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2008-07-31

朝一番の


 オシッコの出が悪い。怪我は完治。

見る、視る、観る/『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』セミール・ゼキ


 色々な見方がある。五感の中で眼から得る情報量は他の器官を圧倒している。色・形・距離・大きさ・質感などなど。しかしながら、「見る」という脳の構造はいまだによくわかっていない。少し前までは、脳の中で「誰かが」見ているような説明がまかり通っていた。脳神経科学が少しずつ紐解きだしたのは最近のこと。


 つまり、視覚は能動的な過程なのであり、長い間考えられてきたような受動的な過程ではない。樹木、正方形、直線といった最も単純な対象を捉える視覚でさえも、能動的な過程なのである。

 近代の神経生物学者であれば、画家アンリ・マティスの「見るということはそれ自体で既に創造的作業であり、努力を要するものである」という言葉に心から敬意を払うであろうし、あるいは少なくとも敬意を払うべきであろう。マティスのこの言葉は、生理学的な見地からではなく美術的な見地から語られたものだが、視覚生理学に適用しても十分に通用する表現である。


【『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』セミール・ゼキ/河内十郎訳(日本経済新聞社、2002年)】


「能動的」というのは、脳には見たままの映像が認知されているわけではなく、想像・予想・推定などといった処理を「能動的」に行っているという意味だ。マティスの言葉は、日常であれば気づかないが、「絵を描く」時には強く実感されることだろう。


 2002年に刊行されたこの本も、現在では古い部類となる。池谷裕二著『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』では、更に新しい所見が紹介されている。


 著者は、「キュビスムは結果的に失敗だった」として、ピカソの「ヴァイオリンを持つ男」を取り上げているが、私は全く反対の意見だ。眼ではなく後頭葉で起こっている現実に鋭く迫っていると感じるからだ。認知が内部に働くと、自省的なベクトルは「天台大師の観念観法」に近い世界に辿り着くのだろう。

脳は美をいかに感じるか―ピカソやモネが見た世界

2008-07-30

不肖わたくし、負傷


 手の甲を怪我した。大きなドアに少しぶつけたぐらいに思っていたら、見る見る膨れ上がってビビってしまったよ。病院へ行くよう促され、しぶしぶ行ってきた。看護師が「うわあ、大変!」と叫び、医師も「どうしたんですか!」と叫ぶ。骨に異常はないようなんで、さっさと戻って再び仕事。静脈が切れるて血が溜まっているという診断だった。痛みはないのでへいっちゃら。

「聞く」と「話す」/『プロカウンセラーの聞く技術』東山紘久


 人は話すのが好きだ。話すの語源は「放つ」。現在でも「言い放つ」と。身体の内側に溜まった何かを解き放ちたい欲求があるのだろう。中々面倒なのは、放った言葉をちゃんと受け止めてくれる人が必要なところ。独り言ではどうも満たされないようだ。


 また人間には、相手を動かしたがる性質がある。「話す」ことで動かそうとすると、意図的なコントロールになりがちだ。一方、「聞く」ことで動かす場合は、相手を自分の方へ手繰り寄せるような感覚がある。「身近」ってやつですな。


 雄弁は美徳である。しかしながら、一対一の会話で「雄弁」と相手を評価することは、まずない。どちらかといえば、「多弁」と嫌われるのが一般的だろう。雄弁とは演説であって、一方的な主張なんだろうね。


 神仏や聖人でないわれわれでも、話すことよりも聞くことをよしとするのは同じです。その証拠にわれわれは「しゃべりすぎた」という反省はよくしますが、「聞きすぎた」反省はほとんどしません。


【『プロカウンセラーの聞く技術』東山紘久〈ひがしやま・ひろひさ〉(創元社、2000年)以下同】


 確かにそう言われてみれば頷ける。ということは「話し上手」よりも「聞き上手」を我々は心掛けるべきなのだろう。続く文章は以下――


 これは情報の発信者と受信者の行動を考えるとわかりやすいでしょう。情報の発信者は、受信者の反応が返ってこないことには、相手が情報をどう思ったかわからないのです。受信者は、情報の受け取りも放棄も、自分の気持ちしだいです。情報がいらなければ捨てることさえできるのです。いらないダイレクトメールのように。その意味で発信者が情報をコントロールしているように見えますが、じつは本当にコントロールしているのは、受信者のほうだといえるでしょう。


 つまり、「話す自由」よりも「聞かない自由」が勝るという意味だ。確かに「耳を塞ぎたくなる」ような話は多い(笑)。「右耳から左耳に抜けてゆく」話も多いよね(笑)。


 社会全体がストレスまみれになってくると、「些細なことを責め立てる」風潮が強まる。見知らぬ他人に対して攻撃的な言論がまかり通る。自分が傷をつけられる前に、相手に切り掛かろうとする。親は子供を責め立て、子供は弱いクラスメートをいじめ、いじめられた子供は自分の心を切り刻む。


 眼は閉じることができるが、耳は常に開いている。そう、耳の穴は宇宙につながっているのだ。耳を傾けることは、心を傾けることである。耳を傾けることは、相手に寄り添う姿勢である。一人ひとりが耳を澄ませば、世の中は少しずつ確実に変わってゆくことだろう。

プロカウンセラーの聞く技術

2008-07-29

書評の方法を探る


〉こと山村修の文章を読んで改めて思ったのだが、やはり私にとって書評は荷が重過ぎる。元々、得意なスポーツは瞬発力・敏捷性で勝負する球技に限られており、性格も直情径行で短気を絵に描いたようなところがある。これが読書になると、全体観に立った主張よりも部分的な文章に執着する羽目となる。つまり、私の書評の結論を要約すれば、「四の五の言わずに、この一文を味わえ」ということになる。


 そこで、今後の書評については、「テキストを引用した雑文」スタイルにしようと思う。その方が断然、楽チンである。あらすじを辿ったり、紹介する必要もなくなる。本の中から立ち上がってくる活字を抜き出し、私に見えた「光と陰影」を綴ってゆきたいと考えている。


 カテゴリーは「本末点灯」「自由本放」のいずれかにする予定である。

『ボーン・アルティメイタム』

ボーン・アイデンティティー』『ボーン・スプレマシー』に続く三部作の完結編。原作はロバート・ラドラムの『暗殺者』『殺戮のオデッセイ』『最後の暗殺者』である。映画化されたミステリ作品は数多いが、原作と同じ興奮を味わえる稀有な作品に仕上がっている。しかしながら、タイトルはいずれも最悪で内容が全く窺えないものとなっている。これでは、「ボーン」が人名か骨かもわからないだろう。


 大きな特徴が三つある。一つ目は、ぎりぎりまで短く切り詰めたカットの積み重ねで濃密な動きを示している点である。贅肉(ぜいにく)を削ぎ落として、しなやかな筋肉が現れたような印象もあれば、言葉を削りに削った詩歌のような趣もある。もう一つは、「静と動」を交互に配しながら、いくつもの見せ場をつくっていることである。


 更に見逃せないのは、常に複合的な視点で場面が展開していることである。最も象徴的なのは、ニッキー・パーソンズがCIAの殺し屋から逃げるシーンだ。殺し屋は地上、ニッキーは階上、ボーンが屋上に配されている。また、ボーンの逃走シーンも同様で、追う者と追われる者、そしてCIA本部と、やはり三つの視点で描かれている。CIA本部が神を示し、ボーンがそれに抗っていると読むことも可能だが、これは深読みのし過ぎか。


 ボーンは雑踏の中に混乱をつくり出す天才だ。常に混沌の中から活路を見出す。そして、敵の動きと攻撃を素早く読み抜き、一歩先んじる。群衆の中でCIAと地元警察がボーンに吸い寄せられる。喧騒の中を飛び交う叫び声、そして窓ガラスが割られ、爆発音が轟く様は非日常性を伴っている。見方を変えれば、「祭り」と言っていいだろう。神事を司るのはボーンだ。


 白眉はバスルームでの格闘シーン。誰もが息を飲むスピードで、異様に長く感じるのだが実は1分50秒ほどしかない。私は二度見て、ちゃんと確認した(笑)。短い間に何度も攻守が入れ替わるため、長く感じるのだろう。


「自分を見ろ」「それでも人間といえるか?」――この科白は殺人マシーンの「ジェイソン・ボーン」に向けられたものだ。高層ビルから海に飛び込むボーンに銃声が襲い掛かる。インドで死んだマリーと全く同じ状況だ。マリーと同じくボーンも死ぬのか――ここで凄い手法が取られる。海の中で胎児のように揺らめくボーンの映像の合間に、未来の映像が挿し込まれるのだ。これは、フラッシュバックの逆だからフラッシュフューチャー(または、カットフューチャー)といってよい。海面に波紋が広がる。再び泳ぎ出した男は、ジェイソン・ボーンではなくデビッド・ウェブだった。ニッキー・パーソンズの頬の緩め方も完璧で、前作同様、見事な洒落っ気となっている。

ボーン・アイデンティティー  (ユニバーサル・ザ・ベスト第8弾) ボーンスプレマシー  (ユニバーサル・ザ・ベスト第8弾) ボーン・アルティメイタム


http://www.youtube.com/watch?v=uJ4dFcm4ML0


http://www.youtube.com/watch?v=RfYVV-9YcTQ


D

2008-07-27

『生かされて。』イマキュレー・イリバギザ、スティーヴ・アーウィン


 ルワンダもの、2冊目。レヴェリアン・ルラングァが怒りにのた打ち回り、神をも裁いたのに対し、イマキュレー・イリバギザは大虐殺を通して信仰をより深めている。圧倒的な暴力にさらされても、人によって反応はこれほど異なる。どちらが正しくて、どちらが間違っているという類いの違いではなく、人間の奥深さを示すものだ。


 冒頭に掲げられたこの言葉が、イマキュレーの立場を鮮明にしている。


 もはや何一つ変えることが出来ないときには、

 自分たち自身が変わるしかない

   ――ビクトール・E・フランクル


【『生かされて。』イマキュレー・イリバギザ、スティーヴ・アーウィン/堤江実訳(PHP研究所、2006年/PHP文庫、2009年)】


 幼い頃、彼女はフツ族ツチ族の違いすら知らなかったという。


 フツとツチは同じキニヤルワンダ語を話し、同じ歴史を共有し、同じ文化なのです。同じ歌を歌い、同じ土地を耕し、同じ教会に属し、同じ神様を信じ、同じ村の同じ通りに住み、時には同じ家に住んでいるのです。


 だが、植民地宗主国が既に“人種”という太い線を引いていた。


 ドイツの植民地になった時、また、ベルギーがその後を継いだ時、彼らがルワンダの社会構造をすっかり変えてしまったということも知りませんでした。

 それまで、ツチの王が統治していたルワンダは、何世紀ものあいだ平和に仲良く暮らしていたのですが、人種を基礎とした差別的な階級制度に変えられてしまったのです。

 ベルギーは、少数派のツチの貴族たちを重用し、支配階級にしたので、ツチは支配に必要なより良い教育を受けることが出来、ベルギーの要求にこたえてより大きな利益を生み出すようになりました。

 ベルギー人たちが人種証明カードを取り入れたために、二つの部族を差別するのがより簡単になり、フツとツチのあいだの溝はいっそう深くなっていきました。これが、フツの人たちのあいだに絶え間ない恨みとして積み重なり、大虐殺の基盤になったのです。


 大きな出来事が起こる前には必ず予兆があるものだ。しかし、よりよい社会を築く努力をした者ほど、努めて楽観主義であろうとする。イマキュレーの父親もそうだった。


「いいや、お前は大げさすぎるよ。みんな大丈夫さ。前より事態は良くなっているんだ。それにこれは、単に政治のことだからね。子どもたち、心配はいらない。みんなうまくいくさ。大丈夫」と、父は私たちをなだめました。


 この一言が家族を地獄へと導いた。留学中の兄とイマキュレーを除いて全員が殺される羽目になる。


 彼女は教会の狭いトイレの中で、7人の女性達と共に3ヶ月間も隠れ続けた。凄惨な現場を見てないとはいえ、密閉された空間で同胞の殺戮を知ることは、極度のストレスにさらされる。それでも、彼女はあきらめなかった。満足な食べ物もなく、風呂にも入れない状況下で、彼女は英語を学ぶ。


 私はただちにそれ(2冊の分厚い英語の本と辞書)を開きました。見慣れない言葉にワクワクしながら、まるで金で出来ているかのように扱いました。アメリカの大学から奨学金をもらったような気分でした。

 祈りの時間は少なくなりましたが、でも、勉強しているあいだ、神様は一緒にいて下さるとわかっていました。


 私は、他の女性たちが、眠っているか、ぼんやりしている時に、新しい宇宙を探検し、一日じゅう、祈りを唱え、真夜中過ぎまで窓から漏れるかすかな明かりで、もうこれ以上目を開けていられないというまで本を読み続けました。一瞬一瞬、神様に感謝しながら。


 イマキュレーは希望を捨てなかった。だが、建物を一歩出れば、ツチ族は虫けらよりも酷い殺され方をしていた。


 6月中旬、隠れてから2カ月以上が過ぎた時です。

 私は、牧師の息子のセンベバが窓の下で友達と話しているのを聞きました。

 その近所で最近あった殺戮について、目撃したり、あるいは誰かから聞いたりしたもので、その恐ろしさは今までに聞いた中でも最悪でした。

 私は、少年の一人が、まるでサッカーゲームのことでも話しているような調子で身の毛のよだつような恐ろしい出来事を話すのを聞いて、吐いてしまいそうになりました。

「一人の母親が捕まえられたんだ。彼らは次々にレイプをした。その女は、どうぞ子どもたちを向こうにやって下さいと必死で頼んだ。でも、彼らは、その夫と3人の小さい子どもののどもとに大鉈を突きつけて、8人から9人がレイプするあいだ、彼らに見させたんだと。それで、終わった時に全部殺したんだ」

 子どもたちは、より苦しんで死ぬように、足を叩き切った後、生きたままその場に放置され、赤ん坊は、岩にうちつけられ、エイズにかかっている兵士は、病気がうつるように10代の少女をレイプするように命令されたのでした。


 この件(くだり)を読んだ時、私は「フツ族は全員死刑にすべきだ」と思わざるを得なかった。誤った歴史を吹聴され、誤った教育を受け、誤った情報に踊らされた民族は、これほど酷(むご)いことができるのだ。フツ族は隣人のツチ族を笑いながら大鉈で切り刻んだ。


 フツ族の中には、親しいツチ族を匿(かくま)う者もいることはいた。だが、その実態はこうだった――


 僕は、彼を藪に隠れながら引きずって、誰も僕たちを知らない場所の病院に運んだ。そうして、ローレンが僕たちをフランス軍が来るまでかくまってくれたんだ。

 それは恐ろしいことだった。彼は我々をかくまって命を助けてくれた。でも、僕たちは生きていることが苦痛だった。ローレンは、毎朝、我々を起こしてお早うって言うんだ。それから出かける。何時間もツチ狩りをするためにね。僕の家族を殺した奴らと一緒にだ。

 彼が夕方返ってきて夕食を作る時、洗い落とせなかった血が飛び散った跡が、手にも服にもついているのが見えるんだ。僕たちの命は、彼の手の中にあったから、何も言えなかったけれど。どうして、そんなことが同時に出来るのか、僕にはわからないよ」


 こうなると、ツチ族を殺すことはスポーツであり、遊興と変わりがなかったことだろう。人間がここまで残酷になれる事実が恐ろしい。いかなる理由であろうとも、それが正当化されてしまうと、人は人を躊躇(ためら)うことなく殺せるのだ。


 イマキュレーは、無事保護された後、トイレで学んだ英語を武器に国連職員となった。彼女が発する「許す」という言葉には、私の想像も及ばぬ呻吟(しんぎん)が込められているのだろう。だが、私のマチズモが彼女への共感を拒否しているのも確かだ。


 それでも人は生きてゆかねばならない――これほど厳しい現実があるだろうか?

生かされて。 生かされて。 (PHP文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

所英男 vs 金子賢


 このカードは知らなかった。俳優というネームバリューだけが利用された茶番劇に過ぎない。

2008-07-26

セミール・ゼキ、マーカス・バッキンガム&カート・コフマン、ラビ・バトラ、三井誠、山村修


 以下、読書中――


脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』セミール・ゼキ――脳神経科学から美術を読み解く試み。文章はさほど面白くないが、引用されている言葉はいずれも興味深い。カラー写真を配しているため、紙質がよく、そのために値段が高くなっているのだろう。


まず、ルールを破れ すぐれたマネジャーはここが違う』マーカス・バッキンガム、カート・コフマン――ギャラップ社が8万人のマネジャーと100万人の従業員から行った聞き取り調査を元に「マネジャー論」を展開。実に優れた視点からデータを料理している。ビジネス書というよりは、組織論といった方がピタッと来る。


2010年資本主義大爆裂! 緊急! 近未来10の予測』ラビ・バトラ――瞑想から得たご託宣に興味はないが、経済理論はしっかりと押さえている。それも当然。著者は経済学者である。直観で読み解くアメリカ経済といったところだ。紙質が悪いため、トンデモ本っぽくなっている。だが内容は、その辺に転がっている経済書よりも鋭い。


人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠――真面目な人柄が文章にそのまま表れている。もう少し面白くってもいいんじゃない? 人類の進化700万年を概観する内容。


〈狐〉が選んだ入門書山村修――〈〉こと山村修が厳選した入門書の数々。私が読んだものは何一つ出てこないが、それでも山村修の文章は「読む至福」といえる。急逝が惜しまれる。深代惇郎藤原伊織にしてもそうだが、極め付きの名文を認(したた)める人物は、早世が運命づけられているのだろうか。

笑い飛ばす知性/『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ


 既に10冊ほど読み終えているのだが、如何せん書評にする作業が進まない。その間にも記憶は蜘蛛の糸のように細く、はかなく揺らめいている。あっ、今何本かが消えた(笑)。


 インチキイタリア人と思われるパオロ・マッツァリーノである。インチキというのは「なりすまし」の意。名前からしてこうなんだから、内容は推して知るべし。ブラックジョークを基調にしながらも、「知力」というスパイスを効かせている。常識のデタラメを突く槍の切っ先は鋭い。しかし、傷口から流れ出るのは、血ではなく笑いである。全くもってお見事。中学あたりの教科書に採用して、「笑い飛ばす知性」を身につけさせるべきだと思う。


 昭和50年代の後半には校内暴力の増加が社会問題としてクローズアップされていました。横浜銀蝿が人気を博し、ツッパリがブームになったのも、この頃でした。それまでは、教師が生徒を殴るのが普通だったのが、ここから立場が逆転し始めたのです。

 青少年の反抗がブームや流行というのもおかしな話ですが、60年代の学生運動だって、大部分の若者にとっては一時の熱に浮かされたブームだったのです。その証拠に、学生運動家もツッパリもほとんどが、ブームの終焉とともに平凡なサラリーマンになっているのです。

 不思議なことに、こういった、ファッションで反抗を試みていた人たちというのは、就職すると見事なまでに体制に順応します。企業が社員に課す、人権侵害も甚だしい研修、軍隊式特訓、カルト宗教もどきの苦行を、嬉々としてやるのですから。


 全学連共闘世代も、卒業すると大手企業に就職した。日本で思想を堅持するのは、かようなほど難しい。ひょっとすると、転向が好きな民族なのかも知れない。


 いまから2000年前ちょっとのこと、ベツレヘムの地に男の子が生まれました。彼は29歳まで両親の家に住み、たまに父親の大工仕事を手伝うくらいで、ぶらぶらしていました。30歳でようやく家を出て本格的な布教活動に精を出しますが、わずか2年ほどで、生涯独身のまま死刑にされてしまいました。

 このように成人後も親と同居する独身者を、近年の日本では「パラサイトシングル」と呼んでいます。ですからイエス・キリストは世界初――かどうかはともかく、世界一有名なパラサイトシングルであることは確かです。なにしろ全世界で20億人の信者から愛されているのですから。

 布教活動で有名になったものの、故郷ではイエスの評判は芳しくなかったと伝わっていますが、それはたぶん、故郷の人たちは彼がパラサイトシングルでフリーターだったことを知っていたからでしょう。


 イエスがフリーターだとは知らなかったよ。この件(くだり)は、フリーターなんぞは昔から存在したことを証明した箇所。この後、文明開化した明治期、米国では既に奴隷が解放されており、これをモデルにした日本が「勤勉さが美徳」であることを国民に叩き込み、富国強兵政策が国民から財産を収奪したことが指摘されている。


 パオロ・マッツァリーノの言葉に対する感覚の鋭さも見逃せない。


「いいかげん」が否定的に使われるようになったのは明治以降、「適当」が否定的な意味を持ったのは戦後になってからです。


 昨今、問題になっている派遣労働者の社会的地位の低さをヨーロッパと比較して炙(あぶ)り出している。


 フランスには、いわゆる日本式のアルバイト・パートという労働形態そのものがありません。JETRO(日本貿易振興会)パリセンターのレポートです。


 仏で「パートタイム労働」と言った場合、純粋に契約労働時間が他の社員より短いというだけの意味で、原則として「正社員(CDI)」は「期間限定社員(CDO)」である……したがって、仏ではマクドナルドにいる労働者もスーパーのレジ打ちも全て正社員なのである……たとえ1日の契約であっても社会保障・労働保険加入は必須であり、社会保障に入らない雇用(すなわち「闇労働」ということになるが)など考えられない。


 日本だって本当は、週五日フルに働いているフリーターやパートなら、社会保険や雇用保険に加入できるはずなんです。加入の基準があいまいなので、ほとんどの会社がしらばっくれているだけです。


 年金問題についても卓見が示されている。


(1億円以上の資産を持っている人に年金は支払わないという著者の私案に対して)また、こういう反論もあるはずです。「真面目に働いて老後の資金を貯めておいた者が年金をもらえず、老後の資金も貯めてないような遊び人がもらえるのは不公平じゃないか」。これは二通りの意味で間違っています。

 まずひとつには、真面目に努力をしたからといって、成功するとはかぎらないということです。中根千枝さんがかの有名な『タテ社会の人間関係』で書いているように、日本には、人の能力は平等で、努力によって結果が決まるという考えが根強く残っています。だから、貧乏なのは努力が足らないからだ、なんて暴論・結果論がまかり通ってしまうのです。

 現実には、どんなに真面目に努力しても、自力で老後の資金を1億円も貯められない人がほとんどであり、だからこそ救済措置として年金制度があるのです。65歳時点で1億円の資産を持っている人は、人生の勝ち組です。勝ち組になった人には、社会に貢献・奉仕する義務があるんです。会社案内のパンフレットに「当社は広く社会に貢献し……」なんて企業理念を書いておきながら、自分だけは勝ち逃げしようなんてのは許されませんよ、社長さん。

 もう一つの理由。現在日本が不景気なのは、個人消費が冷え込んでいるせいだと前回いいました。遊び暮らしていた人は、積極的な消費活動を行って日本経済を破綻から救っていたのです。もちろん、年金保険料だけはきちんと納めることが絶対条件ですが、それ以外の収入はすべて使いきって65歳時点でスッカラカンになっている人にこそ、その功績をたたえて年金をあげるべきなのです


 近頃はメディアでも、「虐げられた側からの感情論」が目立っているが、経済の基本を押さえた上で、所得の再分配を促している。


 まだ、笑いながらこの本を読めるうちは恵まれた状況といえる。例えば数年後、あるいは数ヶ月後に「笑えない状況」が訪れたとしよう。ストレスまみれとなった一部の国民はあっさりと犯罪に手を染め、テロ行為に及ぶかも知れない。その時、真っ先に犠牲になるのは、社会保険庁の職員や、派遣労働者から利益を搾り取る資本家であろう。メディア関係者も危険でしょーな。政治家もお気をつけあそばせ。


 そうならないためにも、この本から学んでおくことは多い。笑っているだけじゃダメだよ(笑)。

反社会学講座反社会学講座 (ちくま文庫 ま 33-1)

(※左が単行本、右が文庫本)

2008-07-25

「ジェシーズ・ガール」リック・スプリングフィールド


 1981年のヒット曲である。私が高校3年の時だ。もちろんレコードを持っている。何と昨年にCDが復刻されていた。日本人から見るとバタ臭い二枚目。キャッチーなボーカルと、ロックの王道っぽいギターがたまらん。声の質としては、GLAYのTERUに似ている。アルバムに収められている全ての曲が2分ほどとなっており、完成度の高さを示していると思う。買った時は損したような気になったものが(笑)。1980年代初頭はオーストラリア勢の健闘が光っていた。エア・サプライとかね。先鞭をつけたのは、やはりオリビア・ニュートンジョンか。このアルバムは、ポップ・ロックの姿勢としては非常にスタンダードなもので、「真面目な青春」といった趣がある。

ジェシーズ・ガール(紙ジャケット仕様)

2008-07-24

眼の前で起こった虐殺/『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

 ルワンダものを読むのは初めてのこと。私の知識は『ホテル・ルワンダ』で得たものしかなかった。『ホテル・ルワンダ』は国連平和維持軍に守られているエリアからの視点であった。一方、レヴェリアン・ルラングァは塀の外の大虐殺を目の前で目撃した。だが、目撃しただけではない。体験させられたのだ。2分とかからぬ間に43人の身内を殺され、彼自身も身体をマチューテ(大鉈)で切り刻まれ、左手を切り落とされ、虐殺を目撃した左眼をえぐり取られた。これが、15歳の少年の身に振りかかった現実であった。


 ジェノサイド(大量虐殺)といえば、ヒトラーによる600万人のユダヤ人殺戮が代名詞となっているが、ルワンダで起こったこととは決定的な違いがある。ルワンダでは、近隣の友人や知人が大鉈を振り回し、赤ん坊を壁に叩きつけたのだ。何と100日間という短期間の間に、100万人のツチ族が殺された。1日1万人、1時間で417人、1分間で7人……。ルワンダの大地は文字通り血まみれになったことだろう。


 錠が飛んだ。扉が半開きになる。小さな弟たちや従兄弟たちが泣き、従姉妹たちが悲鳴を上げる。最初に扉の隙間から顔をのぞかせた男は、私の知っている男だった。シモン・シボマナという、繁華街でキャバレーを経営している無口な男。(中略)

 シボマナは怒鳴った。

「伏せろ、さあ、早く。地面に伏せるんだ!」

 ふと側にいる伯父ジャンの存在に気が付く。伯父は少しだけ左向きに身体を起こし、頭をのけぞらせて彼を見つめている。シボナマは素早い動作で伯父の首を切り落とす。ホースから水が噴き出すように、血しぶきが笛の音のような音を立てて鉄板屋根までほとばしった。

 伯父ががっくりとくずおれた時、一人の子供がとりわけ大きな叫び声を上げた。9歳になる伯父の末子ジャン・ボスコだ。シボマナはマチューテの一撃で子供を黙らせる。キャベツを割るような音と共に、子供の頭蓋骨が割れる。続いて彼は4歳のイグナス・ンセンギマナを襲い、何故だか分からないがマチューテで切り付けた後で死体を外に放り投げた。(中略)

 血が血を呼ぶ。荒れ狂う暴力。シボマナは地面に横になっている祖母を踏んだ。暗くてよく見えなかったのだが、彼が祖母を殺そうとすると、祖母は断固とした口調で言った。

「せめてお祈りだけでもさせておくれ」

「そんなことしても無駄だ! 神様もお前を見捨てたんだ!」

 そして祖母を一蹴りしてから切り裂いた。

 私はその時何も感じていなかった。恐怖、恐怖、恐怖しかなかった。恐怖にとらわれて私の感覚は麻痺し、身動きすることさえできなかった。クモの毒が急に体温を奪うように。心臓がどきどきし、汗が至るところから噴き出す。冷え切った汗。

 シボマナは切って切って切りまくった。他の男たちも同じだ。規則的なリズムで、確かな手つきで。マチューテが振り上げられ、襲いかかり、振り上げられ、振り下ろされる。よく油を差した機械のようだった。農夫の作業みたいに、連接棒の動きのように規則的なのだ。そしていつも、野菜を切るような湿った音がした。


【『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ/山田美明訳(晋遊舎、2006年)】


 シボマナが大笑いして、私に近付いてきた。

「おやおや、そこで外に鼻を突き出しているのは、ツチの家族の長男じゃないか!」

 そう言うと非常に機敏な動作で、私の顔から鼻を削いだ。

 別の男が鋲(びょう)のついた棍棒で殴りかかってくる。頭をそれた棍棒が私の肩を砕き、私は地面に倒れ伏した。シボマナはマチューテを取替え、私たちが普段バナナの葉を落とすのに使っている、鉤竿(かぎざお)のような形をした刃物をつかんだ。そして再び私の顔めがけて襲いかかり、曲がった刃物で私の左目をえぐり出した。そしてもう一度頭に。別の男がうなじ目掛けて切りかかる。彼らは私を取り囲み、代わる代わる襲ってきた。槍が、胸やももの付け根の辺りを貫く。彼らの顔が私の上で揺れている。大きなアカシアの枝がぐるぐる回る。私は無の中へ沈んでいった……。


 元々、ツチ族とフツ族は遊牧民族と農耕民族の違いしかなかった。そこに勝手な線引きをしたのは植民地宗主国のベルギーだった。1994年の大虐殺もイギリスとフランスがそれぞれの部族にテコ入れしている。挙げ句の果てにはアメリカ(クリントン大統領)が、ルワンダ救援を阻止した。シエラレオネと全く同じ構図で、アメリカ人にとっては、アフリカで行われている殺し合いなど、昆虫の世界と変わりがないのだろう。


 ラジオでは毎日、「ツチ族を殺せ! ゴキブリどもを殺せ!」とディスクジョッキーが扇動する。フツ族の子供はラジオ番組に電話をし、「僕は8歳になったんですが、ツチ族を殺してもいいんですか?」と質問をした。実際にあったエピソードである。そして、フツ族の少女は笑いながら略奪に加わった。

 果たして何が人間をここまで変えるのか? 善悪という概念は木っ端微塵となって、フツ族はあたかも狩りやスポーツを楽しむように、ツチ族の身体を切り刻む。しかも、フツ族はただ殺すだけでは飽き足らず、ツチ族が苦しむように一撃では殺さなかった。幼い子供達は足を切断して放置された。


 人は物語に生きる動物である。物語は情報によって変わる。嘘やデマと、誤信・迷信がマッチした瞬間から、憎悪の焔(ほのお)が燃え始める。結局、白人がでっち上げた歴史を鵜呑みにしたフツ族が、殺戮に駆り立てられた側面が強かったと思わざるを得ない。


 本書の後半からレヴェリアン・ルラングァの葛藤が描かれる。深い自省は静かな怒りとなって青白く燃え上がり、神に鉄槌を下す。その烈しさは、ニーチェをも圧倒している。


 母は最期まであなたのことを信じていました。それはよくご存知でしょう。母がいくら祈っても、私がお願いしても、全能の神であるはずのあなたは指一本たりとも動かすことなく、母を守ろうとしませんでした。私はその乳とあなたの言葉で育ててくれた母は、喉の渇きに苦しみながら死んでいきましたが、あなたは自分のしもべの苦痛さえ和らげようとせず、干からびた母の唇に清水の一滴も注ごうとはしませんでした。その唇は最後の最後まであなたの名を唱え、あなたを褒め称えていたというのに。


 伯父ジャンの喉元から血がほとばしり出た瞬間、私の信仰も抜け出ていきました。

 祖母ニィラファリのお腹から生命が逃げ去った瞬間、私の信仰も逃げていきました。

 叔父エマニュエルが串刺しにされた瞬間、私の信仰も串刺しにされました。

 殺戮の場と化した教会の壁にあの子供たちが打ち付けられて、その頭蓋骨が砕かれた姿を見た瞬間、私の信仰も砕かれました。

 私が愛した人々の命が燃え尽きた瞬間、私の信仰は燃え尽きました。

 鋲つきの棍棒で肩を粉々に砕かれた瞬間、私の信仰も粉々に飛び散りました。


 あなたには、無垢な人々を救う手さえないのですか?

 自分の子供の不幸も見えないほど目が悪いのですか?

 彼らの叫び声も、助けを求める声も、悲嘆の声も聞こえないほど耳が悪いのですか?

 彼らをずたずたに切り裂こうと襲ってくる汚らしいやつらを踏み潰す足さえないのですか?

 涙を流す人々と共に、涙を流す心さえ持っていないのですか?

 か弱き者や小さき者を守るはずなのに、ゴキブリたちさえ守ることができないほど無力なのですか?

 つまりあなたは、闇の中にいて盲目の眼差しで私を見つめるだけの無力な神なのですね?

 しかしそんなことはどうでもいいのです。私の心の中では、あなたはもう死んでいるのですから。


 テレビを消して、この本と向き合おう。我々がメディア情報に振り回されている内は、いつでもフツ族になる可能性があるからだ。善と悪との間に一線を画すためには、「嘘を見抜き、嘘を否定する」ことである。

ルワンダ大虐殺 〜世界で一番悲しい光景を見た青年の手記〜

2008-07-23

2008-07-22

「まぶしい草野球」松任谷由実


『SURF&SNOW』で一番好きな曲。ポッキーのテレビCMに起用されたと記憶している。

SURF&SNOW

2008-07-21

エリ・ヴィーゼル、石川九楊、東山紘久


 3冊中断。


エリ・ヴィーゼル――「夜」のみ読了。思うところあって中断。別のナチスものを読む予定。『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』に引用されていたことがきっかけで読んだが、どうもリアリティに乏しい。そもそも、絞首刑になった少年が30分も生きているなんてことがあり得るのだろうか。


漢字がつくった東アジア石川九楊――これは腰を下ろして読む必要がある。多忙なため、後日再読する予定。


プロカウンセラーの聞く技術』東山紘久――3分の2まで読んだが中断。著者の性格が、私と合わない。ほんの少しなんだが、必ず余計なことを書くクセがある。そこに猛烈な違和感を覚える。こなれた文章も鼻につく。カール・ロジャースの系譜に連なっているようだが、大体ロジャースの来談者中心療法って、仏教の本覚思想みたいなところがあるんだよね。

2008-07-20

品川裕香


 1冊読了。


心からのごめんなさいへ 一人ひとりの個性に合わせた教育を導入した少年院の挑戦品川裕香――タイトルと表紙で随分損をしていると思う。『発達障害を克服した宇治少年院』の方がまだいい。知人から薦められて読んだが、力のこもった作品である。少年院に収監される子供達の多くは、明らかに発達障害が見受けられた。当然、LD(学習障害)、ADHD注意欠陥・多動性障害)、アスペルガー症候群の子供も含まれる。劣悪な環境で育ってきた子供達は、他人の痛みはおろか、自分の将来すら考えることができなかった。そのまま放置されていれば、間違いなく『累犯障害者』や『レッサーパンダ帽男』と同じ運命を辿ったことだろう。ところが、宇治少年院に一人の男が赴任することでガラリと変わる。向井義その人である。向井が発達障害に応じた教育法を取り入れたことで、見る見る子供達は変わっていった。30代の向井は真剣だった。向井が一人ひとりと面接をしただけで子供達は激変した。親に見捨てられ、教師に罵られた子供達が、初めて信頼できる大人と巡り会ったのだ。巻末では山下京子さんのコメントが紹介されており、見事な締め括り方となっている。

2008-07-19

梅崎義人、羽生善治、三好春樹


 3冊読了。


動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い梅崎義人――これは必読テキスト。梅崎氏を知らなかった自分が恥ずかしい。なぜ、日本の捕鯨が世界から糾弾されているのか、に始まり、環境問題がアメリカ東部エスタブリッシュメントによって作り上げられた運動だと書かれている。その目的は、有色人種国家の人口と経済をゼロ成長にすることだ。環境問題を世界に意識させたのはローマクラブが発表したレポート『成長の限界』(1972年)だが、スポンサーはロックフェラー一族である。動物保護運動の攻撃は常に有色人種国家に向けられていて、同じ行為をしていたとしてもアングロ・サクソン国家を糾弾することは絶対にない。世界がどのような力学で動いているかが、実によく理解できる。


決断力』羽生善治――読みやすい文章に驚く。思考の明晰さのなせる業か。水のように澄み切った性質が窺える。覇者のイメージあるも、温厚で謙虚。


老人介護 常識の誤り三好春樹――この人の文章は心地いい。時々吹き出してしまうほど面白い箇所がある。現場の知恵が医療を笑い飛ばし、地に足のついた介護論を提唱。結局は、「介護される人」から学ぶ他ないのだろう。じめっとしたところがなく、明るい姿勢が好ましい。

2008-07-17

上野正彦、手嶋龍一&佐藤優、プリーモ・レーヴィ


 2冊読了。1冊中断。


自殺死体の叫び』上野正彦――引きこもり系の仕事と見えて、時々おかしな言葉づかいをしている。


インテリジェンス 武器なき戦争』手嶋龍一、佐藤優――手嶋龍一が佐藤優のことを終始、「ラスプーチン」と呼んでいるのが気になった。何らかの劣等感、あるいは対抗意識の現われだと思われる。


溺れるものと救われるものプリーモ・レーヴィ――レーヴィの遺作。タイトルは『溺れるものと巣食われるもの』にすべきだ。126ページまで読み進んだが、これ以上は私の精神が耐えられない。行間というよりは、文字と文字の間にまで死の臭いが立ち込めている。徹底した自省が、粘着質なまでに自分自身を責め立てている。アウシュヴィッツから生還したレーヴィは、1987年4月11日、巨大な闇を胸に抱えたまま自宅のアパートから飛び降りて死んだ。「そりゃあ、死ぬだろうよ」と思わせる内容。死の覚悟ができたら、再読したい。

『テレビ標本箱』小田嶋隆


 小田嶋隆ナンシー関の衣鉢を継ぐことを試みた作品。残念ながら私はナンシー作品を一冊も読んでない。それにしても、小田嶋隆の目のつけどころと、説明能力の高さには、いつもながら驚かされる。オタクの視線が社会と時代に向けられると、諸問題をカミソリのような鋭さで切り刻んで見せてくれる。オダジマンの作品を読んでいる間、私は自分が天才になったような気分を味わう。


 タイトルからもわかる通り、テレビ番組・テレビ業界、そしてテレビに巣食う人々を切り取って、虫ピンで留められている。もちろん、虫ピンは急所に刺されている。それでも死なないのがテレビの恐ろしさだ(笑)。


 虫ピンは寸鉄の趣があり、メディアリテラシーの教科書といってよいだろう。情報というものは、必ず発信者側の意図によって選別され、脚色が加えられる。だからこそ、テレビ情報は疑ってかかる必要があるのだ。


 具体的に言うと、この5年のあいだに、テレビの世界では、ドラマが衰弱し、スポーツ中継が弱体化し、落語が駆逐され、芸能ジャーナリズムが死滅し、その一方で、オカルトが息を吹き返し、業界コネが幅をきかせ、番宣がはびこるようになり、現場では、いじめとやらせとパクリが横行するバラエティーの地獄が現出するようになっていた。

 つまり、テレビは社会を切り取る枠組みであることをやめて、もっと下世話な場所に向かって開かれたのぞき窓の如きものに変貌しつつあったわけで、それに合わせて私の書くコラムも徐々に下品な……というのは、わかっている。言い訳に過ぎない。


 ということは、テレビのイエロージャーナリズム化といってもよいだろう。大衆の下司(げす)な感情を刺激する情報をテレビ界は求めている。最近の話題であれば、「居酒屋タクシー」なんかがその典型だ。道義的に認められるべきものではないが、日本には古来から「贈与の文化」があるのだから目くじらを立てるほどの問題ではない。タクシー側にすれば、単なる謝礼に過ぎなかったことだろう。


 昼のメロドラマを見てごらんよ。もうね、『極道の妻(おんな)たち』と変わりがないから。日常生活には存在しない愛憎劇を堪能することで、主婦達は生活にスパイスを振りまいているんだよ、きっと。


「ファイナルアンサー?」と、みのが迫る……カメラがぐぐっと寄る。約3秒間のアップ。画面いっぱいの、みの。驚異的な顔面圧力。窒息的な引っ張り。凄い。……現代の悪代官みたいだ。

 水道メーターの談合でも、この顔を使ったんだろうか? 最終入札価格を調整する時、みのは、「ファイナルプライス?」と、言ったのだろうか。

 ……毎日、テレビをつけると、必ず、みのもんたが出ている。たぶん私は、親戚縁者の誰よりも頻繁にみのと会っている。いや、家族の誰よりも、かもしれない。

 いやだなあ。

 で、結局、私の書斎は、みの常駐型のテレビのおかげで、嫌いな上司が巡回しているオフィスみたいな感じの、容易にくつろげない空間になっているわけだが、どうだろう、ソニーあたりが、みの強制削除機能付きのテレビを開発したら、オレは買うぞ。10万までは出す。みの排除機能が付くなら、さらに5万円出す。どうだ?

「みの強制削除機能付きのテレビ」には私も一票を投じたい。あんな悪党面(づら)が、これほど長時間にわたってブラウン管を占拠することに耐えられない。みのもんたが振りかざす正義は、新橋あたりの呑み屋でくだを巻くサラリーマンレベルの代物であろう。それでも状況は、我々「反みの党」に不利だ。政治家ですら、みのもんたを無視できない状況が既に存在している。タレントは所詮、温泉芸者みたいなものである。金次第で何でも踊ってみせるのが仕事のタレントが、ジャーナリストみたいな真似をし始めたら要注意だ。彼等は必ず、金を出す人間の言いなりになっているからだ。


 彼らは二言めには「オウム」という単語を繰り返した。

「オウムの例もありますから」という、この12文字が、あらゆる過剰な取材と失礼な報道を免罪する魔法の呪文だというみたいに。

 昔はこうではなかった。町外れにちょっと様子のおかしな人々がたむろしていても、住宅街の一角に奇天烈な風体の一団が蟄居していても、それだけではニュースにはならなかった。

 流れが変わったのは、オウム以来だ。

 思えばオウム事件は、メディア(および視聴者)の「不寛容」と「野放図」が、正式に免罪されたという意味で非常に意義深いエポックだった。言い方を変えるなら、オウム事件を通じて、リベラルという立場は急速に力を失ったのである。「あんたら気取り屋のリベラルが、人権だのなんだのと甘えたことを抜かしてるから連中にサリンを撒かれたんだぞ」というわけだ。

 なるほど、オウム事件のピークでは、別件逮捕や現場警官の裁量権の拡大を何よりも嫌っていたはずの人権派弁護士や市民派の論客が、異口同音に警察に対して強権の発動を促していた。ってことは、結局、リベラルという思想ないし立場は、気取りに過ぎなかったのだろうか。はっきりしているのは、白装束の一団が追い回されている理由が、危険だからでも違法性が顕著だからでもないということだ。彼らは単に「絵になる」から、カメラの餌食になっているのであり、「不気味で頓狂で予測不能でスリリングで、つまるところ、極めてテレビ向けの素材」だからこそ、連日報道されている。


「白装束の一団」とはパナウェーブ研究所のこと。あの時のメディアスクラムも酷いものだった。かような問題で私がいつも思い出すのは、雪印集団食中毒事件である。記者会見の時間延長を求める記者団に対して石川社長(当時)が「君ねえ、そんな事言ったってねぇ、私は寝てないんだ!」と発言。これに対して一人の記者が「こっちだって寝てないんですよ。そんなこと言ったら食中毒で苦しんでる人たちはどうなるんだ!」と猛反発した。確か、階段の踊り場での出来事だったと記憶している。この場面だけ何度も何度も繰り返して放映された。それ以降、報道陣の仕事には「失言を引き出す」ことが加えられたような気がする。冷静に読めば明らかに報道陣の発言はおかしい。お前が寝てないのは、お前の勝手だよ。よもや、雪印の社長に「寝るな」と言うつもりではあるまい。結局、マスコミの言いなりにならなければ、いつでも脅しを受ける状況が生まれて今日に至っている。


 総じて、公共の電波を使いながら、許認可事業の恩恵に浴しながら、テレビ業界の無責任ぶりは目を覆いたくなるほどの惨状を呈している。嘘・デマ・やらせは朝飯前。噂話の類いも平然と垂れ流し、誰かが叩き始めると、みんなで叩きまくる。まるで、一ヶ所しか出てこない「もぐら叩き」みたいだ。


 情報化時代にあっては、情報の取捨選択が最も大事な作業となる。手っ取り早い方法としては、テレビを消して、雪山堂(せっせんどう)の本を買って読むことである。ウン、間違いない。断言しておくよ(笑)。

テレビ標本箱 (中公新書ラクレ (231))

2008-07-15

残業が家族を崩壊させる


 今、読んでいる『自殺死体の叫び』(上野正彦著)に興味深い事件が記されていた。


 家族といえども、互いの信頼関係が崩れると、どうにもならないところまで転がり落ちていくことがある。きずなを保つには、相手に対する思いやりや配慮といったものが求められる。

 一家は、はたから見れば裕福で幸せそうだった。夫は会社では支店長の要職にあり、妻と3人の子どもと仲よく暮らしていた。一家の悲劇は、中学生の長男が腎臓疾患で亡くなったことから始まった。

 妻は結婚前、一時的ではあるにせよ精神科に入院していたことがある。その後、治癒したということだが、長男の死によって強いショックを受け、精神状態が不安定になり、不眠症から睡眠剤を常用するようになった。

 夫は支店長の仕事が忙しいので帰宅も遅く、長男の死後、深く傷ついた妻の心を慰めてあげられるだけの心遣いも、また、家庭をかえりみる余裕もなかった。ただひたすら、仕事に追いまくられる毎日を送っていた。

 そんな夫に不満が募る一方の妻は、精神不安定の状態が増し、ついにはよからぬことまで考え始めた。なんの根拠もなしに、帰宅の遅い夫には、愛人がいるに違いないと疑いを持つようになったのである。

 ある夜、妻はこの疑念が高じて、会社から帰宅しようとする夫を尾行し、料亭での宴会で愛する夫が酌婦とふざけている現場を目撃した。彼女の心は大きく揺れ、帰宅後に弁解を始めた夫の話など聞き入れようとせず、これに夫が激怒するという形で口論を繰り返し、夫婦仲は急速に冷えていった。

 妻が突然家出したのは、それから数年後の春である。旅先で睡眠剤を多量に服用し、自殺をはかったが、幸いにして未遂に終わった。これを機に、夫婦の不仲問題は、子どもまで巻き込んでいった。

 当時、高校生の長女と中学生の次男の姉弟は、母をそこまで追い込んだのは父であると信じていた。父の不潔な女性関係に憤り、母親へ強い同情を寄せたのである。

 きちんと話し合えばすぐに解けるような誤解に思えたが、夫婦の会話はすぐに口論へと発展してしまうので、和合の糸口はつかめない。逆に、子どもたちの父親不信は募るばかりで、まさに絵に描いたような悪循環だった。

 ある秋の夜、精神的に追い込まれていた妻は、睡眠剤300錠を購入し、これを茶碗に入れて水に溶かし、服用した。長女と次男が学校からほぼ同じ時間に帰宅したときは、母は意識が朦朧としている状態だったという。それを見た姉弟は、後追い自殺の道を選ぼうとしたというから、ここに至るまでにある程度決意は固めていたのであろう。しかし、茶碗は空であり、薬も見つからなかったので、母親の手当てに走り、救急車を呼んだ。

 結局、母親は、意識不明のまま半日後に死亡した。姉弟は、母を自殺に追い込んだのは父であると信じて疑わず、機会があれば後追い自殺を行おうとする言動が見られた。これを問題と考えた父親は、休暇を取り、子どもたちにも学校を休ませ、父と子のつながりの修復に努めた。

 十日後、子どもたちは再び元気に登校し始めた。これが一家の再出発になると父親も安心して出勤したが、それから間もない、亡き妻の誕生日に大きな落とし穴が待っているとは予想だにしなかった。

 この日、いつもと変わりなく、親子は午後11時ごろに就寝した。ところが、ここに姉弟の計画が隠されており、かねてから母の誕生日に後追い自殺を決行するべく打ち合わせを重ねていた姉弟は、父のいびきが聞こえ出した頃に起き出したのである。それから、それぞれ睡眠剤300錠を茶碗に入れて水で溶かし、母親とまったく同じ方法で自殺を決行した。

 死に先立って、ふたりは両親に遺書を書いた。母に向けては、「誕生日にお母さんのもとにまいります。さびしがらずに待っていてください。私がお母さんのお世話をいたします」とあり、父親には「死んだ私たちふたりの体には、触れないでください。母を殺したのはお父さんです」と恨みの言葉を残した。

 どの時点でも主体的な行動の跡が見られない弟は、おそらく姉の言われるままに行動したのであろう。テーブルの上に茶碗と姉が書いたらしき遺書を残し、姉弟はそれぞれの布団に戻った。

 翌早朝、子どもたちが立てる異常ないびきに目を覚ました父は、その寝息が妻の自殺のときと同じであることに気づいた。すぐに救急車を呼び、病院に収容したが、弟はすでに間に合わなかった。昏睡状態だった姉のほうも、結局は覚めることなく、夕刻には亡くなった。姉弟による母を追っての心中である。


 不幸なタイミングが三つ重なった悲劇である。


 1.妻には精神病歴があった。

 2.夫は多忙だった。

 3.子供達は母親の言葉を鵜呑みにした。


 たったこれだけのことが複雑に交錯した時、家族は崩壊し、3人が自殺した。当然ではあるが、夫の会社に過失があったなどとは思えない。普通の会社で、普通に忙しかったのであろう。上野氏が1989年に退任していることから、バブル期以前の事件だったことは間違いないだろう。ただ、会社経営者には、このような事件があったことを頭の片隅に入れておいて欲しいと思う。


 著者はこの後で、「素朴な疑問として残るのは、父親には本当に愛人がいたのかという問題である」と書いているが、結局、想像する他ない。いたとすれば、妻の精神病歴は不問に付して構わないと思う。病気の長男を亡くしたことがきっかけになったとすれば、やはり被害妄想があったのではないか。


 夫の帰宅が遅かったことは、妻の精神をより不安定な方向へと加速させたことだろう。浮気を詰(なじ)られた夫が実際に口論をしたとすれば、これこそが最大の問題だろう。妻の病状を見抜けなかった夫が生んだ悲劇と言ってよい。


 更に、子供達が母親の言葉を信じた背景には、父親とのコミュニケーション不足が見て取れる。多少なりとも「お母さんはおかしい」と思いながらも、「それ以上にお父さんは信用できない」と判断したのではなかったか。


 時に、小さな不信感が人々を悲惨な死に追いやることがあるという点で、記憶されるべき事件だと思う。

自殺死体の叫び (角川文庫)

2008-07-13

『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二


 ベストセラーとなった『海馬 脳は疲れない』はチト物足りなかった。こっちは、池谷裕二氏の面目躍如といったところ。米国で日本人中高生に集中講義をした内容。私が読んできた脳ミソものでは、断トツの1位。『海馬』は一日で読めるが、『進化しすぎた脳』は少し時間をかけて読んだ方がいい。「面白い」だけで終わってしまってはもったいないからだ。


 ちょっと人間のケースで考えてみようか。交通事故で手を失ってしまった人が、義手をする。その人の体の一部は生身じゃない。その場合、その人はその人のままであり続けるか。もちろん「私は私」だよね。さらに足までが義足になったとしても、「私は私」。心臓が人工心臓に変わっても「私は私」だよね。

 そうやって、少しずつ体の部分を取り替えていったら、どこまで変えたら「私は私」じゃなくなると思う? たとえば顔を整形して見かけが別人になったら私じゃない? 心はもう自分ではなくなっちゃう?


 実に巧みな質問である。はっきり言ってズルい(笑)。やはり、「心」は「脳」にあるんだな。米国で起きたフィネアス・ゲイジの事故によって、脳の仕組みが少しずつわかり始めた。人格を司っているのが前頭葉であることが判明した瞬間だ。しかしながら、心の場所は明らかになったわけだが、いかなる作用が自分を自分たらしめているのかは難しい問題だ。


 生きたネズミをリモコンで動かす実験があるそうだ。あな恐ろし。


「右側のヒゲが触られたな」と思ったときに、ネズミが右側に動く。すると報酬系が刺激されるようなリモコンをつくっておく。逆に、「左側のヒゲに何かが触ったな」とネズミが感じて左側に動くと報酬系が刺激されて報酬が得られる。

 そうなると、ネズミは近くにもうどんなに美味しいご馳走があろうとも水があろうとも、全部無視。いまヒゲが感じた方向に移動することだけを実行する。その〈報酬〉の快楽を一回知ってしまったらもう逃れられない。

 どんなに傾斜が急で危ない階段であろうと、どんなに幅の狭い高架橋であろうと――ネズミはそういう場所が嫌いなんだけど――、歩かされてしまうんだ。


 きっと、「達成感」なんてえのあ、報酬系なんでしょうな。あと、「称賛」とかね。気持ちがよくなる物質が確かに出ていそうだよ。


 実験はここからもう一段進む。レバーを押すと水が出ることをネズミに学習させる。その際に脳の反応を電極で検出して、同じ反応が現れたら水が出るようにコンピュータを設定しておく。すると、ネズミは念力で水を出すようになる。「思った」だけで、水が出てくることを学習するというのだ。電極だらけの人間が出てきたら、どうしよう。出産直後にやられたらアウトだな。


 ということは、ここで心に留めてほしいんだけど、さっきみんなに示した「脳の地図」は、じつはかなりの部分で後天的なものだってことだね。言ってみれば、脳の地図は脳が決めているのではなくて身体が決めている、というわけだ。


 脳が身体を支配していると思いきや、身体によって脳の地図が描かれる。本書では「脳神経のフィードバック」についても書かれているが、脳と身体においてもフィードバックが働いている。ムム、凄い。科学における「悟り」の領域だな。行きつ戻りつするのが脳と身体の現実であるとするならば、悩んだり、煩悶したり、躊躇したり、戸惑ったりすることこそ、最も人間らしい姿なのかも知れない。


 言ってることわかるかな? 順番が逆だということ。世界があって、それを見るために目を発達させたんじゃなくて、目ができたから世界が世界としてはじめて意味を持った。


 これまた、「悟り」(笑)。しかも、V・S・ラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』によれば、目というのはさほど精密な情報を集めているわけではなく、脳が勝手に予想して多くを補っているという。更に、「それどころか眼は、実は脳の一部なのだ」(『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』リチャード・E・シトーウィック)。とするとだよ、脳が認識できる範囲=世界という構図になる。「♪二人のため〜 世界はあるの〜」と佐良直美は歌ったが、本当は「脳のため」だったんだな。


 という具合に、どこをとっても面白い。最新の脳科学の研究を紹介しながらも、中高生に教える内容はベーシックなもので発展させる余地が十分残されている。何と言っても極め付きは、池谷氏が中高生と対等の位置から語りかけていることである。これによって、中高生から鋭い質問を引き出している。池谷氏が、単なる知識ではなく、驚きや感動を共有しようとする姿勢が、本書をこの上なく好感の持てる内容にしていることを見逃してはならないだろう。

進化しすぎた脳 (ブル-バックス)

2008-07-12

『完全図解 新しい介護』大田仁史、三好春樹


 ヘルパー2級講座の値段が、現在9万円前後である。実践的な側面から言えば、本書の方がはるかに価値がある。少々値が張るものの家族に身体障害者がいる方は必読。


すわることの九つの効用


1.食べやすい

 寝たままの姿勢での食事は食べにくいばかりか、誤嚥による肺炎のもとになります。少し前かがみになった状態が、いちばん食べ物を食べやすい姿勢です。


2.床ずれが治る

 いったん床ずれができてしまうと、なかなか治りにくいものです。日に何回もの体位交換をするよりも、すわることのほうがより効果がありますし、予防になります。


3.排便しやすい

 直腸内の便を押し出す腹圧は、「寝ている姿勢」より「すわっている姿勢」のほうが、大きくかかります。重力も活用できるので、便秘も解消されます。


4.筋肉が強くなる

 私たちが「筋肉」とよぶ骨格筋は骨にくっついてからだを動かします。すわると背中や首の筋肉に重力がかかって、姿勢を保つように収縮するので筋肉が強くなります。


5.バランスがよくなる

「すわる、立つ、歩く」ために大切な、からだの前後バランス、左右バランスが向上します。寝ているとその感覚が鈍ってしまい、低下するばかりです。


6.表情がよくなる

 表情は顔面の表情筋が収縮することで現れます。すわると筋肉に重力がかかり、それに抵抗して目が開いて口が閉じ、しまった顔になります。


7.血圧調整がよくなる

 私たちのからだは、姿勢を変えるたびに全身の血圧を調整しています。寝てばかりいるとこの機能が低下し、すわっただけでめまいを起こしてしまいます。


8.肺活量が増える

 寝ていると肺が圧迫され、はたらきが悪くなります。すわることで、肺の入っている胸郭が拡張するので肺活量が増えます。


9.手足の拘縮を予防する

 すわって重力がかかると、脳卒中で上肢が固まっていくのとは逆の力がかかります。また下肢の関節がすべて曲がるので、ピンと伸びる方向に固まるのを防いでくれます。


「寝たきり」の9割はすわれる


「寝たきり」は、ただ寝たきりにさせている「寝かせきり」だといわれます。ある特別養護老人ホームでは、ほぼ半数が「寝たきり」だと思われていましたが、原因は「寝かせきり」であることが実証されました。ほぼ90%以上の人が、すわって生活できるようになったのです。昼間はすわって皆といっしょに食堂で食事をし、グループ活動で他の人とふれあうようになりました。昼間を活動的に過ごすと食欲もわき、夜間もよく眠れるようになりました。


完全図解 新しい介護

2008-07-07

「最後の授業」ランディ・パウシュ


 友人のブログで知った。私よりも3歳年上の方である。以下、Amazonより――


全米600万人が涙した、ある大学教授の「最後の授業」


 今日の次には明日が来て、その先にも新しい日が待っている。そうやって、当たり前のように人生は続いていく。しかし、これから先もずっと続くと思っていたその人生に「終わりの時」があると知ったとき、あなたは何を考えるだろうか――。


 2007年9月18日、ペンシルベニア州ピッツバーグにあるカーネギーメロン大学の講堂で、一人の教授が「最後の授業」を行った。

 教授の名前はランディ・パウシュ。46歳。最後の授業をするにはまだ若すぎるパウシュだが、彼にはこのとき、長年親しんだ大学に別れを告げざるをえない事情があった。膵臓から肝臓へと転移したガン細胞。医師から告げられた命の刻限は――「あと3ヶ月から半年」。

 こうしてパウシュの最後の授業は始まった。スクリーンに映し出された演題は『子供のころからの夢を本当に実現するために』。それは、「最後の授業」であると同時に、幼い3人のわが子に遺すためのメッセージだった。


 パウシュが幼いころに抱いた夢は、たくさんある。無重力を体験する。NFLの選手になる。ディズニーのイマジニアになる……。そのほとんどは実現し、いくつかは失敗のうちにも自分を成長させる糧となった。パウシュは言う。

「夢を叶える道のりに障害が立ちはだかったとき、僕はいつも自分にこう言い聞かせてきた。レンガの壁は、僕の行く手を阻むためにあるんじゃない。その壁の向こうにある何かを自分がどれほど真剣に望んでいるか、証明するチャンスを与えているんだ」。


 両親の教え、家族の愛、同僚たちの支え。そうやって、人は人と関わりながら生きていく。自分の夢を叶え、周りの人が夢を叶える手助けをすることで、明日を生きるエネルギーを手に入れる。

 人生の幕切れがそう遠くないと知りながらも、パウシュは自分を「本当に幸せ者だ」と言う。最後の授業は、自分の人生をこんなにも素晴らしいものにしてくれた人々への感謝であふれていた。


 講義を終えたパウシュを迎えたのは、講堂を埋めつくした聴衆のスタンディングオベーションだった。全米中のメディアがこの授業について報じ、2500万人以上がテレビ番組でパウシュの姿を目にした。インターネット配信された講義の模様は、600万ものアクセス数を獲得した。


 この本は、パウシュの最後の授業の記録であり、「つづき」でもある。講義を行うにいたった経緯、講義では語られなかった家族への想いなど、新たに書き下ろされた部分も多い。

 読む者の心に残るのは、「死ぬ」ということではなく、「生きる」ということについての、パウシュの力強いメッセージ。夢を実現することの大切さ、人生の喜びについて、ユーモアあふれる語り口で講堂を沸かせたパウシュの息づかいが、ページをめくるごとに伝わってくる。

 DVDには、日本語字幕のついた「最後の授業」が収録されており、笑いと涙で包み込まれた講堂のライブ感が味わえる。

最後の授業 ぼくの命があるうちに DVD付き版

2008-07-06

『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』末木文美士


 中国から日本へ仏教が輸入された頃から、江戸時代までを俯瞰した内容。平安時代・鎌倉時代に重点を置いている。


 寡聞にして知らなかったのだが、鎌倉仏教の殆どが密教の影響を受けている。また、天台大師の本覚思想を色濃く反映するなど、明らかな思想的変遷が窺える。


(西欧における中世から近世への思想の転換)

 第一に、神中心から人間中心の世界観へと転換した。このことはすでにルネサンスに顕著であるが、哲学の世界では、17世紀にデカルトが現れ、「我思う故に我あり」と主張して、根本原理を神から人間の世界へと引き下ろした。また、世俗からの超越に優位を置く価値観から世俗性に重点が移された。例えば、宗教改革においても修道院のキリスト教から世俗のキリスト教へという傾向が顕著にうかがわれる。

 第二に、神学的世界観から科学的世界観へと転換した。これも、世界を超越した原理をもとめる立場から、現実の世界のなかに原理を求める立場への転換という点で、第一点と深く関係する。

 第三に、価値観の多様化が指摘される。この点で大きな意味をもったのは宗教改革であり、唯一絶対であったキリスト教界が分裂し、それぞれ相手の立場をも認めざるをえなくなった。また、地理上の発見はただちに西欧以外の非キリスト教価値観の承認には結びつかなかったが、やがて時代が下るとともに、キリスト教以外にも優れた宗教・思想があることが知られ、キリスト教の絶対性が崩れることになった。さらにまた、科学的世界観の普及は無神論、無宗教の立場をも生み出すことになった。


【『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』末木文美士〈すえき・ふみひこ〉(新潮社、1992年/新潮文庫、1996年)】

 西欧が抱えるジレンマと比較すれば、絶対的創造神の存在を認めない仏教は哲学的であり、形而上学的であるため、昇華しやすい。


 それにしても驚かされるのは、仏教が政治と深くコミットしてきた歴史である。教義の変貌に政治的背景が深く関わっていることも多い。善意で解釈すれば、プラグマティズムに近い。


 教義における「絶対性」は、必ず何かを排撃する。教団という差異を超えて、よりヒューマニズムに溢れた「緩やかな絶対性」が必要だ。例えば、「生命尊厳」という思想に反対する人は少ないだろう。動物や植物の生命も等しく尊厳とする思想が広まれば、環境問題のブレーキにもなる。


 思想が生き物である以上、変化は避けられない。問題は、よりよい変化となっているかどうかである。古(いにしえ)の賢人が、広く世界に知識を求め、迫害に遭っても尚、節を枉(ま)げなかった生き方は、多くの示唆に富んでいる。

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

2008-07-05

『わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか』多田富雄


世界的な免疫学者もリハビリ難民


 多田富雄は抑制T細胞を発見した人物で、DNAによる支配に異を唱え、自己生成系としての超(スーパー)システムを唱える免疫学の世界的権威。その傍らで能の創作も行っており、病に倒れた後も続けている。


 多田は2001年に脳梗塞で右麻痺となった。現在も執筆活動をされているが、左手だけでキーボードを操作している。これも、リハビリによって勝ち取った身体機能だった。多田氏の怒りは静かな青白い焔のようだ。しかし、凄まじい高温を放ち、暗い社会に生きる我々の面を照らす。

 文章を書いて反論することが、一障害者の私にできる唯一の抵抗であった。本にまとめておきさえすれば、この医療史上の一大汚点は、実名とともに後世に残る。私にはそれを書き残す義務があると思った。


 非人間的な制度改定から一年あまりの間、私は命がけで新聞や雑誌に論文を書き続けた。その間、私の病状は、前立腺癌の再発によって、予断を許さぬ状況が続いた。でもこれだけは言っておかなければならないと、不自由な体に鞭打ってキーボードに向かった。私を駆り立てたのは、不幸にして障害を負ってしまった、社会の最弱者を狙い撃ちにしたような、冷たく執拗な厚労省の制度改悪だった。

 書いて行くうちに、これが単に私のような中途障害者の人権を守る運動ではない事に気づいた。リハビリ打ち切りは、小泉内閣が相次いで実施した、医療費削減のための冷酷な改革の一例に過ぎなかった。障害者自立支援法療養病棟の廃止といった、一連の非人間的な医療改革の矛盾が、ここに一挙にむき出しになった象徴的事件だったのだ。

 これを看過したら、社会の最弱者である、重い障害を背負ったものの人権は失われてしまう。これは、人命より経済を優先させた小泉内閣によって、推し進められた医療破壊のい象徴なのだ。これから起こるであろう、生命と人権を軽視した政策の前哨戦でもある。

 さらに、こんなことが堂々とまかり通る社会は、弱者を兵器で犠牲にする社会、戦争に突き進んでしまう社会に直結するという思いが、不自由な体をキーボードに向かわせた。人の10倍はかかる、左手一本の困難な執筆である。これだって、リハビリの訓練で可能になったぎりぎりの身体機能である。


 今、社会保障がズタズタになっている。犯人は小泉首相である。彼がやったことは、郵政民営化と銀行の不良債権解消、そしてセーフティネットの破壊だった。その小泉を待望する声がいまだに根強いというのだから、空いた口が塞がらない。無知にもほどがある。


 2006年4月8日、多田氏の寄稿が朝日新聞に掲載された。

 これに対して、原徳壽医療課長が反論を寄せた。噴飯物の内容に多田氏が再反論を提示した。しかし――


 私は朝日新聞に投稿された原徳壽医療課長の反論に対して、すぐさま再反論を投稿したが、今度は担当のデスクに掲載を拒否された。同じ主題で同一人物が、何度もこの欄に登場するのはまずい、という意見があったからという。前に仲介してくれた記者は、正義感あふれた人物であったが、この時点から朝日新聞は、厚労省寄りの提灯記事を掲載するようになった印象が拭えない。それから何度かインタビューを受けたが、そのたびに陰で厚労省の意図が働いているという印象は否めなかった。突然変節したのは、何らかの圧力が掛かったに相違ないと疑っている。


 我々の知らないところで、メディアは奇々怪々な力学で動いている。きっと現実世界では、ビリヤードの球が上から降ってくることもあるのだろう。一般市民が知らないだけの話だ。


 障害を背負った身体で多田氏は怒りを謳い上げる。


君は忿怒佛のように


 君は忿怒佛のように

 今こそ

 怒らねばならぬ

 怒れ 怒れ

 怒って 怒って 地上をのたうち回れ

 虐げられた難民

 苦しむ衆生のために


 君は

 血まみれの衣を

 ずたずたに引き裂き

 腰からぶら下げ

 仁王立ちになって睨む

 口からは四本の牙をむき出し

 血の混じった唾液の泡を吹きながら


 君は軍荼利夜叉明王(ぐんだりやしゃみょうおう)のように

 戦いの甲冑に身を固め

 火炎の光背に

 護るべきものを押し隠す


 あらゆる不正を暴く

 牛頭(ごず)明王の目を半眼に見開き

 君は身の丈六尺の

 九頭龍(くずりゅう)明王となって現われ

 弱者を救い上げ権力者を

 喰らい尽くす鬼となって


 背中に真紅の火炎を頂き

 不動の知恵の

 蛇の巻きついた利剣を垂直に立て

 怒りに右目を中空に見据え

 左目は血の涙を流す


 馬頭(めず)権現の耳には

 慈悲と愛をたたえながらも

 なおも君は忿怒佛として

 怒らねばならぬ

 怒れ 戦え 泣き叫べ


 時には阿修羅王のごとく

 赤子を貪り食い

 女を際限なく凌辱するが

 次の日には懺悔に

 地上をのた打ち回る

 また次の日は

 孔雀明王となって

 中空に布施をばら撒く


 君の名は

 何とでも呼べ

 悪鬼鬼神の類(たぐい)は

 いつでもこの世に現われるものだ

 血のような花弁を振りまきながら

 雪の夜を泣きながら彷徨う

 君は忿怒佛となって

 怒りに身を震わせよ


 盟友であった鶴見和子女史は「小泉に殺される」と何度も言いながら先に逝った。以下は鶴見さんが読んだ歌――


 政人(まつりごとびと)いざ事問わん老人(おいびと)われ生きぬく道のありやなしやと


 ねたきりの予兆なるかなベッドより

 おきあがることできずなりたり


 民主主義が「数の論理」であるならば、虐げられた少数者は無視される。「数の論理」は社会の平等性を破壊し、結果的に我が身を傷つける。「生きる権利」が何らかの力量や才覚に応じて配分が決まるならば、庶民や子供に「生きる権利」はなくなってしまうだろう。


 小泉政権は、憲法上の矛盾を抱えたままの自衛隊をイラクに派兵した。そして、国民が気づかないところで、弱者を切り捨てることを粛々と決めた。既に、介護も保険報酬が大幅にカットされている。介護難民が出るのは時間の問題だ。家族にのしかかるストレスが、社会を一段と歪めることは火を見るよりも明らかである。


 多田氏の「リハビリ闘争」は、リハビリに挑戦することではなくして、リハビリを奪う国政に異義を唱えるものとなってしまった。何という矛盾だろう。もはや、自民党+官僚にノーを突きつけるしか道は残されていない。


 尚、重複する内容が目立つが、本の値段が安いため気にする必要はあるまい。

わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか

2008-07-04

博士も知らないニッポンのウラ


 ゲストは苫米地英人氏。名前は知っていたが、これほどの天才だったとは。動画は2本あり、7月末日までの視聴は無料。

洗脳原論

2008-07-03

『ヒトデはクモよりなぜ強い 21世紀はリーダーなき組織が勝つ』オリ・ブラフマン、ロッド・A・ベックストローム


 狙いはいいのだが、構成が悪い。ピラミッド型組織の弱さと、分散型ネットワーク組織の強さを検証している。クモは頭を潰せば死んでしまうが、ヒトデには脳がないため、どこを切っても生きている。


「スー族には、ある程度、中央集権的な政治制度があった。征服者に対して短い期間、見事に抵抗したけれど、実際には10年もたなかった。ところがアパッチ族は、何百年も征服されることなく戦い続けた」。アパッチ族が生きのびたのは、「政治権力を分散して、なるべく中央集権を避けていた」からだという。


 アパッチ族には、他の部族における首長にあたる存在の代わりに、ナンタンと呼ばれる精神的および文化的な指導者がいた。ナンタンは行動で規範を示すだけで、他者に何かを強要する権限は持たなかった。部族のメンバーは、ナンタンに従いたいから従うのであって、強制されたからではない。史上最も有名なナンタンの一人が、アメリカ人を相手に何十年も部族を守ったジェロニモだった。ジェロニモは軍隊の指揮をとったわけではないが、彼が一人で戦い始めると、周囲の者もついて行った。「ジェロニモが武器を手にとって戦うのなら、たぶん、そうするのがいいんだろう。ジェロニモは今まで間違ったことがないから、今度も、彼といっしょに戦うのがいいだろう」というわけだ。ジェロニモについて行きたければついけ行けばいいし、いきたくなければ、行かなくていい。一人ひとりに権限があるので、それぞれがやりたいようにする。「するべきだ」という言葉はアパッチ族の言語に存在しない。「強制する」という概念は、彼らには理解しがたいものだ。


 組織には必ず目的がある。何らかの利益を共有するために人々は集うのだ。本書では「緩やかな関係性」が色々と紹介されているが、さほど説得力はない。私の考えでは、ピラミッド型組織を否定するよりも、組織内を横断する様々な小ユニットを形成するのが好ましい。


 そもそも資本主義社会において、「社長が儲からない」組織のあり方が、多くの人々にモチベーションを与えるはずもない。


 ただし、党派性を超えたコミュニティが生まれなければ、社会が硬直化することは明らかだ。その意味で、何らかのヒントは与えてくれる。

ヒトデはクモよりなぜ強い 21世紀はリーダーなき組織が勝つ

2008-07-01