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映画の衝撃で二日酔い/『ドッグヴィル』ラース・フォン・トリアー監督・脚本

 ・映画の衝撃で二日酔い

ラース・フォン・トリアーが観客に与えるのは、余韻ではなく激痛だ/『ドッグヴィル』


2003年/デンマーク


ダンサー・イン・ザ・ダーク』に衝撃は受けたものの、ラース・フォン・トリアーの名前は私の記憶にくっきりとした刻印は残さなかった。ひょっとすると、自分の方から避けていただけなのかもしれない。この監督が提示する“人間の醜悪さ”は誰もが目を背けたくなるほどの迫真性があり、物語には二重三重の仕掛けが隠され、とてもじゃないが、行楽目的で映画館に足を運ぶ人々が見るべき作品ではない。


 たまたま、レンタルビデオ店で手に取った作品に、「ラース・フォン・トリアー」の名前があった。ニコール・キッドマンという女優の名前は知ってたが、出演している作品を見たのは初めてだった。だが、そんなことはどうでもいい。


 一度目で私は挫けた。小学生の時、学校で無理矢理見せられた演劇を思い出した。ガランとした倉庫みたいな場所で、まともなセットもなく、白いチョークで線を引かれた舞台で、アメリカの辺境に住む村人達が、ただダラダラと毎日を過ごしているようにしか見えなかった。


 私は十分過ぎるほど短気な性質だが、その一方で貧乏性でもあった(笑)。このまま、250円のレンタル料金を無駄にするのも癪(しゃく)に障る。そこで例の如く、「超映画批評」と、「みんなのシネマレビュー」で調べた。いずれも高評価だった。私は、あらん限りの集中力を総動員して、再びブラウン管に向かった。


 プロローグと9章から成るこの作品は、第5章あたりから風雲急を告げる。それ以前はやや長い伏線と考えて、強い意思をもってフィルムを睨み付けなくてはならない。


 これほど気の滅入るカタルシスを覚えたことは、いまだかつてなかった。私は休日前の午前2時に見終え、めまぐるしく動く脳味噌に気分が悪くなったまま、3時になってようやく眠りに就いた。そして、ドッグヴィルという文字が明滅して、目を醒ましたのは午前5時だった。映画を見て、二日酔いになったのは生まれて初めてのことだ。


 ラース・フォン・トリアーが観客に与えるのは、余韻ではなく激痛だ。そして、心の中の何かを掻き乱し、戸惑わせ、翻弄してみせる。現実と非現実とが錯綜し、人間の善と悪とがクローズアップされ、不安という名の厚い雲が重くのし掛かってくる。


 壁のない舞台は、町の全てが見渡せる。虚構といえば全てが虚構の世界。そこで営まれる人間ドラマ。しかし、もう一段の仕掛けがあって、グレース(ニコール・キッドマン)の存在が、更なる虚構を示している。金髪と茶の眉がアンバランスで、白目がこの上なく美しい。町の人々は皆一様に薄汚れた格好をしているが、グレースだけは別だ。町の人々から辱(はずかし)めを受けて、怒りを現さないのもその証拠となろう。もっと声の好い女優を起用すれば、格段に効果が上がったはずだ。


 虚構まみれの世界で真実を示したのは、人間の醜悪さだけだった。村人が衆愚を示し、トムがインテリの精神的脆弱さを表し、グレースが権力の魔性を象徴する。そして、衝撃のラストシーンを見た観客は、どのような感情を抱こうと、フィルムの中の一員にさせられてしまうのだ。


 ラース・フォン・トリアーが描いたアメリカは、村人とグレースによって体現される。村人は閉ざされたコミュニティによそ者を受け入れ、グレースは聖母マリアのように村人の罪を受け入れる。双方が断固たる態度を示すのも、強大な力を持つ世界の警察としてのアメリカを思わせる。時間軸をずらしながらも両者は同じ軌跡を辿り、奇妙なダブルスタンダードが描かれる。決して安易なアメリカ批判ではなく、人間社会はいずれも、ドッグヴィル=犬の町であることを思い知らされる。


 丸山健二が描きたくても描けない世界が、ここにはある。


ラース・フォン・トリアー
不条理ゆえに我生きる/『灼熱の魂』ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督・脚本