古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

数字のゼロが持つ意味/『人間ブッダ』田上太秀

「人間ブッダ」入門。さほど宗教色はない。いや、宗教色はもちろんあるのだが、宗派性がないというべきか。本書を読むと、驚くほど釈尊(=ブッダ)が常識や道理を重んじていた事実が窺える。


 現代に生きる我々が読んでも、「フム、なるほど」と頷けること自体が、時代を経ても劣化することのない思想性を示している。釈尊カースト制度に異議申し立てをする格好で仏教を説いたとされる。つまり、単なる道理を説いたわけではなく、その根底には炎の如き批判精神が燃え盛っていたはずで、当時の人々(特に支配階層)の度肝を抜くに十分であったことと想像する。


 で、0である。ま、インドで誕生したことは知っていたが(※厳密にいうと発明されたのはバビロニアである。だがゼロの概念を構築したのはインド)、よもやこんな意味があるとは思わなかった――

 記号の0が発見されたのは、中央インドのグパリアーにある小さな寺院で、壁に270と50の数字が彫ってあり、0が小さな円で記されていたと伝えられています。これは西暦870年に彫られたものだといわれています。じつはこれより以前にブラフマグプタ(7世紀の人)が0の記号を使って計算をしていたとも伝えられていますので、すでに7世紀にはいわゆる数字の0は知られていたと考えられます。しかしその人物が使っていたことから、それ以前、おそらくは6世紀頃に数字の0は使われていたと推測できましょう。
 いずれにしても0の記号は「・」とはまったく形の違った記号です。この0の記号が古代インド人によって考え出されました。これが数字の0として後に世界に伝播(でんぱ)し、定着しました。「・」ではなく「0」という形に大きな意味があります。それまでの「・」記号から「0」の記号になった経緯は、おそらく数字の0を表わす言語の意味に秘密があると考えられます。
 数字の0を表わす原語は、サンスクリット語のシューニャという形容詞です。この語は一般には「なにもない、空っぽ、欠けている」などの意味で使われていますが、じつはこれの動詞語根は「膨(ふく)れる」という意味です。
 この語は病的にむくみや腫れ上がった状態を形容することばとしても使われていて、シューニャということばは「膨れている」の意味で使われていたようです。これが一般には「なにもない、空っぽ」の意味をもつことばで使われるようになりました。
 なぜ「膨れている」から「なにもない、空っぽ、欠けている」となるのでしょうか。
 それは風船を考えるとわかります。膨らむと形は大きくなり、中身がいっぱい詰まっているように見えます。しかし中身はなにもない、空っぽです。形はもっと大きく膨れても、その中身はなにも増えません。見せかけで実を伴っていないことがわかります。(中略)
 では、このシューニャの原語で表わされる数字の0は、最初「なにもない」という意味で使われたのでしょうか。
 たしかに数字の0はプラス(+)とマイナス(−)の両方向の起点になりますので、「なにもない」といえます。しかし、10、100のように1の数字のつぎに0を増やすと、その0は、たとえば10の0は1から9までの数を含んでいて、「なにもない」という意味の0ではありません。かぎりなく0を増やすと、その0の数はかぎりなく大きな数を含んでいることを意味しているのではないでしょうか。
 したがって数字の0は数の起点では「なにもない」の意味ですが、「無限の数」も包含する、あるいは意味する数であるといわなければなりません。


【『人間ブッダ』田上太秀〈たがみ・たいしゅう〉(第三文明レグルス文庫、2000年)】


 0って、風船だったんだね。ある時にはプラスとマイナスの境界を示し、またある時には1から9までを包含する。ということは、だ。ゼロは無であり無限であるってことになる。また、ゼロは破壊の調べを奏でる。「御破算で願いましては――」。そう算盤。


 ゼロの中に、無と有とが混在する。で、風船の中身はといえば「空(くう)」である。これ自体、仏教の影響が色濃くありそうだ。空仮中(くうけちゅう)の三諦(さんたい)。


 尚、現在アラビア数字と称されているのは、アラビア経由で輸入したインド数字という意味でヨーロッパ目線に立った言葉だ。


ゼロから無限が生まれた/『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ