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2009-02-28

インド、チベットに伝わるイッサ=イエス伝説/『イエスの失われた十七年』エリザベス・クレア・プロフェット


 イエスの人生は13歳から30歳に至る記録がまったくないそうだ。キリスト教では「エジプトへ行っていた」としているらしいが何一つ証拠がないとのこと。ところがこの間、アジアへ行った形跡がある。過去に3人の人物がチベットで「イッサ=イエス」にまつわる経典を目撃しているのだ。


(※ニコラス・ノートヴィッチ著『知られざるイエス・キリスト伝』で紹介されたチベットに伝わる写本『聖イッサ伝 人の子の最も秀(すぐ)れしもの』)物語は素早くイッサの13歳に飛ぶ。「失われた歳月」の最初の年である。物語によれば、それは「ユダヤ人が妻を迎えねばならない」年齢でもあった。見すぼらしい(ママ)両親の家だったが、若いイッサを養子にしようとする金持や、高貴の人々がここに集まった。イッサは「すでに全能の神の名において、教えを語ることによってその名を知られていたから」

 しかしイッサの目標は他にあった。ノートヴィッチが公刊した写本によると、イッサはひそかに父の家を離れてエルサレムに行き、東へ向かう隊商らとともに旅し、「神のことば」に生きる自らを完成させるため、偉大な仏たちの法を学ぼうとした。

 イッサがシンド――今日のパキスタン東南の地域を横切ったのは、14歳のときだった。インダス川下流の渓谷地帯である。彼はその地の「アーリヤ人」の間に落ち着くことにした。この人たちが、紀元前の第二・千年紀の初め、インダス川の渓谷に移住したとされるアーリア人に関係があることは明らかだ。イッサの名声はそこで高くなり、彼らジャイナ教徒は、イッサに共にとどまるよう求めたが、彼はそうしなかった。彼はやがてジャガナートの神殿に赴き、バラモンの祭司たちから歓迎された。彼らはイッサにヴェーダの聖典を教え、説教と癒やし、また悪魔祓(ばら)いの方法を伝授した。

 イッサはジャガナート、ラージャグリハ、ペナレス、またその他の聖都市で、学び、教えて6年を過ごした。彼は下位カーストの民衆、つまりヴァイシャ(農民と商人)やシュードラ(小作人と労働者)に聖典を教え、そのことによって上位カーストのバラモン(祭司)、クシャトリヤ(王族)との紛争に巻き込まれた。バラモンの定めによれば、シュードラはヴェーダ聖典に近づくことも、目で見ることも許されなかった。ヴァイシャは祭りのときに唱えられるヴェーダの章句を、聞くことだけはできたたが、シュードラにはそれさえ許されなかった。

 その掟に従うことなく、イッサはバラモン、クシャトリヤに逆らって、ヴァイシャ、シュードラに伝道した。この反逆に気がついた祭司、王族階級はイッサを殺そうと計った。

 危機をシュードラに警告され、イッサは夜陰に乗じてジャガナートを離れ、南ネパール・ヒマラヤ山麓へ脱出した。500年前、シャカ族の王子として生まれた偉大なる正覚者(ブッダ)、ゴータマの称号をもつシャカムニ生誕の地であった。シャカムニ――ことばの意味はシャカ族の賢者(ムニ)。

 6年間の学びの後、イッサは「聖典のいう完全な解脱者となった」。その後にヒマラヤを去って、西に旅立つ。道々、偶像崇拝を非難して教えを説きながら、そして遂に29歳、パレスチナへ帰る。


【『イエスの失われた十七年』エリザベス・クレア・プロフェット/下野博訳(立風書房、1998年)】


 こうした内容が現地の各所で言い伝えとして残っているという。堀堅士の推測とも完全に一致している。


 仏教もキリスト教もスタート地点に回帰すれば、思想的融合は可能なのかも知れない。

イエスの失われた十七年

グレイシアグレイシア 2009/07/08 14:15 書いた人は新興宗教の教祖ですし、眉に唾をつけたほうがいいでしょう。

sessendosessendo 2009/07/08 18:22 ご指摘に感謝。そうだったんですか。
この手の類いは仏教にしても同様ですが、「情報戦」といった印象を受けます。
時に教団内の政治的力学が働く場合もあることでしょう。

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