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2008-06-01

『自分自身への審問』辺見庸


 なぜこんなことを言うのか。変な話ですが、〈見る〉あるいは〈視る〉、〈診る〉、〈視認する〉、〈目視する〉、〈監視する〉、〈観察する〉、〈視察する〉という言葉と行為に、ぼくは病前から朧(おぼろ)に怪しいもの、何だか不遜なもの、特権的なもの、優越的なものを感じていたからです。もっと正確に言うと、〈見る者は見られない〉と信じて疑わないような関係性に、です。あるいは、〈見られる者は見てはならない〉といったマジックミラーのようなインチキに、です。ぼくは鏡を覗くのですが、同時に鏡のほうもぼくを観察していて、ぼくの顔つきや所業に怒った鏡の奥に棲(す)まう者らがある日、卒然と鏡面から飛びだしてきて、ぼくに襲いかかるというような、ボルヘスの寓話みたいな関係ならば、納得はできるのですが。ぼくは鳥屋野潟の桜にあの世を見ただけでなく、死のほうもまた花影から眼を光らせ、ぼくをじっと見つめていたであろうという想定なら、怖いけれども腑に落ちるのです。

 一方的な〈見る〉の疑問は入院してからますますつのりました。病院という閉域は、刑務所や拘置所、学校同様に、人と人の関係性がいわば制度的に偏方向的になりやすい。患者と医師、囚人と看守というように、〈見る〉と〈見られる〉が不当にはっきりします。患者が医師を、囚人が看守を〈見る〉あるいは〈診る〉のはどうあっても前提されません。脳を病んだ患者の一人として、ぼくはこの関係性に、オーバーに言うなら、児戯(じぎ)性と愚昧を感じたのです。


 これは独白である。誰かに翻訳して欲しくなる文章だ。あとがきで、わざわざ「無神論者」と書いているところをみると、マルクス・レーニン主義っぽい。するってえと、上記の文章は単なる支配関係を小難しく言い回しただけなのかも知れない。ワンセンテンスが長い上、途中で知識をひけらかす癖があるので、読みにくいったらありゃしない。


自分自身への審問

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