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2008-06-30

『国家の自縛』佐藤優


 佐藤優氏の著書としては『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』に続く第二弾。聞き手は産経新聞社の斎藤勉氏。佐藤氏は、どのような球も鮮やかに打ち返す。しかも、「なぜ、ここに打ったのか」との理由まで示す。圧倒的な知識量と論理力の前に、読者はただただ恐れにも似た感情を抱きながらひれ伏すのみ(笑)。ハハァーーーッ。


 以前から、なぜ佐藤氏が「起訴休職外務事務官」という職業を名乗っているのかが私はわからなかった。とっくにクビになっているものと思い込んでいたからだ。実はこれが、日本外交の問題を象徴的に表していた。


 不作為ですよ。今の日本外交の一番の問題は不作為なんです。余計なことを背負い込むのは嫌だと。だから私はまだ外務省の処分を受けていない。処分するには聴聞しないといけない。聴聞になった場合、マスコミに公開した形で行うということを代理人(弁護士)を通じて外務省に申し入れた。そこで私は今まで黙っていたことを話す。そう伝えたら外務省は処分について一切言ってこなくなりました。


【『国家の自縛』佐藤優〈さとう・まさる〉(産経新聞出版、2005年/扶桑社文庫、2010年)】


 さすが外交の世界で交渉力を身につけてきただけのことはある。喧嘩巧者だ。相手が攻めて来る前に、「急所を指摘する」ことで怯ませているのだ。


 中国における反日教育の意味も私は初めて知った。


 実は私の見立てでは、中国で初めて中華思想ではなく、中国史における中国民族という、欧米でいうところの民族ができていると。ネーションビルディングが行われていると見ているんです。これは産業化と一緒に起きてるんです。産業化で流動性が担保されるときに統一の空間というのが出てくる。結論から言うと、その時に「敵のイメージ」というのがとっても重要になるんです。

 チェコ人ができる時にはドイツ人を敵とする、「敵のイメージ」があり、ポーランド人が形成される時にはロシア人を敵とする、「敵のイメージ」があるんです。ロシア人がロシア人という意識を草の根から持つのはナポレオン軍との戦争を描いたトルストイの『戦争と平和』が流行ってからですよ。ロシアではナポレオン戦争を祖国戦争と呼び、第二次世界大戦大祖国戦争というんですね。「敵のイメージ」ができることによって民族ってできてくるんですよ。

 中国で今回初めて、内陸部を含めて本格的な産業化、近代化が始まった。その中で日本は「敵のイメージ」を付与されてしまっているように私には見えます。だから中国との関係はなかなか良くならない。これを冷静に認識した方がいいと思います。


 やはりよく言われるように、地球が平和になるには、宇宙人に攻めてもらう必要がありそうだ。「敵のイメージ」が具体的でなければ、国家の求心力は高まらない。


 どういうことかと言うと、中華人民共和国になってから略字を大幅にとり入れる文字改革が断行されましたよね。どの国でも文字改革というのは、前の歴史との連続性を切断するために行うんです。ですから、中華人民共和国で標準的な教育を受けている人間は、戦前の文献、古代の文献が読めないんですよ。

 ナチスのヒトラーも1930年代に文字改革してヒゲ文字のドイツ語をやめてしまった。これは19世紀と20世紀のドイツの高度な哲学的、思想的な遺産を労働者から切り離してしまうのが目的でした。同じように、ボルシェビキ以降のソ連・ロシアもやはり文字改革をして帝政時代の文字を読めなくしてしまった。新しい文字によって情報空間を隠蔽してしまうんですよ。これに逆らった者はみんな強制収容所に送られました。


 国家と教育を考える上で、実に多くの示唆を含んだ内容だ。


 ウーーーム、所感を綴れば綴るほど自分の愚かさが浮かび上がってきそうだ(笑)。黙って抜き書きしておこう。


 歴史とは死者と生者が連続しているという物語で、この物語を維持する仕組みを失ってしまえば、国家も歴史も崩壊する。戦没者の顕彰はナショナリズムを維持する上での不可欠の機能で、私の理解では、靖国神社は戦没者を慰霊するというよりも顕彰する場所なんですね。


 ナショナリズムは一種のウイルスなんです。近代以降、このウイルスが人類に蔓延している。高度に産業が発達した国家に生きている国民で、ナショナリズムというウイルスに感染していない人はほとんどいません。このウイルスは通常は外部社会と極端な軋轢はもたらさない国際協調的愛国主義パトリアティズム)という形で現れるんですが、ボタンを少しばかり掛け違えると排外主義に転化してしまうんです。


 率直に言いますが、私は「国家の罠」にとらわれている。神とか愛とか平和という「究極的な価値」は国家や経済という「究極以前の価値」を通じてしか実現できないと私は考えているんです。


 小泉さんはドイツでシュレーダー首相と一緒にワーグナーを聴いたんですが、外務官僚はなんでこれを止めなかったんだと思うんですよ。ワーグナーとナチス・ドイツは一体で、ナチスの党大会でもベルリン五輪でも演奏されましたよね。イスラエルで一度ワーグナーが演奏されたら国を割る大変な議論になった。それを日独の首相が一緒に聴くことを世界はどう受け止めるでしょうか。恐ろしいのは、それが非難の対象にならなかったことなんです。

 これはどういうことか。日本はプレーヤーとして認知されていないということなんです。これをアメリカの大統領がやれば次の選挙で落ちます。フランスの大統領がやれば国論を割る大問題になります。問題は全世界のユダヤ人たち、そしてイスラエルの人たちが日独首相の行為をどう受け止めているかということなんです。2005年はアウシュビッツ解放60年でもあるわけで、日本人はそのところの思いを理解しなければいけない。


《佐藤氏は東京拘置所の独房での512日間の拘留中にも思索を続けていた。読破した書籍は約160冊に及び、60枚綴りの「研究ノート」約63冊を書き上げ、毎日のように弁護団にしたためていた手紙は400字詰め原稿用紙に換算して5000枚にも達した》


“国家”という怪物は自分を縛ることでしか、その形が浮かび上がってこないのかも知れぬ。大半の人々は“国家”の内側にいるがゆえに自覚することができない。佐藤氏の存在は、国家が切り落とした“小指”のようなものだろう。


 佐藤氏が逮捕された2002年は、小泉政権が誕生して2年目のことだった。ライオンのような髪型をしたアジテーターは、確かにこの国を変えた。彼は政治家の言論から“責任”を抜き取り、感情をテコにして二者択一を迫った。小泉首相に乗せられた国民に跳ね返ってきたのは二極化という貧富の差であった。そして今、小泉改革によって日本の医療・福祉は崩壊しつつある。


 そういう意味では、佐藤氏の逮捕が21世紀のエポック・メーキングとなる可能性もある。

国家の自縛 国家の自縛 (扶桑社文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2008-06-29

『ブッシュの戦争株式会社 テロとの戦いでぼろ儲けする悪い奴ら!』ウィリアム・D・ハートゥング


 1988年の民主党大会で党の大統領候補の前座を務めたアン・リチャーズ(後にテキサス州知事に就任)は、共和党の大統領候補ジョージ・ブッシュをお坊ちゃんで、「最初から三塁ベースの上で生まれたのに、自分が三塁打を放ったと思いこんでいる」とこきおろろした。


ブッシュの戦争株式会社

『聞書 庶民烈伝 牧口常三郎とその時代』竹中労


 25年ぶりの復刊である。当初、皓星社から発行される予定だったが、三一書房からの刊行となった。有為転変を経て、ようやく日の目を見た。潮版の全4冊が上下巻となっている。


聞書 庶民烈伝 (上) 牧口常三郎とその時代

2008-06-28

『老人介護 じいさん・ばあさんの愛しかた』三好春樹


 これほどエッセイを堪能したのは、古波蔵保好著『男の衣裳箪笥』以来かもね。介護というのは、人生の最終ステージにおける人間ドラマである。それゆえ、誰もが「される側」になったり、「する側」になる可能性がある。


 まず、三好春樹氏の顔がいい。どこかで見たことのあるような親近感を覚える。多分、手塚治虫の漫画に登場する顔だ。


 本書前半で、自分達のことを「シロウト集団」と称しているが、これは卑下しているわけではなく、介護という職種がまだ認知されてない社会状況を象徴した言葉だろう。あるいは、実状を弁えない医療のプロに対して、「在野」の現場主義を声高らかに宣言しているようにも感じる。


 病院からやってくる老人がオムツになっているのはやむを得ないものだと思っていた。なかには“神経性膀胱障害”なんて難しそうな病名がついたりしたから、オムツは老人の病気のせいなのだと思わされていた。

 しかし、松平さんにはなんの病気もなかったではないか。ただ、高すぎるベッドと、トイレにいけないならオムツという貧困な介護状況、というより介護の不在が、彼女を尿意はおろか、おしっこがオムツに出ているかどうかもわからないような状態に追いこんだのである。これは“神経性膀胱障害”でもなんでもない。原因は“神経”ではなく“ケアなき看護”ではないのか。私はそれ以来、“看護因性膀胱障害”こそ、老人のオムツの原因であると考えるようになった。


 医療は政治の影響を強く受ける。翻弄されるのは、いつも弱い立場の人々である。著者の筆鋒は鋭さを増す。


 ところが、彼ら(PT〈理学療法士〉、OT〈作業療法士〉)は老人を知らない。当然ながら、彼らはリハビリの専門家ではあっても、老人についての専門家ではないのである。だから、既成のリハビリというレールに老人を乗せようとするのだが、そうはいかない個性のかたまりが老人なのだからうまくいくわけがない。(中略)リハビリという専門性が、老いへの適応力を欠いた代物であることを暴露してしまったのだ。


 老人が動かないよう手足を縛る安静看護。それが誤りだといって出現してきたリハビリテーションが、こんどは老人を無理矢理動かしている。やれやれ、と私はため息まじりに思う。安静看護にせよ、リハビリにせよ、老人は専門性を押しつけられる対象でしかないじゃないか、と。ちっとも、老人が主体として登場していないのだ。


 そして、もう一つの特長はユーモアの精神が横溢していること。駄洒落も上手い。生々しい介護の現場には、普段お目にかかれないような頓珍漢なやり取りが生まれる。


「立ったよ!」と面倒臭そうに丸岡さんがいう。「立ったらこんどは歩いてみて」と私。またブツブツいいながらも、丸岡さんは危なげもなく歩き出す。そして、平行棒の端まできて「歩いたよ!」とまた無愛想な声がする。私が「じゃこんどは向きを変えて帰ってきて」といったときに丸岡さんが返したコトバで、訓練室中の老人が大笑いとなった。

「帰らすくらいならいかさにゃええじゃない」

 丸岡さんはそれ以来、施設内の人気者になってしまった。訓練室にいた“三人娘”が「あの笑わんばあさん面白いで」といって歩いたのである。


 著者は皆と一緒に笑いながらも、この発言に衝撃を受ける。機械的な動作の繰り返しを強いるリハビリは、患者にとって苦痛以外の何ものでもなかった。そして、深い自省から「生活リハビリ」という視点が誕生した。


 一読して驚いたのは、ほんのちょっとした工夫や配慮で、麻痺や障害が驚異的に回復することである。これが病院だと、症状をカテゴライズ化して、画一的な治療法が施されてしまう。だが、介護の現場で求められているのは、似たような症状であっても、そこにその人固有の人生の来し方があるという眼差しなのだ。


 例えば認知症は、まず親しい家族に対して症状が現れるという。つまり、見知らぬ人々と出会うデイサービスなどに行けば、さほど症状が出ない。更に、完全な認知症患者であっても、認知症同士であれば「会話」が可能になるそうだ。もちろん、噛み合わない支離滅裂な会話である。それでも、患者は落ち着きを取り戻す。


 命あるものは生老病死を免れない。科学や医療の発達に伴って、「老い」の期間は格段に長くなっている。身体の自由が損なわれると、精神まで崩壊することも珍しくはない。要介護者の最大の問題は、家族からもまともな「人間扱い」をされなくなることだろう。家族から重荷と見なされた瞬間から、自らも重荷と自覚するのだ。


 小泉政権によって社会保障が大幅にカットされた。後期高齢者医療制度の真の目的は、お年寄りを医療保険から介護保険に追い出し、最終的には民間保険にまで投げ飛ばすことにある。保険報酬を減額されている以上、病院も介護施設も手の施しようがない。


 医師の数を減らし、社会保障を打ち切る政治判断によって、既にリハビリ難民が続出した。次は、介護難民が全国にあふれることだろう。その皺寄せは、高齢者を抱える家族にのしかかる。社会の二極化が進む中で、貧乏人にはますますストレスが増える。


 超高齢社会となるのは既に秒読み段階である。大きな社会問題が起こる前に、営々と積み重ねてきた介護スキルが実を結ぶような社会保障制度が不可欠だ。

じいさん・ばあさんの愛しかた―“介護の職人”があかす老いを輝かせる生活術 老人介護じいさん・ばあさんの愛しかた (新潮文庫 み 37-2)

(※左が単行本、右が文庫本)

自然豊かな八王子


 私が住む八王子は大自然の懐に抱かれている。今朝、布団を畳んでいたところ、3センチほどのメスのクワガタが出てきた。私の家は森と化しつつある。来週あたり、ハクビシンかイノシシが出てくる可能性もある。我が家が高尾山に続いてミシュランから三つ星をもらえる日も、そう遠くはないことだろう。

2008-06-27

2008-06-26

77歳男性の胸に去来したもの


顔判別困難、激しく殴打=木内容疑者に強い殺意 一家4人家族殺害・千葉


 千葉県柏市の民家で一家4人が殺害されて見つかった事件で、逮捕された祖父のK容疑者(77)が殺害した家族の中に、顔が判別できないほど激しく殴打された被害者がいたことが25日、県警柏署の調べで分かった。

 凶器の大型ハンマーは金属部分の重さ約5キロ、全体の長さは約1メートル。被害者はそれぞれ数回ずつ殴られており、同署は木内容疑者が強い殺意を持っていたとみて、動機の解明を進める。

 一方、同署は同日から26日にかけ、4人の司法解剖を実施、詳しい死因を調べる。

 調べによると、K容疑者は妻とき子さん(75)から「邪魔だ」と言われ、「これまでに3回くらい殺してやろうと思った」と供述。殺害した4人のうち、母屋の台所で朝食の支度をしていたとき子さんを背中から、大型ハンマーで最初に襲ったことが分かっている。

 この後に「妻の具合が悪い」とうそをつき、母屋の隣にある別棟にいた長男茂さん(49)とその妻みゆきさん(44)を呼んで殺害。最後に別棟2階で寝ていた麻奈美ちゃん(4)を殺したという。

 同容疑者は昨年から不眠症で悩んでいたが、24日朝に起床した際、家族全員の殺害を決意したとしており、同署は事件当日に強い殺意を持つに至った経緯について捜査を進める。


【時事通信 2008-06-24


 まるで、丸山健二の小説さながらの事件だ。


 妻から「邪魔だ」と否定されたことが、夫の殺意を形成した。「否定」とは「殺される」ことなのだ。ひとたび圧力のかかったバネが、思いも寄らない力で反発した結果といえる。


 夫に言わせれば、「殺される前に殺した」という論理になるのだろう。若かりし日から、堪(こら)えに堪え続けてきた、ありとあらゆるマイナス材料がフラッシュバックしたことだろう。人間の脳味噌は一旦「やる」と決めたら、実現する方向へドラマを作り始めるのだ。


 男は躊躇することなく、ハンマーを振るったはずだ。いつもは強張りがちな筋肉もしなやかに連動して、所期の行為を成し遂げたに違いない。手始めに妻を殺害した後、男の体内をアドレナリンが駆け巡った。それは、「自分が生き延びること」の確かな保障であり、崖っ淵からの生還と似たような感覚だった。


 逮捕後、4歳の孫まで手に掛けた理由を「一人だけ残すのは不憫と思った」と男は供述している。そんなものは嘘っぱちだ。安っぽい口実に過ぎない。その程度の知恵は、77年間も生きてくれば身につくものだ。真の理由は、「自分を否定する血」を根絶やしにすることだった。あと10年もすれば、孫から返り討ちに遭う可能性がある。


 男は勝った。男は生き延びた。


 ただ、男の判断力がまともだったのかどうかは、誰にもわからない。男の勘違いだったかも知れない。あるいは、男の頭部の内側で着々と痴呆症状が進行したいたのかも知れない。


 男は、殺すために生まれ、殺すために結婚をし、殺すために子を設けた。


 その事実に思い当たった時、男は我が罪に苛まれ、地獄の底をのた打ち回る羽目になる。家族を皆殺しにした後、男は自ら警察に通報し、血まみれの姿で失神していた。耐え難い事実を拒否しようと、精神のスイッチが切れてしまったのだろう。男の狂気は、逆風で加速したブーメランのように返ってきて、自分が振るった大ハンマーよりも強大な力で、魂を滅多打ちにするだろう。

「この街で」フォー・セインツ


 フォー・セインツが35年ぶりに復活。ジジイと言ってもいい年代になっているが、何なんだこの声の滑らかさは! そして、やさしいメロディーが、まるで「みんなの歌」のように心地いい。


 しかし、ここで歌われているのは、「定住以外の選択肢がない村意識」と「流動性の欠如したタコツボ社会」である。通奏低音になっているのは、「土地に束縛された農民のDNA」だ。そう、「一所懸命」は美しい。


 確かに、郷里を離れて都会へ出てゆくと、アイデンティティが横揺れすることがある。私はないよ。地方出身者という言葉には、どこか田舎を去って捨て鉢になっているような雰囲気も漂う。


 だが、見知らぬ土地へ行くことなくして「男の自立」はあり得ない。これこそが、「旅の目的」なのだよ。男は股旅、猫にマタタビだ!


 と、このように本気で考えているんだが、如何せんフォー・セインツの歌声に心惹かれてしまう。やはり、私も農民の末裔なのだろう。一所懸命がんばります。

この街で

2008-06-25

America's Got Talent


 前に、「Britain’s Got Talent(ブリテンズ・ゴット・タレント)」を紹介した。コニー・タルボットとポール・ポッツの動画を私は軽く100回以上見ている。その後、米国でも同じ番組が作られた。こっちも凄いよ。


ビアンカ・ライアン


 何と11歳で優勝をかっさらった。賞金は100万ドル。歌ったのはジェニファー・ホリデイの名曲である。聴き比べてもらおう。言っておくけど小学生だからね。

Bianca Ryan

20th Century Masters - The Millennium Collection: The Best of Jennifer Holliday

『年月のあしおと』広津和郎


 1ページ目で挫けた。たった9行の中に「ない」が九つもあったからだ。癪だったので、パラパラ漫画の如く飛ばし読み。宇野浩二と仲がよかったんだね。初版が私の生まれた年だったので興味を抱いたのだが、見事に外れた。


年月のあしおと〈上〉 (講談社文芸文庫) 年月のあしおと (下) (講談社文芸文庫)

2008-06-24

『フォト・ドキュメント テロ死/戦争死』第三書館編集部・編


 こうした作品にそれなりの意味はあるのだろう。テロや戦争の犠牲となった遺体の写真集だ。現代社会は死を隠蔽するから、「これが現実なんだぞ!」と言われれば、「はい、そうですか」と答えるしかない。


 出版当初、大手取次のトーハンが委託を拒否した。

 私は勝手に、「米国のイラク攻撃と、それを真っ先に支持した日本政府にとって都合が悪いのだろう」と善意の解釈をしていた。


 その時点で、第三書館の社長である北川明氏が、社民党辻元清美氏と内縁関係にあることも知っていたし、北川氏が元日本赤軍のメンバーだったことも既に知っていた。

 でもね、いくら何でもこりゃあないよ。掲載されている写真の全てが、米国のWeb上から拝借したものなのだ。どおりで見たことのあるものが多いわけだ。キャプションだって、正しいかどうかも定かではあるまい。


 バラバラになった遺体、黒焦げと化した自爆テロ実行部隊、吹き飛ばされた顔、胴体と切断された生首、飛散した肉片をくわえて走り去る犬……。人の形をした遺体に尊厳があるとすれば、ここにある死体は、文字通り木っ端微塵にされた尊厳だ。


 テロや戦争の現実を知るためには、見るべきなのかも知れない。だが、出版の意図がひたすら憎悪を煽ることであれば、あまりにも拙劣だ。


 短いテキストを執筆したのは、板垣雄三酒井啓子、古川利明、湯川武、吉川雄一の5氏。ひょっとして、全員左翼なのか?


テロ死/戦争死―フォト・ドキュメント

『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』リチャード・E・シトーウィック(リチャード・E・サイトウィック)


 ものを食べると形を感じる人、はたまた音を聴くと色が見える人がいるんだってさ。これを共感覚という。複合感覚といってもいいだろう。生まれつき、そんな感覚を持っている人が10万人に1人の割合でいるそうだよ。0.001パーセントの確率だ。するってえと、日本にも1200人はいるって計算になる。


 彼等の語るイメージは鮮烈だ。生々しく、具体的で、あらゆる形状が語られる。彼等の脳は実際にその形を「感じている」のだ。読み始めて間もなく、「きっと、脳内の神経が混線しているのだろう」と思ったが、あっさりと否定されていた。結論は、読んでからのお楽しみ。


 それにしても、脳の可能性ってえのあ、凄いもんだね。言葉を持たなかった頃の古代人は、我々よりもはるかに豊かな感覚機能を持っていたことだろう。ひょっとしたら、テレパシーなんかもあったような気がするよ。しかし、言葉を使い、文明が発達し、科学技術の伸展に伴って、感覚機能は退化していったに違いない。


 共感覚も万人に具わっていたかも知れない。しかしながら共感覚は、個人の中では一貫性があるのだが、同じタイプの共感覚者同士でもイメージが全く異なるのだ。つまり、共有することができない。ここに共感覚が退化した原因があったのだろう。


「でもまあ、そんな感覚があったところで、邪魔にしかならねーだろーよ」と思う人もいるだろう。でもね、この本を読むと羨ましくなってくるよ。彼等は鮮烈なイメージが喚起されるため、記憶力もすこぶるいいのだ。


 更に、医師としての心構えや、言葉に関するトピックもあって、大変参考になる。私が一番勉強になったのは以下――


「異種感覚連合の能力が言語の基礎であることは、ずっと以前から知られています。サルはこれができません。人間以外の動物で容易に確立できる感覚と感覚の連合は、快などの情動刺激と、視覚、触覚、聴覚といった非情動刺激との結びつきだけです。非情動刺激を二つ結びつけられるのは人間だけです。だからこそわれわれは、物に名前をつけられるのです」


 サルは非辺縁系の感覚を二つ、連合させることができない。人間はそれができる。そしてそれが、ものに名前をつけ、より上位の抽象化のレベルを進んでいく能力の基盤となっているのだ。


 ボノボよ、お前の負けだ。結局、他の動物と比較して人類が異様なまでに言葉を巧みに使うのは、脳の仕組みと咽頭の進化にあるようだ。


 それにしても脳の世界は深い。私の脳は浅いけど。

共感覚者の驚くべき日常―形を味わう人、色を聴く人

「キセキ」てるてるbabys


 ウーム、GReeeeNの「キセキ」が既に削除されていた。業界はもっとYouTubeを戦略的に利用すべきだと思うけどな。ってなわけで、別の「キセキ」を。

キセキ

2008-06-22

2008-06-21

思想と対抗思想の違い/『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』佐藤優、魚住昭


 佐藤優氏の著作を読むのはこれで2冊目。ウーム、麻薬のような習慣性に取りつかれそうだ。麻薬じゃマイナスイメージが強いから、「知的強壮剤」と命名しておこう。佐藤氏の言論は、大半の人々に「無知」を自覚させる。しかも、完膚なきまでに。その反動として、読者を次なる佐藤本に向かわせるのだ。もう、「先生」と呼びたくなっちゃうよね。


 ジャーナリストの魚住昭氏が聞き役を装っているが、実は案内役。多分、魚住氏をもってしても、佐藤氏と殴り合うだけの知識を持ち合わせていなかったのだろう。しかし、それが結果的に読者に親切な構成となっている。これも対話の妙か。


 マルクス主義・神学という包丁を使って佐藤氏はナショナリズムをさばく。読者の目の前には、「ナショナリズムの船盛り」が用意されている。我々は「ホホウ、見事な出来栄えですなあ」と言いながらも、食べる自信がない。それほどの咀嚼力を持ってないためだ(笑)。


魚住●まず議論の前提として思想とは何かという話から始めましょう。私の中にはとても浅薄だけど拭いがたい疑念があります。それはいくら思想、思想と言っても、戦前の左翼のように苛烈な弾圧にあえばすぐ転向しちゃうのじゃないかということです。特に私のように臆病な人間がいくら思想をうんぬんしたところで仕方がないんじゃないかと。


佐藤●魚住さんがおっしゃる「思想」というのは、正確には「対抗思想」なんですよ。


魚住●どういうこと?


佐藤●いま、コーヒーを飲んでますよね。いくらでしたか? 200円払いましたよね。この、コイン1枚でコーヒーが買えることに疑念を持たないことが「思想」なんです。そんなもの思想だなんて考えてもいない。当たり前だと思っていることこそ「思想」で、ふだん私たちが思想、思想と口にしているのは「対抗思想」です。護憲運動や反戦運動にしても、それらは全部「対抗思想」なんです。


 魚住氏があとがきでも紹介している件(くだり)。相当なインパクトがあったことは容易に理解できる。本物の思想とは、意識することなく行動原理になっているという指摘は鋭い。思想とは、「生きる」ものであって、「まとう」ものではないということだ。レベルの低い自分を、高く見せかけるための意図的な言動は、すべて「対抗思想」と言えそうだ。


 佐藤氏の博覧強記はアニメにまで及ぶ。同志社大学で神学を修めたクリスチャンであるにもかかわらず、イエス・キリストのことを「ずるいおっさん」と呼び、『ゲゲゲの鬼太郎』の「ねずみ男」に例える。


魚住●じゃあ、ウサマ・ビンラディン的なありかたをイエスのようにキャラクターにたとえると何になりますか。


佐藤●星飛雄馬ですね。


魚住●『巨人の星』の?


佐藤●ええ。ストーリーを思い出してください。飛雄馬は「思い込んだら試練の道を」行きますよね。その行路には内省の契機を見出せません。そしてその道を進めば進むほど、親友であるはずの伴宙太との関係もメチャクチャになるし、飛雄馬をとりまく人々の恋愛はうまくいかなくなります。最後は彼自身も廃人になる。本人は「主観的には」いいことをやっていると思い、正義の実現に走っていても「客観的には」周囲の関係性は壊れ、破滅してしまう。ですから、私はウサマ・ビンラディン的な「星飛雄馬」とイエス的な「ねずみ男」どっちの生き方を選ぶかと聞かれたら、ためらうことなく、ずるい「ねずみ男」を選びますね。


 見事なカテゴライズ。これほど鮮やかな例えを示されると、物語における役どころがスッと理解できる。


 普通、該博な知識があると、鼻持ちならない印象を抱きそうなもんだが、佐藤氏からはそういったものが全く感じられない。それは、世界を読み解き、歴史を俯瞰しながらも、彼が人間に寄り添う視線と愛国心を失ってないためだろう。これほど優れた人物を斬って捨てた外務省というのは、やっぱり馬鹿の集まりなんだろうね。

ナショナリズムという迷宮―ラスプーチンかく語りき ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき (朝日文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2008-06-20

『見よぼくら一戔五厘の旗』花森安治


 B5版で3段組、写真も豊富。『暮しの手帖』の名編集長・花森安治氏の自選集。昭和40年前後に書かれたものが多く、戦時中の記憶を辿った内容が多い。とにかく文章が勁(つよ)い。敗戦直後から暮らしを見つめる眼差しはぶれることなく、炯々(けいけい)と光を放っている。花森氏は終生、庶民に寄り添いながら、「賢明であれ」とのメッセージを送り続けた。


 戦争を振り返る時、花森氏の文章はトーンが変わる。燃え盛る怒りの焔(ほのお)を抑制しながらも、辛辣(しんらつ)の度を増す。民衆から、つつましい暮らしさえ奪い取った何者かに対し、反旗を翻す。バタバタと疾風にたなびく音が聞こえてくるようだ。


 戦争がだんだんはげしくなってきて、これは、敗けるかも知れないという重苦しい気持が、じわじわと、みんなの心をしめつけはじめるころには、もう私たちの心から、〈美しい〉ものを、美しいと見るゆとりが、失われていた。

 燃えるばかりの赤い夕焼を美しいとみるかわりに、その夜の大空襲は、どこへ来るのかとおもった。さわやかな月明を美しいとみるまえに、折角の灯火管制が何の役にも立たなくなるのを憎んだ。

 道端の野の花を美しいとみるよりも、食べられないだろうかと、ひき抜いてみたりした。


【昭和44年4月】


 私が育った札幌の地が歌われていた。


 かつて、寒風にりんれつと鳴ったあの壮大な歌声は、もうどこにも聞かれなくなった。

 この町は、歌うことをやめた。

 旗音はやんだ。

 理想の星は消えた。

 かつて、かがやかしい理想をかかげて立っていた時計台は、小ざかしい夜間照明に残骸をさらし、その破風(はふ)に星が打たれてあることさえ、しらぬ人がふえた。その鐘の音は、すさまじいトラックの騒音にかき消されて、きくすべもない。

 かつて、若い情熱をたぎらせ、新芽を空にのばした北大のポプラ並木は、枯死寸前、観光客の失笑のまえに、老残の身をさらしている。

 これが、札幌なのか。

 これが、かつて新しい町づくりの夢を託した札幌なのか。

〈理想〉という言葉は、色あせ、汚れ、たれもかえりみなくなった。〈理想〉なき人間が、したり顔で国つくりをいい、人つくりを説いている。

 そして、札幌は、いま泥まみれの盛装に飾られ、花やかな挽歌につつまれ、東京のご都合主義の指さす道を、歩こうとしているのだ。

 札幌よ。

 その鉛いろの空とビルの上に、

 いま一たび、新しき旗をかかげ、

 りんれつと寒風に鳴らしめよ。

 札幌よ。

 いま一たび、ここにかがやかしき星をかかげ

 りょうりょうと北風に歌わしめよ。

 老人すでに黙すとあれば、

 若き者たて。

 男子すでに志を失うとあらば

 女子立て。

 立って、日本にただひとつ、

 ここに、理想の町つくりはじまると

 世界に告げよ。

 Boys and Girls,

 Be Ambitius!


【昭和39年2月】


 そして、私が青春時代を過ごした東京の下町も歌われていた。


 あの夜にかぎって

 空襲警報が鳴らなかった

 敵が第一弾を投下して

 七分も経って

 空襲警報が鳴ったとき

 東京の下町は もう まわりが

 ぐるっと 燃え上っていた

 まず まわりを焼いて

 脱出口を全部ふさいで

 それから その中を 碁盤目に

 一つずつ 焼いていった

 1平方メートル当り

 すくなくとも3発以上

 という焼夷弾

〈みなごろしの爆撃〉

 三月十日午前零時八分から

 午前二時三七分まで

 一四九分間に

 死者8万3793名

 負傷者11万3062名

 この数字は 広島長崎を上まわる

 これでも ここを 単に〈焼け跡〉

 とよんでよいのか

 ここで死に ここで傷つき

 家を焼かれた人たちを

 ただ〈罹災者〉で 片づけてよいのか

 ここが みんなの町が

〈戦場〉だった

 こここそ 今度の戦争で

 もっとも凄惨苛烈な

〈戦場〉だった


【「戦場」 昭和43年8月】


 その時、亀戸の横十間川からは国会議事堂が見えたという。世界では今尚、同じ愚行が繰り返されている。兵器は格段に進化しているから、その殺傷力たるや比べ物にならないだろう。


 表紙に配されているツギハギだらけの乞食旗。この庶民の旗を高く掲げることなしに、世界の平和が訪れることはない。一人ひとりが旗幟(きし)を鮮明にして、愚かな為政者を排除する必要がある。民衆は無知で無力かも知れない。しかし、生活の実感から下される判断が誤ることは少ない。おかしな判断を下すのは、国会議事堂と霞ヶ関と相場は決まっているのだ。


 さあ、旗を掲げよう! 小さくても、ボロくても構わない。

一戔五厘の旗

2008-06-17

『わたしのせいじゃない せきにんについて』レイフ・クリスチャンソン


 20ページ余りの小振りな絵本だ。レイフ・クリスチャンソンはスウェーデンの作家。この作品は「あなたへ」と題したシリーズの6冊目。大人が読んでもギョッとなる。一人ひとりの言いわけがリアル。日常の小さな無責任が、時として恐ろしい現実につながることを見事に表現している。世界中で起きている悲惨な殺し合いが、「見て見ぬふり」によって支えられていることを教えてくれる。人権が無視される人がいれば、その世界に住む全員が糾弾されて然るべきだ。レイフ・クリスチャンソンは静かに、断固たるメッセージを放っている。


わたしのせいじゃない―せきにんについて (あなたへ)

2008-06-15

『読者は踊る タレント本から聖書まで。話題の本253冊の読み方・読まれ方』斎藤美奈子


 発売当初から絶賛された書評集を今頃になって読んだ。ウーーーム、確かに凄い。奇をてらったものではなく、それなりに王道だと思った次第。ただ、言い回しがキャピキャピしているので、「パワーアップした中野翠」といった感がある。


 とにかく、本の海を泳ぐのが巧み。一見すると、茶目っ気が毒舌を和らげているようにも見えるが、「計算されたあざとさ」にも見える。


 例えば、芥川賞・直木賞をバッサリと切り捨てている部分――


 そもそも芥川賞・直木賞とは何なのか。選考委員が全員作家である(批評家がいない)点に注目したい。つまり両賞は、新しい作品を見きわめて励ますためのものではない。新人作家の中から自分たちの仲間に入れてやってもよさそうな人材を一方的にピックアップする、一種の就職試験なのですよ。選考委員はいわば文壇の「人事部」で、だからこそ受賞予備軍の人たちが結果に一喜一憂したり、受賞者が記者会見で大袈裟な挨拶をしたりするんだよね。とすれば、私ごときが○×つけたりすること自体、越権行為も甚だしい。会社の人事のことは社内の人に任せるしかない。


「就職試験」と馬鹿にしておいてから、自分が書評することを「越権行為」と位置づけている。慇懃(いんぎん)な態度に出ることで、更に馬鹿にしているのだ。


 わかりやすい文章でサクサク読めるのだが、段々疲れてくる。それは、斎藤女史の優れた知性に、数々の本も読者もついて行けなくなるためだ。知性は往々にして「鋭い批判」となって鉈(なた)を振るう。どうしても批判が多くなるため、こっちの頭が殴られ続けるサンドバック状態となるのだ。そして、紹介されている本に食指が動かなくなる。ただただ、斬り捨てられた本に対して合掌し、瞑目するのみである。南無――。


 それでもね、内容の本質を数行で言い表す力は凄いよ。しかもこの本が上梓された時、斎藤女史は42歳だから、今の私よりも若いことになる。恐るべき逸材といっていいだろう。


 それと、タイトルが『読者は踊らされる』となってないところがミソ。飽くまでも読み手の主体性を重んじる気風が感じ取れる。


 佐藤優氏と対談させてみたいね。異才同士が放つスパークに、二日酔いさせられそうで興味深い(笑)。

読者は踊る (文春文庫)

2008-06-14

岩手・宮城内陸地震の報道状況


 本日、午前8時43分頃、岩手県内陸部を震源とする強い地震があった。岩手県県奥州市と宮城県栗原市で震度6強を記録。各テレビ局は番組内容を変更した。日本テレビは車だん吉の番組を放映しながら、地震関連の情報を字幕スーパーで挿入。平然とアニメを流していたのはテレビ東京。さすが、9.11テロの時もアニメを流していただけのことはある。フジテレビのアナウンサー(多分、福原直英氏)が終始、ニヤけた表情で登場。急な出番に気をよくしたのだろう。フジテレビはサラリーマンの中ではトップクラスの平均給与となっているが、人格障害とおぼしき人物が多い。女子アナはまるでキャバクラ譲さながらで、あこぎさが鼻につく。小さなミスも目立つ。

2008-06-12

振り込め詐欺が過去最多の被害


振り込め詐欺 最悪ペース 04年上回る勢い 警察庁が対策室


 振り込め詐欺の被害が過去最多のペースになっていることから、警察庁は11日、同庁に「振り込め詐欺対策室」(室長・安藤隆春次長)を設置した。同日、第一回の会合を開き、安藤室長が「抜本的な取り組みをしなければ撲滅はできない」と訓示した。

 被害の拡大防止を最優先に、詐欺グループの一網打尽を狙って内偵に時間をかける従来の捜査手法を見直し、摘発のスピードアップを図るほか、高齢者を対象とした広報、啓発活動を推進。金融機関などにも、現金自動預払機(ATM)周辺を妨害電波などで通話できなくしたり、ATMでの一日当たりの利用限度額を引き下げたりするよう求める。

 警察庁によると、今年1月から4月までの被害額は、前年同期比約1.7倍の約112億円。過去最悪だった2004年の年間284億円を上回るペースとなっている。

 特に年金などの還付があるなどと、うそを言って、携帯電話で高齢者に指示してATMを操作させ、口座間送金させる「還付金詐欺」が急増。

 被害額は今年1月から4月までに約24億3000万円と前年同期の4倍以上に増加している。


東京新聞夕刊 2008-06-11】


 国家の基本的な役割は「国民の生命と財産を守る」ことである。つまり、日本は国家の態をなしてないということだ。多分、政治家や官僚の連中は「騙される方が悪い」と思っているのだろう。盗聴法があるのだから、暴力団の通話は全部盗聴すればいい。また、詐欺は再犯率が高いので、詐欺犯のデータベースを銀行が共有すべきである。そして、ベルの代わりに「振り込め詐欺にご注意下さい」という音声が鳴る電話をメーカーにつくってもらいたい。更に、ATMはすべて指紋認証にすればよし。

『闇の子供たち』梁石日


 100ページまで辿りつくことなく挫折。それなりに取材した上で書いている小説だと思うが、いくら何でもこりゃ酷すぎる。タイで横行している児童売買の様子が描かれており、7〜8歳の少年・少女が性の奴隷として、もてあそばれている。詳細かつ生々しい描写に吐き気を催す。親は生活のために子供を売り、子供は生きるためなら何でもせざるを得ない。それが「日常」と化せば、それが「普通」になってしまうのだろう。グローバルスタンダードなどという言葉の空々しさを痛感する。


 劣悪な環境に置かれた庶民は、劣悪な欲望に応えることでしか生きてゆけない。アジアの大半の国は大なり小なり同様の状況にあるのだろう。昨今の日本と同じく、憎悪と暴力は反発し合うことなく、下へ下へとスパイラルを描く。


 何らかの連帯や組織を構築しない限り、彼等が救われることはない。一人の力は無力だ。まして、子供であれば尚のこと。抵抗する選択肢を持てないのは、教育の機会が奪われているためだろう。


 映画化されるようだが、生ぬるい映像にならざるを得ないことと思う。


闇の子供たち (幻冬舎文庫)


世界の子供が置かれている現実を知るための本


戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった ダイヤモンドより平和がほしい―子ども兵士・ムリアの告白 子ども兵の戦争 ルワンダ大虐殺 〜世界で一番悲しい光景を見た青年の手記〜 生かされて。 山刀で切り裂かれて ルワンダ大虐殺で地獄を見た少女の告白 幼い娼婦だった私へ 子どものねだん―バンコク児童売春地獄の四年間 メンデ―奴隷にされた少女 ちいさな労働者―写真家ルイス・ハインの目がとらえた子どもたち 世界の子どもたちに今おきていること 子どもを喰う世界

2008-06-11

『偽善系II 正義の味方に御用心!』日垣隆


 前作『偽善系やつらはヘンだ!』よりもパワーアップ。精神障害者による犯罪、日本人の死に方、佐高信批判、田中知事誕生以前の腐敗しきった長野県政長野五輪の予算の使われ方は、官僚の感覚が窺える貴重な資料)、書評、買い物日誌と、てんこ盛りの内容。「日垣隆マガジン」といってよい。


 長野県知事に田中康夫氏を指名したのは日垣氏とのこと。しかしながら、選挙戦は一切手伝っていない。通読して感じるのは著者が「喧嘩巧者」であること。それは、暴力的な示威行為によるものではなくして、「常識を貫く」見識に支えられていてお見事。予約していたタクシーが遅れたせいで新幹線に間に合わず、タクシー会社の社長を呼び出して懲らしめるところに大笑い。


 知的障害者による犯罪については、山本譲司著『累犯障害者 獄の中の不条理』と佐藤幹夫著『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』も併せて読んでおきたい。山本本で刑務所がセーフティーネットと化している現状を知り、佐藤本で杜撰な取り調べに対する理解を深めておくべきだ。


 知的障害者の罪が軽いのは、法律が彼等を人間扱いしてないためだった。


 いん唖者(いんあしゃ)とは、《聴覚障害及び言語機能を共に先天的若しくはごく幼少時に喪失した者》(1991年12月2日、東京高裁判決)と定義され続け、いん唖者は、たとえば次のように形容されていた。

《言語化された思考が得られないため反省思考、抽象思考を欠き、人間的知能の正常な発達を妨げられ、人間化への過程を阻害され、真の意味の人間的存在とはいい難い程度の知能しか有することが出来ず極めて僅かの具体的知識を有するのみ》(1965年11月22日、広島地裁福山支部判決)


 多分、既に法改正されているものと思うが、これは酷い。「ろうあ者は人に非ず」って言ってるんだからね。


 白眉は佐高信批判。私も大っ嫌いだよ(笑)。以下、ずらりと引用しておこう。


 かわいそうに。

 彼には、自らへの批判に対する免疫がなかったのである。この現象は実に興味深いことではないだろうか、と私は思うようになった。

 毒のない辛口スナックゆえ、またタイトルを見れば結論がわかるゆえに、安心して読まれてきた彼は、他社への罵詈雑言で生活の糧を得ておきながら、自己への批判には耐えられず、少なくとも私が直接確認できたものだけで合計五つの出版社に執拗な圧力をかけ、私の仕事を奪おうとした(未遂に終わった五つだけが、強迫を受けた編集者から私に連絡があった。既遂は何件あったのか佐高氏に聞かないと正確にはわからない)。

 私はそのことにまったく腹を立てていない。不当な圧力がかかるのは、私のような書き手には必ずついてまわるリスクであり、総会屋まがいの圧力ごときに屈する編集者と、まともな仕事ができるとは思えない。


 彼が最も得意とするのは、外見への差別的難詰である。明らかに佐高信は病んでいると思う。誰か止めてあげる友人はいないのか。ついでながら、写真で見る彼の事務所の汚さは常軌を逸している。論理的混乱の外在的表現であろうと思われる。


 この人は月刊佐高とか週刊佐高と自称するほどの本を現在執筆中であるが、おおむね共通するのは、中身の大半が書物の引用、またはパクリ、あるいは単なる書物の紹介に終始している点だ。


 このようにいつでも彼の文章は、《という》や《といわれる》のオンパレードである。まともな書き手は、《という》や《といわれる》に接して、それを徹底的に確認または疑うことから仕事を始める。


 断言してもいいが、佐高氏は今後最低10回は、石原(慎太郎)氏への批判の唯一の柱として、自分との対談での小さなエピソード(「変に気が合った」とか)を使い続けるだろう。対談をステータス向上運動に使い続けてきた人だからである。小渕首相と握手したことさえ、《幸か不幸か私も見つけられ、無断で手を握られまして、振り払うのも大人気ない。心ならずも握手してしまった。(中略)「クレゾールで洗っても落ちないぞ」……》(「週刊金曜日」2000年1月28日号)などと10回以上も自慢してしまう。私はこの人を13年前から「小学生新聞記者の信ちゃん」と呼んでいる。


 日垣氏は後半の「買い物日記」に記しているが、わずか数行触れるだけでも正確さを期すために、月の書籍代が40万円を超えるとのこと。


 試しに今、手元にある佐高信の文章を見てみよう。(引用はいずれも『創』2007年12月号より)


 人間も軽いベニヤ板みたいだなという印象だった。(橋下徹氏)


 橋下という世論の尻馬に乗ってしか行動できない小動物の


 小ずるいネズミのような男(橋下徹氏)


 橋下氏は、未熟弁護士、便乗弁護士、扇動弁護士など、無責任を意味するどんなネーミングを重ねても足りない。


 ただの悪口にしかなってないよ(笑)。佐高は自称「社民党応援団」なんで、やたらと保守派に噛みつくしか能がない。それにしても、古紙回収業者からも見捨てられた新聞紙みたいな顔色のあのご面相で、よくもここまで他人をこき下ろすことができるもんだ。他人を非難中傷することで、自分の存在感を際立たせようとするところは、社民党・共産党にそっくりだ。

佐高信関連リンク


 ichigekiさんより、「共産党より社民党寄りではないか」という指摘を受け、一部修正した。以下のリンクを辿り、各人に判断を委ねたい。

偽善系―正義の味方に御用心! (文春文庫)

2008-06-10

秋葉原通り魔事件 貧困と犯罪のスパイラル


 6月8日、秋葉原の歩行者天国で7人が無差別に殺害され、10人が負傷。この日は池田小児童殺傷事件からちょうど7年目を迎えた日でもあった。今年の3月23日には茨城県内のJR駅で連続殺傷事件が起こり、4月14日には福岡通り魔殺人事件が起きている。


 今回の事件では早くも「派遣」というキーワードがクローズアップされている。トヨタの関連会社で働いていた犯人が雇用不安を抱えていたことも既に報道されている。ここでもう一つ、「貧困」という言葉が浮かび上がってくる。


 本当は「貧困」が犯罪を生むわけではあるまい。後期高齢者だと犯人よりもはるかに劣悪な環境で生きている人も多い。庭に植えている野菜で、何とか露命をつないでいるお年寄りを私は知っている。


 犯行の動機に「もてない」こともあったようだ。つまり、派遣社員+もてない男=社会からの疎外感、という構図が見えてくる。


 問題は彼等の怒りの矛先(ほこさき)が、会社の上司など、自分よりも上の階級に向かわないことだ。無防備な通行人を襲うなどといった卑劣な行為は、いじめられっ子が別のいじめられっ子を探しているような姿だろう。いや、それ以下だ。


 日本の社会が二極化(いわゆる勝ち組、負け組)しつつあると言われて、すっかり慣れっこになってしまったが、負け組の怒りが、弱い者(通行人など)に向かっている現実が恐ろしい。彼等は自分の行為によって、完璧な弱者となり、社会からドロップアウトしてゆくのだ。


 そして、理解不能な犯罪が起こるたびに、警察がほくそえむ結果となる。街には監視カメラがどんどん増え続け、警察官が大手を振って取り締まりがしやすくなるような社会になりつつある。


 我々はそろそろ、「いつ殺されてもおかしくない社会」で生きていることを弁える必要がある。そうやって身構えてゆくしか、生き延びる術(すべ)はない。小さなお子さんがいるお宅では、護身術や格闘技を習わせるべきだと本気で思う。外を歩き、移動するだけでもリスクが高まっている。


 そんな社会の根っこにあるのは、政治に対する不信感と無関心であろう。30年前なら労働者の連帯も実現可能だったが、派遣社員はバラバラに引き裂かれている。結局、一人ひとりが本気で政治を監視するしかない。

漫画家の雷句誠氏、小学館を提訴


「あまりにも編集者、出版社と言う物が漫画家を馬鹿にし始めた。」

 これが訴訟へと動いた動機です。

2008-06-09

『セックスボランティア』河合香織


 衝撃的なタイトルだが、中身は「障害者の性」を扱った極めて真面目なルポ。文章も読みやすい。


 竹田さんはビデオでこんな言葉を語っていた。

「介護を受けるってことは僕らにとっては最大の屈辱なんだ。我慢してるよ。生きるためにね」


【『セックスボランティア』河合香織(新潮社、2004年/新潮文庫、2006年)以下同】


「ソレデモ……」とかすれた声でつけ加え、竹田さんは目を細め、ゆっくりと瞼を閉じた。

「イチド デ イイカラ カノジョ ト セックス シタ……カッタ」

 風俗店では、みどりさんのことを店の女性に重ねている。亡くなって20年以上たってもなお、彼女へのうしろめたさのようなものを感じるという。

「おんな の こ と あそびに いきたかった けっこんも したかった こども も ほしかった きょういくも うけたかった でも そう おもうことさえ ゆるされなかった」

 文字盤の上に、静かに涙がこぼれ落ちた。


 日常生活ではタブー視されている「性」という角度から、障害者の現状を巧みに炙(あぶ)り出している。障害者が置かれた立場から、「生きにくい社会」が浮かび上がってきて息苦しさを覚えるほどだ。


 売春が合法とされているオランダでは、「セックスボランティア」という制度があり、自治体の援助も受けているそうだ。例えば極端な例となるが、両腕を失った人の自慰行為や、結婚はしているものの介助がなければ行為に及べない夫婦もいる。かような方々の手伝いをしたり、あるいは直接的に異性を派遣するケースもある。

「人間らしく生きるためには、どうすればよいのか?」と思いつつ読んでゆくのだが、巻半ばあたりから違和感を覚え始めた。著者の障害者に対する不躾な質問が、あまりにも「ありきたり」なためだ。「あるべき論」を振りかざしているのは、著者がまだ30代のためだろう。その意味では書くのが早過ぎた感を否めない。


 巻末見開きに著者の写真が配されているが、なぜか目の部分にシールが貼られている。それでも、日光に当てると透けて見える。私はげんなりした。だってそうだろう、障害者の股ぐらを調べている物書きが、てめえの顔を隠すってえのあ、一体全体どういう料簡なんだ? 「ケッ、根性のねえ野郎だ」と唾を吐く真似をした。本当に吐いてしまったら、後始末が面倒だ(笑)。


 総体的にはいい本なんだが、失速感は避けられないと言っておこう。


 尚、非常に難しいテーマだが、考え方は二つになると思われる。一つは、障害者はただでさえ生きにくいんだから、せめて性的サービスは請けさせてあげようよという考え方。もう一つは、五体満足でももてない連中は山ほどいる。障害者を特別視すれば逆差別になりかねないという考え方だ。


セックスボランティア (新潮文庫)

2008-06-08

16号整形外科/山田朱織・枕研究所


「枕外来」ってえのが、あるんだってさ。さっきテレビでやってたよ。肩凝りと思い込んでいるが実際は首凝りのケースも多いとのこと。内のかみさんが、ひどい肩凝りで、私が全力を込めても親指が入らないほど。ちなみに私は、生まれてこの方、肩が凝ったことは一度もない。枕は、計測料+枕カバーを含めて2万円前後のようだ。柔らかい枕がダメというのは初めて知った次第。

2008-06-07

『日経新聞を死ぬまで読んでも解らない 金の値段の裏のウラ』鬼塚英昭


 そして、この本を読んでもわからない(笑)。デル・バンコ一族ってえのあ初耳。この連中が世界の金を牛耳っているんだってさ。ただし、著者の推測・推理に過ぎない。「凄いことを書いてやるぞ」と力み過ぎて、わけがわからなくなっている。孫引きも多過ぎる。マーケット以外で価格が決められていることが書かれているが、根拠が殆ど示されていない。その点において陰謀史観と大差ないと思われる。それでも、金は上がりそうな気がする。国際機軸通貨のドルが弱くなっているよーな感じ。通貨というのは約束事に過ぎず、所詮紙っぺらだ。資本主義経済が打撃を被ることがあれば、金は暴騰することだろう。そうかといって、金先物なんぞに手を出すのは早計だ。リスクの少ない純金積立あたりが好ましい。使う予定のない金がある人は、金を買っておいた方がお得だろう。


 致命的な部分を一つだけ指摘しておこう。


 BIS規制こそが日本のバブルをはじけさせた要因である、そう解説する経済書が多い。だが、銀行の自己資本率8%を定めたBIS規制ゆえに日本の銀行がおかしくなり、バブルがはじけたのではない。(150ページ)


 と書いておきながら、終章ではこうだ。


 私たちはBIS規制の恐ろしさを思い出さねばならない。バブルの崩壊はBIS規制によったと私は書いた。(228ページ)


 書いてねーだろーが(笑)。ためになったところは以下――


〈金の戦争〉どころか、金そのものについて語ったり、書いたりする経済学者もいない。ケインズフリードマンサミュエルソン、そしてガルブレイズにいたるまで一人もいない。未来学者も語らない。グローバリズムを否定するノーベル賞学者のスティグリッツも金に関しては沈黙を守っている。


 だが、巻末近くで何とリチャード・コシミズという名前が出てきて、元も子もなくなっている。


日経新聞を死ぬまで読んでも解らない金の値段の裏のウラ

『ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』高木徹


 米国民間企業がPR手法を駆使して、国際世論を動かした。いまだに多くの人々が、セルビア人が加害者でムスリム人が被害者だと思い込んでいるはずだ。ミロシェビッチは悪の権化とかね。国際世論を見方にした方が勝つという、戦争の新たな次元を示している。ただ、テーマは秀逸なのだが、文章に勢いがないのが難点。新しい戦争のカタチは情報戦だ。講談社ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞をダブルで受賞。


ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)

『やっぱり変だよ 日本の営業 競争力回復への提案』宋文洲


 フリーライターの前原政之さんが褒めていたので読んでみた。宋文洲(そう・ぶんしゅう)氏は1985年に国費留学生として中国より来日。その後、天安門事件で帰国できなくなり、日本でソフトを開発して会社を興す。ソフトブレーン(株)は東証マザーズに上場し、現在は東証一部。見事なサクセスストーリーといってよい。その上、私と同い年。


 異国から来たこともあって、日本の営業スタイルを客観的に見つめ、おかしなところをズバズバ指摘している。


 最初は、この日報は何らかの法的規制かと思いました。何か問題があったら調べられるように、国から義務化されているかと思ったのです。しかし、驚いたことに、単なるこの会社の十数年来の慣習でしかありませんでした。

 日報を書く人件費、紙代、そして集める人件費、倉庫の保管料などのコストパフォーマンスを考えると、とても経済活動の一環とは思えない業務です。


 日報の目的は、管理職の監視を再確認するだけの行為である。作文している営業マンも多いが、日報を介して上司とやり取りする場合、「お前は本当にちゃんと仕事をしているのか?」というレベルの疑惑に過ぎない。つまり、社員を信用してないからこそ書かせているといえよう。


 日本には技術力はあるが営業力はない、との指摘も新鮮だ。基本的に日本人はコミュニケーション能力が低いことを実感する。土地や会社といったものに対する帰属意識も薄らいでいる昨今、コミュニケーション能力を身につけなければ、多数の引きこもり現象が生じることだろう。


 後半は自社ソフトを宣伝しながらのIT指南。「ちょっとなあ」って感じは拭えない。それでも、さほどあざとさ感じないのは、宋社長の志が高いためだろう。


 もう一つ難を言えば、文体がとっつきにくい。多分、この人は話すことの方が得意なのだろう。ついでにもう一つ言えば、本文全体のセンタリングがちゃんとできていなくて、下に偏っているのも気になってしようがない。


 コスト意識を持つには非常に有益な書である。


やっぱり変だよ日本の営業―競争力回復への提案

2008-06-06

池田信夫氏 vs buyobuyo氏の顛末


 先日、「はてなブックマークとみのもんたは似ている」を書いたところ、池田氏から批判されているbuyobuyo氏ご本人からコメントを頂いた。


 コメント欄で対話を試みたが、どうも話が噛み合わない。私が池田氏に賛同したのは、「ブックマークのコメントに『死ねばいいのに』と書くことは許されない」という一点である。池田氏のブログはいつも読んでるわけではなく、該当記事を一読しただけである。


 ところがbuyobuyo氏は、池田氏が自分のことを変質者呼ばわりしたのだから五分五分だとでも言いたいようだ。


 buyobuyo氏はコメント欄に「私のブログを見ていただければ」と書いているが、私はチラッと覗いた程度で、あまり読む気が起こらないというのが正直なところだ。


 まず弁えておかねばならないことは、池田氏は実名もさることながら、顔まで公開している事実だ。それだけでもリスクを背負っているわけだ。一方、buyobuyo氏にはさしたるリスクはないように思われる。だからこそ、「死ねばいいのに」とか「殺意が沸く」などと書けるのではないか?


 他人の痛みには限りなく鈍感で、自分の痛みだけは大袈裟に誇張してみせる。そのような人物の言論に、どの程度の意味があるのだろうか。ひょっとしたら、「他人を傷つけること」でしか自分を大きく見せられないタイプの男なのかも知れない。いずれにしても、「間違いを認めない人物」「謝罪できない人物」「相手の話に耳を傾けることのできない人物」は、幼稚と言わざるを得ない。


 また、私のことを「良識派」と書いているが、コモンセンス=常識とすれば、buyobuyo氏は「非常識派」ということになる。「親孝行派」とか「親切派」、はたまた「誠実派」なんて言葉もあるのかね? 自分に対して反対意見を述べる人は、すべて「反対派」に映っているのだろう。


 Web上には悪意が多過ぎる。自分の首を絞めていることにすら気づかないで。

『カムイ伝』はマルクス主義歴史観をそのままマンガ化


永江●『「日本」とは何か』(網野善彦著)で一番面白かったのは百姓の問題。能登の古文書などを調べていくと、百姓=農民ではなかったことが明らかになっていく。これまで考えていたのとまったく違う百姓像が見えてくる。井上ひさし永六輔などリベラルな戦後民主主義者は、「コメこそが日本文化の根幹である」といいたがるけれど、それはぜんぜん違うんですね。


斎藤●リベラリストがかえって国粋主義だったりするのね。『海民と日本社会』(網野善彦著)という本は漁民とか貿易商とか海に依拠している人たちのことを描き出したもので、それはまさに百姓は農民ではないということを各地の文献できちんと示していて面白かった。いわれてみると「そうだったのか、そりゃそうだよな」という感じはしますね。


永江●「百姓は貧しい、虐げられた人々だったんだ」というのも幻想だった。『カムイ伝』(白戸三平著)は、そのパターンだった。貧しい百姓が悪代官に虐げられる。あれはマルクス主義歴史観をそのままマンガ化していた。60年代の史学とはああいうことだったんですね。百姓は豊かだったということに対して、左翼はどう答えるのか聞いてみたいな。


斎藤美奈子&永江朗の「甘い本 辛い本」1

『知的好奇心』波多野誼余夫、稲垣佳世子


 初版が刊行されたのが1973年というのだから、既に35年の長きにわたって読み継がれている名著。私は20代で一度読んでいる。


「人間はナマケモノなのか?」というテーマで、旧来の「アメとムチ」スタイルを脱却する狙いがある。様々な心理実験のデータを引っ張り出し、自発的に労働や勉強と取り組める方途を探っている。その核となるのが知的好奇心だ。


 そのサルたちにとっては、パズル解きは電気ショックなどによって強制されたものではなかった。さらに、その熱中ぶりからみて、サルがパズル解きを楽しんでいることもあきらかだろう。これらの諸特徴――「自己目的性」、「自発性」、「楽しみ」――から考えて、これは「遊び」の一種といってよい。


 また別の実験では、人間を何もしない状況下に放置しておくと、「情報に対する飢え」が生じることが明らかにされている。普段は意味不明と思える株価情報にまで耳を傾けるようになる。


 最もわかりやすいのは、トーキングタイプライターである。これは幼児に文字を覚えさせる目的で開発されたタイプライターで、最初はキーボードを押すとAなら「エイ」という音声が出る。幼児は初めの内は面白がって、ランダムに押すがしばらく経つと飽きてしまう。そこで次の段階は、短い単語を画面に表示し、それ以外のキーは押せない状態にする。正しい順序で文字が挿入されると、画面が発音して意味を教える。こうして幼児は次々と語彙を獲得する。しかも、キーと爪に色を施すことによって、正しいキー操作を覚えさせることも可能だという。このタイプライターを使えば、3〜4歳児が新聞を読むことも可能になる。


 ここからは具体的な義務教育におけるスタイルを試行錯誤している。その根底には、現行教育に対する痛烈な批判精神が漲っている。本書がすぐれているのは、その見識もさることながら、やはり志の高さにあると思われてならない。


 彼らにとっては、勉強は遊びと敵対するものである。もし勉強しなくてよいとなったら、教科書や参考書のたぐいをすっかり燃やしてしまいたい、と思っている子どもだって多いだろう。勉強していくなかで自分を高めていくどころか、勉強の時間こそ、自分が自分でなくなるときなのである。


 知的好奇心を刺激し、児童本来が持っている「学ぶ力」を引き出すことに力点が置かれている。


 子どもに自由を与えること、これは子どもを放任することではない。子どもが真に「自由」を楽しめる状態に環境を「整備しておく」ことが指導する側の責任である。


 ブルーナーが、彼の有名な著書である『教育の過程』のなかで「内発的動機づけ」という語をはじめて使ってから約15年になる。


 個々の学習者のイニシャティブと選択を、教材や教師との関係で尊重するとともに、もう一つ大切なことがある。それは、学習者同士で、互いにイニシャティブを持った活発な相互交渉をもっと行うよう奨励する、ということである。


 いずれも卓見である。教授よりも指導、全体よりも個別、協調性よりも主体性を追求することで、個々の能力は飛躍的に伸びると思われる。


 例えば、国民の生命を預かる医師の不足が問題となっているが、私は医師を公務員にすればよいと考えている。テレビで「神の手を持つ医師」を見る機会が多いが、大工さんや建築職人、あるいは裁縫が得意な主婦の中には、もっと巧い人がいると思うのだ。しかしながら残念なことに、現代社会では裕福な家でない限り、医大に入ることは難しい。そこで国家プロジェクトとして、小学生ぐらいから器用なメンバーを選りすぐり、税金でエリート育成を施せば、医療が崩壊することもないだろう。でもその前に、「出る杭は打たれる」といった精神風土を革命するのが先だね。


 アルビン・トフラーの『パワーシフト 21世紀へと変容する知識と富と暴力』が刊行されたのが1990年10月だった。その20年ほど前に、言葉こそ表記されてないが「ソフトパワー」を解明したのが本書であり、今尚、色褪せることはない。

知的好奇心 (中公新書 (318))

2008-06-05

はてなブックマークとみのもんたは似ている


 池田信夫氏がはてなへの苦情を綴っている。

 私は全面的に賛成だ。Web上には「群衆の中から石を投げる」ような手合いが多い。多分、会社や学校などで自分の意見も言えないような連中が、ストレスまみれとなった挙げ句に劣等感をぶちまけているのだろう。


 それにしても、「はてな側」の言いわけは苦しい。苦し過ぎて私は窒息しそうになったほどだ。


 企業がガイドラインや判例などを基準にした途端、消費者(ユーザー)にそっぽを向くことになる。そんな彼等が一線を踏み外すことはない。ライン際で大きくワンバウンドしたボールを空中で受け止めてパスを繰り出すバスケットボールプレイヤーになることはあり得ないのだ。ラインに近づいた途端、限りなくスピードを落とし、うずくまってラインの淵を眺めているのだろう。


 池田氏とのやり取りから窺えることは、はてなとして「個々人の痛みは無視させてもらいます」という企業姿勢であろう。


 面白かったのは、はてなの言いわけが、まるで、みのもんた氏への苦情に対応するTBSみたいだったことだ。あれほど人相が悪くて、見識が浅くても、アジテーターとしての役割が果たせるのだ。

 はてなにしても、みのもんた氏にしてもそうだが、結局、社会のインフラには下水道が必要なことを象徴しているのかもね。

はてなダイアリー:文字を大きくして等幅フォントにするCSSコード


 知り合いに教えてもらった。新聞の文字も大きくなっている昨今、小さな文字だとお年寄りは読めないことだろう。スタイルシートのコードは以下――


H2 {
  font-weight: bold;
  font-size: 90%;
}

H3 {
  font-weight: bold;
  font-size: 100%;
}

div.main {
	font-size:110%;
}

div.sidebar {
	font-size: 110%;
}

div.day p {
	text-indent: 0em
}

div.section p{
 font-family: "MS ゴシック",monospace;
 margin-top:0;
 margin-bottom:0;
 padding-top:0;
 padding-bottom:0;
}

パタパタくん


 サンウエーブのテレビCMが耳から離れない(笑)。個性的な声と変拍子とが相俟って、パタパタ地獄に陥りそうだ(笑)。それにしても、誰が歌っているんだろう?

D

2008-06-04

『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫


 山本譲司著『累犯障害者 獄の中の不条理』に出てきた共生舎と犯人の妹のことが知りたくて読んだ。期待したほどではなかったが、触れられている。


 レッサーパンダの帽子をかぶった男が女子大生を刺殺する。当初は大きく報じられ、ワイドショーでも毎日のように取り上げていた。ところが、容疑者が「養護学校出身者」であることが判明すると、潮が引いたようにメディアから消え去った。障害者、及び知的障害者を槍玉に挙げることは今でもタブーとされている。


 犯人とされるレッサーパンダの帽子をかぶった若者は「自閉性の障害」があった。目撃証言もあることから、犯罪をおかしたことは間違いないだろう。著者が問題提起しているのは「障害者に対する取り調べのあり方」についてである。


 男は、任意同行から3時間で「上申書」や員面調書を取られている。しかし弁護人が接見を始めたとき、ひと月以上は「会話」にならなかったという。話す内容の不可解さ、言葉の拙さ、うつむいたままかたくなに黙り込むその態度。なぜ警察がたった3時間であの上申書を取ることができたのか、どう考えてもこれは信じられるものではない、と弁護人はくり返した。


 容疑者と被害者の家族は、互いを思いやりながらも何らかの行動をとることは許されない。犯罪を取り囲む悲惨な状況をこれほど雄弁に物語るエピソードもあるまい。


 以前、知人の、北海道の某テレビの若い報道記者が取材で(被害者の)父親に会い、(犯人とされる)男の妹のそれまでの状況を話していたときに、そのあまりの惨状に父親が涙を流した、という話を聞いていた。「家族の困窮があったかもしれない。しかし私は一顧だにしない」。そう述べていたその人が加害者の家族に涙を流す、これもまたもうひとつのまぎれもない父親の姿だった


 著者の心は揺れる。揺れ過ぎるほど揺れる。容疑者の家族と被害者の家族に近づくにつれ、感情は強くなる。ジャーナリストとしては、やや湿っぽい。だが、そこにこそ確かな人間の証があった。こうした心の揺れは決して違和感を覚えるものではない。報道は客観的に行われるべきだが、現在のジャーナリズムにはあまりにも第二者としての立場(「あなた」と呼ぶ位置)が欠けていると感じる。


 被害者の叔父から著者は次のように言われる。


(被害者の叔父の)連絡先を伺ってから数日して後、私は電話の前で立ち往生していた。

「なんの目的で、私らに会いたいのか。なにを聞きたいのか。私らになにか聞いて、それをあなたが書いて、世の中が少しはよくなるのか。よくなったためしはあるのか。人の行くところ行くところ付け回して、不幸をさぐって、それを面白おかしく書いて。それがマスコミの仕事かもしれないが、人をさんざん不快な思いにさせ、しかも書くことは嘘。こっちがどれほど不愉快きわまりない思いをしているか、少しは考えたことがあるのか。世の中をどんどん腐らせているのは、あなたらマスコミではないか」

 15分、いや20分以上もそうやって問われていただろうか。私は返す言葉もなく、黙って受話器を耳に当てていた。


「これまで、あちこちから取材の申し込みがあった。でも、一度も応じたことはない。すべて断ってきた。今回のあなたの取材がはじめてだ。記事を読んでも気分が悪くなるだけだし、どうせ野次馬。他人の不幸を騒いで面白がっているだけ。他人の不幸ほど面白いものはない。とくに週刊誌はひどい。姉夫婦の生活まで踏み込んで、あれこれと、あることないことを書いていた週刊誌もあった。近所の誰に聞いたかは知らないけど、噂程度の話を、さもほんとうであるかのように書く。我々から見れば、すぐに嘘かほんとうか分かる。そんな目に散々遭わされて、取材させてほしい、はい分かりました、なんでもどうぞ聞いてください。そんな人のよすぎる話はないだろ」

 まったくその通りだった。


 ペンが凶器であることを自覚しながらも、著者は使命感を奮い起こしてペンを握り締める。ノンフィクションとしての事件モノはどうしても「済んでしまった事実」に対して冷酷になり、「今そこにある問題」が優先される。それをこの人は知っているのだろう。


 例えば、『週刊新潮』なんぞに至っては、既に1億2000万円もの損害賠償が命じられている。完全な「デマ雑誌」といっていいだろう。本来であれば権力を監視すべきジャーナリズムが、弱い立場の人々を傷つけている現実がある。一度でも悪意に満ちた記事を書かれてしまえば、破滅的な結果が待ち受けている。そして見過ごせないことは、こうした人権侵害に対して「書く側」の人間が非難することが殆どない事実である。


 かような状況を踏まえて本書を読むと、一服の清涼剤のように感じる。表紙にはアサヒビール吾妻橋ビルのオブジェが写っている(通称「ウンコビル」)。この界隈で仕事をしていたこともあって、異様な親近感がわいた。

自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」 (朝日文庫)

2008-06-01

『いまここに在ることの恥』辺見庸


 無神論者であることを白状しながら『自分自身への審問』という著作を出し、次にあたかも武士道を思わせるこのタイトルである。マルクス・レーニン主義者であることを払拭したいのだろうか?


「一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う」という。一人がでたらめを語ると、多くの人々がそれを真実として広めてしまうものだという後漢のたとえである。小泉執政の5年ぐらいこの言葉を考えさせられたことはない。

 私の興味は「一犬」の正体や小泉純一郎という人物のいかんにあるのではなく、「万犬」すなわち群衆というものの危うい変わり身と「一犬」と「万犬」をつなぐメディアの功罪にある。

 もっといえば、21世紀現在でもファシズム(または新しいファシズム)は生成されるものか、この社会は果たしてそれを拒む文化をもちあわせているのだろうか――という、やや古典的な疑問をもちつづけている。


 辺見氏の主張が、私は全く理解できない。例えば、「イエロージャーナリズムはあっても構わないが、メディア・リテラシーを身につけよ」とでも言いたいのだろうか? 大体、“ファシズムを拒む文化”なんて面倒なものを論じる前に、言論人として小泉政権に何らかの打撃を与えることができなかった自分の力量を恥じるべきではないのか? そもそも、9.11テロ直後のブッシュ政権や、郵政解散選挙で自民党が圧勝した事実を鑑みれば、ファシズムはそこここに存在する。


 ファシズムやポピュリズムを批判するのは一番簡単なことで、そこで止まってしまえば、「ダニの如き言論」と化す。小心翼々としたタイトルだが、本当に恥ずかしいのであれば、隠れるべきだろう。


いまここに在ることの恥

『自分自身への審問』辺見庸


 なぜこんなことを言うのか。変な話ですが、〈見る〉あるいは〈視る〉、〈診る〉、〈視認する〉、〈目視する〉、〈監視する〉、〈観察する〉、〈視察する〉という言葉と行為に、ぼくは病前から朧(おぼろ)に怪しいもの、何だか不遜なもの、特権的なもの、優越的なものを感じていたからです。もっと正確に言うと、〈見る者は見られない〉と信じて疑わないような関係性に、です。あるいは、〈見られる者は見てはならない〉といったマジックミラーのようなインチキに、です。ぼくは鏡を覗くのですが、同時に鏡のほうもぼくを観察していて、ぼくの顔つきや所業に怒った鏡の奥に棲(す)まう者らがある日、卒然と鏡面から飛びだしてきて、ぼくに襲いかかるというような、ボルヘスの寓話みたいな関係ならば、納得はできるのですが。ぼくは鳥屋野潟の桜にあの世を見ただけでなく、死のほうもまた花影から眼を光らせ、ぼくをじっと見つめていたであろうという想定なら、怖いけれども腑に落ちるのです。

 一方的な〈見る〉の疑問は入院してからますますつのりました。病院という閉域は、刑務所や拘置所、学校同様に、人と人の関係性がいわば制度的に偏方向的になりやすい。患者と医師、囚人と看守というように、〈見る〉と〈見られる〉が不当にはっきりします。患者が医師を、囚人が看守を〈見る〉あるいは〈診る〉のはどうあっても前提されません。脳を病んだ患者の一人として、ぼくはこの関係性に、オーバーに言うなら、児戯(じぎ)性と愚昧を感じたのです。


 これは独白である。誰かに翻訳して欲しくなる文章だ。あとがきで、わざわざ「無神論者」と書いているところをみると、マルクス・レーニン主義っぽい。するってえと、上記の文章は単なる支配関係を小難しく言い回しただけなのかも知れない。ワンセンテンスが長い上、途中で知識をひけらかす癖があるので、読みにくいったらありゃしない。


自分自身への審問