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2008-10-31

ジェノサイドが始まり白人聖職者は真っ先に逃げた/『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

 ルワンダは、ベルギーの植民地だった1930年代にカソリック国となっていた(『ジェノサイドの丘』フィリップ・ゴーレイヴィッチ)。映画『ホテル・ルワンダ』にも、白人男女の聖職者が登場していた。神の僕(しもべ)は、大虐殺を前にして戦おうとすらしなかった。そうだ。全ては神の思し召しなのだ。いかなる悲惨な結末が待っていようとも、キリスト教思想ではそれが「神の意志」とされる。神様のジャンケンはいつも後出しなのだ。


 では実際に、ルワンダの聖職者はどのように振る舞ったのか。こうだ――


(※ジェノサイドが始まった直後)私たちの羊飼いは子羊を見捨てた。さっさと逃げてしまった。子供を連れて行くことさえしないで、私には、両司祭が私たちを見捨てた事実を理解することも受け入れることできなかった。二人は小型バスに乗る前に、誰にともなくこう言った。

「お互いに愛し合いなさい」

「自分の敵を赦(ゆる)してあげなさい」

 自らの隣人に殺されようとしているその時の状況にふさわしい言葉ではあったが、それは私たちを取り囲んでいるフツ族に言うべきだろう。

 司祭の一人はベルギーに避難した後、こうもらしたという。「地獄にはもう悪魔はいない。悪魔は今、全員ルワンダにいる」と。神に仕える者が、迷える子羊たちを荒れ狂うサタンの手に引き渡すとは、感心なことだ!

 ある修道女もトラックに乗る前に、周りに殺到してきた人々に向かって「幸運を祈ります!」と言っていた。ありがとう、修道女様。確かに幸運が来れば言うことなしなのだが。


【『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ/山田美明訳(晋遊舎、2006年)】


 大鉈(おおなた)でこれから殺される人々に向かって放たれた言葉である。何たる偽善か。草葉の陰でイエス様も泣いていたことだろう。彼等がことあるごとに説いてきた「愛」の真実がここに現われている。結局は「自分の命が惜しい」だけに過ぎない。ツチ族を殺戮したフツ族よりも、こいつらの方が悪魔に見える。で、彼等は安全な場所へ移動してから、ルワンダを心配してみせたに違いない。


 思想や信条というのは、口で語るためのものではない。いざという時に、その人の生き方を問うような形で試されるものだ。生きざま以外に思想など存在しない。聖職者の説く神様はルワンダにはいなかったようだ。多分、アフリカ大陸のどこを探してもいないだろうし、世界を歩き回っても見つけることはできないことだろう。一体全体どこにいるのだろう? エ、「天」? ケッ、ふざけんじゃないよ。それじゃあ、屋根の上で日向ぼっこをしている猫と変わりがない。本当に神がいるのであれば、飢餓で死ぬ人々がこれほど存在するわけがない。


 修道女は自らが幸運という名のトラックに乗りながら、間もなく殺される人々の幸運を祈った。もし、殺されたツチ族のために彼女が涙を流したとすれば、そんな涙にいかほどの意味があるというのだろうか?

ルワンダ大虐殺 〜世界で一番悲しい光景を見た青年の手記〜

ダイナシティが会社更生法の適用を申請


 会社更生法の適用を申請した模様。営業方法がおかしな会社の末路はこんなもんだ。以下が前に書いたもの――

大型倒産速報 帝国データバンク


「東京」(株)ダイナシティ(資本金114億9764万966円、港区虎ノ門4-3-1、代表吉田雅浩氏、従業員190名)は、10月31日に東京地裁へ民事再生法の適用を申請した。

 申請代理人は田淵智久弁護士(港区赤坂2-17-22、電話03-5574-7402)ほか。監督委員は佐々木茂弁護士(新宿区市谷薬王寺町8-1、電話03-3359-0825)。

 当社は、1994年(平成6年)9月に設立。コンパクトマンションの開発・販売を主体に「ダイナシティマンションシリーズ」などの企画・開発・販売を手がけていた。開発物件は、独身・夫婦世帯などジュニアファミリー層向けに都心駅近くの物件を得意としており、2001年12月には店頭公開(現・ジャスダック)を果たし、その後も関係会社の設立や大阪支店の開設、上場投資会社との事業提携など積極的に事業を展開、2001年3月期に約169億1600万円だった年売上高は2005年3月期には約506億2600万円に達していた。

 こうしたなか、2005年6月には当時の代表取締役社長、中山諭氏が覚せい剤取締法違反により逮捕される事件が発生。同氏は社長を解任されたほか、同年8月には子会社の前代表が強制わいせつ容疑で逮捕されていたことが報道されたことで信用悪化を招いていた。同年12月にはライブドアグループと資本・業務提携したものの、翌2006年1月には(株)ライブドアが東京地検特捜部と証券取引等監視委員会から証券取引法違反容疑で家宅捜査を受ける事態となっていた。同年6月にはライブドアグループが所有する当社株式を(株)インボイス(東京都)に譲渡されることが決議され、同社グループの傘下に入り再建を図っていた。

 この間、本業面においては2006年3月期に年売上高約604億7500万円を計上するなど堅調な推移をみせていたが、得意としていたコンパクトマンション市場への大手マンションデベロッパーの参入や同業界を取り巻く環境の悪化から2008年3月期の年売上高は約315億6000万円にダウン、損益面はソリューション事業(物件のバリューアップ)において保有している物件および収益性が低いプロジェクト物件の評価見直しなどで多額の特別損失を計上したことで約92億2100万円の当期損失を余儀なくされていた。今期に入り、不動産市況が大幅に悪化したことで保有物件の売却も進まず、資金調達も急速に厳しくなったことで今回の措置となった。

 負債は約520億7700万円。

 今年に入って上場企業の倒産は、(株)ノエル(東証2部、負債414億円、10月破産)に続いて28社目(上場廃止後のエー・エス・アイ(株)を含む)で、上場不動産会社の倒産は12社目となった。

唯脳論宣言/『唯脳論』養老孟司

 もっと早く読んでおくべきだった、というのが率直な感想だ。そうすれば、『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』に辿り着くのも、これほど時間がかからなかったはずだ。


 今読んでも、そこそこ面白い。ということは、1989年の刊行当時であれば、怒涛の衝撃を与えたことだろう。岸田秀の唯幻論は、幻想というパターンの繰り返しになっているが、養老孟司は身体という即物的なものに拠(よ)っているため、割り切り方が明快だ。


 では、歴史的ともいえる唯脳論宣言の件(くだり)を紹介しよう――


 われわれの社会では言語が交換され、物財、つまり物やお金が交換される。それが可能であるのは脳の機能による。脳の視覚系は、光すなわちある波長範囲の電磁波を捕え、それを信号化して送る。聴覚系は、音波すなわち空気の振動を捕え、それを信号化して送る。始めは電磁波と音波という、およそ無関係なものが、脳内の信号系ではなぜか等価交換され、言語が生じる。つまり、われわれは言語を聞くことも、読むことも同じようにできるのである。脳がそうした性質を持つことから、われわれがなぜお金を使うことができるかが、なんとなく理解できる。お金は脳の信号によく似たものだからである。お金を媒介にして、本来はまったく無関係なものが交換される。それが不思議でないのは(じつはきわめて不思議だが)、何よりもまず、脳の中にお金の流通に類似した、つまりそれと相似な過程がもともと存在するからであろう。自分の内部にあるものが外に出ても、それは仕方がないというものである。

 ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう。


【『唯脳論』養老孟司青土社、1989年/ちくま学芸文庫、1998年)】


 今村仁司の『貨幣とは何だろうか』を読んでいたので、この主張はスッと頭に入った。お金という代物は、それ自体に価値があるわけではなく社会の決め事に過ぎない。その意味では幻想と言ってよい。等価交換というルールがなくなったり、世界が飢饉に襲われるようなことがあれば、直ちに理解できることだろう。その時、人類は再び物々交換を始めるのだ。


 私は以前から、お金に付与された意味や仕組みがどうしても理解できなかった。しかし、この箇所を読んで心から納得できた。動物と比べてヒトの社会が複雑なのも、これまた脳の為せる業(わざ)であろう。脳神経のネットワークが、そのまま社会のネットワーク化に結びつく。で、我々は「手足のように働かされている」ってわけだ(笑)。


 私がインターネットを始めたのが、ちょうど10年前のこと。当時、掲示板で何度となく話題に上った『唯脳論』であったが、私は『唯幻論(『ものぐさ精神分析』)』と、唯字論とも言うべき石川九楊(『逆耳の言 日本とはどういう国か』)を読んで、頭がパンクしそうになってしまったのだ。読んでは考え、また読んでは考えを繰り返しているうちに、二日酔いのように気持ちが悪くなった覚えがある。必死に抵抗しようと試みるのだが、イソギンチャクにからめ取られた小魚のようになっていた。


 だが、今なら理解できる。また、脳科学が証明しつつある。


 時代をリードする思想は、中々凡人(→私のことね)には理解されない。それどころか、反発を招くことだって珍しくない。ともすると我々は、中世における宗教裁判なんかを嘲笑う癖があるが、現代にだって思想の呪縛は存在する。自由に考えることは難しい。先入観に気づくのはもっと難しい。


 養老孟司は、「社会は暗黙のうちに脳化を目指す」とも指摘している。そうであれば、世界はネットワークで結ばれ、一つの意思で動かされる時が訪れる。それが、平和な時代となるか、『1984年』のようになるかはわからない。

唯脳論 (ちくま学芸文庫)

2008-10-30

戦後を支えたのは政府ではなく女性だった/『見よぼくら一戔五厘の旗』花森安治


 頼んでもいないのに銃後を守らされた女達が、戦後は走らされる羽目となる。男どもは、せめてお母さんの肩くらい叩いてあげるべきだろうな。


 終戦のとき、なにかでみた一枚の写真を、ぼくはいまでもおぼえている。

 汽車であった。いっぱいの人がぶら下っていた。タラップにまで二重三重になって、それでもあふれた人たちが、機関車の前部にもぎっしりしがみついていた。

 ほとんどが女の人である。どろどろのモンペにリュックを背負い、包を下げていた。芋であろう。

 政府なんて、なんの役にも立たなかった。しかし、デモ行進などやっている余裕もなかった。ギロンしているひまに、家族の今夜の、あすの食べる分を工面しなければならなかったのである。

 女たちは、だまって、買い出しに出かけていった。ながいあいだ、吹きっさらしのホームで汽車を待って、家畜以下のざまで、運ばれていった。やっとのおもいで手に入れた50キロ70キロの芋を背負って、歩きつづけ、ぶら下りつづけ歩きつづけて運んだ。

 終戦直後、ぼくたちの飢え死を救ったのは政府でも代議士でも役人でもなかった。この機関車にすずなりになった異様な写真をみたまえ。ぼくらを飢え死から救ったのは、この人たち、ぼくらの母や妻や娘や姉だったのだ……

(昭和38年5月)


【『見よぼくら一戔五厘の旗』花森安治〈はなもり・やすじ〉(暮しの手帖社、1971年)】


 いざとなると男は弱いものだ。だから、子供の生めない身体構造となっているのだろう。男達は将来を考えるあまり呆然としていたに違いない。


 ま、本当のところは男も女も食糧確保のために奔走したはずだ。たまたま花森安治の見た写真がそうだったというだけの話だろう。でも、やっぱり、戦地から引き揚げてきた男達は、大いに自信を喪失したはずだし、「食べ物を分けてもらうのは女子供のすること」という逃げ口上を用意していたことだろう。


 私の祖母は既に亡くなっている。せめて、往時の苦労を聞いておくべきだった。戦争は過去の歴史となったものの、平和な時代にあっても母や妻に感謝を怠ってはなるまい。


 私が生まれる直前に書かれた文章であり、それだけに思い入れも深い。

一戔五厘の旗

ハゲ頭に群がるカツラメーカー/『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆


 コンプレックスを後ろ手に捻(ひね)り上げたような商売は多い。チビ・デブ・おたんこなす・ホクロ・ムダ毛・一重まぶた・ペチャパイ・口臭体臭・包茎・勃起不全など、数え上げればキリがない。そして、これらの筆頭格がハゲであることは衆目の一致するところだ。


 法改正によってサラ金が落ち目となってからというもの、テレビCMは、保険業界、パチンコ機器メーカー、日本中央競馬会JRA)、そしてカツラメーカーの台頭が目立っている。


 増毛200本が無料なのだそうだ。

 なぜか?

 技術に自信があるからだそうだ。

 技術? 何の技術だろう?

「サギだよ」

 と、彼は言い切った。

「考えてもみろよ、3倍増毛とか言って1本の自毛に2本からの人工毛をくくりつけるわけだろ?」

「ああ」

「とすると、毛が1本抜けると、3本の毛が減るわけで、こりゃ3倍減毛だぜ」

「なるほど」

「だから、ヘタなキャンペーンにひっかかって1回でも増毛したら最後、あとは、減毛増毛の無間地獄。まさに不毛の人生だな」

 そう。ヅラ屋は、メンテで儲けるのである。あれをもっともらしく保つには、色々と手間がかかるのだ。特に増毛と週刊誌のヘアヌード(←って、ハゲのことか?)ページは、一度手を出したら撤退できない底なし沼なのである。これは、カツラメーカー関係者からの情報だから間違いはない。

 シャブの売人をやってる兄ちゃんは、ハマる素人には、タダ同然でブツを世話して、相手がきちんとしたシャブ中になってからマジの取引を始めるんだそうだが、なんだか、昨今のヅラ屋さんたちがやっている「無料ヘアチェック」だとか、「無料増毛キャンペーン」の手口は、まったくこれと同じではないか。


【『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆翔泳社、1995年)】


 いやあ笑った笑った。しかし、ハゲにとっては笑い事で済まない。大体、和田アキ子と島田紳助が競演するCMは一体全体何なんだ? カツラ界の自民党でも気取っているのだろう。和田アキ子という女はどこにいようとも、まるで我が家にいるかの如くぞんざいに振る舞う。肥大しきった自我は、既に身長の3倍くらいの大きさとなっていることだろう。島田紳助は業界内の政治力に敏感な男だと私は睨んでいる。あの司会っぷりがそれを雄弁に物語っている。つまりこの二人は、私の眼からするとジャイアンとスネ夫にしか見えないのだ。そして、例の社長が登場する。田舎のオジサンにしか見えない社長が。あの飄々とした朴訥(ぼくとつ)な話し方に、ハゲの面々はあっさりと騙されてしまうのだ。「こんないい人が嘘をつくはずがない」と。ところがどっこい、テレビという媒体は嘘で構成されているのだよ。すなわち全部が作り物。シナリオ通りに作られた編集済みの世界だ。


 本書は、全体的なまとまりとしては小田嶋隆のベストと言ってもいいと思う。バブルの前後にかけて連載されたもので、日本経済の天国と地獄に架けられた橋のような趣がある。しかも驚くべきことに、オダジマンの経済センスは、大新聞の経済記者よりも確かである。

無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ

「マインド・ゲームス」ジョン・レノン


 ジョン・レノンで一曲と言われれば、私は間違いなくこの曲を挙げるだろう。ま、「Power To The People」も捨て難いけどね。初めて聴いたのは中学の頃だ。父親を亡くした同級生の家で聴いたこともあって、鐘の音が鎮魂歌のように思えた。4畳半の部屋に鳴り響いたイントロに衝撃を受けた。

レノン・レジェンド~ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ジョン・レノン~

旧ソ連は「年金問題」で崩壊した/『繰り返す世界同時株暴落 自民崩壊・生活壊滅の時代』藤原直哉


 ウウム、昨今の金融経済を予言したような書名である。ま、この手のタイトルって多いんだけどね。徐々に上がっていって、暴落する。まるで、人生のようだ。破壊は一瞬、建設は死闘。


 労働力が世界マーケットの筋肉だとすれば、金融は血液に喩えることができよう。グローバル経済とは、世界のどこかで怪我(デフォルト〈債務不履行〉など)をすれば、自国の血も流れ出ることを意味する。そして現在、金融マーケットのマネーは、実体経済をはるかに上回る資金量となっている。最大の問題は、レバレッジ(テコの原理=投資金額の数十倍規模で取引ができる)を利かせていること。これが、金融マーケットの巨大な幻影を支えている。今、株価が暴落しているが、市場原理からすればゼロサムゲームなんだから、誰かの金が誰かの懐へ移動しているだけに過ぎない。しかしながら、実体経済への影響は必至だ。


 で、だ。年金というのは、莫大な資金量に任せて長期投資が可能である。つまり、安定した利益を獲得しやすい。そんなわけで、国民は安心して文句一つ言わず月々の年金を支払っているわけだ。ま、利回りのよい預金といった感覚の人が多いことだろう。


 日本では、数年前からグリーンピアの経営不振が問題となり、それ以降、厚生労働省の無理・無茶・無謀ぶりが発覚した。年金未納問題、年金記録問題などが社会を揺るがした。でも、「揺るいだ」まんまで終わっているんだよな。年金の全体像と将来像が全く見えない状況だ。


 日本でも現在、本書で述べてきたように「年金問題」が政権の課題となっていますが、実は、旧ソ連の共産党政権が崩壊した直接の理由は「年金問題」だったのです。

 当時のゴルバチョフ大統領が「グラスノスチ=情報公開」を進める中で、「実は年金財源はありません。みんななくなってしまいました」と公表したところからソ連共産党に対する猛烈な不信感が広がり、最終的に共産党政権が崩壊したのです。

 つまり、「年金が払えません」と公表したら、それは政権も国家も崩壊する、キーワードとなっているということです。安倍前首相は「年金はすべてのみなさまに支払う」と言ったわけですが、実状がここまで深刻な事態であり、国家が崩壊するかどうかという大問題だと認識していたかどうかは疑問です。



【『繰り返す世界同時株暴落 自民崩壊・生活壊滅の時代』藤原直哉(あ・うん)】


 フム、佐藤優の意見を聞きたいところである。だが、投資とは無縁で、投機とはもっと無縁な国民が怒ることは容易に想像がつく。「国への信頼」を逆手にとって、詐欺を働いたも同然だからだ。まして、共産国というのは公務員の数が多い。日本でも同様で共産系の知事や市長が誕生すると、必ず公務員の数は増える。すると、当然のようにインチキを働く人間の数も増える。


 同じ根っこから生えている幹が「天下り」である。確かに、利権はおいしいし、羨ましい限りだ。しかし、そこでつかわれている金は血税である。官僚の豊かな老後を支えているのは、生活を切り詰めながらも懸命に働く国民なのだ。つまり、こいつらは悪魔だ。善悪を不問に付し、正義を嘲笑い、貧乏人に小便を引っかけて平然としている手合いということだ。最近では、障害者の顔に唾を吐くような真似までしている(リハビリ難民)。


 年金問題は国家の腎不全を示しているように思う。人工透析が必要となるかどうかは、国民の選択で決まる。つまり、次の衆院選だよ。

繰り返す世界同時株大暴落―自民崩壊・生活壊滅の時代

2008-10-29

アメリカ食肉業界の恐るべき実態/『ファストフードが世界を食いつくす』エリック・シュローサー


 アメリカの食品業界の杜撰さは日本の比ではない。圧倒的なロビー活動で、汚染された肉も流通経路に乗っかってしまう。


 それにしても、大衆消費社会の成れの果ては、ここまで酷いものだろうか。生産者と消費者の距離が離れれば離れるほど、顔が見えなくなり、責任感は失われ、辛うじて包装状態のみが互いの信頼関係を形成する。


 医学研究者たちが、近代的な食品加工工程と、危険な感染症の拡大との関連性について、非常に重要な知識を得ている一方で、大手アグリビジネス企業は、食品安全手順へのさらなる規制に断固として反対している。何年にもわたって、精肉大手各社は、ほとんどの消費財メーカーに機械的に課せられている義務を、なんとか回避しようとしてきた。現在アメリカ政府は、欠陥の見つかったソフトボール・バットや、スニーカー、ぬいぐるみ、気泡ゴム(フォームラバー)製の牛のおもちゃについて、全国的な回収を命じることができる。ところが精肉会社に対しては、生命を脅かす危険のある汚染挽肉を、ファストフードの調理場やスーパーマーケットの商品棚から撤去するように命じることができないのだ。これら大手精肉会社の例外的な影響力は、議会における共和党議員との密接なつながりと、彼らへの巨額の献金によって、維持されている。このような事態がまかり通っているのは、毎年どれほど多くの国民が食中毒に苦しみ、これらの感染症がどれほど広がっているのかが、ほとんど理解されていないからだ。

 新しく確認された食品由来病原体は、一見健康そうな家畜によって運ばれ、撒き散らされる傾向にある。これらの微生物に汚染された食物は、食肉処理あるいはその後のプロセスにおいて、感染した家畜の胃の中身や糞に接触した可能性が高い。1996年に農務省が公表した全国調査によると、加工工場で採取された挽肉サンプルのうち、7.5パーセントがサルモネラ菌に、11.7パーセントがリステリア・モノサイトゲネスに、30パーセントが黄色ブドウ球菌に、53.3パーセントがウェルシュ菌に汚染されていた。これらの病原体はすべて病気を引き起こす可能性があり、特にリステリアによる食中毒患者は、通常、入院治療を必要とし、しかも5人にひとりが死亡している。同じ農務省の調査では、挽肉の78.6パーセントが、おもに糞便によって撒き散らされる細菌を含んでいた。


【『ファストフードが世界を食いつくす』エリック・シュローサー草思社)】


 骨太のノンフィクションである。個人的にアメリカは最も嫌いな国の筆頭格だが、ジャーナリズムはこれほど健全性を示している。まさしく旗を振っているような雄々しさがある。声高な主張ではなく、淡々と事実を突きつけ、消費者自身に判断を委ねているのだ。


 欧米の信じ難い無責任は、基本的に人種差別思想が根っこにあるためだと思われる。そもそもキリスト教自体に「ノアの箱舟」という選民思想がそびえている。狂牛病が発覚した際だって、イギリスは国内での売買を禁じ、近隣諸国へ輸出し続けた。毒だとわかっていながら、平然とこうした真似ができるのだから恐ろしい。


 グローバリゼーションとは、かような鉄面皮と渡り合う世界であることを、我々日本人は知る必要がある。

文庫 ファストフードが世界を食いつくす (草思社文庫)

下條信輔、ディーン・ラディン、岡田尊司、キース・デブリン+ゲーリー・ローデン、養老孟司、小田嶋隆


 4冊挫折、2冊読了。


〈意識〉とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』下條信輔/トール・ノーレットランダーシュの『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』を読んだ後では、子供だましに感じる。文章も説明調であまりよくない。


量子の宇宙でからみあう心たち 超能力研究最前線』ディーン・ラディン/真面目な超能力本。「たとえば、実際にあった二卵性双生児の少年が別々に育てられた事例では、養子にもらわれた先でそれぞれジムと名づけられ、そのジムはふたりともベティという女性と結婚し、そして離婚して、リンダという女性と再婚した。さらにふたりの職業はともに消防士であり、ふたりとも裏庭の木の周りに白い円形のベンチを作っていた」と書いてあるところでやめた。明らかに特異な例を持ち出して、何かを正当化しようという魂胆が丸見えだ。私からすれば、超能力よりも、目が見えることや耳が聞こえることの方がはるかに不思議なのだ。


悲しみの子どもたち 罪と病を背負って』岡田尊司/文章はいいのだが、ことごとく陳腐な言い分となっている。著者は医療少年院に勤務する精神科医だが、現場に引きずられているような印象を受けた。固有性は知悉しているのだろうが、それを一般化する角度が浅い。2005年発行となっているが、明らかに勉強不足だと思う。


数学で犯罪を解決する』キース・デブリン+ゲーリー・ローデン/山形浩生の訳がまるでダメ。まえがきに「本物のキ××イ」などと書く神経を疑う。訳文にも時折、ウェブ上の掲示板を思わせる軽薄さが出ている。よくもまあ、こんな文章をダイヤモンド社が認めたもんだね。表紙も完璧な配色ミス。拳銃のデザインが死んでしまっている。山形浩生訳の作品は完全に読む気が失せた。こんな本であれば、ジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライム・シリーズを読んだ方がずっとためになる。


唯脳論養老孟司/まあ、性格の悪いオヤジだこと。こねくり回す文章が読みにくくて仕方がなかった。嫌な独白調が目立つ。それでも一読の価値あり。養老孟司は本書と『カミとヒトの解剖学』を読めば十分だと思う。


罵詈罵詈 11人の説教強盗へ小田嶋隆/11人の著名人を罵った作品。多分、オダジマンは金に困っていたのだろうと予測している。俎上に上げられたのは、天野祐吉秋元康柴門ふみ弘兼憲史曽野綾子渡辺恒雄、林真利子、田原総一朗山本コウタロービートたけし田中康夫と豪華キャスト。及び腰を装いながらも、かなり踏み込んでいる。いつもより長い原稿を書いたのも、何か挑戦的な試みだったのかも知れぬ。困ったことが一つ。小田嶋隆の文章に慣れてくると、回りくどい文章が全く読めなくなってしまうのだ。

桃栗三年、ネット十年


 自分がインターネットを始めたのは1999年だと思い込んでいた。98年だったよ。雪山堂(せっせんどう)を立ち上げたのが99年だ。最初は「Great Readers」という読書サークルのサイトをつくった。当時の書評もここにアップしている。それにしても、あっと言う間の10年だった。我が家でWindowsの青い画面が立ち上がったあの瞬間を、今でもよく覚えている(接続は全部、後輩のクドウにやってもらった)。ネットで得た知己も少なくない。それこそ、メールのやり取りや、掲示板での意見交換を含めると、どれだけの人々と擦れ違ってきたことか。その一つひとつが私の人生に何がしかの影響を与えている。時々寄せられるメールに励まされながら、今後もダラダラと駄文を書いてゆくつもりだ。それにしても、10年という歳月は人を感慨深くさせる。

2008-10-28

オバマ就任直後に国際的な大危機が起きる?


 米国では、外交通で知られる民主党のバイデン副大統領候補が、最近の選挙演説の中で「オバマが大統領になったら、就任後半年以内に、国際的な危機が発生し、オバマは(1962年のキューバ危機に対処した)ジョン・ケネディのように、試練に立たされる」と発言した。バイデンは、この件をホワイトハウスからの情報として得たと言っている。

 10月19日にNBCテレビに出演したパウエル元国務長官は「オバマ就任翌日の1月21日か22日に、危機が起きる。それがどんなものか、今はわからない」と、唐突に奇妙な発言をした。

 これらの発言の後、米国防総省の顧問団(軍事産業系のDefense Business Board)の委員長も「次の大統領は就任から9カ月以内に、大きな国際危機に直面しそうだ。そのため次政権は、就任から30日以内に、国防総省の主要ポストの人事を決定する必要がある」と指摘している。

 この発言からは、米軍事産業が国防総省の人事を操ることにバイデンが協力したという推測も可能だが、そのような他意のある話でなく、実際に何か大事件が起きそうであるとしたら、オバマ就任直後に起きる国際危機とは、イスラエルによるイラン空爆など、イスラエルが絡んだ中東の戦争である可能性が高い。以前には「米大統領選挙後、イスラエルがイランを空爆する」という説を放つネオコンもいた。(9.11のような米本土における「やらせテロ」の再発だとしたら「国際的な危機」と言わないはず)

 何が起きるのか。何も起きないのか。米国の中東覇権が衰退する中、不安定な情勢が拡大している。


田中宇 2008-10-28

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日本は流動性なきタコツボ社会/『生物と無生物のあいだ』福岡伸一


もう牛を食べても安心か』で火がつき、本書がベストセラーとなった。科学本が売れるのは異例の事態。出版界の動向を変えるほどの衝撃を与えた。


 福岡伸一が来し方を振り返り、このように綴っている――


 ポスドク(ポスト・ドクトラル・フェロー/博士研究員)の賃金は安い。私が雇われていた頃で二万数千ドル程度であった(もちろん年俸である)。今でもそれほど変わってないはずだ。ニューヨークやボストンといった都会にいれば、まずレント(家賃)だけで給与の半分は飛ぶ。

 それでもポスドクが日々ボスのために研究に邁進できるのは、次に自分がボスになる日を夢見てのことである。ポスドクの数年間に重要な仕事をなして自らの力量を示すことができれば(成果は論文として表れ、筆頭著者にはポスドク、最後の責任著者にはボスの名前が記される)、それはそのまま独立した研究者へのプロモーションの材料となる。科学専門誌の巻末には必ずおびただしい数のポスドクの求人広告がある。少なくともたこつぼではなく流動性のある何か、あるいは風なのだ。


【『生物と無生物のあいだ』福岡伸一講談社現代新書、2007年)以下同】


 私はハタと膝を打ち、悟りを得る思いがした。ま、いつものことだ。私は過去に数百回ほど悟りを得ているのだ。悔しかったら私を拝んでみろ。


 丸山健二が『見よ 月が後を追う』(文藝春秋)で「動く者」と「動かざる者」の鮮やかな対比を描いてみせたのも、つまるところは「流動性」であった。


 日本は山紫水明と言われる通り、縦長の国土の真ん中に山々がそびえ立っているため、全国どこへ行っても川が多い。海となると、準備をして出掛けなくてはならない人々が多いが、少し歩けばどこにでも川は存在する。


 古来、日本人は川の流れに過去・現在・未来を見つめ、鴨長明は「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」(『方丈記』)と書いた。


 であるにもかかわらず、我等の先祖は「定住」の道を選んだ。つまり、農耕で生計を立てることにしたのだ。こうして「ムラ意識」は末裔である我々のDNAにまで脈々と伝えられることになったってわけだ。


 ムラの掟に従うことなく流動性を求める人々は土左衛門となった(ウソ)。自由を追い求める者は三途の川を渡らざるを得なかった(更なるウソ)。だが、村八分(残りの二分は葬式と火事)は限りなく死刑に近い仕打ちであったことは容易に想像がつく。流れる川に身を投げたくなる人々がいたとしても、決して不思議ではあるまい。


 日本人ははみ出すことを嫌う。だから、本来であればはみ出し者の先頭に立つべき不良少年(&少女)の類いですら横並びである。同じ髪型、同じ服装、同じ言葉遣い、同じ顔つきをしている。ま、小さなムラに過ぎないわな。


 これは、どうしたことか。流動性は川だけで、変化は四季だけで満足しているのだろうか。あるいは、年に一度の祭りで鬱憤を晴らせているということなのか。それとも、我々は流動性を忌避しているのだろうか。


 きっと、そうなのだろう。いや、間違いない。我々の子孫は、田舎の山道の脇にある地蔵や、田んぼに突っ立っている案山子(かかし)を目指しているのだ。私の目には、林立しながらも微動だにしない未来の日本人が確かに見える。


 生命とは動的平衡にある流れである。


 とするならば、日本人はとっくに死んでいることになる。南無――。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)

「自己」を規定しているのは脳ではなく免疫系/『免疫の意味論』多田富雄


 多田富雄の名著をやっと読んだ。専門用語が多いが、すっ飛ばして読んでも十分お釣りが来る。


 人体は常に病原菌にさらされており、ミクロの戦場では熾烈な攻防が繰り広げられている。健康が維持できるのは、免疫系が日夜奮闘しているおかげであり、病原菌が大量殺戮されている証拠でもある。生きるか死ぬか――これが進化の実相だ。


 免疫系を調べる目的で遺伝子操作による異種交配が行われている。こうして生まれた動物を「キメラ」と呼ぶそうだ。ま、スフィンクスや鵺(ぬえ)みたいなものと思えばよい。


 で、だ。ニワトリとウズラを合体させる。すると、ウズラの羽根を持つニワトリが誕生する。しかし、2ヶ月ほど経つと羽根が麻痺して、歩行も摂食もできなくなり死んでしまう。ところが、免疫の中枢臓器である「胸腺」になる原基を胚に移植すると、拒絶反応が起こらない。


 ご存じのように、免疫とは「自己」以外の異物を攻撃するシステムである。ニワトリにとって、ウズラの羽根は異物に他ならない。これは、どうしたことか。もっとわかりやすくするためには、脳だけ別の動物にしてみればよい。


 しかし、ここではっきりしたことは、個体の行動様式、いわば精神的「自己」を支配している脳が、もうひとつの「自己」を規定する免疫系によって、いともやすやすと「非自己」として排除されてしまうことである。つまり、身体的に「自己」を規定しているのは免疫系であって、脳ではないのである。脳は免疫系を拒絶できないが、免疫系は脳を異物として拒絶したのである。


【『免疫の意味論』多田富雄青土社、1993年)】


 これは凄い。我々は普段、「意識」が自分を支配していると思いがちだが、脳味噌なんて所詮、身体の一部に過ぎないことがよくわかる。確かに「自己」を考える際、免疫系のことは全く考えていなかったよ。すまん、許せ。そういや、自律神経のことも考えてないわな(笑)。


 多田富雄の指摘は、ゲームの佳境で将棋盤を引っくり返すほどの衝撃がある。しかし、我々は再び将棋の駒を並べる羽目になる。


「では、免疫系さえあれば、脳は不要なのか?」


 もちろん、そんなわけがない。複雑にして精妙なるネットワークによって「自己」が成り立っている事実を再確認する必要があるのだ。人体を貫く様々な系が「生」という名の交響曲を奏でている。


 脳科学がビッグバンにさかのぼるかの如き発想であるのに対し、ネットワークという発想は開かれた宇宙を展望するような広がりがある。多田富雄は生命という機能を「超(スーパー)システム」と名づけた。

免疫の意味論

2008-10-27

ニューロンのスピードは時速400キロ/『12番目のカード』ジェフリー・ディーヴァー


 リンカーン・ライム・シリーズの第6作。やや失速感があるのは否めないが、「家族の物語」として読めば、ぐっと味わいが深くなる。少々難しいのは、狙われる黒人少女の家族と、犯人の家族とが共に二層構造となっているためだ。虚像と実像、理想と現実が交錯するため一筋縄でいかない。


 ジェフリー・ディーヴァーの魅力は、ストーリーもさることながら、最新の科学や技術にまつわる情報が盛り込まれているところにある。


 それはまさしく奇跡だ。

 脳のどこか、あるいは体のどこかで、心的または肉体的な刺激――“グラスを持ち上げたい”“指を火傷しそうだから鍋を下ろさなくては”――が発生する。その刺激は神経インパルスを生み、インパルスは神経細胞(ニューロン)からニューロンへと手渡されて全身に伝達される。インパルスは、人々の多くが考えているのとは違い、電流そのものではない。ニューロンの表面の電荷がほんの一瞬だけ正から負に変わるときに生まれる波だ。インパルスの強さはつねに一定で――存在するかしないかのいずれかしかない――時速およそ400キロという驚異的なスピードを持つ。

 このインパルスが目的地――筋肉や腺や臓器に到達すると、それらが反応して、心臓は鼓動し、肺は空気の出し入れをし、体は踊り、手は花を植えたりラブレターを書いたり、宇宙船の操縦をしたりする。

 まさしく奇跡だ。


【『12番目のカード』ジェフリー・ディーヴァー(文藝春秋、2006年/文春文庫、2009年)】


 そして、リンカーン・ライムが事故に遭った場面に触れている。だが、ライムは本作で、コンピュータを駆使した筋肉エクササイズに励んでいる。もちろん四肢は麻痺したままで動かないのだが、電気刺激を与えることで事故前の筋力を取り戻している。


 過去の作品と比較するとご都合主義が目立つものの、リンカーン・ライムと再会できる喜びに比べれば、どうってことはない。

12番目のカード〈上〉 (文春文庫) 12番目のカード〈下〉 (文春文庫)

2008-10-26

官僚の特権意識が不正を正当化する/『官僚病の起源』岸田秀


 読んでから随分と時間が経ってしまった。1997年1月発行。今頃出せば、もっと売れていたことだろう。時代を先読みし過ぎた感がある。


 岸田秀の言い分は、『ものぐさ精神分析』に尽きており、他の著作は焼き直しに過ぎない。これは本人もそう語っている。「唯幻論」という原理は非常に便利な代物で、何にでも当てはめることが可能だ。


 岸田秀が本書で指摘しているのは、官僚組織が自己目的化し、自閉的共同体となっていることだ。


 特権意識がよくないのは、官僚が国民に対して威張っていい気分になるからではない。官僚がいい気分になるだけですむなら、大した害はない。特権意識が危険なのは、官僚が国民の犠牲において多大の利益を享受することを正当化する根拠として使われるからである。官僚の不正の背景には、必ず、おれはとくに選ばれた優秀な人間で、国のためにこんなに働いているのだから、これぐらいのことはいいんだというような、不正を正当化する特権意識がある。腐敗官僚は気が咎めながらコソコソと不正をしているわけではない。だから、逮捕されたりすると、運が悪かったとしか思わないのである。


【『官僚病の起源』岸田秀新書館、1997年)】


 それにしても、メディアがこれだけ天下りに言及しながらも、一向になくなる気配がないのはどうしたことか。公金横領・税金詐欺が堂々とまかり通っている。犯罪はスケールが大きいほど見えにくくなる。メディアは像の一部しか報じない。そして、群盲と化した国民は象を撫でて好き勝手を言うのだ。


 象をここまで大きく育てたのは自民党だ。自民党は象使いなのだ。そうであれば当然のように持ちつ持たれつの関係性となる。


 カレル・ヴァン・ウォルフレンは『日本権力構造の謎』(ハヤカワ文庫)で、日本には真の意味での権力者がいない。日本における権力はシステムと化しており、権力システムは東大法学部の人脈によって支えられていると喝破した。国家を国民の手に取り戻すためには、東大を潰すしかないとも書いていたように記憶している。


日本 権力構造の謎〈上〉 (ハヤカワ文庫NF) 日本 権力構造の謎〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)


 資本主義は競争原理が支えている。問題は、競争のルールが統一されていないところにある。アメリカの金融危機に対応すべく、米・欧・日で時価会計を緩和し、簿価での計上を認める動きがあるが、これまた同様の話だ。力の強い者に都合が悪くなると、ルール変更が認められるというのが、実は資本主義経済の本当の姿であった。最初っから競争“原理”なんかなかったんだよね。「神の見えざる手」だと? ケッ、神様は今頃ヘソでお茶を沸かしていることだろう。


 官僚&自民党は、きっと胴元なんだろう。「税金奪い合いゲーム」の。連中はプレイヤーではないのだ。そう考えるとわかりやすい。天下りってえのあ、寺銭(てらせん)のことだったんだな。


 やっとわかったよ。本当の問題は、プレイヤーである国民が一番人気である自民党にしか賭けてこなかったところにあるのだ。恐ろしいことは、賭ける金額(=税金)まで自民党が決めていたことだ。


 子供が生まれたら、官僚にしようっと。

官僚病の起源 歴史を精神分析する (中公文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

ポーカーにおける確率とエントロピー/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 トール・ノーレットランダーシュは、実に巧みな表現で科学の世界を明かしてくれる。前回紹介した「ボルツマン」もそうだが、簡にして要を得た言葉がスッと頭に入ってくる。「通る・脳烈人乱打手」という名前を進呈したい。


 で、今回はこれまた絶妙な比喩で、マクロとミクロ、そしてエントロピーを説明している。


 ポーカーは格好の例となる。トランプが一組あるとしよう。買ったときには、そのトランプは非常に特殊なマクロ状態にある。一枚一枚のカードがマークと数に従って並んでいる。このマクロ状態に呼応するミクロ状態は、たった一つしかない。工場から出荷されたときの順で全部のカードが並んでいるというミクロ状態だ。しかし、ゲームを始める前にカードを切らなければならない。順番がばらばらになっても、マクロ状態は相変わらず一つしかない(切ったトランプというマクロ状態だ)が、このマクロ状態に呼応するミクロ状態は数限りなくある。カードを切ると、じつに様々な順番になるが、私たちにはとてもそれを全部表現するだけのエネルギーはない。だから、たんに、切ったトランプと言う。

 ポーカーを始めるときには、一人一人のプレーヤーに5枚のカード、いわゆる「手(持ち札)」が配られる。すると、今度はこの手が、プレーヤーが関心を向けるマクロ状態となる。5枚の組み合わせは多種多様だ。たとえば、数は連続していないが、5枚全部が同じマークという組み合わせ(フラッシュ)のように、似たもの同士のカードから成るマクロ状態もある。また、同じマークではないが、数が連続している組み合わせ(ストレート)というマクロ状態もある。ストレートには何通りもあるが、極端に多いわけではない。ストレートでない組み合わせのほうが、はるかに多い。(中略)

 確率とエントロピーには明らかに関係がある。ある「手」を作れるカードの数が多いほど、そういう手を配られる確率が高くなる。だから、「弱い手」(エントロピーの多い手)になりやすく、「強い手」(呼応するミクロ状態の数がとても少ないマクロ状態)は、なかなかできない。ポーカーの目的は、誰が最も低いエントロピーのマクロ状態を持っているかを決めることだ。


【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ/柴田裕之訳(紀伊國屋書店、2002年)】


「ポーカーの目的は、誰が最も低いエントロピーのマクロ状態を持っているかを決めることだ」――凄いよね。「これぞ科学的思考だ!」ってな感じ。麻雀や花札も同様だ。ただし、雀卓であなたが厳(おごそ)かにこの言葉を叫んだとしても、誰一人耳を貸さないことだろう。


 カードを何万回切っても、買った時のように数字とマークが順番で並ぶことはあり得ない。これが不可逆性を意味する。カードはどんどんバラバラになってゆく。これが拡散。熱エネルギーは一方向に拡散する。


 当然ではあるが、この後で「マックスウェルの魔物」「ゼノンのパラドックス」にも触れている。

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

2008-10-25

日米両政府:裁判権放棄 密約の議事録存在


 日本に駐留する米兵らの事件をめぐり、日米両政府が1953年に「重要案件以外、日本側は第1次裁判権を放棄する」と密約を交わした件で、国際問題研究者の新原昭治氏は23日、都内で会見し、密約の非公開文書(議事録)を米国立公文書館で入手したと発表した。密約の存在は米公文書などで知られていたが、文書自体が公表されるのは初めて。逮捕された米兵の身柄について、米側の優先的確保に合意していたことも新たに分かった。

 文書は、53年10月28日付の日米合同委員会裁判権分科委員会刑事部会の議事録。日本代表が「日本にとって著しく重要と考えられる事件以外、第1次裁判権を行使するつもりはない」と発言し、日米でこの見解に合意している。同22日付の議事録では、日本代表が「日本当局が米軍容疑者の身柄を確保する事例は多くないだろう」と述べ、米兵の身柄拘束は差し控えるとの認識を伝えている。

 新原氏は議事録のほか、在日米大使館と米本省との外電も入手。裁判権放棄の合意について、米側が公表を望んでいたのに対し、日本が秘密記録に入れるよう主張していたことが記されている。衆院議員会館で会見した新原氏は「沖縄など基地周辺の住民の人権と生活が痛めつけられてきたにもかかわらず、日本政府が野放しにしてきた根本が見つかった」と話した。

 密約は、日米地位協定の前身で1951年の日米安保条約に基づき締結された日米行政協定17条(刑事裁判権)改定交渉過程で交わされた。


琉球新報 2008-10-24


 つまり、「日本を守ってもらう以上、少々の犯罪には目をつぶりますぜ、旦那」ということか。あるいは、「うちの娘をレイプしてもらっても構いませんよ、兄さん」という意味か。

小田嶋隆


 1冊読了。


無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ小田嶋隆/いやあ面白かった。全体的なまとまりとしてはベストかも知れない。コラムとしては8冊目あたりになると思われるが、勢いがあるのは『我が心はICにあらず』と同時期に書かれたものが多いためだろう。驚いたことに、経済の本質を見抜くセンスが、その辺の新聞記者を軽く凌駕している。バブル景気とバブル崩壊の間に渡された階段のような趣がある。私が読んできたものの中では、最も批判精神が横溢している。ってことは、やっぱりオダジマンは貧乏人ってこったな(笑)。

牧太郎の下劣なコラム


 毎日新聞にこんなコラムが掲載されていた。


牧太郎の大きな声では言えないが…「ウソの礼儀?」


 諸事情があって、“深く”はないが、それなりに付き合った女性と別れようと決意した――としよう。手短に、よんどころない理由を告げ「キミのことは忘れない」とつぶやく。「手短」でないとボロが出る。

「忘れない」というのは100%ウソではない。楽しい思い出もあった。しかし、今はギクシャクしている。何よりも「次なるお相手」がいる。本音を言えばすべて忘れたい。

 女は女で「よく言うワ。新しい女ができたのに。こちらからお払い箱よ!」と達観しながら、うっすら涙ぐむ。

 男の「忘れない」も、女の涙もウソの礼儀。解決金が必要な時もある。

 しかし、同盟国アメリカの「忘れない」は礼儀知らずも甚だしい。北朝鮮に対するテロ支援国家指定を解除する。そんな時、いつもと同じように「拉致は忘れない」と言い放つ。ブッシュ大統領も、ヒル国務次官補も「ウソの礼儀」を知らないうつけ者だ。

 日本と別れる決意があるならまだしも、米国は決して別れないヒモのような存在だ。


毎日新聞 2008-10-21 東京夕刊


 牧太郎なる人物は毎日新聞の専門編集委員となっている。検索したところ、1944年生まれであることが判った。するってえと、とっくに還暦は過ぎた計算になる。


 それにしてもこの「枕」は酷い。喩えと現実が乖離(かいり)し過ぎている。しかも悪いことに、喩えの方が上手い文章になっているのだ。で、上手い文章で書かれた内容が下劣極まりないときたもんだ。


 大体だな、「“深く”はないが」って一体全体どういうことなんだ? 60歳を過ぎても尚、性行為に執着する様子が窺える。で、日米両国間で性行為は行われていないとでも言いたいのか? 冗談言っちゃいけねーよ。性行為どころか、SM、スカトロ、カニバリズム(食人)も経験済みだろうよ。ヒモだって? 呵々(笑)。神社の境内に名前を張り出してもらう目的で、寄付金の多寡を競っている町内会の有力者と変わらないよ。はっきり言って、アメリカにとっての日本はヒモ以下の存在だ。


 牧太郎は多分、精力絶倫なのだろう。恐るべし、魔鬼太郎。

学校教育はパンを求める子供に石を与えている/『問いつづけて 教育とは何だろうか』林竹二


 今年の頭に再読。多分、またいつの日か読むことになるだろう。


 林竹二を知らない人は、『教育の再生をもとめて 湊川でおこったこと』(筑摩書房)、『授業 人間について』を先に読んでおくべきだ。すると、本書のインパクトが倍増する。


 宮城教育大学の学長を務めた後、林竹二は全国を行脚しながら授業を行った。その多くは小学生を対象にしたものだった。時には、教育から見放されてきた人々の中にも飛び込んだ(湊川高校、南葛飾高校の定時制)。


 授業で奇蹟が起こる。生徒という生徒は老若を問わず、自分の内面と向き合わざるを得なくなる。そして、“自分の力”で何かをつかんだ瞬間、生徒の表情は劇的な変化を遂げる。


 林竹二は子供に寄り添う。常に子供の肩に手を回し、子供と同じ方向を見据えていた。


 学びたいという願いを、子どもはみな持っているんですね。しかしそれに答えるものを学校教育は与えていない。私がよく言うように、パンを求めている子どもに石を与えているのがいまの学校教育です。そこでの優等生なんかは、石でも、うまい、うまい、というような顔をして食べてみせるわけですね。ところが、「石なんか食えるか」と言ってそれをはねつける者、拒む者は切り捨てられるのです。


【『問いつづけて 教育とは何だろうか』林竹二径書房、1981年)】


 これは評論などではない。教育に生涯を懸けた林竹二の「怒り」だ。血へどを吐くような格闘の果てから生まれた言葉なのだ。


 こうした状況は、教育が行政主導で行われている以上、なくならないことだろう。所詮、「学力の世界ランキング」で順位を落とせば、授業料を増やす程度のことしか思いつかないのが文部科学省だ。本来であれば、教育権を別にして四権分立とするべきであろう。


 林竹二は死ぬまで教育を問い続けた。その姿は、修行者であり求道者であった。苦しみと喜びは相関関係にある。氏の苦労は、児童の笑顔となって胸に刻まれたことと察する。幼き者に寄せる情愛が慈悲の領域にまで達している。

問いつづけて―教育とは何だろうか

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 ウウム、迷う。


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 株式会社リザウンドでは、もっと凄いやつを作っている。

エントロピーを解明したボルツマン/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 私は本書のことを、「現代の経典」に位置すべき作品だ、と書いた。付箋を挟んだページを読み直し、膨大なテキストを書写したが、あながち間違っていないことが確認できた。そこで、がっぷり四つで取り組むことを決意した。こうした行動は過去に何度か試行されているが、その試行のいずれもが錯誤で終わっていることを明言しておく(『千日の瑠璃』→止まったまま、『ホロコースト産業  同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』→進行中、『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』→まだ端緒)。だが、時を逸してはなるまい。


 では一時限目は、エントロピーから始めよう。


 私は20代の頃に、都筑卓司著『マックスウェルの悪魔 確率から物理学へ』(講談社ブルーバックス)を読んで以来、エントロピーを誤解し続けてきた。その意味で私にとっては悪書中の悪書といってよい。科学者の仕事は、科学的知識を散りばめて自分の信念を表明することである。そこに、思い込みや勘違い、はたまた誤謬(ごびゅう)や嘘が入り込む余地が大いにあるのだ。科学者だって「にんげんだもの みつを」だ。すなわち、科学者の一部、あるいは大半が「トンデモ野郎」ということだ(←言い過ぎだ)。


 早速、エントロピーを学ぼう。以下のページを読めば十分だ。

 これでも難しいという人は、次に挙げるテキストをマスターしてから臨んだほうがいいだろう。ニュートンからアインシュタインまでの流れ、そして量子力学宇宙論、更に脳科学は、世界を読み解く上でどうしても不可欠となる。

 で、ボルツマンだ――


 ボルツマンの発想は単純そのものだった。彼は、いわゆる〈巨視的(マクロ)状態〉と〈微視的(ミクロ)状態〉、つまり、物質の巨大な集合体の属性と、その物質の個々の構成要素の属性を区別したのだ。マクロ状態とは、温度、圧力、体積などだ。ミクロ状態とは、個々の構成要素の振る舞いの正確な記述から成る。


【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ/柴田裕之訳(紀伊國屋書店、2002年)】


 これを解説した素晴らしいページが以下――

 科学の世界も政治に支配されていることが、よくわかるだろう。人間が集まれば、必ず欲望と功名心と利害というパラメータが働く。そして、真理を証明する者は葬られるのだ。歴史は繰り返す。巡る因果は糸車、だ。


「神は細部に宿る」ことをボルツマンは立証した。だが、神はボルツマンを助けなかった。そんな神様が、あなたや私を助けるわけがないわな。

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

2008-10-24

ジェフリー・ディーヴァー


 1冊読了。


12番目のカードジェフリー・ディーヴァー/リンカーン・ライム・シリーズの第6作目。案の定、長くは持たなかった。3日で読み終えてしまったよ。だって、523ページしかないんだもの。本の重さすら気にならないよ。これは、「家族の物語」だ。3分の2くらいのところで少々失速するのも、そのせいだ。16歳の少女ジェニーヴァと、彼女を付け狙う殺し屋。複雑なのは、双方の家族が二層構造となっているためだ。それがわかると、物語は突然、深みを増す。理想と現実、虚像と実像とが入り乱れる。欲を言えば、冒頭部分で「家族の物語」であることを強く示唆すべきであったと思う。

羽生善治の集中力/『決断力』羽生善治


 明晰な頭脳を窺わせる文章で読みやすい。プロ棋士の仕事が「先の手を読むこと」とすれば、彼等に政治を担ってもらったほうが、この国はよくなりそうな気もする。


 で、羽生善治の集中力はこうだ――


 私が深く集中するときは、スキンダイビングで海に潜っていく感覚と似ている。

 一気に深い集中力には到達できない。海には水圧がある。潜るときにはゆっくりと、水圧に体を慣らしながら潜るように、集中力もだんだんと深めていかなければならない。そのステップを省略すると、深い集中の域に達することはできない。焦ると浅瀬でばたばたするだけで、どうもがいてもそれ以上に深く潜っていけなくなってしまう。逆に、段階をうまく踏むことができたときには、非常に深く集中できる。

 これ以上集中すると「もう元に戻れなくなってしまうのでは」と、ゾッとするような恐怖感に襲われることもある。


【『決断力』羽生善治(角川oneテーマ21、2005年)】


 凄いよね。虫眼鏡で光を集めるよりも凄い。「集中力」とは全意識を一点に定めることであろう。とすると、余計な情報を「捨てる」ことでもある。本当に集中していれば、周囲の景色や音も消える。その意味で、ダイビングの例えは上手い。


 また、「戻れなくなってしまうのでは」という言葉は、時間が無限に長くなってゆくことを意味していると思う。つまり、意識のスピードが光速に近づいているに違いない。ということは、通常だと100m/秒のスピードとされるニューロンが、羽生善治の頭脳では30万km/秒の速度で駆け巡っているのだろう。たとえ、将棋の駒から煙が出たとしても私は驚かないぞ。


決断力 (角川oneテーマ21)

2008-10-23

オムツにしない工夫こそが介護/『老人介護 常識の誤り』三好春樹


 入力したテキストを見直していたところ、書き忘れていることに気づいた。ここのところ、読むペースが異様に速い。ちなみに私は、「」というテキスト編集ソフトを使用している。


 時間の概念を持つのは人間だけだとされている。果たして本当なのだろうか? 嘘だ。賢くなりたいのであれば、もっともらしい常識を疑うことから始めるべきだ。フランス・ドゥ・ヴァール著『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』によれば、類人猿にも時間の概念があることがわかる。


 するってえと、脳機能が高度になればなるほど、時間感覚が発達すると考えることが可能だろう。鶴が千年先まで見通して何らかの計画を練ることはないし、亀が万年の歴史における自分達の存在について何かを発表することもない。


 幼い頃を振り返ってみれば、もっとわかりやすい。小学生だった自分が、まさか本当に大人になるとは予想だにしなかったはずだ。蝶を追いかけ、マサコ(幼馴染みの女の子)の家の栗の木に登り、「やるな」と言われたことを追求し続けたあの頃、時間の概念は次の日曜日くらいまでしか存在しなかった。


 歳をとるにつれて、時間の概念は豊かになる。中年期を過ぎると、歴史をひも解いて人類の行く末に思いを馳せたりする。


 前置きが長くなり過ぎた。私が言いたいことはこうだ。「後先を考えない行為は愚かである」以上。あらゆる事態を想定して先の先まで読む。これが賢さである。羽生善治の如し(うわあ、『決断力』も紹介してなかったよ)。


 未来を志向できない人物は、やることなすことが“やっつけ仕事”となる。今さえよければいいってこったな。


 介護の現場ではこうだ――


 オムツにしない工夫こそが介護なのである。オムツに出た便を処理するのは、介護ではなく“後始末”にすぎない。


【『老人介護 常識の誤り』三好春樹(新潮社、2000年/新潮文庫、2006年)】


 わずかな言葉でありながら、介護に対する骨太の姿勢が光っている。介護というのは、言ってみれば「転ばぬ先の杖」のようなものだ。そこに求められているのは、「自分が杖になる覚悟」であろう。もちろん、「杖」は道具であり手段である。だからこそ、「無私」の人でなければ務まる仕事ではない。たとえ、ヘルパーであろうと、同居家族であろうともだ。


「介護」という言葉は美しい響きを伴っている。しかし実際は、他人のウンコを触れるかどうかという選択を強いられているのだ。


 三好春樹は常々、「“寝たきり”の多くは、“寝かせきり”」と言う。介護の難しさは、“家族の許容範囲”が家庭によって異なり、家族それぞれによっても異なる点にある。はたまた、知識や技術、工夫や知恵を知らない家族が多過ぎることも見逃せない。


 間もなく超高齢社会に突入する。あなたや私が介護される日も、やがて訪れるかも知れない。その時、「自分はどうされたい」であろうか? そんな想像力こそ、介護する側に求められているのだと思えてならない。

老人介護 常識の誤り (新潮文庫)

「IMFの父」はソ連のスパイだった/『秘密のファイル CIAの対日工作』春名幹男

    • 「IMFの父」はソ連のスパイだった

 いやあ、たまげた。だって、IMF(国際通貨基金)をつくった人物がソ連のスパイだったって言うんだもの。


 会議は(ハリー・デクスター・)ホワイト(米財務長官首席補佐官)とそのスタッフが牛耳った。詰めの交渉で突然、それまで論議されたこともない項目を協定の中に盛り込み、他国の代表を驚かせたりした。

 結局、IMF協定と国際復興開発銀行(世界銀行)協定を含めたブレトンウッズ協定が採択された。ホワイトの構想を基本にケインズ案の特色を加味した内容となった。まさにこれが、戦後の国際的な通貨・金融体制の出発点となった。ホワイトを「IMFの父」と呼んでもよいかもしれない。

 そのホワイトが実はソ連のスパイだったのである。


【『秘密のファイル CIAの対日工作』春名幹男共同通信社、2000年/新潮文庫、2003年)】


 しかしながら問題は、IMF設立に工作の意図があったか否かである。例えば、IMFが具体的にソ連を利した事実はあるのか? それについては何も書かれていない。ウウム、困ったものだ。スパイ合戦が何となく馬鹿げて見えるのは、諜報戦の最終形が「世界各国の大統領をスパイに仕立てる」ところまで行き着いてしまうためだ。


 尚、ハリー・デクスター・ホワイトについては、以下の情報も参照されよ。

秘密のファイル(上) CIAの対日工作 秘密のファイル(下) CIAの対日工作


秘密のファイル〈上〉―CIAの対日工作 (新潮文庫) 秘密のファイル〈下〉―CIAの対日工作 (新潮文庫)

(※上が単行本、下が文庫本)

「ホロコースト=ユダヤ人大虐殺」という構図の嘘/『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン

 ホロコーストでは600万人の人々が虐殺された。で、この600万人を我々はユダヤ人だと完全に思い込んでいる。何を隠そう、この本を読む直前に私もそう書いた。

 で、その根拠は何かと言うと、『アンネの日記』だったり、『夜と霧』だったり、『ショアー』だったりするわけだ。


 では本当にユダヤ人だけがユダヤ人という理由だけで大量虐殺されたのか?


「ホロコースト時代について誰もが認める専門家」として判断を任されたヴィーゼルは、ユダヤ人が最初の犠牲者であると強調した上で、「そしていつものように、ユダヤ人だけでは済まなかった」と主張した。しかし、政治的に最初に犠牲となったのはユダヤ人ではなく共産主義者だったし、大量殺人の最初の犠牲者も、ユダヤ人ではなく障害者だった。

 またジプシーの大量殺人が突出していたことも、ホロコースト博物館としては認めがたいことだった。ナチは50万人のジプシーを組織的に殺害したが、これは比率で言えば、ユダヤ人虐殺にほぼ匹敵する犠牲者数である。


【『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン/ 立木勝訳(三交社、2004年)以下同】


 この事実だけでも、捏造された「ザ・ホロコースト」の巨大な影を垣間見ることができよう。「ザ・ホロコースト」は、歴史としての「ナチ・ホロコースト」を隠蔽する。そして再び目の前に出されると、姿を変えてゆくのだ。ユダヤ人に有利に働くよう、歴史は加工・修正されてゆく。


 で、現代のアメリカにおいて、ユダヤ人はどのような立場を占めるに至ったか?


 黒人、ラティーノ、ネイティヴ・アメリカン、女性、ゲイ、レズビアンも含めて、自分たちは犠牲者だという非難の声をあげるグループのうち、ユダヤ人だけは、アメリカ社会において不利な立場におかれていない。実際には、アイデンティティー・ポリティクスとザ・ホロコーストがアメリカのユダヤ人に根づいたのは、犠牲者としての彼らの立場が理由ではない。理由は、彼らが犠牲者ではなかったからだ。

 反ユダヤ主義の障壁は第二次世界大戦後、急速に崩れ去り、ユダヤ人は合衆国内の階層を上昇した。リプセットとラーブによれば、現在、ユダヤ人の年収は非ユダヤ人のほぼ2倍だ。もっとも富裕なアメリカ人40人のうち16人はユダヤ人だし、アメリカのノーベル賞受賞者(科学および経済分野)の40パーセント、主要大学教授の20パーセント、ニューヨークおよびワシントンの一流法律事務所の共同経営者の40パーセントもユダヤ人である(以下、リストは延々と続く)。ユダヤ人であることは、成功への障害になるどころか、その保障となっている。多くのユダヤ人は、イスラエルがお荷物だったときには距離をおき、資産になったら途端にシオニストに生まれ変わった。それとまったく同様に、彼らはユダヤの民族アイデンティティーが負担だったときにはこれを遠ざけておきながら、資産になったら急にユダヤ人に生まれ変わったのである。


 日本人が中々理解し難いのは、キリスト教を始めとする宗教勢力攻防の歴史を知らないことと、いまだに世界でまかり通っている人種差別の概念に乏しいためだ。こうした無知にこそ、操作された情報が忍び込む膨大な余地がある。


 歴史とはアイデンティティそのものと考えられる。つまり、歴史を操作することは人格改造に等しい。そして問題は「誰が得をするのか?」という一点に尽きる。

ホロコースト産業―同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち

2008-10-22

キャプテン・クランチという名のハッカー/『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆


 小田嶋隆の得意技に「企業批判」がある。いずれの場合も、大手企業を名指しでコテンパンにこき下ろしている。多分、ジャーナリスティックな文章を書こうと思えば、いつでも書けるのだろう。しかし、声高な主張は耳障りだ。そして、正しければ正しいほど、人は自分の姿を見失う。だからこそ、オダジマンは唾を吐き捨て、小便を引っかける。そして時々、ゲロも(笑)。


 アメリカに、「キャプテン・クランチ」と呼ばれている男がいる。

 こいつは、ある日、子供向けの駄菓子(クランチ)のおまけに付いている笛の音が、電話の交換機を動作不良に落とし入れることを発見し、以来、20年以上にわたって数々の「電話タダ掛け法」を案出しては世間に公表し続けている、まことに物騒元気迷惑天晴(あっぱれ)な男だ。

 このB級アニメのヒーローみたいな名前を持った男の話を軸に、「電話」について考えてみたい。

 ところで、なぜ、おもちゃの笛が交換機を狂わせるのかというと、電話が、基本的には、トーン(音の高さ/周波数)で制御されているものだからだ。

 たとえば公衆電話では、電話本体のプッシュボタンを押さずとも、受話器を取って「ピッポッパ」と一定の高さの音さえ送り込めば、ダイヤルをすることができる。

 かように、電話の仕組みは、19世紀にベル博士が発明して以来、ほとんど変わっていない、至極単純素朴なものだ。電線が2本、プラスとマイナス、そこに電気が流れている……それだけだ。

 ところが、我がNTTは、どこで何を勘違いしたのか、「ハイテクの王者」みたいな顔をしていらっしゃる。

「街にアクセス」

 お笑いだ。

 NTTなんてものは、言ってみれば、国家御用達の配管工だ。彼らは、国中の水道の蛇口の利権を押さえていて、でもって、言い値で水を売っている。

 こういう御用商人の生きザマ(あるいは死にザマ)を「民活」だと思っている人がまだ生き残っているのだとしたら、ぜひ、警告を与えておきたい。

 あの会社は、コミュニケーションという、人間にとってもっとも基本的な行為を独占して商売にしている、寄生虫なのだ。(中略)

 もちろん、常識で考えれば、キャプテン・クランチは、犯罪者だ。

 が、彼自身は自分のことをそう考えてはいない。他の多くのフォーン・クリーク(電話マニア)も同様で、彼らは自分たちを「国家および企業による情報の独占に抵抗する戦士」だ、ぐらいに考えている。

 つまり、彼らに言わせれば、情報が資本を形成する以上、コミュニケーションの手段に対して課金することは、一種の言論弾圧であり、ひいては情報という現代社会にとって不可欠なものを媒介とした独裁につながるわけなのである。

 この、彼らの議論が正当であるのかどうかはともかくとして、ひるがえって日本の現状を見るに、こんなことを言う奴はひとりもいない。

 私にはそれが残念でならない。

 たとえば、長距離電話ひとつをとってみても、NTTが徴収している料金はアメリカのそれに比べて格段に(めまいがするほどに)高い。それなのに、この国には、文句を言う奴が出てこない。

 きっと、我らが無邪気な国民は、電話料金というものを、電車の運賃と似たような感覚でとらえているのだろう。

 運賃なら、「遠いから高い」というものわからないではない。実際に、物理的な重量を持ったものを運ぶ際には、距離に比例して燃料も経費も余分にかかるからだ。

 しかし、考えてみてほしい。

 電話の場合、運ぶのは電気である。線さえ引いてしまえば、どこに運ぼうが、たいした違いはないのである。

 しかも、その「線」は、NTTが電電公社だった頃に、我々の税金を使って引いたものなのだ。

 にも関(ママ)わらず、NTTは異常な料金を取り立て続け、競争相手もいないくせに、

「民間企業です」

 ってな顔をしてやがる。


【『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆徳間書店)】

 日本国民は収奪される。「寄らば大樹の陰」「長い物には巻かれろ」「触らぬ神に祟りなし」という思考法が抜けないうちは、収奪されている事実にすら気づかないことだろう。


「情報化社会」は「情報管理下社会」でもある。ジャーナリズムは権力の支配下に置かれ(記者クラブ制度ね)、社会の全体像や本質が見えにくい時代となった。紙吹雪みたいな細切れの情報が人々を翻弄する。


 キャプテン・クランチの行動と小田嶋隆の文章に共通するのは、我々の眼(まなこ)を開く力があることだ。

「ふへ」の国から ことばの解体新書

2008-10-21

東浩紀、大澤真幸、春名幹男


 2冊挫折。余生の貴重な時間を優先した。


自由を考える 9.11以降の現代思想東浩紀、大澤真幸/対談でこれだけ難しい話をするたあ、驚いたよ。それにしても、どうしてこんなに小難しい理屈になるんだろうね? これじゃあ、大衆は耳を傾けないよ。特に大澤の話がチンプンカンプン。


秘密のファイル CIAの対日工作(上)春名幹男/いい本なんだろうけどね。多分、資料に寄り掛かり過ぎているのだと思う。文章が無味乾燥なんだよね。その上、焦点が定まっていない。この淡々としたテキストを、私はどうしても一気に読めない。教科書を読んでいるような印象を受けた。

夢は脳による創作/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 脳が賑やかだ。もちろん私の脳ではない。脳神経科学、脳機能科学にまつわる書籍が随分と出回っている。日本における草分けは養老孟司と言ってよいだろう。『唯脳論』を発表したのが1989年だから、もう20年も経つ。その後、1991年に放映されたNHKスペシャル「アインシュタインロマン」で一躍有名になった。


 多分、脳科学がどんどん発展していることと思われるが、それと共に数学や物理学の進化も見逃せない。複雑系量子論、はたまた超ひも理論などは、外なる宇宙を解明しつつ、内なる宇宙にまで迫っているのだ。


 宇宙は無限である。そして、進んだ距離に比例して無限を実感できる。前進し続ける科学は、遂に宗教と同じ町内に引っ越してきている。二人が結ばれるのは、あと数十年後のことか。


 夢とは何か。脳の働きである。そして夢は、どのように語られるのか――


 別な言い方をしよう。首に冷たいものが当たる。睡眠中の脳では、その知覚が、「ギロチンで首を切られる」連想を生じる。それがこの夢の主体である。しかし、首を切られるについては、他の連想も生じるであろう。それらの連想は、もし記憶されているとすれば、覚醒後に、いま見ていた「夢の話」として「語られる」。しかし、「語る」ためには、話に順序がなければならない。覚醒した脳は、話を「順序立てて」語る癖がある。そうしなければ、「話にならない」からである。こうして、「夢の話」とは、おそらく覚醒後に、睡眠中に起こった脳内のできごとを、「言語表現となるように」語るものだ、ということになる。


【『カミとヒトの解剖学』養老孟司法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)】


 私は昨年、「思想とは物語であり、人間は物語に生きる動物である」という悟りに達した(笑)。ここで養老孟司が言っていることは全く同じである。ただし、私が「物語」に基盤を置いているのに対して、養老孟司は「脳」というスタンスに立っている。これまた、養老孟司に言わせれば、「物と機能の違いに過ぎない」(『唯脳論』)ことになる。


 人間の情として、「脳が全てだ」という議論にはいささか抵抗を持つ人が多いことだろう。それは、「頭でっかち」という幼少期の悪口にトラウマを感じていることと無縁ではあるまい。しかし、だ。「馬鹿の大足、間抜けの小足、ちょうどいいのは俺の足」とも言うのだ。つまり、「頭でっかち」はバランスの悪さを指摘していることになる。


 あるいは身体性が、脳内に押し込まれるようで違和感を覚えるという意見もあるだろう。そう、私の意見だ(笑)。身体全体を司っているのが脳であることに疑問の余地はないが、身体との双方向性を無視することはできない。つまり、身体からの刺激が脳内のネットワークを書き換えることだって、十分に考えられる。運動、労働、修行が持つ身体性を侮ってはなるまい。


 だから、「ネットワークとしての脳」と考えるべきだろう。そして、「ネットワーク」という仕組みこそ「物語」であるというのが私の持論だ。これを端的に説いたのが、仏教の「縁起」思想であろう。

カミとヒトの解剖学 カミとヒトの解剖学 (ちくま学芸文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

洗練された妄想/『我が心はICにあらず』小田嶋隆

 小田嶋隆のコラムデビュー作。まあ凄いよ。150kmのナックルボールと言ってよい。電車の中で読んだら、間違いなく白い目で見られることだろう。噛み殺せる程度の笑いじゃ済まないからだ。本を読んで、これほど笑い転げたのは初めてのことだ。


「何を探してるの?」

 秋葉原の電気街をぶらついていると、店のお兄ちゃんが行く手をさえぎっていきなり話しかけてくる。

 たとえば、ここが秋葉原でなく、話しかけてきたのがパンチパーマでなく、私が私でないのならこの質問にももう少し答えようがある。仮に私が砂浜で桜貝を集めている傷心の男で

「何かお探しのものですか」

 と声をかけてきたのが妙齢の女性ということにでもなれば、私も確信を持って

「未来を探しているのです」

 と答えることができる。すると彼女は花のように笑ってこう言う。

「それで、もうお見つけになって」(育ちが良いのだ)

 そこで私は、たっぷり2秒間彼女の目を見つめたあとにこう言う。

「たったいま見つけたところです」

 ところがここは秋葉原で、話しかけてきたのはパンチパーマで、私はといえば桜貝で癒せるような傷心は持っていない(赤貝でもやっぱりダメだ)。


【『我が心はICにあらず』小田嶋隆(BNN、1988年/光文社文庫、1989年)】


 妄想は、想像の母だ。そして、想像は創造と婚姻関係にある。とすると、全ての芸術は妄想の孫と言ってよい(よいわけねーだろーが)。


 秋元康の向こうを張るほどの臭さだ。だが臭さを極めてしまえば、ドリアンや銀杏のように多くの人々を魅了してしまうのだ。そして、小田嶋隆の妄想は、秋元よりも洗練されていて文学的だ。その上、オチもある。


 人は笑うと無防備になる。笑いは心を開放するからだ。オダジマンはそこに毒を吐きつける。揶揄・嘲笑・愚弄という成分の毒が全身に行き渡り、読者は餌食となる。小田嶋隆は、現代という砂漠を駆け抜けるサソリだ。

我が心はICにあらず(単行本)


我が心はICにあらず(文庫本)

2008-10-20

キェルケゴール


 1冊挫折。


死に至る病』キェルケゴール/20ページで挫ける。私が持っているのは昭和48年発行の41刷なんで、とにかく活字が小さい。そして、余白は焼けており、本からは妙に甘ったるい匂いがする。「死に至る病とは絶望のことである」。ほう、そうかい。じゃあ、「死に至らない病は絶望ではない」ってことだな。貴様、本当にそれでいいんだな? と少々逆ギレ気味(笑)。余生の時間を思えば、読みたくない本に費やす時間はないのだよ。「絶望」とは、「神は死んだ」ってことかもね、

教祖・苫米地英人


 苫米地英人、二度目の登場。いやあ、相変わらず凄い(笑)。

2008-10-19

多田富雄


 1冊読了。


免疫の意味論多田富雄/既に古典と化した感のある作品。読もう読もうと思いながら、そのままになっていた。「『自己』を規定しているのは免疫系であって、脳ではないのである」との断言に痺れる。専門用語が多いので、すっ飛ばしながら読むことを勧めておこう。アレルギーや癌についても、独特の高い見識を示している。

幼少期の歪んだ価値観が肉体を破壊するほどのストレスと化す/『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ

 珍しい名前なんでアジア人かと思いきや、カナダ人医師だった。「ストレス理論」の提唱者ハンス・セリエ博士の弟子でもある。


「2200円でソフトカバーはねーだろーよ」と思ったが、400ページあったので許そう。


 自己免疫疾患ALS、はたまた乳癌やアルツハイマー型痴呆症までが、ストレス由来の可能性があると指摘している。


 ハンス・セリエ博士がストレス学説を発表したのは、1936年(昭和11年)の『ネイチャー』誌上(「種々の有害作用から生ずる一症候群」)でのこと。そんなに古かったんだね。で、誤解している人が多いが、ストレスそのものは否定されるべき代物ではない。人間には「適度なストレス」が必要とされている。


 問題は負荷の掛かり方だ。例えば互いに好意を抱いている男女がいたとしよう。やがて、二人の間には愛情が芽生え、ムフフという関係になる。この時点でムフフは快感だ。時は移ろい、四季は巡る。ある時、女性の中に秘められていた性的嗜好が目を覚ます。女は鞭とローソクを用意して男を縛り上げたのだった。男が感じたのは痛みだけであった。とまあ、性的なコミュニケーションと暴力ですら、力の加減によるものなのだ。


 そもそも、産道を通る時だってストレスを感じたであろうし、我々は24時間地球に引っ張られているのである。自分の体重ですらストレスの要因となりかねない。ストレス解消のために食べる→体重が増える→膝関節と靴底に負荷が掛かる→またぞろ食べる、これがストレス性デブの無限スパイラルだ。数年後には地面の中に足がめり込んでいることだろう。


 メアリーのからだは、彼女の心ができなかったことを実行していたのではないだろうか? 子供のころは無理やり押しつけられ、大人になってからは進んで自分に課してきた執拗な要求――常に自分より他者を優先する生き方――を拒絶するということを。1993年、医学コラムニストとして初めて『グロー、アンド・メイル』紙に執筆した記事で、私はメアリーのケースを採りあげ、今ここに記したような見解を披露した。そしてこう記した。「ノーと言うことを学ぶ機会を与えられずにいると、ついには私たちのからだが、私たちの変わりにノーと唱えることになるだろう」。コラムには、ストレスが免疫系におよぼす悪影響に関する医学論文もいくつか引用しておいた。


【『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ/伊藤はるみ訳(日本教文社、2005年)】


 価値観は選べない。なぜなら、生まれて来る時に親を選ぶことができないからだ。人は誰もが「正しくありたい」と望み、「正しくあろう」と努力する。ところが、そうした正義感が教条主義と化せばストレスとなってしまう。「大義のために死ね」ってことだ。


 ところが「正しい行為」が習慣化されていると、行動しない場合、更なるストレスに襲われる。こうなると背水の陣どころか、四方八方すべて海だ。がんじがらめの緊縛プレイ。縛り上げられたマゾは、動くだけでもロープが食い込み身体が痛む。


 このような人生を歩むことによって、「ノー」と言えなくなる。だが、負荷は掛かり続ける。そして、信号機が黄色になるように、ウルトラマンの胸のカラータイマーが点滅するように、肉体がシグナルを発する。これが病気だ、というのが本書の骨子。


 かなり説得力がある。私なんぞは完全に鵜呑みにしている。本のページ数に限りがあるためと思われるが、反対意見を紹介すれば、更なる説得力が増すことだろう。女性で、その辺の下らないカウンセラーに金を払っている人がいれば、本書を読んだ方がましだ。自分を理解する一助となることだろう。

身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価

2008-10-18

戦争は「質の悪いゲーム」だ/『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆


 3分の1ほどがゲームソフトのレビューだ。それでも、ゲームにまるで関心のない私に読ませるのだから、オダジマンのペン先の鋭さには恐れ入ってしまう。


 小田嶋隆の著作を読むと必ずと言っていいほど反戦志向が窺える。だがそれは、ありきたりな平和論とは全く異なる。言ってみれば、毒をもって毒を制する手法だ。オダジマンは、戦争を揶揄し、嘲笑し、愚弄し、ゲロを吐きかける。小悪でも大悪に反対すれば大善となるが如し。


 この態度には当然、賛否両論があることだろう。だが、私は「よし」とする。なぜなら、私はオダジマンが吐き捨てた唾(つば)に魅了されてやまない一人であるからだ。言論の世界にあって、誠実なストレート球は時として、思いっ切り打ち返される羽目となる。オダジマンが投げるのは、打者がのけぞるようなクセ球なのだ。たとえデッドボールになっても大丈夫だ。相手チーム全員にぶつければ試合は続行できないのだから。


 で、告白するが、今回の戦争(※湾岸戦争)を、私はあくまでもゲームとして観ている。

 不謹慎な話だが、私以外にも、そういう人は多いと思う。彼ら(私も含めて)は、口では人命の尊さや戦争の非人間性を唱え、街頭でマイクを向けられれば「ええ、戦争には絶対に反対です」などと言っているが、その実、ニュース報道を面白がっていたりするのである。

 恐ろしいことだ。

 戦争は、マクロ的な視点から見れば、確かにひとつの面白いゲームなのだが、ミクロの目で戦場を見てみれば、そこは単なる地獄だ。その地獄を、面白がっているのであるから、これは、どう考えても、絶対にふざけきった話であり、弁解の余地はまるでない。

 でも、一言だけ弁解させてください。

 私のような無責任な面白がりは、絶対に戦争をしないのだ。ゲームにはつき合っても戦争にはつき合わないのである。

 歴史を振り返ってみれば明らかな通り、戦争は、戦争を「面白がる」余裕なんてさらさら持ち合わせず、眉間にしわを寄せてリキみ返り、「正義の感情」にたやすく身を焦がし、そして、最終的には「平和を守る」ために「闘って」しまうような、そういう小児的熱血挺身傾向の人々によって引き起こされるものなのだ。

 我々ゲーマーは、戦争みたいな、洗練度の低い、質の悪いゲームにはつき合わない。せいぜい高見の見物を決め込んで、嘲笑するだけだ。


【『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆朝日新聞社、1992年/朝日文庫、1995年)】


 確かにそうだ。いつだって、そうだった。戦争は緊迫しきった状況の中で、やむを得ざる判断として遂行されてきた。政治家どもが「苦渋の選択」なんて言い出す時は、間違いなく陰で舌を出していることだろう。半世紀前は国家の危急存亡を叫び、今世紀に至っては国際社会における人道支援という大義名分で、我が国は戦争に加担してきた。


 そもそも、日本が戦後の貧困を脱することができたのは、朝鮮戦争による特需だった。そして、ベトナム戦争が高度経済成長に、湾岸戦争がバブル景気に、イラク戦争が「いざなぎ景気超え」に直接結びついていた。つまり、米国が戦争を始めれば、日本経済は潤う仕組みになっているのである。アメリカが風邪をひけば日本がくしゃみをし、アメリカが暴力を振るえば日本の懐が暖かくなるってこったな。


 そして、戦地という地獄に送り込まれるのは、いつだって無名の庶民だ。女性という女性は頼んでもいないのに、銃後を守らされてしまうのだ。戦地と無縁なのは政治家と官僚だ。連中は文民として統制する側の人間だ。コントローラーを握っている者が気にかけるのはスコアだ。死んだ兵士のために涙を流す暇などない。得点、また得点だ。


「小児的熱血挺身傾向」がある人ほど憎悪を煽られやすい。サラエボアフガニスタンで起こったことを我々は直視しなければならない。そして、小田嶋隆と共に唾棄してみせるのが、人間として正しいあり方だろう。

パソコンゲーマーは眠らない(単行本)


パソコンゲーマーは眠らない(文庫本)

日本プロパテー


「南出」と名乗る若造からテレアポがあった。「投資目的でワンルームマンションのオーナーになりませんか?」という相も変わらぬ与太話。よくよく訊いてみると、「節税対策」だなんてぬかしていた。色々と説教をしてやって、「まだ若いのだから、そんな会社に長くいない方がよい」と言っておいた。それでも、私のアドバイスの貴重さが理解できないようで、やや逆ギレ気味になって「あなた様は――」だってよ。あなた様もこなた様もねえよ。

 マンション経営・マンション投資が近年、再度脚光を浴びています。その形もワンルームマンションの保有から利用へと、金融商品化してきており、私たち日本プロパテー株式会社は、その活かし方をお客様にご提案します。


 一体いつどこで脚光を浴びたと言うのか? しかも、REIT市場が下落しているこの時にだ。馬鹿も休み休みに言えってんだよ。大体、本当に儲かるのであれば客に紹介するわけがない。奴等の仕事は、不動産に疎い素人から手数料をふんだくることだ。


 業務内容に「建築工事及び設計、施工、監理、保守、請負」とあるのを見ると、自社で建てたマンションの販売が目的なのかも知れない。


 南出君は下の名前を尋ねると拒否した。以下のコンプライアンスを弁えているテレアポ要員は殆どいない。


電話勧誘販売】当社は幼児用教材の販売を行う会社ですが、電話にて見込み客に営業をかけています。電話する際、最初から勧誘目的や会社名を告げると警戒されてしまいますので、アンケートと言って探りを入れているのですが、問題はないでしょうか。




 特定商取引法第16条は下記の通り規定しています。


(電話勧誘販売における氏名等の明示)

 第十六条 販売業者又は役務提供事業者は、電話勧誘販売をしようとするときは、その相手方に対し、販売業者又は役務提供事業者の氏名又は名称及びその勧誘を行う者の氏名並びに商品若しくは権利又は役務の種類並びにその電話が売買契約又は役務提供契約の締結について勧誘をするためのものであることを告げなければならない。


 御社の営業方法は「電話勧誘販売」の定義に該当する可能性が高いですから、氏名や電話した目的等は開示しなければ違法となります。真にアンケート目的であれば別ですが、物品の販売意思を併有している場合には、この条項の適用対象となるでしょう。


知的財産の法務ネット


 Googleに登録されていたキーワードを貼りつけておく。

2008-10-17

癌治療功労者列伝/『がんというミステリー』宮田親平


 この新書は「癌治療功労者列伝」といった趣がある。日本人がこれほど活躍していたとは露知らず。驚かされた。


 厚生労働省は癌のことを「悪性新生物」と呼称している。これじゃあまるで、「ウルトラQ」に出てくる怪物みたいだ。まったくセンスがない。どうせなら、「無限増殖細胞」とか「不制御異常細胞」にすべきだ。そもそも癌治療が難しいのは、体内で発生するためなのだ。


 癌治療の進展は好ましい。莫大な経費と人員と時間を要していることだろう。では、癌を撲滅すればどれくらい寿命が延びるのか?


 がんをもし絶滅することができたとしても、平均寿命を2年ないし3年延ばすことができる程度だといわれる。老年に死は必ずやってくる。その死亡原因の一つとしてがんを避けることはできない。


【『がんというミステリー』宮田親平(文春新書)】


 エ、そんな程度なの? 2〜3年の延命のために医学界と薬品メーカーは血道をあげていたんだ(※「血道をあげる」の誤用)。


 だが、癌で苦しむ人々が存在する限り、医学は克服への努力を惜しまず、薬品メーカーは癌が死因の第一位である限りビジネスチャンスを見込んでいる。医は算術、薬は商品。死に群がるのはハイエナ。


 大衆消費社会において、個々の善意はあまりにも無力だ。雇用というコミットメントをした以上、マーケットの論理に支配されてしまう。資本主義とは、人間が資本の奴隷となることを宣言した経済原理なのだ。


 しかし、この本に登場する研究者は熱と光を放っている。暗闇の中を手探りしながらも前へ前へと進む潔さがある。彼等の目的は金ではなかった。名声や地位ですらなかったことだろう。「無私」といえるほどの集中力を発揮しながら、彼等はただただ癌を見つめていた。


 綺麗事を言うつもりは更々ないが、癌を抑制したのは彼等の「善意」であったように思われてならない。

がんというミステリー (文春新書)

トール・ノーレットランダーシュ


 1冊読了。


ユーザーイリュージョン 意識という幻想トール・ノーレットランダーシュ/518ページで4200円。十分お釣りが来るよ。1万円札をレジで出せばの話。もちろん冗談だ。声高らかに宣言しておくが、これは安い。私の読書経験から申し上げれば、各章が優れた一冊の書籍に匹敵するほどの代物だ。意識の本質が幻想であることを説いているのだが、その導入部としてマックスウェルの怪物から、情報エントロピー、アルゴリズム、複雑系情報理論、コミュニケーション論、心理学までが引用されている。「意識」が取り上げられるのは第3部で261ページ目だよ。正直に告白しておこう。私は一度挫折しかかった。そして飛ばし読みをしたところ、再度中断したところから読み直さざるを得なくなった。そして一気に読み切った。これは凄いよ。「意識を通してつくられた世界観、宇宙観」を「世界と宇宙」から見つめ直しているのだ。我々の頭蓋骨の中でぽっかりと地球のように浮かんでいる脳。意識とはさしずめ、稲妻程度の存在に過ぎないことが、よく理解できる。デンマークのベストセラーになったとか、そんなことはどうでもいい。はっきり言っておこう。この本は「現代の経典」に位置すべき作品だ。それほど凄い。機根を調(ととの)えておくために、『人類が知っていることすべての短い歴史ビル・ブライソン、『「量子論」を楽しむ本 ミクロの世界から宇宙まで最先端物理学が図解でわかる!佐藤勝彦、『数学的にありえないアダム・ファウアー、『夢をかなえる洗脳力苫米地英人、『生物と無生物のあいだ福岡伸一を読んでおくべきだ。

2008-10-16

ソ連によるアフガニスタン侵攻の現実/『国家の崩壊』佐藤優、宮崎学


 軍事技術の発達は「距離を獲得」したと言ってよい。すると、戦争とは縁のない我々は、離れた位置から敵を撃ち、砲撃するものと勝手に想像してしまう。当然、返り血を浴びることはなく、硝煙と爆発が戦場を支配する。


 ソ連軍によるアフガニスタン侵攻は、1979年から1988年まで続いた。ということは、バブル景気に酔い痴れていた頃までだから、ついこの間のことだ。だが、現実は凄惨を極めるものだった。


 戦車で走行していると、道の上で赤ん坊が泣いている。かわいそうだということで、その赤ん坊を取り上げて近所の村に連れて行くわけです。ところが、これが罠なんです。赤ん坊を連れていったソ連兵は、その村で捕まる。捕まったソ連兵はどうやって殺されるか。まず、ナイフで両目をえぐられる。それから耳ちょん切って、両手両足ちょん切って、それで急所をえぐりとって、生きたまま道路に投げて置くんです。その兵隊は発見されても、もう助かりはしない。そういうことを一度経験したら、ソ連軍は何をやるか。ヴェトナム戦争のときのソンミ村と同じことをやるわけです。村人全員を皆殺しにする。そうしたら、アフガンの村という村が憎しみの塊になって、今度またロシア人を捕まえたら同じようなことをする。そういう憎しみの連鎖……。

 こうした憎しみの連鎖の異常な状況に置かれると、人間というのは、あっという間に残虐なことでもなんでもする。やがてソ連兵は強姦を始める。それから買春か強姦か、あるいはその中間みたいなことをしょっちゅうやるようになる。砂糖かなんかをあげて、それで人を犯すということが平気になって、だんだん感覚が麻痺してくる。

 反体制派のサハロフが、当時の人民代議員大会で問題にしたことですが、アフガニスタンでソ連軍が味方の兵隊を武装ヘリで撃ったという事件がありました。軍は事実無根だと否定しましたが、私の教え子は「そういうことはたくさんあった」というのです。しかし、その真相はサハロフが言っているのとは全く違うと言うんです。

「ゲリラに捕まってしまったら、向こうには恨みがあるものだから、ひどいことになる。とくに女性たちが怖い。石を投げてメッタ打ちにしたり、鈍器で時間をかけて殺したりする。一つの小隊が包囲されて捕まったりすると、全員が、そういうふうにボロボロにされてなぶり殺しにあう。だから捕まってしまったら、そいつらが少しでも楽に死ねるようにと、武装ヘリを送ってソ連兵をみんな殺すんだ。もちろん、そのアフガンの村は全滅させる。そういうオペレーションをやるしかなくなってしまったんだ」と、アルベルトは言いました。


【『国家の崩壊』佐藤優宮崎学(にんげん出版、2006年)】


 果たして人間が人間に対して、これほどの仕打ちができるものだろうか? できる。実際にやっていたのだから。きっと、そうせずにはいられないほどの憎悪が燃え盛っていたということなのだろう。


 憎しみは加速する。加速した憎しみは反響し合う。ここまで来ると、「暴力」という次元ではない。残虐競争だ。そして、それをやらせているのは国を牛耳っている政治家で、やらされているのは大した責任もないその辺の兄ちゃんである。


 国に軍隊がある限り、国家は国民に対して残虐を強制する。このことは覚えておくべきだ。

国家の崩壊 (角川文庫)

野口晴哉、小田嶋隆


 1冊挫折、1冊読了。


風邪の効用』野口晴哉(のぐち・はるちか)/本当は『整体入門』を読みたかったのだが、こっちが先に届いてしまった。昭和37年に書かれた本である。「風邪は治すべきものではなく、経過するものである」と説いている。で、「風邪が治った後は、それ以前より体調がよくなっている」とも。だが残念なことに、著者は整体法の施術者であって、文章家ではなかった。問題は、科学的、医学的な裏づけがどこにも記されていないことだ。このため、「私の言うことは正しいから、必ず幸せになれる」と断言する新興宗教の教祖に見えてしまうのだ。数行読むたびに、「そいつあ、あんたの言い分に過ぎないよ」と難癖をつけたくなるほどだ。「背骨に意識を集中して呼吸を行えば、背骨に汗が出てくる。すると風邪は治る」というような件(くだり)を読んだ瞬間、私の背筋には冷や汗が流れた(ウソ)。文章力の次元において、トンデモ本であることは確かだ。


「ふへ」の国から ことばの解体新書小田嶋隆/ここのところ、オダジマン漬けである。ややパワーが落ちた感があるが、それでもそこいらに転がっているコラムと比較すれば、やはり抜きん出ている。「しゃべりスキン」の駄洒落には大笑い。この頃、2児の父になったことが書かれているので、口を糊(のり)するために書いていた可能性もありますな。

2008-10-15

サラエボ紛争の現実/『この大地に命与えられし者たちへ』写真・文 桃井和馬


 サラエボ紛争の本は数冊持っている。だが、一冊も読んでいない。その事実から言えば、私はサラエボ紛争には関心はあるものの、まだ関わろうとはしていない。


 二人の青年が笑顔で写真に収まっている。邪気のない顔つきだ。ローソクのような柔らかい光に包まれている。そして、桃井和馬の文章を読んだ――


 サラエボが激しい戦火に包まれたのは1992年から95年だった。

 街は血飛沫(ちしぶき)に染まり、死臭が満ち、絶叫と嗚咽(おえつ)、そして恐怖に支配された。

 推定死者数はおよそ20万人。原因は「民族問題」と称されている。


 イスラム兵士として戦った兄弟にサラエボの町で会った。

 無精(ぶしょう)ひげを蓄えた兄は、紛争時、極度の食糧不足の中で、革靴や皮のベルトを煮て食べたという。


【『この大地に命与えられし者たちへ』写真・文 桃井和馬(清流出版、2007年)】


 私の穏やかな沈黙が凍りついた。この世界には、ベルトや革靴を煮て食べなければ生きてゆけない現実が存在するのだ。そこまで人間を追い詰める世界にいながら、どうして私は平然としていられるのか?


 写真に写っている兄にとっては、既に過去の体験だろう。だが私にとっては、今現在知った事実なのだ。なぜ、私の頭は狂わないのだろう?


 激情と思惟が交錯し、ただただ胸が疼いている。一体全体、この私に何ができるのか?

この大地に命与えられし者たちへ

2008-10-14

ゴキブリ


 昨夜、踏み潰したはずのゴキブリ(小さなヤツだ)が、今朝、灰皿の中で手足を動かしていた。見た瞬間、少々たじろいだが、正確に煙草の火を押し付けた。ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、水虫菌だって、みんな生きているんだが決して平等ではない。殺す側と殺される側がいて、食べるものと食べられるものが存在する。何の罪もないゴキブリを殺しておいて、どうして私は平然としていられるのだろう?

苫米地英人、ジェフリー・ディーヴァー、佐藤優+宮崎学、小田嶋隆


 2冊挫折、2冊読了。


大好き!今日からのわたし。 愛される心とからだををつくる秘密の呪文集苫米地英人/これは、酷い代物だ。深夜の歓楽街で、「お客さん、いい写真がありますぜ」と売りつけられた写真が、動物の交尾や相撲の写真だったりする手口と一緒。「膨大な余白の中に何かあるんじゃないか?」と目を凝らして探してみたが、見つかったのは紙だけだった。きっと、いくつか紹介されている呪文に価値があるのだろう。それを見つけるまでに要した費用を、ベッチーはこの本で回収しようと企てたに違いない。だが、女子供(※差別用語です)であっても騙されることはあるまい。とにかく何度でも書いておこう。「酷い」よ。


クリスマス・プレゼントジェフリー・ディーヴァー/短篇集。まあ、そこそこ面白いんだけどね。でも、ディーヴァーとなると、やはり辛口にならざるを得ない。やっぱり、長編作家であることを痛感した。半分ほど目を通し、リンカーン・ライムとアメリア・サックスが登場する「クリスマス・プレゼント」を読んでやめた。ライムファンはこれだけでも読むんでしょーな。少々あざといね。Amazonの評価は意外にも高い。


国家の崩壊佐藤優宮崎学学生運動の残党である(違ったらゴメンナサイ)宮崎学が主催する研究会で行った質疑応答を編んだもの。ソ連がどのように崩壊してゆき、ゴルバチョフエリツィンにどのような役回りがあったかを検証している。最初の方は面白くないのだが、そこはさすがの佐藤優で、驚くべきエピソードを次々と挙げて、それ以降は完全に佐藤ペースとなる。相変わらずの博覧強記ぶりで、実際に現場にいた者のみが知り得る生々しさに溢れている。歴史の攻防と政治力学を、佐藤優は算数のようにやさしく教えてくれる。既に、論壇の中央に聳(そび)え立っている感がある。宮崎学の「まとめ」は完全な蛇足で、本書をかえって貶める結果となっている。


我が心はICにあらず小田嶋隆オダジマンのデビュー作。タイトルは高橋和巳をもじったもの(『我が心は石にあらず』)。いやあ凄いよ。自分でなるべく「凄い」という言葉を使わないよう心掛けているのだが、それにしても凄い。20代から30代にかけて書いたテキストの数々。まるで、自由自在に毒を吐きつける蜘蛛みたいだ。あるいは、「ペッ、ふざけんじゃねえよ」と唾を吐き捨てる下町のオヤジそのものだ。しかも、どんな距離からでも痰壷にちゃんと命中させることができるのだ。テレビに出ているお笑いなんかとはレベルが違う。辛辣、諧謔、風刺、嘲笑が渾然一体となって、桁外れに正確な言葉が狙った的を射抜くのだ。わたしゃね、散々声を上げて笑い、読み終えた後で手を合わせてしまったよ。それほどの傑作だ。尚、既に絶版となっているが、具体的なメーカー批判があるため、復刊は難しいだろう。

自閉症児を「わかる」努力/『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』酒木保


 軽度発達障害とされるアスペルガー症候群は「高機能自閉症」と訳されている。そこで、「じゃあ自閉症から調べてみるか」ということで本書を読んだ次第だ。


 まったくの見当違いだった。少し読んでから、三つ指をついて謝罪した。大体、初心者ってえのあ、「わかりやすいイラスト」を求めているだけなんだよね。とにかく、大雑把なアウトラインで構わないから全体像を知りたがるのだ。


 私が求めていた内容は全然違っていたが、最後まで読んでしまった。


 自閉症論を執筆するにあたり、つねに頭を離れなかったのは、「人は人がわからないということろから出発したい」ということでした。たとえきわめて密な人間関係であっても、「分からなさ」を覆すことは私は不可能に近いと考えています。

 なぜなら人は、自分の認識を通して他人を見ているからです。自分の認識を抜きにして、物や人を見ることは果たして可能なのでしょうか。

 よく「自閉症児は分からない」といわれます。しかし、分からないのは、何も自閉症児に限られたことだけではないと思います。

 そして、子どもたち、とりわけ障害を持った子どもたちを見ていると、「分かる」とか「分かっている」というのは、物事が自分の思い通りに動いていることを指しているにすぎないのではないかという思いにしばしば駆られます。

 なぜ、私たちは、「分かる」ことにこだわるのでしょうか。また、社会全体が、分かる、それもとにかく早く分かることにこだわりすぎているように思います。

 人は、分からないからこそ人との関係に悩み、少しでも分かろうとするための努力を続けます。しかし、「早く分かる」ことだけを求める時、人はしばしばこの努力を怠り、自分を安心させようとして勝手な解釈をしたり、相手を理解したつもりになります。

 何かにつけて急ぐことは、あまりよい結果をもたらしません。急ぐこにとよって、あるいは急がされることによって、人は大きな変化に遭遇することになるからです。大きな変化は、時には人をぐんと成長させることもあるでしょう。しかし、いまの社会を見ていると、そうでないことの方が多く、人間の環境に対する適応は、本来、細かな変化の積み重ねによって保証されていくのではないかと思うのです。


【『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』酒木保(PHP新書、2001年)】


 臨床に携わってきた人物ならではの真摯さ、誠実さ、ひたぶるなまでの真剣さが窺える。これは、冒頭のテキストなんだが、本全体というよりも著者自身の自閉症に対するスタンスをよく示している。


「その気持ちはわかる」と書いてしまえば嘘になる。わかるはずがない。何を隠そう私は自閉症児と接したことがないのだ。擦れ違ったことが何度かある程度だ。その上で敢えて書いておこう。私は著者のスタンスが気に入らない。


「善人ぶるんじゃねーよ」とまでは思わない。「色々とご苦労されてきたんだろうなあ」と感じる。だが、入れ込み過ぎだ。入れ込み過ぎとは、仕事の情熱や姿勢を指すわけではなく、ロジックが自閉症に傾き過ぎているということだ。“悪しきリベラル性”と言ってもよい。


 もちろん、そうした姿勢自体に善悪はつけられないだろう。しかし、中途半端な人のよさが、主張を曖昧なものにしてしまっているのだ。だから、もっとはっきりした言葉で、最初っから偏ったことを叫んでしまうのが正しいと私は考える。


「自閉症って障害を持つ子供がいるんだけどさ、治すのが難しいのよ。コミュニケーションも中々とれないんだよね。で、治療にも時間がかかる。問題はさ、あんまり関心を持つ人がいないってことなんだよね。だけどさ、この本を読んで、あんた放っておける? あんたんところに生まれてくる子供がさ、自閉症になる可能性だってあるんだぜ」という具合でやりゃあいいのだ。


 でも、よく考えると、これは単に著者と私の気質が違っているせいかも知れない。誰も知らないと思うが、私は短気なのだ。

自閉症の子どもたち―心は本当に閉ざされているのか (PHP新書)

2008-10-12

ルワンダ大虐殺の始まり/『ジェノサイドの丘』フィリップ・ゴーレイヴィッチ


 ルワンダ――この国名は、もはや私にとって他人事では済まされない。骨髄に刻まれた感がある。人間の狂気と寛容とを兼ね備え、殺した人々と殺された人々の家族が共に住む大地。その重みに耐えかねて、アフリカ大陸は窪んでしまっていることと想像する。


 教室の中へ、死体のあいだにそっと足を踏み入れたとき、まだたくさん想像しなければならないことがあった。死者たちと殺人者たちとは隣人同士であり、同級生であり、同僚であり、ときには友人同士であり、親類の場合さえあった。死者たちは破局の何週間も前から殺人者たちがおこなう軍事訓練を見ていたし、それがツチ族を殺すための訓練だということも知っていた。それはラジオでも放送されており、新聞でも報じられており、みなおおっぴらに話していた。ニャルブイェの虐殺の前週、ルワンダの首都キガリで殺害ははじまっていた。フツ至上主義思想に反対するフツ族は公式にツチ族の「同調者」とされ、虐殺がはじまるとまっさきに殺害された。ニャルブイェでは、ツチ族の人々から保護を求められたツチ族市長は、教会に避難するように勧めた。ツチ族がその言葉に従うと、数日後市長が先頭に立って殺しにきた。市長は兵士、警官、民兵、それに村人たちを率いていた。武器を配り、仕事をやりとげるようにと命令を下した。それだけでも充分だったが、市長はみずから数名のツチ族を殺したという。

 ニャルブイェの殺戮は一日じゅう続いた。夜になると殺人者たちは生き残った者のアキレス腱を切り、教会の裏で宴会を開いた。大きな焚火を起こして犠牲者から略奪した家畜をあぶり、ビールを飲んだ。そして朝には、犠牲者の悲鳴を子守り歌にどれだけ寝られたかはともかく、二日酔いで目覚め、戻ってきて殺害を再開した。毎日毎日、毎分毎分、ツチまたツチ。ルワンダのいたるところでそれが起きたのを知っているし、いかに起きたかを聞いているし、ほぼ3年にわたりルワンダ各地を見てまわり、ルワンダ人たちの言葉に耳を傾けてきたから、いかに起きたかを説明できるし、これからするつもりだ。だがそれでもこの恐怖――愚かしさ、もたらした破壊、どうしようもない邪悪さ――がいささかでも薄れるわけではない。


【『ジェノサイドの丘』フィリップ・ゴーレイヴィッチ柳下毅一郎〈やなした・きいちろう〉訳(WAVE出版、2003年)】


 私はルワンダを知ることで、初めて人間を理解した。


 私はルワンダを知ることで、初めて腸(はらわた)が捻(ねじ)れる思いをした。


 私はルワンダを知ることで、入り乱れた絶望と希望、交錯する光と闇の存在を知った。


 ルワンダ――これ以上ない不条理からの出発。遅れ馳せながら、私も出発しよう。

ジェノサイドの丘〈新装版〉―ルワンダ虐殺の隠された真実

『この大地に命与えられし者たちへ』写真・文 桃井和馬


 写真とは切り取られた“瞬間”である。何をどう写すかは、カメラを持つ者の立ち位置で決まる。桃井和馬は世界140ヶ国を飛び回り、己の視線が捉えた光景と人々を“永遠”に刻みつけようとしている。


 万物は諸行無常であり生老病死のリズムを奏でる。桃井は敢えてこれを引っくり返している。すなわち、世界が死から再生へと向かう“希望の物語”として紡ぎ出した。


 9.11テロから1年後のグラウンド・ゼロから幕は開ける。夜の廃墟が、信じられないほどの明るい光に照らされている。摩天楼が林立する中にぽっかりと空いた穴は、“死”そのものであり、まるで“帝国主義の葬式”のようだ。


 そして、数ページ後に濁流の写真。桃井が撮る写真は、決して奇抜なものではない。禍々(まがまが)しい惨状もなければ、覗き趣味を満足させる下品さとも無縁だ。彼が見つめているのは、人々の生活の息遣いと、歴史に翻弄されながらも生き続ける人々の現実である。


 土壁の建物の美しい扉がランダムに配されていた。左ページに「閉ざされた心」とだけ記されている。右下の小さな文字に目を凝らした。ルワンダだった。嗚呼――。私は太い溜め息をついた。ジェノサイドで子供全員が殺された母親と、鉈(なた)の傷で頬の上から耳の後ろまでが陥没している少年の写真があった。嗚呼――。私はルワンダで何が起こったかを知っている。そして私は彼女達が抱え続ける苦悩を知らない。嗚呼――。


 表紙に配されている写真は、パキスタンで撮影されている。汚れた爪で目を掻いているこの子は、少年か少女かもわからない。表情も明るくはない。そのつぶらな瞳の向こうには何が映っているのだろう。子供の頭に置かれた皺だらけの手が、黄金のように光っている。未来を温かく育んでいる手だ。


 右ページには肉屋の仕事場と思しき場所で、座り込んで話す男女のカップル。左ページには床屋で髭を当たっている中年男性。こんなどうでもいい、ありふれた日常の写真を見て、初めてホッと一息つける。「ああ、俺は幸せだったんだな」と気づかされる。そして、結婚式を上げた美男でも美女でもないカップルが二組。幸福になるためには容姿すら関係ない。彼等の笑顔が、私の陳腐な悩みを嘲笑う。


 透き通った美しいクモ、葉脈だけが残ったボロボロの葉っぱ。自然の摂理はいつだって調和を奏でている。ちなみにクモの写真は東京となっているが、自宅の近くで撮影したそうだ。


 清流が飛沫(しぶき)を上げて流れる。水は生命の母だ。水は絶え間なく循環する。果たして人類の生々流転は、地球を潤しているのだろうか――そんな思いが奔流となって胸の奥から溢れ出てくる。


 一日を愛し

 一年を憂い

 千年に想いを馳せる


【『この大地に命与えられし者たちへ』写真・文 桃井和馬(清流出版)】

この大地に命与えられし者たちへ

2008-10-11

焼そばに見るソースvs塩の行方


 焼そばの季節が到来した。短パン姿で震えるようになり、「残暑でざんしょ」という駄洒落を二、三度飛ばした後に、焼きそばの季節は音もなく訪れる。ま、年中食べてはいるのだが、やはり寒さというファクターを欠いて、焼きそばの力を十全に発揮することは困難だ。


「塩だれ味の焼そば」を食した。カップに入ったやつだ。真の美食家にとっては、店舗の場所や外装及び内装なんぞはどうでもよく、たとえスーパーで安売りしていたとしても、味を追求せずにはいられないのだ。ってなわけで、「明星 一平ちゃん夜店の焼そば塩だれ味」について書いておこう。


 焼そばといえば普通はソース味である。ソースというのは非常に便利で、本来の味を打ち消す圧倒的なパワーを持っている。つまり、子供じみているってわけだな。例えば、東京下町のもんじゃ、大阪のお好み焼き、広島焼きなど、ソース味の食べ物はいつでも貧しい庶民の味方だった。金持ちはソースをドバドバかけるような真似をしない。


 塩分の摂り過ぎが問題視されるようになったのは、私が中学生の頃からだと記憶している。保健の授業で「このグラフでは日本人の死因で脳卒中が多くなっているが、理由は何か?」という先生の質問に対し、タカグロ一人が元気一杯返事をし、「お新香と味噌汁を食しているからです」と答えたのだ。思わず私は、「今まで“オハグロ”と呼んですまなかった」と心の中で謝罪したのを昨日のことのように覚えている。


 大体、塩分の摂り過ぎが問題じゃなくって、身体を動かさなくなったことこそが本当の問題なのだ。昔ほど労働者は額に汗して働くこともなくなった。炭鉱で働く男達は、塩を舐め舐め、顔を真っ黒にしながら重労働をこなしていた。


 その一方で、塩には透明感があり、素材の味を引き立てることも手伝って、ラーメンの世界では「あっさり塩味系」が持てはやされている。健康ブームも手伝って、今時は様々な国や地域の色々な塩が販売されている。


 で、塩だれ焼そばだ。今朝食べたのだが、中々美味かったよ。ふりかけの量がもう少し多いといいのだが。タレの色が薄いので、よく掻き回すのがコツだ。


 そして先ほど、またぞろ焼そばを食べた。これは「横浜中華焼そば 業務用 5食入り」(千神麺工業有限会社)。スーパーの安売りワゴンにあったものだが、圧倒されるほど美味かった。塩だれ焼そばの話は、もう忘れてもらって構わん。それほど美味しい。キャベツを加え、常備してある青海苔をドバッとかけただけだが絶品だった。明日、かみさんに食べさせる予定。潤んだ瞳で、私のことを天才シェフと仰ぐことになるのは確実だ。

明星 一平ちゃん夜店の焼そば塩だれ味 133g

宮田親平、小田嶋隆


 2冊読了。


がんというミステリー』宮田親平/癌の構造を知りたくて読んだのだが、癌治療に貢献した人々の内容が殆どだった。前半は面白いのだが、後半に至り失速。新書というのはテーマが具体的で、その辺のトーシロー(すなわち私のこと)にも理解できるようコンパクトにまとめる必要がある。そして、書き手の意欲がローソクの炎のように揺らいだ時、「大した印税も入ってこないしなあ……」と寒々しい限りの現実に気づいた挙げ句、やっつけ仕事になりがちなのだろうと勝手に推測している。初めて知ったのだが、「ニコチンに発癌性物質はない」とのこと。これを強調しておきたい。アンダーラインを引くよーに。え? タール? タールの話はまた今度にしよう。


パソコンゲーマーは眠らない小田嶋隆/1992年発行。3分の1くらいがゲームソフトのレビューとなっている。私は中学3年の時、大流行したスペース・インベーダーに翻弄された経験があり、それ以降まったくゲームには手を出していない。それでも面白く読めるのだから、オダジマンはやはり凄い。天才的な翻訳能力の持ち主と言ってよし。自分の洞察力と正面から向き合って失敗したのが丸山健二だとすれば、小田嶋隆は洞察力を鼻クソみたいに指で弾き飛ばして面白がっている。

2008-10-10

桃井和馬


 1冊読了。


この大地に命与えられし者たちへ桃井和馬/世界各地の様々な光景を切り取った写真集である。これは凄い。嘘偽りなく凄いと言っておこう。シャッターを切る一瞬に、過去と未来が交錯し、欲望と暴力が噴出し、静かな現実が横たわっている。そう。ここに収められているのは“世界の物語”に他ならない。辺境で貧困に喘ぐ人々、国家間の暴力にさらされている人々、そして人間の営みをじっと黙って見つめる大自然――。世界をこれほど手繰り寄せている写真を見たのは初めてのことだ。

2008-10-09

目撃された人々 21


 前回書いたやつの評判がよかった。読者から10通ほどのメールが寄せられた。というのは嘘だ。本当は2通だ。でも、少なからず反応があるのは嬉しい。


 で、何か書こうと思ったものの、如何せんネタがない。そこで、前回書いた女性の続きを書いて誤魔化すことにしよう。取り敢えず、この女性のことを「ペコちゃん(仮名)」と名づけておく。


 秋晴れの午後、つまり今日の昼のことだ。何の話をしていたかは忘れてしまったが、ペコが「うちの母もそうだったよ。亡くなる前に、『遺影はこれにしてね』『私がいなくなった後に、これをしておいてね』とか言ってたよ」と語った。


 その瞬間である。私の脳内でシナプスがバチバチと音を立ててフル回転した。この間、わずか0.25秒ほどだ。そして、ペコが何かを言い、私が「それは違うぞ」と応じた。


「君のお母さんは――」この後、約7秒経過。「自分の人生を肯定できたからこそ、迫り来る死を迎え入れることができたんだ。死ぬってことは誰にとっても恐ろしいことだ。死と向き合うことは中々できるものじゃないよ。君のお母さんは立派だ」。これがシナプスの結論だった。私は言葉には出さなかったものの、いたく心を打たれた。


 人は電波のようなものを発している。たとえ、死んだとしてもだ。私は何とはなしに、ペコのお母さんの電波を感じたのだ。それを受信した私の脳が、めまぐるしく動くのも当然である。


 しかし半日が経過した今、錯覚だったようにも感じている。私がキャッチしたのは、ペコの内側でまだ生きているお母さんだったのかも知れない。本当は、お母さんではなくペコの一部であり、お母さんから生まれたのはペコだから、やっぱりお母さんとペコは一体不二なのだろう。


 私は一人の人間の中に、二人の人間を感じた。生命は交錯する。そして、反射し合うのだ。生死(しょうじ)という壁すら越えて。

霊界は「もちろんある」/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 生と死、宗教にまつわるテキストが多い。文学論も少々。やはり脳科学は、唯物論よりも腰が強い、というのが率直な感想だ。「脳の機能」で割り切って考えているところが、養老孟司の痛快さでもあり危うさでもある。


 先生は霊界があると思いますか。そう尋ねる人が多い。そういう時には、「もちろんある」と胸を張って答える。そもそも「ない」ものについて語ることは不可能である。それなら、どこにありますか。頭の中にある。そう答えると、それは「ない」ということだと思うらしい。では聞くが、直線はどこにあるか。家の柱。では虫メガネを持ってきて柱を丁寧に観察する。とうてい直線とは言えない。デコボコしている。定規でまっすぐ線を引く。これは直線か。虫メガネで見たら、とてもそうは言えない。


【『カミとヒトの解剖学』養老孟司法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)】


 霊界なんぞあるわけがない。あるとすれば、今頃は蝉の霊でおおわらわになっていることだろう。「ゴキブリホイホイ」を製造しているアース製薬がゴキブリの霊に祟(たた)られたという話も聞いたことがない。


 それを「ある」と答えるところに、養老孟司のユニークさと性格の悪さが混在している。程度の低い迷信を、高度な問題に置き換えてから叩き落とす戦法だ。多分この頃、丹波哲郎の『大霊界』が流行っていたのだろう。


 この人の悪い癖で、時々文章がわかりにくくなるのだが、それを補ってあまりある刺激に満ちている。そして信仰を揶揄しながらも、決して宗教を否定しているわけではないのだ。唯脳論の立場からすれば、宗教もまた脳内から生まれたことになるわけだから、それも当然か。ベストセラーとなった『バカの壁』より、数十倍面白い。

カミとヒトの解剖学 カミとヒトの解剖学 (ちくま学芸文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2008-10-07

リスクから逃げることが最大のリスク/『1年で10億つくる! 不動産投資の破壊的成功法』金森重樹


 これは面白かった。「よーし、じゃあ一発、不動産で儲けるか!」って気になるよ。しかし、大事なところはそこじゃない。ものの見方を変えてくれる内容が随所にあるのだ。著者は1970年生まれというのだから大したものだ。もちろん、ゆくゆく不動産購入を考えている人にとっても有益である。


 日本のエリートと呼ばれる上場企業のホワイトカラーのサラリーマンなどは最も「リスクから逃げ回っている」部類の人間たちです。

 リスクから逃げ回る人生を送ってきた人たちが、終身雇用制、年功序列制賃金が崩壊した現在、いったん会社から放り出されると、もはやリスクに対処するすべがありません。どんなに立派な学歴があろうが、どんなに立派な上場企業に勤めていた経歴があろうが、そんなものは会社から放り出されてしまえば何の役にも立ちません。

 価値がないのです。

 逆説的ですが、リスクから逃げることが最大のリスクなんですね。


【『1年で10億つくる! 不動産投資の破壊的成功法』金森重樹〈かなもり・しげき〉(ダイヤモンド社、2005年)】


 気持ちのいい文章だが、既に成功を収めている人物が書いていることを忘れてはならない。リスクを取れば儲かるというわけではないからね。大事なのはリスクマネジメント。だから、「リスクから逃げることが最大のリスク」という言葉は、文学的な表現と心得るのが正しい読み方だ。文意は、「何もしない人間にチャンスは巡ってこない」というもの。金森氏が提唱するのは、「どうせ家を建てるなら、大家になれよ」ってこと。

改訂版 不動産投資の破壊的成功法

鶴岡真弓、酒木保、ガボール・マテ


 1冊挫折、2冊読了。


黄金と生命 時間と練金の人類史鶴岡真弓/何となく挫折。高価なので、体調のいい時に再読する予定。


自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』酒木保(さかき・たもつ)/軽度発達障害の手掛かりになるかと思って読んだのだが見当違いだった。著者は実際に自閉症の子供達と接しているがゆえに、どうしても寄り添おうという姿勢が強く出てしまう。客観的な情報は少ないが、正常な人間関係を結ぶことのできない自閉症が、関係性の意味を教えてくれるところが興味深い。


身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価ガボール・マテ/著者はカナダ人医師。2200円でソフトカバーはねーだろーよ、と思ったが400ページあるので許そう。ALS、慢性関節リウマチ、多発性硬化症などの病気が、ストレスによって引き起こされている可能性を指摘している。アルツハイマーや乳癌も。著者はインタビューという形で、患者の人生の闇に鋭くメスを入れる。「対話」によって引き出されたものは、幼少期からの歪んだ価値観に束縛されてきた患者の心であった。「ノー」と言えない人々の許容量を超えた時、身体が悲鳴を上げ始める。ガボール・マテは決して声高な主張をしているわけではない。「こういう人生を経て、こういう病気になった人々がおりましたよ」と静かに語っているだけだ。心身の相関は我々が考えている以上に深い関係であることがわかる。

2008-10-06

真の民主政とは/『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志

 これが答え――


 ここまで言えば、ルソーが「抽籤による選任法は民主政の本質にかなう」と考えた理由は、もはや説明するまでもあるまい。全有権者(母集団)の縮図は、無作為抽出(ランダムサンプリング)によって構成する以外にはないのである。社会調査の常識が教えるとおり、標本抽出(サンプリング)は、あくまでも無作為(ランダム)でなければならない。ルソーが「抽籤による選任法は民主政の本質にかなう」とする理由もまた、「誰が選ばれるかは一切人間の意志と無関係」だからというものである。

 全体(母集団)に忠実な縮図を構成するためには、一切の人為的要因を排除しなければならない。あえて極端な言い方をすれば、全員による民会には周囲から嫌われているタイプの人間も参加する以上、議会や会議もまた、そのような人間を実社会と同じ比率で参加させなければならないというわけである。だから、直接民主制をモデルにし、その論理を延長するならば、選挙のような人為的介入は、むしろ排除すべきものとならざるを得ない。


【『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志(PHP研究所、2008年)】


 民主政=全民衆の縮図であるなら、ルソーは正しい。だが、ルソーは民主政を手放しで肯定したわけではなかった。ルソーが望んだのは貴族政だった。民主政が通用するのは、限定された狭い地域という考えだった。つまり、民主政=全員参加。


 とすれば、正しい民主政の選挙法は、裁判員制度みたいな感じになりそうだ。随分と突飛に思うが、それでも今よりはましな政治になることだろう。なぜなら、民衆は政治家ほど愚かではないからだ。


 数年前から考えているのだが、真面目な高校生を議員にした方が、この国はよくなると思う。間違いなくよくなるよ。

民主主義という錯覚

精神疾患は本当に脳の病気なのか?/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン

「脳の病気」ってえのが、最近の学説だとばかり思い込んでたよ。それを検証したのが本書である。


 米国の精神医学界はその主張を、「母親に責任あり」から「脳に責任あり」に変えたと言われている。精神障害の原因が家庭における初期経験に根ざしていると考えられていたのはさほど昔のことではない。だが現在では、脳の化学的なバランスのくずれが原因であるという考え方が、専門家にも一般の人にも受け入れられるようになっている。現在の通説では、統合失調症の原因は神経伝達物質ドーパミンの過剰、うつ病セロトニンの不足であり、不安障害やその他の精神障害は、他の神経伝達物質の異常によるものということになる。脳の神経化学的現象が、精神障害の原因であるだけではなく、個性や行動が人によって違うのはなぜかをも説明できると信じられている。20〜30年の間にこのような根本的な変化がいかに生じたのだろうか。得られている証拠とこの理論はつじつまが合うのか。生化学的な説明を行い、薬の投与による治療を推し進めることは、誰の利益になり、この利益はいかに推し進められているのか。精神障害を生化学的に説明し、あらゆる心理学・行動学的問題の対処に薬への依存度を増していくことの長期的に見た意味合いとは何か。本書はこれらの問題に答えようとするものである。


【『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン/功刀浩〈くぬぎ・ひろし〉監修、中塚公子訳(みすず書房、2008年)】


 脳の化学的バランスの問題だとすれば、治療法は投薬ということになる。何を隠そう、この構図を描いたのは薬品メーカーだった。資本にものを言わせて、どのような手段を講じたか。追って紹介する予定である。


 しかしながらエリオット・S・ヴァレンスタインは、決して薬を否定しているわけではない。杜撰なデータを引き合いにして、多くの患者を惑わすなと主張しているのだ。


 精神疾患について書かれた本ではあるが、薬品メーカーによる広告・宣伝戦略が患者を食い物にしている様がよく理解できる。

精神疾患は脳の病気か?―向精神薬の科学と虚構

2008-10-05

カテゴリーに「キリスト教」を追加


 欧米を理解するには、「キリスト教」と「結社」の歴史を知る必要がある。そこで、比較的触れることの多い「キリスト教」をカテゴリーに追加した。

現在の議会制民主主義の実態は貴族政/『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志

 前回、「意志決定者の数によって王政・貴族政・民主政が決まる」と学んだ。すると、現在の議会制民主主義が実は民主主義ではないことが発覚する。


 ともあれ、古代アテナイ型の分類法に従えば、今日の議会制民主主義は、本来の民主政ではなく、むしろ貴族政だということになってしまう。国権の最高機関にして唯一の立法機関である議会が、全員ではなく、ごく一部の者によって構成されているからである。

 とはいえ、現実問題として、大きな国では、全有権者が一堂に会して直接話し合うことなど不可能であろう。だからこそ、ルソーは、「一般に民主政は小国に適する」と指摘したのである。直接民主制、あるいは、少なくともそれに近い制度を実施しようとすれば、そうならざるを得ないだろう。


【『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志〈やくしいん・ひとし〉(PHP研究所、2008年)】


 どう? 参ったでしょ? わたしゃ、1000回くらいタップしたよ(ウソ)。我々が民主主義だと錯覚していた議会制民主主義は、政策の意思決定には関与しておらず、議員を決めているだけだ。言われてみりゃ、確かにそうだよなー。


 で、なぜモンテスキューやルソーが「民主政治=くじ引き」と考えたのか? 答えは次回にて。

民主主義という錯覚

効率化が仕事量を増やす/『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆


 小田嶋隆の著作を読むと頭がスッキリする。目からウロコが落ち、脳細胞のシナプスが活発になる。そして、ガハハハと笑っているうちに、オダジマン教の信者となってしまう。


 大衆消費社会は広告戦略によって購買意欲を刺激するのが常だが、企業内においては経済原則に則って合理化が推し進められる。つまり、コスト削減。中年期を過ぎたオジサン、オバサンはメタボリックな体型で緩慢な動きとなるが、大企業はおしなべて贅肉を削ぎ落としたアスリートのような体型となっている。


 トヨタ自動車に至っては、工場ライン周りの歩く歩数までカウントされ、無駄な歩数はコストとして計上される。これが、トヨタカンバン方式。まるで、レーザーレーサーを着用した体型である。


 では、社内のコスト削減が社員の幸福につながるかと言えば、決してそうではない。人員整理をすれば、必ず誰かの負担が増える。結局は綱引きのメンバーを減らしているのだから。


 では、OA(オフィス・オートメーション)が定着し、事務が効率化したことは、素晴らしいことだったのかというと、話はそう単純ではない。

 なぜって、OAによって事務が効率化したにもかかわらず、ジャパニーズビジネスマンの超過勤務がたった半時間でも減ったわけではないからだ。

 そうだとも、考えてみようではないか。

 たとえばの話、これまで社員一人分の人事管理ファイルを更新するのに4時間かかっていたものが、データベースの導入によって2時間に短縮されたとする。

 と、人事部長は、

「さあて、今日からわが部は3時退社ということにしよう」

 と言うだろうか。

 言わないね。絶対に言わない。

 部長はきっと、

「よーし、今期から人事管理ファイルの項目数を倍にしよう」

 と言うか、でなければベテランの部員を子会社に出向させることを検討しはじめることだろう。

 おわかりになるだろうか。「事務の効率化」とは、つまり「単位時間内に一人の社員がこなせる仕事量の増加」にほかならないのであり、要するに「ノルマの増加」つまりは「労働強化」なのである。

 さらに意地の悪い言い方をすれば、「事務の効率化」および「生産性の向上」とは、単に「単位時間内にこなす仕事量の増加」のみならず、「一定の報酬を得るために必要な仕事量の増加」でもあるわけだから、これは給与生活者にとっては、相対的な貧窮化でさえあり得るのだ。


【『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆(JICC、1993年)】


 オダジマンの天才ぶりは、枕=導入部にある。30代半ばでこれだけの文章を書くのだから、晩年にはどうなっているのか見当もつかない。

仏の顔もサンドバッグ

2008-10-04

川合光、リチャード・ドーキンス、養老孟司


 2冊挫折、1冊読了。


はじめての“超ひも理論” 宇宙・力・時間の謎を解く』川合光/50ページで断念。専門用語に付いて行けず。


利己的な遺伝子リチャード・ドーキンス/満を持して読んだつもりだったが、小見出しがなく、一つの章が長過ぎる。文章のリズムも合わない。時折、盛り込まれる砕けた調子が、酔っ払いのようで気持ち悪い。この本は、気力・体力が充実している時に再読する予定。


カミとヒトの解剖学養老孟司/これは面白かった。季刊『仏教』の連載記事。脳からアプローチする生と死といったテーマが大半だが、文学論もある。視点が斬新。ただこの人の悪い癖で、文章が紛らわしくてスッキリしない。死体を相手に仕事をしているせいだと思われるが、鼻につく独白調があちこちに散見される。養老氏の著作はいずれも「閉じた世界」に映る。

統治形態は王政、貴族政、民主政/『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志

 現代日本の我々が考える貴族政とは、「貴族としての身分」を保障された面々による政治ということになる。だが、これがそもそもの間違い。


 古代のアテナイでは、統治形態を三つに分類して考えるのが一般的であった。すなわち、王政、貴族政、民主政の三つである。この分類法自体は、それほど違和感を与えるものではあるまい。むしろ、問題は、この分類が何を第一の基準にしていたのかという点にある。

 その解答を極めて単純に言うならば、意志決定者の数だということになろう。具体的には、それが一人なのか、一部なのか、全員なのかということである。王政には一人の支配者がおり、貴族政には一部の支配者がいる。それに対して、全員参加の民主政が、「人民による支配」なのだというわけである。


【『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志〈やくしいん・ひとし〉(PHP研究所、2008年)】


 言われなければ一生気づかないまま人生を終えていたことだろう。つまり、選挙制度と民主主義の間には何の関係もないってことだ。「へぇボタン」があったら、ぶっ壊れるまで叩いてやるところだ。多分、政治家の連中も気づいていないだろーね。あな、恐ろしや。

民主主義という錯覚

株式会社サンビクトリー

 先ほどテレアポがあった。三菱エコキュートの代理店。新卒で入社した若い野郎だったため、詳細を聞く前にやっつけてしまった。最近は堪え性がなくっていけませんな。よくある「案内業務」を騙(かた)った営業だ。誘導の仕方が子供じみていて、まったく話にならない。検索したところ、「エコキュートをつけると月々5000円で水が使い放題になる」という悪質な売り文句も使っているようだ。


 エコキュートや太陽光発電を好むのは、社会的関心の程度が高く、金回りのいいオバサンと相場は決まっている。ロハスとかスローライフとかね。そういった関心を馬鹿にするつもりはないが、企業の戦略に利用されていることを、ちったあ自覚すべきでしょーな。そもそも、家庭から排出されているCO2は20%に満たない。家庭が努力して解決できるよーな問題ではないのだ。

こんにゃく入りゼリーは本当に危ないのか?


 里奈子ちゃんから興味深い記事を教えてもらった。

 同記事から一覧をコピーしておこう。


1位もち(168例、「こんにゃく入りゼリー」の84倍危険)
2位パン(90例、「こんにゃく入りゼリー」の45倍危険)
3位ご飯(89例、「こんにゃく入りゼリー」の44.5倍危険)
4位すし(41例、「こんにゃく入りゼリー」の20.5倍危険)
5位あめ(28例、「こんにゃく入りゼリー」の14倍危険)
6位だんご(23例、「こんにゃく入りゼリー」の11.5倍危険)
7位おかゆ(22例、「こんにゃく入りゼリー」の11倍危険)
8位流動食(21例、「こんにゃく入りゼリー」の10.5倍危険)
9位カップ入りゼリー(11例、「こんにゃく入りゼリー」の5.5倍危険)
10位ゼリー&しらたき(それぞれ4例、「こんにゃく入りゼリー」の2倍危険)


 こんにゃく入りゼリーが、どうしても注目を浴びてしまうのは、「ゼリーを食べて死亡する」というコントラストがあまりにも鮮やかなためだろう。大体、1位は「もち」となっているが、製造業者の責任を問う声は一つもない。


 日垣隆が、『偽善系II 正義の味方に御用心!』で次のように指摘している。


 たとえば、階段から落ちて死んだ日本人は一年間に687人もいる(『平成10年 人口動態統計〈下巻〉』)。蛇口からの熱湯に接触してショック死した人は117人である。農薬や睡眠薬やガスなど「有害物質による不慮の中毒及び有害物質への曝露」によって亡くなったのは合計559人いるが、この人数は、自然の高温や暴風雨など「自然の力への曝露」によって亡くなった982人よりも少ない。誤解を恐れず事実のみに即していえば、この年に限らずいかなる年の統計を見ても、サリンや砒素や麻薬で亡くなった人より、たとえばスズメ蜂に刺されて亡くなる人のほうが、ずっと多いのである。


 こうしたケースにおいても、業者責任を問う声はないだろう。


 私の考えはこうだ。一部の因果関係をもって、全体を判断してはならない。

  • こんにゃく入りゼリーで窒息死した場合→因果関係が認められる。
  • こんにゃく入りゼリーを食べている人全体における死亡率→相関関係は考えられるが、因果関係は認められない。

 単純な物差しで「被害があるから規制する」というのであれば、酸素濃度の薄い高山も登山禁止にする必要がある。


 真の自由とは、リスクを取る自由を意味する。要はリスクを自覚し、どう管理するかが問われているのだと思う。

2008-10-03

学問は目的であっても手段であってもならない/『社会認識の歩み』内田義彦


「一体全体、どっちなんだよ?」と言ってはいけない。


 学問が手段化されることは、一人一人の人間が手段化されることと無関係ではありません。学問は、自己目的であってはならないけれども、単なる手段であってもならない。学問の自己目的化と手段化という古くからの難関は、実は、社会を成して生きている個々の人間と社会とがどうかかわっているか、どうかかわるべきかということと深いところで結びついています。人間は孤立した存在ではないけれども、集団の単なる構成要素でもない。一人一人の人間が学問的思考を有効に身につける意味が、そこにあるのです。


【『社会認識の歩み』内田義彦(岩波新書、1971年)】


 学問は手段化されている。東大法学部によって。社会での成功は君達のものだ。好きなだけ日本を牛耳ってくれたまえ。彼等にとっては、一身の栄誉栄達こそ学問の目的であろう。


 内田義彦が言いたいことは、「社会へと開かれた学問」(手段化の反対)であり、「より大きな目的に向かう学問」という意味なんだろうね。結局のところは、“学ぶ者の一念”に帰す。


 面倒臭い言い回しをしているのは、学問の動機を吟味しているためだ。「英知を磨くは何のため」――それは、より多くの人々を幸福にするためである。学問の世界にも、王道と覇道が存在する。

社会認識の歩み (岩波新書 青版 798)

2008-10-02

明治以前、日本に「社会」は存在しなかった/『翻訳語成立事情』柳父章


 元始の言葉はどんなものであったのだろう。時折、そんなことを思う。叫び、祈り、歌――いずれにせよ、何らかの感動が込められていたに違いない。しかしながら残念なことに、最初の言葉は名詞であったという説が有力だ。ヘレン・ケラーが最初に発した言葉も「ウォーター(水)」だった。


「言葉(=名前)」がなければ、それは「存在」しないという考え方がある。例えば、苫米地英人の『夢をかなえる洗脳力』では、外国人が風鈴を知らない様子が描かれている。日本人であれば、風鈴の音を聞くと涼しげな心持ちとなるのが普通だが、外国人には全く通用しない。それどころか、情報空間に存在すらしていないという。


 もちろん風鈴は実際に音を鳴らしている。だが、その概念や意味合いを知らなければ、脳内で情報として処理されることはないのだ。明治期に導入された翻訳語もこれと似ている。


 この「社会」ということばは、societyなどの西欧語の翻訳語である。およそ明治10年代の頃以後盛んに使われるようになって、1世紀ほどの歴史を持っているわけである。

 しかし、かつてsocietyということばは、たいへん翻訳の難しいことばであった。それは、第一に、societyに相当することばが日本語になかったからなのである。相当することばがなかったということは、その背景に、societyに対応するような現実が日本になかった、ということである。

 やがて「社会」という訳語が造られ、定着した。しかしこのことは、「社会」−societyに対応するような現実が日本にも存在するようになった、ということではない。そしてこのような事情は、今日の私たちの「社会」とも無縁ではないのである。そこで、societyの翻訳がいかに困難であるか、そのことを実感していた時代をふり返る必要がある、と私は考える。


【『翻訳語成立事情』柳父章〈やなぶ・あきら〉(岩波新書、1982年)】


 非常に抑制された慎重な文章である。まどろっこしいほどだ。


 それまでは、「世間」はあっても「社会」はなかったのだろう。何となく、いまだに「社会」は存在しないような気になってくる。どうも、なさそうだな。「世間」は確かに存在している。だって、不祥事があるたび、世間に向かって詫びを入れる面々がいるからね。そして、「世間」は狭い。更に、「渡る世間は鬼ばかり」である。


 でも、「世間」ってどの範囲を指しているんだろうね? よもや、日本全体ではあるまい。都道府県レベルでも広過ぎるだろう。多分、「ムラ」でしょうな。DNAに伝わる仮想空間としての「ムラ」である。日本人が恐れてやまない「村八分」が徹底できる範囲だ。


 共同体としての「ムラ」は実在しないから、極めて狭い人間関係となる。親戚、友人、同僚という程度か。つまり、日本人にとっての世間とは、せいぜい数十人程度の関係性を示すもので、そこでのルールは法律や道徳などではなく、「ムラの掟」だ。


「societyの翻訳」は、まだ終わっていない。

翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)

金森重樹


 1冊読了。


1年で10億つくる! 不動産投資の破壊的成功法』金森重樹〈かなもり・しげき〉(ダイヤモンド社、2005年)/凄いタイトルだよね。何てったって「破壊的成功」だよ。表紙を見ただけで木っ端微塵になりそうだわな。著者の名も体を表しているよ。黄金の葉っぱが生い茂る森を思わせる。私のハンドルも金光仏蔵(きんぴか・ぶつぞう)にしようかな。セオリーを押さえたオーソドックスな不動産投資法を紹介。金森氏が1970年生まれと若いため、実にわかりやすい内容となっている。ただし、昨今の不動産相場は不況の風が吹いている。それなりの目利きでなければ成功は覚束ないことだろう。不動産を購入するリスクも解説されていて、優良な投資本といってよい。

CIA局員の表向きの肩書きは大使館員、広告・出版関係者/『日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』有馬哲夫

    • CIA局員の表向きの肩書きは大使館員、広告・出版関係者

 私が子供の時分からスパイに憧れていたのは、テレビアニメ「スーパースリー」の影響かも知れない。当時はまだ「諜報部員」と称していた。


 中年おやじになった今、振り返ってみると「仮面ライダー」「鉄人28号」「巨人の星」などは、広義の意味で“スパイもの”と言っていいだろう。いずれも、ある目的のために人生の大半を犠牲にし、その犠牲を超克することで強い意志を発揮して、正義を実現する内容となっている。


 多分、そういう国民像が望まれていたのだろう。つまり、兵隊。


 スパイはカメレオンでもある。徹底して身分を秘匿し、その時その時の役回りを演じる。観客は上司一人。演出者は国家。


 ただし、現在でもCIA局員の表向きの肩書きは大使館員以外では広告関係や出版関係の会社の従業員というものが多いので不思議はない。

 当時からCIAは国費を使って世界各国の新聞社や広告会社を買収し、運営していた。かくしてCIA局員はこれらの会社を隠れ蓑として、会社の従業員という肩書きで活動しているのだ。


【『日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』有馬哲夫(新潮社、2006年)】


 そうだったのか。すると、先日我が家を訪れた新聞拡張員もCIAの手先であった可能性がある。


 スパイへの憧れは、ジョン・ル・カレやフリーマントルを読むようになって色褪せていった。二重スパイ、三重スパイとなると、何がなんだかわからなくなる。米ソの冷戦構造によって諜報戦は本格化したが、自分の手であるスパイによって首を絞められるような場面もあったってこどだな。


 情報には精度と付加価値が求められる。そのため、本格的な情報は等価交換される。こっちの手の内をさらした分だけ、向こうも情報を差し出してくれる。だったら最初っから、全部話してしまえばいいだろうよ。すると、世界は一瞬にして平和となる。


 そうはならない世界の現状を鑑みると、複雑な状態を維持したい指導者の意向が窺える。奴等の好物は、貧富の格差、テロ、薬物依存、犯罪、人種差別といった類いのものだ。混乱した世界が望ましいのだ。


 日本テレビを創設した正力松太郎を、CIAが全面的にバックアップしていた。暗号名は「ポダム」。戦後のドサクサに紛れて、日本社会の中枢に食い込むことなど、アメリカにとってはわけもなかったことだろう。そして今、我々はアメリカによって、どこをどうコントロールされているのかも自覚できなくなっているのだ。だから取り敢えず、アメリカを嫌っておくことにしよう。


日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」 (宝島SUGOI文庫)

民主的な議員選出法とは?/『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志

 民主主義=善である。いつからそうなったのであろうか。全く覚えていない。いつの間にやらそうなっていたのだ。少年時代に読んだリンカーンの伝記の影響だろうか。はたまた、平等の価値観を押し付けた義務教育のせいかも知れない。


 だが、図らずもブッシュ大統領が本当の意味を教えてくれた。民主主義とは、アメリカが戦争を仕掛ける大義名分であり、異教徒や有色人種を殺戮する言いわけであることを。そして民主主義の目的は、独裁国家の体制を破壊して、国民が選挙によって議員を選び、自由競争を原則とする資本主義体制を構築し、ドル機軸通貨制度の支配下に組み込むところにある。


 アメリカが牛耳る世界では、アメリカに逆らう国が“世界の敵”と化す。つまり、実は米主主義(パックス・アメリカーナ)だったってことだわな。


 我々はいともたやすく民主主義という言葉を使う。殆どの場合、多数決という程度の意味合いで、議会制民主主義こそ民主主義の本道であると考えている。だが、そうではなかった――


【問題】括弧の中に入る言葉を、下記の1から6の中から選び、番号で答えなさい。


 モンテスキューやルソーは、議員や統治者を(   )によって選ぶことが民主政治の本質にかなうものだと論じた。


1.選挙 2.世襲 3.魚屋の意見 4.くじ引き 5.決闘 6.占い


 実は、この問題、それほど常識的なものでもなければ、学校のテストに出題されるような代物でもない。むしろ、こんな問題が出題されることは絶対にないだろう。選択肢がふざけたものであるからではない。正解が4、すなわち「くじ引き」だからである。何も怪しげな珍説を持ち出しているのではない。事実として、ルソーの『社会契約論』(1762年)には、次のように明記されているのである。


「抽籤(ちゅうせん)による選任法(suffrage par le sort)は民主政の本質にかなうものだ」と、モンテスキューは言っている。これはわたしも賛成である


 モンテスキューもルソーも、「抽籤」こそが「民主政の本質にかなう」と明言している。これは、厳然たる事実である。しかも、この見解が、枝葉末節に関わる問題ではなく、まさに「民主政の本質」として示されているということを軽視してはならない。


 たしかに、ルソーの発言は、我々の常識と相反するものであろう。だが、常識に反することは切り捨てるという態度は、思考停止の最たるものなのだ。


【『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志〈やくしいん・ひとし〉(PHP研究所、2008年)】


 たまげた。あんぐりと口が開いたまま、3日間を経たような感覚に陥った。目が点になるどころか、それ以前の私の目にはウロコしかなかったと言ってもいいくらいだ。目からウロコが落ちると言うよりは、ウロコだらけの目が落ちたって感じだな。


 そしてルソーは、民主主義が正しいものとは考えていなかった。お前の名前は「ル嘘」に変えるべきだと私は思った。


 このテキストだけでは、その理由がわかりにくいことだろう。追って紹介する予定である。取り敢えず今日のところは、「民主政の本質=くじ引き」と覚えておけば宜しい。

民主主義という錯覚

2008-10-01

生き生きとした人物描写と興味深いエピソードで読ませる/『戦争報道の内幕』フィリップ・ナイトリー


 翻訳に際して数章ほど割愛したとのことだが、それでも十分な厚さ。資料としても耐え得る量でありながら、きちんとした読み物になっているところが凄い。1854年から1975年に至るまでの戦争(クリミヤ戦争からベトナム戦争まで)をフォローした労作。


 マルタ遠征(1854年)の指揮官は、イギリスの英雄と謳われたラグラン卿で、ウェリントン公の軍事秘書を務めていた。ラグランは勇敢で、ワーテルローで外科医が麻酔なしで彼の片腕を切り落としたとき、「わが片腕を持ってきてくれ。妻がくれた指輪が指にはまっているはずだ」とだけ言ったという。


【『戦争報道の内幕』フィリップ・ナイトリー/芳地昌三訳(中公文庫、2004年)】


 思わず、吉川『三国志』の関羽を思い出した。生き生きとした人物描写に、興味深いエピソードを盛り込んで飽きさせない。さすが、『サンデー・タイムズ』(ロンドン)の老練記者だけのことはある。芳地昌三の訳文も品がある。


 正確な戦況報道は時に敵を利する場合がある。それゆえ、これを軍事機密扱いしたい軍側と、売り上げのためにセンセーショナルな記事を追い求める記者との駆け引きは、時代を経ても変わらない。そして、ジャーナリズムが情報操作のために利用される姿も何一つ変わらない。


 いぶし銀のような光を放つ好著である。


戦争報道の内幕―隠された真実 (中公文庫)

目撃された人々 20


「6月……」と彼女は言った。「そうか……」と私は応じた。浅川の柔らかなせせらぎが聞こえた。


 彼女の母親が亡くなってから3ヶ月が過ぎていた。この間、スキルアップを勝ち取った彼女は新しい職場で奮闘してきた。多分、誰よりもその姿を喜んだのは、亡くなったお母さんだったことだろう。


「人生で最大のストレスを感じるのは“家族の死”に接した時と言われているが、君はどうだ?」と訊ねた。「それが、あまり感じてないんだよね」。あっけらかんとした顔つきで即答した。「でも……」と彼女は続けた。「母親の死を、私自身がまだ受け容れてないのかも」。クルクルとよく動く表情が微笑んでいた。


 きっと、今は亡きお母さんが、彼女をそういうふうに育てたのだろう。それでもいつか、普段は意識に上らない“心の穴”を風が通り抜ける日が訪れるに違いない。人の心は、人生で何かを失うたびに穴の数が増えてゆく。そして人は、孤独に耐えることで自立するのだ。


 亡き母は、彼女の胸の内で生き続けることだろう。生死不二(しょうじふに)なれば、生が死を包み、死は生を照らす。

反転する希望/『青い虚空』ジェフリー・ディーヴァー

    • 反転する希望

 ハッカーが起こし得る犯罪の究極を描いた作品。実際に行うことは難しいだろうが、コンピュータによるネットワークが張り巡らされた現在、「ない」ものとして切り捨てることもできない。タイトル(The Blue Nowhere)は、インターネット空間を意味するディーヴァーの造語。実にセンスがいい。


 ハッカーは次々と殺人を犯す。個人情報をやすやすと入手し、相手の生活パターンまで知り尽くす。ネットワークで接続されているもの全てをコントロールし、支配する。セキュリティ、クレジットカードはもとより、信号機から送電線に至るまで自在に操る。


 犯人の名は物語の前半でわかる。まだ読んでいないページの厚みを指で確認しながら、「こんなに楽しみを残してくれるのか」と思わずニンマリする。業を煮やした警察は、拘留中のハッカーに捜査の応援を依頼する。


 希望は一片でも持ってはいけない。監獄では、期待が死への第一歩だ。


【『青い虚空』ジェフリー・ディーヴァー/土屋晃訳(文春文庫、2002年)】


 拘留中のハッカーが自分に言い聞かせる言葉。警句の余韻が何とも言えない。淡い期待は刑期の長さを再確認することに他ならず、不自由さを思い知らされる羽目となる。それがわかっていながらも、ないものをねだるのが人間の性(さが)であろう。ハッカーが希望と絶望の狭間で揺れ動く様を見事に表現している。


 土屋晃の訳文も読みやすい。例の如く物語を二転三転、四転五転させるディーヴァーのお手並みが見事。

青い虚空 (文春文庫)