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2008-12-11

雨宮処凛、石飛道子


 2冊挫折。


自殺のコスト』雨宮処凛/文章はいいのだが内容についてゆけない。タイトル通り自殺に関する損得勘定がずらりと並べられている。雨宮処凛は突き放したスタンスに徹している。例えば、市販されている薬の致死量、及び金額なんてものまで紹介している。やり過ぎ。寄藤文平によるカバーイラストも醜悪極まりなく、おぞましい限り。これまた、逆効果だと思われる。120ページでやめる。


ブッダと龍樹の論理学 縁起と中道石飛道子/論理学の「真理表」なるものを駆使して、龍樹の『中論』を読み解いている。アプローチとしては多分斬新なのだろうが、全くついてゆけず。90ページまでが限界。

寺請制度が坊主を官僚に変えた/『庶民信仰の幻想』圭室文雄、宮田登


 海老沢泰久の『青い空』に引用されていた一冊。そうでもなきゃ、こんな本を手に取ることはなかったことだろう。


 日本人の精神風景を考える上で寺請制度は無視できない。ま、面倒だとは思うが、以下のテキストをよく読んでもらいたい。では、予習の時間だ――

 で、寺請制度はいつから始まったのか? これについては二説ある――


 寺院がキリシタン摘発のため寺請をはじめた時期に照応するというのが現在の学界の通説である。ではその寺請はいつ頃からはじまったのか。この時期については定説を得ているとはまだ言いがたいが、現在有力な説としては二つある。第一は、慶長18年(1613)説である。これは板倉周防守重宗が京都において外人宣教師を追放し、日本人のキリスト教徒に改宗をせまった年であり、この時仏教寺院に改宗を証明させたことが『金地(こんち)因崇伝日記』や片桐勝元が有馬大膳に送った書簡などで明らかにできるからである。そして時代が下るにつれて寺請は各地にひろがり、全国的に施行されたのは寛永14〜15年の島原の乱後である。としている(豊田武『日本宗教制度史の研究』)。

 これに対する第二の説は、寛永12年(1635)説である。その理由として一つは、領主が民衆にはじめて寺請を強制した法令がこの年にみえること、二つめには、寺の過去帳にこの頃から姓のない民衆のものが急増すること、三つめには、寺請証文がこの頃から使用されるようになったこと、などである(藤井学・千葉乗隆の一連の研究)。

 現在の近世仏教における大きな見解は、この二つである。しかしいずれも、寛永期に民衆への寺請の定着を考えている点では共通している。


【『庶民信仰の幻想』圭室文雄〈たまむら・ふみお〉、宮田登(毎日新聞社、1977年)】


 ま、17世紀初頭ということでいいだろう。流れとしては、豊臣秀吉の天下統一→徳川幕府→寺請制度、である。「国家」という枠組みが、キリシタンと日蓮不受不施派を敵視することとほぼ同時にスタートしていることがわかる。そう。いつの時代にあっても国家は敵を必要とするのだ。北朝鮮という存在がなければ、右翼だって元気の出しようがないことだろう。


 で、坊主だ。寺請制度によって寺院は権力の出先機関と化した。布教する権利と引き換えにだ。こうして、僧侶は絶滅して坊主が誕生したのだ。当時の庶民は寺請証文がなければ移動することもままならなかった。関所で見せる必要があったためだ。一度、キリシタンの烙印を押されると引っ越しすら、ままならなかった。


 人々は坊主に額(ぬか)づいた。だって、逆らおうものなら寺請証文を書いてもらえないからね。それがなきゃ、自動的にキリシタンとなってしまうのだ。寺請制度は檀家制度と一体であった。昔の権力者ってえのあ頭がいい。“権力の自動律”といったものがよくわかっている。


 坊主は甘い汁を吸い続けた。法要を勧め、寺へ足繁く通うことを暗に強要した。坊主にしてみれば、寺請証文は金のなる木のパスポートだった。これぞ、究極のマルチ商法


 徳川幕府の政治的手腕には驚くばかりだ。檀家制度って、今でも残っているんだからねえ。21世紀に生きる我々は、その是非を問う発想すら持てないありさまだ。墓参りや初詣へ行く前に、少しくらいはものを考えてみるべきだろう。

庶民信仰の幻想