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2008-11-04

小田嶋隆による『広告批評』批判 その三/『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆

 これで最後。小田嶋隆の結論は鋭い。横に薙(な)いだ刀で、広告宣教師・天野祐吉の上半身と下半身は真っ二つにされてしまう。


 確認しておこう。CMは断じて(そう、断じてだ)「作品」ではない。

 なぜなら、第一にそれは、作者の意思のあらわれではなく、企業の策略の表象に過ぎないからだ。

 であるから、たとえばある商品の広告に付されたボディコピーの文章が、どんなに洗練されていようと、それは「作品」ではない。

 確かに、私より文章の上手なコピーライターはいくらもいるだろう。が、彼の書いている文章は、彼の主張でもなければ、彼の思想でもなく、それゆえに、彼の作品ではない。彼がこしらえた文章は、彼を使役している企業の戦略の一部分であるに過ぎない。

 さて、第二に、CMは、受け手(読者、観客、あるいは見物人)によって購われておらず、広告主によって購われている点において、やはり「作品」とは呼び得ない。

 私の書いている文章は、不完全であったり下品であったりするにしても、「原稿料」というものを通じて、最終的には読者からお金を頂いている文章だ。

 一方、CMの表現は、それの受け手とはまったく無縁な広告主から料金を受け取った上で書かれている。

 これは、「作品」ではない。

 少なくとも私は、そうは呼ばない。

 であるから私は、広告が「批評」の対象であるなんてことは、絶対に認めないのである。

 広告は、広告である。それは、表現であるよりは戦略であり、創作であるよりは商売であり、交流であるよりは淫売であってしかるべきもので、別段気を使(ママ)って取り扱ってあげるようなもんではないのである。

 ……などと、私ごときのものがいくらリキみかえったところで、広告は「作品」として一人歩きをはじめてしまっている。


【『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆(洋泉社、1995年)】


 常識がメディアの影響を受けて変容している。自分のモノサシがテレビによって長くなったり短くなったりしている。そんなことを痛感させられる一文だ。本書自体は、オダジマンの作品の中で特に抜きん出たものではない。しかし、こうしてテキストを打ち込んでみると、その秀逸な視点と文章に舌を巻いてしまう。と書きながらも、私は広告を文化だとする思考から抜け出せずにいる。天野祐吉の罪は根が深く、今直ぐ洗脳現行犯で逮捕してもらいたいほどである。


罵詈罵詈 11人の説教強盗へ

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