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2009-02-01

ブライアン・グリーン、鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし


 2冊読了。


 15冊目『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン(草思社、2001年)/林一、林大訳。これは、佐藤勝彦監修『「量子論」を楽しむ本 ミクロの世界から宇宙まで最先端物理学が図解でわかる!』よりもわかりやすかった。超ひも理論の権威とは思えぬほど語り口が優しい。更に比喩が実に巧み。514ページで2310円という値段も良心的だ。私が読んできた超ひも理論の中では一押し。


 16冊目『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし(産報ノンフィクション、1963年)/知識人という知識人がマルクス主義に走っていた時代背景を考慮すると、マルクス主義の懐の深さが窺える。創価学会とは距離を置きつつも、真摯かつ率直な批評に好感が持てる。哲学的、社会心理学的アプローチが興味深い。

「私」とは属性なのか?〜空の思想と唯名論/『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵

 ここで展開されているのは初期仏教の「空」(くう)であり、その後、中国〜日本を経て、空の思想は変容する。いつの時代も、「自分」とは何かと考える人々はいたのだろうが、インドの豊かな思想が徹底した分析を加えている。


 ある基体(y)にあるもの(x)が存すると考えられる場合、xをダルマ(dharma 法)とよび、その基体yをダルミン(dharmin 有法〈うほう〉)と呼ぶ。「法」という語にはさまざまな意味がある。掟という意味もあり、義務、正義でもあり、教え、さらにはあらゆるもの、存在をも意味する。一方、哲学的な論議においてダルミン(有法)と対になった場合には、ダルマがそこで存在する基体を意味する。

 もう一度白い紙を考えてみよう。この紙には、無色透明ではあるが基体として一つの場があって、その場には白色という属性があり、さらに大きさ、形、匂い、重さといった属性も存すると考えられる。

 さて、これらの属性を取り除くことができたと仮定してみよう。白色を取る、匂いを取り除き、重さを取るというようにして、すべての属性を取り除くことができたとしよう。最後に何か残ると考える人もいるだろうし、何も残らないと考える人もいるだろう。

 結論的にいって何も残らないという方が仏教的なのである。無色透明ではあるが基体と呼ぶべき何ものかが存在するというのが、バラモン正統派の考え方である。神という基体から白色などの属性を全部取り除いた後にも、目には見えない、匂いもしない、しかし、それがなければ成立しないというような場が残る。何かそのような場なければ、さまざまな性質が集まった現象世界が成立しないだろう、というのばインドのバラモン正統派の考え方である。


【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社学術文庫、2003年)以下同】


 シャンカラ(バラモン正統派の唯名論を代表する人物、8世紀に活躍し30代で死亡)の思想モデルとして、フルーツゼリーを考えてみよう。ゼリーの中に入っている小さく切られたオレンジ、ピーチ、サクランボなどの「具」は、すべてゼリーの中に閉じ込められている。ゼリーがブラフマンにあたり、オレンジなどが属性にあたる。フルーツの色や形などの現象はゼリーを通して見ることはできる。しかし、ゼリーという基体の外では存在しない。シャンカラによれば現象世界は幻(マーヤー)なのである。幻といっても現象世界が無だというわけではない。それなりの存在性は認められているのであるが、このブラフマンに付随する性質として、このようにわれわれに視覚されるのみだと考えられている。


 極めて薄い膜でできた袋があり、その袋の中に水を入れることができたとしよう。この場合、水は自性にあたり、水の入った袋全体は構成要素に当たる。水つまり自性がなくなったときには袋(基体)のみが残るのであるが、この基体はほとんど無に等しい。空とは自性がないことだというのは、袋に入った中味がなく、袋もあるかなきかのものであるゆえに、結局は袋もその中身もないような状態を指しているのである。後ほど見るように、オブラートのように極めて薄い袋とその中の水とは、空思想における基体(y)とその中のもの(あるいは上のもの、x)とに例えることができるのである。

 xがyにないという場合、xとyがどういう関係にあたるかということが空思想の核心である。空とは基本的には、xがyにないということであるが、xがないという場合、xの非存在の場所が必要となろう。しかし、空思想ではxの存在すべき場であるyは存在しないという。要するに空思想は「xはyに存在する」という命題を認めないというのである。ということは、「犬に歩くことがある」つまり「犬が歩く」ということも、「花が咲く」ということも、すなわち「あるおのが動作をなす」という命題を認めないことになる。もっともこれは空思想の有する否定的側面なのであって、肯定的側面は、いちど無へと導かれた言葉がよみがえると主張するのであるが、後世には空の意味は変化してきた。少なくとも、中国や日本においては空の思想の力点に変化が見られるのである。何々がないという否定的な側面が強調されるのではなくて、中国や日本では空が肯定的に解釈されて、真理の意味になってしまうのである。


 フルーツゼリーの喩えが絶妙である。話をもっと具体的にしよう。例えば記憶(=過去)である。認知症になって我が子のことすらわからなくなるケースがある。これなんぞは、ゼリーのないフルーツゼリー状態といえるだろう。とすると、だ。我々の自我を支えているのは「過去の記憶」ということになる。何となく業(ごう)の思想に近い。ただし、業は未来に向かっても開かれていることを忘れてはなるまい。


 腕や足をなくしても私は私である。しかし、記憶を失ったら果たして私であるといえるのだろうか。もちろん、周囲の人々が私を憶えている以上、彼等の記憶が私を認識してくれることと思う。だが、私自身はどうなのか。その時、私は私が誰であるかもわからなくなっているのだ。自我の崩壊。アイデンティティよさらば。それでも存在し続ける「私」とは何なのだろう。


 結局、「人生に意味を求める」生き方から離れない限り、この問題は解決できない。反対に「認知症になったとしても意味はある」と考えることも可能だが、それは飽くまでも周囲の人々との関係性の中で構築されるべき価値観であって、本人にとって希望のよすがとなるものではあるまい。


 一方、空の思想はわかりにくいことと思うが、簡単にいえば「こだわらない」ことであろう。悟りとは、欲望から離れ執着を切り捨てることである。量子力学の本を読んでいると、何となく空の概念がわかってくる。ミクロの世界から見れば、人間の身体なんて穴ぼこだらけなんだよね。更に、原子はその構造の殆どが空間なのだ。そして宇宙も空間で構成されている。ホラ、空(くう)だ(笑)。

空の思想史―原始仏教から日本近代へ (講談社学術文庫)