古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

幼女殺害

 奈良県の幼女殺害事件の犯人が逮捕され、性犯罪の前歴がある人物に対してかまびすしい議論が沸騰した。


 メディアは都合よくアメリカの「ミーガン法」なるものを持ち出し、魔女狩りをそそのかした。ミーガン法に関しては以下のリンク先を参照されたい。


圏外からのひとこと:記識の外 良い監視・悪い監視
圏外からのひとこと:「再犯者率=再犯率」の嘘
ミーガン法のまとめ


 法規制に私は断固反対だ。そもそもアメリカには犯罪者を支援するボランティアなどがいて、社会全体で犯罪者が更正するのを見守る文化がある。日本には全くない。ま、村八分にされるのがオチだろう。我が国ではどうしても犯罪者=自分達と異質な存在、という図式となる。


 そもそも、んなことやったって事件の防ぎようはないだろう。


 昨日起こった小学校での殺人事件に対しても同様。セキュリティ、セキュリティとオウム返しに繰り返すマスコミは馬鹿としか言いようがない。きっと誰かに責任を押しつけたくってしようがないのだろう。


 いわゆる少女趣味の連中に関しては様々なことが囁かれている。大人になり切れてない男性が、同年齢の女性に対して恐怖感を抱いて付き合うことができなくなっている。男としての自信を持てない連中の眼差しは少女に注がれる。あるいは潔癖症が昂じて大人の女性が不潔に見えるような手合いもいるようだ。挙げ句の果てには人間を通り越して人形へと嗜好が傾く。


 こんな薄気味悪いのは私の周りにいないが、結局、教育の問題に行き着いてしまう。家庭や地域、学校が協力してまともな大人を育てないとこうした事件はいつまでも続くことだろう。


 戦争に負けてアメリカから自由を押しつけられ、日本人は何も考えることなく経済至上主義を貫いてきた。そして今我々は自由が持ち合わせるリスクを学ぶ時期に差し掛かっているのではないだろうか。


 自由な社会は自由に犯罪を起こせる社会でもある。私は決して犯罪を認めるものではないが、結局そういうことなのだ。


 それでも事件を許せない人は、ジョージ・オーウェルが『一九八四年』で描いたような完璧な管理社会を目指せばいい。


 元犯罪者だからといって平然と他人の権利に踏み込もうとする人々は、自分の自由を損なうことに全く気づいてない。


 犠牲となった被害者は言葉も見つからないほど気の毒だと思う。もしも私の身内が同じ目に遭うようなことがあれば、私はあっさりと法律の柵を超えてみせるだろう。だが、それとこれとは別の話だ。

女児両親の談話(全文)

 私達は娘を失った悲しみ・無念さ、小林被告への怒りはもちろんのことですが、事件当初のカメラのフラッシュやヘリコプターの旋回音、新聞記事や投函のあった手紙の内容、取材時の空き缶や煙草のぽい捨てのマナーの悪さ等、私達はマスコミに対する不信感を拭いさることは出来ません。
 今回初公判が行われますが、私達にとっては一つの節目というよりも起訴され、判決が下されるまでの通過点と思っておりますし、事件を風化させない為にも地域・学校をはじめ多くの皆様が安心・安全への取り組みを進めており、決して誰も忘れることはありません。
 私達の気持ち、小林被告に対する思いはコメントいたしました気持ちと変わっておりません。私達の心境をご理解頂き、取材活動を控えて頂ければと思っております。
 また、私達は報道機関からの、直接の手紙の投函等に精神的苦痛を受けております。今後につきましては、奈良県警察本部県民サービス課を通して頂けます様お願い申し上げます。尚、コメントとして取り扱われるのであれば、全文を載せて頂けますようお願い致します。


 平成17年4月11日


毎日新聞 2005-04-18付夕刊】


 メディアの連中にとって「他人の不幸は蜜の味」と見える。角砂糖に群がる蟻さながらに、舌なめずりをしながら被害者の家族にまとわりついているのだろう。良識すら持たぬ記者が書いた記事が伝える事実にどの程度の意味があるのだろうか?


 初公判を迎えるに際して被害女児の両親が訴えたのは、マスコミに対する不信感だった。傷ついた遺族の怒りが、行間から噴き出しているように感じてならない。メディアに従事すれば何をしても許されるとでも思い込んでいるのだろう。こんな下劣な奴等が同じペンを握って、教育荒廃を嘆き、世の中を憂えてみせるのだ。


 こうした報道被害を防ぐためには、メディア規制する他、打つ手がないんじゃないのか? 傲(おご)り高ぶったメディアの使徒達が説く“言論の自由”とは、大衆の下劣な好奇心を満たす自由であり、心に傷を持った人々を晒(さら)し者にする自由だ。更に煙草のぽい捨ての自由まで含まれる。


 唾棄すべき連中に“人でなし”の烙印を押してやりたい。


 2005-04-19