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2008-09-06

昼寝


 昼過ぎにちょっと横になって、目が覚めたら何と6時間も経っていた。死んだのかと思ったよ。

セバスチャン・フィツェック、小田嶋隆


 1冊挫折、1冊読了。


ラジオ・キラー』セバスチャン・フィツェック/日高晤郎が薦めていたので読んでみたが30ページほどで挫けた。赤根洋子の翻訳がまるでダメだ。冒頭の4行に「彼」という文字が7回も出てくる。まるで、皿にへばり付いたしつこい脂みたいだ。忍耐力を総動員して読み続けたが、訳文の拙さを確認できただけだった。表紙の装丁も中途半端な漫画みたいでセンスがなさ過ぎる。本の作りも全くなってない。目次がないのだ。玄関がない家みたいだよ。ベランダから入れって言うのか? セバスチャン・フィツェックはドイツのホラー作家で、新進気鋭という形容詞を欲しいままにしているようだ。


テレビ救急箱小田嶋隆/こんなに面白いと、他の本が読めなくなって困る。昨日開いたと思ったら、もう読み終えてたよ。もっと時間をかけるべきだった。『テレビ標本箱』よりも脂が乗っている。適確な語彙(ごい)と絶妙な比喩がその辺のコラムニストを圧倒している。もうね、読んでいるだけで快感を覚えるようなテキストだ。後書きに「バンソウコウでできることは限られている」と書いているが、メスは深い部分にまで届いており、バンソウコウで止血することは無理だ。オダジマンが行っているのは一種の「瀉血(しゃけつ)療法」なのだ。メディアリテラシーのバイブルに君臨すべき一冊である。

人間が挑める高さの限界/『人間はどこまで耐えられるのか』フランセス・アッシュクロフト


 ヒトが登れる高さの限界、潜れる深さの限界、暑さ、寒さ、スピードの限界を生理学的見地から探っている。誰もが実感できそうなテーマがグッド。


 夢枕獏著『神々の山嶺』を読んで以来、私は自称“山男”となった。多分、同意見の人が多いことと思う。そして私は高尾山にアタックした。もはや完全な山男の出来上がりである。いつの日か8000メートル級に挑むため、まずは標高599メートルを攻略するのだ。ちなみに、我が家は標高200メートルに位置している。もちろん、冬山をも視野に入れているため、自宅では冬でもストーブを使っていない。耐え難い時は、腕立て伏せやヒンズースクワットで我が身の脂肪を燃やすことにしている。


 言うまでもなく、激しく動くほど(速いペースで登るほど)より多くの酸素が必要になる。標高7000メートルでは、海抜ゼロメートルに比べて体の動きは4割以下に落ちる。したがって、無酸素登山のペースはかなり遅くなる。1952年にレイモンド・ランバートとテンジン・ノルゲイがエベレストのサウスコルを登ったときは、わずか200メートルに5時間半かかった。ラインホルト・メスナーとペーター・ハーベラー山頂が近づくにつれて、疲労のあまり数歩ごとに雪の中に倒れ込み、最後の100メートルに1時間かかった。


【『人間はどこまで耐えられるのか』フランセス・アッシュクロフト/矢羽野薫訳(河出書房新社、2002年/河出文庫、2008年)】


 これだよ、これ。世界の尾根は下界とは別世界なのだ。安閑と過ごしている平野とは時空まで異なる。登った人でなければわからない(←私も未踏)。しかも、酸素が薄いということは、体内の水分が蒸発しやすくなる。でもって寒い。つまり三重苦。


 なぜ、山に登るのか? それは、人間が神になるためだ。眉村卓の『通りすぎた奴』を読めばわかるよ。神は天上にましまし、仏は生命の上座に存する。キーワードは「高さ」だ。文明の発達は、高さを制したものが勝つ。エシュロンよ、お前の勝ちだ。


 しかし、生身の身体で勝負するドラマにエシュロンはかなわない。本書に書かれていたが、ヒトが登れる高さの限界はちょうどエベレストの山頂の高さらしいよ。


 視点が高くなると、見える世界が変わる。小さな子供は世界を広げようと、いつも背伸びをしている。経済的なステイタスは高層マンションと相場が決まっている。


 私は神となるべく、近いうちに再び高尾山に登る予定だ。私の姿を見た途端、拝む人がそろそろ出てくることだろう。

人間はどこまで耐えられるのか 人間はどこまで耐えられるのか (河出文庫 ア 6-1)

(※左が単行本、右が文庫本)