古本屋の覚え書き このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 古本屋の覚え書きを検索

2008-10-31

唯脳論宣言/『唯脳論』養老孟司

 もっと早く読んでおくべきだった、というのが率直な感想だ。そうすれば、『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』に辿り着くのも、これほど時間がかからなかったはずだ。


 今読んでも、そこそこ面白い。ということは、1989年の刊行当時であれば、怒涛の衝撃を与えたことだろう。岸田秀の唯幻論は、幻想というパターンの繰り返しになっているが、養老孟司は身体という即物的なものに拠(よ)っているため、割り切り方が明快だ。


 では、歴史的ともいえる唯脳論宣言の件(くだり)を紹介しよう――


 われわれの社会では言語が交換され、物財、つまり物やお金が交換される。それが可能であるのは脳の機能による。脳の視覚系は、光すなわちある波長範囲の電磁波を捕え、それを信号化して送る。聴覚系は、音波すなわち空気の振動を捕え、それを信号化して送る。始めは電磁波と音波という、およそ無関係なものが、脳内の信号系ではなぜか等価交換され、言語が生じる。つまり、われわれは言語を聞くことも、読むことも同じようにできるのである。脳がそうした性質を持つことから、われわれがなぜお金を使うことができるかが、なんとなく理解できる。お金は脳の信号によく似たものだからである。お金を媒介にして、本来はまったく無関係なものが交換される。それが不思議でないのは(じつはきわめて不思議だが)、何よりもまず、脳の中にお金の流通に類似した、つまりそれと相似な過程がもともと存在するからであろう。自分の内部にあるものが外に出ても、それは仕方がないというものである。

 ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう。


【『唯脳論』養老孟司青土社、1989年/ちくま学芸文庫、1998年)】


 今村仁司の『貨幣とは何だろうか』を読んでいたので、この主張はスッと頭に入った。お金という代物は、それ自体に価値があるわけではなく社会の決め事に過ぎない。その意味では幻想と言ってよい。等価交換というルールがなくなったり、世界が飢饉に襲われるようなことがあれば、直ちに理解できることだろう。その時、人類は再び物々交換を始めるのだ。


 私は以前から、お金に付与された意味や仕組みがどうしても理解できなかった。しかし、この箇所を読んで心から納得できた。動物と比べてヒトの社会が複雑なのも、これまた脳の為せる業(わざ)であろう。脳神経のネットワークが、そのまま社会のネットワーク化に結びつく。で、我々は「手足のように働かされている」ってわけだ(笑)。


 私がインターネットを始めたのが、ちょうど10年前のこと。当時、掲示板で何度となく話題に上った『唯脳論』であったが、私は『唯幻論(『ものぐさ精神分析』)』と、唯字論とも言うべき石川九楊(『逆耳の言 日本とはどういう国か』)を読んで、頭がパンクしそうになってしまったのだ。読んでは考え、また読んでは考えを繰り返しているうちに、二日酔いのように気持ちが悪くなった覚えがある。必死に抵抗しようと試みるのだが、イソギンチャクにからめ取られた小魚のようになっていた。


 だが、今なら理解できる。また、脳科学が証明しつつある。


 時代をリードする思想は、中々凡人(→私のことね)には理解されない。それどころか、反発を招くことだって珍しくない。ともすると我々は、中世における宗教裁判なんかを嘲笑う癖があるが、現代にだって思想の呪縛は存在する。自由に考えることは難しい。先入観に気づくのはもっと難しい。


 養老孟司は、「社会は暗黙のうちに脳化を目指す」とも指摘している。そうであれば、世界はネットワークで結ばれ、一つの意思で動かされる時が訪れる。それが、平和な時代となるか、『1984年』のようになるかはわからない。

唯脳論 (ちくま学芸文庫)

投稿したコメントは管理者が承認するまで公開されません。

スパム対策のためのダミーです。もし見えても何も入力しないでください
ゲスト


画像認証