドマン)の存在が、更なる虚構を示している。金髪と茶の眉がアンバランスで、白目がこの上なく美しい。町の人々は皆一様に薄汚れた格好をしているが、グレースだけは別だ。町の人々から辱(はずかし)めを受けて、怒りを現さないのもその証拠となろう。もっと声の好い女優を起用すれば、格段に効果が上がったはずだ。


 虚構まみれの世界で真実を示したのは、人間の醜悪さだけだった。村人が衆愚を示し、トムがインテリの精神的脆弱さを表し、グレースが権力の魔性を象徴する。そして、衝撃のラストシーンを見た観客は、どのような感情を抱こうと、フィルムの中の一員にさせられてしまうのだ。


 ラース・フォン・トリアーが描いたアメリカは、村人とグレースによって体現される。村人は閉ざされたコミュニティによそ者を受け入れ、グレースは聖母マリアのように村人の罪を受け入れる。双方が断固たる態度を示すのも、強大な力を持つ世界の警察としてのアメリカを思わせる。時間軸をずらしながらも両者は同じ軌跡を辿り、奇妙なダブルスタンダードが描かれる。決して安易なアメリカ批判ではなく、人間社会はいずれも、ドッグヴィル=犬の町であることを思い知らされる。


 丸山健二が描きたくても描けない世界が、ここにはある。

ドッグヴィル スタンダード・エディション


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2004-11-23

武部幹事長、また言っちゃった/「創価学会員も正月は神社に参拝する」


 武部幹事長がまた失言をやらかした。20日午後、北海道釧路市での講演で、靖国参拝に対する中国の対応に関してこう発言したのだ。

「靖国参拝するなら(中国首脳が)会わないというのはおかしい。内政干渉だ。日本では共産党員も創価学会員も、正月になれば神社に参拝する。どんな悪いことをした犯罪人も、亡くなったら仏様になるのが日本の文化だ」

 これは明らかに事実誤認。創価学会では日蓮正宗以外は『邪宗』であり、神社や他宗のお寺への参拝を認めていない。

「学会員は正月三が日には全国の創価文化会館の新年勤行会に行くのが通例。神社への初詣はしません。かつては学会員の子弟は修学旅行でも神社仏閣の観光には行かなかったものです。」

 しかも、公明党・創価学会は小泉首相の靖国公式参拝を批判し、国立墓地の創設を主張してきた。日中関係を築いてきた自負もあるから、武部発言が神経を逆なでしたことは間違いない。

 武部は小泉への忠誠心として中国批判をしたかったらしいが、また一つ失言録を増やした。


日刊ゲンダイ 2004-11-23】

2004-11-20

「しあわせになりたいけど がんばりたくなーい」


 ご存じ、「グロンサン」のコマーシャル。忌野清志郎が真っ赤なステージ衣装で街中(まちなか)に登場。ギターを弾きながら、通行人の間を練り歩く。大勢の“がんばる”人々に逆らって進むところが、いかにも清志郎らしい。


 清志郎の起用について、「強そうな人や、カッコつけている人はたくさんいます。でもホントは、飄々と自分の道を行けることがいちばんハッピーでカッコいい、とグロンサンは考えます」とある。ま、癒し系や脱力系がもてはやされる時代に媚びへつらったというところだろう。


 実はこの曲、清志郎が書いたものではない。中島靖雄によるもの。検索したところ、多くのCMミュージックを手掛けており、東儀秀樹の編曲も行っている模様。それにしても、清志郎のキャラクターにピタリとはまる曲だ。


 RCサクセション時代からロックの王道を歩んできた清志郎は、最早、日本のミック・ジャガーと言っていいだろう。体制に逆らうアナーキーなメッセージを常に発信し続けてきた。暗喩を盛り込んだ歌詞は、常識まみれの世間を嘲笑するような響きがあった。


 その清志郎が、「しあわせになりたいけど がんばりたくなーい」と歌う時、こっちとしては、どうしたって身構えざるを得ない(笑)。高度成長からバブルに掛けて、あくせく働いてきたサラリーマンは、今、リストラに脅える存在と成り果てた。会社の都合次第で、いつでも路頭に迷う時代となってしまった。


 我が国は、ベルリンオリンピック(1936年)の「がんばれ前畑!」に象徴されるような国民性をもって、第2次世界大戦に敗北し、高度成長を築き、バブルに酔い痴れ、今、途方に暮れている。


 そんなこんなを思う時、清志郎の放つメッセージはメーカー側の狙いを超えて、「国家や会社から言われて、がんばるつもりはないぜ! 与えられる“幸せ”とは、もう、さよならだ。俺は俺の道を選び、そこで、ひたすらがんばるのだ!」という風に聞こえてしようがない。


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2004-11-07

『コラテラル』

 公式サイトの説明によればタイトルの意味は、「間違ったときに間違った場所に居合わせてしまった不運な犠牲者」とある。その点からいえば主役はジェイミー・フォックスと見るべきだろう。それにしても適切な邦題をつけることができなかったのは、配給会社の不手際といってよし。


 実に好い作品だった。先に悪口を書いておこう(笑)。音楽がうるさい。余計である。出だしのシーンでは効果的だったが途中から耳障りになる。もう一つはラストシーンがあっさりし過ぎているところ。


 最初の殺しは香港映画だったか韓国映画だったかのパクリだが、ストーリー上、必要な場面となっているのでこれに文句をつけては気の毒。


 物語は静かに静かに幕を開ける。タクシー運転手の決まりきった作業をアップで撮影することによって、プロフェッショナルであることを巧みに表現している。上空から俯瞰で撮られる映像とのコントラストが鮮やか。


 脚本が完璧。ニヤリとさせられ、クスリと笑わせ、ニンマリとさせる。まるでラブストーリーが始まるような温かみに溢れている。しかし絶妙な会話も、カメラのアップと俯瞰が示すように物語の伏線だ。


 殺し屋役のトム・クルーズは非常に理知的で説得力に満ちている。脚本は、計算高い殺し屋稼業の本質まで会話によって示している。タクシー運転手のジェイミー・フォックスが彼の影響を受け、同じ台詞(せりふ)を口にするシーンが笑える。


 途中からやや殺し過ぎのきらいはあるものの、アメリカ映画特有のデタラメさはなく、場面展開の整合性も十分とれている。


 トム・クルーズの言葉は、福本伸行作品を思わせる内容だ。自分を取り巻く厳しい現実を指摘された時、コラテラルはコラテラルではなくなった。異なる世界に住む二人が偶然出会い、互いが背負ってきた過去と向き合い、双方に変化が生じる(コヨーテが道路を横切るシーンは、スタインベック著『怒りの葡萄』の亀の挿話に匹敵するほど効果的だ)。私好みのドラマだ。


ネタバレ・レビュー


 以下、ネタバレ――


 監督がインタビューで次のように語っている。


 ヴィンセントがマックスを殺さないのは、彼を必要としていたからなんだ。そして一緒に行動することになったマックスをなんとかコントロールしようと、いろいろやってみるんだ。でもマックスは全く聞いていない。そうするとヴィンセントはだんだんイライラしてくる。そしてマックスは時間が経つにつれて気づくんだ。「なんで俺を殺さないんだ」って。その疑問をマックスはヴィンセントにぶつける。この疑問の答えは、ぜひ観客の皆さんにも考えてもらいたいと思うね。そしてその答えというのはヴィンセントの最後のセリフに隠されているんだよ。ヴィンセントが、なぜマックスを必要としていたのか。その謎がこのセリフで解けるはずだ。


 つまり、「地下鉄の中で誰にも知られず、男が死んでいた」という台詞に隠されていたのは、「だが俺の死は、マックス、お前が見届けてくれた」という、殺し屋が最後の最後でやっと孤独から逃れることのできた友情のメッセージとなる。中々味な演出だ。


コラテラル スペシャル・コレクターズ・エディション


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2004-11-05

『狐の書評』狐


 人は、自分が好むものを褒められ、自分が嫌うものを貶(けな)されると快感を覚えるようだ。


 たまたま、ネットを渉猟していたところ、「」と名乗る匿名書評家がいることを知った。イエロージャーナリズムの代表選手といえる「日刊ゲンダイ」で健筆をふるっている模様。この手のメディアは私の嫌悪するところなので、知りようがなかった。


 検索したところ、復刊ドットコムのこんなページを発見丸山健二の『野に降る星』を褒めてるとすれば、何としても入手する他なかった。


 文章はヒラリヒラリと蝶の如く舞い、該博な知識が顔を覗かせるものの嫌味なほどではない。晦渋(かいじゅう)な表現は退け、本に寄り添いながらも溺れることのないバランス感覚が光っている。ま、夕刊紙に掲載される書評だから、小難しく書くわけにもいくまい。いずれも、800字という土俵で、活字が風のように舞い、吹き抜ける。


 それにしても、心憎いばかりの表現が多い。先ほど書き上げた、『となりのひと』を読んだのも、氏が書評で取り上げていたからだった。事前に読むと、影響されてしまうので、書き終えてから本書を開いてみた。


 書き出しはこうだ――


 破滅的なほどの狂気ではない。ほんの微量を抽出できるくらいの、ささやかな異常である。


 そして、締めくくりはこう――


 暮しに一滴の異常がしたたる。衣食住のすみずみに、気づかぬくらいに淡い色の、あるいは気づいてもあくまでルーチンな色彩の狂いがにじむ。


 カアーーーッ、逆立ちしてもかないませんなあ(笑)。


 丸山健二の『野に降る星』はこうだ――


 情け容赦もない、がちがちに氷結したような文章だ。書きながら、作家は血くらい吐いているのではないか。


 そして、「きつい、きつい」を連発し、この作品を音読で読むよう勧めて、こう結ぶ――


 この荒ぶる小説は、黙って読んでへこたれたら負けだ。


 本の選択は幅が広く、プルーストからイッセー尾形に至るまで、固かろうが軟かろうが、ムシャムシャと咀嚼している。これほどの知識がありながらも、ペン先は枯れてなく、むしろ壮(さか)んな印象が強い。ということは、容疑者から田村隆一は除かれる(笑)。私がまだ読んだことのない高橋源一郎林望に当たりをつけていたが、両者の作品も取り上げられていた。胆力の強さが開高健を彷彿(ほうふつ)とさせ、ちょいと洒落た言い回しが向井敏を思わせ、視線の軽やかさが芥川喜好を想像させる。


 殆どの書評に食指が動く。プルーストの『失われた時を求めて』(筑摩書房)なんぞは、一生、お目にかかることはあるまいと思っていたが、こんな文章を目にすると、「いつの日か……」などと妙な希望が湧いてくる。


 翻訳完結にあたって、ある詩人は、「一気読みの好機の到来」と書いているが、それはどうか。一気読みで挫折するより、ゆっくり、ゆっくり時間を失いながら読みたい。小説に書かれた19世紀末フランスの小都市における主人公と同じように、読み手自身もじんわりと時間を失速させていく。この小説を読む快楽はそこにある。


 いずれにせよ、どの書評も、何らかの興味や関心に火をつけることは、私が請け合おう。中にはハズレもあるかも知れないが、それはそれで、「に化かされた」と思えばいいのだから。

狐の書評


付記


 現在、容易に入手できるのは、『水曜日はの書評 日刊ゲンダイ匿名コラム』(ちくま文庫)のみとなっている。書店へ走った方がよろし。


追記


 人気があるようで何冊か刊行されていた。以下に紹介する――


書評家〈狐〉の読書遺産 “狐”が選んだ入門書 水曜日は狐の書評 ―日刊ゲンダイ匿名コラム

2004-11-04

『となりのひと』三木卓


 杉浦日向子の装丁が、内容としっくりしていて秀逸。横向きに置かれた箸。茶碗の中には水が張られ、赤い金魚が泳いでいる。ページをめくると、神経が張り巡らされたような紋様があり、中表紙には花の芯だけ赤く着色された胡蝶蘭のモノクロ写真。


 この短篇集は、登場人物のほぼ全員が皆、おかしい。社会生活を営む上ではさほど障害にはならぬが、微妙な狂気を発している。1991年に発行されているから、時代の先端を、ひょいとつまみ上げて、目の前に見せてくれているような趣がある。「人格障害モノ」といえばわかりやすいだろうか。


 毎朝、6時に起きて、トーストと日本茶をとり、それから厚切りのヨウカンを一切れ食べる男性(「エレベーター」)。隣の家の壁紙が、自分の家と同じものであることに対して苦情を述べる隣人(「胸」)。荷物を届けた際に、「おや、いったいだれからだろう」と客が言うやいなや、「だれからだなんて、おれにわかるわけないじゃねえか」と怒鳴りつける宅配便の運転手(「笛」)。


 社会と関わり合ってる場面では、一見、普通に見えるが、どこか屈折した感覚のある人々を、著者は巧みに描き出している。


 横須賀線というのに、直通で横須賀へ行くことはできない。(「目」119p)


 七つの短篇が収められているが、いずれもこうした視線に貫かれている。“変な人”は周囲と摩擦を起こしながらも、日常を淡々と生きてゆく。無くて七癖と言われるが、核家族化が進み、一人暮らしの若者が増えれば増えるほど、自分の癖には気づかなくなるものだ。人間がバラバラに引き離され、住まいの内部から家族の視線が消えた時、人格障害が増えてきたのではなかろうか。


 本書のタイトルが『となりのひと』となっているもの示唆的だ。読みながら、「内の隣にも、こんなのがいるかも」なあんてクスクス笑いながら、読み終えた時、隣人から見れば、自分が『となりのひと』であることを思い知らされる。


 文章は淡々として読みやすい。ただ、科白(せりふ)部分の浮いてるような感じが、やや気になった。


となりのひと

2004-11-03

『デイ・アフター・トゥモロー』

『デイ・アフター・トゥモロー』をビデオで見た。


 ハリウッド映画の多くは、地球外生物と戦闘状態となり、最後に核兵器を使用する「ペンタゴン御用達(ごようたし)映画」と、世界が終末を迎え、登場人物の誰かが神様を象徴する「キリスト教的戯画作品」に分かれるというのが私の持論だ。


 この作品は後者。迫り来る危機をギリギリのところでくぐり抜ける様は、さしずめ、洪水から救ってくれるノアの箱舟のよう。病気の少年に寄り添う母親がマリア様を表し、ニューヨークに取り残された我が子を救い出しにゆく父親がイエス役という構図。


 どこを見ても不自然で、どのシーンも偽善に満ちている。また、アメリカものは、家族関係がベタベタしていて薄気味悪い。「電話口で一々、『愛してるよ』なんて言うんじゃねえ!」と叫ぶのが常識というもの。


 だから、この映画を物語として見てはいけない。そうでないと、前田有一氏が言うところの「吐き気がする」だけで終わってしまう。これは、現在のコンピューター・グラフィックでどのような演出ができるかを教えてくれるCGショーなのだ。地球の半分が凍りつくシーンは、誰が見ても興味深いものだ。


 また、京都議定書に反対しているアメリカで作成されたことにそれなりの意味はあろう。唯一、評価できるのは、主人公の息子役が、映画の中でどんどん凛々しく成長してゆくところだった。彼女役は可愛ければ誰でも務まるだろう。


デイ・アフター・トゥモロー


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