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2008-10-21

東浩紀、大澤真幸、春名幹男


 2冊挫折。余生の貴重な時間を優先した。


自由を考える 9.11以降の現代思想東浩紀、大澤真幸/対談でこれだけ難しい話をするたあ、驚いたよ。それにしても、どうしてこんなに小難しい理屈になるんだろうね? これじゃあ、大衆は耳を傾けないよ。特に大澤の話がチンプンカンプン。


秘密のファイル CIAの対日工作(上)春名幹男/いい本なんだろうけどね。多分、資料に寄り掛かり過ぎているのだと思う。文章が無味乾燥なんだよね。その上、焦点が定まっていない。この淡々としたテキストを、私はどうしても一気に読めない。教科書を読んでいるような印象を受けた。

夢は脳による創作/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 脳が賑やかだ。もちろん私の脳ではない。脳神経科学、脳機能科学にまつわる書籍が随分と出回っている。日本における草分けは養老孟司と言ってよいだろう。『唯脳論』を発表したのが1989年だから、もう20年も経つ。その後、1991年に放映されたNHKスペシャル「アインシュタインロマン」で一躍有名になった。


 多分、脳科学がどんどん発展していることと思われるが、それと共に数学や物理学の進化も見逃せない。複雑系量子論、はたまた超ひも理論などは、外なる宇宙を解明しつつ、内なる宇宙にまで迫っているのだ。


 宇宙は無限である。そして、進んだ距離に比例して無限を実感できる。前進し続ける科学は、遂に宗教と同じ町内に引っ越してきている。二人が結ばれるのは、あと数十年後のことか。


 夢とは何か。脳の働きである。そして夢は、どのように語られるのか――


 別な言い方をしよう。首に冷たいものが当たる。睡眠中の脳では、その知覚が、「ギロチンで首を切られる」連想を生じる。それがこの夢の主体である。しかし、首を切られるについては、他の連想も生じるであろう。それらの連想は、もし記憶されているとすれば、覚醒後に、いま見ていた「夢の話」として「語られる」。しかし、「語る」ためには、話に順序がなければならない。覚醒した脳は、話を「順序立てて」語る癖がある。そうしなければ、「話にならない」からである。こうして、「夢の話」とは、おそらく覚醒後に、睡眠中に起こった脳内のできごとを、「言語表現となるように」語るものだ、ということになる。


【『カミとヒトの解剖学』養老孟司法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)】


 私は昨年、「思想とは物語であり、人間は物語に生きる動物である」という悟りに達した(笑)。ここで養老孟司が言っていることは全く同じである。ただし、私が「物語」に基盤を置いているのに対して、養老孟司は「脳」というスタンスに立っている。これまた、養老孟司に言わせれば、「物と機能の違いに過ぎない」(『唯脳論』)ことになる。


 人間の情として、「脳が全てだ」という議論にはいささか抵抗を持つ人が多いことだろう。それは、「頭でっかち」という幼少期の悪口にトラウマを感じていることと無縁ではあるまい。しかし、だ。「馬鹿の大足、間抜けの小足、ちょうどいいのは俺の足」とも言うのだ。つまり、「頭でっかち」はバランスの悪さを指摘していることになる。


 あるいは身体性が、脳内に押し込まれるようで違和感を覚えるという意見もあるだろう。そう、私の意見だ(笑)。身体全体を司っているのが脳であることに疑問の余地はないが、身体との双方向性を無視することはできない。つまり、身体からの刺激が脳内のネットワークを書き換えることだって、十分に考えられる。運動、労働、修行が持つ身体性を侮ってはなるまい。


 だから、「ネットワークとしての脳」と考えるべきだろう。そして、「ネットワーク」という仕組みこそ「物語」であるというのが私の持論だ。これを端的に説いたのが、仏教の「縁起」思想であろう。

カミとヒトの解剖学 カミとヒトの解剖学 (ちくま学芸文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

洗練された妄想/『我が心はICにあらず』小田嶋隆

 小田嶋隆のコラムデビュー作。まあ凄いよ。150kmのナックルボールと言ってよい。電車の中で読んだら、間違いなく白い目で見られることだろう。噛み殺せる程度の笑いじゃ済まないからだ。本を読んで、これほど笑い転げたのは初めてのことだ。


「何を探してるの?」

 秋葉原の電気街をぶらついていると、店のお兄ちゃんが行く手をさえぎっていきなり話しかけてくる。

 たとえば、ここが秋葉原でなく、話しかけてきたのがパンチパーマでなく、私が私でないのならこの質問にももう少し答えようがある。仮に私が砂浜で桜貝を集めている傷心の男で

「何かお探しのものですか」

 と声をかけてきたのが妙齢の女性ということにでもなれば、私も確信を持って

「未来を探しているのです」

 と答えることができる。すると彼女は花のように笑ってこう言う。

「それで、もうお見つけになって」(育ちが良いのだ)

 そこで私は、たっぷり2秒間彼女の目を見つめたあとにこう言う。

「たったいま見つけたところです」

 ところがここは秋葉原で、話しかけてきたのはパンチパーマで、私はといえば桜貝で癒せるような傷心は持っていない(赤貝でもやっぱりダメだ)。


【『我が心はICにあらず』小田嶋隆(BNN、1988年/光文社文庫、1989年)】


 妄想は、想像の母だ。そして、想像は創造と婚姻関係にある。とすると、全ての芸術は妄想の孫と言ってよい(よいわけねーだろーが)。


 秋元康の向こうを張るほどの臭さだ。だが臭さを極めてしまえば、ドリアンや銀杏のように多くの人々を魅了してしまうのだ。そして、小田嶋隆の妄想は、秋元よりも洗練されていて文学的だ。その上、オチもある。


 人は笑うと無防備になる。笑いは心を開放するからだ。オダジマンはそこに毒を吐きつける。揶揄・嘲笑・愚弄という成分の毒が全身に行き渡り、読者は餌食となる。小田嶋隆は、現代という砂漠を駆け抜けるサソリだ。

我が心はICにあらず(単行本)


我が心はICにあらず(文庫本)