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2008-11-02

情報の歪み=メディア・バイアス/『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』松永和紀


 3ヶ月ほど前に読了していたのだが書き忘れていた。これは好著。安部司著『食品の裏側 みんな大好きな食品添加物』を鵜呑みにしている人(筆頭は宮台真司)は必読。


 メディアの仕事は事実を報道することが半分で、残りの半分はデマを捏造することだ。特に映像の場合、活字のように読み返すことができないため、やりたい放題の現状となっている。一言、アナウンサーや司会者が謝罪すれば許されると思い込んでいる節が窺える。


 本書は食品情報にまつわるデマを一刀両断にしている。と言っても、決して下品になっておらず、真摯かつ求道的な姿勢に好感が持てる。それにしても酷い。酷過ぎる。多分、法律に問題があるのだろう。ということは、当然そこに利権が絡んでいるって話になりますわな。


 科学はそれほど単純ではありません。さまざまな条件や量の大小などによって良くも悪くもなります。白か黒かではなく、グレーゾーンが大部分なのです。

 マスメディアは、このグレーゾーンをうまく伝えることができません。多種多様な情報の中から自分たちにとって都合の良いもの、白か黒か簡単に決めつけられるようなものだけを選び出し、報道します。メディアによる情報の取捨選択のこうしたゆがみは、米国では「メディア・バイアス」と呼ばれています。


【『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』松永和紀〈まつなが・わき〉(光文社新書、2007年)】


 我々は、既に取捨選択された挙げ句、歪んだ情報を受け取っているのだ。弱ったね。だって、確認しようがないもんね。大体ね、情報を受け取っている時って、人間は無意識になっていることが殆どなんだよね。これ、最近になって気づいたことだよ。意識するのって、明らかな間違いを見つけた時なんだよ。多分、活字の方がわかりやすいと思う。「意識される」のは、誤字脱字を見つけた瞬間や、内容に誤りがあった時である。私ほどの批判精神旺盛な者であっても、じっと読んでいる最中は流れる情報を受け入れているだけになっているのだ。洗脳、とまでは言わないが、明らかに同調している。


 以下も同様の指摘だ――


 つまり、認知的な限界や推論能力の限界を論じる以前に、そもそも私たちが推論の基礎とするデータそのものに、歪みが内在しているのである。私たちが正しい判断や妥当な信念を手に入れるためには、データのこうした歪みに気づいて、それに惑わされないことが必要なのである。


【『人間 この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるかトーマス・ギロビッチ新曜社、1993年)】


 つまり、我々が受け取る情報というのは、発信者というフィルターを通した二次情報に過ぎないのだ。これを吟味するとなれば、相当の知識が必要となるだろう。小さな嘘を見抜くことは難しいし、大きな嘘には騙されやすい。


 嘘やデマには明白な意図があり、そこには利益が絡んでいる。ある時は自分の優位を誇大に表現し、ある場合には敵の足を引っ張る目的でスキャンダルを流す。一度広まってしまえば世間の印象は確定する。たとえ事実と反することであったとしてもだ。


 釈尊が最初に説いたとされる八正道では、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つの徳が示されている。この中の「正語」とは嘘をつかないことである。後に不妄語という戒律になっている。するってえと、2000年以上前から人間は嘘をつき続けている計算となる。


 嘘は信頼を破壊する。であるからして、嘘は人間を分断する。そして、嘘が嘘を呼び、人々の争いが始まる。メディア・バイアスを自分というバイアスが増幅させる。先入観、思い込み、錯覚が世の中を混乱させる基(もとい)であろう。


 嘘を見抜き、嘘を憎み、嘘と闘え。騙された分だけ、嘘はのさばってしまう。

メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 (光文社新書 (298))

野口晴哉、イアン・エアーズ、茂木健一郎、ジョン・クラカワー、ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ


 4冊挫折、1冊読了。


その数学が戦略を決めるイアン・エアーズ/翻訳は山形浩生。どうも相性が悪い。40ページで挫ける。データ重視の「絶対計算」について書かれた本。例えばこうだ。ワインの質=12.145+0.00117×冬の降雨+0.0614×育成期平均気温−0.00386×収穫期降雨、ってな具合。要旨が整理されていない印象を受けた。このため、ムダな文章が多くなっている。マルコム・グラッドウェルあたりを読んでいると、こんな本には手をつけられなくなってしまう。


意識とはなにか 「私」を生成する脳茂木健一郎/茂木の本を読むのは初めて。翻訳は一冊だけ読んでいる。出だしはいいのだが、出だしだけだった。30ページで挫折。クオリアに傾き過ぎ。例えが多くてウンザリ。単なるクオリア伝道師っぽい。


整体入門』野口晴哉/『風邪の効用』よりは少しまともだが、それでもやっぱり酷いよ。身体の調子が悪い人なら、「活元運動」を試してみる価値はあるかも。骨盤と背骨を中心にした体操だ。大上段に振りかざした言葉の数々が、どうも新興宗教っぽく感じてしまう。野口整体を知らない人に対して、わかるように教えることができないようだ。多分、それなりの効果があるためだろう。しかも、「治る」と断言してしまっているので、尚のこと宗教っぽくなっている。26ページで挫折。


信仰が人を殺すとき 過激な宗教は何を生み出してきたのかジョン・クラカワーモルモン教(正式名称は末日聖徒イエス・キリスト教会)信者による殺人事件を追ったノンフィクション。そこそこ面白いのだが、アウトラインがわかったところで中断。200ページ前後。モルモン教はキリスト教の一派であるが、元々一夫多妻制を理想としていた。教勢を拡大すると共に、近隣住民とのトラブルなどが頻発し、議会で一夫多妻制が取り上げられるまでになってしまった。教会側は議会の判断を受け入れ、この教義は捨てる。ところが、原理主義に走った連中は水面下で一夫多妻制を実践していた。もうね、凄いよ。何十人も妻がいて、女の子が生まれると中学生くらいで知り合いの男のもとへ嫁に出してしまう。間違いなく近親相姦がどこかで起こっていたことだろう。かような宗教であるにもかかわらず、現在でも世界に1100万人の信徒がいるというのだから驚き。事件は、兄が弟の妻と赤ん坊を殺害したもの。本人は、「神の意志に従っただけで、何も悪いことはしていない」と平然としているそうだ。たとえ、キリスト教からのはみ出し者であったとしても、教義自体にそのような余地があると私は考えている。「片言自在」で紹介する予定。


病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ/翻訳は長谷川眞理子、長谷川寿一、青木千里。まるでなってないよ。4400円もする本がどうしてこんな悪文なんだ? しかも、原文は面白いことが明らかだ。多分、長谷川眞理子の名前を付けて、売り上げアップを狙ったのだろう。小難しい内容であるにもかかわらず読めるのは、トリビアネタが豊富なことと、ユーモラスな文章であるため。対症療法ではなく、進化上の意味から病気にアプローチしている。一つだけ難点を挙げると、精神障害に関する部分が曖昧で、投薬治療に対する批判が殆どないこと。これが瑕疵(かし)となっている。でもまあ、エリオット・S・ヴァレンスタインの『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』が出る前だから仕方がないか。

社会学者が『妖怪人間ベム』を鮮やかに読み解く/『男らしさという病? ポップ・カルチャーの新・男性学』熊田一雄


 ジェンダー論は小難しい。いや、もっとはっきり言おう。面倒臭いのだ。「それは差別に決まっているでしょ。でも、本質的な違いってあるのよね」と言われたら、「勝手にしてくれ」と返答するしかない。


 本当の問題は、「性差に基づく社会的・制度的・思想的差別」にあるのだろうが、男女雇用機会均等法に至っては“悪平等”だと私は考える。同法の施行に合わせて、看護婦(→看護師)・保母(→保育士)・スチュワーデス(→客室乗務員)といった思い入れのある言葉が抹殺される羽目となった。で、男性の客室乗務員がいないのはどうしたことか? ま、いらないけどさ。


 熊田一雄は、わかりにくいジェンダー問題にアニメ論を盛り込むことで、私の興味をつないでくれる。


 先に、敗戦から高度成長期までの日本人男性の「星一徹コンプレックス」という概念を提出したが、ここでは、やはり「人種/ジェンダー/精神分析」という問題意識から、『巨人の星』のような大メジャーではなくマイナーな作品であったが、当時の視聴者(アニメ放映は1968-69年)には強烈な印象を残したアニメ『妖怪人間ベム』を再考してみたい。この作品には、「早くアメリカの白人(男性)なみになりたい」という当時の日本人、とくに子どもたちの屈折した欲望が、「早く人間になりたーい」妖怪人間たちの願望として、デフォルメされて描かれていたように思われる。


【『男らしさという病? ポップ・カルチャーの新・男性学』熊田一雄(風媒社、2005年)以下同】


『妖怪人間ベム』が放映されていたのは、私が5〜6歳の頃である。とすると、私の記憶に焼きついているのは、再放映だったのかも知れない。あの出だしのおどろおどろしいナレーションは今でも忘れられない。「それは、いつ生まれたのか誰も知らない。暗い、音のない世界で、一つの細胞が分かれて増えてゆき、三つの生き物が生まれた。彼らはもちろん人間ではない。また、動物でもない。だが、そのみにくい体の中には、正義の血が隠されているのだ。その生き物。それは、人間になれなかった、妖怪人間である」(「ルシファの翼」から勝手にコピー)。しかも、この一つの細胞ってのが、完全にヘドロを想起させる絵であった。で、とにかく3人の人相が悪い。ベムはデューク東郷(「ゴルゴ13」ね)より酷薄そうだし、ベラは落ちぶれたストリートガールそのものだし、ベロはマフィアの使い走りといった印象である。こうしたインパクトの強さもあって、ストーリーを私は何一つ覚えていない。3人が逃げ続けていたことしか記憶にないのだ。


 妖怪人間たちは、「人間(=この作品では事実上「白人男性」のこと)たちに尽くしていれば、いつかは人間になれる」と信じて、人間の弱い心に取り入った悪の妖怪たちを次々に退治していくのであるが(妖怪人間は人間には絶対に危害を加えない)、人間には感謝されるどころか、いつも変身したときの「獣のような」醜い姿を嫌われ、白人男性たちの警察に追われる身となり、最終回ではとうとう人間たちに、炎のなかで甘んじて焼き殺された(事実上の焼身自殺?)ことが暗示されている。現在、日本では、古典的アニメのリバイバルが盛んにおこなわれているが、『妖怪人間ベム』はメジャーなシーンでは復活していない。


 そんな深慮があったとは知らなかった。もちろん、最初からそういった構想があったわけではなく、時代という土壌に咲いた花がたまたまそのような形になったのだろう。


 振り返ると私が幼少の頃、外国といえばアメリカを意味していた。ニューギニアやエチオピアだったことは一度もない。アメリカは憧れの国だった。きっと、私の先祖も米兵からチョコレートをもらっていたのだろう。DNAがそう囁いている。


 日本はアメリカになろうとした。多分。豊かな生活、立派な肉体、フランクな人柄、民主主義、マクドナルド……。日本人が日本人であることをやめようとして悲喜劇は起こった。多分。そして、アジア諸国から忌み嫌われた。多分。バブル景気でジャブジャブになったお金は、そっくりアメリカに持っていかれた。多分。アメリカが戦争を始めると、必ず資金供給を要求された。


 日本は、アメリカの犬なのか? アメリカの51番目の州なのか? アメリカの奴隷なのか? その通り。我々は太平洋をまたいだ鎖につながれたアジアの番犬であり、アメリカ国民が納める税金に等しい金額を搾取され(違っていたらゴメンなさい)、アメリカ様のため苦役に甘んじる徒輩なのだ。


 スマン、筆が走り過ぎた。でもまあ、そんなところだと思いますな。これね、しようがないんだよ。だって、世界中の物を買ってくれているのはアメリカなんですから。アメリカ国民が借金まみれになってまで贅沢をしてくれるので、世界経済は成り立っているわけです。ハイ。


 妖怪人間の姿が、「ハンセン病」患者を象徴していたとすれば、物語は更なる深まりを見せる。

男らしさという病?―ポップ・カルチャーの新・男性学

小田嶋隆による『広告批評』批判 その一/『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆


「その三」まで続く予定。ご存じのように『広告批評』という雑誌を主宰したのは天野祐吉だった。何を隠そう私も昔っから嫌いだった。あの飄々とした文章や物腰は、悪意を封印する目的があったと推察している。結論は常に断定を避け、善悪をウヤムヤにしているような印象を受けた。一言でいえば「つかみどころのない人物」ってことになる。ま、ヌメヌメ野郎と言い換えてもよい。


 天野は元々博報堂のサラリーマンだった。きっと、ここで学んだノウハウを生かして、広告をテコにして儲ける手法を編み出したのだろう。結局のところ、付加価値を捏造しただけに過ぎないのだが。


 オダジマンの天野批判は極めて常識的である。であればこそ、批判の切っ先が鋭くなるのだ。


 で、まずは

「すべては広告だ」

 という、この、どうにも図々しい断言について検討してみることにする。

 ふうむ、……なるほど。

「すべては広告だ」

 と、単純に断言されてしまうと、なんだかそんな気もしてくる。

 ……という、ここのところに既に広告的手法のワナが見えはじめているではないか。つまり、この「すべては○○だ」なる言い回しが、既にして広告なのだ。つまり、広告的なうさんくささに溢れた、一種の目くらましなのである。

「すべては○○だ」

 という、この成句の論理的構造においては、大胆に(あるいは無責任に)言い切ってさえしまえば、○○の中身は、事実上何であってもよろしい。

 たとえば、

「すべては大根だ」

 でも、一応の説明はつく。

「太陽のめぐみは、往々にして日の当たらない場所に蓄えられる」とでも解釈すれば、それらしく見える。

 もっと思い切って

「根も葉もない大根は存在しない。故に大根は常に真実である」

 てな具合に深読みすることもできるし、さらに一歩推し進めて「大根は地下の太陽だ」ぐらいはフカしてもよろしい。

 それどころか、そもそも「すべては人参である」でも、「すべてはカルピスウォーターである」でもなんでも、どうにでも解釈は成立するのであって、要するに、「すべては○○である」なるキャッチコピー(これは、意表をつくものであればあるほど良い)の後に、種あかしのボディコピー(もちろんどんな嘘をついても良い)をつけておけば良いのだ。

 ちなみに言えば、この種の広告的断言には、昔からいくつかのパターンがある。

「時代は、いま、○○」

「○○の数だけ、○○がある」

「○○を見るものは、○○を知る」

「すべての歴史は○○の歴史である」

 広告であれ格言であれ聖句であれ、一言をもって現実を切り取って見せる場合の技巧は似たようなものだ。そう、すべては神の思し召しであり、アラーの御心であり、御仏のこころざしであり、あるいはまたクライアントの胸先三寸であり、すべては○○だ、と言い切った瞬間に、全世界は単調になり、一色になり、ひとつの処理済みカタマリになり、結局は無意味になる。

 それが、言ってみれば広告の狙いなわけだ。


【『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆(洋泉社)以下同】


「すべては広告だ」と「すべては大根だ」を比較すると一目瞭然だが、小田嶋隆の圧勝である。すべてが大根であるはずがないのだ。無意味さが人々の耳目を引きつける。「エ、どうして?」と疑問を抱かせるのも、広告手法の常套手段なのだ。その上、これほど馬鹿げたコピーでありながら、解釈には異様な説得力がある。


 天野祐吉の章の見開きには、こう書かれている――


 広告屋の広告塔 天野祐吉 ゲスのアド知恵


 説明するまでもないが、アド(advertisings)=広告ね。何とはなしに、広告塔が「ものみの塔」に見えてくるよ。天野祐吉の乾いた表情と、作為的な言葉がユダヤ人を想起させる。根拠は何一つない。単なる印象だ。四の五の言わず、そう思うように努力してみろ。


 先ほど検索結果で知ったのだが、『広告批評』って休刊したんだね。この記事でも天野は「マスメディア広告万能の時代は終わった」などと勝手なことを言っている。しっかし、相変わらずだね。

罵詈罵詈 11人の説教強盗へ