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2008-07-31

見る、視る、観る/『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』セミール・ゼキ


 色々な見方がある。五感の中で眼から得る情報量は他の器官を圧倒している。色・形・距離・大きさ・質感などなど。しかしながら、「見る」という脳の構造はいまだによくわかっていない。少し前までは、脳の中で「誰かが」見ているような説明がまかり通っていた。脳神経科学が少しずつ紐解きだしたのは最近のこと。


 つまり、視覚は能動的な過程なのであり、長い間考えられてきたような受動的な過程ではない。樹木、正方形、直線といった最も単純な対象を捉える視覚でさえも、能動的な過程なのである。

 近代の神経生物学者であれば、画家アンリ・マティスの「見るということはそれ自体で既に創造的作業であり、努力を要するものである」という言葉に心から敬意を払うであろうし、あるいは少なくとも敬意を払うべきであろう。マティスのこの言葉は、生理学的な見地からではなく美術的な見地から語られたものだが、視覚生理学に適用しても十分に通用する表現である。


【『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』セミール・ゼキ/河内十郎訳(日本経済新聞社、2002年)】


「能動的」というのは、脳には見たままの映像が認知されているわけではなく、想像・予想・推定などといった処理を「能動的」に行っているという意味だ。マティスの言葉は、日常であれば気づかないが、「絵を描く」時には強く実感されることだろう。


 2002年に刊行されたこの本も、現在では古い部類となる。池谷裕二著『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』では、更に新しい所見が紹介されている。


 著者は、「キュビスムは結果的に失敗だった」として、ピカソの「ヴァイオリンを持つ男」を取り上げているが、私は全く反対の意見だ。眼ではなく後頭葉で起こっている現実に鋭く迫っていると感じるからだ。認知が内部に働くと、自省的なベクトルは「天台大師の観念観法」に近い世界に辿り着くのだろう。

脳は美をいかに感じるか―ピカソやモネが見た世界

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