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2008-12-06

18世紀のフランスは悪臭にまみれていた/『香水 ある人殺しの物語』パトリック・ジュースキント


 8月に読み終えたのだが、書くのを忘れていた。物語の織り成すアラベスクとしては、ほぼ完璧。『モンテ・クリスト伯』『スカラムーシュ』に匹敵するといってよし。池内紀の翻訳が絶品。めくるめく文章を堪能するがいい。


 不遇な少年時代を過ごした主人公グルヌイユは、人間離れした嗅覚の持ち主だった。今風に言えば、「共感覚者」となろう。悪臭紛々たる18世紀のフランスで、グルヌイユは香水の調合師となり、世の中を席巻してゆく。彼は明らかな人格障害者でもあった。鼻という武器一つで、権力を手中に収めてゆく人生模様。人々を魅了し、罠を仕掛け、操る悪意。


 18世紀のフランスはこうだった――


 これから物語る時代には、町はどこも、現代の私たちにはおよそ想像もつかないほどの悪臭にみちていた。通りはゴミだらけ、中庭には小便の臭いがした。階段部屋は木が腐りかけ、鼠の糞がうずたかくつもっていた。台所では腐った野菜と羊の油の臭いがした。風通しの悪い部屋は埃っぽく、カビくさかった。寝室のシーツは汗にまみれ、ベッドはしめっていた。室内便器から鼻を刺す甘ずっぱい臭いが立ちのぼっていた。暖炉は硫黄の臭いがした。皮なめし場から強烈な灰汁(あく)の臭いが漂ってきた。屠殺場一帯には血の臭いがたちこめていた。人々は汗と不潔な衣服に包まれ、口をあけると口臭がにおい立ち、ゲップとともに玉ねぎの臭いがこみあげてきた。若さを失った身体は、古チーズと饐(す)えたミルクと腐爛した腫れ物の臭いがした。川はくさかった。広場はくさかった。教会はくさかった。宮殿もまた橋の下と同様に悪臭を放っていた。百姓とひとしく神父もくさい。親方の妻も徒弟に劣らずにおっていた。貴族は誰といわずくさかった。王もまたくさかった。悪臭の点では王と盗人と、さして区別はつかなかった。王妃もまた垢まみれの老女に劣らずくさかった。冬も夏も臭気はさして変わらなかった。18世紀においては、バクテリアの発酵に限りがなかった。建てるのであれ壊すのであれ、のびざかりであれ、人生の下り坂であれ、人間のかかわるところ臭いなしにすむことなど一つとしてないのだった。


【『香水 ある人殺しの物語』パトリック・ジュースキント池内紀〈いけうち・おさむ〉訳(文藝春秋、1988年/文春文庫、2003年)】


 これほど鼻がムズムズする文章を読んだことがない。人は悪臭に慣れる。誰かが使用した後のトイレに入った時のように。鼻は麻痺しやすい本能だった。


 以前、テレビでやっていたのだが、異性の好ましい体臭というのは最も違うタイプのDNAを選別しているとのこと。二人の間に生まれる子供は、両親の平均値となるため、異質なタイプと掛け合わせることで強い子孫をつくろうとしているのだ。実験で使用されたのは男性が長時間にわたって着用していた下着の匂い。これを、「新しく発売する香水の試供品」と偽って女性に嗅いでもらう。すると、殆どの女性が「ウッ、臭い」と言うにもかかわらず、必ず何人かは「いい匂い」と感じる。若いお嬢さんが父親の体臭を嫌悪するのは、自分とDNAが近いせいで、長ずるにつれ嫌悪感は薄まるそうだ。


 何とはなしに、私はそういうことを直観していた。そう、匂いに敏感なのだよ。鼻が利くのさ。だから、本書で「匂いの奴隷」と化す人々の気持ちはよくわかる。もしも、私がその場にいれば多分先頭に立っていたことだろう。


 まだまだ、人生の奥深さを知らない若者に断言しておこう。異性を選ぶ基準は家柄・学歴・経済力、はたまた顔形や性格ではなく、匂いである。

香水―ある人殺しの物語 香水―ある人殺しの物語 (文春文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

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