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2009-02-11

社会を構成しているのは「神と向き合う個人」/『翻訳語成立事情』柳父章


 明治以前、日本に「社会」は存在しなかったの続き。


 当時、「国」とか「藩」などということばはあった。が、societyは、窮極的には、この(2)でも述べられているように、個人individualを単位とする人間関係である。狭い意味でも広い意味でもそうである。「国」や「藩」では、人々は身分として存在しているのであって、個人としてではない。

 societyの翻訳の最大の問題は、この(2)の、広い範囲の人間関係を、日本語によってどうとらえるか、であったと私は考えるのである。


【『翻訳語成立事情』柳父章〈やなぶ・あきら〉(岩波新書、1982年)以下同】


 で、individual=個人といっても、それは「関係性」の中で自覚されるものだ。さて、明治期までの日本人を取り巻く関係性はどのようなものだったか――


 このような「交際」を基本にすえてみるとき、日本の現実における「交際」の特徴が明らかに現われてみえてくる。それは「権力の偏重」という実状である。


 日本にて権力の偏重なるは、秊(あまね)く其人間交際の中に浸潤(しんじゅん)して至らざる所なし。……今の学者、権力の事を論ずるには、唯政府と人民とののみを相対して或は政府の専制を怒り或は人民の跋扈(ばっこ)を咎(とがむ)る者多しと雖(いえ)ども、よく事実を詳(つまびらか)にして細(こまか)に吟味すれば、……苟(いやしく)も爰(ここ)に交際あらば其権力偏重ならざるはなし。其趣を形容して云へば、日本国中に千百の天秤を傾け、其天秤大となく小となく、悉(ことごと)く皆一方に偏して平均を失ふが如く、……爰(ここ)に男女の交際あれば男女権力の偏重あり、爰(ここ)に親子の交際あれば親子権力の偏重あり、兄弟の交際にも是(これ)あり、長幼の交際にも是あり、家内を出でて世間を見るも亦(また)然らざるはなし。師弟主従、貧富貴賤、新参古参、本家末家、何(いず)れも皆其間に権力の偏重を存せり。

【『文明論之概略福沢諭吉 1875年(明治8年)】


 まことに鋭い日本文化批評である。それは1世紀後の今日の私たちにとっても身近に迫ってくるような指摘である。この現実分析や批評の根本に、福沢の「交際」という概念がある。福沢のことば使いによって拡張された意味の「交際」が、他方「偏重」という相対立する意味をもつことばを引き出し、さらし出してみせたのである。


 それは「権力の偏重」という関係性であった。交際の本質は「強い者」と「弱い者」を確認するものでしかなかったのだ。地頭と小作人、坊主と檀家ってわけだ。ではなぜ、欧米には「個人」が存在し得たのか――


 ここで、原文のindividualは、福沢の訳文の終りの方の「人」と対応している。

 ところで、「人」ということばは、ごくふつうの日本語であるから、individualの翻訳語として使われると言っても、それ以外にもよく使われる。他方、individualということばは、ヨーロッパの歴史の中で、たとえばmanとか、human beingなどとは違った思想的な背景を持っている。それは、神に対してひとりでいる人間、また、社会に対して、窮極的な単位としてひとりでいる人間、というような思想とともに口にされてきた。individualということばの用例をみると、翻訳者には、否応なく、あるいは漠然とながら、そういう哲学的背景が感得されるのである。


 それは「神と向き合う個人」だった。日本の場合、神様の数が多過ぎた上、ただ額づいて何かをお願いする対象でしかなかった。つまり、欧米は「神vs自分」であり、日本は「世間vs自分」という構図になっていた。農耕民族は団体戦であるがゆえに、村の掟に従わなければ村八分にされてしまう。ここにおいて個人は跡形もなく消失し、村の構成員としての自覚だけがアイデンティティを形成する。


 独りで何かと向き合わない限り、個人は存在し得ないということだ。一方欧米ではその後、孤独によってバラバラとなった社会が問題視された経緯がある。バランスってえのあ、難しいもんだね。


 ブッダは、「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」と叫んだ。3000年前の轟くような声は、今尚その響きを失ってはいない。

翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)

「知識」は手段に過ぎない/『独創は闘いにあり』西澤潤一


 西澤潤一は東北大学総長、岩手県立大学学長学長を歴任し、現在は首都大学東京の学長。「光通信の父」であり、「ミスター半導体」とも呼ばれている。発明現場での格闘を綴ったエッセイ。実は私が生れて初めて買った古本で、それだけに思い入れが深い。役所が新発明を認めない件(くだり)が圧巻。


 知識の量を自慢したり、上等のことを知っているというので得意になっている人がいるが、そういう人を、人として上等だとは思っていない。

 たとえば大学の試験など、教科書、参考書、辞書を持ち込んでもいい。高度な学問のためには大量の知識を必要とするが、本来はそのような本を見ればすむことなのだ。社会に出たら文献はもちろん、他人の頭まで使ってよいのだ。


【『独創は闘いにあり』西澤潤一(プレジデント社、1986年/新潮文庫、1989年)】


 世界と渡り合ってゆくためには、頭が強くなければならない。知育偏重が人間の顔を失った官僚組織を作り上げたのだ。知識はあっても頭が弱い。何にも増して精神性が欠如している。教育の目的が人間力を向上させることにあるとすれば、我が国に教育は存在しない現状となっている。


「外に打って出る」人間を育てなければ、亡国へのスピードは増すばかりであろう。

独創は闘いにあり 独創は闘いにあり

(※左が単行本、右が文庫本)