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2009-01-31

週刊新潮・名誉棄損損賠訴訟:野中氏への名誉棄損認め、新潮社に賠償命令


 自民党の野中広務元幹事長が週刊新潮の記事で名誉を傷付けられたとして、発行元の新潮社に5500万円の賠償を求めた訴訟で、東京地裁は30日、110万円の支払いを命じた。同誌は07年9月、「やはり『密室』で総理を決めた『新5人組』の暗躍」と題し、野中氏や森喜朗元首相らが密会して福田康夫前首相の擁立を決めたと報じた。笠井勝彦裁判長は「真実とは証明できない」と判断した。


【毎日新聞 2009-01-31】

集中とは孤独・内閉に向かう力/『集中力がつく本』多湖輝


 集中力とは時間を忘れることのできる力だ。つまり、相対性理論から見れば、思考のスピードが光に近づいているといえる。多分。っていうか、そう言いたいんだよ、俺は(笑)。


 天才の心の中にひそむ、炎のような情熱と創造への意志は、それ自体ひとつの謎であり驚異でもあるが、これを現実の偉大なる業績に結びつけたものは、彼らの精神が持つ、極度の集中力であった事は間違いない。いわば“天才”とは、集中力の達人と言い換えてもよい。


【『集中力がつく本』多湖輝〈たご・あきら〉(ゴマブックス、1981年)以下同】


 また、集中力と聞けば誰もが虫眼鏡で太陽光線を一点に集める様相を思い浮かべることだろう。そう。集中力とは他のものを見えなくする力でもある。「あなたしか見えない」ってわけだな。


 実はこの本、上京直後に品川区のゴミステーションで拾ってきたものだった。よもや、これほどの言葉に巡り合えるたあ思わなかった――


 集中とは、孤独・内閉に向かう力だ。


 痺れるね。クウー、堪らん。羽生善治の言葉を思い起こす。集中力とは、無我夢中で没頭する積極的な生きざまそのものだ。何かに熱中できることは、それ自体が才能と言える。我を忘れて生きろ。気がついたら死んでいた――そんな人生を歩みたい。

集中力がつく本

2009-01-30

噴水のように噴き上がる怒り/『北の大地に燃ゆ 農村ユートピアに賭けた太田寛一』島一春


 島一春はこの一冊しか読んだことがないが、人間味を鮮やかに捉える筆致が忘れ難い。太田寛一は農協運動に身を捧げた人物。


「もっと辛辣で、もっとあくどい業者だっているんだよ。それを思うと、血が騒ぐというか、怒りが胸の底から噴水みたいに噴きあがってくるんだ」


【『北の大地に燃ゆ 農村ユートピアに賭けた太田寛一』島一春(第三文明レグルス文庫、1986年)】


 先日、30代のお母さんから娘がイジメに遭っているようだと聞かされた。話し振りからは、まだ深刻さが窺えなかった。呑気な母親だった。私は矢継ぎ早にアドバイスした。「まず実態を知ることだ」「子供が話したがらないようなら、無理に聞くことはない」「子供の友人にも尋ねてみる」「子供からのサインを絶対に見逃すな」「クラス替えが不可能であれば、転校も考えるべきだ」「最終的には“逃げる”か“戦う”かしかない」「相手の子供を殺すつもりで脅すのも手だ」などなど。


 それからというもの、この子供のことが頭から離れない。私の心の真ん中に重石が置かれてしまった。今日もじっと涙をこらえているかも知れない。そして、心の傷口を広げながらもたった一人で孤独に耐えているのだ。


 加害児童は母親から虐待されているようだという。だからといって、許される問題ではない。私に依頼があれば、あっと言う間に解決してみせる。その時は、どんな卑劣な手段も辞さないだろう。

北の大地に燃ゆ 農村ユートピアに賭けた太田寛一

2009-01-29

世界の子供が俳句に挑戦/『地球歳時記'90 世界こども「ハイク」コンテスト'90』日航財団編


 1990年に大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」に合わせて、日航財団が世界の子供達から「ハイク」を募集。その入選作を編んだのが本書。狙いは素晴らしいのだが、本の作りがイマイチ。財団という性質上、報告的な要素を盛り込んでいて、中途半端に子供達を利用している印象を受けた。こういうのはスパッと短い冊子にして、もっと多くの読者にアピールする方が効果的だと思われる。


 小さな緑の生き物が育つ

 ぼくのきたないロッカーの中の

 ハムサンドの上

(アシュリー 7年13才 カナダ)


【『地球歳時記'90 世界こども「ハイク」コンテスト'90』日航財団編(学生社)】


 子供はボキャブラリーが少ないため、似たような句が多い中、異才を放つ作品。2行目で「落とす」ところが男の子らしい。真夏だったのかね。カビを「小さな緑の生き物」と捉えた視点が素晴らしい。腐敗の中で育つ生命の神秘。

地球歳時記'90 世界こども「ハイク」コンテスト'90

丸井今井:民事再生法の適用申請へ 負債総額400億円超


 経営再建中の百貨店「丸井今井」(札幌市中央区、畑中幸一社長)が29日にも民事再生法の適用を札幌地裁に申請する方向で検討していることが28日、複数の関係筋の話で分かった。負債総額は400億〜500億円とされる。05年から「伊勢丹」(東京都新宿区)に支援を求めて経営再建に取り組んでいたが、道内経済の低迷の影響もあって08年7月期決算では6億3300万円の経常赤字を計上していた。

 丸井今井は1872(明治5)年創業の小間物店から始まった道内の老舗百貨店。道内各地に店舗を展開したが、バブル期の拡大路線で負債が膨れあがり、97年の旧北海道拓殖銀行の破綻(はたん)によって経営危機が表面化。05年には会社を分割し、北海道銀行などが新会社に出資して2度目の経営再建に乗り出した。07年には札幌本店の紳士服・食品フロアの大改装にも踏み切ったが、集客を伸ばすことはできなかった。

 05年10月には小樽店と苫小牧店、06年8月には釧路店を閉店し、最大7都市にあった店舗は札幌、函館、旭川、室蘭を残す状態となっていたが、道内を代表する老舗百貨店の破綻でさらなる景況感の悪化を懸念する声が出ている。


【毎日新聞 2009-01-29


「あの丸井が……」と私は息を飲んだ。ま、札幌に住んでなくっちゃわからないよね。すすきのにあるロビンソン百貨店もこの18日に閉店している。これで商業地の不動産価格が下落し、一気に北海道の経済は冷え込むことだろう。今月発表されている上場企業の四半期決済も大半が赤字となっている。リストラを甘くしてきた企業は皆潰れるとまで囁かれている。

2009-01-28

破滅的な人生を歩んだ将棋の天才/『真剣師 小池重明 “新宿の殺し屋"と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯』団鬼六


 賭け将棋を「真剣」といい、これで飯を食う人物を「真剣師」と呼ぶそうだ。小池重明〈こいけ・じゅうめい〉は最後の真剣師だった。


 本格的に将棋を学び始めたのが高校生の頃で、熱中するあまり「学校の勉強をしない」と決意するほどだった。インチキ傷痍軍人の父と、娼婦の母に育てられた小池は幼いうちから賭博に慣れ親しんで育った。


 賞金が出ないという理由でタイトルとは無縁であったが、周囲の声に押されて参戦。常に前日の夜から朝方まで飲み明かし、対局中であるにもかかわらず横になって眠ることがしばしばあった。それでも優勝を収め、2連覇も成し遂げている。


 また、角落ちながらも、大山永世名人・中原名人をも打ち負かす天才だった。


 一方、破滅的な性格の持ち主で、恩人の金に手をつけ、女との逃避行を繰り返した。そして、アルコールが小池の身体を蝕み続けた。肝不全で入院し、自らチューブを引き抜いて死亡。余命いくばくもない中での自殺であった。


 小池は終生、放浪癖の抜けなかった天衣無縫の人間だった。女に狂い、酒に溺れた荒唐無稽な人生を送った人間だった。

 人に嫌われ、人に好かれた人間だった。これほど、主題があって曲がり角だらけの人生を送った人間は珍しい。

 小池の晩年は不遇であった。しかし、それは小池を愛惜する言葉にはならない。真剣師が不遇な生涯を送るのは当然で、それは本人も意識していたことだろう。

 あれだけの将棋の天才でありながら、たった一つしかない人生にそれを生かしきることができず、44年の短い生涯を酒と女に溺れて使いきってしまった男である。

 天才とは醜聞を起こし得る一面をもつ、という芥川龍之介の言葉があるが、小池はそういう意味の天才であったのではないかと思う。とにかく、面白い奴だった。そして、凄い奴だった。


【『真剣師 小池重明 “新宿の殺し屋"と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯』団鬼六(イースト・プレス、1995年)】


 団鬼六も迷惑を被った口だった。それでもこんな文章で締め括るところが粋である。小池重明という男は、人間の善悪をさらけ出しながら、将棋盤の上を駆け巡った流星だった。

真剣師小池重明 (幻冬舎アウトロー文庫)


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2009-01-27

ローリー・リン・ドラモンド


 1冊読了


 14冊目『あなたに不利な証拠として』ローリー・リン・ドラモンド(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、2006年)/駒月雅子訳。アメリカ探偵作家クラブ最優秀短篇賞作品。短篇集である。5人の婦人警官が主人公。これはミステリではない。警察を舞台にした文学作品である。好きな筋運びではないが、それでも読ませられてしまった。それほど文章が秀逸。ガチガチのリアリズムに貫かれながらも、時折見せる女性らしさがいい。高村薫を硬派にした印象を受けた。まあ、それにしても凄い新人が登場したものだ。

2009-01-26

新潮社に990万円の賠償命令 楽天社長らの名誉棄損


 週刊新潮の虚偽の記事で社会的評価が低下したとして、楽天と同社の三木谷浩史社長らが発行元の新潮社などに計14億8000万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁(原優裁判長)は26日、記事が名誉棄損にあたると認め、新潮社側に計990万円の支払いを命じた。

 問題となったのは、週刊新潮2006年9月7日号の「水面下で捜査が進む 『楽天』三木谷社長の『Xデー』」の見出しと記事など。TBS株をめぐるインサイダー疑惑で三木谷社長が東京地検から事情聴取されたなどと報じた。

 原裁判長は「新潮社の取材結果はいずれも伝聞にすぎず、三木谷社長への捜査を否定する取材結果も複数あった。記事を事実と認めることはできないし、新潮社が事実と信じる理由があったともいえない」と指摘。楽天への賠償額を550万円、三木谷社長への賠償額を440万円と算定した。


日本経済新聞 2009-01-26】

2009-01-25

ヤン・カールソン、日航財団、山崎和邦、チャールズ・サイフェ


 1冊挫折、3冊読了。


 挫折5『真実の瞬間 SAS(スカンジナビア航空)のサービス戦略はなぜ成功したか』ヤン・カールソン(ダイヤモンド社、1990年)/堤猶二訳。文章がしっくりこなかった。前置きも長過ぎる。


 11冊目『地球歳時記'90 世界こども「ハイク」コンテスト'90』日航財団編(学生社、1991年)/大岡信編『折々のうた 第十』でも取り上げられていた句集。「花博」の開催に合わせたイベントだった模様。後半は各国語でそのまま掲載されている。伸び伸びとした句もあるが、全体的には散漫な印象を受けた。


 12冊目『投機学入門 不滅の相場常勝哲学』山崎和邦(ダイヤモンド社、2000年)/再読。「機(チャンス)」に「投」ずるのが本来の意味であると開き直る姿がいい。ビジネス畑を歩いてきた人だけに実学的な要素が強い。


 13冊目『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ(早川書房、2003年)/林大訳。名文でぐいぐい読ませる。西洋が長らくゼロを否定したのは、神以外の“無限”を認めるわけにいかないためだった。ゼロを機軸に数学から物理学までをカバー。ゼロは無であり無限でもあった。

生き生きとしたアメリカのスケッチ/『チャーリーとの旅』ジョン・スタインベック


 竹内真の新訳。実にあっさりした文体となっている。功成り名を遂げたスタインベックがキャンピングカー(ロシナンテ号)でアメリカ再発見の旅に出る。愛犬のチャーリーを伴って。


 文豪の手にかかると、何気ない日常の風景が生き生きと躍動するスケッチ画となる。


(※ケベック州から出稼ぎに来ている十数人の家族に、高級ブランデーを振る舞う)コニャックは実に実に美味かった。最初に乾杯の声を上げて口をつけた時から男たちの兄弟愛が膨らみ、ロシナンテ号をいっぱいに満たした。――もちろん姉妹愛も一緒である。

 みんなお代わりを遠慮したが、私はそれでもすすめた。とっておくほどの量ではないからと3杯目も注いで回った。みんなで分けるにはちょっとずつしにしかならなかったが、おかげでロシナンテ号では人間の素晴らしさを味わうことができた。それは家じゅうを、いやこの場合はトラックじゅうを祝福する魔法だ。

 9人の者たちは静けさの中で結びついた。手足が体の一部であるように、9人でありながら一体となったのだ。別々でありながら分かちがたく結びついていたのである。ロシナンテ号は喜びに包まれ、決してさめることはなかった。


 これほどの一体感は長くは続かないものだし、長引かせるべきでもない。

 家長が何か合図をし、客人たちはテーブル周りの窮屈な席からにじり出た。こんな場合にふさわしく、さよならの挨拶は短くて礼儀正しいものだった。


【『チャーリーとの旅』ジョン・スタインベック/竹内真訳(ポプラ社、2007年)】


 擦れ違うような一瞬の出会いに情感が通う。祝杯を挙げるのに相応しい人達だ。節度が好ましい距離感を保ち、鮮やかな余韻を残す。人間の善き一面が照らし合う時、平和は出現するのだ。ロシナンテ号は確かに平和だった。


 政治と宗教、民族と教育が戦火の原因であれば、そんなものは最初からない方がいいに決まっている。

チャーリーとの旅

松下幸之助の自負/『若さに贈る』松下幸之助


 ちょうど一年前、松下電器産業はパナソニックに社名を変更した。「ナショナル」という名前も消えた。


“経営の神様”は尋常小学校を4年で中退し、丁稚奉公に出された。大阪の路面電車を見て感激し、電気に関わる仕事を志す。電球の取り外しができるソケットを考案し独立。後に二股電球ソケットが爆発的なヒット商品となる。


 5年ほど前、当時のソ連のミコヤン副首相と会ったときも、2時間ばかりのあいだに、人民解放の話が出ましたが、なごやかな話のふんいきのなかで、わたしは、あなたは人民を解放したといわれるが、日本の婦人解放をじっさいにやったのは、このわたしだ、と笑いながらいったものです。

 それはどういうわけか、とミコヤン氏がいうので、今日、日本の婦人たちは、台所にしばられていた以前にくらべて、遊ぶ時間ができ、本を読む時間をたくさんもつようになっているが、それは、わたしが家庭電気器具をずっとつくってきて、それを普及させたからだ、といったのです。するとミコヤン氏は、わたしの手をぐっとにぎって、おまえは資本家ではあるが、偉いといいました。


【『若さに贈る』松下幸之助(講談社現代新書、1966年)】


 ここに松下幸之助の自負がある。彼は単に物を売る商売人ではなかった。国民の生活を豊かにし、国家の将来を明るい方向へリードしようとした。松下が展開したPHP運動が本物であるならば、松下政経塾出身の議員が松下以上の存在感をもって政界再編の礎石となるべきだ。と期待はするものの、現状はまだまだ書生っぽさが抜けませんな。


若さに贈る

2009-01-24

矢口新


 1冊読了。


 10冊目『実践 生き残りのディーリング矢口新(パンローリング、2001年)/これで三度目の読了。債券・為替ディーラーの教科書。相場の哲学が闊達な文章で綴られている。中級者向け。

2009-01-23

見捨てられた子供の叫び/『わたしの出会った子どもたち』灰谷健次郎


 これはドラマでも引用された詩である。何度読んでも涙が止まらなかった覚えがある。親にどんな事情があったかは知らぬが、子供にこんな思いをさせるのは許されないことだ。


 がっこうから うちへかえったら

 だれもおれへんねん

 あたらしいおとうちゃんも

 ぼくのおかあちゃんもにいちゃんも

 それにあかちゃんも

 みんなでていってしもうたんや

 あかちゃんのおしめやら

 おかあちゃんのふくやら

 うちのにもつがなんにもあれへん

 ぼくだけほってひっこししてしもうたんや

 ぼくだけほっとかれたんや


 ばんにおばあちゃんかえってきた

 おじいちゃんもかえってきた

 おかあちゃんが 「たかしだけおいとく」

 とおばあちゃんにいうてでていったんやって

 おかあちゃんが ふくし(福祉事務所)からでたおかね

 みんなもっていってしもうた

 そやから ぼくのきゅうしょくのおかね

 はらわれへんいうて

 おばあちゃんないとった

 おじいちゃんもおこっとった


 あたらしいおとうちゃん

 ぼく きらいやねん

 いっこもかわいがってくれへん

 おにいちゃんだけケンタッキーへつれていって

 フラドチキンたべさえるねん

 ぼくつれていってくれへん


 ぼく あかちゃんようあそんだったんやで

 だっこもしたった おんぶもしたったんや

 ぼくのかおみたら じっきにわらうねんで

 よみせでこうたカウンタックのおもちゃ

 みせたらくれくれいうねん

 あかんいうてとりあげたら

 わあーんいうてなくねんで


 きのうな

 ひるごはんのひゃくえんもうたやつもって

 こうべデパートへあるいていったんや

 パンかわんと こうてつジーグのもけいこうてん

 おなかすいたけどな

 こんどあかちゃんかえってきたら

 おもちゃもたしたんねん

 てにもってあるかしたろかおもとんねん

 はよかえってけえへんかな

 かえってきたらええのにな


(あおやまたかし 小1)


【『わたしの出会った子どもたち』灰谷健次郎(新潮社、1981年)】


 灰谷健次郎はあまり好きではない。本書も前半部分は暗くじめじめしている。不要なまでの罪の意識に酔っているようにすら見える。私はこの本を二度読んでいるが、印象は変わらなかった。


 子供達の詩はいずれも素晴らしいものだ。関西弁の力なのだろう。赤裸々なまでの感情がほとばしっている。灰谷健次郎は、これ一冊読めば十分だ。

わたしの出会った子どもたち (角川文庫)

2009-01-22

門野晴子


 でも、女性問題を勉強するうちに、世間の常識なんてくそくらえだと思うようになってきたんです。「私の人生の“主人”は私自身。自分の信じる道を歩こう」とね。


世間体より「私の感性」信じよう/ふらっと】

団鬼六


 1冊読了。


 9冊目『真剣師 小池重明』団鬼六/ハードカバー(イースト・プレス、1995年)には、「“新宿の殺し屋”と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯」という副題がついている。表紙の写真は不敵この上なく、相手をひたと見つめている。賭け将棋以外には興味を示さなかったため、アマ名人のタイトルを取るのが遅れたという。遂にはプロを打ち負かす一方で、酒と女に溺れ破滅的な人生を歩んだ。享年44歳。団鬼六の文章がいい。実際に小池重明(じゅうめい)の生活の面倒を見、何度も突き放そうとするのだが、団は小池を憎むことができない。そんな感情の揺れが実に好ましい余韻を奏でている。

2009-01-21

『鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮』戸頃重基(中公新書)


鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮


 乱世の厳しさが「信心」を決定させた中世の社会的背景を捉えつつ、体験的に仏教を追求し、新しく法灯を掲げた、親鸞の叙情的人間性と愛欲の葛藤、道元の深い論理の思索、日蓮の苛酷な受難の生涯にみる自己形成への奮闘と彼らの信仰の諸相を比較検討する。

2009-01-20

ジョン・スタインベック


 1冊挫折。


 挫折4『チャーリーとの旅』ジョン・スタイベック/竹内真の新訳。半分以上読んでいたのだが、265ページで挫ける。国立公園の門番が、熊を警戒するよう促す箇所で読む気が失せた。スタインベックは門番の注意を軽い気持ちで受け止め、愛犬のチャーリーが熊を見るや狂ったように吠え立て、結局トレーラーを移動する羽目になる。まったく馬鹿馬鹿しい限り。出だしは快調なのだが、中だるみの感がある。また、竹内真の訳が妙にツルツルしていて、原文の薫りが抜け落ちてしまっているようにも感じた。機会があれば大前正臣訳を読んでみるつもりだ。

豊かな語りの文化/『タレントその世界』永六輔


 永六輔による聞き書きシリーズ三部作の一つ。岩波書店から『芸人 その世界』と『役者 その世界』は復刊されているのだが、本書は絶版のまま。岩波に都合の悪い内容でもあるのだろうか?


 講談は読むという。

 義太夫は語るという。

 落語は話すという。

 長唄は唄うという。

 この差を楽しむだけでも日本の芸能は面白い。


【『タレントその世界』永六輔(文藝春秋、1973年/文春文庫、1977年)】


 私は永六輔が嫌いだ。虫唾(むしず)が走るほど嫌いである。武田鉄矢同様、あの説教臭さにはうんざりさせられる。多分、リベラルという仮面をかぶった左翼なのだろう。しかし、である。このシリーズは素晴らしい内容だ。言葉に興味のある方は必読。


 日本人が皆、読み書きができるようになったのは明治期以降のことと思われる。するってえと、それまでの日本文化の底流にあったのは「語り」であったに違いない。名調子で聴衆を魅了する――そんな光景がそこここにあったことだろう。今時はもうないね。芸は見せるものとなり、敢えなく映像に敗れてしまった。


 時折、政治家やアナウンサーが「言葉は命ですから」なあんてことをぬかしているが、笑っちまうようね。メディアってのはね、「見栄(みば)えが命」なんだよ。


 テレビがつくる文化は一過性のものに過ぎない。文化と呼べるとすればの話だが。所詮、目立ちたがり屋の連中がテレビ局の台本通り、ドタバタやっている世界だろう。だから私は殆どテレビを観ない。この3ヶ月間ではNHKスペシャルを一度観ただけだ。


 大体文化ってのはさ、それ相応の歳月をかけてコミュニティ内で醸成されるものだ。だから、文明の発達によって移動が自由にできるようになると、文化は破壊される運命にある。


 芸能界とは言うものの、芸らしい芸は皆無といってよい。文化の名残りがあるのは演歌くらいのものだろう。演歌なんぞにはまったく興味のなかった私だが、実は最近「ちあきなおみ」にハマっているのだ(ニヤリ)。

タレントその世界

2009-01-19

文芸春秋に220万円賠償命令 東京地裁、偽メール記事で


 ライブドア粉飾決算事件に絡み、偽メールを民主党の故永田寿康元衆院議員に提供した元会社役員らが、「週刊文春」の記事で名誉を傷つけられたとして、発行元の文芸春秋に計5500万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は19日、同社に220万円の支払いを命じた。

 山田俊雄裁判長は、週刊文春が掲載した3つの記事の一部について「具体的に裏付け取材をした証拠はなく、真実と信じる相当の理由は認められない」などと指摘した。

 判決によると、週刊文春は2006年3月9日号から同4月13日号にかけ「徹底取材・永田“ガセメール”民主も知らない全真相」などと題した3つの記事を載せた。


共同通信 2009-01-19】

教育とは政治的なもの/『深代惇郎エッセイ集』


天声人語」がコラムの代表格となったのはこの人の功績が大。澄明な思考が蝶の舞うように記されている。真のリベラリズムがここにはある。


 ある中学校の先生が、生徒をつれて京都の桂離宮を見学した。美しい庭園を前に、この庭をつくるために封建大名がいかに農民を搾取したかを、熱心に説明したそうだ。それが歴史の正しい教え方だと、この先生は信じていた。

 他の先生は桂離宮に来て、これが日本文化の粋である由縁を生徒たちに教えた。このような文化遺産を守ることが民族の義務であることを、情熱をこめて語った。この先生にとって、それが桂離宮の正しい教え方だったに違いない。

 この二通りの教え方の、どちらが正しいのであろうか。あるいは、どちらが政治的に中立なのであろうか。これは厄介な問題だ。(中略)

 教育は政治的に偏向してはいけない、中立性を保たねばならない、とよくいわれる。(中略)

 しかし「党派的である」ことと「政治的である」ことは同じではない。もともと教育とは政治的なものであり、政治的でない教育などこの世に存在しないといってもよい。

 教育は子どもに対して、一定の世界観を与えることを目的としている。つまり善い人間、善い社会が何であるのかを教えようとする。そしてこの価値は、たいへん政治的なものにならざるを得ないのだ。共産主義が理想とする「共産主義的人間」と、自由主義が教える「自由人」とはその役目も違う。

 試験のカンニングを例にあげてみよう。自由社会では道徳的な罪とされる。それは各人が自分の能力をあらわすという自由競争の原理に反するから、卑劣であり公明正大ではない。だが中国で、カンニングの是非について論争が起こったことがあった。カンニング賛成論は、能力の遅れた者に、他の者が手を差しのべるのは善いことではないかというものだった。この考え方によれば、カンニングを許さないのは、自分の個人的業績だけを問題にする反社会的な行為を意味することになる。

 善い人間、悪い人間を教えようとするとき、教育はすでに一つの価値体系を選択している。だから、それは政治的な立場に立っている。(中略)

 最初の問題にかえって、では先生は桂離宮をどう教えるべきなのだろうか。

 桂離宮の味方に対立ができるのは、それぞれに政治的価値やイデオロギーの違いがあるからである。そのいずれが正しいかにせっかちな結論を出すより、人によって「正しさ」が異なるのはなぜかを教えることの方が、すぐれた教育だと思われる。


【『深代惇郎エッセイ集』深代惇郎〈ふかしろ・じゅんろう〉(朝日新聞社、1977年/朝日文庫、1981年)】


 中国のカンニング賛成論は、例えとしては頂けない。噴飯物である。こんな議論が成立すること自体、中国のイデオロギーに問題がある証拠といえよう。欺瞞の臭いがプンプンしている。


 政治とは本来技術的なものだと思う。もっと純粋に権利や利害の調整に努めるべきだろう。ところが政治にイデオロギーを持ち込むものだから厄介なことになる。向こうの理想とこっちの理想とがぶつかり合って喧嘩を始めるわけだ。


 しかも一旦政党に所属してしまうと、今度は理想に縛られる羽目となる。政治家は政党の駒と化す。党議拘束という名のSMプレイ。


 ま、養老孟司に言わせれば、人間が政治的・組織的になるのは、脳味噌がそういう仕組みになっているのだから仕方がないってことになるのだろう。アイデンティティの大部分は帰属意識に支えられているのかもね。


 もう少し、人間の「善き本能」が発揮できる社会が望ましい。奪い合うことだけが本能ではあるまい。折からの不況ではあるが、経済がよくなることよりも、消費を抑えるライフスタイルに変えてゆくことが求められているのではないだろうか。資源もエネルギーも限られた量しかないのだから、小さなパイで満足し得る生活にすべきだ。というわけで本日より、私は納豆と豆腐だけで生きてゆくことに決めた。

深代惇郎エッセイ集 深代惇郎エッセイ集

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-01-18

かつて心とナリフリは一致していた/『男の衣裳箪笥』古波蔵保好


 瀟洒(しょうしゃ)なエッセイ。読み終えた後で、向井敏が絶賛していたことを知り、随分と気をよくしたものだ。まだ二十歳(はたち)の頃の話。そういや、VANやJUNが潰れたのも同じ時期だった。


 ところで、日本では、ナリフリはどうでも、リッパな心を持つことが大事だ――などという人が案外に多い。なるほど、モットモらしい言葉で、ナリフリのよさと心のリッパさと、どっちに値打ちがあるかとくらべたら、だれしもリッパな心に信頼を寄せたいはずだ。

 だから言葉としては、正しいのだが、一種の観念論だ――と私は解している。また観念論なので、次元の高い言葉のように感じられるのだろう。

 そういう言葉が、いつごろからはやりだしたのか知らないが、実は、むかしから、節度を重んじるサムライの社会では、服装は心構えの現れとみられていた。心とナリフリは一致していたのである。(中略)「ズール戦争」というイギリス映画があった。華麗な軍服のイギリス軍守備隊が、勇敢なズール族の大軍に包囲されて、全員戦死を覚悟している。息を詰め、銃を構えて待つイギリス兵の耳に、攻撃軍の太鼓はひびき渡り、だんだん近づいて、ズール族の整然たる足音は、もう目の前。やがてはじまる決戦が一瞬にして過ぎれば、生きている兵はひとりもいまい――という瀬戸際で、兵士たちの監督者である軍曹がやったのは、みんなの服装を点検し、ボタンのはずれた兵がいれば、それをかけさせて、軍人としての威儀を完全にすることだった。

 要するに、服装の乱れは心の乱れ、いさぎよく自分の運命と対決せんとするときの男は服装を厳正にするよう心がけたのであるが、逆に見れば、服装の厳正であることが、心理に作用して、いさぎよい行動を生むことにもなろう。そういったことから考えると、ナリフリは、心のありように影響するといえる。


【『男の衣裳箪笥』古波蔵保好〈こばくら・やすよし〉(PHP研究所、1973年)】


「威儀」ってえのが、よござんすな。確かにフリースじゃ威儀の正しようがない。紳士服の代名詞といえば背広(=スーツ、ね)であるが、これは元々イギリスの軍服を洗練させたものだ。


 この手の議論はどちら側にでも転がすことが可能だが、古波蔵保好の文章には逆らい難いジェントルマンシップがある。やはり、コンビニの前でだらしなく座り込んでいる制服姿の高校生よりも、英国のトラディショナルスーツで身を固めた大人の方が説得力があるというものだ。


 とは言うものの、私は普段ジャンプスーツを愛用している。エエ、そうです。ただの「ツナギ」でさあ(笑)。服装はやはり楽な方が好ましい。腹が出てくるとベルトが必要なズボンは下がってくるんだよね。そして夏は短パンである。私は背広は好きなのだが、ネクタイが嫌いなのだ。服装に関してはホリエモンを支持する。


男の衣裳箪笥

バブル時代の多幸症(ユーフォリア)/『戦争と罪責』野田正彰


 友岡雅弥の『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』で紹介されていた一冊。いくつか紹介する予定だが、まずは友岡本に引用されていた「多幸症(ユーフォリア)」の部分から――


 時代の気分は、薄く浅い「幸せ」に色づいて流れていた。より正確に言えば、「多幸症(ユーホリア〈ママ〉)」である。内容の乏しい、空虚な爽快。現実を見るよりも、総ては「うまくいっている」と前もって受け止める構え。その裏には、自発性の減弱と衝動性の亢進があった。

 人々は落ち着き泣く動き回り、バブル経済で浮かれ、いつもいつも、何をしたのか、何が起こったのか、検証することなく、幻の幸せに向かって笑ってきた。政治の空洞化、金融の破綻、官僚制の肥大、アジア諸国の開発独裁への加担、目的なき情報化、子供たちの閉塞感……それぞれに衝撃的に反応し、顔を顰(しか)め痙攣的に涙を流すことはあっても、深い悲しみはない。


【『戦争と罪責』野田正彰岩波書店、1998年)】


 バブル経済に酔い痴れる人々を精神科医特有の視線で巧みにスケッチしている。「多幸症」とは言い得て妙。確かに浮かれていた。騒々しいほどに。若い女性は何も考えずに、ワンレン、ボディコンというスタイルで踊り狂っていた。ああ懐かしや、ディスコのお立ち台。まさに、精神のメタボリックシンドローム


 皆が皆、好景気というビートに乗って踊らされていた。使い切れない現金は「財テク」に回された。さして珍しくもない製品にプレミアがつきまくった。日銀が金融引き締めを行い、大蔵省(当時)が銀行に対して総量規制を指示。気がつくと気温は氷点下になろうとしていた。不良債権貸し渋り、中小企業の社長は自殺、リストラの嵐、失われた10年、失われた熱狂……。バブル崩壊は景気循環ではなく、官僚の政策ミスが原因だった。政治家は無能。


 本書は失われた10年の真っ只中で書かれている。野田正彰は、日本人特有の祭り大好き、右へならえ的な資質を、「自省能力の欠如」と捉える。で、その根っこが「戦争に対する個々人の無反省」にあるとしている。戦地で繰返された暴虐の数々に野田は耳を傾け、冷静に分析する。


 日本軍は中国で人体実験を行い、強姦し、拷問し、殺戮した。目を背けたくなるような残虐ぶりを発揮した人々が、帰国してからは沈黙を保ちながら恩給をもらい、好々爺を演じている。戦争の思い出話は被害に限られ、加害については誰も語ろうとしなかった。


 素晴らしい内容なんだが、野田の主張にはやや行き過ぎがあると私は感じた。主観が勝ち過ぎて、明らかに断罪という意図が働いているように見受けた。「自分の人生を振り返る」という主観と、「戦争犯罪の心理」という客観のバランスが時々崩れてしまっているのだ。私の読み違えもあるかも知れないが、途中からどうしようもない違和感を覚えてならなかった。例えば上のテキストでいえば、「痙攣的に涙を流す」という部分が該当する。医師独特の揶揄が垣間見え、上から見下している視線を感じる。


 一つだけ確かなことは、間違いなく本書が有益な議論の材料となり得ることである。

戦争と罪責

2009-01-17

アインシュタインを超える天才ラマヌジャン/『無限の天才 夭逝の数学者・ラマヌジャン』ロバート・カニーゲル


 ラマヌジャンの名前は知っていたが、功績の内容についてはまったく知らなかった。ところが、藤原正彦の文章を読んで興味を掻き立てられた――


 ただ、ラマヌジャンの公式の放つ異様な輝きを、これらだけに帰着させようとするのは、単に我々がほかの要因を思いつかぬ、というだけのことかもしれない。ラマヌジャンは「我々の100倍も頭がよい」という天才ではない。「なぜそんな公式を思い付いたのか見当がつかない」という天才なのである。アインシュタイン特殊相対性理論は、アインシュタインがいなくとも、2年以内に誰かが発見したであろうと言われる。数学や自然科学における発見のほとんどすべてには、ある種の論理的必然、歴史的必然がある。だから「10年か20年もすれば誰かが発見する」のである。

 ラマヌジャンの公式を見て私が感ずるのは、まず文句なしの感嘆であり、しばらくしてからの苛立ちである。なぜそのような真理に想到したかが理解できないと、その真理自体を理解した気に少なくとも私はなれないのである。それは誰かが、我が家の柿の木の根元に金塊が埋まっていると予言し、それが事実だった時の気分である。事実は認めても、予言の必然性や脈絡をたどれぬ限り苛立つ。

 数学では、大ていの場合、少し考えれば必然性も分かる。ところがラマヌジャンの公式群に限ると、その大半において必然性が見えない。ということはとりもなおさず、ラマヌジャンがいなかったら、それらは100年近くたった今日でも発見されていない、ということである。


【『天才の栄光と挫折藤原正彦(新潮選書、2002年)】


 凄い。まったく想像もつかない領域である。多分、「!」でしか表現できない人物なのだろう。「閃(ひらめ)き」ではなく「悟り」。ラマヌジャンは数字と戯(たわむ)れ、遊ぶようにして膨大な定理を発見した。


 1887年12月22日、ラマヌジャンはインドの極貧バラモン階級の家に生まれた。幼少の頃から天才の片鱗を見せた。奨学金を得て大学に進学するも、数学に熱中するあまり他の科目がおろそかになって落第。遂には奨学金が断たれ、退学となる。それでも彼は数学を手放さなかった。


 ごく稀れに、彼は自分を落第させた大学へ立寄って、本を借りたり、教授に会ったり、講義をちょっとのぞいたりするときもあった。お寺を散策するときもあった。しかし、たいていはサーランガーパニ・サンジーニ横丁にある家のパイアルに腰をかけて勉強していた。両足を胸のほうへ引き寄せ、膝全体で大きな石板を支えながら、硬い石筆のカリカリと刻む音も聞こえないかのように、一心不乱にそれを走らせていた。牛どもの行進、サリーをまとった女たちや荷車を引張る半裸の男たちのざわめき。そういった、通りの騒々しい人間たちの営みの間近にいながら、彼は静穏なる孤島で独り気儘(きまま)に暮らしていた。すでに断念した試験や勉強したくない科目に煩わされることもなかったのである。


【『無限の天才 夭逝の数学者・ラマヌジャン』ロバート・カニーゲル/田中靖夫訳(工作舎、1994年)】


 この石板から『ノート』が生まれた。ラマヌジャンは雌伏の数年間で、人知れず飛翔していた。清書された『ノート』には4000もの定理、系、例題が“数学の未知なる宇宙”を構築していた。


 インド国内でラマヌジャンの数学を理解できる人物は皆無だった。彼は知人に勧められるままにイギリスの数学者数名に手紙を書いた。その一通がケンブリッジ大学のG・H・ハーディの目に留まった。ハーディは世界最高ランクの数学者だった。そのハーディですら、ラマヌジャンの定理を理解するのに難渋した。他の数学者は興味すら示さなかった。ハーディがやっと理解できた時、彼は驚愕に震えた。


 ハーディとの出会いによって、ラマヌジャンは日の目を見る。インドから国費留学生としてイギリスへ渡り、かのニュートンも学んだトリニティ・カレッジで研究を開始した。


 それから、わずか6年後にラマヌジャンは亡くなる。ヒンドゥー教がラマヌジャンの精神をがんじがらめにしていた。西洋の風習に馴染めず、菜食主義のため食事もままならなかった。インドに残してきた若い妻と母親は反(そ)りが合わなかった。ラマヌジャンは一度、イギリスの地下鉄に身を投げたこともあった。そして結核が彼の身体を蝕んだ。


 1976年、渡英したアメリカの大学教授ジョージ・アンドリュースによって、偶然『失われたノート』が発見される。ラマヌジャンの魂が再び数学界を揺るがした。


 決して読みやすい本ではないが、ラマヌジャンの評伝としては決定版といってよいだろう。多分、ロバート・カニーゲルは物語性よりも網羅に重きを置いたことと想像する。もう一点ケチをつけておくと、訳者である田中靖夫がやたらと小難しい漢字を多用していて、より一層読みにくくしている。


 それでも尚、ラマヌジャンの輝きが失われることはない。天才に触れたければ本書をひもとくがよい。

無限の天才―夭逝の数学者・ラマヌジャン 天才の栄光と挫折―数学者列伝 (文春文庫)

取り憑かれる


 何かに取り憑かれたかのように集中し、没頭する。

 他のことはどうでもよくなる。

「狂」の字がフラッシュのように明滅し、稲妻のごとく閃(ひらめ)き走る。

 内なる暗黒物質の放出が、欲望と知性、堕落と修行の壁を粉砕する。

 全力で疾走し終えると、そこには空虚が待ち構えていた。

 幸福や不幸なんかはどうでもいい。

 ただ、ヒリヒリと焼け付くような余韻に浸(ひた)るだけだ。

2009-01-16

愛情


 子を産んでも、裏切る愛がある。

 互いの体温を感じても、破れる恋がある。

 言葉だけでも、信じられる人がいる。

 文字だけでも、通い合う情がある。

 心だけでも、確かな真実がある。

飯嶋和一


 今年中に飯嶋和一作品を読み直し、読み尽くしたい。

汝ふたたび故郷へ帰れず (小学館文庫) 雷電本紀 (小学館文庫) 神無き月十番目の夜 (小学館文庫)


始祖鳥記 (小学館文庫) 黄金旅風 (小学館文庫) 出星前夜

2009-01-15

元ジャンキーの魅力的なヒロイン/『神は銃弾』ボストン・テラン


 文体に慣れるまで時間を要する。しかしながら、リズムをつかんでしまえば一気に読み進める。文学性の薫り高い傑作ミステリ。


 カルト教団に別れた妻を殺されたボブが主人公と思いきや、元ジャンキーのケイスが主役だった。


「彼女は17年もカルトのメンバーだった。そして、ヘロイン中毒患者で、今はその治療中。それが彼女よ」

「彼女は信用できる人間なんだろうか?」

「彼女は聖人じゃない。でも、政治家でもないわね」


【『神は銃弾』ボストン・テラン/田口俊樹訳(文春文庫、2001年)】


 そして、ケイスは人間だった。それも本物の人間だ。読み進むほどにボブがダメ男に見えてくる。そう。ボブが体現しているのは読み手である私やあなたなのだ。ケイスに常識は通用しない。彼女は“自分のルール”に従うだけだ。市民が法律を守ろうとするよりも、はるかに崇高かつ堅固な姿勢で。


 登場する人物は皆傷だらけだ。まるで、血まみれにならなければ互いの温もりを感じ取れないかのように。しかし、距離を置きながら微温的な態度に終始する我々の日常に、果たしてどれほどの情感が通っているのだろうか。瞳を閉じて闇を見つめなければ、世界の本当の姿を知ることはできない。

神は銃弾 (文春文庫)

「抱擁」エゴン・シーレ


 シーツの質感がイマイチだが、肉体の構図と色が素晴らしい。男性の荒々しい衝動と、女性の細やかな情感が滲み出ている。

経頭蓋磁気刺激法(TMS)/『脳から見たリハビリ治療 脳卒中の麻痺を治す新しいリハビリの考え方』久保田競、宮井一郎編著


 初心者向けリハビリ最新情報といった内容。さほど勉強にはならなかったが、この検査法は知らなかった。


 その代わりによく用いられる方法が経頭蓋(けいとうがい)磁気刺激法(TMS)というやり方です。

 電気の代わりに頭皮の上に置いた磁気コイルで磁場を発生させることにより、大脳皮質にある運動神経細胞を苦痛なく刺激することができます。頭蓋に電気を通して刺激すると、直接、運動神経細胞が動きますが、磁気刺激では運動神経のまわりにある神経(介在神経とよばれる)をまず刺激して、その結果、運動神経細胞を働かせます。

 この検査により、一次運動の運動神経細胞から手や足を動かす命令がその筋肉に伝わるまでの時間や神経の興奮の強さを測定します。また頭皮上のコイルの位置を少しずつずらして刺激をしていくことにより、手や足を動かす運動神経細胞が大脳皮質の中でどのくらいの範囲にわたって存在するかを評価することも可能です。


【『脳から見たリハビリ治療 脳卒中の麻痺を治す新しいリハビリの考え方』久保田競(きそう)、宮井一郎編著(講談社ブルーバックス、2005年)】

 つまり、司令塔である脳の状態がわかるので、より具体的なリハビリ計画を立てられるってわけだ。


 リハビリテーションが「“失った機能の再学習”ではなく、“新しく神経回路をつくる運動技術学習”なのです」という指摘も納得できる。


 脳血管障害(=脳卒中/脳梗塞脳出血クモ膜下出血に代表される脳の病気の総称)によるダメージは、脳神経ネットワークの再構築(=リハビリテーション)によって新たな人生を歩むスタート地点に立っていることを示している。


 いたずらに過去と比較している限り、障害は不幸の要因にしかならない。障害という現実から前を見て進めば、必ず光明が見えてくるはずだ。

脳から見たリハビリ治療―脳卒中の麻痺を治す新しいリハビリの考え方 (ブルーバックス)

債券バブル

焦点:米国3年債の海外需要に陰り、バブル崩壊の兆しか


 7日に実施された3年物の米国債入札では、特に海外の投資家を中心に需要が衰える兆しが見られ、米国債市場のバブルが崩壊しかねないとの懸念が高まった。実際に米国債市場が崩壊すれば、世界経済に深刻な影響をもたらす恐れもある。

 海外の投資家は5兆8000億ドルに上る米国債の半分程度を保有しているが、この日行われた300億ドルの3年債入札では、海外勢による落札額は通常を下回る水準にとどまった。

 米政府は金融システムや自動車業界の救済に必要な資金を調達するため、今年は約2兆ドルの債券を発行する計画で、この日の3年債入札も過去最大規模となった。

 海外の中央銀行による入札分を含む間接入札者の落札比率は約28%で、12月に行われた3年債入札の35%を大幅に下回った。

 米国の短期国債利回りは昨年12月中旬に、リスク資産から安全資産への資金シフトが加速したことで過去最低水準まで低下した。

 しかしアナリストによると、投資家はここにきて記録的な低利回りとなった米国債をさらに買い進むことを躊躇(ちゅうちょ)し始めた。それによって利回りが反転すれば、資金調達に苦しんでいる企業や家計の借り入れコストを押し上げ、低迷している景気に追い討ちをかけかねない。

 カボット・マネー・マネジメントのポートフォリオマネジャー、ウィリアム・ラーキン氏は「年が明けてから、多くの投資家が利回りがいかに低いかをあらためて認識し始めた。相場の高さに腰が引けてきた」と指摘している。

 ラーキン氏によると、最近になって米国債が売られている理由の1つは、米国債に対する株式や社債の利回りスプレッドが過去最高水準に達したため、昨年末から投資家が株式や社債に打診買いを入れてきたこと。第2の理由は、世界全体でソブリン債の発行が増加しているほか、米国債の大量発行も控えていることで需給懸念が生じていることだという。

 その結果、10年物米国債の利回りは昨年12月中旬につけた過去最低の2.04%から50ベーシスポイント(bp)程度上昇した。

 海外の中央銀行は自国経済を支えるために資金を国内にとどめておく必要があり、米国の財政が著しく悪化すればなおさらのこと、米国債への投資を控えようとするだろう、と予測するアナリストもいる。

 もっとも、特に中国や日本など最も多額の米国債を保有している国をはじめとする海外の需要をすべての関係者が懸念しているわけはない。

 米連邦準備理事会(FRB)の週間データによると、海外の中央銀行は今のところ着実に米国債を購入している。

 JVBフィナンシャル・グループのチーフエコノミスト、ビル・サリバン氏は「それがすぐに変わるとは思えない。カストディ保有高は非常に力強い需要を示している」と述べ、景気の悪化が続けば安全性の高い米国債への需要はしばらく続く、との見方を示す。

 それでも、債券市場関係者は7日の3年債入札は不調だったとみており、入札結果発表後、相場は下げ足を速めた。

 シアトルのブローカー、D・A・デビッドソンのシニアトレーダー、メアリー・ハーレイ氏は「これまでの入札ほど海外勢の需要が強くなかったことは間違いない。彼らは資金を国内向けに使わなければならなくなっている」と述べた。

 短期債利回りの上昇は、大量の国債発行による影響をより受けやすい長期債利回りの大幅上昇の前触れとなる可能性がある。

 米国債への需要を占う上で、8日に実施される160億ドルの10年債入札が関心を集めている。


【ロイター 2009-01-07】

2009-01-14

名門高校生による殺人事件/『子供たちの復讐』本多勝一


 二つの殺人事件を追ったルポ。いずれも被害者は家族で、犯人は高校生。しかも超がつくほど優秀な高校生だ。校内暴力という言葉がメディアに出るようになったのもこの頃だ(1979年)。


 高度経済成長に伴って核家族化が進んだ。そして少子化によって、子供は“管理される対象”となった。母親は受験戦争に向けての戦略を練り、堅固なレールを敷く。父親は日本経済の尖兵(せんぺい)であり、家庭を振り返る余裕はなかった。


 子供はまるで盆栽のようだった。針金でぐるぐる巻きにされて、育つ力を抑圧され、自分の意志とは無関係な方向に枝が伸ばされた。


 多くの事例に当たってみると、そうした子のほとんどが、なんらかのかたちで「生活が勉強だけ」という期間を、しかも小学校時代から、かなり長く過ごしている。(中略)生活が勉強だけという日常は、とくに親に対して抵抗力を持たぬ小学生にとっては想像を絶する重圧であり、虐待である。そのような不断の虐待の末に、ようやく「勉強する生活に慣れて」、つまり適応させられ、改造されてゆく。

 これは一種の精神的「ロボトミー人間」ではないのか。(中略)だが、中学・高校とすすみ、体力も父親を越えるほどになったロボトミー人間が、あるとき突然目覚めたらどうなるか。「人生を返せ!」とは、ロボトミー人間が本来の人間に戻ったときの叫びなのだ。

「過保護」という言葉がよく使われる。しかし以上のような形での親の干渉(より広くは社会の干渉)は、むしろ子どもの多様な発展の可能性を刈りとって、一本のモノサシに合わせてしまうための「過虐待」であろう。となれば、家庭内暴力はその長い「過虐待」や「過干渉」に対する子供の側からの反撃であり、復讐と見ることもできる。まず直接的「加害者」としての親に対する復讐であり、結局はしかし、社会に対する復讐だ。


【『子供たちの復讐』本多勝一(朝日新聞社、1979年/朝日文庫、1986年)】


「過干渉」とは家庭内で進行する“柔らかなファシズム”と言い換えてもよいだろう。母親は子供を意のままにコントロールする独裁者と化した。「全部あなたのためよ」という決まり文句で反抗の芽を摘み取った。だが、子供とはいえ人間である。ビリヤードの玉みたいなわけにはいかなかった。


 本多勝一は取材の末、“犯行”を“復讐”と捉えた。これは一つの見識であって、全ての少年犯罪を正当化するものではない。二つの殺人事件が象徴しているのは、家庭内に社会と同じ力学が働くようになった事実である。競争と成果主義にさらされ、勝ち負けという単純な判定が繰り返されることで、子供達の心のバネは弾力を奪われ、しまいにはポッキリと折れてしまう。


 子は親の背中を見て育つという。口で嘘を唱えても、背中に真実が浮かんでいる。子供はダブルスタンダード(二重基準)を学び、混乱してゆくのだ。子供を野に放ち、黙って見守る程度の余裕が必要だろう。

子供たちの復讐 (朝日文庫)

心の穴


 君の心に空いた穴は、私の形をしている。

2009-01-13

テレ朝番組、自作自演ブログ…ネット情報、スタッフ作成


 テレビ朝日系で10日に放送された情報バラエティー番組の中で、「インターネット上で流れている情報」として紹介されたブログが、実際は番組制作スタッフが作成したものだったことが11日、わかった。

 この番組は、テレビ朝日制作で10日午後7時から放送された「情報整理バラエティー ウソバスター!」。

 一般に流れる様々な情報の真偽を検証し、クイズ形式にした内容で、「NEWSの語源は英語の東西南北の頭文字」「干支(えと)のイノシシは、中国や韓国ではブタ」「サケとシャケの違いは加工の有無」などと書かれた六つの雑学ブログが、出題のネタ元として画面付きで紹介された。

 しかし、番組終了後に、これらのブログをインターネットで見た視聴者が、いずれも同じ昨年12月10日に作成されていることに気づいて「あまりにも不自然」と指摘。同社も番組スタッフが撮影用に作ったブログであることを認めた。

 同社広報部では、「実際のブログ作成者から撮影許可が取れなかったので、同じ情報を元にスタッフが『再現』した。そのことをテロップやナレーションで伝えるべきだった。視聴者に誤解を与えかねない表現となり、申し訳ない」としている。


【読売新聞 2009-01-12】


 嘘つきはテレビ局の始まり。

戦地で活字に飢える/『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』日本戦没学生記念会編

 二十歳(はたち)前後に読んでおくべき一冊。同世代の青年が戦地で何を思い、死んでいったかを知ることができる。若者を戦場へ送り込むのは、いつの時代も老人だった。その老人を疑うことすらせずに、若き学徒は死と向き合う中で、青春の清らかさを結晶させた。


 大いなる歯車が軋(きし)みを上げ、若者を飲み込んでゆく。だが、彼等は生きた。確かに生きた。学徒の清冽さに思いを馳せる時、当時の政治家に対する怒りが沸々とたぎってくる。権力者は若者を利用する。この本すら利用することさえ可能だろう。


 新聞はいかなる新聞であっても、例えば私物の泥靴を包んでおいたぼろぼろの新聞まで読み尽してしまった。食器棚の下に誰かが投げ込んでおいた半年ほど前の内閣のパンフレットを手にした時は、ほとんど一週間も掛ってそれを読み返し読み返しした。(中略)メンソレータムの効能書きを裏表丁寧に読み返した時などは、文字に飢えるとはこれほどまでに切実なことかとしみじみ感じた。(竹田喜義 22歳)


【『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』日本戦没学生記念会編(東大協同組合出版部、1949年/岩波文庫、1982年)】


 彼は、活字の向こう側に何を見ていたのだろう。知識か、文化か、はたまた人の温もりか。文字への渇望は、「学ぶ」ことへの衝動であったに違いない。戦争すら、知を希求してやまない精神を抑えることはできなかった。


 前途ある青年は死んだ。殺された。敵に殺されたのではない。老いた政治家に殺されたのだ。そして老人達は美化することによって、彼等の魂まで利用するのだ。

きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (ワイド版岩波文庫) きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫)

(※左がワイド版、右が文庫本)

脳は神秘を好む/『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース

 宗教的な神秘体験が側頭葉で起こっていることは、既に多くの脳科学本で指摘されている。てんかん患者と似た状態らしい。LSDを服用すると同様の体験ができるとも言われている。トリップ、旅、「そうだあの世へ行こう」JR。


 いずれにせよ、人間という動物は「不思議」が大好きだ。これに異論を挟む者はあるまい。不思議は不可思議の略語で、大辞泉にはこうある――


1.どうしてなのか、普通では考えも想像もできないこと。説明のつかないこと。また、そのさま。

2.仏語。人間の認識・理解を越えていること。人知の遠く及ばないこと。

3.非常識なこと。とっぴなこと。また、そのさま。

4.怪しいこと。不審に思うこと。また、そのさま。


 4が凄いよね。ストレンジ(strange)ですな。思議とは「あれこれ思いはかること。考えをめぐらすこと」。つまり、「想像を絶する」物語や世界に我々は憧れ、魅了されてしまうのだ。というわけで早速、説明責任という言葉を私の辞書から削除することにしよう(笑)。


 西洋において宗教的な神秘体験は「神との邂逅(かいこう)」として現れることが多い。多分(←テキトー)。日本では「神がかり」と称される。お稲荷さんにはまると「憑き」。本当にピョンピョン跳ねるそうだよ。洋の東西に共通するということは、人間の本質に根差している証左といえよう。では、そこにどのような回路があるのか――


 われわれは、宗教的な神秘体験、儀式、脳科学についての膨大なデータの山をふるいにかけて、重要なものだけを選び出した。パズルの要領でこれらのピースを組み合わせているうちに、徐々に意味のあるパターンが見えてきて、やがて、一つの仮説が形成された。それが、「宗教的な神秘体験は、その最も深い部分において、ヒトの生物学的構造と密接に関係している」という仮説だった。別の言い方をするなら、「ヒトがスピリチュアリティーを追求せずにいられないのは、生物学的にそのような構造になっているからではないか」ということだ。


【『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース/茂木健一郎監訳、木村俊雄訳(PHP研究所、2003年)】


 つまり、「脳がそのような仕組みになっている」ってことだ。ってこたあ、脳そのものが神秘的と言わざるを得ない。脳は“物語としての神話”を求める。起承転結の「転」には不思議な展開が不可欠だ。モチーフは「奇蹟的な逆転」だ。


 そう考えると不思議とは希望の異名なのかも知れない。古来、人間は行き詰まるたびに起死回生を信じて、時には信じるあまり側頭葉をピコピコと点滅させ、“生の行き詰まり”を打開してきたのだろう。


 一つだけはっきりしているのは、古本屋という商売には何の神秘も存在しないことだ。

脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス

2009-01-12

ボストン・テラン


 1冊読了。


 8冊目『神は銃弾』ボストン・テラン(文春文庫、2001年)/これは傑作。デビュー作というのだから驚き。文学性の薫り高いミステリ作品。昨日の夜だけで400ページまで読んでしまった。文章が華麗過ぎて時々わかりにくくなっているが、大した問題ではない。カルト教団に別れた妻を殺され、一人娘をさらわれたボブ・ハイタワー。元メンバーだったケイス・ハーディンと二人で教祖サイラスの行方を追う。ボブは保守的な警官で、ケイスは治療中のジャンキーという設定が面白い。しかも、主役はケイスなのだ。ストーリーが荒削りだとかそんなことはどうでもいい。とにかく詩情豊かな文体を堪能するべきだ。

2009-01-11

久保田競、宮井一郎


 1冊読了。


 7冊目『脳から見たリハビリ治療 脳卒中の麻痺を治す新しいリハビリの考え方』久保田競、宮井一郎編著(講談社ブルーバックス、2005年)/ランドルフ・J・ヌード博士のリスザルの研究によって「リハビリテーション革命」が起こった。で、これが1996年のこと。いわゆる、「ニューロリハビリテーション」というやつだ。脳神経機能の回復を目指す手法。他の脳科学本と比べると子供騙しに近い内容だった。そもそも、ダメージを受けた脳の神経が再構成されることは、もっと前から明らかになっていたはずだ。クリストファー・リーブの章はそこそこ面白かったが、後はまるでダメ。文章も大学生の論文のような代物。巻末で久保田競(京都大学名誉教授)の傲慢さがモロに出ている。

『不可触民 もうひとつのインド』山際素男(光文社知恵の森文庫)


不可触民―もうひとつのインド (知恵の森文庫)


「インド人口の約4分の1、2億5000万もの人びとが、3000年の昔に生まれたカースト制による差別意識に今も呻吟している。この人びとの置かれている現実の厳しさを、本書を通して少しでも感じて頂ければ幸いである」(「文庫版まえがき」より)。インド観、人間観、世界観を根底から揺さぶる、衝撃の名著。

インドのバラモン階級はアーリア人だった/『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士

    • インドのバラモン階級はアーリア人だった
    • 依法不依人

「イエスは釈迦である」なんてタイトルを見てトンデモ本だと思った人もいるだろう。それこそ、とんでもない話だ。堀堅士関西大学法学部教授(当時)なのだ。で、緻密(ちみつ)な考証と論理を積み上げて、紀元前の壮大なドラマを読み解こうとしている。もうね、「別々の事件の犯人が実は同一人物だった」という法廷スリラーの世界。


 インドにおけるカースト制度自体にも「謎」が隠されていた――


 このように「武士」「庶民」「奴隷」の上に絶対的権力をふるうこのカーストの最上位階級、バラモン(婆羅門)というのは、中央アジアにおいて極めて少数であったこの「白色人種(アーリヤン)」は、圧倒的多数の「黄色人種」や「黒色人種」の先住民と混血して、完全に同化されてしまうのを極度に恐れ、「バラモンの村」という特別区域に居住していました。そして、彼らの持って来た民族宗教バラモン教」の神々を武士階級と庶民階級には強制的に信仰させ、また、奴隷階級がバラモン教にふれることは禁止して、その権威を保とうとしたのでありました。

 この白人支配下のインドに生れた釈迦は、この皮膚の色にもとづく苛酷な人種差別と職業差別とに反対し、「人間みな平等」(「四姓平等」)の立場に立って、かの宗教を創始したのでありました。


【『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士〈ほり・けんじ〉(第三文明レグルス文庫、1973年)】


 最新の研究によれば、ブッダが積極的に人種差別廃止を目指した事実はないとされている。しかし、ブッダは不可触民に対して最上格の敬語をもって接した。この事実そのものが既に革命的なのだ。


 本書は、「イエスという容疑者」に対して徹底的な尋問が繰り広げられている。仏典と聖書の類似箇所を次々と指摘し、名推理によって結論が導かれている。これは読んでからのお楽しみ。


 実にスリリングな展開で、宗教・歴史・法律を学ぶことができる。

仏教とキリスト教 イエスは釈迦である

コンサルの面接で「74冊読みました」と言ったら「それは何がすごいの?」と返された


 多分、面接官は「行為」よりも「内容」を知りたかったのだろう。ま、不況になると買い手市場となるため、企業側が有利な立場となることが明らかだろう。この面接官の手法は、相手を小馬鹿にすることで上下関係を成立させるところにあるのだ。まったく生意気な野郎だねえ。

2009-01-10

菊池清麿、小岸昭、佐伯啓思、ロバート・カニーゲル


 3冊挫折、1冊読了。


 挫折1『流行歌手たちの戦争菊池清麿(光人社、2007年)/戦争の記述に重きが置かれていて、当てが外れた格好。フォントが大きいのは結構なんだが、ワープロ文字のように味気なく、行間が狭いため読みにくい。44ページで挫ける。


 挫折2『離散するユダヤ人 イスラエルへの旅から』小岸昭(岩波新書、1997年)/amazonのレビューにカネッティの言葉があったので読んでみた。20ページ余りで挫折。最後の方で、マルグリット・デュラスの独訳本『書くこと』の一部が紹介されている。「デュラスは、非ユダヤ人の『書く』経験の中へユダヤ性を深く取り込んでいったフランスの女性作家である」と。


 挫折3『貨幣・欲望・資本主義』佐伯啓思(新書館、2000年)/資本主義を精神解剖学的アプローチで読み解こうとする意欲作。グローバリズムを経済史から捉え直す。じっくりと腰を落ち着けた論調に、私のような素人はついてゆけない。「佐伯啓思は新書に限る」とつくづく思った次第。


 6冊目『無限の天才 夭逝の数学者・ラマヌジャン』ロバート・カニーゲル、田中靖夫訳(工作舎、1994年)/インドの天才数学者ラマヌジャンの評伝。菊判で上下二段、活字は8ポイントほどで、余白は1cmくらいしかない。これで361ページもあるのだ。文庫本なら3冊程度になるだろうか。嚆矢(こうし)にして決定版の評伝といってよい。ラマヌジャンを取り上げる作家は、必ずや本書をひもとくことになる。網羅することを意図したためと思われるが、読み物としては山場に欠ける。また、余計な情報も散見される(G・H・ハーディが同性愛者だった可能性など)。それでも、敢えて突き放して書かれた客観的な文章から、ラマヌジャンの悲劇が一層際立っている。ラマヌジャンの庇護者であるG・H・ハーディがかくも偉大な数学者であることを始めて知った。20世紀初頭は大人物がキラ星の如く誕生した。

「太陽にほえろ!」パロディ


 先ほどこちらの動画のリンクを貼ろうかと思ったがやめた。あまりにも面白いため、私のテキストが読まれなくなると判断した。それにしても笑える。


D

『イエスの失われた十七年』エリザベス・クレア・プロフェット/下野博訳(立風書房)


イエスの失われた十七年


 古代チベットの古文書によれば、イエスは13歳のとき隊商の群れに加わり、東方へ旅立った。目指すはインド、そしてヒマラヤの山地。そこで彼は何をしたか……。東洋と西洋を結び、ブッダとイエスを繋ぎ、歴史と文化に関する限りない知的興奮をもたらす新発掘! 地上最大の謎が解き明かされる。


 堀堅士の名著『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』と似た内容か。興味が掻き立てられる。

「パチスロ」は新しい利権だった/『警官汚職』読売新聞大阪社会部


 黒田清率いる読売新聞大阪社会部は次々とユニークな連載記事を発信した。ジャーナリズムにも五分の魂があることを示した。東京の権力が及ばない地の利があったことは確かだろうが、やはり関西の反骨魂みたいなものを感じる。


 本書は、警官の汚職を追及した骨太の作品。


「それ(パチスロ)を警察が許可したんですね」

「府県によっては賭博性が高いから許可しないと頑張ってところがあるけど、この協会には警察幹部がずらりと天下ってるんだから、そういつまでも頑張れないよ」

「パチンコ屋が、どうしてそんな新しい機種を必要としたんですか。パチンコ屋はフィーバーという機械がブームになり、かなりもうかっているという話ですが……」

「パチスロの特徴は、パチンコとは機種が違うということだよ。機種が違うということは新たな業界をつくっていけるということだよ」

「どういう意味ですか」

「新たな業界や協会ができれば、新しい利権が生まれるじゃないの。パチンコ業界のように既成の利権はすでに特定の政治家にがっちりと押さえられていて、警察官僚が政治家になったとしても入り込む余地はない。そのためには新しい利権をつくらねばならない」


【『警官汚職』読売新聞大阪社会部(角川書店、1984年)】


 警察は暴力団と接する機会が多い。何度も顔を合わせれば、そこには当然情も生まれる。で、何らかの付き合いが始まり、情報が交換され、挙げ句の果てには定年後の勤め先まで確保してもらうことになる。警察官の仕事はあまり潰しが利かないのだ。


 以下を参照されよ。胡散臭い業界団体が結構あることが理解できる。

 私の世代だと、小学生時代に「太陽にほえろ!」を見て育っているため、「警察=正義の味方」という価値観が刷り込まれている。無意識のうちに“市民を守る存在”と思い込んでいるのだ。実際は違う。警察は、国家の暴力装置の片割れ(もう半分は自衛隊ね)であり、政治権力の僕(しもべ)である。警察の組織機構そのものが上役には逆らえない仕組みになっている。ま、犬だな。


 警察とやくざ者の癒着ぶりは色々と明らかになっている。例えば、暴力団事務所で拳銃が押収されたという事件が報じられる。かようなケースの場合、「あのさー、今度手入れをさせてもらうから宜しく。で、拳銃を押収したことにするから、適当な容疑者を2〜3人用意しておいてよ。エ、拳銃? いいよ、こっちから持って行くから」と電話連絡をしていたりする。蛇の道は蛇。


 教訓――あらゆる組織は、構成員を隷属させる。

警官汚職

ネット料金、予告なく課金 2万人から計2億円で苦情多発


リンククラブ」という名称で、ホームページを作りたい利用者にサーバーを貸し出すサービスなどを提供しているネット関連企業「カイクリエイツ」(東京都)が昨年末、「情報管理などを強化するシステム費に充てる」という理由で、事前の連絡を十分にしないまま利用者約2万人の口座から、それぞれ1万円を引き落としていたことがわかった。

 監督官庁総務省には、苦情や相談が相次いでおり、同省は、消費者に費用負担を求める時には事前の説明が必要としている電気通信事業法に違反する疑いもあるとして調査に乗り出した。

 カイクリエイツから集金を委託されているクレジットカード会社によると、カイクリエイツに会員として登録している利用者約2万人の口座から先月29日、月々の利用料と同時に1人あたり1万円を引き落とした。カード会社には「引き落とされることを知らなかった」などという苦情や相談が今月9日までに約200件寄せられているという。

 総務省にも「事前の通知なしに1万円を引き落とされた」という相談が9日までに20件寄せられている。

 カイクリエイツは規約で「臨時の料金を予告なく課金する場合がある」と定め、現在はホームページ上で「システム費として1万円を会員に負担してもらう」という説明を掲載している。読売新聞の取材に対して、同社は「対応できない」と話している。


【読売新聞 2009-01-10】

長寿は“価値”から“リスク”へと変貌を遂げた/『恍惚の人』有吉佐和子


 初版は1972年6月新潮社刊。昭和47年である。老人介護に先鞭をつけた記念碑的作品。高度経済成長の真っ只中で書かれている。


 日本は敗戦後、朝鮮特需(1950-1952、55)によって経済的な復興の第一段階を遂げた。で、日米安保が1960年に締結される。ま、先に餌をもらった格好だわな。ベトナム戦争が1959年から始まっているので、アメリカとしては是が非でも日本を反共の砦にする必要があった。そして日本経済はバラ色に輝いた。これが高度経済成長だ。1973年からバブルが弾ける1991年までは「安定成長期」と呼ばれている。ってことはだ、東京オリンピック(1964)や大阪万博(1970)は、アメリカからのボーナスだった可能性が高い。


 日本人の大半が豊かさを満喫し、丸善石油が「オー・モーレツ!」というテレビCMを流し、三波晴夫が「こんにちは」と歌い、水前寺清子は「三百六十五歩のマーチ」でひたすら前に進むことが幸せだと宣言した。フム、行進曲だよ。遅れたら大変だ。


 そんなイケイケドンドンの風潮の中で、有吉佐和子はやがて訪れる高齢化問題を見据えた。


 主人公の昭子の言葉遣いや、杉並区に住んでいる設定を考えると、当時の山の手中流階級一家といったところだろう。以下に紹介するのは、昭子と老人福祉指導主事とのやり取り――


「それに分って頂きたいんです。私は仕事をもっていますし、夜中に何度も起されるのは翌日の仕事に差しつかえますし、世間は女の仕事に対して理解が有りませんけど、そんなものじゃないってことは貴女(あなた)なら分って頂けますね」

「それは分りますけど、お年寄りの身になって考えれば、家庭の中で若いひとと暮す晩年が一番幸福ですからね。お仕事をお持ちだということは私も分りますが、老人を抱えたら誰かが犠牲になることは、どうも仕方がないですね。私たちだって、やがては老人になるのですから」


【『恍惚の人』有吉佐和子(新潮文庫、1982年)】


「老人を抱えたら誰かが犠牲になる」――これが介護の本質だ。これこそが答えなのだ。介護保険が導入された2000年4月以降も変わらぬ実態だ。


 北イラクのシャニダール洞窟で発掘されたネアンデルタール人(※約20万〜3万年前)の化石は、右腕が萎縮する病気でありながらも比較的高齢(35〜40歳)だった。このことから、仲間によって助けられている可能性が指摘されている(『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠)。つまり、介護だ。「人間とは“ケアする動物”である」という見方もある(『死生観を問いなおす広井良典)。


 そうでありながらもコミュニティが崩壊し、人間が分断される社会が出現してしまった。これこそ、政治が持つ致命的な欠陥のなせる業(わざ)であろう。歪(いびつ)な社会は、歪な政治を裏に返した姿だ。


 今年の4月から介護報酬が引き上げられる。果たして全体で3%のアップがどの程度の効果を生むことやら。「焼け石に雀の涙」となりそうな気がする。多分、有吉佐和子が書いた現実は変わらない。介護は女性の手に押しやられ、ストレスまみれになった挙げ句、家庭は崩壊し、社会のあらゆる部分にダメージを与えることとなる。高齢者がお荷物扱いされるとすれば、我々はお荷物になる人生を歩んでいることになる。

恍惚の人 (新潮文庫)

2009-01-09

仏教の変遷 インド〜中国〜日本/『最澄と空海 日本仏教思想の誕生』立川武蔵


 鎌倉仏教に多大な影響を与えた最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)。同時代を生き、共に唐の国で学んだ二人は、仏教界に革命を起こす。空海はともかく、最澄がこれほど密教の影響を受けていた事実を私は知らなかった。


 また、インド、中国、日本を経て、仏教思想がどのように変遷してきたかも、よく理解できる。結局のところ、思想は文化でしか受け止めることができないのかも知れない。安易に「変質」と斥けることは難しい。


 平安時代になると、「諸法実相」の考え方が発展して「本覚(ほんがく)思想」が生れた。これは人間はむろんのこと、山川草木(さんせんそうもく)を含むすべてのものが成仏するという考え方であるが、インドの仏教からすればかなりの変質といわざるを得ない。ネパールやチベットの仏教も「山川草木が成仏する」とはいわない。しかし中国仏教にはこのような考え方の芽がある。そのかぎりでは、中国仏教と日本仏教は近いといえよう。というよりもも日本仏教は、そのような中国仏教の思想を、日本の文化的風土の合わせて導入したといった方が正確であろう。

 平安後期から末期にかけて勢力を得た「本覚思想」に対して、二つの方向からの批判が生れた。一方は法然(1133-1212)や親鸞(1173-1262)の浄土教であり、もう一方は道元(1200-53)を中心とする禅仏教であった。鎌倉仏教の主役であったこの二種の仏教伝統は、本覚思想が安易な現実肯定におち、悟りを求める実践の重要性を軽視していると批判した。


【『最澄と空海 日本仏教思想の誕生』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社選書メチエ、1998年)】


 批判された本覚思想というのは、“行き過ぎた肯定論”ともいうべき代物で、元々は悟っている存在なんだから修行も戒律も不要であるという主張と思われる。ただ、本覚思想の是非はともかく、インドでは人間を見つめた仏教が、中国では精神世界を、日本では人間を取り巻く大自然をも視野に入れたような印象を受けた。


 平安仏教の思想的退歩から、鎌倉仏教が台頭したという事実も興味深い話だ。律令制から武家政治へという社会の変化を踏まえると、思想と政治は時代の根っこでつながっているのだろう。


 武家政治とは、現代でいえば軍事を重んじる政治体制といえよう。軍事を無視した外交が考えられないのであれば、我々が置かれているのは鎌倉時代と似た世界なのかも知れない。とすると、明治期に輸入された西洋の思想を鋭く批判し、止揚する新たな思想・哲学・宗教を生むことが、世界の現状打開となる。

最澄と空海―日本仏教思想の誕生 (講談社選書メチエ)

2009-01-08

捉える


 それが私の心を捉えた。それとも、私の心がそれを捉えたのか?

清潔と不潔


 人は清潔なものを好み、不潔なものも好む。ここに邪悪の存在する余地がある。

有吉佐和子


 1冊読了。


 5冊目『恍惚の人有吉佐和子/初版は1972年6月。223万部という空前のベストセラーとなった。介護の先鞭をつけた記念碑的小説。著者が41歳であったことを踏まえると、立派な作品といってよい。テンポがよく、最後のページも鮮やか。何となく読めてしまう不思議な文体だ。夫の父親が認知症で「壊れてゆく」様子を、主人公・昭子の眼から描いている。時代の差を感じる表現が時折見られるが、内容自体は全く古くなっていない。中年の方は必読。

アイルトン・セナの遺言/『狼たちへの伝言 3 21世紀への出撃』落合信彦


 私の世代の男性であれば若い頃、落合信彦を読んだ時期があることだろう。そう。単なる寄り道だ。だが、活字の世界は奥が深い。寄り道同様に。


 モータースポーツに興味がなくても、アイルトン・セナの名前を知る人は多い。日本では「音速の貴公子」と呼ばれ、世界では今尚「史上最高のF1ドライバー」と賞賛されている。


 本書にはセナへのインタビューが収められているが、哲学のような深遠な響きがある。今は亡きセナの遺言に耳を傾けよう――


落合●しかし、皆が皆あなたのように素晴らしい家庭環境とチャンスに恵まれているわけではない。チャンスを全く与えられない者も多いではないか。


セナ●それは違う。皆平等にチャンスは与えられている。この世に生を受けたということ、それ自体が最大のチャンスではないか。


【『狼たちへの伝言 3 21世紀への出撃』落合信彦(集英社文庫、1995年)】


 セナへの反論は簡単である。しかし、反論すればするほど自分の人生を貶(おとし)める結果となろう。「生」というものは、肯定的に捉えなければ前へ進み出さないのだ。


セナ●多くの人間がベストを尽くし、極限まで努力する。しかし、本当の努力はその極限からどこまで行けるかということなんだ。単に極限までの努力なら誰でもできる。しかし、それでは他の者と変わらない。勝負はそこから始まる。極限をどれだけ超えられるかに勝負の結果、または人生の成功、不成功がかかってくるんだ。


【同書】


 限界からの挑戦――セナは楽観的に「生」を考えているわけではなかった。スピードが増せば増すほど、観測者が置かれた世界とは異なる時空となる。これが特殊相対性理論の主旨だ。アイルトン・セナは光に向かって走った。そして1994年5月1日、時速310kmでレース場の壁に激突し、4時間後にこの世を去った。ブラジルでは100万人以上の国民が亡き骸を迎え、国葬が行われた。合掌。

狼たちへの伝言〈3〉21世紀への出撃 (集英社文庫)

体験が人を変える/『宇宙からの帰還』立花隆


 私は本書で初めて立花隆を知った。『田中角栄研究』(1976年)や『日本共産党の研究』(1978年)が出た頃はまだ中学生であった。


 今となっては既に手垢がついてしまった「知」という言葉も、本書が刊行された頃はまだ啓蒙の薫りを放っていた。「知」は確かに脳味噌を刺激し、攪拌(かくはん)した。


 どんな体験でも体験者を少しは変えずにはおかない。とるに足りない体験はとるに足りないくらいに、小さな体験は小さく、大きな体験は大きくその人を変える。といっても体験の価値的大小は主観的判断だから、ある人ににはとるに足りない体験に過ぎないものが別の人にはその生涯を変えるような体験になるということも、またその逆もしばしばである。


【『宇宙からの帰還』立花隆(中央公論社、1983年/中公文庫、1985年)】


 山本周五郎が、「小さな体験から大きく感じ取っていける人が偉い」と言っていたように記憶している。「一を以て万を知る」ということなのだろう。


 仏教の「業(ごう)」という思想からすれば、「体験が人を変える」のではなくして、「体験の集積が自分を形成する」ということになる。ここでも大事なことは、外界の出来事をどう「感」じ、内面からどのように「応」じてゆくかという「感応(かんのう)」である。縁起という羅列の世界は、感応によって生を吹き込まれ、大車輪の如く回転を始める。


 宇宙を体験した人々が激変する。彼等が見た宇宙空間よりも、彼等が感じた世界を知りたいものだ。なぜなら、宇宙飛行士が見たものは、結局のところ自己の内面の豊かさであったと思われるからだ。


 名もなき野の花に心奪われる時、美は花と己心の間に生じる。「縁(よ)りて起こる」のは、対話にも似た交歓の世界だ。

宇宙からの帰還 (中公文庫)

2009-01-07

ロボット三原則が選ぶ究極の人間/「心にかけられたる者」(『聖者の行進』所収)アイザック・アシモフ


 とっくに絶版になっていたと思いきや、まだ発行されていた。SF界大御所の名作短篇集。


 ロボット三原則は、アシモフが考案したもので、作品中のロボットは例外なくこの原則に従うようプログラムされている。内容は以下の通り――


第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。


 ロボットは人間の僕(しもべ)であり、ロボットからすれば人間は神だった。こんなところにも、キリスト教の強い影響が見てとれる。


 最新式のロボットであるジョージ10と、旧式最高峰のジョージ9が「ロボット三原則」を確認する。そのやり取りがこれだ――


 かなりの時間が過ぎてから、ジョージ10は低く言った。「きみの考えをテストさせてくれないか。きみは第二原則を正しく適用することのできる知能を与えられているね。きみは、矛盾した命令を受けた時、どちらの人間に服従するべきか、どちらの人間を拒否すべきか、判断しなくてはならない。あるいは、そもそも人間の命令に従うべきかどうかを判断しなくてはならないこともあるね。その場合、きみはまず、基本的にはどうしなくてはいけないかな?」

「“人間”という言葉を定義しなくてはならないね」ジョージ9は言った。

「どんな風に? 外見によってかい? 組成でかい? 大きさや、姿形かな?」

「いや、外見がまったく同じ人間が二人いたとしても、片方は頭がよくて、もう一方は馬鹿かもしれない。片方は教養があって、もう一人は無学かもしれない。一方は大人で、もう一方はまだ子供だということもある。片方は堅気で、もう一方は性悪、ということだってあるからね」

「だったらきみは、人間をどう考えるんだね?」

「第二原則が、ロボットは人間の命令に従わなくてはならない、といった場合、ぼくはそれを、健全な精神と円満な人格を備えた、しかも、その命令を発するにふさわしい知識の裏付けがある人間に従うこと、と理解するんだ。相手の人間が複数であった場合は、その中で誰が最も健全な精神と円満な性格の持ち主で、かつ命令を発するにふさわしい知識の裏付けがあるかを判断して、その人間に従う」

「とすると、きみは第一原則にはどう従う?」

「人間には決して危害を加えないことさ。それから、手を下さずに人間が危害を受けるのを黙視するような真似をしなければいい。でも、もし許された行動のどれを取っても人間に何らかの危害がおよぶとしたら、その時は、最も健全な精神と円満な性格の持ち主で、かつ知識を豊富に持っている人間が受ける危害を最小にとどめる行動を選ぶ」

「きみの考えは、完全にぼくと一致しているね」ジョージ10は言った。「それでは、最後の質問をするよ。もとはといえば、ぼくはこの質問のために、きみの協力を要請したんだ。ぼくはこの問題を自分で判断したくない。きみの判断を聞きたいんだ。つまり、ぼくの考え及ぶ範囲外の意見を知りたいんだよ。……これまできみが会った理性的人間のうちで、誰が一番健全な精神と円満な性格、それから、豊富な知識を持っていると思う? 姿形はこの際だから考えに入れないとして」

「きみだよ」ジョージ9は囁いた。

「でも、ぼくはロボットだよ。きみの頭脳回路には、金属製のロボットと肉体を持った人間を区別する基準があるはずじゃあないか。それなのに、なぜきみはぼくを人間と同等視するんだ?」

「それはね、ぼくの頭脳は人間を判断するに当たって、姿形を無視せずにはいられない。それは、金属と肉体の区別さえも二の次であるほどの強い要請なんだ。きみは人間だよ、ジョージ10。おまけに誰よりも優秀だ」

「ぼくは、きみのことをそう思っている」ジョージ10は言った。「ぼくたちの頭脳に組み込まれた判断基準からすると、つまりぼくたちは、三原則に盛られた意味の枠内で、人間なんだ。それだけじゃない。何人よりも上位に置かれるべき人間なのだよ」


【「心にかけられたる者」(『聖者の行進』所収)アイザック・アシモフ/池央耿訳(創元推理文庫)】


 この判断に矛盾はない。ゲーデルだってそう言うはずだ。それにしても、「ぼくの頭脳は人間を判断するに当たって、姿形を無視せずにはいられない」というジョージ9のセリフは強烈だ。我々人間は、「姿形」を重要視する。我々が敬意を示すのはいつだって、地位や名誉、肩書や財産に対してであって、人間的な評価は不問に付している。


 大衆消費社会は損得という行動原理で機能している。人は、利益が見込めれば下げたくない頭を下げ、愛想笑いを振りまき、数千年前には存在したであろう尻尾を振る。あるいは、一席設け、プレゼントを贈り、「別に大したことではありません」と謙遜してみせる。利益こそは、善であり正義なのだ。


 そう。まるで腹を空かせた野良犬と変わりがない。ということで、私はロボットによる政権を望み、期待することにした。ジョージ10総理万歳。

聖者の行進 (創元SF文庫)

2009-01-06

寄る年波


 たった今、部屋の中でウイスキーの瓶につまずいて転んだ。私の足に、寄る年波の大波小波が襲いかかった瞬間だ。

立川武蔵


 1冊読了。


 4冊目『最澄と空海 日本仏教思想の誕生立川武蔵/鎌倉仏教に強い影響を与えた最澄空海の思想がよくわかる。唐の国に渡って学んだ二人は共に密教を学んだ。また、インド仏教と中国仏教、そして日本仏教の根本的な相違も理解できる。新しい思想の輸入は、文明開化の賑やかさを想起させる。中級者向け。

ユングは偶然の一致を「時間の創造行為」と呼んだ/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング


 科学的・数学的見解を前半で示し、劇的な偶然が織り成すドラマを後半にずらりと並べている。つまり、「恐るべき事実の数々が“単なる偶然”で説明できるのか?」という挑発的な姿勢を貫いている。


 偶然の一致とは何か――


 ユングは偶然の一致を「時間の創造行為」と呼んだ。これらのエピソードの持つ力そのものと、登場する人物たちが感情を放出し、気持ちを変化させていくようすを見ていると、この言葉はまさに言い得て妙というところだ。


【『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング/有沢善樹、他訳(アスペクト、2004年)以下同】


 ユングらしい上手い言い草だ。では、どのような創造がなされたか? 一つだけ紹介しよう。


 1841年にカナダのプリンスエドワード島東岸の町で生れたチャールズ・フランシス・コフランは、当代きってのシェークスピア劇の名優だった。

 1899年11月27日、コフランはアメリカ南西部にあるテキサス州の港町ガルベストンでの公演中に、突然の病に倒れてまもなく亡くなった。遺体は、遠く離れた故郷に送るのは無理だったので、鉛で縁取った棺に入れられ、町の共同墓地にある石造りの地下納骨所に埋葬された。

 およそ1年後の1900年9月8日、大きなハリケーンがガルベストンを襲った。大波が墓地に激しくたたきつけ、納骨所はめちゃめちゃに壊れた。コフランの棺は波にさらわれてしまった。

 棺はメキシコ湾に流され、そこからフロリダ沿岸を漂流して大西洋に達し、メキシコ湾流に乗って北に運ばれた。

 1908年10月、プリンスエドワード島の漁師たちが、風雨に打たれてひどく傷んだ長い箱が浅瀬に浮かんでいるのを見つけた。9年の歳月を経て、チャールズ・コフランの遺体は5600キロも離れた町から故郷に帰ってきたのである。棺は島の人びとの手で、彼が洗礼を受けた教会の墓地にあらためて埋葬された。


 まるで漫画の世界。いや、漫画だってここまで都合のいい展開はないだろう。人間の想像力を軽々と凌駕するほどの衝撃的なドラマである。


 人間心理が偶然の一致にこれほど魅了されるのは、「つながり」を求める心理的回路があるためだろう。仏教の「縁起」という思想も同様だと思う。で、一旦つながりを見出すと、次に物語が作られる。で、物語はおのずと起承転結の力学に従うというわけだ。人々はいつだって「完結するドラマ」を求めているのだ。


 そして、起承転結の「転」には不思議という名のスパイスが不可欠となる。これこそ「偶然の一致」であり「神からの恩寵」であり「ご先祖様の守護」なのだろう。


 結論――人間は理にかなった人生を嫌う(笑)。

本当にあった嘘のような話 (アスペクト文庫 B 19-1)

権力者は利用できない人間を圧殺する/『冒険と日本人』本多勝一


 昨今はやや落ちぶれた感のある本多勝一だが、権力と対峙する姿勢を彼から学んだ人も数多くいることだろう。


 ある山国に、跳躍力の並はずれて強い男が現れました。高い塀などらくらく跳び越えます。今でいえば高跳びの選手にんるところでしょう。とにかく村中の評判になりました。評判は地方の大名の耳にはいり、やがて将軍の耳にもはいります。ついに将軍が「呼びよせて、やらせてみよ」と命ずる。そのとき、跳躍して越えるべき柵の反対側、男の着陸する地点に、たくさんの竹槍が植えこまれていたというのです。少しでも変わったことをするものは、権力者にとって明らかに利用価値があるものでない限り、高跳びでさえも危険な冒険とみて圧殺の対象とされたのでしょう。


【『冒険と日本人』本多勝一(集英社文庫)】


 今読むと、真偽のほどが疑われるような文章である。本来であれば特定すべき人名や地名、はたまた年代などが全くの不明。私の手元にある古いノートにはこの箇所しか記されていない。


 しかし、取り敢えずのところは、このエピソードが歴史的事実であったと仮定して話を進めよう。私が驚いたのは、「竹槍を植えこんだ」ことだ。権力者は、並外れた跳躍力を確認した上で殺害している。家来に命じて斬ることなどわけもないのに、わざわざ舞台装置を作ったのだ。実際の作業に携わった者は複数名はいたであろうし、作業を見つめていた人々もいたはずだ。かような目撃者は否応(いやおう)なく「権力の恐ろしさ」を確認させられる羽目となる。しかも、だ。多分、こうした具体的な計算はしていなかったことだろう。ここが恐ろしいのだ。


 社会のあらゆる集団が組織化されている。組織が形成されると、必ずそこには権力が生ずる。権力とはわかりやすく言えば「人事と金」だ。そして、組織の力学は、本来の目的を無視して「組織の維持、拡大」に向かう。こうして、組織は「人間をコントロールする」ようになるのだ。権力の本質がここにある。

冒険と日本人

苦楽を分かち合えぬ人間は「わらくず同然」/『妻として母としての幸せ』藤原てい


 講演を編んだもの。これは聴いてみたかった。既に長女の藤原咲子さんが『母への詫び状 新田次郎、藤原ていの娘に生まれて』(山と渓谷社、2005年)で明らかにしているが、ていさんは既に認知症である。藤原正彦(次男)の『祖国とは国語』でも、記憶が薄れゆく姿が描かれていた。


 満州からの壮絶な引き上げ体験(『流れる星は生きている』)が、単純明快な哲学となってほとばしっている。


 この人生を生きていくうえに、人様の喜びを素直に手を取り合って喜び合うことのできない人生、人様の悲しみを悲しんでやることのできない人生、それはわらくず同然だと私は思います。生きていく甲斐のない人生だと思います。


【『妻として母としての幸せ』藤原てい聖教新聞社、1982年)】


 わかりやすい言葉には、鞭のような厳しさが込められている。死線をくぐり抜けた者だけが知る真実に彩られている。問いかけではなく断定。「生きる姿勢」は考えるものではなく、先人である大人が指し示すべきものだ。小気味いいほどの確信こそ、藤原ていの魅力だ。


「わかる」とは、「分ける」の謂いである。「はっきりした言葉」が善悪を分けるのだろう。

妻として母としての幸せ

2009-01-05

拘置所は時空を制限する/『死刑囚の記録』加賀乙彦


 社会といえば聞こえはいいが、所詮「群れ」である。それは進化論的に見れば、「生きてゆくための群れ」に他ならない。で、コミュニティ(群れ)の目的は食糧確保と子孫を残すことだ。類人猿の代表選手であるチンパンジーの世界ですら、敵と認識されれば殺されることになる。異なる群れの場合は、メス以外全員が殺害される。遺伝子のエゴイズムは情け容赦のない暴力として作動する。

 本来、法律はコミュニティを破壊する者を罰し、社会から隔離するかどうかを判定するものであったのだろう。それがいつしか、人間よりもでかい顔をするようになってしまった。法廷は互いの権利を叫び、相反する利害を調整する場になっている。


 拘置所、それは国家が在監者を拘禁し、戒護し、厳格な紀律にしたがわせる場所である。在監者の側からいえば、時空にわたっての、あらゆる自由が制限されるところである。囚人に残された最後の自由、生きることまでが制限されているのが死刑確定者なのである。


【『死刑囚の記録』加賀乙彦(中公新書)】


 罪を犯した者が社会から隔離され、自由を奪われるのは当然だ。しかし、人間が人間を裁く以上、完全無欠ということはあり得ない。少なからず冤罪(えんざい)というケースも散見される。


 折りしも、今年の5月21日から裁判員制度が実施される。法律に無知な国民の判断は、今まで以上の冤罪を生んでしまうことだろう。法の使用如何(いかん)によっては、一人の人を苦悩から救い出しもすれば、死の淵へ追いやることさえある。


 また、法律の致命的な欠陥として、あらゆる犯罪を網羅しているわけではないため、新手の犯罪については裁ききれない。裁判という営みは、善悪を判断するわけではなく、飽くまでも適法か違法かを問うているのだ。


 もっと簡単でわかりやすく、誰もが納得できる法体系としなければ、安全なコミュニティの形成は困難であろう。


死刑囚の記録

2009-01-04

バッハはリズム、モーツァルトはメロディ、ワーグナーはハーモニー/『J・S・バッハ』礒山雅


 私が持っているクラシックのCDは『マタイ受難曲』(カール・リヒター指揮、1958年盤)だけである。だが私は、このたった一つのクラシック作品を、他のポピュラーミュージックよりもはるかに多く聴いている。そう。りんけんバンドルー・リードよりもだ。ここには、キリスト教世界の華麗なまでの荘厳さがある。


 バッハ入門としてはうってつけの一書である。これも「贅沢な新書」の部類に入る。


 リズム、メロディ、ハーモニーを音楽の三要素という。リズムは音楽の時間を構成するもの、ハーモニー(和声)は音楽の空間を構成するもの、メロディ(旋律)は、両者の接点に生れる、音楽の「顔」のごときものである。ごく単純化していえば、リズムは音楽の生命力を、旋律は音楽の美しさを、ハーモニーは音楽の深さを表現する。一般には旋律に関心が寄せられるが、音楽に対してもっとも根本的なものはリズムであり、これがなければ、音楽は成立し得ない。

 天才の音楽は三要素のいずれもが卓越しているものであるが、あえていえば、バッハの音楽でとくに際立っているのは、リズムだろう(バッハのとるテンポが生き生きと速かったという、同時代の証言もある)。これに対し、モーツァルトでは旋律が、ワーグナーではハーモニーが傑出していると思う。バッハがとりわけリズミックに感じられる理由のひとつは、通奏低音と呼ばれるバス声部が、たえず「下から」動きを続けているためだろう。


【『J・S・バッハ』礒山雅〈いそやま・ただし〉(講談社現代新書、1990年)】


 バッハがリズムであることは、ジャズ・プレイヤーによって演奏していることからも理解できる。本当のところは、よくわからんが……。だって、1曲しか知らないんだからねえ。


 リズム、メロディ、ハーモニーという視点は、「人の話し方」にも当てはまりそうで面白い。

J・S・バッハ (講談社現代新書)

基本的なことを発生的な方法で教える/『自由の森学園 その出発』遠藤豊


 林竹二を読んで遠藤豊に辿り着いた。自由の森学園は、学生自治を重んじる自由な校風。その後、学校経営が上手くゆかず菅原文太を担ぎ出したこともあった。既に廃校かと思いきや、まだ存続していた。

 遠藤豊が教員に求める授業はこうだ――


 私は先生がたにいつもこういうんです。「あんまりたくさん教えるな」と。そして、より基本的なことを、より少なく、しかも、より発生的な方法で教えるように、といってます。発生的な方法で教えるというのは、知識をできあがった、きまりきったものとして子どもに解説しておぼえこませるというのではなくて、子ども自身が知識の発生過程に参加する授業をつくるということです。(中略)

 そのためには、教師はどんな内容であれ、わかりきっていると思う内容であっても、それをもう一度、自分に問いなおしてみないといけないですね。そして、その知識の根拠、それ自体を明らかにしていかないといけない。


【『自由の森学園 その出発』遠藤豊(太郎次郎社)】


 基本を徹底的に習得させ、派生的な思考法を身につけさせるという視点が素晴らしい。ただ、実際にやるとなると相当困難を極める。


 20代半ばで読んだ時はぶったまげたものだ。教員が生徒に敬意を払い、生徒は責任と自立をもってそれに応えた。「自由ってのは、まったく凄いもんだな」と私は感嘆した。


 しかし、時の流れは人間を変える。まして20年という時間があれば何度も変わっている可能性すらある。私は変わった。清らかな心は煙草のヤニで黒々と染め上げられ、不潔を憎んだ精神はたっぷりとアルコールに浸(ひた)ってしまった。社会の常識に叩かれ、取引先からの無理な条件に打ちのめされ、三度の食事の後で「煮え湯」を飲むライフスタイルが定着してしまった(一部フィクションが含まれます)。


 私は遠藤先生に言いたい。「生徒達が、社会をなめてかかるような左翼かぶれになりゃしませんかね?」と。「若いうちに厳しくやっておかないと、付け上がりませんかね?」と。


 どうやら私は老境に入ってしまったようだ。私が言いたいのは、それほど大それたことではない。「自由には危険がつきものだ」ということだ。自分の自由が拡大する時、誰かの自由を奪ってやしないか? そういったレベルの自省的思考を教えるのが先だと思う。


 私は、『真剣10代しゃべり場』を見るたびに、「俺が司会者だったら、全員ぶん殴っているところだな」とため息をつくような大人になってしまった。

自由の森学園 その出発

寿命は違っても心臓の鼓動数は同じ/『ゾウの時間ネズミの時間 サイズの生物学』本川達雄

 1992年発行。いまだに売れているようだ。翌1993年のベストセラーを見ると28位で、高村薫のマークスの山』の次点。本書を開いて蒙を啓(ひら)かれた人々は、それまで手を出さなかった科学本に触手を伸ばした。私もその一人だ。「贅沢な新書」といってよい。


 哺乳類はサイズが大きくなるほど寿命が長くなる。では視点を変えるとどうか――


 寿命を心臓の鼓動時間で割ってみよう。そうすると、哺乳類ではどの動物でも、一生の間に心臓は20億回打つという計算になる。

 寿命を呼吸する時間で割れば、一生の間に約5億回、息をスーハーと繰り返すと計算できる。これも哺乳類なら、体のサイズによらず、ほぼ同じ値となる。

 物理的時間で測れば、ゾウはネズミより、ずっと長生きである。ネズミは数年しか生きないが、ゾウは100年近い寿命をもつ。しかし、もし心臓の拍動を時計として考えるならば、ゾウもネズミもまったく同じ長さだけ生きて死ぬことになるだろう。小さな動物では、体内で起こるよろずの現象のテンポが速いのだから、物理的な寿命が短いといったって、一生を生ききった感覚は、存外ゾウもネズミも変わらないのではないか。


【『ゾウの時間ネズミの時間 サイズの生物学』本川達雄(中公新書、1992年)】


 何と生理的時間は一緒だった。時間に関する哲学的考察は広井良典著『死生観を問いなおす』(ちくま新書、2001年)に詳述されているが、結局は「主観的世界」である。光速に近いスピードを出すほど、観測者からは時間がゆっくりと流れ、物は縮んで見える。これがアインシュタイン一般相対性理論。時空はスピードと重力によって歪められる。

 また、「世界とは自分が認識したもののことである」という苫米地英人の指摘を踏まえれば、認知症などで意識レベルが低下すると、時間間隔は淡いものとなってゆくことが想定される。きっと、まどろんでいるような状態だろう。


 過去というのは記憶の中にしか存在しない。我々が実感できるのは、「今この瞬間」だけであり、未来と現在の接点に立たされている。現在はたゆみなく過去へ流され、「死」という水脈に向かうのが人生なのだろう。


 動物のサイズと生理的時間に相関関係があるとすれば、人間のサイズと人生の充実にも適用できそうだ。

ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学 (中公新書)

2009-01-03

マーティン・プリマー、ブライアン・キング、野田正彰


 2冊読了。


 2冊目『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング/これは面白かった。第一部では科学や数学の情報を盛り込みながらも、第二部で驚くべきエピソードを並べ立て、「偶然教」の信者を木っ端微塵にしようとする意図が明白だ。「まあ、よくぞここまで集めてくれた」と感嘆するほど凄い。少しばかり気になったのは、訳者が4人いるのだが、第二部が章立てされていないため、非常にわかりにくい。発行元のアスペクトの杜撰さが露呈している。また、後半部分の訳文がわかりにくい箇所が散見される。


 3冊目『戦争と罪責野田正彰友岡本で紹介されていたもの。これは判断が難しい本だ。日本人による戦争犯罪のインタビューが元となっている。初めのうちは恐るべき事実にただただ圧倒され、半ばから「あれ?」という疑問が湧いてくる。本来であればインタビュアーである野田の立場は第二者であるわけだが、何度となく精神科医としての立場から診断、及び審判を下してしまっている。しかもこれが、「あるべき反省と悔恨の姿」を想定したものとなっていて、かような態度が傲慢に映ってしまうのだ。本書で紹介されている戦争犯罪は断じて許されるべきものではない。しかし、個々人の犯罪を暴き立て、その事実を糾弾し、本人がのた打ち回るような苦しみに喘いだとしても、贖罪(しょくざい)になるとは到底思えない。読みながら違和感を覚えるのは、『戦争と罪責』というタイトルがどうしても大きなテーマに見えてしまうためだ。正確を期すならば、『戦争犯罪に駆り立てる精神病理と彼等の戦後』とすべきであろう。国家を不問に付して、個々人の罪を責め立てているように感じてならなかった。これについては、私の読み間違いということもあり得る。数年後に再読したい。

年齢を重ねる意味/『折々のうた 第十』大岡信編


 大岡信の「折々のうた」は朝日新聞の朝刊一面で、1979年1月25日から2007年3月31日まで連載された。引用は2行でコラムは180字。葉書に収まりそうなわずかな字数で、多くの読者を句歌の世界へ誘(いざな)った。


 年をとる それはおのれの青春を

 歳月の中で組織することだ


『途絶えざる詩II』(1935)所収。上記詩集は20世紀前半のフランスを代表するこの詩人の没後1年して刊行された。右の2行は700行近い長編詩「よそにもここにもいずこにも」の中にある。私は詩集刊行当時この詩を読み、何とか日本語に移そうと試みたが中途で挫折した。したがって右の詩句は未完の訳からという変則的なことになるが、ここに含まれる生への洞察に敬意を表して、あえて引用した。


【『折々のうた 第十』大岡信〈おおおか・まこと〉編(岩波新書、1992年)】


 この本に収められているのは、ちょうど私が朝日新聞を購読していた頃の連載。日本航空が世界の子供達による「ハイク」を集めて『地球歳時記 世界こども「ハイク」コンテスト'90』という本となった。ここからの引用が私の目を引いたのだ。


 ポール・エリュアールの言葉も実に味わい深い。たとえ、いくつになったとしても過去は「俺の若い頃は――」と語られるわけだから、人は死ぬまで青春を謳歌できるのかも知れない。

折々のうた〈第10〉 (岩波新書)

成長を助ける意志/『教育の再生をもとめて 湊川でおこったこと』林竹二


 20代半ばで読んだ。林竹二は勝負師であった。「何が何でも子供を幸せにしてみせるぞ」という一点で勝負していた。だからこそ、授業に全精力を傾けた。


 宮城教育大学の総長という立場を経た後、林竹二は全国の小学校や、定時制高校を行脚する。そして、あらん限りの力で授業に取り組む。兵庫県の湊川高校は、読み書きすらできない学生が多かった。過酷な貧困が学ぶ機会を彼等から奪っていたのだ。


 本書では、授業内容と共に、学生の変化が写真に収められている。


 教育においては、教えるということの根底に「育てる」ということがなければならない。成長を助けるという意志が──さらに生命にたいする畏敬の念がないところには、教育はないのだが、いのちのあるものにたいする敬虔が、いまの一般の学校教育のどこにあるというのだろうか。


【『教育の再生をもとめて 湊川でおこったこと』林竹二(筑摩書房、1984年)】


 この人の言葉には嘘がない。自分の授業内容を貪欲に吸収する生徒にたじろぎ、自分の「持っている力」が少ないことを嘆いているのだ。


 林竹二の授業に知識は通用しない。「人間の本質」を考えることを強いられるからだ。このため、勉強できない生徒の方が生き生きとして答える。最初は後ろ向きだった女子高生が、横向きとなり遂には前を向く写真が掲載されている。これこそ、「授業の力」であり「教育の力」であろう。


 生徒達からの感謝の手紙が、また泣かせる。


 教育にとどまらず、「本気で人間と向き合う姿勢」を林竹二は教えてくれる。

教育の再生をもとめて―湊川でおこったこと

魔女は生木でゆっくりと焼かれた/『魔女狩り』森島恒雄

 12世紀にカトリック教会は異端審問を始める。教会に歯向かう者は叩き潰しておくに限るってわけだ。キリスト教における神は絶対的な存在である。人間は「神に似せてつくられた」存在であり、「僕(しもべ)」に過ぎない。こうした差別観をテコに、教会は権力を手に入れた。


 Wikipediaによると、「魔女狩りはスイスとクロアチアの民衆の間で始まり、やがて民衆法廷という形で魔女を断罪する仕組みがつくられたという」。当初は魔女裁判と一線を画していたカトリック教会だが、15世紀になると「異端=魔女」というイメージが形成され、ヨーロッパを覆っていた反ユダヤ主義と結びついた。


 ウーム、調べものをしながら書いていると頭が痛くなってきた。結局、15〜18世紀の間に4万人が殺されたとされているが、正確な事実はいつまで経ってもわからないことだろう。


 最も悲惨な処刑方法はこうだ――


「私はその経過を全部見届けました。……女の方は炎の中で半時間、男は1時間以上も生きていました。……その男が焼かれながら嘆願する悲痛な声が長い間聞こえていました。それは、もう少し薪(たきぎ)を加えて下さいというだけの願いでした。が、その願いは聞き入れられませんでした。……その背中だけは完全に焼けましたので、彼が上体をよじらせると肋骨(ろっこつ)が現れました」(※のろのろと燃える生木の火刑)


【『魔女狩り』森島恒雄岩波新書、1970年)】


 衆人環視の中でこんなむごいことが行われていたのだ。中世のルネサンスは魔女の血で染められていた。プロテスタントの祖マルティン・ルター宗教改革の火の手を上げたのが1517年(95ヶ条の論題)。反ユダヤ主義に反対したルターですら、熱狂的に魔女狩りに取り組んだ。ケプラーの母親も、ニュートンの祖母も魔女だった。


 私が言いたいことはこうだ。欧米に共通の歴史である以上、キリスト教の影響が考えられる。そして、「宗教上の対立が戦争に至る」というケースの殆どがキリスト教である。つまり、キリスト教の思想に人間をヒステリー状態に追い込む原因があるのではないか。ルワンダもキリスト教に支配されていた。


 キリスト世界における戦争の周期、そしてキリスト教思想がどのような心理的負担を与えるか、こうした研究が求められる。いずれにしても、神を天上から引き摺り下ろさない限り、戦争はなくならないと私は考える。

魔女狩り (岩波新書)

2009-01-02

自殺


「自殺は逃避に過ぎない」と君は言う。

「じゃあ、死んでみせろ」と私が言う。

 私はどうしても、自殺した人々を見下すことができない。

 たとえ狂気に取りつかれていたとしても、そこに自由意志を感ずるためだ。

孤独


 私は君の孤独を知っている。

 だが、君はそれを知らない。

 そして、孤独は私に襲い掛かるのだ。

離婚


 君は「夫が話を聞いてくれなかったら離婚した」と言った。

「じゃあ、話を聞いてくれたら離婚しなかったのか?」

「うん」

 それは違う。亭主が君の存在を否定したからこそ、君は離婚したのだ。

礒山雅


 1冊読了。


 1冊目『J・S・バッハ』礒山雅(いそやま・ただし)/私が聴くクラシックはバッハの『マタイ受難曲』だけである。仕事中にも流している。本書は、うってつけのバッハ入門である。バッハの人となり、バッハが生きた時代、音楽性の潮流まで知ることができる。よくぞ、新書にここまで盛り込んでくれたものだと感心する。バッハは聴衆にではなく、神に向かって音楽を放っていた。そのうち、『ヨハン受難曲』も聴いてみることにしよう。

心と体の適応力/『文明の逆説 危機の時代の人間研究』立花隆


 私が初めて読んだ立花隆の作品である。それぞれのテーマは実に興味深いものであったが、どうもこの人の「マス視線」が気に入らない。文明を俯瞰し過ぎているように感じたことを覚えている。


 同じストレスを受けても、人によって心と体の適応力がちがう。体が耐えて、心が耐えられないとノイローゼになり、その逆だと心身症の病気になる。で、心臓神経症を直してやるとノイローゼになり、ノイローゼを直すと心臓神経症が再発といったことも起こるのである。


【『文明の逆説 危機の時代の人間研究』立花隆(講談社文庫)】


 これは、ガボール・マテと似た指摘だ。通常は、身体よりも心の方が柔軟性に富んでいるため、心理的なストレスは蓄積されやすい。そして、容量をオーバーすると「身体が悲鳴を上げだす」わけだ。


 自然の摂理も人間の心身も絶妙なバランスで保たれていることがわかる。それが崩れると、余計な部分に負荷がかかる。そして、ダメージが継続すると破壊に至るのだ。


 適応とは、環境要因の変化に対して主体的な働きかけをしてゆくことだと思う。進化とは、受動だけでも能動だけでもなく、外部環境の変化を内なる世界に取り込み、そこから更に外へ開いてゆくような感覚ではないだろうか。


 と書きながら、部屋は煙草の煙だらけで、コーヒーをがぶ飲みするのであった。これだけ嗜好品が好きなところを見ると、人間ってえのあストレスが好きなのかも知れませんな。

文明の逆説―危機の時代の人間研究 (講談社文庫)

情報が戦局を左右する/『落語的学問のすすめ Part2』桂文珍


「ストレス」という言葉をやたらと聞くようになった後、「情報化社会」と言われ始めたと記憶している。昭和50年代の後半ぐらいだと思う。


 Wikipediaでは、「1990年代半ばにインターネットや携帯電の普及に伴って」としているが、それ以前から人口に膾炙(かいしゃ)していた。バブル経済華やかな頃から「知」ということばが氾濫し、文字通り「知の戦国時代」の到来を思わせた。


 バブル経済の象徴的なエピソードがある。画廊で絵を購入する。で、買ったばかりの絵を、通り一本隔てた向かいの画廊で売ると、それだけで数十万円の利益が出た。土地の価格に至っては、「絶対に下がることはない」という神話に支えられ、上昇する一方だった。


 つまり、だ。「情報」が「金」になる時代が幕を開けたということだ。ここに、それまでの「情報」と決定的な差があるのだ。大体、人間社会というものは古来から、「情報化」されていたわけだからね。


 で、情報といえば、我々ミステリ愛好家が直ちに思い浮かべるのは「諜報活動」である。特に戦時下の情報は時に戦局を左右するほど重要であった。


 例えば、戦争のときに、味方の先に行って敵状を調べてくる「斥候(せっこう)」いうのがおりますね。彼らが調べてきた情報がウソであれば、戦には負けてしまう。だから、間違った情報というのは敵やと、その覚悟でいつも情報の取捨選択というのをぐわーんとせにゃいかんわけですねっ。


【『落語的学問のすすめ Part2』桂文珍(新潮文庫)】


「斥候なんて古いよ」と笑うことなかれ。そもそも、戦争で初めて電信が使われたのはクリミア戦争中の1854年のことだった。戦場にいる軍隊をホワイトハウスから指揮したのは、南北戦争のリンカーン大統領が最初である(ジェニファー・ウーレット著『黒体と量子猫』ハヤカワ文庫)。


 ワーテルローの戦いでナポレオンを打ち破った功労者は、プロシア軍に正しい道を教えた一牧童であったといわれる。桶狭間(おけはざま)の合戦で今川義元を破った織田信長は、勲功の第一に、義元の移動の情報をもたらし、急襲を勧めた一武将を選んだ。いつの世も「情報は力」であった。


 慎重な態度が必要とされる時もあれば、果断を求められる場面もある。情報の取捨選択は一筋縄ではいかない。そのためにも、普段から「正反対の視点」を失いたくないものだ。

落語的学問のすすめ Part2

2009-01-01

教養


 知識と知識とがつながり合い、熟成し、発酵すると、教養になる。そして教養は、見識に磨きをかける。

情報


 情報を加工し、変質し、伝達する媒体――私。

昭和の脱獄王・白鳥由栄/『破獄』吉村昭


 主人公・佐久間清太郎のモデルは白鳥由栄である。小説ではあるが実話に基づいている(尚、リンクを紹介しようと思ったが、ネタバレとなるのでやめた)。


 自由とは、束縛から解放されることだ。だからこそ、佐久間は脱獄を繰り返し、トゥルーマンは舞台から去って行ったのだ(『トゥルーマン・ショー』)。


「このトーチカ房から逃げられるというのか。逃げられるなら逃げてみろ」

 看守は蔑笑する。

「人間の作った房ですから、人間が破れぬはずはありませんよ。あんたの当直の日に逃げてみましょうか」


【『破獄』吉村昭(新潮文庫)】


 その後、佐久間は3.2メートル上方の明かり窓から脱獄した。あきらめない限り、自由への道は開かれていた。そして佐久間は「あきらめる」ことを知らない男だった。


 自由には二種類ある。フリーダム(freedom)とリバティ(liberty)と。束縛からの自由がフリーダムで、何かを自由に行うことがリバティである。基本はフリーダムだ。だから、メル・ギブソンも『ブレイブハート』でそう叫んでいる。


 果たして我々は本当に自由なのだろうか? 社会的・政治的制約に縛られ、常識に額(ぬか)づき、立場を重んじ、あるべき姿を演じているだけではないのか? トゥルーマンのことを映画の世界と一笑に付すことができないのは私だけではあるまい。我々はいつだって、必要もないのに頭を下げ、愛想笑いをし、相手の話に相槌を打ってしまうのだ。台本通りに進行する下らないテレビ番組と変わりがないね。


 自由であるためには身軽でなくてはならない。そのため、私は今年から無一物を目指す。最終段階では、かみさんを捨て、家族を捨て、更には知識を捨て、思想を捨てる予定だ。できることなら、自分自身も捨ててしまいたい(笑)。さあて、脱獄するぞ。

破獄 (新潮文庫)

幸福は外に現れる/『人生論ノート』三木清

 新年、明けましておめでとうございます。本年も宜しくッス。


 さて、新年一発目は明るい内容で行きたい。いつも、怒ってばかりいるからね。『人生論ノート』はいまだに380円という値段である。自転車に乗りながら携帯メールを打っている愚かな高校生や、電車内で堂々と化粧をする馬鹿女は10冊ほど買っておけと言いたい。


 機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人ではない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。


【『人生論ノート』三木清(新潮文庫、1954年)】


 つまり、「幸福という状態」は必ず観測され得るという話だ。アインシュタイン相対性理論によれば、光速に近づくほど時間が遅くなることが証明されているが、そうであったとしても幸福は幸福なのだ。


 苦虫を口の中で飼育していると言われる野村監督でさえ、マー君が勝つと機嫌がよくなる。


 また、幸福が「表現的なもの」であるとすれば、それは「関係性の中」で発揮されることになる。感動は、常に他人と分かち合いたくなる衝動をはらんでいる。特に私の場合、「感動の押し売り」といったレベルにまで発展する。


「幸せ」というやつは滲み出る。そして、こぼれ落ちるような代物なのだ。まるで、恥じらいながら微笑む新婦のように。


 しかし、だ。離婚する新婦も山ほどいる。ということは、「幸福の慣性」はあまり働かないってことだな。この世は摩擦係数に満ち溢れている。


 教訓。幸福は摩擦をものともしない加速度が続く限り維持される。


 皆々様が幸福な一年でありますように――と綺麗事で締め括っておくか(笑)。

人生論ノート (新潮文庫)