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2008-12-25

安斎育郎、山本周五郎


 2冊読了。


霊はあるか 科学の視点から』安斎育郎/科学の視点から霊を読み解く。ややくどい記述はあるものの、そこそこ面白かった。ただ、結論としては養老孟司に軍配が上がる。


日日平安』山本周五郎/10年ぶりに周五郎を読んだ。涙が噴き出たのは土田世紀の『同じ月を見ている』以来か。11編の短編がバラエティに富んでいる。武家もの、人情もの、そして推理ものといった趣がある。周五郎の小説群には、人間を再発見させるほどの力がある。本書を読まずして、読書の至福を語る資格はないとまで言いたくなる。

野球人・王貞治の悟りと怒り/『回想』王貞治


 福岡ソフトバンクホークスの王貞治監督が今シーズンで引退した。WBCの第1回大会で日本チームを優勝に導いたドラマは今尚記憶に新しい。癌ですら、野球に懸ける情熱を阻むことはできなかった。グラウンドに再び立った時の痩せこけた頬は、まぎれもなく修行者のものだった。


 私は中学の時、野球をしていた。監督が早稲田実業の野球スタイルに傾倒していて、中学の野球部とは思えないほどの厳しい練習を課した。私は2年でレギュラーとなり、3年で4番打者となった。さほど才能がないこともあって、この2年間は日々150回の素振りを繰り返した。最後の中体連では札幌で優勝したものの、全道大会の準々決勝でサヨナラ負けを喫した。翌日の「北海タイムス」スポーツ面には、小さいながらも「手稲東敗れる」との見出しが躍った。


 監督は、何度となく王選手(当時はまだ現役だった)のエピソードを語った。私は、憧れというよりは、むしろ敬意を抱くようになっていた。中学生の私から見ても、長嶋茂雄は軽薄に映った。それに比べて王貞治はストイックな紳士であった。


 常に挑戦する心を持ち続けること、これは野球の世界だけではなく、どの世界にいても大事なことだという気がする。

 野球選手の場合は、もっとうまくなりたい、もっと遠くへ飛ばしたい、もっと速い球を投げたい、というような“もっと、もっと”という貪欲さを失わなければ、こういう不断の挑戦を自分のものとして保持し、持続することができる。(中略)

 挑戦心を持続するには、いつも「なぜ?」という疑問を持っていることが必要だ。

 よりうまくなりたいと思えば、肉体や精神の苦しみも倍加する。しかし、苦しんだ分だけうまくなれば、うまくなるためには苦しむのが当然だと思えるようになる。こうなったらシメたものだ。

 なぜなら、上手にやれるものほど、やって楽しいし、楽しければ、それに伴う苦しみもまた楽しみに変えることができる、という不思議な能力を人間はもっているからである。

 他の社会の醒めきったような人から悟りきったような口調で、

「たかが野球じゃないか」

 といわれるくらい腹の立つことはない。

 野球をただの遊びと考えている人には「たかが」かも知れないが、人生を賭けてまで野球を追いつめていって、その奥行きの深さ難しさを知った者の口からは、「たかが」などという言葉は、たとえ頭のてっぺんに五寸釘を打ち込まれても出てこないだろう。


【『回想』王貞治(勁文社、1981年/ケイブンシャ文庫、1983年)】


 ここには、王貞治の悟りと怒りが鮮やかに描かれている。悟りは煩悩側菩提の領域に達しており、怒りは鬼神の如く激しい。いずれも深き人生を思わせる内容である。


「たかが野球」とは、寿司屋に偶然居合わせた数学者が放った言葉だと記憶している。何とはなしに「広中平祐かな」と邪推した覚えがある。


 王貞治にとって、野球とは単なる職業ではなく、スポーツですらなかった。それは、野球道という果てなき世界であった。王貞治は野球に生きた。野球こそ自分であり、自分は野球と化していた。だからこそ、野球を嘲笑う人間は許せなかった。


 一本足打法は、天井から糸で吊るされた紙を日本刀で斬る訓練から生み出された。王貞治という野球人は、最後までその真剣を手放さなかった。

王貞治―回想 (人間の記録)

生産性の追及が小さな犠牲を生む/『知的好奇心』波多野誼余夫、稲垣佳世子


 資本主義という運動会では、皆が皆走り回っている。いや違うな。ともすると、競争原理という言葉が合理を象徴しているように見えるが、実際はもっと残酷だ。足の遅い者が落伍する仕組みなのだから。つまり、資本主義は鬼ごっこなのだ。


 鬼となった連中には、漏れなく貧しい生活と苛酷な労働が与えられる。労働の対価は正当に評価されることなく、余剰価値は誰かがかっさらってゆく。多分、高額納税者の奴等だ。あいつらは、国家予算を割り当てられる恩恵に浴しながらも、労働者から平然と搾取するのだ。こうして、官僚の天下り先には潤沢な資金が提供される。


 教育現場も競争が支配している。文部省の教育大綱が見直されるのは、決まってOECD(世界協力開発機構)などによる学力ランキングの発表後だ。そもそも教員自体が、教員採用試験→教頭試験→校長試験→教育委員会という官僚コースに身を置かされている。大学教授なんてえのあ、もっと生臭い世界だろう。


 もちろん、すべての管理が否定されるべきだ、というわけではない。ただ管理の目標が、従来は「生産性を最大にする」ところにおかれやすかった点は、反省する必要があると思う。(中略)この考え方は、つきつめていくと、全体の幸福のためには、個々の小さな犠牲はやむをえない、ということになる。この枠内で考えていくかぎり、「内発性」はいつもある種の「強制された」性格を持つ。「その人自身の自己表現」ということより、「全体への貢献」が第一に要求されているからだ。


【『知的好奇心』波多野誼余夫〈はたの・ぎよお〉、稲垣佳世子中公新書、1973年)】


 教育現場における生産性とは、平均点アップ、有名校への進学と考えてよかろう。競争に勝つための管理は必然的に成果を求める。教員による児童への全人的な関わり合いなど評価の対象とならない。点数こそ全てだ。


 内発性までもが強制されているとすれば、これはもう完全なマインド・コントロール下に置かれている事実を示しているといってよい。日本人の小市民的順応性が、郷に入っては郷に従い、学校に入れば学校のルールに従い、会社に入れば会社の方針に従うことを余儀なくする。


 そもそも、全体の幸福のために我が身の犠牲を厭(いと)わないことを、我々は美徳であると信じ込んでいるではないか。これじゃあ、国家ぐるみのマルチ商法だよ。販売している商品名は「犠牲」。


 ひょっとすると我々庶民は、生贄(いけにえ)として祭壇の上で一生を過ごしているのかも知れない。

知的好奇心 (中公新書 (318))

奴隷は「人間」であった/『奴隷とは』ジュリアス・レスター

 動物は腹が満たされれば殺すことはしない。食物連鎖という生態系の輪からはみ出ているのは人間だけだ。他の動物には見られない支配欲、権力欲、政治欲を満足させる目的で殺す。あるいは、いつでも殺せることが可能であることを示して、生きたまま殺し、死んだ状態で生かす。これが奴隷だ。


 コロンブスはアメリカ大陸を発見し、その後スペイン人キリスト教徒が1200万人もの先住民を殺戮した。アメリカ大陸にはタバコ、綿花、砂糖が豊富にあった。では、誰がそれらを生産するのだろうか? そう。アフリカ系黒人だ。最初のアメリカ製の奴隷船は「欲望号」という名前であった。

 元々、キリスト教ヨーロッパ社会は身分制度によって成り立っていた。かの国の文学をひもとくと、そこには必ず執事・従者・小間使い・ハウスキーパーが登場する。いわゆる「召し使い」という文化が完全に根づいている。秋葉原の「メイド文化」とは明らかに異質なもので、雑用を他人にやらせる発想こそ、奴隷制度の温床ではなかったか。その根底にあるのは、キリスト教の抱える差別観に他ならない。


 奴隷とは。自動車や家や机が所有されるように、他の人間によって所有されるとは。売りとばされる財産の一部として生きるとは、──母親から売られていく子供、夫から売られていく妻。人間とは考えられずに、ひとつの《物》として考えられるとは。その《物》は、畑を耕し、木を切り、食物を料理し、他人の子供を養育する。その《物》の唯一の機能は、読者よ、あなたならあなたを所有する人間によって、決定されてしまうのだ。

 奴隷とは。苦悩と権利剥奪にかかわらず、じぶんが人間であると、おまえなんか人間じゃないというものよりも、もっとじぶんのほうが人間的であると知るとは。喜び、笑い、悲しみ、涙を知り、しかもそれでいて、机と同等のものとしてしか考えられないとは。

 奴隷であるとは、人間性が拒まれている条件のもとで、人間であるということだ。かれらは、奴隷ではなかった。かれらは、人間であった。かれらの条件が、奴隷制度であったのだ。


【『奴隷とは』ジュリアス・レスター/木島始、黄寅秀〈ファンインスウ〉訳(岩波新書、1970年)】


 現代においても、「人間性が拒まれている条件」はそこここに存在する。我々は皆奴隷だ。

 人々は、社会の奴隷であり、会社の奴隷であり、金銭の奴隷であり、時間の奴隷であり、欲望の奴隷であり、情報の奴隷であり、神仏の奴隷である。そして我々は搾取(さくしゅ)された後で、わずかばかりの自由を楽しんでいるのだ。それは、30センチの定規の中の5ミリ程度の自由だ。そう。自由は“誤差の範囲内”に収まっている。


 人間を支える脳というネットワークシステムは、そのまま外側に同様のネットワーク体制を築く。ヒエラルキーというピラミッドは、自由に動かせる手足を求める。権力は腐敗するが、なくなることはない。


 歴史という大波の中で、翻弄された人々は数知れず。彼等の怒りや、彼女等の涙が歴史に記されることはない。そこに想像力を働かせることができなければ、人類は永遠に奴隷であり続けることだろう。奴隷は「人間」であった。そして、奴隷制度をつくったのもまた「人間」であった。

奴隷とは