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2008-09-25

若手芸人の役回りはイジメ被害者の「モガキ」/『テレビ救急箱』小田嶋隆


 私は高校生の頃から、30歳過ぎまで殆どテレビを見てこなかった。そのため、社会から懸け離れてしまうことを恐れて、新聞の番組表だけはしっかりと読んできた。それで困ったことといえば、何一つない。多分、得していることの方が多いことだろう。


 テレビというメディアは、刺激の強い嗜好品や、中毒性の高い薬物に似ている。人々を依存させ、思考能力を奪い取る点において。テレビジャンキーはテレビがないとたちまち不安になる。抑うつ状態に陥った彼等に処方されたのが「ワンセグ」という代物だ。携帯電話のテレビ画面に見入る彼等の姿は、ビッグブラザーの指示に従う人々そのものだ。


 そして、テレビの中で繰り広げられているのは、現代社会の縮図などではなく、未来を先取りした姿である。人々が満足できない「今」を放映したところで、さしたる意味はない。テレビが提供するのは刺激と欲望にまみれた別世界だ。そして、テレビという非現実世界に自分の現実を合わせるべく、大人も子供も努力を開始するのだ。


 テレビの使命は「倫理」や「道徳」ではない。放送コードにしたところで特定の団体の「苦情」や「圧力」への反応に過ぎない。だから、テレビの下品さについては、もう何も言わない。でも、せめて、キワ物の自爆芸を「お笑い」にする習慣だけはやめてもらいたい。

 だって、モラル云々は別にしても、あんまり哀れで見てられないから。

 にしおかすみこ、小島よしお、ムーディ某、あるいはちょっと前のHGや桜塚やっくんあたりを交ぜてもよいが、彼らが見せているのは「芸」ではない。個人的な「恥」に過ぎない。

 芸人修業の初期の段階で、「恥部」をさらけ出す根性が求められるという側面はあるのだろう。が、だとしても「恥」そもののは「芸」ではない。

 現状、若手芸人が求められている役回りは、イジメ被害者の「モガキ」だ。で、その七転八倒を、われわれは「笑い」として消費している。要するに、われわれの社会は、誰かが恥をかいたり、痛い目に遭ったりしている姿を大勢で眺めて笑うという、集団リンチにおける爆笑発生過程みたいなものを産業化しているわけだ。でなくても、お笑いの世界は、新人部員に裸踊りを強要する体育会系や、準構成員を家畜扱いする暴力団組織と同質のサル山構造でできあがっている。

 だから、もともとは人を笑わせたくてお笑いの道に入ったはずの芸人も、お笑い組織の準構成員として、やぶれかぶれの恥辱露出芸をやらされているうちに、いずれ、ヤクザじみた人々に変質する。と、それに合わせて人生観も、「面白い人」としての自覚よりも、「道を外れた人間」の自意識を「芸人魂」と解釈する方向に修正される。かくして、

「ワイらは、素人とは違うデェ」

 ぐらいな覚悟が、彼らのプライドないしは虚栄のよりどころとなり、それゆえ「いかに変わったことをするか」「いかに極端な逸脱を見せるか」「いかに耐え難い恥辱を晒(さら)すか」ということが、芸人としての「格」になる。


【『テレビ救急箱』小田嶋隆中公新書ラクレ、2008年)】


 私が前々から薄々感じていたものを、小田嶋隆は見事に表現しきっている。オダジマン師匠、一生ついていきますぜ。お笑い界の大物と言われる面々がテレビを私物化する様は、自民党の有力代議士と何ら変わりがない。


 テレビは免許事業である。ということは、テレビ局が恐れているのは経済産業省とスポンサーになる。政官業ならぬ、放官業の癒着ぶりが窺えようというもの。


 北朝鮮による拉致問題が明らかとなってからというもの、この国は右側に偏り始めた。一度傾いたバランスを取り戻すのは難しい。右傾化の言論は威勢がよくわかりやすい。このため、暴力の温床となる。著者が「あとがき」に記した杞憂は、既に現実のものとなりつつある。


 そもそも、テレビという枠組み自体が、タレントを意のままにコントロールする世界である。視聴者の意識が支配されるのも当然なのだ。

テレビ救急箱 (中公新書ラクレ 274)

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