古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

ジェニファー・ウーレット、藤原正彦


 2冊読了。


黒体と量子猫 2 ワンダフルな物理史 現代篇』ジェニファー・ウーレット/少々中だるみはあるものの、器用な文章に引っ張られて読了。通読すれば科学史がわかったような気になってくる。突き放したような距離感のある文章が魅力的だ。


祖国とは国語藤原正彦/「国語教育絶対論」と「満州再訪記」の二本柱。合間に短いエッセイが盛り込まれている。国際派の数学者が説く国語論が圧巻。短文のエッセイは憎めない頑固親父ぶりを発揮して秀逸。満州記は、やや冗長ではあるが、『流れる星は生きている』を読んだ人なら感銘を深くすること間違いなし。山本夏彦を偲んだ一文も読ませる。

死線を越えたコミュニケーション/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル

ストレスとコミュニケーション
・死線を越えたコミュニケーション


 既に絶版となっているため、長文の引用をしておこう。本書の白眉ともいえる箇所だ。「極限状況におけるコミュニケーションの意味」を理解することができる。人は誰かとつながっているからこそ生きてゆけるのだ。極限状況と日常の差異は何か。それは、「生命の危機」への自覚があるかないかという一点に尽きる。つまり、生命が完全燃焼しようとする時、人はおのずからコミュニケーションを求め、誰かとつながる方向へ心が向かうのだ。逆説的ではあるが、人はコミュニケーションをとることで孤独に耐えられるのだろう。

捕虜たちのメッセージ


 海軍副将ジェイムズ・B・ストックデールほど苦しみを味わった捕虜はあまりいない。彼は、ベトナムの戦争捕虜として、2714日を耐えぬき、英雄的に生還した。
 ある時、北ベトナム兵がストックデールの手を背中に回して手錠を掛け、彼の足に重い鉄の鎖をつけた。そして、彼を暗い独房から引きずり出し、中庭に座らせて晒し者にした。それは、協力を拒んだ者がどのような目に会うかということを、他の捕虜に見せつけるためだった。
 その出来事を記載した海軍の公式記録によれば、ストックデールはその姿勢を3日間続けなくてはならなかったという。彼は、長い間太陽の光を浴びたことがなかったために、すぐ疲労を感じ始めた。しかし、見張り兵は彼を眠らせなかった。そして何度も殴られた。
 ある日のこと、殴られた後にストックデールは、タオルを鳴らす音を聞いた。それは、刑務所の暗号で、"GBUJS"という文字を伝えるものだった。そのメッセージを彼は決して忘れることができない。「ジム・ストックデールに神の祝福あれ。God bless you Jim Stockdale」
 アメリカにおいて近年捕らわれの身になった捕虜や人質すべてに当てはまることだが、即席かつ巧みに作り上げられたコミュニケーションが、彼らの大きな助けとなっている。ベトナムでは、叩打音が暗号として用いられた。音の数やつながりがアルファベットの文字を表わしていて、それが、捕虜たちのコミュニケーションのおもな手段になったのである。ジム・ストックデールを助けたのもこの暗号だった。
 まず、捕虜にとって、文字をつなぎ合わせて意味のあるメッセージを作れるように文字の暗号を覚えることが先決だった。しかし、すぐに彼らはそれに慣れ、そのシステムが彼らの第二の天性のようになった。孤独な捕虜たちは、壁や天井や床を叩いた。距離が近い場合には指を使った。距離が遠い場合には、拳や肘やプリキのコップを用いた。
「すぐにメッセージが、独房の一つのブロックから別のブロックへ、そしてさらには、建物から建物へ、交通のように流れていきました」と、エペレット・アルバレッツは回想する。
 最終的に、戦争捕虜たちは、叩打音を使った日常の交信をさらに発展させて、より洗練されたものを作り上げた。とくに効果的だったのは、箒で刑務所構内を掃きながら、集団全体に「話しかける」方法だった。
 ある捕虜が別の独房のそばを通りかかったときには、サンダルを引きずって暗号を流すことができた。毛布を振ったり、げっぷをしたり、鼻をかんだりして昔を出し、仲間にメッセージを送る人もいた。また、特別な才能を持っている捕虜も何人かいて、自分の意志でおならを出して暗号を送っていた。捕虜の一人は、毎日1〜2時間、昼寝をしているふりをし、いびきを立てて、皆がどのような生活を送っているか、また、彼の独房の中でどのようなことが起こっているか、ということを報告していた。
 また、身体に引っかき傷を作ってコミュニケーションするという、刑務所の中ではよく見られる方法さえ取られるようになった。反アメリカ宣言をするように強要された一人の捕虜は、誰もいない中庭を通って広場に行く途中、彼の様子を気づかって、多くのアメリカ人の目が自分に釘づけになるということがわかっていた。そこで彼は、まず「c」という文字、次に「o」という文字、そして「p」という文字の引っかき傷を作り、最後にその引っかき傷が“頑張っている c-o-p-i-n-g”という言葉になるようにしたのだ。
 5年半におよぶ捕虜生活の大半を独房で過ごした、海軍少佐ジョン・S・マッケイン3世は、次のように結論づけている。
「戦争捕虜として生き延びるために最も重要なことは、誰かとコミュニケーションを持つことでした。ただ単に手を振ったりウィンクをしたりすることでも、壁を叩いたり誰かに親指を上げさせたりすることでもよかったのです。それによってすべての状況が一変しました」
 ベトナムにおける最初の戦争捕虜の一人、ロバート・シュメイカー少佐は、仲間とコンタクトを取ることさえできれば、どのような事態でも耐えられると確信していた。彼は、独房の中で、乾いたインクの染みを見つけ、そこに何滴か水をたらして、それを再生しようとした。そして、マッチ棒をペンとして使い、トイレットペーパーの切れ端にメッセージを残した。そのメモは、受け取った人の名前を尋ねるだけの単純なものだった。彼はメモを、セメントや煉瓦が崩れ落ち、最高の隠し場所になっていたトイレの片隅に置いた。
 そして、別の捕虜が収容所に到着したということまでがシュメイカーにわかるようになった。彼は、自分が作ったメモを消しゴムくらいの大きさに折り曲げ、次にトイレに行ったときに、朋れ落ちたセメントのかけらの下に隠した。トイレットペーパーの切れ端に「持って行ってくれ」という言葉を走り書きし、便器のそばに置いておいた。そして、待ち続けたのである。
 これについてジョン・G・ハベルは、『P・O・W・(戦争捕虜):アメリカ捕虜の戦争体験決定史』という本の中で書いている。「シュメイカーは次にトイレに行ったときに、自分のメモがなくなっているのに気づいた。メモを隠した場所に、別のメモを見つけた。それは、トイレットペーパーの切れ端にマッチの燃えかすで『米国空軍大尉ストルツ』と書いてあった。あれほど興奮したことはなかった、とシュメイカーは言っている」
 苦しい体験を続けながらも、ベトナムアメリカ人捕虜は、お互いに連絡を取り合おうとする努力を決して怠らなかった。それは、一見不可能に見えるような状況下でも行なわれた。自分の排泄物を伝達手段として使うことさえあったという。最近、ストラットン大佐が回想して私に話してくれた。
「われわれは紙で船を作り、その中にメッセージを入れ、排泄物の上に浮かせました。われわれは、小さなバケツに用を足していました。そして、一人が、独房のあるブロック全体のそれを集めて、トイレに捨てることになっていました。しかし、その前にまず、大事なメモをしっかりと抜き取っていたのです。看守が、わざわざ私たちの排泄物を取り上げたりはしないだろうと、みんなが知っていたのです」

人質同士をつないだネットワーク


 連絡を取り合うことが、どうしてそのように重要なのだろうか? お互いにメッセージをやり取りすることによって捕虜たちは、強まる孤独感や絶望感を打ち破り、耐えぬく力を発揮できたのだ。
「それは、自分を癒す行為でした」とエペレット・アルバレッツは言う。「私たちは、煉瓦の壁を越えてやり取りされる沈黙の会話を通して、お互いが本当に理解し合えるようになるのです。最後には、それぞれの人たちの子ども時代、背景、体験、妻、子ども、希望、野望などについて、すべてわかるようになりました」
 また、ストックデールは次のように言っている。「それは、私たちの生活や夢を一つにつなげ合う方法だったのです」
 キャサリン・クープもこれに同意する。彼女は、テヘランで同じく人質になっていたアン・スウィフトと一緒に、毎朝目隠しをされてトイレに連れて行かれていた。その中で一人になると、二人は、仲間の人質に関する情報が何かないかとごみ箱をあさり、手紙やメモの切れ端を捜した。また、近くに捕らわれている人々が食事を終えた後に何枚の皿が洗われるか、数えようとした。ごみ容器に捨てられた鶏の骨の数も数えた。
 とうとうクープとスウィフトは、看守を説得して、同じ建物の中に捕らわれている他の6人の人質の料理を担当する許可を得た。二人は、自分たちが料理を作っている他の人質たちと実際に会うことは一度もなかったが、苦労して再生したメモのおかげで、「連絡を取り合っている」という感覚を持つことができたのだ。
 そのメモには、「コック長への賛辞」だけでなく、今後の料理に対する注文も書かれていた。
「ピーナッツバターが手に入ったら、ピーナッツバター・クッキーを作っていただけるといいと思います」あるメモにはそう書いてあった。「もう少しレタスが欲しいのですが」別のメモにはそう書いてあった。そうした秘密のメッセージには、「奥の部屋に住む少年たち」というサインがしてあった。
 クーブは、解放されて生還した後、次のように言っている。「隣の独房に自分の存在を気にかけてくれる人が誰かいると考えただけで、生きていく力がわいてきました」
 何か月もイランで捕らわれの身になりながら、その間アメリカ人の人質は、お互いに話ができないときでさえ連絡を取り、慰め合うことによって、絶望感を感じないですんでいた。
 彼らの中には、解放された後に初めて顔を合わせた人たちもいる。しかし、テヘランでお互いを引き離していた部屋の壁を通して秘かにコミュニケートし合っていたために、以前から知り合いだったかのような感情を抱いたという。
 彼らは、それぞれ隔離されていたにもかかわらず、お互いを助け合うネットワークを作り上げることによって、その試練を切りぬけたのである。これは、人生で直面する危機的状況を生きぬこうとする私たち全員に必要なものである。


【『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル小此木啓吾訳(フォー・ユー、1987年)】


「生きる意味」を問うのは誤り/『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル
対話とはイマジネーションの共有/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
コミュニケーションの第一原理/『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー


「なんでも喜ぶ」ゲーム/『少女パレアナ』エレナ・ポーター

 モンゴメリが『赤毛のアン』を発表したのが1908年で、本書が1913年だから何らかの影響は受けていることだろう。それでも甲乙つけ難い面白さだ。


 孤児となってしまった10歳の少女パレアナは、叔母のもとに預けられる。叔母は冷酷な人物だった。パレアナは父親から教わった「なんでも喜ぶ」ゲームを日常的に行う。まずは叔母の家へ引っ越した直後のこと――

 パレアナは箪笥の前に立って、さびしそうに、なんの飾りもない壁を見つめました。
「鏡のないのもうれしいわ。鏡がなければ、ソバカスも見えませんものね」


【『少女パレアナエレナ・ポーター村岡花子訳(角川文庫、1962年)以下同】


 パレアナの孤独が振動するように伝わってくる。

「あなたはなんでも喜べるらしいですね」あの殺風景な屋根裏の部屋を喜ぼうとしたパレアナの努力を思い出すと、少し胸がつまってくるような気がしました。
 パレアナは低く笑いました。
「それがゲームなのよ」
「え? ゲームですって?」
「ええ、『なんでも喜ぶ』ゲームなの」
「遊びのことを言ってるのよ。お父さんが教えてくだすったの。すばらしいゲームよ。あたし、小さい時からずうっと、この遊びをやってるのよ」


 両親を亡くした少女が力強く自分の意志で人生を謳歌してゆく。パレアナは困難であればあるほど、心を燃やして「喜び」を見つけ出す。

「喜ぶことをさがしだすのがむずかしければむずかしいほどおもしろいわ」


 常識に縛られる大人達と、自由闊達なパレアナが織り成すギャップが一つのモチーフとなっている。それでも大人達は、パレアナの明るさに魅了される。たった一人の少女の「喜び」が人々の心を溶かし、やがては町全体をも変えてしまう。


 単純と言えば単純、突飛と言えば突飛ではある。だが、女性の権利がまだまだ低かった時代に書かれた小説であることを踏まえると、女性性を見事に謳い上げた作品といってよい。また、物語というものは単純であればあるほど普遍性を増すものだ。


「なんでも喜ぶ」ゲームは、予定調和が支配する日常を打ち破る知恵そのものである。


忘年会


 焼肉チェーン店にて忘年会。肉が口に合わず。焼肉というのは忙しくてダメだ。まともに話ができない。賑やかに盛り上がるのが嫌いなわけではないが、静かに語り合える雰囲気の方が断然好ましい。