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2008-09-25

米国では大人の半分が天地創造を信じている/『赤ちゃんはどこまで人間なのか 心の理解の起源』ポール・ブルーム


 アメリカ南部では、ダーウィンの『進化論(正式名称は「種の起源」)』を掲載している教科書が採用されないことは知っていた。でもまさか、大人の半分が神による天地創造を信じているとはね。


 とはいえ、この説(ダーウィンの自然選択説)を絶対に受け入れない人たちもいる。米国では、大人の半分が、種の起源は神による創造だと考えている。ある研究では、大学卒業生の3分の1が、適切な人類学のコースを取った後でもなお、最初の人間が現れたのはエデンの園であり、「種の起源自体が神による創造だった」と考えていることがわかった。


【『赤ちゃんはどこまで人間なのか 心の理解の起源』ポール・ブルーム(ランダムハウス講談社、2006年)】


 運命論というのは非常に便利で、あらゆる出来事を運命で片づけることが可能だ。キリスト教の論理でいけば、イラク戦争も神が定めた運命であり、広島・長崎に原爆を落としたのも、また運命ということになる。ここでいう運命とは、“成り行き”という意味ではなく、全知全能の神が天地創造した時、そのようにプログラムされていたという意味である。ったく、とんでもない話だよな。本当に神様がいるなら、真っ先にアメリカに天罰を下しているはずだ。


 以下のアメリカとキリスト教関連リンクも併読されよ――

赤ちゃんはどこまで人間なのか 心の理解の起源

中山国交相が「誤解を招く表現」を連発、撤回


 中山国土交通相は25日、報道各社のインタビューで失言を連発した。「誤解を招く表現があった」として撤回したが、今後、波紋を呼びそうだ。

 住民の根強い反対もあり整備が遅れる成田空港。今後の施策、整備の考え方を問われ「ごね得というか戦後教育が悪かったと思いますが、公共の精神というか公のためにはある程度は自分を犠牲にしてでも捨ててもというのが無くて、なかなか空港拡張もできなかった」と、住民の対応を批判した。

 来月1日に観光庁が発足するなど注目を集める観光行政。訪日観光客を増やすには閉鎖的な国民性の克服が必要ではないかとの質問に「日本はずいぶん内向きな、単一民族といいますか……」と答えた。86年、当時の中曽根首相は、「日本は単一民族」と発言し、アイヌ民族から抗議を受けた。

 文部科学相を経験している中山国交相は、教育問題にも言及。大分県教委の汚職事件について「日教組日本教職員組合)の子供は成績が悪くても先生になる。だから大分県の学力は低い」と主張した。自ら提唱した全国学力調査については「日教組の強いところは学力が低いんじゃないかと思ったから」と実施の背景を説明。その仮説が証明されたとして「テストの役目は終わった」とも述べた。

【朝日新聞 2008-09-25】

若手芸人の役回りはイジメ被害者の「モガキ」/『テレビ救急箱』小田嶋隆


 私は高校生の頃から、30歳過ぎまで殆どテレビを見てこなかった。そのため、社会から懸け離れてしまうことを恐れて、新聞の番組表だけはしっかりと読んできた。それで困ったことといえば、何一つない。多分、得していることの方が多いことだろう。


 テレビというメディアは、刺激の強い嗜好品や、中毒性の高い薬物に似ている。人々を依存させ、思考能力を奪い取る点において。テレビジャンキーはテレビがないとたちまち不安になる。抑うつ状態に陥った彼等に処方されたのが「ワンセグ」という代物だ。携帯電話のテレビ画面に見入る彼等の姿は、ビッグブラザーの指示に従う人々そのものだ。


 そして、テレビの中で繰り広げられているのは、現代社会の縮図などではなく、未来を先取りした姿である。人々が満足できない「今」を放映したところで、さしたる意味はない。テレビが提供するのは刺激と欲望にまみれた別世界だ。そして、テレビという非現実世界に自分の現実を合わせるべく、大人も子供も努力を開始するのだ。


 テレビの使命は「倫理」や「道徳」ではない。放送コードにしたところで特定の団体の「苦情」や「圧力」への反応に過ぎない。だから、テレビの下品さについては、もう何も言わない。でも、せめて、キワ物の自爆芸を「お笑い」にする習慣だけはやめてもらいたい。

 だって、モラル云々は別にしても、あんまり哀れで見てられないから。

 にしおかすみこ、小島よしお、ムーディ某、あるいはちょっと前のHGや桜塚やっくんあたりを交ぜてもよいが、彼らが見せているのは「芸」ではない。個人的な「恥」に過ぎない。

 芸人修業の初期の段階で、「恥部」をさらけ出す根性が求められるという側面はあるのだろう。が、だとしても「恥」そもののは「芸」ではない。

 現状、若手芸人が求められている役回りは、イジメ被害者の「モガキ」だ。で、その七転八倒を、われわれは「笑い」として消費している。要するに、われわれの社会は、誰かが恥をかいたり、痛い目に遭ったりしている姿を大勢で眺めて笑うという、集団リンチにおける爆笑発生過程みたいなものを産業化しているわけだ。でなくても、お笑いの世界は、新人部員に裸踊りを強要する体育会系や、準構成員を家畜扱いする暴力団組織と同質のサル山構造でできあがっている。

 だから、もともとは人を笑わせたくてお笑いの道に入ったはずの芸人も、お笑い組織の準構成員として、やぶれかぶれの恥辱露出芸をやらされているうちに、いずれ、ヤクザじみた人々に変質する。と、それに合わせて人生観も、「面白い人」としての自覚よりも、「道を外れた人間」の自意識を「芸人魂」と解釈する方向に修正される。かくして、

「ワイらは、素人とは違うデェ」

 ぐらいな覚悟が、彼らのプライドないしは虚栄のよりどころとなり、それゆえ「いかに変わったことをするか」「いかに極端な逸脱を見せるか」「いかに耐え難い恥辱を晒(さら)すか」ということが、芸人としての「格」になる。


【『テレビ救急箱』小田嶋隆中公新書ラクレ、2008年)】


 私が前々から薄々感じていたものを、小田嶋隆は見事に表現しきっている。オダジマン師匠、一生ついていきますぜ。お笑い界の大物と言われる面々がテレビを私物化する様は、自民党の有力代議士と何ら変わりがない。


 テレビは免許事業である。ということは、テレビ局が恐れているのは経済産業省とスポンサーになる。政官業ならぬ、放官業の癒着ぶりが窺えようというもの。


 北朝鮮による拉致問題が明らかとなってからというもの、この国は右側に偏り始めた。一度傾いたバランスを取り戻すのは難しい。右傾化の言論は威勢がよくわかりやすい。このため、暴力の温床となる。著者が「あとがき」に記した杞憂は、既に現実のものとなりつつある。


 そもそも、テレビという枠組み自体が、タレントを意のままにコントロールする世界である。視聴者の意識が支配されるのも当然なのだ。

テレビ救急箱 (中公新書ラクレ 274)