古本屋の覚え書き このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 古本屋の覚え書きを検索

2007-09-30

平凡な人間の小さな勇気を描いた屈指の名作/『善き人のためのソナタ』

 良質な小説さながらの余韻を残す傑作。第79回アカデミー最優秀外国語映画賞を受賞した。監督は33歳で、初の長編作品というのだから、恐るべきドイツの才能だ。


 設定が1984年になっているので、ジョージ・オーウェルへのオマージュなのかも知れない。


 東ドイツの徹底した監視システムの下で、善と悪に揺れる人々の心を見事に描いている。


 監視する者が、「善き人のためのソナタ」という曲を聴き、押収したブレヒトの詩集を開き、監視される者が愛し合う囁き声に耳を傾ける。そして、監視する者の心の中に小さな変化が訪れる。良心のスイッチはわずかな音だったが、確実なものだった。


 監視する者は、“守る者”へと変貌した。それは、人間の良心を信じる証だった。監視する者は体制を裏切り、女優は恋人を裏切った。同じ行為だったが、手に入れたものは全く違った。


 この作品があまりにも静謐(せいひつ)に包まれていて、劇的でないことをマイナスと考える人も多いようだが、それは違う。監督が描いたのは、わずかな心の揺らぎによって、人間は善にも悪にも染まるという普遍性なのだ。


 抑圧された政治体制下に、スーパーマンなどいるはずがない。そこにいるのは、平凡で善良な人々と、少しばかり邪悪な連中が大半なのだ。


 ラストシーンは見事である。抑制された分だけ、カタルシスを覚える。平凡な人間の小さな勇気を描いた屈指の名作だ。


【追伸】“監視する者”を演じたウルリッヒ・ミューエが、今年の7月22日、胃癌のため亡くなり、遺作となってしまった。心より哀悼の意を表する。

善き人のためのソナタ スタンダード・エディション


D

2007-09-28

シュガー・レイと錯覚したDragon Ashの「Life goes on」


 初めてこの曲を耳にした時、「あ、シュガー・レイだな」と思った。日本人アーティストだと判った瞬間の驚きったらありゃしないよ(笑)。普通に話す日本語は4ビートである。8ビートのロックは、英語から生まれたものだ。それゆえ日本語のロックは、どこか慌てふためいている印象を受ける。


D


The Best of Dragon Ash with Changes Vol.2


「Fly」(シュガー・レイ)が心地よく感じるのは、4ビートの中にハワイアンっぽいギターのフレーズが入っているためだ。これが、日本語の“軽さ”と共鳴していると私は考える。


D


Floored


 日本語は書き言葉が漢字であるため、抑揚によって感情を表現する必要がない。英語の場合だと、イントネーションはもとより、身振り手振りまで交えないと意思の疎通が難しい。つまり、文字コミュニケーションにおいては漢字が優れ、話し言葉では英語が優れている(ジェスチャーで補うため)と判断できる。


 優しい日本語は、ゆったりしている。せわしなく話すのは、怒りに任せた時だろう。日本語は、波のリズムと似通っている。


 一方、アナウンサーの言葉はスピードを増している。その背景には、日本の“欧米化”があると感じる。この2曲に耳を傾けて、もう少しゆっくり話すことを心掛けよう。

2007-09-25

『扉を開いたひと 美しいほど強情に自分を生きた51人』田中弘子


 超有名な女性のスケッチ。その数、51人。美しく描こうと意図してないところがいい。愛に翻弄されるのが、女の性(さが)か。


 ヴィヴィアン・リーは美しいだけではなかった。

 生き生きとしてユーモアに富み、立ち居振る舞いの優雅さは類がないほどだった。大変な読書家でインテリ、友人たちには細やかな心遣いを常に忘れず手紙を書き、それに情熱的だった。


 だが、ローレンス・オリヴィエと結婚したことで、彼女の人生の歯車が軋(きし)み始める。やがて――


 肺結核にも冒され、その治療が症状を更に悪くした。発作が始まると卑猥(ひわい)な言葉を口走り、色情狂のごとく荒れ狂う別人となる。


 離婚後も尚、不遇は続いた。美しさが、不幸の因となることもあるのだ。やはり人生ってのは、一筋縄ではいかないようだ。財産、才知、技術も同様か。溺れる場所は皆同じだ。“欲望”という名の泥沼である。


『女の一生』というタイトルの小説はいくつかあるが、そのいずれもが不幸な結末を用意している。


「男は度胸、女は愛嬌」という言葉は、真理なのかも知れぬ(笑)。


扉を開いたひと―美しいほど強情に自分を生きた51人

2007-09-24

『香月泰男のおもちゃ箱』香月泰男、谷川俊太郎


 画家・香月泰男〈かづき・やすお〉が“余技”で作ったブリキ作品の数々。ところどころに谷川俊太郎の詩が添えられていて、何とも優しい心地になってくる。


 これは傑作である。どこにでも転がっている材料で、誰にも真似のできない世界をつくり上げてみせた。ブリキや木の単純なラインが、信じ難い豊かさを表している。


f:id:sessendo:20070924152938j:image


 どのページを開いても楽しい。多分、香月氏本人が楽しみながら作ったのだろう。人も動物も躍動している。


 婦美子夫人の手記によれば、最初に作ったのは十字架に磔(はりつけ)となったキリスト像だった。84ページには、「ピエタ像」とおぼしき作品がある。ブリキの放つ光は、高価な純銀にも劣らぬものだ。


 最後に、谷川俊太郎の名調子を紹介しておこう――


 象は自分が大きすぎるとは

 思っていない

 ペンギンは自分が飛べないのを

 嘆かない


 ヒトだけだ

 不平に不満に不安に不幸

 自分を不の字で飾りたてるのは


 だが生きとし生けるものの

 それぞれの姿が

 それぞれに美しいと

 知っている人は


 畏れとともに

 喜びとともに

 神のわざを

 真似る


 香月泰男という“神”が創り出した世界は、実に楽しく、愉快だ。石井美千子以来の衝撃を受けた。

香月泰男のおもちゃ箱

2007-09-23

2007-09-22

「ロミオ・アンド・ジュリエット」ダイアー・ストレイツ


 しっかし、最近のネットは何でもありますな。吃驚(びっくり)させられっ放しだ。21歳の頃、毎晩聴いていた2枚組ライブ。

Alchemy: Dire Straits Live

2007-09-19

ワンセグという欲望


 ワンセグチューナーが内臓されていると携帯電話でテレビを観ることができる。そこまでしてテレビを観たいのか? お前等はテレビからしか刺激を受けることが出来ないのか? と言いたくなる。


 ハッキリ書いておくが、みのもんたのような人物が活躍する世界は絶対におかしい。あの人相の悪さ、独善性、短絡的で、その上物事を単純に決めつける姿勢が異様だ。周囲のスタッフは「みのさん、みのさん」と持ち上げ、尻尾を振る。


 私に言わせれば通販会社の社長の営業トークと何ら変わりがない。彼は演技をしているだけで、何の信念も持ち合わせていないことは一目瞭然だ。


 外に出た時ぐらいは耳を澄ませたらどうなんだ? 風の音や鳥の声、川のせせらぎや木々が発するざわめきは耳に心地いい。


 ヘッドフォンをしながら歩いている若者を見ると「こいつは何の危機感もないな」と思ってしまう。人が近づいても自転車が通りかかっても彼等が気づくことはないのだ。「耳を塞(ふさ)ぐ」という行為は文字通り「世界を拒絶している姿」だ。


 テレビは観る人を受け身にして成り立つメディアである。確実に判断力を奪われ、感覚の一部だけが尖鋭(せんえい)になってゆく。


 テレビを消して本を読めと言いたい。テレビ番組は始めに意図があり、喜怒哀楽を強要する。感覚を一つの方向に束縛する。そして政府やスポンサーの意向に沿った番組制作をしているのだ。本来であればテレビは映像で勝負するべきだが、実際は科白(せりふ)やナレーションが多過ぎる。受け手が思索する余地も残してくれない。


 読書は脳を活性化する。時に立ち止まり、読み返しながら、書き手との対話が可能となる。読むスピードをコントロールするのも自分である。本はうるさくない。


 本を読まない青年が増えたと聞くたびに、信じ難い思いに駆られる。読書せずしてどうやって自分の世界を広げようというのか?


 テレビも携帯もウォークマンも捨てて本を読もう。それだけで人生は輝きを増す。

「はとバス 涙と笑いの新人ガイドデビューに密着」


 先日、放映された特集の動画があった。私は道産子なので、涙腺が全開となった。何度見ても泣ける――


「はとバス 涙と笑いの新人ガイドデビューに密着」

 http://www.ntv.co.jp/news/asx_dai2/070914063_300k.asx

(放送日2007年9月13/公開:2007年10月18日22:00まで)


「生放送終了後の 生キャスターCatch!」9月13日分

 https://al.ssl.dai2ntv.jp/blog/realtime/2007/09/post_297.html

2007-09-17

『渾身』川上健一


 251ページの短編小説と言っておこう。隠岐島(おきのしま)で行われる相撲大会の一番が描かれている。古典相撲は、神に捧げる栄光の祭典だ。迫真の大勝負、島民の熱狂、見守る家族――どこを取っても、日本人特有の湿っぽさに包まれている。親友が産んだ琴世と再婚相手の多美子のやり取り、主人公と3組の両親、地域と主人公夫妻の距離など、どこをとっても“しがらみ”だらけの世界である。


 だが、そこに感動を覚えるのだ。二人の力士が裸で四つに組む。双方の肩には、それぞれの地域の期待や、人生の陰影が複雑にのしかかっている。勝負は二転三転する。島で受け容れられなかった夫婦の努力を象徴しているようだ。


 昨今の相撲協会のドロドロにうんざりしている方は、是非一読されたい。手に汗握りながら一気に読める。


 これを堪能した人は、不朽の傑作『雷電本紀』(飯嶋和一著)をどうぞ。


渾身 渾身 (集英社文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2007-09-15

2007-09-14

2007-09-13

麻生太郎


 魚住昭野中広務 差別と権力』、角岡伸彦『はじめての部落問題』などによると、麻生太郎自民党幹事長は過去に野中に対する差別発言をしたとして、2003年9月の麻生も同席する自民党総務会において、野中に以下のとおり批判された。「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の3人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」野中の激しい言葉に麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだったと記されている。


 2005年2月22日、衆議院総務委員会の議論でも取り上げられたが、麻生は「そのような発言(=野中に対する差別発言)をしたことは全くありません」と答弁している。2006年12月 13日、シンポジウム「今こそ部落問題を語る」にて、講師として招聘された野中が、麻生の差別発言について語った。それによると野中は、自民党政調会長当時の麻生が大勇会の会合で「野中のような部落出身者を日本の総理にしていいのか」と発言したと、大勇会会員3名から発言内容を確認したという。週刊現代の取材に対し、麻生太郎事務所は「衆議院総務委員会で説明しており、それ以上のコメントはない」と回答した。この回答を受けた週刊現代の取材に対し、野中は「事実無根だなんて。その会議(=差別的発言があったとされる大勇会の会合)におった人間が言ってますよ。河野さん(=河野洋平)も言っているし。」と発言した。角岡は、著書の『はじめての部落問題』において、国政の場でおきた部落差別であり公にされなかったら部落差別問題が見えにくくなっていた、この発言によって部落差別は以前より難しい問題となったと評価している。なお、麻生側からは魚住、角岡に対して抗議等を行っていない。


野中広務 差別と権力 (講談社文庫) はじめての部落問題 (文春新書)

 総務大臣在任中の2005年10月15日、この日に開館した九州国立博物館の開館記念式典での来賓祝辞の中で「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」と発言。これに対し、アイヌ民族や琉球民族などには独自の文化、民族、言語がある(詳しくは概要、住民の民族性、言語、アイヌ、琉球の項を参照)との批判が巻き起こった。また、中国や朝鮮半島との交流の中で日本文化が形成されてきた歴史を展示する同博物館の趣旨をも理解していないと、関係者の中には落胆する者もいた。なお、同博物館は選挙区は異なるものの彼の地元である福岡県内にある。


 2007年7月19日、富山県高岡市内で講演会において、国内外の米価を比較する例えとして「7万8000円と1万6000円はどちらが高いか。アルツハイマーの人でもわかる」と発言し、アルツハイマー患者に誤解を与える表現として批判される。これについては野党からの反発はもちろん、与党からも参院選に悪影響だと懸念され、塩崎恭久内閣官房長官からも「適格性を欠く」と批判を浴びた。麻生は翌7月20日、「不適切なものがあった。発言を撤回し、不快な念を持たれた方々と関係者の方々におわび申し上げたい」と謝罪した上、撤回した。

 

 2007年7月20日、アルツハイマー発言の翌日に鳥取県倉吉市での演説で「酒は『きちがい水』だとか何とか皆言うもんだから、勢いとかいろんなことありますよ」と発言した。自民党の町村派幹部は参院選後の政局に響くとの見方を示し、社民党福島瑞穂党首は「全く人権感覚がない」として罷免を求める考えを示した。しかし「きちがい水」という言葉自体は、酒の害を戒めて言う言葉であり差別的な意味はない。マスコミによる言葉狩りではないかという批判もある。


 以上、Wikipediaより。


 わかりやすく言えば、「世間一般の差別用語を理解できない」ほどの差別者であるということだ。“失言居士”などというレベルではなく、“育ちによって形成された差別観”とみるのが妥当だろう。

2007-09-12

『もう牛を食べても安心か』福岡伸一


 面白みのないタイトルに騙(だま)されることなかれ。狂牛病(著者は敢えてBSEとは書かない)という象徴的な“事件”を通して、類い稀な身体論、文明論、生命論が説かれている。著者が振るうのは「分子生物学」という名のメスだ。よくもまあ、これだけの内容を惜し気もなく新書で刊行したものだ。


 もう一つ特筆すべきことは、評価らしい評価をされてこなかったルドルフ・シェーンハイマーの学説に光を当てたことである。福岡氏は、学問の権威におもねることなく、ノーベル賞を受賞した「プリオン説」の功罪にも言明している。


 狂牛病の犯人は、恐るべき進化を遂げていた。そして、羊から牛へ、牛からヒトへとテリトリーを拡大しつつある。そもそも、動物にとって「食べる」意味は何か? 米国産牛肉輸入の裏側にある政治的意図とは? 臓器移植の身体的な意義、人為が環境に与える影響、分子生物学から見たカニバリズム、そして狂牛病が象徴しているものは何か?――まるで、手に汗握るミステリーさながらだ。


 福岡氏の近著『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)がベストセラーになっているのも大いに頷ける。


 彼(シェーンハイマー)は、当初、食物を構成する分子のほとんどは、生物体内で燃やされて排泄(はいせつ)されるだろうと思っていた。ところが実験結果は違った。分子は高速度で身体の構成分子の中に入り込み、それと同時に身体の分子は高速度で分解されて外へ出ていくことが判明したのだ。つまり、生命は、全く比喩ではなく、「流れ」の中にある。個体は感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思えるが、ミクロのレベルではたまたまそこに密度が高まっている分子の、ゆるい「淀み」でしかない。その流れ自体が「生きている」ということである。


 ルドルフ・シェーンハイマーがその短い生涯をもって明らかにしたことは、生命は流れの中である、あるいは、流れこそが生きているということである。このような観念は、翻って考えれば、むしろ私たちにとってなじんできた、ある意味でうけいれやすい生命観でもある。それは通奏低音として様々なところに現れている。たとえば、鴨長明の『方丈記』の冒頭などあらためて引くまでもないほどである。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし」


 食物としてのタンパク質は、その起源が牛や豚、鳥などの動物性タンパクであるにせよ、大豆や小麦に含まれている植物性タンパクであるにせよ、それがもともと他の生物の一部であったことに変わりはない。そして、それらのタンパク質はその生物体内で個々に特有の機能をもっていた。タンパク質の機能は、そのアミノ酸配列によって決定される。つまり、アミノ酸配列は情報を担っている。しかし、他の生物のタンパク質情報は、捕食者にとっては必要がないばかりか、有害ですらある。なぜなら、外部から入ってくる情報はノイズとして、自らの情報系に不必要な影響をもたらすからである。したがって、消化とは、食べ物を吸収しやすくするため細かくする、という機械的な作用よりも、もともと生物がもっていたタンパク質の情報をいったん解体して、自分の体内で自分に適合した形で情報を再構成するための出発点を作る、という重要な意味をもっているわけである。これが消化の生物学的意義である。

 この情報解体のプロセスが十分でないと、本来、別の生物がもっていた情報が自分の身体に干渉することになる。そのため、動物の消化システムは、非常に多種類の消化酵素を用意して臨戦態勢を敷いている。特に、タンパク質の構造には最も多くの情報が含まれるので、これを速やかに解体するために、特異性の異なる消化酵素、つまり違う攻撃部位をもつタンパク質分解酵素が準備されている。


 生命の連鎖が絶え間ない情報の解体と再構成の流れによる平衡状態である、という生命観をさらに敷衍(ふえん)していくと、臓器移植という考え方は生物学的に非常な蛮行といえることになる。消化などの情報解体プロセスを一切経ることなく別の人間の肉体の一部をまるごと自分の体内に取り入れるわけだから、究極のカンニバリズムでもある。

 そこに存在する一切合切の情報はそのまま私の身体に乗り移ってくるのだ。宮崎(哲弥)氏の言葉を借りていえば、臓器移植とはそこに宿るすべてのカルマを引き受ける覚悟がなければできない行為なのである。


 環境に対する人為的な組み換え操作は、一見、その部分だけをとるとロジックが完結し、人間にとって便利になったように見える。たとえば牛に高タンパク食を与えれば効率的に肥育できる。あるいは、大豆に農薬耐性の遺伝子を導入すれば、強力な除草剤を散布しても大豆だけは生き残るようになる。しかし、動的な平衡系には部分のロジックは通用しない。すべてのことは繋がっているのである。

 操作の本質、それは多くの場合、効率を求めた加速である。早い肥育、大きな収穫、加速には必ず余分なエネルギーの投入があり、そこには平衡の不均衡が生じる。不均衡の帰趨はすぐには現れることがないし、現れるとしてもその部分に出現するとは限らない。乱された平衡は、回復を求めて、新たなバランスを求めて、ゆっくりとリベンジを開始する。どこかにためられた不均衡は地下にもぐって目に見えない通路を分岐しながら思わぬところに噴出してくるのだ。狂牛病が変幻自在に種の壁を越えて、様々な場所に現れたことは、まさにそういうことだった。


もう牛を食べても安心か (文春新書)


身体に関するオススメ本


悲鳴をあげる身体 (PHP新書) ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)

2007-09-11

「FRIENDS」MINMI


 私の中で“ピースフル”といえば、この曲になる。


D


FRIENDS MINMI featuring works BEST

2007-09-10

「Story」AI


 やたら英語が上手いと思っていたら、AIってアメリカ生まれのクォーターだったのね。2005年の大ヒット曲。紅白出場も果たした。日本人でブラックミュージックをここまで歌えるのは、和田アキ子以来だと思う。

MIC-A-HOLIC A.I.

2007-09-08

Def Techが解散


 デビューアルバムが約220万枚の大ヒットとなった2人組ユニット「Def Tech(デフテック)」が解散したことが6日、分かった。

 デフテックは、日本人のMicro(27)と、米ハワイ出身のShen(26)の2人組。解散について「活動再開を待ってくれたみなさん、ごめんなさい。私たちShenとMicroは音楽的な方向性の違いからDef Techを解散することにしました」とコメントしている。

 デフテックはロックバンド「RIZE」のJESSE(27)の仲介で01年に結成し、05年1月にデビュー。CMソングに起用された「My Way」の効果で、アルバム「Def Tech」が爆発的にヒットした。同年NHK紅白歌合戦に出演し、翌年には全国ツアーを成功させたが、ツアー中から2人の間に溝ができ始め、終了後にShenが故郷のハワイに帰国。以降、活動休止状態となっていた。

 昨年11月に東京で行われたShenの披露宴には、Microも駆けつけ「デフテックは解散しません」と宣言。再開に向けて準備も進めていたが、考え方の違いは埋まらず、今月初めに解散を決意した。これまで発売したCDの総売り上げは約500万枚を超える。

 今後は互いにソロ活動する予定。Microは今春設立したレーベルの代表として、自身の活動と並行して所属アーティストの育成も手掛ける。Shenは来年メジャーデビューを予定している。

【スポーツ報知 2007-09-07】


 公式サイトにも、その旨が記されていた。無念としか言いようがない……。

『BLUE SPHINX』E.D.P.S


 二十歳(はたち)の時に買ったレコードがCD化された。既に四半世紀近くも経過していると思うと感慨が深い。


 その頃、『ミュージック・マガジン』を愛読していて、ゼルダ小嶋さちほが絶賛していたのが、このアルバムだった。私には、理屈っぽい中村とうようのレビューよりも、威勢のよい小嶋さちほの文章が好みに合っていた。


 以後、私の中でロックといえば、ルー・リードE.D.P.Sが双璧となった。それ以外をロックと呼ばないことも可能なほどだ(笑)。


 ロックが輸入された頃、当時の大人達は「気違い音楽」と蔑んだ。調和を奏でるのが音楽であれば、初めて耳にしたエレキギターの音が耳障りであることは、容易に想像できる。黒板に爪を立てた音と大差はなかったことだろう。


 その後、ロックミュージックは変遷を辿り、ますます激しさを求めるハードロック〜サイケ〜パンク〜ヘヴィメタルという方向性と、クラシックなどの他ジャンルへの接近を試みるグループ(プログレッシブロック)と、ヴォーカル中心のポップロックに分かれていった。


 ツネマツ(恒松正敏)率いるE.D.P.Sは、たった3枚のアルバムしか残さなかった。有名になることもなく、ひっそりとした存在だった。それでも彼等の音楽は燦然と輝きを放っている。


 孤高の求道者が旅に旅を重ねて、一切の贅肉(ぜいにく)を削ぎ落とし、強靭な脚力と眼光が身に備わった――これが、E.D.P.Sの奏でる音楽だ。シンプルかつタイトでありながらも、力強さに満ちている。


 二十数年を経ても尚、色褪せない音楽など、そうあるものではない。そこには、“魂”と呼ぶ他ない何かが脈動している。


“悟り”の域にまで到達したロックの名盤であると断言しておこう。

BLUE SPHINX(紙ジャケット仕様)

2007-09-07

悪質な客


 文雅新泉堂で、本の代金を払わない悪質な客の実名をさらしていた。どんどん、やってもらいたい。

 店主の野崎さんは、本代を巡って過去に裁判を起こしたこともある猛者(もさ)。たくさんいれば、私が債券回収の代行を申し出るつもりだ(笑)。本気ですぞ。


 通信販売は、悪質業者がよく取り沙汰されるが、真面目に営業している側から見れば、悪質な客の方が多いのが実態だ。

階段に挑む


 昨日は台風が東京を直撃。雨が降ったり止(や)んだりと、ひどい空模様だった。外を走るわけにもいかなかったので階段に挑んだ。「11階までの往復を5セット」と決意したが、4セット目で挫けた。私の意志よりも、階段の方が強かった。更に、急激な運動によって血栓が生じる可能性を回避するという、賢明な判断を下したのだ(笑)。階段のところどころで、すっかり鳴き終えた蝉(せみ)が、気持ちよさそうに引っくり返ったまま、死んでいた。


 階段や坂道の上り下りを「スローピング」と言うらしい。

有限会社 健美堂

 田舎から人を集めて、東京で訪問販売をさせている会社。「営業目的は?」と訊ねると、「お茶の紹介をさせてもらってます」と言うので、思わず「てめえ、紹介するために回ってるわけねえだろーが! 売りつけてんだろ? ふざけたこと言ってんじゃねえぞ!」と怒鳴りつけておいた。


 会社の所在地、本人の住まいなどを聞いても、トボけたことを繰り返すばかり。散々脅した挙げ句、根掘り葉掘り質問攻めにしたところ、「関西でフリーターをしていて、夏の間だけ東京に来ている」とのこと。


 真面目そうな人物だったが、帰り際に「お前のやっていることは、詐欺と同じだ」と伝えておいた。

2007-09-06

Buzzurl


 Buzzurl(バザール)では、阿修羅のページが保存できない。Google八分ならぬ、Buzzurl八分といえよう。恣意的な判断は、個々人の判断力を信用してない証拠である。Buzzurlに感謝するような人間にだけはなりたくないものだ。裏技としては、「ウェブ魚拓」で保存してから、登録するという手がある。



コメント欄」を読んで頂くとわかるが、この記事は私の勝手な勘違いであった。ただのバグだった模様。迅速な対応に舌を巻いた次第である。

2007-09-04

週刊文春に賠償命令 JR労組巡り東京地裁判決


 05年4月のJR宝塚線福知山線)脱線事故後の労組の対応を取り上げた「週刊文春」の記事で名誉を傷つけられたとして、全日本鉄道労働組合総連合会JR総連)と、傘下のジェーアール西日本労働組合(JR西労)が発行元の「文芸春秋」(東京都千代田区)に対し、1100万円の損害賠償などを求めた訴訟の判決が4日、東京地裁であった。水野邦夫裁判長は文芸春秋に対し、2労組側に計100万円を支払うよう命じた。

 判決は、「週刊文春」が「労組が革マル派と深い関係にある」と記述した点については、「信ずるに相当の理由がある」と認定。その一方で、事故列車の車掌らへの取材をめぐり、「(労組側が)自らに都合の悪い情報についての取材・報道を阻止した」とした点については、「真実でない」として名誉棄損を認めた。

 文芸春秋社長室のコメント 判決が、JR総連ならびにJR西労の背後で革マル派が蠢(うごめ)いていることを認めた点は評価できるが、原告の「マスコミ操作」を否定した点はとうてい承服できない。即刻控訴する。


【朝日新聞 2007-09-04】

2007-09-03

「本日、未熟者」


 騙(だま)された。完全に吉田拓郎がつくったと思い込んでいた。立て続けに中島みゆきとは……。迫力の違いを堪能されよ(笑)。

sugar 通常盤(初回プレス)

I Love You,答えてくれ

2007-09-02