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2008-12-21

目撃された人々 22


 本日、静かに、厳(おごそ)かに、そしてひっそりと弔問する。間もなく還暦になろうとしている娘さんの涙は既に乾いていた。互いの視線が複雑に絡んでは、微妙に逸(そ)れる。揺れる視線は故人を求めてさまよった。私は寂しいわけでもなく、号泣するわけでもない。ただ心に黒々とした穴が空いただけだ。穴の重みに耐えかねて私は転びそうになった。辛うじてバランスを保ち、冬のアスファルトの道を一人歩んだ。合掌。

インプラント治療の危険性


 歯科医はその教育課程の中で、インプラントの臨床実習はない。ということは、歯科医師免許を取得してから研修することになるが、もちろん1日や2日の講習会ですべてを覚えられるものではない。ところが術式そのものはそんなに難しくなく、しかも高額の治療費を要求できるので、歯科医が安易に取り入れる傾向にある。

 まだ保存可能な歯を残す努力もしないでインプラント治療を勧める、なんて考えたくはないが、そういう話も聞こえてくる。

 半分を骨の中に埋め、残りの半分を口の中に露出しているインプラントは、常に生体の拒絶反応と感染の恐れにさらされている。そのため感染対策が十分でないと、歯周病のようにインプラントの周囲が腫れてしまい、ぐらぐらとなってインプラントを除去しなくてはならない。

 手術中に神経を傷つけて唇のまひがいつまでも続いたり、血管を切って極度の内出血が起こったりして、訴訟問題にまで発展することも多い。

 ある歯科大学の口腔(こうくう)外科の教授が「君たちの安易な手術のせいで、インプラント除去に忙殺されている私たちの身にもなってくれ!」と講演会で叫んだ声が忘れられない。


【「歯科医 つれづれ記」安田登/読売新聞 2008-12-19】

赤ちゃん言葉はメロディ志向〜介護の常識が変わる可能性/『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』スティーヴン・ミズン


 原初の言葉と音楽性との関係を探る学術書。専門性は相当高い。表紙がゴリラとなっているのがご愛嬌。


 乳児は「動き」よりも、「イントネーション」に反応するという――


 乳児とのやりとりがはじめての人も母親と同じくらい韻律を誇張し、乳児のほうもそれをよろこぶ。実験の結果、乳児は通常の発話よりIDS(※乳幼児への発話=赤ちゃんことば)を聞くのを強く好み、表情より声のイントネーションにはるかによく反応することがわかっている。未熟児も同様で、なでるなどの他のあやし方よりIDSのほうが鎮静効果がある。そして、子どもからの好意的な反応が非言語での会話をさらにうながすことになる。事実、韻律要素のひとつの機能は、大人同士の会話に必須のターン交替を引き起こすことにある。


【『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』スティーヴン・ミズン/熊谷淳子訳(早川書房、2006年)以下同】


 私は弟妹3人を育てているからわかるのだが、実はこれ、凄い指摘だ。普通は表情や動作などの動きでアプローチしがちである。日本語が漢字の象徴性に依存していることを何となく実感しているためだろう。ひょっとしたら、「いないいないばあ」も、言葉のイントネーションに反応しているかも知れない。つまり、言葉を獲得する前段階では、視覚よりも聴覚がリードしているという事実を示している。


 これらの実験は、IDSでは“メロディがメッセージである”こと、つまり、韻律だけで話者の意図をくみ取れることを示している。そのメッセージがなんであれ、子どもにとっては良いものであるらしい。乳幼児が受け取るIDSの質と量は、乳幼児の成長率と相関することが示されている。


 赤ん坊が理解するのは、言葉ではなくメロディだった。吃驚仰天。これを証明するために、複数の外国語を赤ん坊に聴かせる実験が行われた――


 結果は歴然としていた。赤ん坊は提示されたフレーズの種類にふさわしい反応をした。どの言語の発話でも、無意味語の発話でも、禁止を表すフレーズには顔をしかめ、容認を表すフレーズには微笑んだ。だがひとつだけ、さほど予想外でない例外があった。日本語で話されたフレーズには子どもが反応しなかったのだ。(アン・)ファーナルドは、日本人の母親の場合、欧州言語を話す母親よりピッチ変化の幅が狭いためと考えた。この結果は、日本人の音声表現や表情が解読しづらいとする他の研究とも一致する。


 何と外国語であっても、赤ん坊はメロディの意味を正しく理解した。ということはだよ、老人性痴呆(認知症)=幼児化と考えれば、赤ちゃん言葉のメロディ志向はメッセージの伝達性を高める可能性がある。今、私は“介護の常識”を思いっきり踏みつけたところだ。足の下でまだもぞもぞしているよ(笑)。


 介護現場では、「要介護者の尊厳」に敬意を払うよう周知徹底されているが、実際はぞんざいな言葉遣いが横行している。大抵の場合、これに腹を立てるのは家族だ。はたから見ると年寄りを「子供扱い」しているように見えてしまうからだ。


 ところがどっこい、そうではないのだ。私の身内にも失語症(高次脳機能障害)患者がいるが、私は天性の技術で意思の疎通ができる。失語症や認知症の場合、とにかく短くわかりやすいメッセージを伝えることが先決だ。発話が無理であれば、手を挙げて答えてもらうため、「――の人?」と聞くのが手っ取り早い(「疲れた人?」「寒い人?」「家に戻って寝たい人」など)。慣れてくると、3回ほどの質問で言いたいことを理解できるようになる。


 介護現場というのは、理論よりも経験則に沿った行為が重んじられる。ゆっくりと話しかけ、文節を尻上がりに間延びさせ、敬語を割愛する。すると、素人が聞けば殆ど赤ちゃん言葉になってしまうのだ。ヘルパーの皆さん、理論はここに私が構築した。思う存分、赤ちゃん言葉を使用されたし。中には、「赤ちゃんプレイ」を好むジイサンだっていることだろう。

歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化

貪るように本を読め/『モーツァルト』小林秀雄


 振り返ると小学生の時分から濫読に次ぐ濫読を繰り返して今日に至っている。本を読まなかった時期は古本屋を立ち上げてからのこと。やはり、読み物から売り物に変わってしまったことが大きい。いつ手元から巣立ってゆくかわからぬ本を読む気にはなれなかった。


 数年前から本業関連の本を読み漁り、続いて経済書をひもといた。そして、福岡伸一の『もう牛を食べても安心か』が読書意欲に火を点け、マーク・ブキャナンの『複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線』で爆発した。今年は多分250冊以上読破しているだろう。


 努めて濫読(らんどく)さえすれば、濫読になんの害もない。むしろ濫読の一時期を持たなかった者には、後年、読書がほんとうに楽しみになるということも容易ではあるまいとさえ思われる。読書の最初の技術は、どれこれの別なく貪(むさぼ)るように読むことで養われるほかはないからである。


【『モーツァルト』小林秀雄(集英社文庫)】


 数多くの本を読み抜くと、興味や知識の根っこがどんどん枝分かれし、養分を求めては地中深くへ伸びてゆく。こうして心に響いた言葉同士が共鳴音を奏でる。ジャンルの異なる本の中に共通点を見つけるのは決して珍しいことではない。この「つながる快感」から新しいアイディアが生まれる。目の前が開けるような思いになるのは、知恵の閃光が脳内でほとばしっているためだろう。


 集英社文庫は既に絶版。現在刊行されているのは新潮文庫のみ。

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

枕がないことに気づかぬほどの猛勉強/『福翁自伝』福澤諭吉


 福澤諭吉緒方洪庵適塾で学んでいた時のエピソード――


 およそこういう風で、外に出てもまた内にいても、乱暴もすれば議論もする。ソレゆえ一寸(ちょいと)と一目(いちもく)見たところでは──今までの話だけを聞いたところでは、如何にも学問どころのことではなく、ただワイワイしていたのかと人が思うでありましょうが、そこの一段に至っては決してそうではない。学問勉強ということになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われるその一例を申せば、私が安政3年の3月、熱病を煩(わずろ)うて幸いに全快に及んだが、病中は括枕(くくりまくら)で、座蒲団か何かを括って枕にしていたが、追々元の体に回復して来たところで、ただの枕をしてみたいと思い、その時に私は中津の倉屋敷に兄と同居していたので、兄の家来が一人あるその家来に、ただの枕をしてみたいから持って来いと言ったが、枕がない、どんなに捜してもないと言うので、不図(ふと)思い付いた。これまで倉屋敷に一年ばかり居たが、ついぞ枕をしたことがない、というのは、時は何時(なんどき)でも構わぬ、殆んど昼夜の区別はない、日が暮れたからといって寝ようとも思わず、頻(しき)りに書を読んでいる。読書に草臥(くたび)れ眠くなって来れば、机の上に突っ臥(ぷ)して眠るか、あるいは床の間の床側(とこぶち)を枕にして眠るか、ついぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどということは、ただの一度もしたことがない。その時に初めて自分で気が付いて「なるほど枕はない筈だ、これまで枕をして寝たことがなかったから」と初めて気が付きました。これでも大抵趣がわかりましょう。これは私一人が別段に勉強生でも何でもない、同窓生は大抵みなそんなもので、およそ勉強ということについては、実にこの上に為(し)ようはないというほどに勉強していました。


【『福翁自伝』福澤諭吉/富田正文校訂(岩波文庫、1978年)】


 枕がなかったことに気づかなかったというのだから凄い。文字通り寝食を惜しんで勉学にいそしんでいたことがわかる。当時の学問は、国の行く末を決定づけるものであった。青年の自覚と責任は、これほどの集中力を生み出すのだ。


 小難しい本を読んでいると、必ず思い出されるエピソードである。

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

人を殺してはいけない理由/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥


【※本当は12月20日に書いているのだが、量が多くなってしまったため、翌日分とした】


 オウム真理教が跋扈(ばっこ)し、酒鬼薔薇事件が世間を騒然とさせた直後から、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いが子供達から発せられるようになった。


 私に尋ねる者がいれば、2〜3発ぶん殴ってから、思い切り首を絞めて「何となく想像はつかないか?」と静かに語ってやるところだ。わからないのであれば、わかるまで教えてやるよ。教育の基本は、“わかりやすい原理”を示すことである、というのが私の持論なのだ。


 ところが、世の大人どもはたじろいだ。目を伏せ、返答に躊躇(ちゅうしょ)してしまった。成り立たせてはいけない質問を肯定してしまったのだ。これ以降、メディアの言論も迷走を始めたように思う。コメンテーターは人間が抱える矛盾に対して、訳知り顔でものわかりのよさを示すようになった。唾棄すべき言動が飛び交うたびに、我が家のテレビは唾にまみれ、既に溶けてなくなってしまった(ウソ)。


 友岡雅弥は、仏教の本義を踏まえた上でこう綴っている――


 人間が生まれてくることに、人間が生きることに、小難しい理由などないように、殺していけない、つまり人の生を中断させてはいけなことにも小賢しい理由などないのです。生まれていい理由などないように、殺していい、つまり人生を途中でやめさせる理由などないのです。(この「理由などない」ということが、これも今世紀最大の思想家の一人、ヴァルター・ベンヤミンが『暴力批判論』で言った「神的暴力」なのでしょう)

 レヴィナスの指摘のように「汝、殺すなかれ」というのは、上からの命令ではありません。殺される瞬間の殺される人間の叫びなのです。殺されるものたちの「殺さないで」という呼びかけが、至上命令の形で、心に傷をつけ、中止への行動を迫るのです。


【『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥第三文明社、2000年)】


 千鈞の重みのある言葉だ。かようなまでに生命は重いのだ。平和とは、万人が生命の重みを不動の域に高めた時に創出されるのだろう。縁起という思想が、自己と他者のつながりを示したものであるならば、他者の否定はそのまま自己の否定へとつながる。


 システムとしての暴力を振るう国家・官僚・軍隊・警察には「顔」がない。なぜなら、いともたやすく他者を否定する彼等の行為が、自分達の存在性を軽(かろ)しめているからだ。

ブッダは歩むブッダは語る―ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う