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2006-06-12

ザルカウィ容疑者の死を考える


「イラク・アルカイダ機構」の指導者アブムサブ・ザルカウィ容疑者が、米軍の空爆で7日に死亡したと報じられた。私はテレビ画面を眺めながら、何とはなしに「ケッ、ざまあみやがれ」と呟いた。どことなくホッとしたような心地になった。


 そんな自分を客観視した時、二つの問題点が浮かび上がってきた。


 1.ザルカウィ容疑者と会ったこともないのに、悪党と決め込んでるのはなぜか?

 2.何らかの理由があれば、他人の死を喜ぶ感情が湧いてくるのはなぜか?


 我々が日常生活の中で、“わかっている”ことは殆どない。否、「ない」と断言してもいいだろう。かみさんの作った味噌汁に毒が入ってるかどうかもわからなければ、電車の運転手が安全運転するかどうかもわかってない。つまり、我々の生活は、“信じる”という行為が中心を成しているのである。


 メディアというものは非常に毒性が強い。「広く世に出回っているのだから」というだけの理由で、多くの人々が知らず知らずの内に「事実に違いない」と信じ込んでしまう。手書きの汚ない字で書かれた怪文書であれば誰もが疑うが、製本された活字であれば、皆が信用してしまう。


 まず、私はザルカウィ容疑者と会ったこともなければ、話したこともない。「ザルカウィってのは、テロリストの親分なんだよ」とテレビで言ってただけの話である。そのテレビだって、アメリカから伝えられた情報であって、誰一人として確認作業をしている者はいないことだろう。するってえと、アメリカが意図的に情報操作をすれば、それがたちどころに世界を席巻するってわけだな。


 20世紀を振り返ると、競争の中身が軍事→経済→情報とシフトしてきている。現代は情報の時代といっていいだろう。であれば、世界を揺るがすような情報から、些細な情報に至るまで、政治的に利用される危険性が常にあることを我々は自覚する必要がある。


 例えば、ザルカウィに関しては、こんな情報もあるよ。

銃の扱い方もままならない」と評されているようだ。さあて、どっちを信じようかなあ?(笑)


 一番、安全な方法は、こうした情報もあることを知った上で、どっちも信じないことである(笑)。しかし、これらが事実であったとすれば、アメリカという国家はペテン師以外の何ものでもないね。


 では、次に2の問題に。


 人間は多分、「人を殺す」ことが元々好きな動物なんだと思う。古代ローマではコロシアム(円形闘技場)で剣闘士の殺し合いが見世物になっていた。現代の格闘技やスポーツの根源にあるのも、同じ精神だろう。だからこそ、人々は熱狂するのだ。


 また、ギロチンなどによる公開処刑も、見せしめ的な要素よりも、ただ「見たい」という人々の欲求の方が強いように感じる。


 人間には、神の側面もあれば、悪魔の顔もある。これは動かしようのない事実だ。人間の善性を伸ばし、悪性にブレーキをかけるものが、道徳・哲学・宗教なのだろう。


 そもそも、死刑制度を認めること自体、「理由があれば、人を殺してもいい」って論理なんだよ。国家による人殺しを認めているんだから、教育者がどんなに頑張って、「人を殺してはいけない」なんて教えても無駄だ。


 理性では「生命尊厳」と考えながらも、感情が「殺人」を正当化する場合がある。


 いずれにせよ、メディア・リテラシーを身につけることが急務だ。


追伸


 死刑の判断を下した裁判官、死刑執行までの手続きに関与した人々、医療ミスを犯した医師、安楽死を選んだ家族、正当防衛で相手を殺害した人、命令によって動く兵士、副作用の強い薬をつくった薬品メーカー、公害を撒き散らした工場――こうした人々は、殺人の痛痒(つうよう)をあまり感じてないに違いない。


 一方、自殺者を出した家族は、「自分が殺した」と我が身を苛(さいな)む傾向が強い。


 罪の意識すら、関係性によってこれほど異なる。考えれば考えるほど、恐ろしくなってくる。