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2008-11-05

新潮社側敗訴が確定=創価学会副理事長の名誉棄損−最高裁


週刊新潮」の記事で名誉を傷つけられたとして、創価学会の山本武副理事長が発行元の新潮社などに1100万円の損害賠償を求めた訴訟の上告審で、最高裁第3小法廷(堀籠幸男裁判長)は4日付で、新潮社側の上告を棄却する決定をした。創価学会側の代理人が5日、明らかにした。

 名誉棄損を認め、同社側に230万円の支払いと謝罪広告の掲載などを命じた1、2審判決が確定した。


【時事通信 2008-11-05】

嘘、悪意、欺瞞、偽善/『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ

    • 嘘、悪意、欺瞞、偽善

 ページをめくるごとに私はたじろいだ。死の臭いがそこここに立ち込めている。プリーモ・レーヴィの遺作は、遺作となることを運命づけられていた。深い思索は地表にもどることができぬほどの深淵に達していた。


 地球の中心までは6400kmもの距離がある。人類が最も深く掘った穴は、ロシア北西部のコラ半島で、たったの12.261kmだ。5000分の1ほどの距離しかない。レーヴィは多分、マントルあたりまで行き着いてしまったのだろう。岩石がドロドロに溶ける2891kmのギリギリまで辿り着いたのだ。そして、鉱物相が相転移し、不連続に増加した密度が発する震度に、読者の自我が揺り動かされるのだ。


 生っちょろい覚悟でこの本と向き合うと危険だ。この私ですら死にたくなったほどだ。プリーモ・レーヴィはアウシュヴィッツを生き延びた。そして1987年4月11日、自宅のアパートから身を投げて死んだ。強制収容所を生き抜いた男ですら、生を断念する世界に我々は置かれている。


 それよりもはるかに大事なのは動機、正当化の理由である。あなたはなぜそれをしたのか? あなたは犯罪を犯していたことを知っていたのか?

 この二つの質問への答え、あるいは同様の質問への答えは、非常によく似ている。それは尋問される個々の人物には関係がない。たとえそれがシュペーアのように、野心的で、頭の良い専門家であっても、アイヒマンのように冷酷な狂信主義者であっても、トレブリンカのシュタングルやカドゥクのような愚鈍な野獣であっても。言い回しは異なり、知的水準や教養程度の差で傲慢さに強弱はあるにせよ、彼らは実質的に同じことを言っていた。私は命令されたからそれをした。他のものは(私の上司たちは)私よりもずっとひどい行為をした。私の受けた教育、私の生きていた環境では、そうせざるを得なかった。もし私がそうしなかったら、私の地位に取って代わった別のものがさらに残忍なことをしただろう。こうした自己正当化を読むものが、初めに感じるものは嫌悪の身震いである。彼らは嘘をついている、自分の言うことが信じてもらえるなどとははなから思っていない、自分たちがもたらした大量の死や苦痛と、彼らの言い訳の間の落差を見て取ることができない。彼らは嘘をついていることを知りつつ、嘘を述べている。彼らは悪を持って行動している。


【『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳(朝日新聞社、2000年)】


 私は、パトリシア・エイルウィン(元チリ共和国大統領)の言葉を思い出した。「嘘は暴力に至る控え室である。“真実が君臨すること”が民主社会の基本でなければならぬ」――。


 レーヴィが耐えられなくなったのは、アウシュヴィッツを凌駕する嘘、悪意、欺瞞、偽善であったのか。悪臭にまみれた我々の鼻は、既に何も嗅ぎ取れなくなってしまっている。


 しかし、だ。レーヴィの鼻を通すと、そこにはもっと強烈な死臭がプンプンしているのだ。退くも地獄、進むも地獄だ。で、私は本を閉じてしまったというわけ。とにかく強靭な体力をつけておかない限り、こんな本は読めるはずがない。

溺れるものと救われるもの (朝日選書)

モルモン教の創始者ジョセフ・スミスの素顔/『信仰が人を殺すとき』ジョン・クラカワー


 正式名称は「末日聖徒イエス・キリスト教会」。「モルモン書」と呼ばれる預言書を信じるがゆえにモルモン教とも称されている。日本だけで、何と320もの教会がある。


 アメリカで実際にあった事件を辿ったノンフィクション。妻と幼い娘を殺害したのは実の兄弟だった。犯行後、まったく悪びれることなく「神の指示に従っただけだ」と平然と答えた。悪しき教義は殺人をも正当化し、一夫多妻を説いていた。


 テンプル・スクエアで真面目な若い宣教師たちが配っている教会の印刷物には、ジョセフ・スミス――いまも、教会の要となっている人物――がすくなくとも33人の女性、おそらく48人ほどの女性と結婚したという事実にはまったく触れていない。このなかでいちばん年下の夫人がちょうど14歳だったとき、ジョセフが自分と結婚するか、それとも永遠の断罪をうけるか、これは神が命じたものであると彼女に話したことも言及されていない。

 一夫多妻制は、事実、ジョセフの教会のもっとも神聖な信条のひとつであった。この教義は重要なものであり、モルモン教の初期聖典のひとつ『教義と契約』の第132章にあるように、長い間神聖視されてきたのだった。ジョセフ・スミスは、多妻結婚のことを「かつて男性に示されたこの世でもっとも神聖で重要な教義」の一部と述べていて、男性が晩年に「大きな喜び」を得るには、すくなくとも3人の妻が必要であると教えていた。


【『信仰が人を殺すとき』ジョン・クラカワー/佐宗鈴夫訳(河出書房新社、2005年)】


 へえ、「3人の妻」ね。そりゃ「大きな喜び」には違いなかろうが、女性にとってはどうなのかね? モルモン教の創始者ジョセフ・スミスはただのスケベ野郎だったに違いない。後年、一夫多妻の教義は周囲からの反発や、議会での反対決議などもあって廃止される。しかし信仰は、純粋性を増せば増すほど原理主義に傾くものだ。まして、男性にとって都合のよい教義であれば尚更だ。


 最大の疑問は、どうしてこのような程度の低い教義を支持する人々が存在したのかということだ。多分、ジョセフ・スミスは情熱的で、弁が立ち、人々を魅了する雰囲気を持っていたのだろう。ま、言ってみれば“宗教詐欺師”だ。


 人間の心理には「騙されたい」という妙な願望がある。例えば手品がそうだろう。超能力もその類いかも知れぬ。詐欺は巧妙になればなるほどスリリングな物語となる。


 これまた逆説的になるが、「支配されたい」という願望も存在する。自分よりもはるかに有能で品行方正な人物がいれば、誰だってマゾヒズムになり得る。特に、自分の頭でものを考えるのが苦手なタイプは、「よき支配者」からのコントロールを望んでいる節が窺える。


 魅力というものは、それを感じる人々をして盲目にさせる。恋はいつだって盲目だ。周囲からの助言も耳に届かない。理性は失われ、感情を正当化する論理が直ちに構築される。


 ま、これがインチキ宗教の手口だと思うよ。そして何にも増して、キリスト教の教義に、淫祠邪教がのさばる余地があるのだと私は考える。「神の名」のもとに一切が正当化されてしまう世界観は危険だ。理は信を生み、信は理を求め、求めたる理は信を高め、高めたる信は理を深からしむ――これが正しい信仰のあり方であろう。理と信とが乖離するところに邪教の邪教たる所以(ゆえん)がある。

信仰が人を殺すとき 上 (河出文庫)信仰が人を殺すとき 下 (河出文庫)