古本屋の覚え書き このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 古本屋の覚え書きを検索

2009-02-12

『それでも生きる子供たちへ』監督:メディ・カレフ、エミール・クストリッツァ、スパイク・リー、カティア・ルンド、ジョーダン・スコット&リドリー・スコット、ステファノ・ヴィネルッソ、ジョン・ウー


 予告編を観てピンと来るものがあった。七つの短篇はいずれも素晴らしい作品に仕上がっている。



『タンザ』メディ・カレフ監督(ルワンダ


 DVDに収められているプロダクションノートを見て、ルワンダであることを知った。シエラレオネの少年兵の実態(後藤健二著『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白汐文社、2005年)より悲惨さは少ないが、それでもやはり映像の迫力は凄い。長い間の取り方が否応(いやおう)なく緊迫感を高める。チョークに込められたのは学ぶことへの憧れであり、爆弾の擬声が戦闘に対する無自覚を示している。ラストで静かに流れる少年兵の涙が過酷な現実を雄弁に物語っている。

『ブルー・ジプシー』エミール・クストリッツァ監督(セルビア・モンテネグロ


 監督はサラエボ生まれとなっているが、フランス映画のような軽妙さがある。完成度も高い。父親に窃盗を強要され、時に激しい暴力を加えられる少年が主人公。少年院の内側の方が主人公にとっては安心できる世界だった。少年院での歌の練習シーンなどは爆笑もの。窃盗団が奏でる音楽が人々の心を奪うというアイディアもグッド。

『アメリカのイエスの子ら』スパイク・リー監督(アメリカ)


 子供に隠れて麻薬を常習する両親。それでも愛情に嘘はなかった。その上、親子はHIVに感染していた。学校でいじめられる少女。「私は生きたいのよ!」と叫ぶ声が悲惨を極める。これもラストシーンが鮮やか。深刻な問題を抱えても「私は私」というメッセージが込められている。

『ビルーとジョアン』カティア・ルンド監督(ブラジル)


 実はこの作品に期待していた。カティア・ルンド(※カチア・ルンジという表記もある)は『シティ・オブ・ゴッド』(フェルナンド・メイレレス監督)の共同監督を務めた人物。多分この作品も多くの素人を起用していることだろう。躍動的なカメラワークと子供達の逞しい姿は『シティ・オブ・ゴッド』を彷彿とさせる。幼い兄と妹が家計を助けるために空き缶やダンボールを拾い集める。店先や業者とのやり取りは大人顔負け。「フライドポテトは明日買ってあげるよ」という兄の言葉が、未来に向かって生きる二人の姿を象徴している。スラムの後ろに巨大なビル群がそびえ立つ映像も忘れ難い。

ジョナサン』ジョーダン・スコット&リドリー・スコット監督(イギリス)


 最初の効果音が凄い。お見事。戦場カメラマンが神経症のような症状を発祥する。森で見かけた子供達を追い掛けているうちに、男も少年になっていた。ファンタジックなストーリー。戦場の現実を再確認して、男は再び家に戻る。

『チロ』ステファノ・ヴィネルッソ監督(イタリア)


 少年が自分の影と戯れる最初のシーンが秀逸。大人達の矛盾に戸惑いながらも、少年は逞しく生きる。窃盗という手段で。犬に追い掛けられるシーンは、サブ監督の『ポストマン・ブルース』さながら。綿飴を買うシーンや遊園地の幻想的な場面も巧い。少年が倒れるシーンに至っては詩的ですらある。

『桑桑(ソンソン)と子猫(シャオマオ)』ジョン・ウー(中国)


 裕福な少女と貧しい少女の運命が、美しい人形を介して交錯する。身寄りのない子供達が強制的に花を売らされる。売り上げがなければご飯を食べさせてもらえない。二人の少女も大人のエゴイズムの犠牲者だ。貧しい少女が裕福な少女に花をあげる。限りない豊かさが画面いっぱいに横溢する。

 いずれの作品も『それでも生きる子どもたちへ』というタイトルに相応しい内容。随分と長く感じたと思っていたら、何と170分という長尺ものだった。世界の子供達が置かれている現実、そして苛酷さを極めるほど逞しく生きる姿。歳をとって忘れていた何かを思い出させてくれるオムニバスだ。最後に流れる歌がまた素晴らしい。


それでも生きる子供たちへ

同居家族が老人を孤独へ追いやる/『自殺死体の叫び』上野正彦

 リラックスした筆致が読みやすい。回顧調も心地よい。著者は監察医という立場で数多くの遺体と向き合い、そこから日本社会の様相を見据えてきた。


 3年間の調査で、私自身も意外だったのは、自殺に追い込まれた老人の家庭環境別の比較である。当時はこれを、三世代同居、夫婦ふたり暮らし、子どもとふたり暮らし、ひとり暮らしなどの項目に分類し、整理した。

 その中で最も多かったのは、意外や意外、三世代同居の老人で、全体の60パーセント強を占めていた。以下、子どもとふたり暮らし、夫婦ふたり暮らし、ひとり暮らしの順に続いた。

 当時は、先入観として、家族と同居の老人こそが最も幸せと考えていたが、必ずしもそうではなかった。むしろ同居の中で、信頼する身内から理解されず、冷たく疎外されているわびしさこそが、老人にとって耐えられない孤独だった。これが一番の自殺動機になっていたことを見逃すことはできない。

 その逆に、ひとり暮らしだから孤独かというと、そうでもない。ひとり暮らしの老人は、それはそれで自分の城を持ち、訪れる身内や近所の人たちと交際し、それなりに豊かさを持っている。


【『自殺死体の叫び』上野正彦(ぶんか社、1999年/角川文庫、2003年)】


 悲しい現実である。孤独は関係性の中で生じる。いじめだってそうだろう。親しい仲間内で行われるのだ。晩年の孤独が耐え難い代物であることは容易に想像できる。人間関係のチャンネルを増やしておかないと大変なことになりそうだ。

自殺死体の叫び (角川文庫)

「わかる」とは/『「分ける」こと「わかる」こと』坂本賢三


「分ける」ことは「殺す」ことである、と。つまり腑分け。それだけでは「わかる」ことにはならない。一旦分けて、再構成することが「わかる」ことである、と。各パーツの役目と機能を知らねば、修理はできない。いやはや卓見。


 考察すること一般を、俗に「分析する」といったり(政治分析、経済分析、現状分析など)、理解すること一般を「分かる」といったりするのであるが、ただ、やみくもに分析したり分解したりすることで、つまりバラバラにすることで「わかった」ということにはならない。分析といっても、分析することで原理に到達し、そこから再構成してみてはじめて、「わかった」ということになるのである。そしてこの基本線は、アリストテレスからデカルトまで、古代哲学から現代科学まで貫かれているといってよいであろう。

 分けてしまうことは、ヘーゲルが『精神現象学』の序論で述べているように、じつは、殺してしまうことである。植物を根・茎・花と分解してしまえば、植物は死んでしまう。動物も解剖すれば死んでしまう。無生物でも、たとえば水を酸素と水素に分けてしまえば、水でなくなってしまう。だから、それらの要素からもう一度もとの姿を再生するのでなくては、対象を把握したことにはならない。分ける働きは、既に述べたように悟性(Verstand)のものである。

 ヘーゲルは悟性を超えて再生することを、弁証法という仕方で綜合したのであるが、彼は、だから悟性はだめだとはいわなかった。悟性を排除して、直感的に生きた全体をとらえることを主張したのはシェリングである。ヘーゲルはその態度を批判したのである。美的に、直感的に知ったというのは、たんに表象に移しただけのものであるという。ただ知っているものに移しかえたとしても、それだけでは「わかる」ということにはならないという。「知られているからといって認識されているわけではない」という彼の有名な言葉は、この意味で語られているのである。

 ヘーゲルは、はっきりと「分析するということは表象として既に知っているという形式を棄てることだ」という。表象を根源的な要素(エレメント)に分解したその到達点は、固定し静止した規程だとはっきり述べる。そして、「この分けられたもの、非現実的なものこそ、本質的な契機をなすものだ」というのである。だから分けられたものは非現実的であり、死であると彼は明言する。無力な美的直観は悟性を忌避し死を直視しない。死んだものをしっかりととらえるには最大の力がいる。それが悟性の威力だという。そして、「死を忌避し、破壊から免れようとする生ではなく、死に耐え、死の中で自己を維持する生が精神の生だ」というのである。

 死を直視し、非現実的なものを、本質的な契機であると見てとらなければならないが、そのなかで自己を維持すること、否定的なものを直視し、そのもとに身を置くこと、そのうえで固定した規程を乗り越えて、一般的なものを現実化し生き生きさせることが必要だ、というのである。


【『「分ける」こと「わかる」こと』坂本賢三講談社現代新書、1982年)】

「分ける」こと「わかる」こと (講談社学術文庫)