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2008-11-09

嘘つきのパラドックスとゲーデルの不完全性定理/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

「嘘つきのパラドックス」は「自己言及のパラドックス」ともいう。


「私は嘘をついている」――この言葉、嘘つきのパラドックスは、何千年にもわたってヨーロッパの思索者たちを悩ませてきた。この言葉は、もし正しければ偽りになり、偽りなら正しくなる。自分が嘘をついていると主張する嘘つきは、真実を語っていることになるし、逆に、彼が嘘をついているのなら、そう主張したときには嘘をついていないことになってしまう。このパラドックスを特化させたものはいくらでもあるが、根本はみな同じで、自己言及は問題を来たすのだ。これは「私は嘘をついている」という主張にもあてはまるし、「有限の数の語句では定義できない数」という定義にもあてはまる。そうしたパラドックスは、じつに忌まわしい。その一つに、いわゆる〈リシャールのパラドックス〉という、数の不加算性にまつわるものがある。

 ゲーデルは、そうしたパラドックス(哲学者のお好みの言葉を使えば「二律背反」)を彷彿とさせる命題を研究することで、数学的論理の望みを断ち切った。1931年に発表された論文に、非数学的表現を使った文章は非常に少ないが、その一つにこうある。「この議論は、いやがおうにもリシャールのパラドックスを思い起こさせる。嘘つきのパラドックスとも密接な関係がある」ゲーデルが独創的だったのは、「私は証明されえない」という主張をしてみたことだ。もしこの主張が正しければ、証明のしようがない。もし偽りならば、この主張も立証できるはずだ。ところがこの主張が証明できてしまうと、主張の内容と矛盾する。つまり、偽りの事柄を立証してしまったことになる。この主張が正しいのは、唯一、それが証明不可能なときだけだ。これでは数学的論理は形無しだが、それは、これがパラドックスや矛盾だからではない。じつは、問題はこの「私は証明されえない」という主張が正しい点にある。これは、私たちには証明のしようのない真理が存在するということだ。数学的な証明や論理的な証明では到達しえない真理があるのだ。

 ゲーデルの証明をおおざっぱに言うとそうなる。


【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ/柴田裕之訳(紀伊國屋書店、2002年)】


 ゲーデルの不完全性定理については、以下のページがわかりやすい――

 第1不完全性原理「ある矛盾の無い理論体系の中に、肯定も否定もできない証明不可能な命題が、必ず存在する」


 第2不完全性原理「ある理論体系に矛盾が無いとしても、その理論体系は自分自身に矛盾が無いことを、その理論体系の中で証明できない」


 ということは、だ。もし全知全能の神がいるとすれば、それは神が創った世界の外側からしか証明できないってことになる。それでも、ゲーデルは神の実在を証明しようとはしていたんだけどね。


 これは凄いよ。デジタルコンピュータが二進法で動いていることを踏まえると、数学は「置き換え可能な言語」と考えられる。そこに限界があるというのだから、人間の思考の限界を示したも同然だ。早速、今日から考えることをやめようと思う。エ? ああ、その通りだよ。元々あまり考える方ではない。


 ただし、ゲーデルの不完全性定理は、「閉ざされた体系」を想定していることに注目する必要がある。これを、「開かれた体系」にして相互作用を働かせれば、双方の別世界から矛盾を解決することも可能になりそうな気がしないでもないわけでもなくはないとすることもない(←語尾を不明確にしただけだ)。【※これは私の完全な記述ミスで「開かれた系」は系ではない。システムは閉じてこそ世界が形成されるからだ。例えば人体が開かれているとすれば、それはシャム双生児のようになってしまう。同じ勘違いをする人のために、この文章は敢えてそのままにしておく。 2010年9月3日】


 だけどさ、不完全だから面白いんだよね。物質やエネルギーを見ても完全なものなんてないしさ。大体、完全なものがあったとしても、時を経れば劣化してゆくことは避けようがない。成住壊空(じょうじゅうえくう)だわな。


「私たちには証明のしようのない真理が存在する」――そうなら、ますます生きるのが楽しみになってくるよ。科学も文明も宗教も、まだまだ発展する余地があるってことだもんね。

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

精神障害者による犯罪の実態/『偽善系II 正義の味方に御用心!』日垣隆


 日垣隆の様々なコラムが詰まった一冊。いずれも、しっかりしたデータを引用した上で検証されており、正確を期している。今時、珍しい姿勢だ。まるで、記者クラブ制度に甘んじている新聞社を嘲笑しているような気配すら窺える。そんでもって、タブーに切り込むのだから、見上げた根性の持ち主といえよう。


 たとえば、精神分裂病にともなう妄想ゆえに放火や殺人をおかしてしまうことはありえても、通貨偽造や贈収賄を分裂病との因果で論じる必要はない。また横領や恐喝や業務上過失致死傷は、精神障害者のほうがそれ以外の者より犯しがたい犯罪である。つまり、全刑法犯を分母とし精神障害犯罪者を分子としたものだけをもって、あたかも精神障害者のあらゆる犯罪が少ないかのように見せかけるのはフェアではなく、それは事実の隠蔽というほかない。

 青木医師や笠原名誉教授もよくご存知のように、なるほど《犯罪率は刑法犯でいえば検挙人員で0.1%、有罪人員では0.6%》だとしても(笠原前掲書)、《しかし、この比率は罪種によって大きく異なり、放火(検挙人員の6.3%、有罪人員の14.8%)や殺人(同6.5%、12.2%)などの凶悪犯罪では著しく高まる》のである。(前掲『精神分裂病と犯罪』)。

 日本における精神障害犯罪者の実態を初めて明らかにした法務省調査によっても、確かに精神障害犯罪者÷成人刑法犯検挙人員(1980年)は0.9%だが、こと殺人ともなればその比率は8.5%、放火は15.7%に跳ね上がる(「資料 精神障害と犯罪に関する統計」=『法務総合研究所研究部紀要』第26巻2号、83年)。

 殺人や放火という凶悪犯罪において、精神障害犯罪者の比率が1割前後にも達する事実は、これまでマスコミにおいては伏せられてきた(タブーというより記者たちの不勉強によるところが大きい)。「0.1%」というような数字は、ほとんどの読者は初めて目にしたのではないかと思う。

 諸外国の統計によっても、殺人や放火などの凶悪犯罪で、精神障害者による犯行はきわめて高い比率を占めている。たとえばアイスランドでは80年間に生じた全殺人のうち37.8%が精神障害者による、という(Petursson.H. & Gudjonsson,G.H.:Psychiatric aspects of homicide.Acta psychiat,64,1984)。「精神障害社による犯罪は多くない」という主張は、退場すべき過去のイデオロギーによる産物だった。


【『偽善系II 正義の味方に御用心!』日垣隆(文春文庫)】


 我々はともすると「精神障害者に対する偏見を抱いてはいけない」という強い思い込みによって、“平等”を演じてしまう。で、マスコミの場合はもっと酷い。容疑者に知的障害の病歴があるとわかった途端、全く報道しなくなってしまうのだ。だが、よく考えてみよう。「知的障害があるのだから仕方がない」などと被害者が思えるだろうか。中には命を奪われた人も数多くいるのだ。


 日垣隆は冷たい事実を挙げて問題提起をしているが、知的障害者が抱える問題にもきちんと触れている。


 精神病院の入院患者たちに最も恐れられている独房(特別保護室)は、刑務所にさえ存在しない非人間的な私刑(リンチ)房であり、精神障害犯罪者専門処遇施設(日本になく欧米にはある)ならば特別保護室への罰則的収容は通常一日が限度とされているのに、日本の精神病院における特別保護室には3カ月以上も収容されている患者が2000人、しかも実に1年以上も監禁されている患者が1000人におよぶという、私のような〈人権派〉にはあまりにも信じがたい現実がある(日本精神病院協会の実態調査による)。

 心神喪失認定による免責と事実不問と強制入院こそ“病者の人権”のためだと言い募ってきた人々は、この現実を何と釈明するつもりだろうか。


【同書】


 結局、知的障害者の人権を擁護する人々は、かような現実に目をつぶっていると言わざるを得ない。「ロボトミー殺人事件」というのもあった。


 今でも、子虐待をしている親には軽度発達障害の傾向が見られる。「育て方を知らなかった」と言ってしまえばそれまでだが、死んだ子供は返ってこない。人間には、よき可能性もあれば悪しき可能性もある。知恵を出し合って、現実に対処しなければ、万人が暮らしにくい社会となるのは必然である。

偽善系―正義の味方に御用心! (文春文庫)