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2008-11-04

ロバート・B・パーカー


 1冊読了。


スクール・デイズロバート・B・パーカー/スペンサー・シリーズの第33作目。訳者は菊池光から加賀山卓朗にバトンタッチ。やや、あっさりした印象あり。「――のだ」という表現が殆ど見当たらず。高校で銃乱射事件が起こる。犯人は二人の高校生だった。スペンサーのもとに「孫の無実を晴らしてもらいたい」と祖母からの依頼が。久し振りに読むと、やはりスペンサー・シリーズは面白い。スーザンは出張中で、ホークも登場しないが、スペンサーの皮肉が利いた会話は磨きが掛かっている。『キャッツキルの鷲』のメイジャー・ジョンソンが再び登場する。スペンサーの強烈な個性は、自己存在性への問いかけに対する明確な答えを示すものだ。

「ハートエイク・トゥナイト」イーグルス


 私が初めて買った洋楽のアルバムは『イーグルス・ファースト』だった。当時売り出していた『ロング・ラン』をラジオで聴いたのがきっかけだ。ここで最新アルバムを無視して、「ホテル・カリフォルニア」に向かうこともなく、原点回帰を狙ったわけだが、イーグルスはそこまでして付き合うバンドではなかった。ま、今となってはベスト盤で十分でしょうな。この曲はブルージーな味つけのロックで今聴いても名曲。イーグルスの失敗は、バンドでありながらジャクソン・ブラウン臭さを脱却できなかったところにあると私は睨んでいる。ウエストコースト・サウンドってさ、田舎臭いんだよね。

パーフェクト・ヒッツ1971〜2001

植木雅俊氏が毎日出版文化賞(企画部門)を受賞


 私の知人である。応援のほど宜しく。


『梵漢和対照・現代語訳 法華経 上・下』=植木雅俊・訳(岩波書店


経典理解と見事に呼応

 法華経は、大乗仏教を代表する重要な経典だ。わが国では鳩摩羅什(くまらじゅう)による漢訳が読まれてきた。名訳だが、19世紀にサンスクリット原典が見つかり、テキストを対照してより正確な意味を研究できるようになった。

 植木氏は独学で仏教学を学び、30代後半に東方学院の門を叩(たた)いて、中村元院長の教えを受ける。中村院長の励ましのもと、サンスクリット語の学習を始め、以来寸暇を惜しんで研鑽(けんさん)すること十数年、独力で法華経の現代語訳を完成させた。一個人の仕事として、まれに見る偉業である。

 翻訳は、徹底した経典理解と呼応する。植木氏はまず、経典名を《白蓮華(れんげ)のように最も勝(すぐ)れた正しい教え》と訳す。法華経の中心思想については《三乗のすべてを一仏乗に導く。そしてすべてを成仏させる》のが《法華経の目指したことであった》とする。くっきりと力強い理解である。

 今回の訳業は、信仰をもつ人びとにとってはもちろん、一般読者にも大いに有益だ。地味だが有意義な企画を進めた版元の英断も、企画部門の受賞にふさわしいと判断された。(橋爪大三郎


毎日新聞 2008-11-03


法華経 上―梵漢和対照・現代語訳 法華経 下―梵漢和対照・現代語訳

小田嶋隆による『広告批評』批判 その三/『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆

 これで最後。小田嶋隆の結論は鋭い。横に薙(な)いだ刀で、広告宣教師・天野祐吉の上半身と下半身は真っ二つにされてしまう。


 確認しておこう。CMは断じて(そう、断じてだ)「作品」ではない。

 なぜなら、第一にそれは、作者の意思のあらわれではなく、企業の策略の表象に過ぎないからだ。

 であるから、たとえばある商品の広告に付されたボディコピーの文章が、どんなに洗練されていようと、それは「作品」ではない。

 確かに、私より文章の上手なコピーライターはいくらもいるだろう。が、彼の書いている文章は、彼の主張でもなければ、彼の思想でもなく、それゆえに、彼の作品ではない。彼がこしらえた文章は、彼を使役している企業の戦略の一部分であるに過ぎない。

 さて、第二に、CMは、受け手(読者、観客、あるいは見物人)によって購われておらず、広告主によって購われている点において、やはり「作品」とは呼び得ない。

 私の書いている文章は、不完全であったり下品であったりするにしても、「原稿料」というものを通じて、最終的には読者からお金を頂いている文章だ。

 一方、CMの表現は、それの受け手とはまったく無縁な広告主から料金を受け取った上で書かれている。

 これは、「作品」ではない。

 少なくとも私は、そうは呼ばない。

 であるから私は、広告が「批評」の対象であるなんてことは、絶対に認めないのである。

 広告は、広告である。それは、表現であるよりは戦略であり、創作であるよりは商売であり、交流であるよりは淫売であってしかるべきもので、別段気を使(ママ)って取り扱ってあげるようなもんではないのである。

 ……などと、私ごときのものがいくらリキみかえったところで、広告は「作品」として一人歩きをはじめてしまっている。


【『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆(洋泉社、1995年)】


 常識がメディアの影響を受けて変容している。自分のモノサシがテレビによって長くなったり短くなったりしている。そんなことを痛感させられる一文だ。本書自体は、オダジマンの作品の中で特に抜きん出たものではない。しかし、こうしてテキストを打ち込んでみると、その秀逸な視点と文章に舌を巻いてしまう。と書きながらも、私は広告を文化だとする思考から抜け出せずにいる。天野祐吉の罪は根が深く、今直ぐ洗脳現行犯で逮捕してもらいたいほどである。


罵詈罵詈 11人の説教強盗へ

進化医学(またはダーウィン医学)というアプローチ/『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ


 ユニークな学術書。トリビアネタ満載。短い章立てとなっており、すんなり読める。ただし、訳文が拙い。


 進化医学の基本的な考えはこうだ――


 私たちは、自然界の生物は幸せで健康なものだと考えたがるが、自然淘汰は、私たちの幸福には微塵も関心がなく、遺伝子の利益になるときだけ、健康を促進するのである。もし、不安、心臓病、近視、通風や癌が、繁殖成功度を高めることになんらかのかたちで関与しているならば、それは自然淘汰によって残され、私たちは、純粋に進化的な意味では「成功」するにもかかわらず、それらの病気で苦しむことだろう。


【『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ/長谷川眞理子、長谷川寿一、青木千里訳(新曜社、2001年)】


 つまり、病気の至近要因と進化的要因とを区別し、「なぜそのようなDNAを持つに至ったのか」を探る医学である。もう少しわかりやすく言えば、「なぜ病気になったのか?」ではなく、「病気になる何らかの理由があるはずだ」というアプローチをする。で、「何らかの理由」とは「進化上、種(しゅ)全体にとって有利な」という意味だ。そしてDNAは「繁殖成功度を高める」方向にのみ進化し続ける。ま、必要悪としての病気と言ってよい。


 我々の身体は、暑いとダラダラと汗をかき、寒ければガタガタと震え、風邪をひけば高熱を発する。だがこれは一面的な見方で本当の意味は違う。汗をかくのは気化熱で身体を冷やすためであり、震えるのは体温を高めるためであり、高熱を発するのは体内の病原菌を死滅させるためなのだ。快適な生活空間は、こうした身体機能を損なっている可能性がある。そして対症療法的な医療も。


 仏法では生老病死と説き、成住壊空(じょうじゅうえくう)と断ずる。これ、万物流転のリズムか。ならば、病気は避けられない。となると、上手く付き合ってゆく他ない。病気を根絶することが進化上、有利かどうかは判断のしようがないためだ。その意味で、ダーウィン医学は東洋的なアプローチ法(運命論よりは宿命論に近い)といえる。

病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解