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2008-10-01

生き生きとした人物描写と興味深いエピソードで読ませる/『戦争報道の内幕』フィリップ・ナイトリー


 翻訳に際して数章ほど割愛したとのことだが、それでも十分な厚さ。資料としても耐え得る量でありながら、きちんとした読み物になっているところが凄い。1854年から1975年に至るまでの戦争(クリミヤ戦争からベトナム戦争まで)をフォローした労作。


 マルタ遠征(1854年)の指揮官は、イギリスの英雄と謳われたラグラン卿で、ウェリントン公の軍事秘書を務めていた。ラグランは勇敢で、ワーテルローで外科医が麻酔なしで彼の片腕を切り落としたとき、「わが片腕を持ってきてくれ。妻がくれた指輪が指にはまっているはずだ」とだけ言ったという。


【『戦争報道の内幕』フィリップ・ナイトリー/芳地昌三訳(中公文庫、2004年)】


 思わず、吉川『三国志』の関羽を思い出した。生き生きとした人物描写に、興味深いエピソードを盛り込んで飽きさせない。さすが、『サンデー・タイムズ』(ロンドン)の老練記者だけのことはある。芳地昌三の訳文も品がある。


 正確な戦況報道は時に敵を利する場合がある。それゆえ、これを軍事機密扱いしたい軍側と、売り上げのためにセンセーショナルな記事を追い求める記者との駆け引きは、時代を経ても変わらない。そして、ジャーナリズムが情報操作のために利用される姿も何一つ変わらない。


 いぶし銀のような光を放つ好著である。


戦争報道の内幕―隠された真実 (中公文庫)

目撃された人々 20


「6月……」と彼女は言った。「そうか……」と私は応じた。浅川の柔らかなせせらぎが聞こえた。


 彼女の母親が亡くなってから3ヶ月が過ぎていた。この間、スキルアップを勝ち取った彼女は新しい職場で奮闘してきた。多分、誰よりもその姿を喜んだのは、亡くなったお母さんだったことだろう。


「人生で最大のストレスを感じるのは“家族の死”に接した時と言われているが、君はどうだ?」と訊ねた。「それが、あまり感じてないんだよね」。あっけらかんとした顔つきで即答した。「でも……」と彼女は続けた。「母親の死を、私自身がまだ受け容れてないのかも」。クルクルとよく動く表情が微笑んでいた。


 きっと、今は亡きお母さんが、彼女をそういうふうに育てたのだろう。それでもいつか、普段は意識に上らない“心の穴”を風が通り抜ける日が訪れるに違いない。人の心は、人生で何かを失うたびに穴の数が増えてゆく。そして人は、孤独に耐えることで自立するのだ。


 亡き母は、彼女の胸の内で生き続けることだろう。生死不二(しょうじふに)なれば、生が死を包み、死は生を照らす。

反転する希望/『青い虚空』ジェフリー・ディーヴァー

    • 反転する希望

 ハッカーが起こし得る犯罪の究極を描いた作品。実際に行うことは難しいだろうが、コンピュータによるネットワークが張り巡らされた現在、「ない」ものとして切り捨てることもできない。タイトル(The Blue Nowhere)は、インターネット空間を意味するディーヴァーの造語。実にセンスがいい。


 ハッカーは次々と殺人を犯す。個人情報をやすやすと入手し、相手の生活パターンまで知り尽くす。ネットワークで接続されているもの全てをコントロールし、支配する。セキュリティ、クレジットカードはもとより、信号機から送電線に至るまで自在に操る。


 犯人の名は物語の前半でわかる。まだ読んでいないページの厚みを指で確認しながら、「こんなに楽しみを残してくれるのか」と思わずニンマリする。業を煮やした警察は、拘留中のハッカーに捜査の応援を依頼する。


 希望は一片でも持ってはいけない。監獄では、期待が死への第一歩だ。


【『青い虚空』ジェフリー・ディーヴァー/土屋晃訳(文春文庫、2002年)】


 拘留中のハッカーが自分に言い聞かせる言葉。警句の余韻が何とも言えない。淡い期待は刑期の長さを再確認することに他ならず、不自由さを思い知らされる羽目となる。それがわかっていながらも、ないものをねだるのが人間の性(さが)であろう。ハッカーが希望と絶望の狭間で揺れ動く様を見事に表現している。


 土屋晃の訳文も読みやすい。例の如く物語を二転三転、四転五転させるディーヴァーのお手並みが見事。

青い虚空 (文春文庫)