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2008-11-30

安部芳裕、サイモン・シン、立川武蔵


 1冊挫折、2冊読了。


金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った』安部芳裕/ただのトンデモ本だった。徳間書店5次元文庫ってえのあ、トンデモシリーズのようだ。景気が冷え込んでいるからといって、ここまで開き直っていいものだろうか? 極端な単純化によって読者の目を眩(くら)ませようとしている。わかった上で書いているならまだしも、本気で信じているとすれば害悪以外の何ものでもない。80ページで、「阿修羅資料室」からの引用があり、読むことを控えた。

フェルマーの最終定理サイモン・シン/これは面白かった。ここのところ数学本にはまっているのだが、本書は抜きん出ている。ピュタゴラス以降の数学史を鳥瞰し、アンドリュー・ワイルズに至るまでの系譜がしっかり描かれている。日本人が多数登場することに驚いた。著者のサイモン・シンは、ケンブリッジ大学大学院で素粒子物理学の博士号を取得している。1967年生まれというのだから、まだまだ今後に期待が募る。


空の思想史 原始仏教から日本近代へ立川武蔵/仏法で説かれた「空」の思想的変遷を概観。まず、文章がいい。内容は中級者以上向け。インド→中国→日本を減るたびに「空」の捉え方も変容している。終盤にかけてやや失速感を覚えるが、これは紙数に限りがあったためだろう。釈尊、竜樹、天台、伝教と辿り、チベット仏教もカバーしている。

CD『新版 バッハ大全集』


 全6巻で何と110枚組。値段は17万3250円也。ジャパネットたかたで販売してくれないかな。尚、『マタイ受難曲』はカール・リヒター指揮のものではない。ま、愛好家ならとっくに持っているだろうからね。戦略上手。べら棒な値段に感じるが、1枚あたり1575円だから良心的と言えよう。「いつの日か、必ず買ってやるぞ」と固く決意した。しかし、1日に1枚としても10回聴くのに3年以上かかる計算になる。まさかバッハだけ聴くわけにもいかないだろうから、50歳くらいまでに買っておかないと、十分に堪能することはできないだろうね。

バッハ大全集(全6巻-CD110枚組)

迷信・誤信を許せば、“操作されやすい社会”となる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 何も考えたくない時がある。どうにでもなれ、と捨て鉢になることもある。私はないけどね。壁にぶち当たって行き詰まると、人は思考を意図的に停止させる。ま、今時は普段から停止しっ放しという若者も多いが。きっと、脳内がエコ・モードとなっているのだろう。節電。


 考えることと考えないことの間には、知性と欲望の川が流れている。欲望に身を任せれば、あっと言う間に川下に流されてしまう。知性は明確な意思に基づいて川上を目指す。


 こんなことは誰でも考えつくことだ。もう一歩考えてみよう。欲望という言葉だと誰もが否定的になるが、これを熱狂と言い換えると妙な引力が働く。人は心のどこかで熱狂を求めている。そう。祭りだ。熱狂の坩堝(るつぼ)。リオのカーニバル


 私が東京で暮らすようになってから最初に驚かされたのも祭りであった。北海道には御輿(みこし)を担ぐという文化がない。多分。日本人が住むようになってから1世紀あまりしか経ってないことが、先祖や土地への呪縛を薄めているのだろうと個人的に解釈している。


 元来は「祀(まつ)り」であった。それが、「祭り」となり「政(まつりごと)」と変化してきた。では、何を祀っていたのだろうか? そりゃあ、生き物に決まってるわな。何らかの犠牲を伴った方が、神仏からの見返りも大きいと考えるのが普通だよ。当然、若い人間を生贄(いけにえ)にした時代もあったことだろう。生と死は暴力を実感する中で自覚される。そして、熱狂と暴力は同じアパートに住んでいるのだ。


 例えば、ヒトラー支配下のナチス・ドイツ。あるいは、マッカーシズムが旋風を巻き起こしたアメリカ。はたまた、魔女狩りが横行した中世のヨーロッパ。いずれも熱狂と暴力が同居していた時代だ。「考えない」代償はこれほど大きい。


 誤信や迷信を許容していると、間接的にではあるが、別の被害を受けることになる。誤った考えを許容し続けることは、初めは安全に見えてもいつのまにかブレーキが効かなくなる「危険な坂道」なのである。誤った推論や間違った信念をわずかとはいえ許容し続けているかぎり、一般的な思考習慣にまでその影響が及ばないという保証が得られるだろうか? 世の中のものごとについて正しく考えることができることは、貴重で困難なことであり、注意深く育てていかなければならないものなのである。私たちの鋭い知性を、いたずらに正しく働かせたり働かせなかったりしていると、知性そのものを失くしてしまう恐れがあり、世の中を正しく見る能力を失くしてしまう危険がある。さらには、ものごとを批判的にみる能力をしっかり育てておかないと、善意にもとづくとは限らない多くの議論や警告にまったく無抵抗の状態になってしまう。S・J・グールドは、「人々が判断の道具を持つことを学ばずに、希望を追うことだけを学んだとき、政治的な操作の種が蒔かれたことになる」と述べている。個人個人が、そして社会全体が、迷信や誤信を排除するよう努めるべきである。そして、世の中を正しく見つめる「心の習慣」を育てるべく努力すべきであると私は考える。


【『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ/守一雄、守秀子訳(新曜社、1993年)】


 祭りは「ハレ」の日だ。つまり非日常。現代の非日常といえば、そりゃあテレビに決まってるわな。そして、メディアは情報を加工・修正し、時に粉飾・デフォルメを加え、日常的な操作を行っている。


 一枚の木の葉にも光の鼓動が脈打っている。北極星の輝きは430年もの旅を経て我々の瞳に届けられたものだ。思議し難いが故に不思議。そして、不思議に魅了される内なる不思議。本物の感動はそこにある。


 メディア情報を鵜呑みにしているタコ野郎は、必ずやいつの日かヒトラーのような政治家に一票を投じることになるだろう。

人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)


 尚、著者のトーマス・ギロビッチは、大和証券グループのCMに登場している。

アイルランドが生んだ天才数学者ウィリアム・ハミルトンの悲恋/『天才の栄光と挫折 数学者列伝』藤原正彦


 9人の天才数学者をスケッチした紀行風の評伝。明晰な文章が数学者らしい。また、いつもながら藤原正彦のユーモラスな頑固ぶりに、両親(新田次郎藤原てい)の面影が偲(しの)ばれる。歴史に名を残した天才達の有為転変をすくい取り、成功に至るまでの苦心惨憺と、人生の不遇や悲哀まで描かれている。いずれも小説になりそうなほど劇的な生きざまである。不思議なまでに振幅が激しい点で共通している。


 ハミルトンの神童ぶりが凄い。わずか5歳にして英語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を読解し、10歳までに10ヶ国語(イタリア語、フランス語、ドイツ語、アラビア語サンスクリット語、ペルシア語)をマスター。10歳でユークリッドの『原論』を、12歳でニュートンの『プリンキピア』を読んだという。

 そんなハミルトンだったが、初恋は相思相愛であったものの途中で引き裂かれてしまった。彼女の父親が、資産のある中年牧師と強引に婚約させてしまったのだ。父親は、無一文の学生(ハミルトンは当時19歳)と娘を一緒にさせるつもりはなかった。


 その後、ハミルトンは別の女性と結婚。しかし、彼は初恋の人キャサリンに対する思慕を終生捨てることはなかった。苦心の末に刊行した『四元数講義』は難解過ぎて、誰からも理解されなかった。


 その中にあって彼の心を慰めたのは、初恋の人キャサリンの思い出だったかも知れない。彼は終生キャサリンへの愛を抱き続けたのだった。彼女が不幸な結婚生活を送りながら、ハミルトンをいまだに慕っていることを、友人である彼女の兄から聞いていただけに、なおさら想いが募ったのだろう。

 45歳の時には、キャサリンを見初めた、今ではすっかり朽ち果てた家を訪れ、黄昏の光の中、彼女が26年前に立っていた、その床に接吻をしたのである。


【『天才の栄光と挫折 数学者列伝』藤原正彦(新潮選書、2002年/文春文庫、2008年)以下同】


 そして3年後、キャサリンからのメッセージが届けられた。彼女は既に死の床に就いていた。ハミルトンは彼女の下へ走った。そこで二人は生まれて初めて静かに唇を合わせた。キャサリンは2週間後に黄泉路へ旅立った。死神が二人の再会を手引きした格好となった。


 締め括りの文章はこうだ――


 遥か届かぬ人への一途の想い、私は妙に胸が塞ぐままに天文台を辞し、待たせてあったタクシーで四元数発見のブルーム橋へ向かった。天文台から3キロほどの、田園を貫く運河にかかる小さな石橋であった。タクシーを止めると、歴史的発見の現場にたどり着いた興奮のためか、私は走り出した。橋のたもとの土手を下り、橋の直下に回ると、幅5メートルほどの小さな運河に面した壁に、碑文が埋め込まれてあった。

「ここにて、1843年10月16日、ウィリアム・ハミルトンは、天才の閃きにより、四元数の基本式を発見し、それをこの橋に刻んだ。i2乗=j2乗=k2乗=ijk=1」

 ハミルトン自身の刻んだ式は見つからなかったが、壁にそっと手を触れると、彼の人生における最大の歓喜が、指を通して電気のように私の胸まで伝わった。

 ハミルトンの散歩道だった運河沿いの一本道を、私は歩き始めた。歩きながら、この一本道は、ハミルトンの歓喜とともに、涙をも滲(にじ)ませた一本道であると思った。栄光と悲劇の一本道は、ハミルトンが通り、アイルランドが通った一本道であった。私は行きつ戻りつしながら、次第に足の重くなるのをしきりに感じていた。

 どのくらいたったろうか、どこかから「大丈夫ですか」という声が聞こえた。振り返ると橋の上で、タクシー運転手が私を見下ろしていた。黙ってうなずく私の表情に何かを察したのか、「いやごゆっくりどうぞ」と慌てて言うと、橋の向こうに消えた。


 絶品としか言いようがない。

天才の栄光と挫折―数学者列伝 (文春文庫)

「サルサ・ノ・ティエネ・フロンテラ(サルサに国境はない)」オルケスタ・デ・ラ・ルス


 オルケスタ・デル・ソルの弟分としてデビュー。1984年結成。1993年にはグラミー賞にノミネートされ、同年、国連平和賞を受賞。ラティーノからも圧倒的な支持を得る。このライブ動画を見ても堂々たる自信に溢れている。と言うよりは、よりサルサの精神を忠実に体現している。躍動と楽観こそがサルサの魅力。NORAのボーカルは刺々(とげとげ)しさがなく、親しみやすい。景気が悪い時は、サルサを聴くに限る。


D


ベスト・オブ・オルケスタ・デ・ラ・ルス

2008-11-29

わずか9行で描かれる戦争と平和の物語/『石垣りん詩集』


「愛読書は石垣りんの詩集です」と語る女性がいれば、それだけで私はいっぺんに好きになってしまうことだろう。石垣りんの詩は、生活という大地にしっかりと足を下ろし、足の指が大地を鷲づかみにしているような力感に満ちている。そして、時にはこんな素敵な物語を紡ぎ出してくれる――


戦闘開始


 二つの国から飛び立った飛行機は

 同時刻に敵国上へ原子爆弾を落としました


 二つの国は壊滅しました


 生き残った者は世界中に

 二機の乗組員だけになりました


 彼らがどんなにかなしく

 またむつまじく暮したか――


 それは、ひょっとすると

 新しい神話になるかも知れません。


【『石垣りん詩集』(ハルキ文庫、1998年)】


 わずか9行で描かれる戦争と平和の物語だ。戦争という愚行を見事に表現しきっている。果たして人類は、たった二人だけになるまで戦争を続けるのだろうか?

石垣りん詩集 (ハルキ文庫)

米国における天地創造と進化論/『神と科学は共存できるか?』スティーヴン・ジェイ・グールド


 同じクリスチャンでも欧米には落差がある。アメリカはモルモン教に見られるように原理主義的であり、独善的だ。

 そのため、米国が行う蛮行は“正義の名の下”に実行され、「神が書いたシナリオ」として事後承認される。主よ、あなたは後出しジャンケンが得意だ。あらゆる事象が「神の思し召し」であれば、これほど身勝手な存在もあるまい。孫悟空の方がまだましだ。


 で、アメリカ人は天地創造と進化論をどのように考えているのだろう――


 まず、アメリカの科学者は宗教と進化論の関係をどうとらえているのか。

 1987年の『ニューズウィーク』誌によると、約48万人のアメリカ国内の地球学者、生物学者のうち、聖書の記述が科学的にも正しいとする創造論者は700人程度。つまり、専門科学者のうち進化論に疑念を抱いているものは、0.18%である。この数字を見る限り、アメリカにおいて現代の生物学における進化論は、科学者たちの目から見ても、確立され、十分に信用されている科学理論といえる。おそらく全世界の科学者を対象としたならば、疑念を持つ科学者の割合はさらに小さくなるであろう。同じく、Religious Toleanceの1997年のより広範囲の専門分野におけるアメリカ科学者に対する調査では、聖書における創造を文字通りに信じる者は5%、進化を認め、かつ、神を信じる者は33%、自然主義的進化を信じる者は55%という結果がある。

 次にアメリカの一般人を対象とする調査を見てみよう。

 アメリカ人1000人に行った1991年、1997年、2001年のギャラップ調査では、(A)「神は人間を現在の形のままに過去1万年前に一気に造られた」と思う人の割合がそれぞれ47%、44%、45%、(B)「人間は、数百万年をかけて未進化の状態から進化してきた、しかし、神がこの過程を導いて居られる」と思う人の割合がそれぞれ40%、39%、37%、(C)「人間は数百万年をかけて未進化の状態から進化してきた。神はこの過程には関係ない」と思う人の割合が9%、10%、12%、(D)「その他」4%、7%、6%とうい結果が出ている。


【『神と科学は共存できるか?』スティーヴン・ジェイ・グールド(日経BP社)】


 古谷圭一の解説文より。驚愕の事実といってよい。「神が創った」という人為的な操作性が、米国の独善に結びついているように感じる。そして、神に最も近い立場の動物として、差別主義がまかり通るのだ。


 神が人間を創ったとすれば、その技術はあまりにも未熟であると言わざるを得ない。

神と科学は共存できるか?

モンティ・ホール問題/『夜中に犬に起こった奇妙な事件』マーク・ハッドン


 アスペルガー症候群発達障害)の少年が主人公。自閉的傾向はあるものの、IQはかなり高い。描かれているのは、「自閉症から見える世界」だ。視点を引っくり返す手法が、森達也のドキュメント映画『A』と似ている(※オウム真理教の側にカメラを置いた)。読んでいる間、価値観は逆転し、「普通」が「異質」となる。これがまた中々スリリングなんだよ。軽度発達障害に興味がある人なら、どんな専門書よりも本書が参考になると請け合っておこう。


 書くのをためらっている内に忙しくなってしまった。当初、モンティ・ホール問題を紹介して、口汚くサヴァント女史を罵った学者連中を見せしめにしてやろうと考えていた。

 ここで翻訳の問題が一つ。通常だと「マリリン・ヴォス・サヴァント(Marilyn Vos Savant)」と表記されているのだが、本書では「マリリン・フォス・サバント」となっている。ギョエテ=ゲーテじゃあるまいし、せめて人物名は出版界で統一してもらいたいものだ。


 おおぜいのひとが雑誌に手紙を出して、マリリン・フォス・サバントはまちがっているといってきた、彼女がなぜ自分は正しいか、とてもていねいに説明したにもかかわらず、その問題について彼女のところに送られた手紙の92パーセントは、彼女はまちがっているというもので、その手紙の多くは数学者や科学者からのものだった、ここに彼らの意見の一部をのせる。


 わたしは一般大衆の数学能力の欠如を非常に憂慮するものである。あなたの誤りを公表して事態を改善して下さい。

【ロバート・サックス博士、ジョージ・メイソン大学】


 わが国には数学に無知な人間がおおぜいいる。このうえ世界最高のIQの保持者まで無知であることを世界に知らしめる必要はない。恥を知りたまえ!

スコット・スミス博士、フロリダ大学】


 すくなくとも3人の数学者に指摘されたにもかかわらず、自分の誤りに気づかないとはなんたることか。

【ケント・フォード、ディキンソン州立大学】


 あなたは高校生や大学生からたくさんの手紙を受け取ったことと思う。そのうちのいくつかの住所を書きとめておかれてはいかがでしょう。今後、コラムを書く際には彼らの助けが必要になるかもしれませんから。

【W・ロバート・スミス博士、ジョージア州立大学】


 あなたはぜったいにまちがっている……あなたの心を変えさせるのにいったい何人の怒れる数学者が必要なのでしょうか?

【E・レイ・ボボ博士、ジョージタウン大学】


 もしこれらの博士たちがみなまちがっているなどということがあるなら、この国に未来はないであろう。

【エベレット・ハーマン博士、アメリカ陸軍研究所】


 しかしマリリン・フォス・サバントは正しかったのです。そしてそのことを示すには二つの方法がある。


【『夜中に犬に起こった奇妙な事件』マーク・ハッドン/小尾芙佐訳(早川書房、2003年)】


 ところがちょっと困ったことが起きた。Wikipediaの記事に「彼女の答えは間違いではないものの、必ずしも完全な正解とも言えない」とあったためだ。

 更に調べたところ、これに対して反論を述べているページも発見――

 いやあ数学ってえのあ、奥が深いもんですな。私が身につけていた借り物の知識は翻弄されるのみ。

夜中に犬に起こった奇妙な事件 (ハリネズミの本箱) 夜中に犬に起こった奇妙な事件

(※左が単行本、右が新書)

「ロマンス」ガロ


 私が小学4年生の頃のヒット曲。メランコリックな曲調と、性別が行方不明になりそうなハイトーンボイスに痺れた。荒井由実のファーストアルバム『ひこうき雲』が出たのもこの年で、ニューミュージックのはしりと言っていいかも知れない。3人のコーラスが美しく、今聴いても名曲。


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ガロスーパー・ベスト

2008-11-28

藤原正彦


 1冊読了。


天才の栄光と挫折 数学者列伝藤原正彦/明晰な文章で天才数学者達を素描している。大雑把に言ってしまえば、エッセイ風味の評伝というところだろうが、実際はそんなレベルではない。劇的な小説や、優れた紀行文の要素すらある。ソーニャ・コワレフスカヤ(ロシア)を取り巻く人々の中にドストエフスキートルストイが登場して度肝を抜かれ、シュリニヴァーサ・ラマヌジャンの出世物語に快哉を叫んだら、あとは一気読み。天才達の有為転変の人生が読者を魅了してやまない。快著。

2008-11-27

「わかれ 詠訣」BUZZ


 中学生の頃、よく聴いた名曲。死を宣告された恋人とのやり取りから、私は人生を学んだ。ゾッとさせられた後の感動が深い余韻を残す。泣きたくなるほど懐かしいね。

BUZZ BEST OF BEST

石垣りん


 1冊読了。


石垣りん詩集』/4冊の詩集からピックアップして一冊に編んだもの。石垣りん入門といってよい。ブログを読み返していたところ突然、「女湯」を全文読みたくなった。生活という大地にしっかりと足を下ろし、赤裸々な心情が綴られている。よく見せよう、とする姿勢が全くなく、妙な理屈も見られない。石垣りんが植えた言葉の木々は、風雪にも揺るがぬ強靭さを秘めている。

2008-11-25

「虹」「ひまわり」福山雅治


 福山雅治は、ミュージシャンとしては細切れの仕事が多い。コストパフォーマンスが優れていると言うべきか。昔は中途半端な曲が多かったが、この2曲は素晴らしい。「ひまわり」は前川清に提供した曲。こちらも味があってよい。


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虹 / ひまわり / それがすべてさ

辛淑玉


 1冊挫折。


怒らない人』辛淑玉(しん・すご)/半分ほど飛ばし読み。もったいない本である。在日朝鮮人として日本で生まれ育った苦労が書かれている前半がまるでダメ。例えば、転校が多かった小学生時代の作法として、紹介を終えて座席に着く前に、一番の悪ガキとおぼしき生徒の頭を上履きで殴りつけるというのが紹介されている。ここに象徴されているのは、抑圧された民族であれば暴力を振るっても構わないという論理である。ま、一種のテロ行為といってよい。たとえ筆舌に尽くせぬ苦労があったにせよ、卑屈な通奏低音があるため、批判が悪口のレベルに見えて仕方がない。各政党にケンカを売っているが、公明党批判は的を射たもので、極めて正当な意見だ。辛淑玉は、もっとサラリとしたエッセイ風のものを書くべきだと思う。

2008-11-24

「サム・スカンク・ファンク」ブレッカー・ブラザーズ


 1978年発表。この曲も結構、テレビ番組で使われている。アルバム『ヘヴィ・メタル・ビ・バップ』にもこのライブ演奏が収録されている。この曲を聴きたくてレコードを買ったのが二十歳の頃。CDも持っている。スピードとキレが堪らない。


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ヘヴィ・メタル・ビ・バップ

2008-11-23

開祖や教団の正統性に寄りかからない/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男


 大乗仏教運動の意味を思索し、捉え直そうとする内容。この姿勢がいい。


 私は、その宗教の開祖であることだけをもって、あるいは教団の正統性だけをもって、無条件にその価値があるとは考えない。そういう考え方は、一種の権威主義であろうと思う。それ自身の価値に拠るのではなく、外的要件によって価値を認める権威主義は、宗教の世界の最も対極にあるものと思う。


【『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男(大東出版社、1997年)】


 確かにそうだ。我々はどう頑張ってみても釈尊やイエスに会うことができない。とすれば、残された膨大な経典からその姿と、真実の教えを探る以外にない。信仰とは絶対的価値観に基づくものであるが、相対的な思考法を無視すればただの盲信となってしまう。


 また、世界宗教に共通するのは、「人間を自由にする」方向へと誘(いざな)う哲学性であろう。教団に隷属させ、信徒を手段とするような宗教は淫祠邪教であると断言しておこう。つまり、宗教の効果には2種類しか存在しない。人間の背骨に芯を入れるか、骨抜きにするかである。


 アメリカが傲岸不遜なのは、キリスト教を原理主義的に信じている人々が多いためであろう。キリスト教自体にも問題はあると考えるが、それ以上に「信じ方」や「解釈の仕方」に問題があるように感ずる。


 閉鎖的な上座部の僧侶達が「我こそは釈尊の教えを悟れり」と踏ん反り返り、それを打ち破ったのが大乗興起であったことだろう。しかも、実際の釈尊が説いた教えよりも進化しているのだ。無名の人々が織り成す絢爛たる信仰体験の数々を想わずにはいられない。


 内容はまあまあだが悪文である。読むにはそれなりの覚悟が求められる。

仏教は本当に意味があるのか

ダンカン・ワッツ、スティーヴン・ジェイ・グールド、安藤寿康


 3冊挫折。


スモールワールド・ネットワーク 世界を知るための新科学的思考法ダンカン・ワッツマーク・ブキャナンアルバート=ラズロ・バラバシの前に読むべきだった。順番を誤ると読めなくなる代物である。30ページほどで断念。


神と科学は共存できるか?』スティーヴン・ジェイ・グールド/グールドを初めて読んだが、これはまるでダメ。「神と科学は畑が違う」と言ってるだけに過ぎない。多分、リチャード・ドーキンスの『神は妄想である 宗教との決別』に対抗する目論見があったことだろう。クリスチャンである古谷圭一の解説は面白かった。尚、本文に関しては10ページも読んでない。


心はどのように遺伝するか 双生児が語る新しい遺伝観』安藤寿康/半分を超えたところでやめた。文章はこなれているのだが、論旨がわかりにくい。きちんとしたデータも示されているのだが、否定と肯定を繰り返されるので、わけがわからなくなる。テーマがいいだけに、大変惜しまれる。

「国道沿いのワゴンの中で」BORO


 こんな曲まであるのだから、YouTube恐るべし。BOROの声は、やはりいい。磨り減るまで聴いたレコードの一枚。地味だが、バックコーラスもイカしてる。

2008-11-22

マーク・ハッドン


 1冊読了。


夜中に犬に起こった奇妙な事件』マーク・ハッドン/それにしてもタイトルが酷い。「夜中に犬に」ってえのあ、何とかならなかったのかね。内容は、自閉症の少年が隣家の庭で殺された犬の事件を追うもの。ただし、ミステリではない。主人公の少年は数学や物理学で抜きん出た才能を発揮しているので、多分LD(学習障害)でアスペルガー症候群と思われる。発達性障害の世界が内側から語られる。また、こうした病気を抱える人が犯罪に至る軌跡も、よく理解できる。彼等は意図的に犯行に及ぶわけではなく、自分を守ろうとしているのだ。裏表紙に、「『アルジャーノンに花束を』をしのぐ感動作」とあるが、私はそうは思わない。ジャンルが異なるためだ。小中学生向けの書籍であるが、大人でも十分に楽しめる。

私鉄不動産複合体財閥企業がつくった東京の山の手/『山手線膝栗毛』小田嶋隆


 私は今から20年ほど前に上京したのだが、まず驚かされたのは東京という巨大な街の格差であった。もうね、電車の種類によって、着ているものから顔つきまでが違っているのよ。新玉川線(現在は東急田園都市線)=ブティック、東武亀戸線=洋品店ってな感じだわな。


 で、東京ってところはさ、江戸時代から運河が縦横に走っているのよ。一昔前まで材木なんかも流して運んでいたそうだよ。下町の定義にも色々とあるようだが、Wikipediaによると、「今日では地名を整理統合する動きが進行しており、地名は地形とも地域社会とも一致しないため、地名を元に下町を区分する事は困難であるが、江戸時代から使われている具体的な地名をあげると、下谷・神田・根津・本所・深川・向島・日本橋・京橋・浅草などの東京湾岸及び河川沿いの地域があげられる」となっている。ま、江戸っ子の感覚から言えば、貧乏人の住む地域はみんな下町だよ。


 で、山の手である――


 しかし、私が何よりも憎んでいるのは、この町の山の手側と海側の間に存在している信じられないほどの落差だ。


 一般に、東京の町は、山手線の東側の半円を境界として、東側が下町、西側が山の手になっている。というのは、山手線の東半円が、関東ローム層の台地の縁を走っているために、どの駅でも東側の方が海抜高度が低く、それゆえ、土地の資産的価値も低くなる傾向にあるからだ。

 品川は、この「山の手・下町格差」が最も明瞭な形で顕在化している町だ。ここでは、駅の西側つまり山の手側は、御殿山、高輪、白金台から麻布へと続く高級住宅街に連なっており、一方、東側は、倉庫と埋立地と冴えない飲み屋と養鶏場じみた公団のマンションが並ぶ風采の良くない地域の入口になっている。

 そして、こうした地域を再開発して活性化しようという計画が、いわゆる「ウォーターフロント」構想であり、私はこれも大いに憎んでいる。

「ウォーターフロント」は、要するに「海っぺり」を役人風に言い換えてみた言葉だが、どう呼ぼうと、海っぺりは、江戸の昔から現在に至るまで、結局のところ貧しい場所なのだ。そして、貧しいからこそ、そこは、再開発の対象になっているのであって、その再開発の第一の手段は地上げであり、唯一の狙いは、金儲けなのだ。


【『山手線膝栗毛』小田嶋隆ジャストシステム、1993年)以下同】


 小田嶋隆は北区赤羽出身だが、今時は北区や板橋区の方が下町っぽい雰囲気が強い。雨に祟られ、軒先で雨宿りをしていると、見知らぬオジサンが平然と声を掛けてくる。東京ってえのあ、田舎から流れてくる連中が多いため、コミュニティとしての東京は、もはや幻想でしかない。実体があるのは「町」という単位のみだ。


 でだ、果たして誰が山の手をつくったのか。これは凄いよ――


 川端康成に「川のある下町の話」という小説があるが、この小説が書かれた頃には、「川」とか「橋」とか「土手」という言葉にはもっと違った風情が含まれていたはずなのだ。

 たとえば初夏の夕刻は、川べりに涼風が流れたはずだし、その風は、当然、一片の重油の匂いも含んでいなかった。そして、土手の斜面に腰掛けて夕涼みをしている少女の長い髪は、どこからどう考えてみても、たおやかになびかなかったはずはないのである。

 ところが、わが平成の東京の川風は、メタンガスと廃油とアオミドロの匂いを乗せて、ビルの壁の間のひねこびた通路を灰燼を巻き上げながら通り抜けて行く。であるから、もちろんそんな場所で夕涼みをする少女なんてものはいるはずがないし、いたところでそういう女の奥歯には、いじきたなく食べ散らかしたピザの切れっぱしがはさまっているに決まっているのだ。

 環境破壊の話をしているのではない。

 私は、不動産屋の陰謀の話をしているつもりだ。

 つまり、具体的に言うと、「主に東京の西半分を拠点に土地開発事業を展開した私鉄不動産複合体財閥企業の連中が行なった悪質なる水辺蔑視思想定着活動の成果」の話を私はしているわけなのだ。

 川は水害と病原菌と公害の源泉であり、海抜高度の低い所に住むのは貧乏人でありまして、ですから丘の上に住むのでなければ貴族階級とはいえないのでござあますのよ、というこの思想は、決して確かな伝統を持ったものではない。せいぜい戦後半世紀足らずの間に醸成されたプチブル根性の典型例であるに過ぎない。


 欧米の事情はいざ知らず、わが国では、いや、もっと範囲をせばめて少なくとも東京では、と言い直しても良いが、少なくとも我らが東京では、山の方に住んでいる人間は田吾作だったのである。

「なんでえ、おめっちのとこにゃ橋もないってか」

 ってえくらいなもので、何が悲しいといって、江戸っ子が、運河も掘ってないような山奥に追いやられるほど悲しいことはないのである。

 しかし、それでも大手不動産屋たちは、「○○丘」や「○○台」こそが高級住宅地だ、という宣伝を怠らなかった。なぜかといえば、彼等がどう土地を売ろうと思っても、東京で土地が余っていたのは内陸の台地ばっかりだったからだ。海辺や川べりの「一等地」(とあえて言うぞ、オレは)には、すでに由緒正しい江戸っ子が住んでいて、新しく東京に出てきた作蔵だの捨吉ずれに分けてやれるような半端な地面は、草深い「山の手」にしか残っていなかったからだ。

 であるからして、彼等、鉄地複合体制(鉄道および地上げ複合企業体)は「郊外」という耳障りの良い言葉を発明した。そして、それをムジナが出るような二毛作の大根畑に当てはめる一方で、返す刀で東半分の旧東京を「水っぺり」呼ばわりにし、そのイメージの低下を促し続けたのである。

 ……と、何かにつけて私が繰り返しているこの主張は、考えてみれば、「東京者」という、結局のところ東京において最も田舎臭い存在におちぶれてしまった存在である私のような者だけが抱いている、一種のひがみなのかもしれない。

 このことは認めても良い。

 しかしながら、地方出身者にだって地方出身者のひがみがあるはずだ。

 たとえば、東京の西半分を造成した張本人である五島某太や堤某次郎のような人々は、地方出身者であったが、その彼等には「東京者だけが集まって田舎者いびりをしている旧東京体制」に対する敵意があったはずだと私は思っている。

 だからこそ彼等は、

「よおーし、そんならオラが新しい東京を作ってやるから覚悟してやがれ」

 と決意したのであり、そうやって出来たのが、田園調布であり所沢であり多摩プラーザであり、つまり現在の東京であるわけなのだ。

 ううむ。とすると、ひがみのスケールとして、明らかに彼等の方が大きい。それに、おなじひがみと言っても性質がまるで違う感じもする。

 なにより、我々東京出身者がもっぱら過去の東京や少年時代の東京に拘泥しているのと比べて、彼等地方出身者は東京に自らの未来を見ている。


 ジャーナリストよりもはるかに鋭い指摘である。この本は、山手線界隈の地域をスケッチしたものだが、下手なフィールドワークよりも充実した内容となっている。江戸っ子であるオダジマンが、変わり果てる東京の姿に哀愁の眼差しを注いでいる。


 我々庶民は、スケールが大きくなると犯罪性を見失う傾向が強い。資本主義というゲームが、平等なルールで運営されていると思ったら大間違いだ。

山手線膝栗毛

2008-11-21

サンマリノ共和国の勝訴確定 週刊新潮名誉毀損訴訟で最高裁決定


 サンマリノ共和国の駐日大使館がカジノを運営しているかのように報じた週刊新潮の記事で名誉を傷つけられたとして、同国が発行元の新潮社に5000万円の損害賠償などを求めた訴訟の上告審で、最高裁第2小法廷(今井功裁判長)は21日、新潮社側の上告を退ける決定をした。新潮社側に300万円の支払いを命じた1、2審判決が確定した。

 1、2審判決などによると、週刊新潮は平成19年1月25日号で「『治外法権』が売り物の『危ないカジノ』サンマリノ文化交流会館」との見出しの記事を掲載した。


【産経新聞 2008-11-21】

竹村牧男


 1冊読了。


仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男/大乗仏教が「文学運動の中で自覚された仏を積極的に語った」とする試論が斬新。また、初期経典である『スッタニパータ』に大乗の萌芽が見られるという視点も実に興味深いもの。そこそこ面白いのだが、著者自身の悟りがあまり感じられない。研究である以上、理を一つ一つ積み重ねてゆくのは当然であるが、悟性で勝負するところに“宗教の哲学性”があると私は考える。また、ルビが少ないので初心者には不向き。大東出版社はあまり親切じゃないね。

「嵐が丘」ケイト・ブッシュ


 ケイト・ブッシュのデビュー曲(1978年1月20日)。19歳でこの歌唱力は凄い。今でも時折、テレビ番組の挿入曲として耳にすることも多い。イメージ的には鳥居みゆきとよく似ている。エミリー・ブロンテの原作ではなく、テレビドラマをモチーフに作られた曲。サビの頭で何度も「ヒースクリフ」と歌われている。


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天使と小悪魔

2008-11-20

アキレスと亀/『無限論の教室』野矢茂樹


「アキレスと亀」はゼノンのパラドックスの一つ。ここから無限を探る――


「無限の命令系列です。果たしてアキレスはこの命令を完了できるか。不可能です。われわれは無限回の命令をやり遂げることなどできません。終わりがないからです。このように、アキレスの運動を無限回の命令の実行の寄せ集めとして解釈することは、あからさまにアキレスの運動を不可能なものとしてしまいます。そこで切り口解釈の可能性を探るのです。そのとき、ごく平凡に、ゼノンはアキレスにただひとつの命令を出したと考えます。つまり、『亀に追いつけ』です。この命令はひとつですから、従うのに困難はありません。そこでゼノンは、『亀に追いつけ』というこの命令を実行したアキレスの運動をふりかえり、解説するのです。『アキレスはまず亀の出発点まで到達した。間をおかずに出発し、次に亀のいた地点をめざし、そこに到達した。そこでまた、……』このとき、終わらないのはアキレスの運動ではなく、ゼノンの解説の方です。ゼノンのこの解説の仕方はいつまでも終わることのない解説法になっています。しかし、解説が終わらないからといって、解説されている運動が終わらないことにはならない。アキレスはただ走り続ける。ゼノンはそれを『そういえばアキレスはあのとき……』とえんえんと語り続けるのです。くたびれるのはゼノンの方です。そんなゼノンのことを解説している私の方は、だいじょうぶ終わらないということはありませんが、しかし、もう少し説明しますと、なんであれ、すでに成立しているものをえんえんと解説し続けることは可能です。一枚の絵に対して、まずその右半分を解説し、次にその左半分を解説し、その次に、ええと、左下半分の右半分を解説し……、ええと、……まあそんなふうに続けていけば、一枚の絵をいつまでも解説し続けることができます。しかしそのことはいささかも絵画の不可能性を証明するものではありません。


【『無限論の教室』野矢茂樹(講談社現代新書、1998年)】


 絵画の例えが面白い。つまり、無限とは際限のない彼方にもあり、はたまた1と0の間にも存在するってこと。先日、紹介した0の話と似ている。

 ゼロも無限も、仏法で説かれる「空の概念」を想起させる。


 無限論を理解することは難しいが、本書は何となく読んでいるだけで右脳が刺激される。別に新しい発想が浮かぶわけではないのだが、妙な心地よさがある。多分、普段使ってない脳の場所をマッサージしてくれるのだろう。


 元々、出版が決まっていたわけではないにもかかわらず、著者はせっせと原稿を書いていたそうだ。その意味からも、思い入れの強い内容であることがわかる。数学と哲学とが溶け合う不思議な世界。

無限論の教室 (講談社現代新書)

2008-11-19

もみじ


 携帯で撮影したため、あまりキレイではない。多摩御陵にて。


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「青空」渡辺美里


 これは忘れ難いプロモーションビデオ。録画したものを軽く200回以上は観ている。取り立てて渡辺美里の顔が好みというわけでもないのだが、この表情の豊かさは凄い。最初っから最後まで顔アップのみ。それでも目が離せない。釘付け。それも五寸釘で。最近はちょっと険の強い顔つきになっているが、こんな可愛らしい時代もあったのだ。ハンディカメラのブレ具合がまた素晴らしく、自分の視界のように錯覚してしまう。このビデオに関しては、歌手というよりも女優としての渡辺美里を高く評価したい。作曲は小室哲哉


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HELLO LOVERS

2008-11-18

「アンマー」かりゆし58


 気恥ずかしくなるほど陳腐な歌詞だが、陳腐という価値があってもいい。乾いたドラムとリズムギターがイカしてる。

ウージの唄

国会議員の4分の1が世襲議員/『洗脳護身術 日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放』苫米地英人


 私が読んだ途端、絶版になってしまった。さすが古本屋というべきか。ただし、商魂逞しいベッチー先生なんで「オーディオブックCD」の方はまだある。『洗脳原論』の実践編といった内容で硬質な文章。


 洗脳とは、「自由に取捨選択できない価値観」ということが可能だ。淫祠邪教の類いだけだと思ったら大間違い。また、洗脳(ブレイン・ウォッシング)は朝鮮戦争において中国共産党が米兵捕虜に対して行ったことで知られるようになったが、苫米地英人によれば社会から隔離しなくても可能だという。


 例えば、不吉の代名詞である「北枕」。元々は釈尊(ブッダ)が逝去する際、頭を北向きにしたことに由来している。これが、遺体に適用されるようになり、我が国の“死を忌み嫌う伝統”とミスマッチして現在に至っている。私は色々試してみたが、北枕が最も快眠を得られる。北枕万歳、だ。何とはなしに磁気や地軸の向きと関連性があるような気がする。


 更に考えないといけない点は、「いい洗脳」もあれば「悪い洗脳」もあることと、洗脳自体をどう考えるかということ。大雑把かつ大風呂敷を広げて言えば、「善悪の概念」すら洗脳といえよう。ってえこたあ、「文化」も洗脳っぽいな。我々が普段、“絶対”であると信じ込んでいる価値観も、時代や国が変われば、通用しないことは十分考えられる。


 で、世襲議員だ――


 現在、日本の国会議員はその4分の1が世襲議員だという。日本の人口1億2000万人超に対して、約3000人の国会議員経験者から平均1人の世襲後継者がいるとすれば、2世、3世議員候補の人口比率は4万人に1人、0.0025%だ。これはアメリカにおけるイスラム教徒より桁違いに少ない。それが実際には、国会議員の25%を押さえている。国会議員の選挙は、世襲議員にとって実に1万倍も有利に働いているわけだ。人口の0.3%未満のイスラム教徒が、米国議会の4分の1をしめれば大騒ぎとなる。日本ではその100分の1の「世襲教徒」が、国会の4分の1をしめている。我々普通の家庭と、国会議員の子息たちの家庭では、通常のアメリカ人とイスラム教徒ぐらい生活環境や社会経験が違うだろう。そんな彼らに、国民の生活を正常に代表できるわけがない。それが選挙で1万倍も有利な立場にいるのは、まさにこういった国民の被洗脳者的ブランド志向の現われだ。親子三代の国会議員などというのは、これを象徴しているのではないだろうか。最近、中国の友人が「日本人は金正日政権が世襲であることを批判するのは変だ」といっていたが、その通りである。


【『洗脳護身術 日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放』苫米地英人三才ブックス)】


「国民の被洗脳者的ブランド志向の現われ」ってのがいいね。我々日本人は常に出自を問い、家・格式を重んじ、毛並みの良さを称え、長い物に巻かれ、大樹の陰で涼み、出る杭があれば皆で叩く。ひとたび議員になってしまえば、その地位すら相続できるのだ。しかも無税。こんなおいしい話はないよな。数百年も経てば、38世議員なんてのもいるかも知れんな。


 2世議員を選出している選挙区民は田舎者(←差別用語)である。そんな選挙区には田吾作と花子しか存在しないはずだ。地域内では、堂々と差別がまかり通っていることだろう。で、息子ほどの年齢差がある議員に対して、ペコペコと頭を下げ、「先生、先生」と呼んでいるに決まっている。


 しかも、この国は議員のみならず、社長までもが二世なのであった。嗚呼――。


 読売新聞の調べでは、2002年12月の時点で、国会議員の2割がいわゆる世襲議員でした。毎日新聞の2000年調査によりますと、全国の都道府県議会議員では14%、政令指定市議会では13%が、親子代々、もしくは親子三代にわたって議員をしているのです。東京、大阪、名古屋、千葉などの都市部では、この割合は国会議員と同等の20%台に跳ね上がります。

 世襲はなにも、政治家だけにかぎりません。通産省(現・経済産業省)の『総合経営力指標 製造業編・小売業編』で、企業の社長の実態も明らかになります。平成6年、一部上場、二部上場の488社中、二代目社長は111人。23%が世襲社長だったのです。


【『反社会学講座パオロ・マッツァリーノイースト・プレス、2004年/ちくま文庫、2007年)】

洗脳護身術―日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放

2008-11-17

「星の流れに」菊池章子、ちあきなおみ、谷真酉美


 普段、演歌は全くといっていいほど聴かないが、これは名曲だ。しかも、三者三様の味があり、甲乙つけがたい。昭和22年に発表、翌23年にヒットした。笠置シズ子の「東京ブギウギ」と時を同じくしている。


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 作詞の清水みのるは、『東京日日新聞』の投書欄に掲載された手記の内容を読んで怒りに体が震えた。その内容は、奉天から引き上げた元看護婦の悲惨な夜の女への転落だった。「こんな女に誰がした」は戦争によってもたらされた悲惨さを告発したものである。

 敗戦当時、生活苦から、身を売ったり、米兵に暴行され転落した女性は数しれなかった。戦争の犠牲はまず女性と子供、弱き者を直撃する。米兵による日本人女性への強姦・暴行は数知れなかった。アメリカ兵相手の慰安所をつくったのもそのような事情からである。

 清水みのるは歌のタイトルを《こんな女に誰がした》としたが、GHQから「日本の反米感情を煽る」というクレームがつけられた。アメリカという国は自由主義の国だったはずでは。とにかく、GHQの検閲は厳しかった。結局、歌のタイトルはそのような事情から、《星の流れに》になったのである。

 焼け跡の星空は悲しかったが、美しかった。作詞の清水は、戦場で明日のわが身を流れ星を見て占った体験があった。星を真っ先にタイトルの置いたのも、清水の体験によるものである。作曲者の利根一郎は、上野の地下道や公園を見て回り五線譜に向かった。敗戦国の惨めさは戦災孤児の姿と夜の女に象徴されていた。戦後の希望が《リンゴの唄》なら、その翳の裏側が《星の流れに》である。

 テイチクは当初、淡谷のり子に歌わせようとした。淡谷は1946(昭和21)年秋にコロムビアからテイチクに移籍していた。ところが、淡谷は歌詞の内容に不満を持った。「パンパン歌謡は歌えない」という誤解を招く発言をして会社の意向を蹴ってしまった。淡谷は不幸な夜の女性をテーマにしてレコードを売りたくなかったのである。


【「歌謡曲に見る戦争の傷痕菊池清麿/2006-11-09】

星の流れに/岸壁の母

2008-11-16

ゲーデルの生と死/『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎

 ゲーデルの不完全性定理入門。これは良書。新書でこれだけの内容を盛り込めるのだから、高橋昌一郎の筆力恐るべし。ただ、読点が多過ぎるのが気になった(「、ゲーデルが、」が目立つ)。


 巻頭でゲーデルの人生がスケッチされているが、これまた秀逸。一気に引き込まれる――


 クルト・ゲーデルは、1978年1月14日、71歳で生涯を閉じた。死亡診断書に記載された死因は、「人格障害による栄養失調および飢餓衰弱」である。身長5フィート7インチ(約170センチメートル)に対して、死亡時の体重は65ポンド(約30キログラム)にすぎなかった。死の直前のゲーデルは、誰かに毒殺されるという強迫観念に支配された。そのため、食事を摂取できなくなり、医師の治療も拒否して、自らを餓死に追い込んだのである。彼は、椅子に座ったまま、胎児のような姿勢で亡くなっていた。

 3月3日、ゲーデルの追悼式典が、プリンストン高等研究所で開催された。司会を務めた数学者アンドレ・ヴェイユは、「過去2500年を振り返っても、アリストテレスと肩を並べると誇張なく言えるのは、ゲーデルただ一人である」と述べた。このような賛辞は、ゲーデルにとって生存中から珍しいものではない。

 すでに1950年代、高等研究所所長だったロバート・オッペンハイマーは、入院中のゲーデルの担当医師に向かって、「君の患者は、アリストテレス以来の最大の論理学者だからね」と声をかけている。70年代には、物理学者ジョン・ホイーラーが、「アリストテレス以来の最大の論理学者と呼ぶくらいでは、ゲーデルを過小評価しすぎだ」と述べている。天才的と呼ばれる数学者や物理学者にとっても、ゲーデルは、さらに別格の天才だったのである。

 1929年、23歳のゲーデルは、ウィーン大学博士論文で「完全性定理」を証明した。この定理は、古典論理の完全性を表したもので、アリストテレスの三段論法に始まる推論規則が完全にシステム化されることを示している。つまり、ゲーデルは、完全性定理によって古典論理学を完成させたのであり、この時点でアリストテレスと肩を並べたと言っても、過言ではない。

 その翌年、24歳のゲーデルは、「不完全性定理」を証明した。この定理は、古典論理とは違って、自然数論を完全にシステム化できないことを表している。一般に、有意味な情報を生み出す体系は自然数論を含むことから、不完全性定理は、いかなる有意味な体系も完全にシステム化できないという驚異的な事実を示したことになる。オッペンハイマーが「人間の理性一般における限界を明らかにした」と述べたように、不完全性定理は、人類の世界観を根本的に変革させたのである。


【『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎〈たかはし・しょういちろう〉(講談社現代新書、1999年)】


 で、不完全性定理だ。昨今の科学本には、量子力学と共に必ず登場する。いやはや私も衝撃を受けた。心底驚いたよ。


 本物の学説は、それまでの研究成果を台無しにする破壊力に満ちている。それは、まさしく「革命」の名に値する。何とはなしに、「ブッダやイエスが説いた教えを初めて聞いた人々も、こんな衝撃を受けたんだろうな」と思ってしまうほど。


 数学が神の領域に達する様相は、実にスリリングで脳味噌が激しく揺さぶられる。

ゲーデルの哲学―不完全性定理と神の存在論 (講談社現代新書)

アナログの意味/『コンピュータ妄語録』小田嶋隆


 コンピュータ用語の辞典。これは本の体裁がダメ。新書版サイズの辞書として作るべきだ。そうすりゃ、騙されて購入する人々も増えたことだろう。驚いたことにネタ満載と思いきや、まともな辞書としても使える内容となっている。惜しむらくは既に古い情報となっていることだが、意外と無視して読めるのだから、オダジマンの筆力恐るべし。


【アナログ】Analog


「連続量的な」ということ。

 物理量への置き換えによる量表現。

 ね、わからないでしょ。

 だったら、89ページの「デジタル」の項を読んでください。

 ……というのもあんまり無責任だから、ごく簡単に。

 Analogなる言葉は、そもそも「比率」を意味するギリシア語Analogosから派生した言葉で、同根の語にAnalysis(分析、解析)、Analogy(類比、類推)があることからもわかる通り、気分としては、「比喩」だとか「置き換えて表現する」ぐらいの心意気があるわけです。

 たとえば、デジタル体温計は「36.5」と、体温を数字でストレートに表現するが、アナログ体温計は、「水銀柱の長さ」という物理量に置き換えて体温を表現している。

 この他、アナログ時計は「時刻」を「針の角度」で表現し、砂時計は「時間」を「砂の量」で測定し、アナログシンセサイザは「音声」を「波形」で扱い、アナログ野郎は「感情」を「顔色」で表出している。

 ということは、これらはどれも皆、ある物理量への置き換えを行っているのであるからして、アナログなのである。

 なお、「肛門」を意味する「アナル」とは、とりあえず無関係と思われるが、あいつもあれで案外「連続量的な物理表現」をしたりするからあなどれない感じはする。


【『コンピュータ妄語録』小田嶋隆ジャストシステム、1994年)】


 尚、アナロジーについては、養老孟司の『カミとヒトの解剖学』が必読テキスト。

コンピュータ妄語録

数字のゼロが持つ意味/『人間ブッダ』田上太秀


「人間ブッダ」入門。さほど宗教色はない。いや、宗教色はもちろんあるのだが、宗派性がないというべきか。本書を読むと、驚くほど釈尊(=ブッダ)が常識や道理を重んじていた事実が窺える。


 現代に生きる我々が読んでも、「フム、なるほど」と頷けること自体が、時代を経ても劣化することのない思想性を示している。釈尊はカースト制度に異議申し立てをする格好で仏教を説いたとされる。つまり、単なる道理を説いたわけではなく、その根底には炎の如き批判精神が燃え盛っていたはずで、当時の人々(特に支配階層)の度肝を抜くに十分であったことと想像する。


 で、0である。ま、インドで誕生したことは知っていたが(※厳密にいうと発明されたのはバビロニアである。だがゼロの概念を構築したのはインド)、よもやこんな意味があるとは思わなかった――


 記号の0が発見されたのは、中央インドのグパリアーにある小さな寺院で、壁に270と50の数字が彫ってあり、0が小さな円で記されていたと伝えられています。これは西暦870年に彫られたものだといわれています。じつはこれより以前にブラフマグプタ(7世紀の人)が0の記号を使って計算をしていたとも伝えられていますので、すでに7世紀にはいわゆる数字の0は知られていたと考えられます。しかしその人物が使っていたことから、それ以前、おそらくは6世紀頃に数字の0は使われていたと推測できましょう。

 いずれにしても0の記号は「・」とはまったく形の違った記号です。この0の記号が古代インド人によって考え出されました。これが数字の0として後に世界に伝播(でんぱ)し、定着しました。「・」ではなく「0」という形に大きな意味があります。それまでの「・」記号から「0」の記号になった経緯は、おそらく数字の0を表わす言語の意味に秘密があると考えられます。

 数字の0を表わす原語は、サンスクリット語のシューニャという形容詞です。この語は一般には「なにもない、空っぽ、欠けている」などの意味で使われていますが、じつはこれの動詞語根は「膨(ふく)れる」という意味です。

 この語は病的にむくみや腫れ上がった状態を形容することばとしても使われていて、シューニャということばは「膨れている」の意味で使われていたようです。これが一般には「なにもない、空っぽ」の意味をもつことばで使われるようになりました。

 なぜ「膨れている」から「なにもない、空っぽ、欠けている」となるのでしょうか。

 それは風船を考えるとわかります。膨らむと形は大きくなり、中身がいっぱい詰まっているように見えます。しかし中身はなにもない、空っぽです。形はもっと大きく膨れても、その中身はなにも増えません。見せかけで実を伴っていないことがわかります。(中略)

 では、このシューニャの原語で表わされる数字の0は、最初「なにもない」という意味で使われたのでしょうか。

 たしかに数字の0はプラス(+)とマイナス(−)の両方向の起点になりますので、「なにもない」といえます。しかし、10、100のように1の数字のつぎに0を増やすと、その0は、たとえば10の0は1から9までの数を含んでいて、「なにもない」という意味の0ではありません。かぎりなく0を増やすと、その0の数はかぎりなく大きな数を含んでいることを意味しているのではないでしょうか。

 したがって数字の0は数の起点では「なにもない」の意味ですが、「無限の数」も包含する、あるいは意味する数であるといわなければなりません。


【『人間ブッダ』田上太秀〈たがみ・たいしゅう〉(第三文明レグルス文庫、2000年)】


 0って、風船だったんだね。ある時にはプラスとマイナスの境界を示し、またある時には1から9までを包含する。ということは、だ。ゼロは無であり無限であるってことになる。また、ゼロは破壊の調べを奏でる。「御破算で願いましては――」。そう算盤。


 ゼロの中に、無と有とが混在する。で、風船の中身はといえば「空(くう)」である。これ自体、仏教の影響が色濃くありそうだ。空仮中(くうけちゅう)の三諦(さんたい)。


 尚、現在アラビア数字と称されているのは、アラビア経由で輸入したインド数字という意味でヨーロッパ目線に立った言葉だ。

人間ブッダ

コフリン・ダニエル・エドワード


 ストリート・ミュージシャンって、こんなレベルに到達していたのかよ。いやあ驚いた。これほどの技術と甘いマスクを持っているのだから、ブレイクするのも時間の問題か。名前は外国人だが、東京生まれで福島育ちの日本人だってよ。

 別の動画は以下で――

2008-11-15

ハンス・リューシュ、野矢茂樹


 1冊挫折、1冊読了。


医療の犯罪 一〇〇〇人の医師の証言』ハンス・リューシュ/訳者が太田龍だった。気づかなかった。甲田光男(日本動物実験廃止教会会長)による「動物実験を廃止せよ」という文章が冒頭に掲載されているのだが、これがまた胡散臭い文章なんだよ。自分が考案した「生菜食療法」の宣伝文みたいになっている。本書で問題にされているのは動物実験であり、これを「医療の犯罪」としている。確かに動物実験で成功したからといって、そのまま人間の治療に役立つとは限らない。着眼点はいいと思うのだが、主張の仕方が左翼っぽくて気に入らず、挫けた次第。


無限論の教室』野矢茂樹/大学の講義を模した無限論入門。結構難解な箇所もあったが何とか読了。無限とは果てしない量と思いがちだが、0と1の間にも無限は存在する。最終章でゲーデル不完全性定理が登場する。これも決してわかりやすい代物ではない。「あとがき」によれば、隠し味はウィトゲンシュタインだそうだ。

形態(ゲシュタルト)を把握せよ/『メービウスの環』ロバート・ラドラム

 昨日の出来事である。同乗者がコンビニに寄って欲しいというので、運転していた私は駐車場へ入るべくハンドルを左に切った。歩道の右方向から来た自転車をやり過ごし、左側からの歩行者が過ぎ去ったところで車を動かした。次の瞬間、同乗者二人が「危ないっ!」と叫んだ。右側から自転車に乗ったジイサンが車の横にぶつかる寸前だった。つまり、だ。私は最初の自転車を注視し過ぎたため、後の自転車を見失ったことになる。


 時代を超え、デマレストの教えが蘇る――一つの方法に捕われるな。考え方を変えろ。一羽の黒い鳥ではなく、二羽の白い鳥を見ろ。一切れがなくなったパイ全体ではなく、一切れのパイを見るんだ。ネッカーの立方体(透明な立方体の線画。見方によって向きが逆になる)の内側ではなく、外側を見てみろ。形態(ゲシュタルト)を把握するんだ。それで自由になれる。


【『メービウスの環』ロバート・ラドラム/山本光伸訳(新潮文庫、2004年)】


 これ、凄いよね。苫米地英人の『心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション』と全く同じ考えである。


 意識するという行為は焦点を絞る作業である。これによって、焦点以外は見えなくなるのだ。デマレストの教えは、無意識レベルで空間を認知せよというものである。


 実に味わい深いテキストで、知識がないと意味をつかめない。ラドラムは、読者に対する要求も高いことが窺える。

メービウスの環〈上〉 (新潮文庫) メービウスの環〈下〉 (新潮文庫)

【感動】レジ打ちの女性(涙の数だけ大きくなれる!)


 知り合いから教えてもらったもの。多くの人々がが置かれている状況をイントロにすることで、見事に共感を勝ち取っている。書籍の宣伝動画のようだが、テキストと画像だけでここまで感動させるのはお見事。バックに流れる歌もいい。

涙の数だけ大きくなれる!

自分の位置を知る/『「わかる」ことは「かわる」こと』佐治晴夫、養老孟司


 大物同士の対談ということで期待していたのだが、とんだ肩透かしを食らった。初心者向けの内容であった。「ためになる茶飲み話」といった印象だが、それでもキラリと光る言葉が散りばめられている。


佐治●われわれが迷子になるときになぜ不安になるのかというと、自分の位置づけがわからなくなるからですよね。窓際族なんてまさにそれでしょう。その人の位置づけをわからなくさせるってことだから。


【『「わかる」ことは「かわる」こと』佐治晴夫、養老孟司河出書房新社、2004年)】


 理論物理学者がこう言うと、「ほほう、地球が太陽系の軌道を回っているうちは、迷子じゃないってわけですな」と返したくなる。ミクロの世界だと電子の軌道とかね。


 座標軸がなければ自分の位置がわからない。コンパスがなければ進むべき方向も定まらない。


 じゃあ、我々は一体どうやって自分の位置を特定しているのだろう。家族や友人、思想・信条、仕事や趣味といったところか。


 例えば若い時分だと、「母親を悲しませてはならない」と誰もが思う。これなんかは、母親を座標軸として自分の位置関係を確認していることになろう。時に両親を失った若者が捨て鉢な生き方をすることも決して珍しくはない。


 自分へとつながっている“見えない糸”が確かにある。その本数や太さが、確かな自分を築き、人生に彩(いろど)りを添えるのだ。

「わかる」ことは「かわる」こと

2008-11-13

ロバート・ラドラム


 1冊読了。


メービウスの環(下)ロバート・ラドラム/駄作と言うのは簡単だ。筋運びがまだるっこい上、不要と思われるシーンもある。しかし、だ。時々痺れるテキストが顔を出し、ラストには今までにないひねりを加えている。これだけでも読んでよかったと思わせる。ラドラムは2001年3月に逝去。新作を読めなくなった事実が心を暗くさせる。山本光伸の解説は持ち上げ過ぎ。その商魂が遺作には相応しくない。ラドラムファンにとっては、感慨深い駄作として記憶に留められることだろう。

みぞうゆう?ふしゅう?? 麻生さんは漢字苦手?


 麻生首相が最近、言葉遣いの誤りを連発している。

 12日午後、日中関連イベントであいさつした首相は、「これだけ『はんざつ』に両首脳が往来したのは例がない」「(四川大地震は)『みぞうゆう』の自然災害」などと語った。手元に用意した原稿にはそれぞれ「頻繁(ひんぱん)」「未曽有(みぞう)」と書かれており、誤読だったようだ。

 7日の参院本会議でも、植民地支配と侵略への反省を表明した村山首相談話を「ふしゅう」すると表明した。首相は「踏襲(とうしゅう)」を「ふしゅう」と読む間違いを国会で何度も繰り返しており、12日の衆院内閣委員会では、質問に立った民主党議員が首相に近い甘利行政改革相に、「首相が日本語を正しく発音しないのも何ですから、『とうしゅう』と読むんだと伝えてほしい」と苦言を呈する場面もあった。

 秘書官らに指摘を受けた首相は、「おれ、そんな風に言っているかなあ」とこぼしたといい、自覚はあまりないようだ。

 12日夜も、間違いの多さを指摘した記者団に平然とこう答えた。

「それは単なる読み間違い、もしくは勘違い。はい」


【読売新聞 2008-11-13】


「政治家にとって言葉は命」と言われるが、そうでもないようだ。この他にも、「詳細(しょうさい)」を「ようさい」と読んでいたとのこと。麻生首相は、せっかく漫画本で学んだ漢字を、帝国ホテルやホテルオークラのバーで酒を呑むたびに、きれいさっぱり忘れているのだろう。無知は決して恥ずべきことではない。それを自覚している限りは。「勘違い」と開き直るところが馬鹿丸出し。

空間の支配権、制空権をどちらが握るか/『洗脳原論』苫米地英人


 公安からの依頼を受け、オウム真理教幹部の洗脳を解除したあらましが書かれている。私が読んできたベッチー本の中では最も文章が硬質。例えば、サブリミナル効果を扱ったものではウイルソン・ブライアン・キイの『メディア・セックス』があった。しかしながら、洗脳そのものについて踏み込んだ内容の作品は見当たらない。本書が嚆矢(こうし)と言っていいかもね。


 ここで、デプログラミングという作業を行なう際の注意点を述べておきたい。

 まず脱洗脳は一瞬の勝負で決まるということだ。これは最も初歩的であるが、重要な要素である。最初会ったときに、誰が空間を支配するかである。この、空間の支配権、制空権をどちらが握るかというのは、無意識レベルでの出来事であるので、単に「あっ、あのすごい有名な先生だ」などと思ってもらえるようなレベルでの立ちいふるまいでは不足である。「この人からオーラを感じるぞ」などと思ってもらえるならば、ある程度の制空権を握ったことになるだろう。しかし、そのように相手が意識して感じるようなレベルの出来事だけではなく、無意識レベルにおいても、内部表現と呼ばれる脳内の表象に、外界の環境によってホメオスタシス機能が作用したとき、脳の内側の表象の主導権をどちらが握るかという勝負である。要するに文字どおり、どちらが「心をつかむ」かである。この空間の制空権を握れれば、そのデプログラミングの第一歩は成功したといってよい。


【『洗脳原論』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(春秋社、2000年)】


 第一印象のことを小難しく言っているだけではない。理論的な根拠の具体性がよくわかる。オーラとは“逆らい難い魅力”といってよい。例えばの話、私の隣に頗(すこぶ)る付きの美人がいたとしよう。するとどうだ、ミスター横柄だった私はたちまち言いなりになってしまう。ここ掘れワンワン、だよ。左右どちらでも“お手”をすることになるのだ。これが、「空間の支配権、制空権」ってことだ。


 主導権というと、まるで手垢のついた言葉に聞こえるが、心と心、生命と生命は確かに綱引きをしているような様子が窺える。ヒエラルキーとは異質のものだ。五感が刺激された瞬間に意識は変容している。でもって、意識下は意識できないもんだから、もっと振り回される結果となる。ま、「一目惚れの原理」といったところだ。


 それを、ホメオスタシス=身体機能の恒常性にまで結びつけるところが、苫米地英人の独創的な視点である。

洗脳原論

2008-11-12

トヨタ奥田氏の仁義なき戦い


トヨタ奥田氏「厚労省たたきは異常。マスコミに報復も」


 トヨタ自動車奥田碩相談役は12日、首相官邸で開かれた「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」の席上で、厚労省に関する批判報道について、「あれだけ厚労省がたたかれるのは、ちょっと異常な話。正直言って、私はマスコミに対して報復でもしてやろうかと(思う)。スポンサー引くとか」と発言した。

 同懇談会は、年金記録や薬害肝炎などの一連の不祥事を受け、福田政権時代に官邸に設置された有識者会議で、奥田氏は座長。この日は12月の中間報告に向けた論点整理をしていた。

 奥田氏の発言は、厚労行政の問題点について議論された中で出た。「私も個人的なことでいうと、腹立っているんですよ」と切り出し、「新聞もそうだけど、特にテレビがですね、朝から晩まで、名前言うとまずいから言わないけど、2〜3人のやつが出てきて、年金の話とか厚労省に関する問題についてわんわんやっている」と指摘し、「報復でもしてやろうか」と発言。

 さらに「正直言って、ああいう番組のテレビに出さないですよ。特に大企業は。皆さんテレビを見て分かる通り、ああいう番組に出てくるスポンサーは大きな会社じゃない。いわゆる地方の中小。流れとしてはそういうのがある」と話した。

 他の委員から「けなしたらスポンサーを降りるというのは言い過ぎ」と指摘されたが、奥田氏は「現実にそれは起こっている」と応じた。


【朝日新聞 2008-11-12】


「報復でもしてやろうか」だってさ。笑っちまうぜ。へなちょこ野郎でも地位や金があれば、チンピラみたいな口を叩けるってこったな。業績が赤字となったことで、なめられてはいけないといった思いが強いのだろう。さしずめ、「メーカーの力を思い知らせてやる」ってところか。発想がアメリカと一緒。根性のあるテレビ局は、朝から晩まで奥田発言を取り上げ、どのような報復、及び嫌がらせがあるか報道すればいい。金を失っても信用を勝ち取ることができるのは確実。更に、タブー視されてきたトヨタ関連の事件も洗い直す価値があるんじゃないか。私は先ほどまで仕事をしていた。ああ疲れた。トヨタ過労ら。

2008-11-11

文春の「中国買春」記事 谷垣元国交相の勝訴確定


 中国で買春したかのような記事を「週刊文春」に掲載され、名誉を傷つけられたとして、谷垣禎一元国交相が発行元の文芸春秋などに損害賠償を求めた訴訟の上告審で、最高裁第3小法廷(近藤崇晴裁判長)は11日、文芸春秋側の上告を受理しない決定をした。220万円の支払いを命じた2審東京高裁判決が確定した。

 2審判決などによると、週刊文春の平成17年12月8日号は、谷垣氏が訪中した際に買春したかのような記事を掲載した。

 1審東京地裁は文春側に330万円の賠償を命じたが、2審判決は谷垣氏が問題となった日の行動について立証しないことなどから賠償額を220万円に減額した。


【産経新聞 2008-11-11】

苫米地英人


 1冊読了。


洗脳護身術 日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放苫米地英人/『洗脳原論』の実践編といった内容。文章は硬質で、仏教や気功などの呼吸法も紹介されている。そこそこ読ませるのだが、やや理論的根拠に欠ける。脳機能科学からアプローチした内容の方が私の好みに合っている。ベッチーの作品は取捨選択が必要。

09年版年次改革要望書のすごい中身


 オバマ大統領の誕生で対日圧力がますます強くなると予想される中、米国が毎年秋に日本に突きつけてくる「年次改革要望書」09年版の内容が明らかになった。

 この文書はいわば日本政府への“指令書”で、自民党政権は93年以降、その要求をほとんど丸のみしてきた経緯がある。小泉元首相の「郵政民営化」をはじめ、耐震偽装の元凶となった「建築基準法改正」、大量のワーキングプアを生んだ「労働者派遣法改正」も、もとはこの文書に書かれていた米国側の要望だ。

 米政府の狙いは日本市場の開放にある。先月15日に出された09年版の中身について、独協大教授で経済評論家の森永卓郎氏がこう言う。

「今回の要望書で、米国が日本の消費者を標的にしていることがハッキリしました。その象徴が確定拠出年金、つまり私的年金制度の拡大です。米国は日本の年金制度崩壊を見込んで、年金分野に参入しようとしています。また、個人の金融信用度を示す得点『クレジットスコア』を金融機関に導入させようとしていて、消費者金融への進出も考えているようです」

 米国のデタラメな対日要求はそれだけではない。

 国際政治学者の浜田和幸氏はこう指摘する。

「まずは医療業界の開放です。新薬承認や医療機器導入の規制を緩和し、米医薬メーカーが参入しやすくなるよう迫っています。さらに農業分野では、遺伝子組み換え食品を導入するための制度改定、残留農薬や食品添加物の検査の緩和を求めている。ほかにも、NTTやドコモを分割して通信の競争促進を迫ったり、民営化後の日本郵政にはさらなるリスクを取るよう要求している。経済の立て直しが急務のオバマ大統領が、圧力を強めてくるのは間違いありません」

 麻生首相は「新しい大統領と日米関係を維持する」とか言っていたが、結局、また米国にむしり取られることになる。


日刊ゲンダイ 2008-11-08】

2008-11-10

アウシュビッツの設計図発見=「ガス室」表記、ナチス幹部署名も−独紙


 独大衆紙ビルトは8日付紙面で、ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の舞台になったアウシュビッツ強制収容所の設計図がこのほど、ベルリンのアパートの一室で見つかったと報じた。

 同紙によると、設計図は28枚の黄ばんだ紙に1941年から43年にかけて描かれたもの。「戦時捕虜収容所アウシュビッツ」と記されたページには、ホロコーストを指揮したナチス親衛隊(SS)長官のハインリヒ・ヒムラーの署名も見られる。

 また、41年11月に作成された設計図には、「シャワー室」の奥にある約11メートル四方の部屋が「ガス室」と表記されている。このため同紙は、ユダヤ人問題の「最終的解決」を決定したとされるワンゼー会議が42年1月に開かれる以前に、ユダヤ人絶滅計画が存在したことが裏付けられたとしている。


【時事通信 2008-11-10】

ロバート・ラドラム、佐治晴夫、養老孟司


 2冊読了。


メービウスの環(上)ロバート・ラドラム/ラドラムの遺作である。イントロが長過ぎる上、展開がわかりにくい。過去に自分の命を救ってくれた、世界的な平和活動家を救出する内容。主人公が選んだチームの面々が勢揃いした時も、実にあっさりしたものだ。美男・美女の形容も陳腐な上、必要性が全く感じられない。「老いたのかな」というのが率直な所感である。それでも、今まで数多くの作品で楽しませてくれた恩義を噛みしめながら、ラドラムと対話するつもりで読んでいる最中だ。


「わかる」ことは「かわる」こと』佐治晴夫、養老孟司/イマイチである。いや、今三ぐらいだな。大物二人であっても、企画性がなければただの茶飲み話で終わるという例になっている。珍しくAmazonの評価がハズレ。大ハズレだよ。★二つ半で十分だ。養老孟司の性格が悪いであろうことは、文章からも想像できるが、相手から学ぼうとする姿勢がこれっぽっちもない。単なる主張に終始している。それにしても、学者同士の対談ってこんなもんなのかね? 畑違いの分野から人選すれば、もっと面白くなったのかも知れない。活字が大きく、改行も多いスカスカ本。養老孟司を読んだことのない人であれば、それなりに楽しめるかも。

2008-11-09

嘘つきのパラドックスとゲーデルの不完全性定理/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

「嘘つきのパラドックス」は「自己言及のパラドックス」ともいう。


「私は嘘をついている」――この言葉、嘘つきのパラドックスは、何千年にもわたってヨーロッパの思索者たちを悩ませてきた。この言葉は、もし正しければ偽りになり、偽りなら正しくなる。自分が嘘をついていると主張する嘘つきは、真実を語っていることになるし、逆に、彼が嘘をついているのなら、そう主張したときには嘘をついていないことになってしまう。このパラドックスを特化させたものはいくらでもあるが、根本はみな同じで、自己言及は問題を来たすのだ。これは「私は嘘をついている」という主張にもあてはまるし、「有限の数の語句では定義できない数」という定義にもあてはまる。そうしたパラドックスは、じつに忌まわしい。その一つに、いわゆる〈リシャールのパラドックス〉という、数の不加算性にまつわるものがある。

 ゲーデルは、そうしたパラドックス(哲学者のお好みの言葉を使えば「二律背反」)を彷彿とさせる命題を研究することで、数学的論理の望みを断ち切った。1931年に発表された論文に、非数学的表現を使った文章は非常に少ないが、その一つにこうある。「この議論は、いやがおうにもリシャールのパラドックスを思い起こさせる。嘘つきのパラドックスとも密接な関係がある」ゲーデルが独創的だったのは、「私は証明されえない」という主張をしてみたことだ。もしこの主張が正しければ、証明のしようがない。もし偽りならば、この主張も立証できるはずだ。ところがこの主張が証明できてしまうと、主張の内容と矛盾する。つまり、偽りの事柄を立証してしまったことになる。この主張が正しいのは、唯一、それが証明不可能なときだけだ。これでは数学的論理は形無しだが、それは、これがパラドックスや矛盾だからではない。じつは、問題はこの「私は証明されえない」という主張が正しい点にある。これは、私たちには証明のしようのない真理が存在するということだ。数学的な証明や論理的な証明では到達しえない真理があるのだ。

 ゲーデルの証明をおおざっぱに言うとそうなる。


【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ/柴田裕之訳(紀伊國屋書店、2002年)】


 ゲーデルの不完全性定理については、以下のページがわかりやすい――

 第1不完全性原理「ある矛盾の無い理論体系の中に、肯定も否定もできない証明不可能な命題が、必ず存在する」


 第2不完全性原理「ある理論体系に矛盾が無いとしても、その理論体系は自分自身に矛盾が無いことを、その理論体系の中で証明できない」


 ということは、だ。もし全知全能の神がいるとすれば、それは神が創った世界の外側からしか証明できないってことになる。それでも、ゲーデルは神の実在を証明しようとはしていたんだけどね。


 これは凄いよ。デジタルコンピュータが二進法で動いていることを踏まえると、数学は「置き換え可能な言語」と考えられる。そこに限界があるというのだから、人間の思考の限界を示したも同然だ。早速、今日から考えることをやめようと思う。エ? ああ、その通りだよ。元々あまり考える方ではない。


 ただし、ゲーデルの不完全性定理は、「閉ざされた体系」を想定していることに注目する必要がある。これを、「開かれた体系」にして相互作用を働かせれば、双方の別世界から矛盾を解決することも可能になりそうな気がしないでもないわけでもなくはないとすることもない(←語尾を不明確にしただけだ)。【※これは私の完全な記述ミスで「開かれた系」は系ではない。システムは閉じてこそ世界が形成されるからだ。例えば人体が開かれているとすれば、それはシャム双生児のようになってしまう。同じ勘違いをする人のために、この文章は敢えてそのままにしておく。 2010年9月3日】


 だけどさ、不完全だから面白いんだよね。物質やエネルギーを見ても完全なものなんてないしさ。大体、完全なものがあったとしても、時を経れば劣化してゆくことは避けようがない。成住壊空(じょうじゅうえくう)だわな。


「私たちには証明のしようのない真理が存在する」――そうなら、ますます生きるのが楽しみになってくるよ。科学も文明も宗教も、まだまだ発展する余地があるってことだもんね。

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

精神障害者による犯罪の実態/『偽善系II 正義の味方に御用心!』日垣隆


 日垣隆の様々なコラムが詰まった一冊。いずれも、しっかりしたデータを引用した上で検証されており、正確を期している。今時、珍しい姿勢だ。まるで、記者クラブ制度に甘んじている新聞社を嘲笑しているような気配すら窺える。そんでもって、タブーに切り込むのだから、見上げた根性の持ち主といえよう。


 たとえば、精神分裂病にともなう妄想ゆえに放火や殺人をおかしてしまうことはありえても、通貨偽造や贈収賄を分裂病との因果で論じる必要はない。また横領や恐喝や業務上過失致死傷は、精神障害者のほうがそれ以外の者より犯しがたい犯罪である。つまり、全刑法犯を分母とし精神障害犯罪者を分子としたものだけをもって、あたかも精神障害者のあらゆる犯罪が少ないかのように見せかけるのはフェアではなく、それは事実の隠蔽というほかない。

 青木医師や笠原名誉教授もよくご存知のように、なるほど《犯罪率は刑法犯でいえば検挙人員で0.1%、有罪人員では0.6%》だとしても(笠原前掲書)、《しかし、この比率は罪種によって大きく異なり、放火(検挙人員の6.3%、有罪人員の14.8%)や殺人(同6.5%、12.2%)などの凶悪犯罪では著しく高まる》のである。(前掲『精神分裂病と犯罪』)。

 日本における精神障害犯罪者の実態を初めて明らかにした法務省調査によっても、確かに精神障害犯罪者÷成人刑法犯検挙人員(1980年)は0.9%だが、こと殺人ともなればその比率は8.5%、放火は15.7%に跳ね上がる(「資料 精神障害と犯罪に関する統計」=『法務総合研究所研究部紀要』第26巻2号、83年)。

 殺人や放火という凶悪犯罪において、精神障害犯罪者の比率が1割前後にも達する事実は、これまでマスコミにおいては伏せられてきた(タブーというより記者たちの不勉強によるところが大きい)。「0.1%」というような数字は、ほとんどの読者は初めて目にしたのではないかと思う。

 諸外国の統計によっても、殺人や放火などの凶悪犯罪で、精神障害者による犯行はきわめて高い比率を占めている。たとえばアイスランドでは80年間に生じた全殺人のうち37.8%が精神障害者による、という(Petursson.H. & Gudjonsson,G.H.:Psychiatric aspects of homicide.Acta psychiat,64,1984)。「精神障害社による犯罪は多くない」という主張は、退場すべき過去のイデオロギーによる産物だった。


【『偽善系II 正義の味方に御用心!』日垣隆(文春文庫)】


 我々はともすると「精神障害者に対する偏見を抱いてはいけない」という強い思い込みによって、“平等”を演じてしまう。で、マスコミの場合はもっと酷い。容疑者に知的障害の病歴があるとわかった途端、全く報道しなくなってしまうのだ。だが、よく考えてみよう。「知的障害があるのだから仕方がない」などと被害者が思えるだろうか。中には命を奪われた人も数多くいるのだ。


 日垣隆は冷たい事実を挙げて問題提起をしているが、知的障害者が抱える問題にもきちんと触れている。


 精神病院の入院患者たちに最も恐れられている独房(特別保護室)は、刑務所にさえ存在しない非人間的な私刑(リンチ)房であり、精神障害犯罪者専門処遇施設(日本になく欧米にはある)ならば特別保護室への罰則的収容は通常一日が限度とされているのに、日本の精神病院における特別保護室には3カ月以上も収容されている患者が2000人、しかも実に1年以上も監禁されている患者が1000人におよぶという、私のような〈人権派〉にはあまりにも信じがたい現実がある(日本精神病院協会の実態調査による)。

 心神喪失認定による免責と事実不問と強制入院こそ“病者の人権”のためだと言い募ってきた人々は、この現実を何と釈明するつもりだろうか。


【同書】


 結局、知的障害者の人権を擁護する人々は、かような現実に目をつぶっていると言わざるを得ない。「ロボトミー殺人事件」というのもあった。


 今でも、子虐待をしている親には軽度発達障害の傾向が見られる。「育て方を知らなかった」と言ってしまえばそれまでだが、死んだ子供は返ってこない。人間には、よき可能性もあれば悪しき可能性もある。知恵を出し合って、現実に対処しなければ、万人が暮らしにくい社会となるのは必然である。

偽善系―正義の味方に御用心! (文春文庫)

2008-11-08

高橋昌一郎


 1冊読了。


ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論高橋昌一郎/クルト・ゲーデルは「アリストテレス以来の天才」と称された数学者。晩年のアインシュタインをして「私が研究所に行くのは、ゲーデルと散歩する恩恵に浴するためだ」と言わせしめた。ま、この二人を“20世紀最大の知性”と表現しても、さほど異論は出ないだろう。新書でありながらも、ゲーデルの一生と不完全性定理がわかりやすくまとめられている。高橋昌一郎の腕がいいね。ロクに知識がない人が読んでも、ちゃあんと昂奮できるようになっている。それにしても、完全性定理と不完全性定理を発表したのが23歳の時というのだから驚く。天才って本当にいるんだね。いやあ、たまげたよ。神の領域にまで迫る数学は、実にスリリングだ。

精神科医の襟度/『精神科医になる 患者を〈わかる〉ということ』熊木徹夫


 実にわかりやすい文章である。きっと普段から「わかりやすくあろう」と努めているのだろう。明晰というよりは誠実。患者の前に立つ自分自身に対して自問自答を繰り返す様子すら窺える。この若さで中々できるものではない。


 以下の指摘は重要――


 そもそも、精神科臨床の方法論にのっとり、個々の症例について厳密に「物語」を紡いでゆくなら、その延長線上に社会へ向けての「物語」など成り立たず、安直な社会評論はできないはずである。このようなことを続けていると、いつか社会の側から精神科のあり方に疑問が発せられ、精神科臨床の方法論の基礎が掘り崩される時がくるだろう。これは精神科だけでなく、ひいては社会の損失のはずである。

 さらにこのような精神科医には、自らの専門性のおおもとである「物語」作成のすべを臨床から転用して、すべての社会事象に説明を与えようとする〈説明強迫〉傾向の強い人々が多い印象を受ける。実はこの〈説明強迫〉もよくない。精神科医がある犯罪者の奇行に説明をつけることにより、本人の独善的行状に社会的容認を与えてしまっている可能性がある。言葉による現象の追認にすぎないと思われるものも多い。わらかないものは説明せず「わからない」と話す勇気も必要ではないか。

 あらゆる社会事象に心理学的な説明が求められるということもあるだろう。しかし、そういう今だからこそ、精神科医の責任は重大である。いたずらに精神科患者の範疇を拡張しないように、各々の医師が心してゆかねばならない。本当に精神科医療が手をさしのべるべき相手はだれか。それをしっかり意識すべきである。加えて一般の方々も、自らが精神科の医療サービスを受ける立場になるかもしれないことを想定して、先に示したような事情に自覚的になれるとよいだろう。「物語」の逸脱に対し抑制の働く治療者を、選びとる眼を皆がもてるようになるならば、精神科医各人も襟を正さずにはいられなくなるはずである。


【『精神科医になる 患者を〈わかる〉ということ』熊木徹夫(中公新書、2004年)】


 穏やかな表現でありながらも、手厳しい内容となっている。「分を弁えろ」ということだろう。特に昨今は、猟奇的な犯罪が社会全体の病理として現われるといった説明が目立つ。メディアというメディアは、社会が悪い方向へ進むことを望んでいるような節すら感じる。統計は不問に付され、極端なまでに異常性にスポットライトを当てる。そして視聴者は、日常で溜まりに溜まった鬱屈をガス抜きするのだ。


 ま、恐怖や不安をテコにするところは、インチキ宗教の手口そっくりだわな。「どうして、これほど悲惨な事件が起きてしまったのでしょう?」と語るお前が「どうして、テレビカメラの前で金を稼げるのでしょう?」と私は言っておきたい。大衆消費社会は、大衆から「拒絶する権利」を奪い去った。大衆は常に選択を強いられる。それがたとえ、ウンコやゲロであったとしてもだ。


 話を元に戻そう。精神科で治療を受けている人がいれば、次の点をよく考えるべきだ。まず、藪医者が多い。次に、効果があるから投薬しているわけではなく、取り敢えず試験的に薬を出しているということ。これは致し方ない側面もあるけどね。しかも一番恐ろしいのは、どんな副作用があるかわからないことだ。薬というものは、健康な人が服用すれば毒になることを忘れてはなるまい。また、心の病が脳の病気であることも証明されているわけではない。これは、アメリカの製薬メーカーによる販売戦略として世界中に喧伝されたものだ。

精神科医になる―患者を“わかる”ということ (中公新書)

「オバマ氏は日焼けしていてカッコいい」…首相発言で政界炎上


 イタリアのベルルスコーニ首相は6日、黒人初の米国大統領となるバラク・オバマ氏を評し「日焼けしていて格好いい」と発言したことから、野党陣営から批判が噴出している。

 問題の発言が飛び出したのは6日ロシアで、同国のメドヴェージェフ大統領と会談後の記者会見においてだった。「イタリアはロシアにとって最大のパートナー」と会談の成果を強調したあと、このほど米大統領選に勝利したオバマ氏に言及。

 そのなかで「オバマ氏は、素朴で若く、格好よく日焼けしている。(メドヴェージェフ)大統領といい関係が築けると信じている」とコメントした。会場にいた記者団からは即座に失笑がもれた。

 この発言に対し、イタリアでベルルスコーニ首相の中道右派陣営に対抗する民主党のウォルター・ベルトローニ党首は「我が国のイメージを損ない、米国との関係に水を差すもの」と非難。同党のダリオ・フランチェスキーニ幹部も「言語道断の発言」と批判した。

 これまでベルルスコーニ首相は欧州各国の首脳の中でも、共和党のブッシュ政権との強調関係を明言してきたひとり。そのため、民主党のオバマ次期政権とどのような再スタートを切るかが注目されていた。

 同時にベルルスコーニ首相は、いわゆる「トンデモ発言」でも知られてきた。EUで議長国を務めた際、批判したドイツの議員に対して議場で「知り合いの映画監督に、ナチス将校の俳優として紹介しましょうか」と応酬したり、「選挙期間中はエッチ断ち」宣言などが過去に話題になった。今回も会場にいた記者団からは、即座に失笑がもれた。

 ちなみに日焼けに関していえば、イタリアでは今日でも紫外線の被害に関する認識は一般的に日本よりも浸透していない。かわりに日焼けは「長い夏季休暇がとれる」というステイタスシンボルの意味合いが依然強い。ベルルスコーニ首相自身も、夏はサルデーニャ島にある別荘で過ごす。

 今回のオバマ氏に対する発言は、第一に政治家が人種に言及する際の危機意識の欠如が露出したかたちだが、同時にそうした日焼けに対するイタリア人の認識も背景にあるといえる。


【レスポンス 2008-11-07】

脳内で繰り広げられる道路工事/『まず、ルールを破れ すぐれたマネジャーはここが違う』マーカス・バッキンガム&カート・コフマン

 優れたビジネス書にも脳科学の記述がある。そりゃそうだ。ネットワークという思考が行き着くところは脳内のシナプスでありニューロンなのだから。


 子供が3回目の誕生日を迎える頃までに、完成された結合は桁外れの数になる。1000億のニューロンの一つひとつが1万5000のシナプスを形成する。

 しかしこれでは多すぎる。頭のなかを駆けめぐる膨大な情報で溢れ返ってしまう。これらの情報すべてに自分なりの意味を持たせることが必要だ。自分なりの意味だ。したがってそのあと10年前後のあいだに、この結合のネットワークは、自分の頭のなかでさらに磨きをかけ、そして整理統合することになる。強力なシナプス結合はますます強力になり、弱い結合は次第に消滅する。ウェイン・メディカルスクールの神経学教授、ハリー・チュガニ博士は、この淘汰の過程を幹線道路のシステムにたとえてこう説明した。

「最も交通量の多い道路は拡幅する。ほとんど使われない道路はそのまま放置される」


【『まず、ルールを破れ すぐれたマネジャーはここが違う』マーカス・バッキンガム&カート・コフマン/宮本喜一訳(日本経済新聞社、2000年)以下同】


 それにしても不思議だ。ここにはシナプスの結合強化がどのような理由で行われているのかが書かれていない。欲求なのか、興味なのか。あるいは自分が置かれた環境における利害なのか。はたまた脳自体が感じる心地よさなのか。意識では自覚することのできない、広大な無意識の領域が我々を形成している。


「最も交通量の多い道路は拡幅する。ほとんど使われない道路はそのまま放置される」――この喩えは秀逸。さながら、仏法で説かれる業(ごう)の如し。習慣は癖となり、癖は業と化す。時間軸における最大要素。私の場合、「使っていない道路」が多いような気がするが、これまた気づくことができない。もう、なくなったのかもね。


 そして、こう続く――


 思いやり用に四車線道路を備えることができれば、周りの人たちの気持ちを自分のもののように感じることができるだろう。これとは対照的に、思いやり用に荒野ができあがってしまうと、感情的には何も感じることなく、不適当な人に対して不適当な時間に不適当なことをいつまでたっても話し続けるだろう。別に悪気があるわけではない、ただ自分に送られてくる感情の信号の周波数にうまく合わせる能力がないだけだ。同様に、論争に適した四車線道路を備えていれば、その人は実に幸運で、議論の最中にその頭のなかから次々と完璧な言葉が吐き出されてくる。論争用に荒野しか持っていない場合、その人の脳は、肝心の勝負を決めるその瞬間に活動を停止してしまい、その口からはまったく言葉が出なくなるだろう。

 これらの脳の道路が、その人のフィルターなのだ。その本人を他でもないその人自身にする行動の習慣的パターンを作り出している、ということだ。どの刺激に反応し、どの刺激を無視すべきかを指示している。どの分野にすぐれているか、どの分野は不得意かを規定する。その人の気持ちや意欲を盛り上げるのも、無気力や無関心にさせるのもすべてこのフィルターなのだ。


 なーるほどね。これが、「自分という名のバイアス」。結局のところ、自分と環境の相互作用によって形成された欲求ということになりそうだ。するってえと、泥棒の子は泥棒の発想となり、王様の子は王様の振る舞いが身につくのだろう。では、生まれによって人生が決まってしまうのだろうか。否。そんなこたあない。これを「御破算で願いましては」と振り出しに戻す作業が“教育”なのだ。だから、二世議員とか二世社長ってえのあ、馬鹿だと思いますな。だって、親に敷いてもらったレールの上しか歩けないんだからね。


 さあて、新しい道路でもつくるとするか(笑)。早速、興味のない本を読むことにしよう(ニヤリ)。

まず、ルールを破れ―すぐれたマネジャーはここが違う

全ての票が数えられる社会は来るのか


 大統領選挙はオバマの勝利。マケインはいち早く敗北を受け入れた。それでオーケー……ということで良いのだろうか?アメリカは個人を尊重する国のはずなのに、なぜか選挙となると個別の票集計はいいかげんで、不法な妨害により投票できなかった人たち、郵送投票しても集計されなかった人たち、間違ったデータにより「あなたには選挙権がありませんよ」と選挙当日に宣告された人たちに対しては顧みられることがない。


 結局のところアメリカは、普段はそうでないにせよ、決定的に重要な場面において個性や人権が軽視される社会のように思えてならない。政府は金融業界を救済するために7,000億ドル(75兆円)もの公的資金をつぎ込むが、貧困に苦しむ米国民3,730万人には何の融資もしない。腐敗した保険企業には850億ドル与えても、医療保険に加入できない米国民4,570万人には何の救済もしない。イラクは沈静化、アフガニスタンには増派などと戦況ばかりが大局的に報道されるが、ブッシュ政権の提示した戦争の大義という嘘を信じて死んでいった田舎出身の若い兵士たちや、理由もなく虐殺され、巻き添えに殺されたイラク国民たち……その1人1人に家族と名前があった人たちの棺から聞こえる無念の声や、墓前に集う人たちの声が、新大統領の演説のように全米にライブ放送されることは決してない。だいいちアメリカ国民は、いったい何人が戦死したのかすら正確には知ることがなく、今後何人が戦死するのかについてすら興味がないといった風情だ。


暗いニュースリンク 2008-11-06

2008-11-07

ホロコーストは「公式プロパガンダによる洗脳であり、スローガンの大量生産であり、誤った世界観」/『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン

 ノーマン・G・フィンケルスタインは、自分の主張が独善へと傾斜しないように、さまざまな人物からの指摘も挙げている。これもその一つ――


 イスラエルの著名ライター、ボアス・エヴロンは「ホロコースト意識」について、その実体は「公式プロパガンダによる洗脳であり、スローガンの大量生産であり、誤った世界観である。その真の目的は、過去を理解することではまったくなく、現在を操作することである」と喝破している。ナチ・ホロコーストそのものは、本質的にはいかなる政治的課題にも奉仕するものではない。イスラエルの政策を支持する動機にもなれば、反対する理由にもなる。しかしイデオロギーのプリズムを通して屈折させられるとき、「ナチによる絶滅の記憶」は「イスラエル指導層と海外ユダヤの掌中の強力な道具」(エヴロン)として働くようになる。すなわち、「ナチ・ホロコースト」が「ザ・ホロコースト」になったのである。


【『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン/ 立木勝訳(三交社、2004年)】


 歴史は長いものに巻かれる。恐ろしいのは、既に「ナチ・ホロコースト」よりも「ザ・ホロコースト」の方が長期間に渡って流布している事実である。ホロコーストからの生還者だって、もうさほどいないことだろう。そして、証人を失った歴史は更に塗り替えられる結果となる。新事実を盛り込むことだって可能だ。メディアが許認可事業である以上、権力には抗しきれない。


 苫米地英人の一連の著作を読むまで、洗脳とは閉ざされた環境下で睡眠などを奪って行うものだとばかり思っていた。ところが、実はもっと日常的に行われているもので、いわゆる「刷り込み」(インプリンティング)に近いものだと知った。ホロコーストに関しては、膨大な情報が溢れている。それらに触れれば触れるほど、怒りや悲しみを覚える。そして、激しい感情と共に思い込みが強化されてゆくのだ。


 もちろん、事実というものは多面的な姿を持っている。だが明らかに、「ザ・ホロコースト」は嘘で築かれている。嘘の歴史が闊歩し、巨額な賠償金を詐取している現実がある。


 人々がテレビの前から腰を上げない限り、洗脳は避けようがない。小さな声でもいいから、一人ひとりが何らかの発信を行うべきだと考える。それ以外に、洗脳を拒絶する手立てがないからだ。

ホロコースト産業―同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち

先入観を打ち破る若き力/『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン


 タイトルの「幽霊」とは意識と理解してよいだろう。質量ともにヘビー級の一冊。


 思い込みが世界をどんどん狭める。「サーカスの象」の喩えもある。世界は外に向かって開かれ、世界観は脳内で構築される。同じ世界に置かれていても、人それぞれの世界観は異なる。それが、“生き方の差”となって人生の春秋を織り成す。


 学問の世界における先入観は根強い。英知という自負が瞳を曇らせる。新たな発見が公開されても、実際に確認する人は殆どいない。こうして盲点は大きくなってゆく。


 医学部の学生にこの話をすると、たいていは、ガリレオの時代なら簡単にできただろうが、20世紀の現代では大きな発見はすでにされてしまっているし、高価な装置や細目にわたる測定なしでは新しい研究はできっこない、という反応が返ってくる。まったくどうかしている! 今日でも驚くべき発見は、つねに目の前にぶらさがっている。むずかしいのはそれに気づくことだ。たとえばこの何十年、潰瘍の原因はストレスであるとされてきた。ストレスによって過剰に分泌された胃酸が、胃や十二指腸の粘膜をおかし、潰瘍と呼ばれる特徴的なくぼみができるという説明である。そして治療法は、制酸剤やヒスタミン・レセプターの阻害薬の投与、迷走神経切断術(胃に分布して酸を分泌させる神経を切断する)、あるいは胃切除(胃の一部を切り取る)と決まっていた。しかしオーストラリアの若いレジデント(研修医)だったビル・マーシャル博士は、人間の潰瘍の染色切片を顕微鏡で観察して、ヘリコバクター・ピロリ菌という、健康な人に一定の割合で見られるごく普通の細菌がたくさんいることに気づいた。そして潰瘍の組織切片にこの細菌が再三見られるので、ひょっとするとこれが潰瘍の原因ではないかと考えるようになった。この考えを教授に話すと、「とんでもない。そんなはずはない。潰瘍がストレスで起こるのは周知のことだ。君が見たのは、すでにできた潰瘍の二次感染だ」と言われた。

 しかしマーシャルは納得せず、常識に挑戦した。まず疫学的な研究をしたところ、患者のヘリコバクター菌の分布状態と十二指腸潰瘍とのあいだに強い相関関係が見られた。しかしこの所見では、彼の分野の研究者たちから受け入れられなかったので、やっきになったマーシャルは、培養した細菌をのみこみ、数週間後に内視鏡検査を行なって、胃腸菅のあちこちに潰瘍ができているのを実際に示した。その後に正式な臨床試験を実施して、抗生物質とビスマスとメトロダニゾ−ル(抗菌剤)を組みあわせて投与した患者が、酸阻害物質のみを投与したコントロール群よりもはるかに治癒率が高く、再発も少ないことを示した。

 この話を紹介したのは、新しい考えに対して心が開かれた医学生やレジデントなら、そして高級な設備を必要としない研究なら、独力でも医療に大変革をもたらすことができるということを強調したかったからだ。研究にとりかかる際は、いつでもこの精神でいくべきだ。どんな真実が潜んでいるかだれにもわからないのだから。


【『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン(角川書店、1999年)】


 快哉を上げたくなるエピソードである。まして私は、十二指腸潰瘍を患った経験があるから尚更だ。私の場合もピロリ菌が犯人だった。日本人にピロリ菌保有者は多いとされるが、はっきりした原因はわかっていない。個人的には「川の水を飲んだため」という説に一票。

脳のなかの幽霊 (角川文庫)

2008-11-06

複眼思考で自分の歪みを正す/『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』佐藤優


 まずは以下の記事を読んでもらいたい。

 で、次なる問題として当然「自分というバイアス」が考えられる。どちらかと言えばこっちの方が問題である。正しい情報まで歪めることもあるからだ。早合点、曲解、すり替えなど。人間の知覚の大半は錯覚だそうだよ。


 特に私のように思い込みが激しく、偏見にまみれ、自説を固持し、先入観の虜となっていると大変だ。情報という情報は屈折し、流れる水は我が田へ引かれることとなる(←へりくだってみただけだ)。


 では、自分自身の内部にある「歪み」をどう正すのか――


 情報、調査・分析の世界に長期従事すると独特の歪みがでてくる。これが一種の文化になり、この分野のプロであるということは、表面上の職業が外交官であろうが、ジャーナリストであろうが、学者であろうが、プロの間では臭いでわかる。そして国際情報の世界では認知された者たちでフリーメーソンのような世界が形成されている。

 この世界には、利害が対立する者たちの間にも不思議な助け合いの習慣が存在する。問題は情報屋が自分の歪みに気付いているかどうかである。私自身も自分の姿が完全には見えていない。しかし、自分の職業的歪みには気付いているので、それが自分の眼を曇らせないようにする訓練をしてきた。具体的には常に複眼思考をすることである。


【『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』佐藤優(新潮社、2005年/新潮文庫、2007年)】


 客観性は相反する考えを比較対照することで保たれる。正確な判断には慎重さを要する。エイヤッと力任せで的を狙ったところで当たるわけがない。


 長く外交畑で汗を流してきた佐藤優は、信頼の重みを誰よりも知る人だった。そこは、単なる才覚や勢いで乗り切れるような場所ではない。日本の文化や伝統的な考えが通用しない場面も多かったことだろう。だからこそ、謙虚にならざるを得ないのだ。心を開くとは、相手の話に耳を傾けることである。虚心坦懐でなければ、ただの利害調整で終わってしまう。目的が利害調整であったとしても、その前に人間的な信頼関係が必要となる。


 こうした基本は、国際関係であろうと、人間関係であろうと変わりはない。命と命の周波数が同調し、心と心が共鳴するところに友好が生まれる。正しい情報を正しく受け取れば結合が生まれる。誤った情報を誤って鵜呑みにすれば分断が生じる。スピード社会ではあるが、やはり吟味、斟酌(しんしゃく)、熟考といった作業が不可欠だ。物事を引っくり返して見つめる柔軟性を失いたくないものである。

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)

ギャングですら信用するスペンサーの言葉/『スクール・デイズ』ロバート・B・パーカー

 スペンサー・シリーズの第33作目。訳者は逝去した菊池光から加賀山卓朗にバトンタッチ。かなりあっさりした訳文となっている。「心が純粋」といった表現は避けてもらいたいところ。「心が澄んでいる」、あるいは「心が清らか」にすべきだ。でもまあ大過なく仕上がっている。


 私がスペンサー・シリーズを読み始めたのは二十歳(はたち)の時だった。ロバート・ラドラムの『暗殺者』が出た頃だ。もう25年が経過する。


 変わらぬスペンサーの姿と触れるたびに、変わり果てた自分と、まだ変わっていない自分とが行き交う。若い頃ほどの昂奮は覚えないものの、今の方が味わい深く読める。自分の中で曲げてこなかった何かが共振するのだ。


キャッツキルの鷲』に登場したギャングのメイジャー・ジョンソンが出てくる。スペンサーから頼まれて、メイジャーは配下のヤンに引き合わせる。


「こいつが何か言ったら」メイジャーが言った。「それは真実だ」

「あんたがそう言うなら」ヤンがメイジャーに言った。

「信じろ。こいつが何か言ったら、おまえはそれをチャチャ・ファースト・ナショナル銀行に持っていって預けられる」

 ヤンはうなずいた。


【『スクール・デイズ』ロバート・B・パーカー/加賀山卓朗訳(早川書房、2006年/ハヤカワ文庫、2009年)】


 スペンサーの言葉には貨幣と同程度の価値がある(笑)。ロバート・B・パーカーは、まだまだ健在だ。

スクール・デイズ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

メールマガジン「片言自在」


 メールマガジンを発行することにした。特に理由はない。ただ、何となく……というのはウソ。紹介した本のテキスト部分だけ集めてみようと思ったのだ。効果は特に狙っていない。名言集、金言集の類いと思ってもらえば、これ幸い。melma!は広告が多いので、E-Magazineで発行することにした。

2008-11-05

新潮社側敗訴が確定=創価学会副理事長の名誉棄損−最高裁


週刊新潮」の記事で名誉を傷つけられたとして、創価学会の山本武副理事長が発行元の新潮社などに1100万円の損害賠償を求めた訴訟の上告審で、最高裁第3小法廷(堀籠幸男裁判長)は4日付で、新潮社側の上告を棄却する決定をした。創価学会側の代理人が5日、明らかにした。

 名誉棄損を認め、同社側に230万円の支払いと謝罪広告の掲載などを命じた1、2審判決が確定した。


【時事通信 2008-11-05】

嘘、悪意、欺瞞、偽善/『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ

    • 嘘、悪意、欺瞞、偽善

 ページをめくるごとに私はたじろいだ。死の臭いがそこここに立ち込めている。プリーモ・レーヴィの遺作は、遺作となることを運命づけられていた。深い思索は地表にもどることができぬほどの深淵に達していた。


 地球の中心までは6400kmもの距離がある。人類が最も深く掘った穴は、ロシア北西部のコラ半島で、たったの12.261kmだ。5000分の1ほどの距離しかない。レーヴィは多分、マントルあたりまで行き着いてしまったのだろう。岩石がドロドロに溶ける2891kmのギリギリまで辿り着いたのだ。そして、鉱物相が相転移し、不連続に増加した密度が発する震度に、読者の自我が揺り動かされるのだ。


 生っちょろい覚悟でこの本と向き合うと危険だ。この私ですら死にたくなったほどだ。プリーモ・レーヴィはアウシュヴィッツを生き延びた。そして1987年4月11日、自宅のアパートから身を投げて死んだ。強制収容所を生き抜いた男ですら、生を断念する世界に我々は置かれている。


 それよりもはるかに大事なのは動機、正当化の理由である。あなたはなぜそれをしたのか? あなたは犯罪を犯していたことを知っていたのか?

 この二つの質問への答え、あるいは同様の質問への答えは、非常によく似ている。それは尋問される個々の人物には関係がない。たとえそれがシュペーアのように、野心的で、頭の良い専門家であっても、アイヒマンのように冷酷な狂信主義者であっても、トレブリンカのシュタングルやカドゥクのような愚鈍な野獣であっても。言い回しは異なり、知的水準や教養程度の差で傲慢さに強弱はあるにせよ、彼らは実質的に同じことを言っていた。私は命令されたからそれをした。他のものは(私の上司たちは)私よりもずっとひどい行為をした。私の受けた教育、私の生きていた環境では、そうせざるを得なかった。もし私がそうしなかったら、私の地位に取って代わった別のものがさらに残忍なことをしただろう。こうした自己正当化を読むものが、初めに感じるものは嫌悪の身震いである。彼らは嘘をついている、自分の言うことが信じてもらえるなどとははなから思っていない、自分たちがもたらした大量の死や苦痛と、彼らの言い訳の間の落差を見て取ることができない。彼らは嘘をついていることを知りつつ、嘘を述べている。彼らは悪を持って行動している。


【『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳(朝日新聞社、2000年)】


 私は、パトリシア・エイルウィン(元チリ共和国大統領)の言葉を思い出した。「嘘は暴力に至る控え室である。“真実が君臨すること”が民主社会の基本でなければならぬ」――。


 レーヴィが耐えられなくなったのは、アウシュヴィッツを凌駕する嘘、悪意、欺瞞、偽善であったのか。悪臭にまみれた我々の鼻は、既に何も嗅ぎ取れなくなってしまっている。


 しかし、だ。レーヴィの鼻を通すと、そこにはもっと強烈な死臭がプンプンしているのだ。退くも地獄、進むも地獄だ。で、私は本を閉じてしまったというわけ。とにかく強靭な体力をつけておかない限り、こんな本は読めるはずがない。

溺れるものと救われるもの (朝日選書)

モルモン教の創始者ジョセフ・スミスの素顔/『信仰が人を殺すとき』ジョン・クラカワー


 正式名称は「末日聖徒イエス・キリスト教会」。「モルモン書」と呼ばれる預言書を信じるがゆえにモルモン教とも称されている。日本だけで、何と320もの教会がある。


 アメリカで実際にあった事件を辿ったノンフィクション。妻と幼い娘を殺害したのは実の兄弟だった。犯行後、まったく悪びれることなく「神の指示に従っただけだ」と平然と答えた。悪しき教義は殺人をも正当化し、一夫多妻を説いていた。


 テンプル・スクエアで真面目な若い宣教師たちが配っている教会の印刷物には、ジョセフ・スミス――いまも、教会の要となっている人物――がすくなくとも33人の女性、おそらく48人ほどの女性と結婚したという事実にはまったく触れていない。このなかでいちばん年下の夫人がちょうど14歳だったとき、ジョセフが自分と結婚するか、それとも永遠の断罪をうけるか、これは神が命じたものであると彼女に話したことも言及されていない。

 一夫多妻制は、事実、ジョセフの教会のもっとも神聖な信条のひとつであった。この教義は重要なものであり、モルモン教の初期聖典のひとつ『教義と契約』の第132章にあるように、長い間神聖視されてきたのだった。ジョセフ・スミスは、多妻結婚のことを「かつて男性に示されたこの世でもっとも神聖で重要な教義」の一部と述べていて、男性が晩年に「大きな喜び」を得るには、すくなくとも3人の妻が必要であると教えていた。


【『信仰が人を殺すとき』ジョン・クラカワー/佐宗鈴夫訳(河出書房新社、2005年)】


 へえ、「3人の妻」ね。そりゃ「大きな喜び」には違いなかろうが、女性にとってはどうなのかね? モルモン教の創始者ジョセフ・スミスはただのスケベ野郎だったに違いない。後年、一夫多妻の教義は周囲からの反発や、議会での反対決議などもあって廃止される。しかし信仰は、純粋性を増せば増すほど原理主義に傾くものだ。まして、男性にとって都合のよい教義であれば尚更だ。


 最大の疑問は、どうしてこのような程度の低い教義を支持する人々が存在したのかということだ。多分、ジョセフ・スミスは情熱的で、弁が立ち、人々を魅了する雰囲気を持っていたのだろう。ま、言ってみれば“宗教詐欺師”だ。


 人間の心理には「騙されたい」という妙な願望がある。例えば手品がそうだろう。超能力もその類いかも知れぬ。詐欺は巧妙になればなるほどスリリングな物語となる。


 これまた逆説的になるが、「支配されたい」という願望も存在する。自分よりもはるかに有能で品行方正な人物がいれば、誰だってマゾヒズムになり得る。特に、自分の頭でものを考えるのが苦手なタイプは、「よき支配者」からのコントロールを望んでいる節が窺える。


 魅力というものは、それを感じる人々をして盲目にさせる。恋はいつだって盲目だ。周囲からの助言も耳に届かない。理性は失われ、感情を正当化する論理が直ちに構築される。


 ま、これがインチキ宗教の手口だと思うよ。そして何にも増して、キリスト教の教義に、淫祠邪教がのさばる余地があるのだと私は考える。「神の名」のもとに一切が正当化されてしまう世界観は危険だ。理は信を生み、信は理を求め、求めたる理は信を高め、高めたる信は理を深からしむ――これが正しい信仰のあり方であろう。理と信とが乖離するところに邪教の邪教たる所以(ゆえん)がある。

信仰が人を殺すとき 上 (河出文庫)信仰が人を殺すとき 下 (河出文庫)

2008-11-04

ロバート・B・パーカー


 1冊読了。


スクール・デイズロバート・B・パーカー/スペンサー・シリーズの第33作目。訳者は菊池光から加賀山卓朗にバトンタッチ。やや、あっさりした印象あり。「――のだ」という表現が殆ど見当たらず。高校で銃乱射事件が起こる。犯人は二人の高校生だった。スペンサーのもとに「孫の無実を晴らしてもらいたい」と祖母からの依頼が。久し振りに読むと、やはりスペンサー・シリーズは面白い。スーザンは出張中で、ホークも登場しないが、スペンサーの皮肉が利いた会話は磨きが掛かっている。『キャッツキルの鷲』のメイジャー・ジョンソンが再び登場する。スペンサーの強烈な個性は、自己存在性への問いかけに対する明確な答えを示すものだ。

「ハートエイク・トゥナイト」イーグルス


 私が初めて買った洋楽のアルバムは『イーグルス・ファースト』だった。当時売り出していた『ロング・ラン』をラジオで聴いたのがきっかけだ。ここで最新アルバムを無視して、「ホテル・カリフォルニア」に向かうこともなく、原点回帰を狙ったわけだが、イーグルスはそこまでして付き合うバンドではなかった。ま、今となってはベスト盤で十分でしょうな。この曲はブルージーな味つけのロックで今聴いても名曲。イーグルスの失敗は、バンドでありながらジャクソン・ブラウン臭さを脱却できなかったところにあると私は睨んでいる。ウエストコースト・サウンドってさ、田舎臭いんだよね。

パーフェクト・ヒッツ1971〜2001

植木雅俊氏が毎日出版文化賞(企画部門)を受賞


 私の知人である。応援のほど宜しく。


『梵漢和対照・現代語訳 法華経 上・下』=植木雅俊・訳(岩波書店


経典理解と見事に呼応

 法華経は、大乗仏教を代表する重要な経典だ。わが国では鳩摩羅什(くまらじゅう)による漢訳が読まれてきた。名訳だが、19世紀にサンスクリット原典が見つかり、テキストを対照してより正確な意味を研究できるようになった。

 植木氏は独学で仏教学を学び、30代後半に東方学院の門を叩(たた)いて、中村元院長の教えを受ける。中村院長の励ましのもと、サンスクリット語の学習を始め、以来寸暇を惜しんで研鑽(けんさん)すること十数年、独力で法華経の現代語訳を完成させた。一個人の仕事として、まれに見る偉業である。

 翻訳は、徹底した経典理解と呼応する。植木氏はまず、経典名を《白蓮華(れんげ)のように最も勝(すぐ)れた正しい教え》と訳す。法華経の中心思想については《三乗のすべてを一仏乗に導く。そしてすべてを成仏させる》のが《法華経の目指したことであった》とする。くっきりと力強い理解である。

 今回の訳業は、信仰をもつ人びとにとってはもちろん、一般読者にも大いに有益だ。地味だが有意義な企画を進めた版元の英断も、企画部門の受賞にふさわしいと判断された。(橋爪大三郎


毎日新聞 2008-11-03


法華経 上―梵漢和対照・現代語訳 法華経 下―梵漢和対照・現代語訳

小田嶋隆による『広告批評』批判 その三/『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆

 これで最後。小田嶋隆の結論は鋭い。横に薙(な)いだ刀で、広告宣教師・天野祐吉の上半身と下半身は真っ二つにされてしまう。


 確認しておこう。CMは断じて(そう、断じてだ)「作品」ではない。

 なぜなら、第一にそれは、作者の意思のあらわれではなく、企業の策略の表象に過ぎないからだ。

 であるから、たとえばある商品の広告に付されたボディコピーの文章が、どんなに洗練されていようと、それは「作品」ではない。

 確かに、私より文章の上手なコピーライターはいくらもいるだろう。が、彼の書いている文章は、彼の主張でもなければ、彼の思想でもなく、それゆえに、彼の作品ではない。彼がこしらえた文章は、彼を使役している企業の戦略の一部分であるに過ぎない。

 さて、第二に、CMは、受け手(読者、観客、あるいは見物人)によって購われておらず、広告主によって購われている点において、やはり「作品」とは呼び得ない。

 私の書いている文章は、不完全であったり下品であったりするにしても、「原稿料」というものを通じて、最終的には読者からお金を頂いている文章だ。

 一方、CMの表現は、それの受け手とはまったく無縁な広告主から料金を受け取った上で書かれている。

 これは、「作品」ではない。

 少なくとも私は、そうは呼ばない。

 であるから私は、広告が「批評」の対象であるなんてことは、絶対に認めないのである。

 広告は、広告である。それは、表現であるよりは戦略であり、創作であるよりは商売であり、交流であるよりは淫売であってしかるべきもので、別段気を使(ママ)って取り扱ってあげるようなもんではないのである。

 ……などと、私ごときのものがいくらリキみかえったところで、広告は「作品」として一人歩きをはじめてしまっている。


【『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆(洋泉社、1995年)】


 常識がメディアの影響を受けて変容している。自分のモノサシがテレビによって長くなったり短くなったりしている。そんなことを痛感させられる一文だ。本書自体は、オダジマンの作品の中で特に抜きん出たものではない。しかし、こうしてテキストを打ち込んでみると、その秀逸な視点と文章に舌を巻いてしまう。と書きながらも、私は広告を文化だとする思考から抜け出せずにいる。天野祐吉の罪は根が深く、今直ぐ洗脳現行犯で逮捕してもらいたいほどである。


罵詈罵詈 11人の説教強盗へ

進化医学(またはダーウィン医学)というアプローチ/『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ


 ユニークな学術書。トリビアネタ満載。短い章立てとなっており、すんなり読める。ただし、訳文が拙い。


 進化医学の基本的な考えはこうだ――


 私たちは、自然界の生物は幸せで健康なものだと考えたがるが、自然淘汰は、私たちの幸福には微塵も関心がなく、遺伝子の利益になるときだけ、健康を促進するのである。もし、不安、心臓病、近視、通風や癌が、繁殖成功度を高めることになんらかのかたちで関与しているならば、それは自然淘汰によって残され、私たちは、純粋に進化的な意味では「成功」するにもかかわらず、それらの病気で苦しむことだろう。


【『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ/長谷川眞理子、長谷川寿一、青木千里訳(新曜社、2001年)】


 つまり、病気の至近要因と進化的要因とを区別し、「なぜそのようなDNAを持つに至ったのか」を探る医学である。もう少しわかりやすく言えば、「なぜ病気になったのか?」ではなく、「病気になる何らかの理由があるはずだ」というアプローチをする。で、「何らかの理由」とは「進化上、種(しゅ)全体にとって有利な」という意味だ。そしてDNAは「繁殖成功度を高める」方向にのみ進化し続ける。ま、必要悪としての病気と言ってよい。


 我々の身体は、暑いとダラダラと汗をかき、寒ければガタガタと震え、風邪をひけば高熱を発する。だがこれは一面的な見方で本当の意味は違う。汗をかくのは気化熱で身体を冷やすためであり、震えるのは体温を高めるためであり、高熱を発するのは体内の病原菌を死滅させるためなのだ。快適な生活空間は、こうした身体機能を損なっている可能性がある。そして対症療法的な医療も。


 仏法では生老病死と説き、成住壊空(じょうじゅうえくう)と断ずる。これ、万物流転のリズムか。ならば、病気は避けられない。となると、上手く付き合ってゆく他ない。病気を根絶することが進化上、有利かどうかは判断のしようがないためだ。その意味で、ダーウィン医学は東洋的なアプローチ法(運命論よりは宿命論に近い)といえる。

病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解

2008-11-03

ガイ・カワサキ、田上太秀


 1冊挫折、1冊読了。


徹底的に敵をヘコます法 ビジネスを優位に導く“狂騒”戦略』ガイ・カワサキ/小田嶋隆訳。著者はマッキントッシュを市場に出回らせた立役者らしい。数ページでやめた。どうも、ハイテンションについてゆけない。ビジネス書である。


人間ブッダ』田上太秀(たがみ・たいしゅう)/『在家仏教』という雑誌の連載記事。原始仏教入門。なめてかかっていたのだが、正確な内容に驚く。初心者向けではあるが侮れない。

小田嶋隆による『広告批評』批判 その二/『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆

 彼は『広告批評』という雑誌を創刊した。

 そして、テレビの画面や、雑誌の誌面や、講演の舞台の上でも、繰り返し繰り返し、広告の効用を説いてきた。

 言って見(ママ)れば、広告界のペテロである。

「別にかまうことはないじゃない。誰だって自分のやってる稼業を良く言おうとするもんじゃないか」

 だからあんたは甘いというのだ。

 アマノ君がやったことは、単に広告業界のイメージをちょっとばかり良くしたという程度のことではない。

 彼は、広告を「文化」だかみたいなものに格上げしてしまったのである。

「偉いじゃないか」

 うん、確かにちょっと偉い。だけど、オレはそういういかさま使いは大嫌いなのだ。

 彼は、広告を「批評」した。

「ひひょう?」

 オレは、思ったね。だって、商業用の宣伝手段に過ぎないものをつかまえて、「批評」もないだろうが。

 が、アマノは「批評」した。

 あたかもそれが批評に耐えうる「作品」であるかのように。

 畜生。


【『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆(洋泉社)】


 大衆消費社会において広告戦略は不可欠である。どんなに素晴らしい商品であっても宣伝をしなければ売れない。確かに芸術的な広告もある。だが、小田嶋隆の刀は、「広告全体の地位向上を狙った胡散臭い意図」に対して振り下ろされたものだ。これは鋭い。私は全く気づかなかったよ。


 ただし、天野祐吉が行ったことはアメリカ広告界の二番煎じだと思われる。かの国における「広告の威力」=「消費に及ぼす影響力」を知ればこそ、広告界の宣教師となるに至ったのであろう。


 オダジマンはこの後、振り下ろした刀を水平に薙(な)ぎつける。

罵詈罵詈 11人の説教強盗へ

米軍女性帰還兵の15%「従軍中に性的外傷受けた」


 イラクとアフガニスタンから帰還した米軍の女性兵士の15%近くが、従軍中に性的外傷を受けていることが、28日に発表された米退役軍人省の調査で明らかになった。

 この調査は、過去6年間にアフガニスタンでの「不朽の自由作戦(Operation Enduring Freedom)」およびイラクでの「イラクの自由作戦(Operation Iraqi Freedom)」に従事し、同省の医療制度を利用した兵士10万人のデータに基づいたもの。女性の7人に1人が「軍隊性的外傷」を経験したと報告しているという。

 また、男性帰還兵の0.7%が性的外傷を報告している。

 従軍中に性的外傷を受けた兵士は男女とも、受けていないと答えた兵士に比べて、帰還後に精神疾患と診断される率が高い。

 内容は性的な発言から暴行の脅迫までさまざまだが、性的外傷はうつや不安、心的外傷後ストレス障害、薬物乱用などを引き起こす可能性があるという。


AFP 2008-10-30

2008-11-02

情報の歪み=メディア・バイアス/『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』松永和紀


 3ヶ月ほど前に読了していたのだが書き忘れていた。これは好著。安部司著『食品の裏側 みんな大好きな食品添加物』を鵜呑みにしている人(筆頭は宮台真司)は必読。


 メディアの仕事は事実を報道することが半分で、残りの半分はデマを捏造することだ。特に映像の場合、活字のように読み返すことができないため、やりたい放題の現状となっている。一言、アナウンサーや司会者が謝罪すれば許されると思い込んでいる節が窺える。


 本書は食品情報にまつわるデマを一刀両断にしている。と言っても、決して下品になっておらず、真摯かつ求道的な姿勢に好感が持てる。それにしても酷い。酷過ぎる。多分、法律に問題があるのだろう。ということは、当然そこに利権が絡んでいるって話になりますわな。


 科学はそれほど単純ではありません。さまざまな条件や量の大小などによって良くも悪くもなります。白か黒かではなく、グレーゾーンが大部分なのです。

 マスメディアは、このグレーゾーンをうまく伝えることができません。多種多様な情報の中から自分たちにとって都合の良いもの、白か黒か簡単に決めつけられるようなものだけを選び出し、報道します。メディアによる情報の取捨選択のこうしたゆがみは、米国では「メディア・バイアス」と呼ばれています。


【『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』松永和紀〈まつなが・わき〉(光文社新書、2007年)】


 我々は、既に取捨選択された挙げ句、歪んだ情報を受け取っているのだ。弱ったね。だって、確認しようがないもんね。大体ね、情報を受け取っている時って、人間は無意識になっていることが殆どなんだよね。これ、最近になって気づいたことだよ。意識するのって、明らかな間違いを見つけた時なんだよ。多分、活字の方がわかりやすいと思う。「意識される」のは、誤字脱字を見つけた瞬間や、内容に誤りがあった時である。私ほどの批判精神旺盛な者であっても、じっと読んでいる最中は流れる情報を受け入れているだけになっているのだ。洗脳、とまでは言わないが、明らかに同調している。


 以下も同様の指摘だ――


 つまり、認知的な限界や推論能力の限界を論じる以前に、そもそも私たちが推論の基礎とするデータそのものに、歪みが内在しているのである。私たちが正しい判断や妥当な信念を手に入れるためには、データのこうした歪みに気づいて、それに惑わされないことが必要なのである。


【『人間 この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるかトーマス・ギロビッチ新曜社、1993年)】


 つまり、我々が受け取る情報というのは、発信者というフィルターを通した二次情報に過ぎないのだ。これを吟味するとなれば、相当の知識が必要となるだろう。小さな嘘を見抜くことは難しいし、大きな嘘には騙されやすい。


 嘘やデマには明白な意図があり、そこには利益が絡んでいる。ある時は自分の優位を誇大に表現し、ある場合には敵の足を引っ張る目的でスキャンダルを流す。一度広まってしまえば世間の印象は確定する。たとえ事実と反することであったとしてもだ。


 釈尊が最初に説いたとされる八正道では、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つの徳が示されている。この中の「正語」とは嘘をつかないことである。後に不妄語という戒律になっている。するってえと、2000年以上前から人間は嘘をつき続けている計算となる。


 嘘は信頼を破壊する。であるからして、嘘は人間を分断する。そして、嘘が嘘を呼び、人々の争いが始まる。メディア・バイアスを自分というバイアスが増幅させる。先入観、思い込み、錯覚が世の中を混乱させる基(もとい)であろう。


 嘘を見抜き、嘘を憎み、嘘と闘え。騙された分だけ、嘘はのさばってしまう。

メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 (光文社新書 (298))

野口晴哉、イアン・エアーズ、茂木健一郎、ジョン・クラカワー、ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ


 4冊挫折、1冊読了。


その数学が戦略を決めるイアン・エアーズ/翻訳は山形浩生。どうも相性が悪い。40ページで挫ける。データ重視の「絶対計算」について書かれた本。例えばこうだ。ワインの質=12.145+0.00117×冬の降雨+0.0614×育成期平均気温−0.00386×収穫期降雨、ってな具合。要旨が整理されていない印象を受けた。このため、ムダな文章が多くなっている。マルコム・グラッドウェルあたりを読んでいると、こんな本には手をつけられなくなってしまう。


意識とはなにか 「私」を生成する脳茂木健一郎/茂木の本を読むのは初めて。翻訳は一冊だけ読んでいる。出だしはいいのだが、出だしだけだった。30ページで挫折。クオリアに傾き過ぎ。例えが多くてウンザリ。単なるクオリア伝道師っぽい。


整体入門』野口晴哉/『風邪の効用』よりは少しまともだが、それでもやっぱり酷いよ。身体の調子が悪い人なら、「活元運動」を試してみる価値はあるかも。骨盤と背骨を中心にした体操だ。大上段に振りかざした言葉の数々が、どうも新興宗教っぽく感じてしまう。野口整体を知らない人に対して、わかるように教えることができないようだ。多分、それなりの効果があるためだろう。しかも、「治る」と断言してしまっているので、尚のこと宗教っぽくなっている。26ページで挫折。


信仰が人を殺すとき 過激な宗教は何を生み出してきたのかジョン・クラカワーモルモン教(正式名称は末日聖徒イエス・キリスト教会)信者による殺人事件を追ったノンフィクション。そこそこ面白いのだが、アウトラインがわかったところで中断。200ページ前後。モルモン教はキリスト教の一派であるが、元々一夫多妻制を理想としていた。教勢を拡大すると共に、近隣住民とのトラブルなどが頻発し、議会で一夫多妻制が取り上げられるまでになってしまった。教会側は議会の判断を受け入れ、この教義は捨てる。ところが、原理主義に走った連中は水面下で一夫多妻制を実践していた。もうね、凄いよ。何十人も妻がいて、女の子が生まれると中学生くらいで知り合いの男のもとへ嫁に出してしまう。間違いなく近親相姦がどこかで起こっていたことだろう。かような宗教であるにもかかわらず、現在でも世界に1100万人の信徒がいるというのだから驚き。事件は、兄が弟の妻と赤ん坊を殺害したもの。本人は、「神の意志に従っただけで、何も悪いことはしていない」と平然としているそうだ。たとえ、キリスト教からのはみ出し者であったとしても、教義自体にそのような余地があると私は考えている。「片言自在」で紹介する予定。


病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ/翻訳は長谷川眞理子、長谷川寿一、青木千里。まるでなってないよ。4400円もする本がどうしてこんな悪文なんだ? しかも、原文は面白いことが明らかだ。多分、長谷川眞理子の名前を付けて、売り上げアップを狙ったのだろう。小難しい内容であるにもかかわらず読めるのは、トリビアネタが豊富なことと、ユーモラスな文章であるため。対症療法ではなく、進化上の意味から病気にアプローチしている。一つだけ難点を挙げると、精神障害に関する部分が曖昧で、投薬治療に対する批判が殆どないこと。これが瑕疵(かし)となっている。でもまあ、エリオット・S・ヴァレンスタインの『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』が出る前だから仕方がないか。

社会学者が『妖怪人間ベム』を鮮やかに読み解く/『男らしさという病? ポップ・カルチャーの新・男性学』熊田一雄


 ジェンダー論は小難しい。いや、もっとはっきり言おう。面倒臭いのだ。「それは差別に決まっているでしょ。でも、本質的な違いってあるのよね」と言われたら、「勝手にしてくれ」と返答するしかない。


 本当の問題は、「性差に基づく社会的・制度的・思想的差別」にあるのだろうが、男女雇用機会均等法に至っては“悪平等”だと私は考える。同法の施行に合わせて、看護婦(→看護師)・保母(→保育士)・スチュワーデス(→客室乗務員)といった思い入れのある言葉が抹殺される羽目となった。で、男性の客室乗務員がいないのはどうしたことか? ま、いらないけどさ。


 熊田一雄は、わかりにくいジェンダー問題にアニメ論を盛り込むことで、私の興味をつないでくれる。


 先に、敗戦から高度成長期までの日本人男性の「星一徹コンプレックス」という概念を提出したが、ここでは、やはり「人種/ジェンダー/精神分析」という問題意識から、『巨人の星』のような大メジャーではなくマイナーな作品であったが、当時の視聴者(アニメ放映は1968-69年)には強烈な印象を残したアニメ『妖怪人間ベム』を再考してみたい。この作品には、「早くアメリカの白人(男性)なみになりたい」という当時の日本人、とくに子どもたちの屈折した欲望が、「早く人間になりたーい」妖怪人間たちの願望として、デフォルメされて描かれていたように思われる。


【『男らしさという病? ポップ・カルチャーの新・男性学』熊田一雄(風媒社、2005年)以下同】


『妖怪人間ベム』が放映されていたのは、私が5〜6歳の頃である。とすると、私の記憶に焼きついているのは、再放映だったのかも知れない。あの出だしのおどろおどろしいナレーションは今でも忘れられない。「それは、いつ生まれたのか誰も知らない。暗い、音のない世界で、一つの細胞が分かれて増えてゆき、三つの生き物が生まれた。彼らはもちろん人間ではない。また、動物でもない。だが、そのみにくい体の中には、正義の血が隠されているのだ。その生き物。それは、人間になれなかった、妖怪人間である」(「ルシファの翼」から勝手にコピー)。しかも、この一つの細胞ってのが、完全にヘドロを想起させる絵であった。で、とにかく3人の人相が悪い。ベムはデューク東郷(「ゴルゴ13」ね)より酷薄そうだし、ベラは落ちぶれたストリートガールそのものだし、ベロはマフィアの使い走りといった印象である。こうしたインパクトの強さもあって、ストーリーを私は何一つ覚えていない。3人が逃げ続けていたことしか記憶にないのだ。


 妖怪人間たちは、「人間(=この作品では事実上「白人男性」のこと)たちに尽くしていれば、いつかは人間になれる」と信じて、人間の弱い心に取り入った悪の妖怪たちを次々に退治していくのであるが(妖怪人間は人間には絶対に危害を加えない)、人間には感謝されるどころか、いつも変身したときの「獣のような」醜い姿を嫌われ、白人男性たちの警察に追われる身となり、最終回ではとうとう人間たちに、炎のなかで甘んじて焼き殺された(事実上の焼身自殺?)ことが暗示されている。現在、日本では、古典的アニメのリバイバルが盛んにおこなわれているが、『妖怪人間ベム』はメジャーなシーンでは復活していない。


 そんな深慮があったとは知らなかった。もちろん、最初からそういった構想があったわけではなく、時代という土壌に咲いた花がたまたまそのような形になったのだろう。


 振り返ると私が幼少の頃、外国といえばアメリカを意味していた。ニューギニアやエチオピアだったことは一度もない。アメリカは憧れの国だった。きっと、私の先祖も米兵からチョコレートをもらっていたのだろう。DNAがそう囁いている。


 日本はアメリカになろうとした。多分。豊かな生活、立派な肉体、フランクな人柄、民主主義、マクドナルド……。日本人が日本人であることをやめようとして悲喜劇は起こった。多分。そして、アジア諸国から忌み嫌われた。多分。バブル景気でジャブジャブになったお金は、そっくりアメリカに持っていかれた。多分。アメリカが戦争を始めると、必ず資金供給を要求された。


 日本は、アメリカの犬なのか? アメリカの51番目の州なのか? アメリカの奴隷なのか? その通り。我々は太平洋をまたいだ鎖につながれたアジアの番犬であり、アメリカ国民が納める税金に等しい金額を搾取され(違っていたらゴメンなさい)、アメリカ様のため苦役に甘んじる徒輩なのだ。


 スマン、筆が走り過ぎた。でもまあ、そんなところだと思いますな。これね、しようがないんだよ。だって、世界中の物を買ってくれているのはアメリカなんですから。アメリカ国民が借金まみれになってまで贅沢をしてくれるので、世界経済は成り立っているわけです。ハイ。


 妖怪人間の姿が、「ハンセン病」患者を象徴していたとすれば、物語は更なる深まりを見せる。

男らしさという病?―ポップ・カルチャーの新・男性学

小田嶋隆による『広告批評』批判 その一/『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆


「その三」まで続く予定。ご存じのように『広告批評』という雑誌を主宰したのは天野祐吉だった。何を隠そう私も昔っから嫌いだった。あの飄々とした文章や物腰は、悪意を封印する目的があったと推察している。結論は常に断定を避け、善悪をウヤムヤにしているような印象を受けた。一言でいえば「つかみどころのない人物」ってことになる。ま、ヌメヌメ野郎と言い換えてもよい。


 天野は元々博報堂のサラリーマンだった。きっと、ここで学んだノウハウを生かして、広告をテコにして儲ける手法を編み出したのだろう。結局のところ、付加価値を捏造しただけに過ぎないのだが。


 オダジマンの天野批判は極めて常識的である。であればこそ、批判の切っ先が鋭くなるのだ。


 で、まずは

「すべては広告だ」

 という、この、どうにも図々しい断言について検討してみることにする。

 ふうむ、……なるほど。

「すべては広告だ」

 と、単純に断言されてしまうと、なんだかそんな気もしてくる。

 ……という、ここのところに既に広告的手法のワナが見えはじめているではないか。つまり、この「すべては○○だ」なる言い回しが、既にして広告なのだ。つまり、広告的なうさんくささに溢れた、一種の目くらましなのである。

「すべては○○だ」

 という、この成句の論理的構造においては、大胆に(あるいは無責任に)言い切ってさえしまえば、○○の中身は、事実上何であってもよろしい。

 たとえば、

「すべては大根だ」

 でも、一応の説明はつく。

「太陽のめぐみは、往々にして日の当たらない場所に蓄えられる」とでも解釈すれば、それらしく見える。

 もっと思い切って

「根も葉もない大根は存在しない。故に大根は常に真実である」

 てな具合に深読みすることもできるし、さらに一歩推し進めて「大根は地下の太陽だ」ぐらいはフカしてもよろしい。

 それどころか、そもそも「すべては人参である」でも、「すべてはカルピスウォーターである」でもなんでも、どうにでも解釈は成立するのであって、要するに、「すべては○○である」なるキャッチコピー(これは、意表をつくものであればあるほど良い)の後に、種あかしのボディコピー(もちろんどんな嘘をついても良い)をつけておけば良いのだ。

 ちなみに言えば、この種の広告的断言には、昔からいくつかのパターンがある。

「時代は、いま、○○」

「○○の数だけ、○○がある」

「○○を見るものは、○○を知る」

「すべての歴史は○○の歴史である」

 広告であれ格言であれ聖句であれ、一言をもって現実を切り取って見せる場合の技巧は似たようなものだ。そう、すべては神の思し召しであり、アラーの御心であり、御仏のこころざしであり、あるいはまたクライアントの胸先三寸であり、すべては○○だ、と言い切った瞬間に、全世界は単調になり、一色になり、ひとつの処理済みカタマリになり、結局は無意味になる。

 それが、言ってみれば広告の狙いなわけだ。


【『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆(洋泉社)以下同】


「すべては広告だ」と「すべては大根だ」を比較すると一目瞭然だが、小田嶋隆の圧勝である。すべてが大根であるはずがないのだ。無意味さが人々の耳目を引きつける。「エ、どうして?」と疑問を抱かせるのも、広告手法の常套手段なのだ。その上、これほど馬鹿げたコピーでありながら、解釈には異様な説得力がある。


 天野祐吉の章の見開きには、こう書かれている――


 広告屋の広告塔 天野祐吉 ゲスのアド知恵


 説明するまでもないが、アド(advertisings)=広告ね。何とはなしに、広告塔が「ものみの塔」に見えてくるよ。天野祐吉の乾いた表情と、作為的な言葉がユダヤ人を想起させる。根拠は何一つない。単なる印象だ。四の五の言わず、そう思うように努力してみろ。


 先ほど検索結果で知ったのだが、『広告批評』って休刊したんだね。この記事でも天野は「マスメディア広告万能の時代は終わった」などと勝手なことを言っている。しっかし、相変わらずだね。

罵詈罵詈 11人の説教強盗へ

2008-11-01

心を開けゴマ


 すまん。「ゴマ」は余計だった。つい付けてしまったというのが真相だ。


 佐野元春は「誰かが君のドアを叩いている」と歌った。誰なのかね? よもや、ピンポンダッシュということはないだろうな。


 同じ歌の冒頭で「街角から街角に神がいる」とも歌っている。本当なのか? 嘘だ。嘘に決まっているよ。駅頭でやたらと手をかざす連中を見かけるがアイツらは神ではない。また、街角にいるのはポケットティッシュを配っているアルバイトであって、彼等は「神」ではなく「紙」だ。


 我が家のドアを叩き、電話のベルを鳴らすのは、神ではなく営業マンと決まっている。私の財布の中身を狙う連中だ。私は快く受け入れ、話を聞いた上で、不躾な質問を繰り返した挙げ句に罵声を浴びせる。仕方がない。これが趣味なんだよ。


 で、最近になって気がつかざるを得なくなったんだが、心というものはこっちが開いた分しか、相手も開かないんだよね。私は幼い頃から人の好き嫌いが激しく、嫌いな人物を相手にする時間はムダだと考えている。いや、本当のことを言おう。マイナス価値があるとまで思っているのだ。


 そんなわけで、私が「クソだな」と厳正かつ公平に判断した場合、話し掛けられた分だけに反応することとなる。ここまで読んで、私のことをただの気難しい中年オヤジだと錯覚する人もいるだろう。その錯覚は正しい。


 私が言いたいことはこうだ。「人は相手から学ぼうとしない限り学べない」――何だか陳腐な結論となってしまったが仕方がない。例えば私がドアを全開にしたとしよう。でも、相手のドアが少ししか開いていなければ、視界に映るのは大半がドアとなる。まして、部屋の中が薄暗いと何があるのかわからない。私はこの状況で助言することを強いられる。


 そしてもっと大事なことがある。それは、互いがドア(=胸襟)を開いた上で、「歩み寄る」ことだ。なぜなら、開いたドアまで進まないと、相手の部屋の全貌を確認することはできないからだ。更に、双方が相手の部屋に入ればオッケーだ。だが油断してはならない。押し入れの中に何が入っているかはわからないのだから。


 自分よりも経験豊富な人、技術の優れた人、知識が深い人に対しては、進んで心のドアを開くことを私は実行している。

「環境帝国主義」とは?/『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人

 さて、時間のあるうちにどんどん紹介していこう。「片言自在」は質よりも量で勝負することを宣言しておく。


 世界経済が自由競争で成り立っていると思ったら大間違いだ。実は、「不公平」というルールで運用されているからだ。欧米列強は、発展途上国が絶対に発展できない仕組みを既に作り上げてしまった。


 梅崎義人が糾弾しているのは、環境や動物愛護をテコにして、貿易すら自由にさせない欧米の悪辣(あくらつ)な手口である。昨今、声高に主張されている「環境問題」も全く同じ異臭を放っている。


 環境帝国主義とは、一般的には環境問題に関する自己の主張を相手に強要する行為を指すが、ここでは次のように定義しておく。

「自国以外に生息する動・植物の利用を、自国の法律または国際条約によって一方的に禁止しようとする考え方並びにその行動」

 このようなことが実際にあり得るだろうか。いぶかる人々も多いと思うが、環境帝国主義は堂々と罷り通っている。

 アメリカには「海産哺乳動物保護法と「絶滅に瀕した動植物保護法」という二つの国内法がある。いずれも1970年代の初めに制定されている。前者は、クジラを初め、オットセイ、イルカ、アシカ、アザラシ、トドなどすべての海洋哺乳類の保護を決めた法律で、殺すことはもちろん、虐待やいじめることも禁止している。更にその製品の輸入までも禁じられている。例えば、クジラのベーコンやアザラシの毛皮はアメリカ国内には持ち込めない。そして、後者の「絶滅に瀕した動植物保護法は、絶滅の恐れのある動植物の利用だけでなく、その生息、繁殖地の開発あるいは利用までも禁じている。

 信じられないことだが、アメリカのこの二つの国内法は、全世界を対象にしている。「海産哺乳動物保護法」に基づき、アメリカは国際捕鯨委員会(IWC)の場で全面禁止を実現した。同法はニクソン大統領時代の72年に制定されたが、このアメリカ大統領は「私はこの法律の効果を世界中に広めたい」と署名時に語っている。

「絶滅に瀕した動植物保護法」で、保護すべき動物としてリストアップされている種は全体で900にのぼるが、そのうちの600が、なんとアメリカ以外に生息する動物である。


【『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人〈うめざき・よしと〉(成山堂書店、1999年)】


 農耕民族にジャーナリズムは育たない、というのが私の持論である。なぜなら、真実を報じたところで立ち上がる民衆は一人もいないためだ。立ち上がったとしても、直ぐに座り込んでしまうことだろう。これを繰り返せばヒンズースクワットとなる。真実に目覚めて、自分の足を一歩前に出すことが、我が国では「村八分」を意味するのだ。


 かような背景もあって、日本のジャーナリズムは権力者のスポークスマンとなり、メッセンジャーとなり、アナウンサーと化している現状を呈している。


 そんな中にあって、梅崎義人が著した本書には、紛れもなく「ペンの力」が横溢(おういつ)している。ジャーナリストの仕事とは、「世界が置かれた状況を読み解く作業」と言ってよい。

動物保護運動の虚像―その源流と真の狙い

相対性理論によれば飛行機に乗ると若返る/『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン

 アインシュタインの相対性理論も、書き手次第ではこんなに楽しく読める。


 要するに、相対性理論が示しているのは、空間と時間は絶対ではなく、観測者と観測されるものの両方と相対的な関係にあり、一方が高速で動くほど、その影響が顕著になるということだ。わたしたちはけっして高速度まで加速することはできず、努力するほど(そして速く動くほど)、外側にいる観測者たちに対してゆがんだ存在になっていく。(中略)

 この効果は、じつはあなたが動くたびに起こる。飛行機でアメリカ横断の旅をすれば、降りるときには、あとに残してきた人たちよりも数千億分の1秒程度若くなる。部屋を横切るだけでも、ほんのわずかではあるが、自身の時間と空間の経験を変化させていることになるのだ。時速160キロで投げられた野球のボールは、ホームプレートにたどり着くまでに0.000000000002グラム質量を増すと計算されている。つまり、相対性理論の効果は現実であり、計測することができる。問題は、そういう変化があまりにも小さいので、検出可能な最小の差異を作ることさえ困難である点だ。しかし、宇宙に存在するそのほかのもの――光、重力、そして宇宙そのもの――にとって、これらの変化はとても重要な意味を持つ。


【『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン/楡井浩一〈にれい・こういち〉訳(NHK出版、2006年)】


 確かに、イチローの打撃、ロナウジーニョのドリブル、マイケル・フェルペスの泳ぎを見ていると、別世界の出来事に感じることがある。ま、観測者である私は横になって腹を出しながらテレビの前にいるわけだが。


 きっと古代の人々にとって、瞬時の判断が生死を分かつ場面が多かったことと想像する。猛獣に襲われたり、毒草を吐き出したり、獲物をつかまえたり……。そして狩猟はいつしか、スポーツに取って代わった。ゲームがマクロであるとすれば、技はミクロの世界である。


 時空は瞬間において凝結する。うまくまとめることが出来なくなったので、これで誤魔化しておこう。

人類が知っていることすべての短い歴史(上) (新潮文庫) 人類が知っていることすべての短い歴史(下) (新潮文庫)

「国家」と「貨幣」は人間を超越する/『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』佐藤優、魚住昭


 忘れないうちに書いておこう。養老孟司は「われわれの社会では言語が交換され、物財、つまり物やお金が交換される。それが可能であるのは脳の機能による」(『唯脳論』)と書いた。


佐藤●マルクスが解き明かしたことの中でも重要なのが「国家」と「貨幣」の機能だと思います。両者とも人と人との関係性から生まれてきたものなのに、人の意思に構うことなく人を動かすことができる。それほどの〈暴力性〉を帯びていることを明らかにしました。


魚住●「国家」も「貨幣」も人間がつくったものにもかかわらず、人間を支配してしまったということですね。


佐藤●ええ、そうです。加えて「国家」と「貨幣」は人間を超越したものとして感じませんか。たとえば、「国家」の名において人を殺すことができる死刑制度、あるいは人に人を殺しに行けと命令する戦争。それらは正当化されていますよね。「貨幣」で言えば、必要以上に欲しくなる。預金通帳の数字が増えるのを見てニンマリとすることがそうでしょう。「国家」と「貨幣」には〈呪術性〉もあります。


【『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』佐藤優、魚住昭(朝日新聞社、2006年)】


 で、この二つの考えを統合してみよう。するとこうなる。「お金は、脳から溢れ出た“肥大した自我”である」と。ウン、中々いいね(笑)。この考えでいけば、金融マーケットで大量に行き交う“欲望”が見えるような思いがする。


 本能・情動を司っているのは脳の視床下部だから、証券会社の取引画面はまさにうってつけ。しかもこの視床下部、身体の神経・ 内分泌・免疫系をコントロールしており、苫米地英人が説く「ホメオスタシス恒常性)」を支えているのだ。視床下部、恐るべし。


 我々を振り回すお金という代物を生んだ犯人は、視床下部であると断定しておきたい。「だから、何なんだ?」「それが、どうした?」という質問は謹んで拒否させて頂く。

ナショナリズムという迷宮―ラスプーチンかく語りき ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき (朝日文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)