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2009-03-31

チェチェンの伝統「血の報復の掟」/『国家の崩壊』佐藤優、宮崎学


 チェチェン人の男は必ず復讐を果たすという――


 それから、チェチェンには、独特の「血の報復の掟」があるんです。チェチェンでは、子どもが生まれると、男の子だけですが、7代前までの名前を全部暗記させるんです。それから、どこで生まれてどこで死んだということも全部暗記させるんです。そして、もし祖先の7代までのうちに殺された人がいたら、誰に殺されたかも同時に暗記させるんです。それで、殺した奴の7代前まで報復をしなければいけないのです。殺した方の家の男系7代に渡ってそれは続くんです。そういう「血の報復の掟」があります。これは今でも厳しく守られています。仇討ちの旅に出なければならないんです。そうじゃないと一族が許してくれない。

 一見すると、これは大変乱暴なように見えるんですが、実はコーカサス地域は、この掟があるから、安定していたんです。チェチェン人というのは、どんなにカーッとしても、絶対に相手を殺さない。殺すと「血の報復の掟」が作用するからです。7代に渡って逃げ回らなければならない。だから、これは殺し合いの抑止要因になると同時に、万一そういったことが起きても、部族間の永続的な戦争にはならないんです。7代で終わりますから。

 ですから、チェチェンで戦っているロシア兵は覆面をしています。どうしてかというと、チェチェン人にとってはロシア軍一般が悪いということにならないで、このロシア兵が殺った、だから、こいつに復讐してやる、ということになるんです。殺されたチェチェン人の一族は、殺ったロシア人の一族を調べて必ず報復する。7代まで復讐する。そういうことになるからです。ですからロシア兵は顔を特定されないように覆面をしているんです。


【『国家の崩壊』佐藤優宮崎学(にんげん出版、2006年)】


 田中宇によると、ソルジェニーツィンの『収容所群島』にも記されているとのこと。

 どうやら、グルカ兵の次に怖いのはチェチェン人のようだ。確か船戸与一の作品に書かれていたと記憶しているが、グルカ族は来客が宿泊する場合、自分の娘を同じ部屋に寝させる。これは主人が客を絶対的に信用していることを示すもので、万が一娘に手をつけた場合、世界の果てに逃げようとも必ず殺される運命となる。100パーセント確実に。


 仇(あだ)を討たねば、恨みは晴れない。これは人間という動物に課された、どうしようもない“物語性”である。正義を自らの手によって遂行しなければ、「自分の世界」(=先祖、家族、コミュニティ、社会)が崩壊してしまう。


 それにしても、ロシア兵ですら顔を隠すというのは凄い。「掟」が完全に「法」と化している証拠であろう。紙に書かれた法律なんかよりも、はるかに力がある。

国家の崩壊 (角川文庫)

スペイン人はコカの葉を与えてインディアンを労働に駆り立てた/『チェ・ゲバラ伝』三好徹


 侵略する側は、侵略される側を“人間”とは見なさない。そうでなければ、侵略などできるはずがないのだ。帝国主義・植民地主義は“暴力という名の鎧(よろい)”を身にまとっている。


 中南米の大半はスペインの植民地だった。なぜなら、コロンブスがスペイン野郎であったためだ。現在でも多くの国の公用語はスペイン語となっている。


 ラパス(※ボリビア)の市街は、高度3800メートルの高地にあり、周囲を不毛の山肌に囲まれている。貧しいインディオたちはその山肌に泥土をぬりかためた小屋をつくり、同じような色の皮膚をもっている。それは長い年月の間コカの葉を煎(せん)じて飲んできたためだった。コカはいうまでもなく、コカインの原料である。16世紀にこの地を征服したスペインの侵略者たちは、このコカの葉をインディオにあたえて、銀山や銅山の労働にかりたてた。コカの葉を煎じて飲めば、飢えも疲れも忘れ、夢幻の境にさ迷うことが可能なのであった。


【『チェ・ゲバラ伝』三好徹(文藝春秋、1971年)】


 ヨーロッパの連中はこういうことを平然とできるのだ。多分、有色人種のことを虫けら程度にしか思っていないのだろう。歴史は単なる過去の出来事ではない。必ず世代を通して受け継がれてゆく。よきにつけ悪しきにつけ、それが“文化”というものだ。


 この世界をキリスト教と白人と欧米が牛耳っている限り、明るい未来はないと私は考える。単純に書いてしまうと頑迷に見えるだろうが、決してそんなレベルで言っているわけではない。歴史と現実を知れば知るほど、欧米人の差別意識が浮かび上がってくるのだ。


 我々は「先進国ボケ」してはならない。強くそう思う。

チェ・ゲバラ伝

2009-03-30

ストレスにさらされて“闘争”も“逃走”もできなくなった人々/『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ

 この本ではやたら「多発性硬化症」という病気が出てくるが、これは日本人には少ない病気だ。斎藤秀雄の最初の奥方(ドイツ人)がこの病気にかかっている。


 小児麻痺は感染症の一種であり、一度重くなった症状が回復すると、足などに障害が残るものの、そこで症状が固定するのが特徴である。一方、多発性硬化症の場合は中枢神経を冒す原因不明の自己免疫疾患で、再発を繰り返すことが多い。この病気は欧米人に頻度が高い。日本人が10万人に4〜5人の割合で発症するのに対し、欧米人は100人から150人である。若い人の手足の麻痺の原因疾患としては、まず最初に疑われるべき頻度の高い病気なのである。


嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪〈なかまる・よしえ〉(新潮社、1996年)】


 自己免疫疾患とは、免疫機能が過敏に働いてしまい体内の正常な組織や細胞を攻撃してしまう病気である。


 ストレスの観点から多発性硬化症を検討した論文に実例としてあげられた患者たち、そして私がインタビューした患者たちは、この研究で用いられた不運なラットたちと非常によく似た状態にあったといえる。彼らは子供時代の条件づけのせいで慢性的なきびしいストレスにさらされ、必要な「闘争か逃走」反応を起こす能力を損なわれていたのだ。根本的な問題は、いろいろな論文が指摘している人生上の一大事件など外部からのストレスではなく、闘争あるいは逃走するという正常な反応をさまたげる無力感、環境によって否応なく身につけさせられた無力感なのである。その結果生じた精神的ストレスは抑圧され、したがって本人も気づかない。ついには、自分の欲求が満たされないことも、他者の欲求を満たさざるを得ないことも、もはやストレスとは感じられなくなる。それが普通の状態になる。そうなればその人にはもはや戦う術がない。


【『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ/伊藤はるみ訳(日本教文社、2005年)】


「逃げる」と「挑む」はシンニュウとテヘンしか違わない。ま、中身は天地雲泥の差であるが、ベクトルの向きが異なるだけとも言える。しかし、その選択すらできない状況下に置かれた人々がいるのだ。つまり、幼児期から“心を死なせる”ことで生き延びている人々だ。


 この文章は実に恐ろしいことを指摘している。なぜなら、「無力感」とは「自分が必要とされていないことに対する自覚」であり、「否定された自分を抱えながら生きてゆく」ことに他ならないからだ。大事なのは、それが客観的な事実であるかどうかではなく、子供自身がそう感じてしまっていることだ。完全無欠な疎外感、と言っていいだろう。幼児は論理的思考ができない。だから、「この世とは、そういうものなのだ」と割り切ることができてしまうのだろう。すると、助けを求めることすら出来なくなってしまう。


 それでも、精神は耐える。彼女達は静かに微笑んでみせることもできる。そして10年、20年を経た後に、身体が悲鳴を上げるのだ。これが、ガボール・マテの主張である。

身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価

若き斎藤秀三郎/『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪

 文句なしの傑作評伝。日本エッセイストクラブ賞を受賞しているが、本書の内容は賞を軽々と凌駕している。130人のインタビューと資料だけでは、ここまで書けない。中丸美繪は恐ろしいほどの執念で斎藤秀雄という人物を知ろうと奮闘努力したはずだ。それは多分、“求道”の名に値するほどの作業だったに違いない。そうでもなければ、これほどの作品が生まれるわけがないのだ。


 中丸は斎藤の弟子達に会った。彼等は斎藤の分身だった。しかしながら、弟子が語る師匠の姿は部分的なものに過ぎないし、当然ではあるがバイアスのかかった情報となる。そして、著者の内部で再構成された斎藤秀雄が一冊の書物となって誕生した。斎藤秀雄は本書の中で確実に生き続けている。栄光と矛盾をはらみながら、生き生きと躍動している。


 すまん。昂奮し過ぎたようだ(笑)。


 秀雄の父・斎藤秀三郎は明治・大正期を代表する英語学者だった。明治という激変の時代は、頑固でありながらも型破りな人物を輩出したが、斎藤秀三郎は桁外れの個性の持ち主だった――


 19歳で仙台に戻って英語塾を開き、その後、仙台英語学校を創設した。詩人の土井晩翠はその1回生である。次いで新設された第二高等学校にも勤めたが、英語主任の米国人と諍いを起して退職した。

 父の言葉に従い、知人を頼って岐阜中学に赴任するが、校長から中等学校英語教師の資格試験を受けるよう求められたため、「誰が私を試験するのか」と言い放って再び辞職した。

 秀三郎は生地を聞かれると、機嫌のよいときには「間違って仙台に生まれました。実はロンドンの真ん中で生れるはずだったのですが」と答えていた。福原麟太郎は、「日本の英語」で語っている。

「斎藤氏は豪傑で酒を好んだ。酔っぱらって帝劇へ行って(中略)西洋人のやっている芝居を見た。てめえ達の英語はなっちゃいねえ、よせ、よしちまえ、というようなことを英語で吐鳴り散らすので、座方がお願いして退去して貰ったという話を聞いているが、先生には、日本へ来ている英米人など眼中になかった。英米人を傭うときには自分で試験した」

 秀三郎は赴任先のいたるところで問題を起こし、職場は長崎鎮西学院から名古屋第一中学へと移っていった。たまたま東京から知人の教師を訪ねてきた学習院大学教授が秀三郎とめぐり会い、英語の実力に驚嘆した。これがきっかけとなって、第一高等学校に教授として就任することになった。1893年、28歳のときのことである。

 それから3年後、31歳になった秀三郎は神田錦町に正則英語学校を創立すると、自ら校長となった。恐ろしく短気な秀三郎は、板書のときには左の手で消しながら右手で書いていくという猛スピードぶりだった。授業中に生徒が立つと、振り向いて一喝した。生徒が「便所に行くのです」というと、「そこでおしなさい」といった調子である。授業は一週に50〜60時間も受け持ったことすらある。生涯を通しての著書は、『英会話文法』『実用英文典』4巻をはじめ200冊以上に及んだ。


【『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪〈なかまる・よしえ〉(新潮社、1996年)以下同】


「西洋人のやっている芝居」とは、来日中のシェイクスピア劇団だったようだ(Wikipediaによる)。秀三郎自身は一度も海外へ行ってない。人間が本気で学ぼうと決意すれば、時代や条件など関係ないことを彼は示している。


 また、秀三郎は時間に厳格だった――


 宮城の中で打たれた空砲は、その周辺一帯に鳴り響いた。

「ドーン」という正午を報せる音がすると、斎藤家の書生たちは客人の応対中であろうと、飯炊きの途中であろうと、秀三郎の著書の検印を捺している最中であろうと、すべての仕事を放り出して、いっせいに屋敷のなかに備えつけてある時計に向かって走り出すのだった。そして自分の受け持ちの時計という時計の針を合わせた。秀三郎は時間に厳格だった。

 正則英語学校でも、どんなに講義が途中であろうと秀三郎は板書の手を止め、終業のベルと共に教室を出るのである。家路の途中に床屋に寄っても、何分で刈るように申しつけると、たとえ散髪が途中でも帰ってしまうという徹底ぶりだった。

 津田塾大学の前身である女子英語塾がすぐ近くにあったが、番町で市街電車を降りた英語塾の学生たちは、斎藤家の玄関にある正確無比な大時計で時刻を合わせたという。


 これほど時間にうるさかったのは他でもなく、英語を研究するためだった。「自分には7人の子があるから、その結婚式のために一生の間に7日間だけ勉強時間を犠牲にせねばならない」とまで言い切った。家族であっても父親と話すためには書生を経由しなければならなかった。斎藤秀三郎は英語に命を懸け、英語と心中した。

嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯 嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯 (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-03-29

サブプライム問題と金融恐慌


 この手の本もそこそこ読んできたが、以下の記事に優(まさ)るものはなかった。金融という概念を天才的なわかりやすさで説明している。1ページが1000円に値する記事だと言い切っておこう。

4人の救急医全員一斉辞職 激務や人員不足…捨て身の訴え


 鳥取大病院救命救急センター鳥取県米子市)の八木啓一教授(54)ら救急医4人全員が3月末、一斉に辞職する。激務による心身の疲労や人員不足、病院への不満などが理由。八木教授は「体力、気力が限界。辞めて訴えるしかなかった」としている。


鳥取大病院、今月末で


 センターは、生命の危険がある重症患者を24時間態勢で受け入れる三次救急医療機関。

 八木教授と准教授、若手医師二人が所属する救急災害科は、2006年秋に医師二人が辞職して以降、負担が増加。若手医師は、地域の病院への応援を含め月約10回の当直が常態化していたという。

 04年から臨床研修先を自由に選べるようになった影響で、鳥取大病院は研修医が都市部に流出するなどして激減。研修後に救急災害科を希望した医師は「一人だけ」(八木教授)だった。

 ほかの診療科からの応援医師3人と計7人で当直を回していたが、若手医師二人が昨年夏「ここにいたら忙殺される。外で腕を磨きたい」と辞職を申し出て、八木教授と准教授も辞意を固めた。

 八木教授によると、ほかの科には応援医師を出すことに不満もあり「大学病院に救急なんかいらない、おまえたちは大学のがんだ」と言われたこともあったという。「病院は休日や時間外のお守(も)りが必要なだけで、救急の専門家を求めていると思えない」と八木教授。

 豊島良太病院長は「覚悟の辞職と感じた。病院全体としての協力態勢が整わなかったことが一番の原因」としている。日本救急医学会評議員も務める坂本哲也帝京大教授は「国立大病院は医師育成と高度専門医療が中心。一部の大学を除き、救急を軽視するようなところがある」と指摘する。

 病院は後任の教授を確保したが准教授は未定。ほかの科の医師を救急災害科に所属変更するなどし、4月以降の患者受け入れに支障はないとしている。

 母校の鳥取大で後進を育てるのが夢だったという八木教授は「鳥取を見捨てるようで、地元の人に非常に申し訳ない」と複雑な心境を明かした。


相次ぐ集団退職 地域医療に支障も


 市民の命と健康を守る病院から、集団で医師が退職するケースが後を絶たない。背景には昼夜を問わない激務による疲労や、待遇への不満があるとみられるが、結果的に患者がしわ寄せを食う形になる場合もあり、地域医療への支障が懸念されている。

 成田空港に最も近い総合病院で、年間3万人超の救急患者を診療する成田赤十字病院(千葉県成田市)では12日、常勤内科医34人のうち11人が3月末での退職を申し出ていることが判明。病院は「過酷な勤務状況が理由」としている。

 同病院は新型インフルエンザ発生時には感染が疑われる人を受け入れる施設にも指定されているが、病院関係者は「この状態で対応は極めて難しい」と話す。

 国立がんセンター中央病院(東京都中央区)では昨年3月末、10人いた常勤麻酔科医のうち5人が退職。待遇が良い病院への転籍が主な退職理由というが、手術件数が減るなどの影響が出た。

 北見赤十字病院(北海道北見市)は昨年3月に内科医が大量退職し、約2カ月にわたり内科外来を休止。国立循環器病センター(大阪府吹田市)でも2007年、集中治療室の専属医師が「より幅広い診療をしたい」などと集団で退職を申し出た。


東京新聞 2009-03-29

ソフィー・ジェルマン/『フェルマーの最終定理 ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで』サイモン・シン

 ソフィー・ジェルマン(1776-1831)は女性数学者である。「アルキメデスの最期」を知り、数学を志した――


 当然ながら、ソフィー・ジェルマンを数学に駆りたてたのは、こういったたぐいの女性向けの本ではなかった。彼女の人生を変えたのは、ある日父親の蔵書を拾い読みしていたときにたまたま手に取った、ジャン・エヒエンヌ・モンテュクラの『数学史』だった。モンテュクラの語るアルキメデスの一生が彼女の心を捉えたのである。アルキメデスの発見をめぐる記述は文句なく興味深いものだったが、とくに彼女が引きつけられたのはアルキメデスの死に関する話だった。アルキメデスはその生涯をシラクサの地で数学を研究して過ごしたが、70代の終わりごろ、ローマ軍の侵略によってその平穏を破られてしまう。言い伝えによれば、砂地に書いた幾何学図形に夢中になっていたアルキメデスは、ローマ兵に声をかけられても返事をしなかった。そのために槍で突かれて死んでしまったというのである。

 殺されてしまうほど夢中になれるなんて、数学はこの世でいちばん魅力的な学問にちがいない、とジェルマンは考えた。彼女はすぐさま数論と微積分学の基礎を独習しはじめ、じきに夜中まで起きてオイラーやニュートンの仕事について学ぶようになった。


【『フェルマーの最終定理 ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで』サイモン・シン青木薫訳(新潮社、2000年)以下同】


 やはり後世に名を残す人は発想が違う。着眼点の次元が凡人とは異なっている。


 フェルマーの最終定理は、ワイルズの独力で証明されたわけではなかった。最初にオイラーの右フックが顎(あご)をかすめた。次にソフィー・ジェルマンが左ジャブを繰り出す。それから、日本の志村五郎と谷山豊が別のグローブを用意した。そして、強烈な右ストレートを外したワイルズがアッパーカットでノックアウトしたのだ。勝者は“数学の血脈”であった。


 ソフィー・ジェルマンが生きた時代は、まだまだ女性が差別されていた。女性に学問は不要と考えられていた。女性は大学に入ることも認められていなかった。それでも彼女は独り学び続けた。


 ソフィー・ジェルマンは意を決してガウスに手紙を出した。しかし、女性であることを告げることができなかった。そこで「オーギュスト・アントワーヌ・ルブラン」という男性の名前で送ることにした。驚くべきことにガウスから返信が来た。こうして文通が始まった。


 ここで歴史の歯車が大きく動いた。ナポレオン率いるフランス軍がガウスのいるドイツに侵攻したのだ――


 もしもナポレオンがいなかったら、ジェルマンの功績は永遠に謎のル・ブラン氏(ジェルマンの偽名)のものとなっていたかもしれない。1806年、ナポレオンはプロイセンを侵略し、フランス軍はドイツの都市を、一つ、また一つと攻略していた。アルキメデスに降りかかった運命が、彼女のもう一人のヒーローであるガウスの命をも奪うのではないかと危惧したジェルマンは、進軍中のフランス軍指揮官であるジョゼフ・マリー・ペルネティ将軍という友人に手紙を書き送り、ガウスの身の安全を保障してくれるよう頼んだ。将軍はその言葉にしたがって、このドイツ人数学者に特別な計らいをすると、「あなたが命拾いをしたのはマドモアゼル・ジェルマンのおかげです」と告げたのだった。ガウスは感謝しながらも非常に驚いた。ソフィー・ジェルマンなどという名前は聞いたことがなかったからである。

 ゲームは終わった。ジェルマンは次の手紙で不本意ながらも正体を明かした。ところがガウスは、騙されたことに腹を立てるどころか、喜びに満ちた返信をしたためたのである。


 さながら劇の如し。ソフィー・ジェルマンはガウスの命を救っただけではなかった。すべての女性に学問の扉を開いたのだ。偽名という小さな嘘がなければ、ガウスも返事を認(したた)めなかったかもしれない。


 フェルマーの最終定理は、数学の歴史に数々のドラマを誕生させた。「問題とはかくあるべし」とフェルマーの笑う声が聞こえてきそうだ。

フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-03-28

広河隆一


 1冊読了。


 45冊目『パレスチナ 新版』広河隆一(岩波新書、2002年)/旧版は1987年に刊行されている。フォト・ジャーナリストである広河隆一は何度も現地を取材している。つまり、現場から見た「パレスチナvsイスラエルの歴史」が書かれている。これは凄い。2〜3ページ置きに付箋をつける羽目となってしまった。世界の現状、国際協力の欺瞞、民族紛争、宗教紛争、自爆テロの理由などが理解できる。他民族にはまったく関係のない「聖書」という台本を理由にして、パレスチナの国土を勝手にぶん取ったのがイスラエルであり、シオニズム運動だった。これに資金提供をしたのがあのロスチャイルドだ。世界の金融界はユダヤ人が牛耳っている。それにしても酷い。イスラエルはナチスと同じことをパレスチナ人に対して行っている。国際ニュースの多くは米英が発信しており、イスラエル側に有利な報道がなされている。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の関係もよく理解できた。本書を高校世界史の教科書にすべきだ。本気でそう思う。

オーストラリア・カジノとつながるヴァチカン財務部/『無境界の人』森巣博


 森巣博(もりす・ひろし)はオーストラリア・カジノを拠点とする博徒(ばくと=ギャンブラー)である(森巣は「カシノ」と表記している)。本書のテーマは「日本人論」であるが、自在な筆致はギャンブル哲学を通奏低音とした小説のような味わいもある。


 で、ギャンブラーの知的な弁解を紹介しよう――


 いろいろな持ち株会社が交錯して複雑なのであるが、資本の流れを追うと、その謎が解ける。カシノ・オーストラリアには二つの大株主が存在する。ひとつは、オーストラリア・ペンション・ファンド(日本で言う厚生年金基金。老齢年金のための投資を行うオーストラリアの準政府機関)。もうひとつが、なんとヴァチカン財務部に行き着く。この二者でカシノ・オーストラリアの過半数の資本(つまり管理経営権)を握っている。畏れおおくもかしこくもカトリック教会が、カシノライセンスを寄越せと、国あるいは地方行政府にねじ込むのである。いや、失礼した、ロビー活動を行うのである(オーストラリア・クイーンズランドケアンズにできたリーフ・カシノには、持ち株会社も介在せずに、直接カトリック教会が10パーセントの資本参加をしている)。

 すなわちわたしがこのカシノの博奕で負けても、そのお金は、オーストラリアの老人福祉に使われるか、有り難くも神様のところへ行くのである。もう死後のわたしには天国での居場所が用意されているのだ。博奕ヲ止メマショウ、などと神を畏れぬ不届き者は、地獄へ行け。


【『無境界の人』森巣博(小学館、1998年/集英社文庫、2002年)】


 ヴァチカン市国は言わずと知れたカトリックの総本山であり、世界最小国だ。なんと東京ディズニーランドより狭い(Wikipediaによる)。でだ、カトリックと言えば日本にキリスト教を持ってきたフランシスコ・ザビエルが思い出される。そう。イエズス会のメンバーだ。これが1549年のこと(「以後よく(1549)伝わるキリスト教」と中学で暗記させられた)。つまり、500年前からキリスト教は確かな世界戦略を描いていたということになる。


 昔であれば当然のように珍しい物や便利な物をちらつかせて交渉に臨んだことだろう。海老沢泰久著『青い空』(文藝春秋、2004年)では、江戸時代の日本人に治療を施す外国人キリシタンが描かれていた。


 文明が進んでいたヨーロッパからやって来る宣教師は、それぞれの国の産業動向を見極め、貿易の一助を担ったものと想定できる。


 中世における「教会という名の権力」――その意味を知らずして西洋社会を理解することは不可能だ。宗教は、政治・学問のはるか頭上に君臨していたのだ。


 十字軍の歴史を思えば、キリスト教の世界戦略が「世界征服」だったとしても、誰一人驚かないことだろう。私なら、オーストラリア・カジノをヴァチカン市国が経営していたとしても驚かないよ。

無境界の人 無境界の人 (集英社文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

KDDI代理店


 この手の代理店は何でも屋だ。ある時は携帯電話を売り、またある時は光回線を販売している。テレアポ(電話営業)の手口はコンプライアンス違反というよりも完全な違法行為と化しており、「何でもやってのける何でも屋」という様相を呈している。


 電話営業については、特定商取引法で様々な規制がある。

 先ほどKDDIの代理店から電話があった。開口一番、「電話料金をお安くするプランのご案内です」と来たもんだ。新人アルバイトと見えて完全にマニュアルを棒読みしていた。「お客様はインターネットをご利用ですか」「はい」「今回のご案内はインターネットをご利用していない方に限らせていただいていおります。失礼しました」で終わった。


 KDDIに苦情を入れてもきっと無駄だろう。連中は、こうしたことを見越した上でわざわざ代理店を募集しているのだ。大手新聞社が拡張団を使って新聞購読の勧誘をしているのと同じ構図。


 しつこい場合には、社名・住所・電話番号・氏名をネット上にさらすべきだ。私のように(笑)。

「ゆめの在りか」のあのわ


 これは珍しい。Yukkoというリードボーカルがチェロを弾いている。チェロの落ち着いた音と子供のようなボーカルのアンバランスがグッド。アレンジもひとひねり効いている。クラシックの土壌があるためか、クイーンの名曲「ボヘミアン・ラプソディ」と構成が似ている。で、曲の雰囲気を支えているのは繰り返されるキーボードのフレーズだ。私の嫌いな「泣き声系」だが、のあのわに関しては許そう。

D


ゆめの在りか

2009-03-27

講談社などに4290万円賠償命令 大相撲八百長報道


 大相撲の「八百長」疑惑を報じた雑誌「週刊現代」の記事をめぐる名誉棄損訴訟で、東京地裁は26日、発行元の講談社(東京都文京区)などに計4290万円の支払いと、記事を取り消す内容の広告を同誌に掲載するよう命じる判決を言い渡した。中村也寸志裁判長は「取材は極めてずさんというほかない」と同社側の姿勢を厳しく批判した。

 横綱・朝青龍ら力士30人と日本相撲協会が約6億2千万円を求めていた。判決は、力士全員と協会への賠償を命令。最高額は「八百長を頻繁にしていた」と報じられた朝青龍の1100万円で、協会は660万円だった。

 八百長疑惑報道をめぐって同社側が名誉棄損を認定されたのは、北の湖親方が原告となった訴訟の判決(今月5日)に続いて2件目。今回の判決の賠償額は、雑誌の記事をめぐる名誉棄損訴訟で命じられた賠償総額としては過去最高とみられる。

 問題となったのは、同誌が07年2月3日号から連載した「横綱朝青龍の八百長を告発する!」など3本の記事。

 判決は、記事を書いたフリーライター武田頼政氏(50)が「関係者から八百長について聞いた」と主張したことを「八百長の合意や金銭の授受についての具体的な内容を明らかにしておらず、真実であると裏付けられない」と指摘。証人として出廷した元小結・板井圭介氏の証言も裏付けにならないと判断した。

 そのうえで、70万部を超える雑誌の連載で社会の注目を集めたことなどの背景を挙げ、「八百長が認められるなら力士生命に直接かかわるもので、黙認した協会も存立の危機になりかねない」と高額の賠償を認めた理由を説明。「被害回復は損害賠償だけでは十分ではない」として取り消し広告の掲載も命じた。



 週刊現代・乾智之編集長のコメント この判決で相撲協会に対してさまざまな改革を求める機会が失われてしまうことを危惧(きぐ)する。



【朝日新聞 2009-03-27】

駄洒落炸裂/『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆


 小田嶋隆は駄洒落が上手い。下ネタともなると超絶的な技巧が冴える。この際、当ブログの品位をかなぐり捨てて、抱腹絶倒の駄洒落を紹介しよう。解説はするまい。黙って笑ってくれ給え――


 さすがに、コンドームの自販機がしゃべるのはまだ聞いたことがないが、あいつだって黙ってはいないかもしれない。

「よっ、兄さん、今夜は頑張れよ」

 と、コンドームの自販機が親しげに話しかけてくる……あり得ない話ではない。内臓されたセンサーで客の性別、年齢を判断して、かけ声だってそれぞれに使い分けてくるかもしれない。

「これはこれは、こんな粋な姐さんの中に入れるなんて、スキン冥利(みょうり)に尽きるとはまさにこのことですよ」

「旦那、お元気ですねえ。そのお歳で2ダースとは。いや、恐れ入りました」

 客引きだってするかもしれない。

「ほらほら、そこの高校生のアベックさん。ハマらぬ先のゴムってね。あっしを付けてりゃ心配はゴム用。どうです、『背中の水子が泣いている』だなんて、シャレにもなりゃしませんぜ」

 冗談を言っている場合ではないが、これもあながち冗談ではないのである。

 なぜって、我が国の技術者という人たちは、それが必要かどうかなんてことにはまるで関心がなくて、技術的に可能でさえあれば、結局はどんなことでも実現してしまう連中なのだから。


【『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆徳間書店、1994年)】

「ふへ」の国から ことばの解体新書

2009-03-26

中丸美繪


 1冊読了。


 44冊目『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪〈なかまる・よしえ〉(新潮社、1996年)/文句なしの傑作。読み終えるのが惜しいあまり、何度となく本を閉じたほど。本書を知らなかったこと自体が恥ずかしい。民主音楽協会編『齋藤秀雄・音楽と生涯 心で歌え、心で歌え!!』(芸術現代社、1985年)を読んで斎藤秀雄のことは知っていたが、弟子が語る斎藤の姿は断片的過ぎて、まるで額縁に収まった写真のようであった。ま、インタビュー集みたいな代物だから致し方ないか。本書は、父・秀三郎(高名な英語学者)にも触れられており、これがまた頗(すこぶ)る面白い。しかも、秀三郎が秀雄の人格形成に影響を与えたことが、巧みに綴られている。中丸美繪の作品は初めて読んだが、実に面白かった。既に絶版となっているが、どこかの出版社が版権を買うべきだと思う。私が過去に読んできた評伝の中では断トツぶっちぎりの一位だ。日本クラシック界の豪華絢爛たる一大絵巻である。

『挙手禁止』反対の都立高校長 竹花委員、人事介入発言


 東京都立学校の職員会議で「挙手」や「採決」で職員の意向を確認することを禁止した都教委通知の撤回を要求する都立三鷹高校の土肥信雄校長(60)に、都教委の竹花豊委員が「人事上の措置」を講ずるよう事務局の都教育庁に指示していたことが分かった。同委員が26日、都教委定例会で述べた。同委員は警察官僚出身の元副知事。教育委員が特定教員への“人事介入”を公言するのは異例。

 竹花委員は定例会で「土肥校長の言動は何らかの人事上の措置を講ずべきものとして事務局に検討を求めたが、すでに退職を間近に控え、意味が乏しいとの見解に理由があるので、見送ることを良とした」と語った。

 都教委は昨年11月、土肥校長の言動について「何らかの反省を促す」方針で一致していたが、人事措置までは言及していない。竹花委員の指示はその後の時期とみられる。

 本紙の取材に土肥校長は「何も間違ったことをしておらず、人事措置を受ける理由はない。間違っているのは都教委の方ではないか」と話している。

 土肥校長は今春で定年退職。都教委の非常勤職員採用に応募したが、不合格となった。合格率は例年、100%近いため、不採用取り消しなどを都教委に求める民事訴訟を近く起こす考えという。


東京新聞 2009-03-26夕刊

藤川球児がメディアに反論


 色々と皆さんが困惑するような報道もされているようなので、自分の言葉で今の気持ちを伝えたいと思います。


 今回のWBCは、自分のためではなく、チームのために責任を果たすという気持ちで代表入りを決めました。

 結果的に、世界一という最高の成果が出たことは、僕も本当にうれしく思っています。

 報道されているような、悔しいとか、悔いが残るとかいった気持ちは全くありません。

 読者の方の目を引こうと記者の人も大変なんですね…。

 でも、それで僕自身が誤解されるのは不本意なことです。

 悔いが残るとか、準決勝・決勝と連投して胴上げ投手になりたいとか、そういう発言も一切していません。

 また、代表を引退するとも言っていません。

 自分としては、野球を始めようとしている子供たちや、今まであまり野球を知らなかった子供たちが

 WBCをきっかけに野球に少しでも興味を持ってくれれば…というのが、最も強い思いです。


藤川球児オフィシャルサイト 2009-03-26

ソフトバンク:採用基準に携帯契約取れば評価 厚労省が調査


 携帯電話大手「ソフトバンク」(東京都港区)グループの通信3社が、10年春の採用に応募している大学生らに、携帯電話の契約獲得実績を採用の可否の判断基準にする方針を伝えていたことが分かった。内定すら出していない就職希望者に賃金を払わないまま「営業活動」を求めていると受け取られかねない異例の選考方法で、厚生労働省労働基準法に抵触する可能性もあるとみて事実関係を調査している。

 ソフトバンクによると、ソフトバンクモバイルソフトバンクBBソフトバンクテレコムの3社は、営業・企画職や販売職で10年春の採用に応募した学生を対象に「特別面接枠」を設置。筆記と面接に加え「営業力」を選考基準としている。

 特別枠に応募した学生には特設ホームページのアドレスを教え、専用のIDを交付。学生の営業で新規申し込みや他社からの変更契約に応じた顧客が学生からIDを教わり、契約の事実や名前を会社側に伝える。4月12日までに契約を終え26日までに利用が開始された場合、学生の実績として評価対象になる。会社側はこの実績を判断基準の一つとし、4月下旬以降に行われる特別面接に呼ぶ学生を選考するという。

 3社は応募した学生に電子メールで選考方法を伝えたが、一部の学生らから「学生にソフトバンクグループが経済的な利益を得るような活動をやらせるというのは問題なのではないか」と疑問視する声が上がっている。

 厚労省には応募した学生から情報が寄せられており、担当者は「内定前からこうした条件を定める例は聞いたことがない。法的に問題があるかどうかも含め事実関係を調査している」と話している。

 これに対し、ソフトバンク広報室は「必要な営業力をアピールしてもらうためのもの。多く契約が取れたからといって、すぐに採用するというものではなく、問題はないと思う」と話している。


【毎日新聞 2009-03-24


 ソフトバンクによると、筆記試験や面接で判断する「一般コース」に加え、販売活動を判断基準とする「特別採用コース」として枠を設け、応募した学生ら全員に今月17日に伝えた。

 同コースの希望者は、知人にソフトバンクモバイルの携帯電話などを販売し、売り方の工夫などをまとめたリポートを提出。特設サイトを通して購入してもらうことで、ソフトバンク側は紹介者を把握し、採用判断の基準にする。他社から番号持ち運び制を使って同社に移った契約も実績とするという。対象は、ソフトバンクモバイル、ソフトバンクBB、ソフトバンクテレコムの入社希望者。


【朝日新聞 2009-03-24


 ソフトバンクは、「普通に応募したい人を排除するものではなく、営業力を把握するための新しい採用基準の提案であり、契約の増加が目的ではない」としている。


【FNN 2009-03-25】

身体から悲鳴が聞こえてくる/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一

 近年、脳科学本が充実しているが、身体論と併せて読まなければ片手落ち(※差別用語じゃないからね)となる。人体にあって、確かに脳は司令塔であるが、五官からの情報によって脳内のネットワークが変化することもある(池谷裕二著『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線朝日出版社、2004年)。つまり、脳と身体はフィードバックによる相互関係で成立している。


 いつの頃からか、若者が自分の身体を傷つけるようになった。一般的に攻撃性は他者に向かう。だから、いじめは昔からあった。それどころか、実はチンパンジーの世界にもいじめが存在する(フランス・ドゥ・ヴァール著『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』早川書房、2005年)。社会を構築する動物の世界には、確固たる“権力”が存在する。そして社会はピラミッド型の序列(ヒエラルキー)を形成する。で、下の奴が上の奴にいじめられるってわけだ。


 若者の自傷行為は、引きこもりと相前後していると思われる。と言うよりも、むしろ引きこもり自体がある種の自傷行為と考えていいのかもしれない。


 鷲田清一は、身体が本来持っていた智慧が失われ、悲鳴を上げていると指摘している――


 なにか身体の深い能力、とりわけ身体に深く浸透している智恵や想像力、それが伝わらなくなっているのではないか。あるいは、そういう身体のセンスがうまく働かないような状況が現れてきているのではないか。

 そんな身体からなにやら悲鳴のようなものが聞こえてくる気がする。身体への攻撃、それを当の身体を生きているそのひとがおこなう。化粧とか食事といった、本来ならひとを気分よくさせたり、癒したりする行為が、いまではじぶんへの、あるいはじぶんの身体への暴力として現象せざるをえなくなっているような状況がある。

 たとえばピアシング。芹沢俊介は、ある新聞記事のなかで(『朝日新聞』1995年8月30日夕刊)、「一つの穴(ピアス用の)を開けるたびごとに自我がころがり落ちてどんどん軽くなる」という男子の言葉を引き、次のようにのべている。

「気になることというのは、彼らが自己の体に負荷をかけ続けることで自我の脱落という感覚を手に入れている点である。自分を相手にしたこの取引において、彼らは自己の体への小さな暴力といっていいような無償の負荷──フィジカルな負荷──を自分から差し出すことによって、精神的な報酬を得ている。教団という契機を欠いているけれど、私にはこれが宗教に近い行為のように映るのである」、と。

 あるいは摂食障害という、食による自己攻撃。

 あるいは、生理がなくなって、なのにそれがうれしい、身軽になった感じという、20代の女性の感覚。

 あるいはセックス。〈食〉と同じように〈性〉という現象にも過敏になって、とりあえず早くやりすごしたいと思う思春期の女性が増えているという。


【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)】


 自傷行為は“生”の暴走なのか落下なのか。はたまた、“生きる側”に必死でしがみつく行為なのか。あるいは自分で自分に下す罰なのか――私にはわからない。


「彼女達は“生きるため”にリストカットをする」と宮台真司が言っていた。しかしながら、やってることは自分自身に対する暴力である。つまり、「生きるための暴力」を正当化することになりかねない。


 私は違うと思う。彼女達はリストカットをするたびに「死んでいる」のだ。そして、手首から滴り落ちる血の中から再び生まれてくるのだろう。


 若者の自傷行為は、「生きるに値しない世の中」に対する絶望的な抗議である。

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

2009-03-24

見田宗介


 1冊挫折。


 挫折15『現代社会の理論 情報化・消費化社会の現在と未来』見田宗介〈みた・むねすけ〉(岩波新書、1996年)/まったく酷い文章だ。「はじめに」で挫けた。著者は東大大学院教授である。とにかく余計な言葉が多い。そして長い文章の後で否定形が出てくる。金輪際、見田の著作を開くことはないだろう。

松藤民輔の中国批判/『無法バブルマネー終わりの始まり 「金融大転換」時代を生き抜く実践経済学』松藤民輔


 松藤民輔が中国とロシアをこき下ろしている。世界を飛び回って商売をしているだけあって、その視点は確かだ。きっと、人口が多過ぎて、展望を持つことが難しいのだろう。そして中国政府は正確な人口すら掌握していないことだろう。


 中国は、つまるところ労賃の安さだけが取り柄の国家だったのである。およそモノづくりをする資格などない。

 モノづくりにはとりわけ、高いモラルが要求されるのだが、人が見ていないところでは手抜きをし、でたらめな商品をこしらえてなんとも思わない資質には呆(あき)れるほかない。

「ゴルフというスポーツが定着しない国家にはマナーは育たない」

 というのがわたしの持論なのだが、奇(く)しくもこれがもっとも当てはまるのが中国なのだ。


【『無法バブルマネー終わりの始まり 「金融大転換」時代を生き抜く実践経済学』松藤民輔(講談社、2008年)以下同】


 中国という国家は体質的に、伝統的に、特許、技術、著作権等々の保護などまったく考慮しない。コピーや海賊版の比率は15〜20パーセントもあり、GDPの8パーセントにも相当するから、もはや一大産業だ。国際条約や協定を締結したところで、「上に政策あれば下に対策あり」で、わからないようにやればいいという体質なのだ。


 経済は川の流れのように、高いところから低いところへと流れる。グローバリゼーションの波はカントリーリスクを抱えながらも、価格競争という流れを止めることはない。


 だが、中国は低過ぎた。経済の流れは沼さながらに停滞し、澱(よど)んでいる。中国政府は外貨を獲得するためとあらば、国民をいかなる悪臭にもさらすのだ。そして、最大のリスクがこれ――


 中国の人民解放軍においては、1980年代に100万人、90年代に50万人、さらに2005年末までに20万人を削減してきた。「軍の近代化」の一環ではあるが、こうして軍人のリストラが進んだ結果、失業して生活に困窮する退役軍人たちが続出している。リストラされた退役軍人が生活の保障を求めて各地で立ち上がり始めており、軍歴を持たない胡錦濤国家主席が、この事態に解決策を見出せるかはまったく不明である。これこそ、中国が抱えるリスクでは最大の危機になるのかもしれない。


 独裁政権というのは、必ず軍隊がバックアップしている。当然ながら、リストラされた同僚に対する共感も生れていることだろう。不満がくすぶっていれば、引火するのは時間の問題だ。


 個人的には、中国がいいように利用されている側面もあるように思っている。アジアにはリーダー国が存在しない。文化や宗教も異なる。中国やインドに至っては多民族多言語国家である。モラルを欠いてしまえば、手の組みようもないだろう。問題は結局、教育に行き着く。

無法バブルマネー終わりの始まり──「金融大転換」時代を生き抜く実践経済学

「妊婦撃てば2人殺害」 イスラエル兵Tシャツ


 アラブ人妊婦に銃の照準を合わせた絵に「1発で2人殺害」の文字――。イスラエル軍兵士が部隊の仲間内で、パレスチナ人の生命を軽視するような図柄のオリジナルTシャツを作って着用していることが24日までに、イスラエル紙ハーレツの報道で分かった。

 照準の中に少年の絵を描き「小さいほど難しい」と書かれたTシャツもあり、兵士の一人は「子供を撃つのは道徳的に問題で、また標的として小さい(から難しい)」という意味だと解説した。シャツを町中で着れば非難されるため、軍務時に着用しているという。

 兵士や士官はこうした絵柄について「本当に殺そうと考えているわけでなく、内輪の冗談」などと説明。同紙は一方で「2000年のパレスチナとの大規模衝突以降、イスラエル世論が右傾化し、兵士の間でパレスチナ人の人権を無視する傾向がみられる」とする社会学者の話も伝えた。

 軍報道官は同紙に対し「兵士が私的に作ったものだが、軍の価値観と相いれない」として、かかわった者の処分を検討する方針を示した。


共同通信 2009-03-24/画像あり】

ジニ係数から見えてくる日本社会の格差/『貧乏人のデイトレ 金持ちのインベストメント ノーベル賞学者とスイス人富豪に学ぶ智恵』北村慶


 ジニ係数という言葉は聞いたことがあったが、その意味を知ったのは金森重樹著『1年で10億つくる! 不動産投資の破壊的成功法』(ダイヤモンド社、2005年)を読んでからのこと。ただ、それ以降は大した気にも止めていなかった。


 本書では、更に詳細な解説があり、これには目を瞠(みは)った。一挙に紹介する――


 ところが、1984年の調査以降、ジニ係数は上昇に転じています。


【『貧乏人のデイトレ 金持ちのインベストメント ノーベル賞学者とスイス人富豪に学ぶ智恵』北村慶〈きたむら・けい〉(PHP研究所、2006年)以下同】

 ただし、ジニ係数は、ローレンツ曲線の形には関係なく、面積で決まります。このため、ジニ係数が同じ値の国があったとしても社会構造が全く異なる、ということもありえます。

 例えば、7割の格差のない均質な市民層と3割の所得がゼロの貧困層からなるA国と、一人の王様が全体の3割の所得を保有し残り7割を国民が平等に保有するB国について、それぞれジニ係数を計算すると、いずれも0.3となるのです。

 このように、ジニ係数だけから社会構造や所得格差をイメージすることは難しいのですが、一つの方法として、その社会の階層が2つに分かれていて、その階層内では所得が均一である、と仮定する方法があります。

 こうした仮定を置けば、ジニ係数0.5とは、「上位4分の1の所得者が、全ての所得の4分の3を得ている社会」を意味することになります。

 地球上全体のジニ係数は0.707であり、この仮定の下では、「“宇宙船地球号”とは、人口の14.7%を占める集団がGNPの85.3%を保有しており、この集団と残りの集団の間には、34倍の所得格差がある社会である」と言えることになります。

 一方で、ジニ係数は低ければ低いほど良い、というものでもありません。

 所得の再分配を完全に平等な社会にしてしまうと、誰も努力しなくなる、いわゆるフリー・ライダー(タダ乗り)が増えることになるからです。

 これでは、社会に活力が失われ、経済発展も停滞することになります。

 一般には、ジニ係数で0.3前後の社会が、「適度に競争があり、かつ、格差が広がっていない」という意味で適度な格差水準の社会と言われています。

ジニ係数意味合い
〜0.1極めて平等な社会。現実には存在しがたい。
0.1〜0.2ほとんど格差がない社会。個々人の努力を阻害する懸念がある。
0.2〜0.3格差が少なく安定した社会。
0.3〜0.4格差がある社会。競争・活力という面からは好ましいこともある。
0.4〜0.5格差がきつく、社会を不安定にする要素がある。
0.5〜不平等な社会。さまざまな問題が生じやすい。


 OECD経済協力開発機構)では、「その国の所得の上位10%の人々が、所得の下位10%の人々の何倍の所得を得ているか?」についても試算しています。

 これによれば、日本においては「社会の上位10%の富裕層」が「下位10%の層」の実に4.9倍の所得を得ていることになっています。

 これは、「貧富の差が激しい社会」の代表例のように言われるアメリカの5.4倍とさほど差がない数字です。


 OECDのレポートには、さらにショッキングな分析があります。

 日本の「貧困率」の高さが、なんと第5位にランクされているのです。

(※「相対的貧困者」=社会の真ん中に位置する人が得ている可処分所得の50%以下しか可処分所得がない人、の人口比)

 で、気になる日本のジニ係数だが、2003年時点で何と「0.5」(「飛語宇理日記」による)。ということは、「格差がきつく、社会を不安定にする要素がある」と「不平等な社会。さまざまな問題が生じやすい」の中間に位置していることになる。


 富の偏在。ま、そりゃそうだよな。恒久減税である定率減税を廃止して、減額した法人税は据え置いているのだから。つまり、政治的不作為というよりも、政治が格差へ誘導したと言ってよかろう。極端な集中が国家を崩壊させる


 小泉政権が行った規制緩和こそ、富の偏在を生んだ最大の原因であろう。それにしても、富はどこに偏っているのだろう? 私の財布にないことは確かだ。多分、オリックスの宮内義彦のところだ。

貧乏人のデイトレ 金持ちのインベストメント―ノーベル賞学者とスイス人富豪に学ぶ智恵

2009-03-23

アーサー・ケストラー


 1冊挫折。


 挫折14『機械の中の幽霊』アーサー・ケストラー/日高敏隆長野敬訳(ぺりかん社、1969年)/序文で敢えなく挫ける。手元にあるのは、ちくま学芸文庫だが行間が狭いため読みづらい。その上、難解そうな内容。5年か10年経ったら、また読んでみよう。

兵とは詭道なり/『新訂 孫子』金谷治訳注

 この一言こそ、孫子孫子たる所以(ゆえん)である――


 兵とは詭道(きどう)なり。故に、能(のう)なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれを撓(みだ)し、卑にしてこれを驕(おご)らせ、佚(いつ)にしてこれを労し、親(しん)にしてこれを離す。其の無備を攻め、其の不意に出(い)ず。此れ兵家の勢(せい)、先きには伝うべからざるなり。


【戦争とは詭道――正常なやり方に反したしわざ――である。それゆえ、強くとも敵には弱く見せかけ、勇敢でも敵にはおくびょうに見せかけ、近づいていても敵には遠く見せかけ、遠方にあっても敵には近く見せかけ、〔敵が〕利を求めているときはそれを誘い出し、〔敵が〕混乱しているときはそれを奪い取り、〔敵が〕充実しているときはそれに防備し、〔敵が〕強いときはそれを避け、〔敵が〕怒りたけっているときはそれをかき乱し、〔敵が〕謙虚なときはそれを驕りたかぶらせ、〔敵が〕安楽であるときはそれを疲労させ、〔敵が〕親しみあっているときはそれを分裂させる。〔こうして〕敵の無備を攻め、敵の不意をつくのである。これが軍学者のいう勢(せい)であって、〔敵情に応じての処置であるから〕出陣前にはあらかじめ伝えることのできないものである】


【『新訂 孫子』金谷治〈かなや・おさむ〉訳注(岩波文庫、2000年)】


 戦争とは、殺し合いであり奪い合いである。トリッキーな手を駆使し、騙(だま)しに騙し合うのが戦争の本質と言ってよい。「詭道なり」と言い切るところに、孫子の冷徹と達観が窺える。


 孫武は2500年前の人。ブッダよりも少しばかり前の時代である。かのナポレオンも、宣教師に翻訳させた『孫子』を常に手放さなかったという。孫子の兵法は戦争哲学の趣がある。そして、今尚通用する将軍学でもある。

孫子 (ワイド版岩波文庫) 新訂 孫子 (岩波文庫)

(※左がワイド版、右が文庫本)

リハビリ革命/『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』宮本省三


 宮本省三の最新刊である。認知運動療法入門といってよい。リハビリ・介護関係者は必読。リハビリの歴史もよく理解できる内容となっている。


 認知運動療法はイタリアのカルロ・ペルフェッティが提唱した新しいリハビリテーションだ。宮本省三はリハビリの限界を指摘する。「いくら関節を動かしても、筋をストレッチしても、運動麻痺が回復するわけではない」と。これが現実であろう。現状のリハビリは筋肉や関節を「固まらないように」努力しているだけである。これに対して認知運動療法は“脳の地図”を書き換えることを目指している。


 ペルフェッティの指針を紹介しよう――


 認知運動療法に取り組む患者に向けて、ペルフェッティは「患者さんに守ってもらいたいささやかな規則」という指針を提言している。


 身体を動かすだけでは不十分です。感じるために動くことが必要です。運動というのは、自分自身あるいは外部世界を認知するためのものです。大きな力を要する運動、すばやく大きな移動を要するような運動の練習はあまり役に立ちません。

 脳は、あなたが世界を認知しようとして運動した時にもっとも活性化します。ですから、あなたは動きを「感じる」練習をしてください。感じるために注意が必要となればなるほど、脳のかかわり方が大きくなります。自分の運動や対象物との接触に、いつも最大限の注意を払ってください。目を閉じて身体を動かしてみるのもひとつの方法です。

 そして対象物との接触では、特に重量を認識する努力をしてください。あなたの身体やその部位にも重量があります。座っている状態で、あるいは立っている状態で、自分の腕、自分の脚、自分の体幹、自分の身体全体の重量を感じる練習をしてみてください。たとえば重量が身体の左側と右側に対称に配分されているかどうか感じてみてください。

 いろいろな運動をおこなったとき(ママ)に重量が身体内でどう変化するかも感じてみてください。誰か他の人にあなたの身体を動かしてもらうのもよいかもしれません。そうして、あなたは目を閉じて、自分の身体がどう動いたか、あるいは自分の身体に触れた対象物の特性を感じるために脳を使ってください。

 運動を始める前に、自分がおこなおうとしている運動について考えてみてください。自分の身体がどうなるかを考えてみてください。身体から、あるいは対象物からどういう情報を得ることになるのかを推測してみてください。そして運動をおこなった後で、事前に自分が予測したものと実際に感じたものが合致しているかどうかを考えてみてください。そして、自分の身体が動く感じを脳の中でイメージしてみてください。

 以上の規則を守ると、最初はゆっくりとしか動けなくなりますが、それは心配には及びません。規則を守れば、自分の運動を前より上手にコントロールすることができるはずです。そのうちにもっと早く動けるようになります。


【『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』宮本省三〈みやもと・しょうぞう〉(講談社現代新書、2008年)】


 脳血管障害(脳卒中)によって麻痺症状が現れると、本人の身体イメージが崩壊する。具体的には目に映る状態と、身体の内部の感覚が異なっているそうだ。例えば、足の指はあるにもかかわらず、麻痺によって欠落しているように感じてしまう。認知運動療法は身体の内部に意識を向けさせる。そこから、中枢神経がアイドリング状態となるよう働きかけるのだ。


 これは革命的な理論といってよい。そもそも身体がどうして動くのかがわかっていないのだ。行為・行動は必ず事前に予測される。あるイメージ(想像)を持っている。このイメージの喚起力を呼び覚ます運動療法と言ってもいいだろう。


 医療や介護は制度的な欠陥をたくさん抱えている。見逃せないのは、その資格内容が極端に乖離(かいり)し、段階的なステップアップが困難なことだ。例えば、ヘルパー、社会福祉士、ケアマネージャーの上となると、学校に通う必要が出てくる。PT(理学療法士)、OT(作業療法士)、ST(言語聴覚士)の待遇も決してよくない。医療においても、医師と看護師の間の資格があってもよさそうなものだ。看護師が稼ぐには夜勤を当て込むしかないのが現状だ。


 いかに素晴らしい療法が生み出されたとしても、努力が報酬として報われなければ、若い人達が目指す業界とはなり得ない。まして、介護業界に至っては関係者の「介護に対する熱い思い」で支えられている側面が非常に強いのだ。だが、食えないとなれば、皆あっさりとやめざるを得ないだろう。


 介護業界は政治力がない。だから、いつまで経っても介護保険の内容がよくならないのだ。事務書類も多過ぎる。保険者は市町村となっているが、書類仕事がケアマネやサービス提供責任者の足をどれだけ引っ張っていることか。非効率な書類の義務づけも無視できない問題となっている。

脳のなかの身体―認知運動療法の挑戦 (講談社現代新書 1929) (講談社現代新書)

2009-03-22

『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー/山下篤子訳


 長らく品切れとなっていたが、増刷されたようだ。


脳のなかの幽霊 (角川21世紀叢書)


 切断された手足がまだあると感じるスポーツ選手、自分の体の一部を人のものだと主張する患者、両親を本人と認めず偽者だと主張する青年――著者が出会った様々な患者の奇妙な症状を手がかりに、脳の仕組みや働きについて考える。さらにいろいろな仮説をたて、それを立証するための誰でもできる実験を提示していく。高度な内容ながら、一般の人にも分かりやすい語り口で、人類最大の問題「意識」に迫り、現代科学の最先端を切り開く。

視覚と脳


 視覚は神経疾患の影響を受けることが多い。それどころか眼は、実は脳の一部なのだ。


【『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』リチャード・E・シトーウィック/山下篤子訳(草思社、2002年)】


 網膜から出て脳に向かう視神経の本数はどのぐらいあると思う? 100万本もあるんだ。片目だけでね。100万本ってすごい数だよ。




 言ってることわかるかな? 順番が逆だということ。世界があって、それを見るために目を発達させたんじゃなくて、目ができたから世界が世界としてはじめて意味を持った。


【『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線池谷裕二朝日出版社、2004年)】


 多くの動物、特にネズミやモグラの視覚は極めて原始的であり、実際のところ視覚がないに等しいにもかかわらず、環境の中で自分の進む方向をかなりうまく見定め、進化的意味での生存を可能にする一般的活動を行うことができる。

 筆者が思うに、この問いの答えはもっとずっと単純で、より深い意味を持つものなのである。すなわち、「視覚は、この世界についての知識を得ることを可能にするために存在する」のである。無論、視覚という感覚が、唯一の知識獲得手段ではない。他の感覚も同じことをしているが、視覚がたまたま最も効率的な機構だっただけである。視覚は知識を得る能力を無限に広げてくれるとともに、顔の表情とか表面の色のような、視覚を介してしか得ることのできない知識をも提供してくれる。(中略)

 この定義こそが、おそらくは神経科学と美術とを結びつける唯一の定義なのである。




 つまり、視覚は能動的な過程なのであり、長い間考えられてきたような受動的な過程ではない。樹木、正方形、直線といった最も単純な対象を捉える視覚でさえも、能動的な過程なのである。

 近代の神経生物学者であれば、画家アンリ・マティスの「見るということはそれ自体で既に創造的作業であり、努力を要するものである」という言葉に心から敬意を払うであろうし、あるいは少なくとも敬意を払うべきであろう。マティスのこの言葉は、生理学的な見地からではなく美術的な見地から語られたものだが、視覚生理学に適用しても十分に通用する表現である。


【『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』セミール・ゼキ/河内十郎訳(日本経済新聞社、2002年)】


 人間の視覚系は、眼球のなかでゆらめく、断片的なはかないイメージを基礎にして、経験からわりだした推測をするという、驚異的な能力をもっていることがあきらかになった。


【『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー/山下篤子訳(角川書店、1999年)】


 また、池谷裕二糸井重里著『海馬 脳は疲れない』(朝日出版社、2002年)によれば、上下が逆さに見える眼鏡をかけると、最初はまともに歩くこともできないが、1週間も経てば「その世界」を当たり前のように感じて普通に歩けるようになるという。

命の炎はしっかりと燃えている/『荒野の庭』言葉、写真、作庭 丸山健二


 花の写真集である。丸山健二が一人で作った自宅の庭に咲き乱れる花々だ。庭の写真集ではないので注意が必要だ。言葉は「ついで程度」に記されている。


 昔ながらの丸山ファンから不評を買ってから久しい年月が経つ。庭造りに傾倒するようになってからは、更なる不評を買う始末だ。


 丸山の最大の弱点は「人間を知らない」ところにある。それゆえ、物語の完成度が低くなっているのだ。エッセイ風の小説『さらば、山のカモメよ』(集英社、1981年)を除けば、「不安を拡張」することに重きが置かれているために、どうしてもカタルシスが得られないのだ。カタルシスと言っても、別に「めでたしめでたし」という結末を望んでいるわけではない。


 その意味で丸山は「文体でもっていた」作家であった。古いエッセイは今読んでも十分面白い。ところが、初老に差し掛かった頃から、アナーキズムを礼賛するようになり、それ以降独善に拍車がかかった。ここに「自立」の落とし穴がある。


 人間というのは社会との関わりなしでは生きてゆけない。だから齢(よわい)を重ねると、政治・経済・思想・宗教といった方向に思考が向かう。だが丸山は庭に向かった。次はきっと石になると俺は読んでるよ。そう、宝石だ(笑)。各世代の嗜好というのがあって、異性→食→花・植木→石と老いに伴って変化するのが一般的だ。


 見たこともない美しい花々が次から次と出てくる。「過剰なまでの審美的演出」――これが丸山の美学か。花ではなく、子を育てれば丸山作品もぐっと変わったかも知れない。


 それでも60代半ばとなった丸山は気を吐いてみせる――


 魂までが凍てついたとしても、

 その先にあるのは破滅ではない。

 命の炎はしっかりと燃えている。


【『荒野の庭』言葉、写真、作庭 丸山健二求龍堂、2005年)】


 窓辺に置いたローソクの写真が配されている。花々も命の炎を燃やしながら、じっと冬を忍んでいる。

荒野の庭―言葉、写真、作庭

9歳少女に中絶手術、医師を大司教が「破門」…ブラジル


リオデジャネイロ】世界最大のカトリック人口を抱えるブラジルの北東部ペルナンブコ州で、義父に強姦(ごうかん)され妊娠した少女(9)が今月初旬、中絶手術を受けたところ、カトリックの大司教が、中絶に同意した少女の母親と担当医らを破門した。

 医師側は「少女の命を守るため」と反論、大統領も巻き込んだ大論争となっている。

 地元紙によると、少女は同居する義父(23)に繰り返し性的暴行を受けていた。2月下旬に腹痛を訴えて母親と病院に行くと、妊娠4か月と判明。医師は、少女の骨盤が小さく、妊娠を続けると生命にかかわると判断し、今月4日に母親の同意を得て中絶手術を行った。

 ブラジルでは、強姦による妊娠と、母体に危険がある場合、中絶は合法だが、ジョゼ・カルドーゾ・ソブリーニョ大司教は「強姦は大罪だが、中絶はそれ以上の大罪」と述べ、教会法に基づいて医師らを破門。これに対し、ルラ大統領は「医学の方が正しい判断をした。信者の一人としてこのように保守的な判断は残念」と大司教を批判した。

 大司教は「大統領は神学者と相談してから意見を述べるべきだ」としていたが、高まる世論の反発を受け、司教協議会は12日、「大司教は破門の可能性について言及しただけ」との見解を発表した。今後は、破門の有効性が論議を呼びそうだ。

 カトリック信者の多い中南米では、過去にも、強姦で妊娠した少女の中絶の是非を巡り、激しい論争が起きている。


【読売新聞 2009-03-15】


 この「一見清らかに見える“愛”」が、もう一方で憎悪を生むのだ。クリスチャンに二重人格者が多いのもこれが原因だ。ジョゼ・カルドーゾ・ソブリーニョ大司教は、他人を裁く前にまず自分の罪を自覚すべきだ。アメリカにもかようなキリスト教原理主義者が南部を中心に山ほど存在し、ジョージ・ブッシュを支持していた。人工中絶に手を貸した産婦人科医が殺される事件まで起きている。キリスト教の正義は平然と他人を殺す。

侵略者コロンブスの悪意/『わが魂を聖地に埋めよ アメリカ・インディアン闘争史』ディー・ブラウン


 コロンブスが最初の航海に出たのは1492年のこと。当時、地球は丸いと考えられていたが、実際に確認した者はいなかった。中々陸地に到着せず、乗組員が暴動を起こした。彼等は地球が平らな世界だと思っていた。きっと帰れなくなることを恐れたのだろう。


 この時代の航海には「命知らず」の覚悟が求められた。世界はまだまだ未知なるものだった。コロンブスはなぜ海に向かったのか――それは金と地位のためだった。「コロンブスは航海に先んじて、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰う契約を交わしていた」(Wikipediaによる)。


 先住民についてコロンブスはスペイン国王に報告した――


「これらの人びとは非常に従順で、平和的であります」と、コロンブスはスペイン国王と王妃に書き送った。「陛下に誓って申し上げますが、世界中でこれほど善良な民族は見あたらないほどです。彼らは隣人を自分と同じように愛し、その話しぶりはつねにやさしく穏やかで、微笑が耐えません。それに、彼らが裸だというのはたしかですが、その態度は礼儀正しく、非のうちどころがないのです」

 当然こうした事柄は、未開のしるしではないにしても、弱さのあらわれとして受けとられ、廉直なヨーロッパ人たるコロンブスは、確信をもって、「これらの人びとが働き、耕し、必要なすべてのことをやり、われわれのやり方に従う」ようにしむけるべきだと考えた。


【『わが魂を聖地に埋めよ アメリカ・インディアン闘争史』ディー・ブラウン/鈴木主税訳(草思社、1972年)以下同】


「われわれのやり方」だってよ。侵略者は本質において暴力団と変わりがない。「われわれ」がクリスチャンを指しているのは明らかだ。なぜなら、その後先住民が「人間であるか否か」がヨーロッパで議論されたからだ。ここで言う“人間”とは、「アダムとイブの末裔(まつえい)」という意味であり、“理性”とはキリスト教を理解できること(つまり神を信じること)だった。


 コロンブスが最初に上陸したのはサン・サルバドル島と伝えられている。「聖なる救世主」という意味だ。最初っから侵略根性丸出し。米軍の作戦名と同じレベルだ。


 私は思う。船に乗った時点で「ノアの箱舟」が彼らの意識にあったのではないだろうか。彼等は選ばれた神の僕(しもべ)であった。箱舟に乗れない人々は死ぬ運命にある。「クリスチャンに非(あら)ずば人に非ず」――かような思い上がりが今でも欧米には存在する。


 こうして、1492年12月12日にコロンブスがサン・サルヴァドル島の岸に足を踏み入れてからわずか10年たらずのうちに、数十万の人びとがほろびてしまったのである。


 コロンブスにとって先住民は単なる労働力に過ぎなかった。利用する対象でしかなかった。キリスト教には侵略(あるいは差別)を正当化する力学が働いている。


 イエスは立派な人物であったことだろう。しかし、聖書はイエスが記したものではない。そこには当然、政治的意向も反映されていることだろう。イエスは多分正しかった。だが、イエスの弟子は道を誤った。キリスト教が犯した歴史上の暴虐を断罪し、欧米が土下座をして許しを請わない限り、人類の新たな歴史は幕を開かない、と私は思う。


 アメリカ人に告ぐ。「カエサルのものはカエサルに、神の物は神に納めよ」(新訳聖書)。先住民のものは先住民に返すのが当然だ。アメリカ人は聖書に背いている。

わが魂を聖地に埋めよ―アメリカ・インディアン闘争史 (上巻) わが魂を聖地に埋めよ―アメリカ・インディアン闘争史 (下巻)

2009-03-21

宮本省三、丸山健二、松藤民輔


 3冊読了。


 41冊目『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』宮本省三(講談社現代新書、2008年)/『リハビリテーション・ルネサンス 心と脳と身体の回復 認知運動療法の挑戦』より、ずっと面白かった。理念と文章が一致している。ただ、この人はどうしても現状のリハビリ医療に対する批判に傾きがちで、性格の悪さというか、粘着質なところがある。読み手としては、批判が猛々しくなるほど認知運動療法への期待が高まるのだが、具体的なデータが一つも示されていない。これも致命的だ。それでも、カルロ・ペルフェッティ(イタリア)が提唱する「“脳の中の身体”を治療する認知運動療法」は革命の名に相応(ふさわ)しい。


 42冊目『荒野の庭』言葉、写真、作庭 丸山健二求龍堂、2005年)/先日、動画を紹介したので読んでみた。丸山作品は『逃げ歌』を途中で放り出して以来のこと。花々は確かに美しい。見事という他ない。ただ、どうなんだろうね。写真集としては中途半端だ。丸山のことだから、撮影技術もそこそこ習得しているのだろうが、全体的には散漫な印象を受けた。しかも、作家のくせに言葉が少な過ぎる。花に依存した写真集と言ってもよい。こういうのは他人が作品にするならともかく、自分で本にすると、仮にいいものであったとしても植木自慢のレベルに堕してしまう。


 43冊目『無法バブルマネー終わりの始まり 「金融大転換」時代を生き抜く実践経済学松藤民輔(講談社、2008年)/今、ブログ内を検索して知ったのだが、既に読んでいた(笑)。まったく気づかなかった。私の読書レベルが知れてしまう。そういえば北朝鮮の件(くだり)は「同じことを書いてやがるよ」と思ったが、同じ本だったのだな。松藤民輔は好きだ。テレビ出演と、当たった予想の自慢話を除けば。この二つが瑕疵(かし)となっている。あと、結論を必ず「金(ゴールド)投資」に持ってゆくポジショントークとなっている。そして、本書の最後の予言(ドル急騰)は見事に外れている。ざまあみやがれ。それでも十分、一読の価値あり。何てったって、この私が二度も読んだのだから。

我々自身が人生を短くしている/『人生の短さについて』セネカ

 これは文句なしに面白かった。古典、恐るべし。小田嶋隆がしばしば使う「なぜというに」ってのは、多分本書から影響を受けているのだろう。170ページ余りの薄い本だが、その辺の本が10冊くらい束になっても敵(かな)わないほどの衝撃を受けた。しかも、2000年前に書かれたものなのだ。人間の本質は変わらないようだ。否、文明の発達に伴って劣化しているのかも知れない。


 しかし、われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費(ついや)されるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。けれども放蕩(ほうとう)や怠惰(たいだ)のなかに消えてなくなるとか、どんな善いことのためにも使われないならば、結局最後になって否応(いやおう)なしに気付かされることは、今まで消え去っているとは思わなかった人生が最早すでに過ぎ去っていることである。全くそのとおりである。われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。われわれは人生に不足しているのではなく濫費しているのである。(「人生の短さについて」)


【『人生の短さについて』セネカ/茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳(岩波文庫、1980年)】


 人生は時間に支配されている。これに異論を挟む者はあるまい。では、その時間を我々は何に使っているのか。


 以下は、総務省統計局による平成13年調査のデータである(※40〜44歳の全国平均)――

  • 7.01 睡眠
  • 1.09 身の回りの用事
  • 1.32 食事
  • 0.44 通勤
  • 6.27 仕事
  • 0.01 学業
  • 1.56 家事
  • 0.02 介護、看護
  • 0.12 育児
  • 0.21 買い物
  • 0.27 移動(通勤を除く)
  • 1.55 テレビ、ラジオ、新聞、雑誌
  • 1.02 休養、くつろぎ
  • 0.08 学習、研究
  • 0.22 趣味、娯楽
  • 0.06 スポーツ
  • 0.03 ボランティア、社会参加活動
  • 0.16 交際、付き合い
  • 0.05 受診、療養
  • 0.13 その他

 合計すると、21.62時間となる。ま、トイレにだって20分くらいは入っていることだろう。それに風呂や歯磨きの時間を加えれば、大体24時間だ。それにしても、平均というデータは個性が欠落している。スポーツ0.06時間(3.6分)って一体何だよ(笑)。


 今時であれば、携帯電話を使用している時間だって馬鹿にならない。で、このデータを見る限りでは、平均的な人は生きている価値がまるでない。間違いなくセネカはそう言うはずだ。これじゃあ、まるでビッグブラザーにこき使われる労働者の一日と何ら変わりがない。


 セネカは「他人のために生きることをやめろ」と説いている。そして、普通に生きている人々を辛辣(しんらつ)にこき下ろしている。嘲笑していると言ってもよい。「他人から押し付けられた人生を生きて、何が楽しいんだ?」と言わんばかりだ。


 人生を浪費する者は、魂を浪費しているのだ。そして、社会の中で自分自身までもが浪費される対象と成り果てるのだろう。

人生の短さについて 他二篇 (ワイド版 岩波文庫) 生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

(※左が茂手木元蔵訳、右が大西英文訳)

加害男性、山下さんへ5通目の手紙 神戸連続児童殺傷事件


 1997年に起きた神戸市須磨区の連続児童殺傷事件で当時14歳だった加害男性(26)が、殺害した山下彩花ちゃん=当時(10)=の13回忌の23日を前に、遺族に謝罪の手紙を送っていたことが分かった。男性は2005年に医療少年院を退院。手紙は昨年3月以来で、04年の仮退院中を含め5通目となる。

 彩花ちゃんの両親の賢治さん(60)と京子さん(53)は19日、神戸市内で加害男性の両親、代理人と面会。男性直筆の手紙を手渡されたという。

 京子さんによると、手紙は横書きの便せん3枚にペンで書かれ、具体的な生活状況には触れられていない。「(男性の)周りに逆境の中で精いっぱい生きる人がいて、自分も現実に向き合わなければならないと思っているようだ。これまでの手紙は無機質な印象があったが、今回は確かに生身の人間が書いていると思えた」としている。

 京子さんは、男性あてに初めて「償うとはどういうことか考えてほしい」という内容の手紙を書き、代理人に託した。男性からの手紙を読んだ上で神戸新聞社に手記を寄せ、「人の心は、人の心でしか動かすことはできない」などと思いを打ち明けた。


【神戸新聞 2009-03-21】

2009-03-20

コロンブスによる「人間」の発見/『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世

 新書だからとナメてかかると大変な目に遭う――そう思い知らされた。興味のあるテーマだが、とにかく難解。序盤では、論旨がどこへ向かっているのか、概念がどのようなものなのかすら理解できなかった。白状しておくと「俺には無理だな」と5回くらい本を閉じた。


 ヨーロッパにおける世界史(あるいは普遍史)は、歴史上の出来事を聖書に無理矢理はめ込むことだった。ま、世界をヨーロッパに閉じ込めようとしたわけだ。


 ここに「聖書」という名のジグソーパズルがあるとしよう。ヨーロッパの連中はジグソーパズルが“世界の全てだ”と考えていた。ところが、コロンブスがアメリカ大陸を発見し、マゼランが世界を一周したりして、次々と新たな、そして豊富なジグソーピースが発見された。「これは、まずい」とヨーロッパ人は思った。そこで、完成済みのジグソーパズルを押したり寄せたりして隙間(すきま)をつくり、アメリカやアジアの歴史を強引に押し込んだってわけだ。異形のジグソーパズル――これが聖書を基準にした普遍史だった。


 コロンブスが発見したのは、単に「新大陸」だけではなかった。第1回航海の帰路の船上で書いた手紙で、今日のキューバ、ハイチなどの島々発見の事情などを報告しつつ、「これらの島々で、私は今日まで、多くの人が考えているような怪物に会ったことがありません。それどころか誰も彼も皆姿よく、その色も、垂れ下げている髪以外は、ギネアの人間のように黒くありません」(『クリストバル・コロンの四回の航海』大航海時代叢書第一期第一巻、岩波書店、69頁以下)と書いている。コロンブスは、怪物ではなく、そこで「人間」を発見したのである。


【『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世〈おかざき・かつよ〉(講談社現代新書、1996年)以下同】


 コロンブスの手紙の言葉は、ヨーロッパ人自身が、それまでの「化物世界誌」を自ら打破していく、第一歩となった。その歩みは、このような状況の中では、急速に進むというわけにはいかなかった。とはいえまた、この認識は、古来の「化物世界誌」と共存しながらも、しかしアズテック王国征服(1519)、インカ帝国の征服(1521)など、スペイン人の「新大陸」進出のなかで、次第に、着実に広がっていく運命にもあった。


「化物世界誌」とはヘレフォード図に描かれた世界観のこと。ヨーロッパから見た世界の果て――つまり、アフリカやアジア――には化物(ばけもの)が棲んでいると当時の人々は信じていた。更に、ヨーロッパ人が言うところの「理性」とは、キリスト教を理解できることだった。何たる傲慢か。「全知全能」という思い上がりが、このような発想を生むのだろう。


 コロンブスは先入観の強い人物だったと見える。彼は死ぬまでアメリカ大陸をアジアだと思い込んでいた。新大陸であると言ったのはアメリゴ・ヴェスプッチであり、彼のファーストネームから「アメリカ」という名称がつけられたのだ。


 そしてコロンブスはアメリカ先住民を大量虐殺し、奴隷にした。世界史はいまだに聖書中心の記述が行われており、欧米列強は平然と有色人種を殺戮し続けている。

聖書vs.世界史―キリスト教的歴史観とは何か (講談社現代新書)

「浅草キッド」ビートたけし


 歌詞の最後は「他に道なき 二人だもの」にした方がいいと思う。


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浅草キッド The Golden Oldies

2009-03-19

ディー・ブラウン、セネカ


 1冊挫折、1冊読了。


 挫折13『わが魂を聖地に埋めよ アメリカ・インディアン闘争史』ディー・ブラウン/鈴木主税訳(草思社、1972年)/良書と思われるが、フォントが小さ過ぎる。8ポイントか。また、資料的要素が強く、読み物としてはイマイチと判断した。30ページくらいで挫ける。


 40冊目『人生の短さについて』セネカ/茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳(岩波文庫、1980年)/森本哲郎著『生き方の研究』で紹介されていた一冊。これほど面白いとは思わなかった。セネカはイエスと同時代を生きた。ギリシア哲学ストア学派の代表選手。ネロを支えた政治家であった。現代の政治家でこれほどの思索を為す人物が果たしているであろうか。文明の発達は、思想を退化させるのかも知れない。

「子ども110人殺害」したナイジェリアの呪術医を逮捕


 ナイジェリアの警察は、テレビのドキュメンタリー番組で「悪霊に取りつかれた」子ども110人の殺害を明らかにした男を逮捕した。当局者が3日に発表した。

 男は「呪術医であることは否定しないが、私が殺したのは子どもらではなく患者の中にいる魔女だ」などと話しているという。

 人権活動家らは、悪霊に取りつかれた子どもが離婚や病気などの災いをもたらすと親を説得し、悪魔ばらいをして金を取ろうとするいかさま牧師や呪術医がナイジェリアの一部地域にいると指摘していた。両親から引き離された後、人身売買組織に引き渡された子どももいるという。


【ロイター 2008-12-04】

ガンビアで魔女狩り横行、幻覚液で死者も アムネスティ


 国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは18日、アフリカ西部の国ガンビアで魔女狩りが横行し、1000人あまりが捕らえられて幻覚を起こす液体を飲まされていると伝えた。

 液体を飲まされた人のうち少なくとも2人が死亡、多数が深刻な腎臓障害を起こしているほか、暴行を受けてけがをした人もいるという。アムネスティはガンビア政府に対し、直ちに魔女狩りをやめさせるよう要求した。

 アムネスティは同国のジャメ大統領の関与も指摘。親類の死に魔女がかかわっていると信じた大統領が、呪術医を呼び寄せたとの報道もあるという。魔女の疑いをかけられ連行された被害者や家族は、呪術医が警官や兵士を連れてやって来て、銃を突きつけられ連行されたと証言している。

 大統領選に出馬したこともある野党の有力議員は魔女狩りの実態について調べていたが、今月に入って身柄を拘束された。アムネスティは、同議員が拷問を受ける恐れもあると指摘している。


【CNN 2009-03-19】

辛淑玉による公明党批判/『怒らない人』辛淑玉


 根本的に勘違いしている主張のオンパレードだが、公明党批判は的を射ている。例えば、浜四津敏子代表代行についてこう書いている――


 たとえば、盗聴法に反対して闘っているとき、公明党の浜四津敏子代表代行は、集会で最初わたしの傍で威勢良く反対を叫んでいた。その筋の通った内容だけではなく、権力に対峙するその姿勢が何よりもかっこよかった。

 私はそれがうれしかったし、ほんとうに期待していたのだ。(中略)

 ところがその翌日、公明党は何の説明もなく、反対を撤回したのだ。敵の本丸から自民党の強者たちがずしりと動き出したとたん、あっという間に方針転換して、浜四津氏は盗聴法反対の戦列から消え去ってしまった。

 当初、鮮烈な反対の声をあげていた彼女の姿は、一般の人々の脳裏に焼きついただろう。「ああ、やっぱり公明党は庶民の味方、正義の味方なんだ」と。

 しかし、党としての実態は決してそうではなかった。

 私には、いまでも、それが彼女自身の意思だったとは思えない。というのも、その後自民党の右傾化した議員たちによる男女共同参画つぶしの嵐が吹き荒れたとき、体を張って女性の側につき、女性の人権を守ろうとしたのは浜四津氏だったからだ。


【『怒らない人』辛淑玉〈しん・すご〉(角川oneテーマ21、2007年)】


 抑制された筆致が、節度ある批判となっていて好ましい余韻を残す。辛淑玉は浜四津敏子を信頼すればこそ、書かずにはいられなかったのだろう。組織型政党は個人の自由を奪う傾向が強い。政策は是々非々で論じるべきものであると思うが、政党政治は結局のところ、党利党略を優先して大を取って小を無視するようになりがちだ。


 公明党に関しては、与党入りすることで独善的な宗教政党から成熟段階に入ったと見ることもできる。とはいうものの、本質的にはキャスティングボートとしての存在感しか評価されていない。仏教思想の「中道」もまったく生かされておらず、論語の「中庸」的な中途半端さが目立っている。


 国民政党を目指すのであれば、創価学会と距離を置くことが望ましいと考える。

怒らない人 (角川oneテーマ21)

かくして少年兵は生まれる/『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア

 飢えと寒さに苛まれながらも少年は逃走する。離れ離れになった家族との再会を目指して。だが、とうとう反乱兵につかまってしまう。反乱兵は少年達を二つのグループに分けた。そして――


 片方の腕をさっと伸ばしてぼくらを指し、反乱兵の一人が言いはなった。「目の前にいるこいつらを殺すことによって、おまえら全員を入隊させる。血を見せれば、おまえらは強くなる。そのためにはこうすることが必要なのさ。もう二度とこいつらに会うことはないだろう。まあ来世を信じていれば話は別だが」。彼はげんこつで自分の胸をたたいて笑った。

 ぼくは振りかえってジュニアを見た。目が赤い。涙をこらえようとしているのだろう。彼はこぶしを固く握りしめて、手の震えをおさえている。ぼくは声を押し殺して泣きだし、そのとき急に目まいがした。選ばれた少年のうちの一人が反吐(へど)を吐いた。反乱兵の一人が銃床でその子の顔をなぐり、ぼくらの列に押し込んだ。歩き続けていると、少年の顔から血が流れてきた。


【『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア/忠平美幸訳(河出書房新社、2008年)】


「生きるためには仲間を殺せ」――反乱兵は一線を越えさせることで少年の自我を崩壊させ、その後ドラッグ漬けにして一人前の少年兵をつくり上げるのだ。ジュニアというのは、少年の兄だった。実の親を殺させることも珍しくない。


 イシメール・ベアは土壇場で難を逃れる。政府軍が近づき、銃撃戦が展開された隙(すき)を見計らって、脱兎の如く逃げ去ったのだ。


 貧しい国では暴力が闊歩している。特に軍隊や警察は、暴力の牙を剥(む)き出しにして容赦なく国民に襲い掛かる。そして子供達は、「生きるためのジレンマ」を抱え込む羽目になる。


 先進国の経済力という暴力性が、これらの国々を貧しくさせているとすれば、もはや国家という枠組を解体する他、人類が幸福になることはあり得ない。「国家悪」という思想を私は熱望する。

戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった

記録の様相/『DNAがわかる本』中内光昭


 昨年読んだが、紹介するのを忘れていた。全体的には底が浅い印象を受けた。ま、DNA入門といってよい。


 DNAは記録である。では記録とは何か。その様相を著者はこう綴る――


 従来、人間世界で使われるシナリオは紙にインクなどで書かれてきました。今ではフロッピーディスクに電子の言葉で書いてあるシナリオもあるでしょう。一般に、情報を記録する場合、“違い”を利用して記録するのが普通です。白紙がもっている情報は少ないですが、インクなどにより部分的に色が違ってくると(字や絵が書かれると)、さまざまな情報を記録することができます。レコードやCDの場合は、溝の変化や凹凸という“違い”を利用して情報を記録しています。利用する“違い”はいろいろでも、紙や合成樹脂といった何かを基盤にして、それに情報を記録する点では共通です。では、生物はどのような基盤物質に情報を記録しているのでしょうか?

 シナリオが核の中にあるとすれば、核には膨大なシナリオを記録するため、用紙(基盤)のはたらきをする物質が多量に存在するはずです。調べてみると、核の主要成分は、生物の種類を問わず、「蛋白質」と「核酸」とよばれる二つの物質であることがわかりました。基盤物質は蛋白質か、核酸か、またはその両者か、ということになります。


【『DNAがわかる本』中内光昭(岩波ジュニア新書、1997年)】


 これは卓見。違いの肯定。違いが多様性を生む。そして豊かな多様性は、ある共通性に貫かれている。多種多様な動物の種類はDNAの記述が異なっている。しかしながら、DNAを持つという点では共通している。


 DNAは「生命のシナリオ」と言われるが、そこにはあらかじめ運命が記録されているわけではなく、「蛋白質のつくり方に関する情報」が記されている。DNAは、人生という物語の台本ではない。

DNAがわかる本 (岩波ジュニア新書)

2009-03-18

岡崎勝世


 1冊読了。


 39冊目『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世(講談社現代新書、1996年)/これはしんどかった。序盤はまるでついてゆけない。第一章はお経を読んでいるような気分になった。これは、書き手の問題ではなく私の知識不足によるもの。「読み手を選ぶ本」と言ってよい。読むべき人が読めば、きっと5000円以上の価値があることだろう。外交や防衛は、こういう次元から捉え直す必要があると思う。

ターミナルケアを「医療」の枠にはめるな/『ケアを問いなおす 〈深層の時間〉と高齢化社会』広井良典


 介護保険の導入が2000年なので、それを睨(にら)んで執筆したものと思われる。発行から既に10年以上経過しており、時期を逸した感もあるが、それでも有益さが損なわれることはない。


 広井良典が説くのは「思想としてのケア」であり、「ケアという行為」から人間と社会を捉え直してパラダイム・シフトへと誘(いざな)う。文章がまどろっこしいのが悪い癖だが、きっと慎重かつ丁寧な性格なのだろう。それにしても視点の位置が高い。


 昨今は介護保険の陰になって論じられることの少ないターミナルケア(週末医療)の問題をこう指摘する――


 ターミナルケアが「医療」の問題として論じられるかぎり、どうしてもそれは苦痛緩和の問題であったり安楽死の境界線引きの問題であったり等々と、どうしても「技術論」に傾いてしまう。しかも、ターミナルケアの問題がいわば「メディカル・ターム」で語られると、そこにある効果が働き、ターミナルケアの問題が限りなく“専門職種”の話に閉ざされ、矮小化されていってしまう。「死のブラックボックス化」とでもいうか、死というものが、ふつうの人たちの手から限りなく遠くへやられ、しかもターミナルケアの問題がどんどん本質から遠ざかっていくのである。


【『ケアを問いなおす 〈深層の時間〉と高齢化社会』広井良典(ちくま新書、1997年)】


 医療の俎上(そじょう)に載れば技術論に傾き、政治が取り上げると予算額(健康保険)に終始する。専門家は専門用語を乱発し、国民の手から“問題”を取り上げようとする。「我々に任せておけばよろしい。よきに計らおう」と言わんばかりに。


 結局、専門家に欠如しているのは、家庭という現場における生活感であり、実際に家族が抱えている苦悩に対する想像力だ。中途半端な施策が国家の力を弱めているようにしか見えない。


 広井良典は、まず確固たる死生観の構築が必要であり、死をどのように捉えるかで制度も異なってくると指摘している。現代社会は「死」をも病院の中に閉じ込めてしまった。


 ターミナルケアや介護に携わる人々は、利用者から見れば家族も同然である。賃金を受け取っているとはいえ、家族以上に面倒を見てくれている。これ自体が「新たな家族の枠組」への志向と考えてよいと思う。

ケアを問いなおす―「深層の時間」と高齢化社会 (ちくま新書)

2009-03-17

ヒンズー教は社会的不平等を擁護する宗教/『不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール


 アンベードカルは不可触民の権利を守るために、なんとヒンズー教をも攻撃した――


“犬およびインド人立入るべからず”といっているヨーロッパ人クラブに入れてくれとヒンズー教徒が懇願しないのと同様、不可触民以外の全てのヒンズー、犬すら立入りを許可する寺院に入れてくれとは、われわれ不可触民はもはや頼みはしない。

 寺院を開放するかしないかは、カーストヒンズーが考えることで、私がとやかくいうことはない、と述べた。

 また、不可触民は、社会的不平等を擁護するような宗教にはもはや我慢できない。ヒンズー教が宗教だというのなら、社会的平等をもった宗教でなくてはならない。もしそのような宗教であろうとするなら、寺院立入りだけでは不十分である。四姓制度そのものからその不平等性を放逐しなくてはならない。これこそ全ての不平等の根元であり、カースト制度、不可触民制度の生みの親であるからだ。そうでない限り、われわれ不可触民は寺院立入りは愚か(ママ)、ヒンズー信仰そのものに反対するだろう。


【『不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール/山際素男訳(三一書房、1983年)】


 アンベードカルはヒンズー教徒であった。だが彼は信仰よりも、虐げられている多くの人々を重んじた。ここにアンベードカルの強さと独創性があった。


 差別を助長させる思想が、世界を分断する。結合は善で、分断は悪――これが善悪の本質だ。


 アンベードカルは、差別まみれとなったインド社会を不可触民と結合させようとしたのだ。アンベードカルが目指したものが善である以上、彼に反対し、邪魔をし続けたガンディーは悪の存在となる。

アンベードカルの生涯 (光文社新書)

真のゲリラは死ぬまで革命家であり続けた/『チェ・ゲバラ伝』三好徹


 これが冒頭の一文――


 人が革命家になるのは決して容易ではないが、必ずしも不可能ではない。しかし、革命家であり続けることは、歴史の上に革命家として現れながらも暴君として消えた多くの例に徴するまでもなく、きわめて困難なことであり、さらにいえば革命家として純粋に死ぬことはよりいっそう困難なことである。エルネスト・チェ・ゲバラの生涯は、このもっとも困難な主題に挑み、退くことをしらなかった稀有の例であった。革命家には勝利か死かしかないというおのれの、あえていうならばロマンティックな信条の命ずるままに自分の行動を律して生涯を終えた。革命にもしロマンティシズムがあるならば「チェ」は文字通りその体現者だったのである。


【『チェ・ゲバラ伝』三好徹(文藝春秋、1971年)】


 評伝の類いは往々にして人生をなぞることに重きが置かれ、内面的な世界をなおざりにしている作品が多い。本書も決して読み物としては面白いものではない。それでも、ゲバラの言葉と行動は読み手の心を動かさずにはおかない。


 チェ・ゲバラは“武装した天使”であった。南米を蹂躙(じゅうりん)するアメリカに徹底抗戦を挑んだ男であった。贅沢とは無縁な高潔なリーダーであった。労働者と一緒に働く政治家であった。そして、キューバ革命の先頭に立ったアルゼンチン人であった。


 世界のどこかに苦しみ喘(あえ)ぐ民がいる限り、ゲバラは戦い続けた。そして、自らが決めた使命に生き、使命に死んでいった。

チェ・ゲバラ伝

二種類の孤独


 孤独に苛(さいな)まれる人がいる。孤独を愛する人がいる。疎外感と孤高とは似て非なるものだ。

やっぱり、そういうことか 高速料金値下げ狂騒


 高速料金値下げがETC車に限られることから、カーショップでは車載機を購入する人が殺到中。今なら助成金5250円も出る。ところが、この助成金はもとはドライバーから徴収した金だ。しかも、高速料金値下げ狂騒のウラで、この助成金によって別の天下り財団が肥え太る構図も見られる。またも利権構造だ。


日刊ゲンダイ 2009-03-17】

エホバの証人の輸血拒否


 昨日、リンクした「NATROMの日記」に関連記事があったので紹介しよう(時系列順)。

 Wikipediaによれば、この他にも兵役拒否、国旗敬礼・国歌斉唱を忌避、他宗の儀式へは参加しない、といった特徴的な行為が挙げられている。確か選挙の投票もしないはずだ。性行為もかなり規制されている。たとえ夫婦であったとしてもだ。


 実は個人的にエホバの証人が好きだ。今まで会ったエホバの人々は皆いい人だったからだ。それも、すこぶる付きの。聖書も実によく研鑚している。


 世界の諸問題の基底に共通しているのは欧米列強による帝国主義的思想であり、それを支えているのはキリスト教である――というのが私の持論である。それでもエホバの人々には好感を抱いている。


 しかし、輸血拒否となるとまた別の話だ。近頃、ろくでもないエホバ信者と遭遇した。独善を絵に描いたような人物だった。友人にその話をしたところ、「注射器を持っていって、おもむろに輸血してしまえよ」と言われた。嫌がらせという点では完璧だ。


 彼等がなぜ輸血を拒否するのか私は知らない。多分、神様がつくったものに対して勝手な人為を加えるのはダメだ、ってな話なのだろう。それはそれで宗教的整合性はある。だが致命的なことに、「神様がつくった」という証拠がない。証拠が出たら出たで、「じゃあ、神様をつくったのは誰なんだ?」という方向に議論は発展する。


 エホバ信者は“血の滴るようなステーキ”を食べないのだろうか。食料に混じっている血は無視できるのだろうか。はたまた、彼等の目にはドラキュラがどんなふうに映っているのだろうか。


 教義を盾(たて)にして、助かるべき命が助からなかったとすれば、それは「人命よりも教義に価値を置く」教えであり、「教義のために人間を犠牲にする」思想であると言ってよい。


 もっと簡単に説明しよう。輸血をしたエホバ信者がいたとする。教団はこの信者をどのように扱うだろうか。きっと「異端」の烙印(らくいん)を押すのだろう。多分、ノアの箱舟には乗せてもらえないことになる。つまり、教義が「差別意識を助長」してしまうのだ。そもそも、エホバの証人自体がクリスチャンの間では異端視されているわけだから、異端×異端=正統となるような気もする。


 神様が人間をつくったとすれば、神様はよほど不器用だったのだろう。全知全能の看板に偽りあり。


【追記 3月18日】「鰤端末鉄野菜 Brittys Wake」(元エホバ信者の方)によれば、「『血を避けろ』と聖書に書いてあるから」というのが輸血拒否の理由らしい。更に「実はエホバの証人も輸血OKだった時期があった」というのだから驚き。コロコロと変わる教義を律儀に守っている信者が気の毒だ。

2009-03-16

自然淘汰は人間の幸福に関心がない/『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ


 人体は遺伝子の乗り物に過ぎないという考え方がある。


 私たちは、自然界の生物は幸せで健康なものだと考えたがるが、自然淘汰は、私たちの幸福には微塵も関心がなく、遺伝子の利益になるときだけ、健康を促進するのである。もし、不安、心臓病、近視、通風や癌が、繁殖成功度を高めることになんらかのかたちで関与しているならば、それは自然淘汰によって残され、私たちは、純粋に進化的な意味では「成功」するにもかかわらず、それらの病気で苦しむことだろう。


【『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ:長谷川眞理子、長谷川寿一、青木千里訳(新曜社、2001年)】


 つまり、子孫のために我が身を犠牲にする働きともいえる。子孫を残すためなら、いかなる病気も引き受け、苦痛にものた打ち回るってわけだ。まったく嫌な話だ。


 しかし、である。ヒトというのは生殖可能な期間が過ぎ去っても尚、生き延びる。老齢期が最も長い動物なのだ。これは、遺伝子本位の考えとどのような整合性を持つのであろうか。孫子に人生の智慧を伝授する役目でもあるのだろう。


 ダーウィン医学が胡散臭く思えるのは、例えば犯罪をも遺伝子の働きで説明しかねない雰囲気があるところだ。そして、生存競争に勝った時点から過去を読み解くわけだから、ちょっと後出しじゃんけんっぽいんだよね。

病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解

服従の本質/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

 長らく絶版になっていたが遂に新訳(山形浩生訳)が出た。紙質も良く河出書房新社の気合いが十分伝わってくる。


 スタンレー・ミルグラムといえばスモールワールド現象(六次の隔たり)と服従実験が広く知られており、多数の書物や文献で引用されている。実験結果を発表したのが1963年(昭和38年)。私の生まれた年だ。それまでは低く見られていた社会心理学の地位を一気に正当な学問の領域へ引き上げた歴史的実験である。


 ポイントは二つだ。「人間はどこまで服従するのか」、そして「なぜ服従するのか」。ミルグラムは実験条件に変化をつけ、服従のメカニズムを探る。


 服従の本質というのは、人が自分を別の人間の願望実行の道具として考えるようになり、したがって自分の行動に責任をとらなくていいと考えるようになる点にある。この重要な視点の変化がその人の内部で生じたら、それに伴って服従の本質的な特徴すべてが生じる。考え方の調整、残酷な振るまいの野放図な実行、そしてその人物の体験する自己弁明などは、心理学の実験室だろうとICBM発射基地の司令室だろうと、本質的には似たものとなる。したがって、心理学実験室と他の状況との明らかなちがいを並べ立てるだけでは、この結果の一般性についての疑問は解決しない。解決には、服従の本質をとらえた状況を慎重に構築すること――つまりその人が自分自身を権威に委ねてしまい、自分自身の行動を自分が実質的に引き起こしていると考えなくなるような状況を構築すること――が必要となる。

 前向きな態度があって、強制がない限りにおいて、服従は協力的な雰囲気を持つ。実力行使の危険や罰則が脅しとして使われる場合には、服従は恐怖によってもたらされる。われわれの研究で扱う服従は、いかなる脅しもないのに自主的に行われるものに限られる。権威側はその服従を維持するにあたり、相手が自分の言うことを当然きくものだという、自身たっぷりの態度を示すにとどまる。この調査で権威が行使する力はすべて、被験者側がその権威側の持つものとして何らかの形で認知したものであり、客観的な脅威や、その被験者を左右するための物理手段の有無については一切頼っていない。(※序文)


【『服従の心理』スタンレー・ミルグラム山形浩生訳(河出書房新社、2008年/同社岸田秀訳、1975年)】


 アッシュの同調実験を手伝っていたミルグラムは、同調を服従に発展させるアイディアを思いついた。それは単純だったが極めて効果的な実験法だった。一般市民が見ず知らずの他人に対して、どこまで苦痛を与えることが可能なのか。被験者は教師役に配された。生徒役と実験者はサクラである。服従実験を知らない人は以下のページを参照されよ――

 読み物としても十分堪能できる。まるで映画のシナリオのようだ。被験者との生々しいやり取りが緊張感に満ちている。


 多分、魔女狩りもナチスもルワンダも、虐殺に加わった殆どの人々は「普通の人」であったことだろう。日本の官僚にしても同様だ。なぜ人は権威に従ってしまうのか、権威に従うことがどのような利益と不利益を生むのか、そして権威とは何なのか――多くの問題に巣食う心理的メカニズムを本書は見事に解明している。立派な教科書たり得る作品だ。

服従の心理 (河出文庫)

2009-03-15

北村慶


 1冊読了。


 38冊目『貧乏人のデイトレ 金持ちのインベストメント ノーベル賞学者とスイス人富豪に学ぶ智恵北村慶PHP研究所、2006年)/マーケットが下がっている今だからこそ読むべき本。タイトルに難あり。PHPも随分と浅ましい真似をするものだ。内容は「長期投資の基本」である。ポートフォリオを組んで老後の蓄えを豊かにしようという至極真っ当な路線である。自己年金といってよい。少子高齢化に伴い、社会保障が手厚くなることは考えにくいので、この程度の経済感覚は身につけておくべきだろう。いわゆるファイナンシャル・リテラシーというやつだ。一つだけ気になったのは、理由を示さずにホリエモンの悪口を書いているところ。大衆に迎合する著者の姿勢が露呈している。

現代人は健康を味わえない/『人生論ノート』三木清

 我が青春の一書。初出は、「文学界」1938(昭和13)年6月〜1941(昭和16)年10月、ただし「個性について」は「哲學研究」1920(大正9)年5月、「後記」は「人生論ノート」創元社1941(昭和16)年8月、「旅について」は不詳、とのこと(「青空文庫」による)。


 三木清は終戦後の昭和20年9月26日、豊多摩刑務所内で死亡した。享年48歳。

 実際、今日の人間の多くはコンヴァレサンス(病気の恢復)としてしか健康を感じることができないのではなかろうか。


【『人生論ノート』三木清(新潮文庫、1954年)】


 二十歳(はたち)の私は、「ウン?」と思った。再び読み返して「アッ!」と唸った。我々は病気というマイナス価値に対しては敏感だが、健康をプラスと感じることができなくなってしまっている。つまり、健康な状態がゼロだと思い込んでいるようだ。


 中原理恵は「ないものねだりの子守歌」と歌った。欲望はいつだって満たされることがない。まるでブラックホールだ。そしてあらゆる情報が大衆の消費意欲に火を点け、あれもこれも足りないと欠乏感を煽り立てる。


 健康を味わえないから、病気も味わえない。生を堪能できないが故に、死の充実もない。欲望はありとあらゆるマイナス価値を否定する。これを肯定できれば少欲知足(欲少なくして足るを知る)か。

人生論ノート (新潮文庫)

うつ病の教師「気が弱い」=自民・笹川氏


 自民党の笹川堯総務会長は14日、大分市内での同党県連大会で、「今、学校では、うつ病で休業を続ける先生がたくさんいる。国会議員の中には(そういう人は)1人もいない。そんなに気が弱かったら務まらない」と述べた。うつ病の人や教師に対する理解のない発言とも受け取れ、批判が出る可能性もある。


【時事通信 2009-03-14】

2009-03-13

日本のデタラメな論功行賞/『孫子 勝つために何をすべきか』谷沢永一、渡部昇一


 これは一昨年(おととし)に読んだ。私の知らないうちに谷沢永一が保守派の論客となっていた。しかしながら、プラグマティズムの要素が色濃く、実際的な発想となっている。


 戦時において、時に上官の命令を無視することで勝利を得るケースがある。だが、軍隊というものは体面を重んじることで成り立つ世界だ――


東郷平八郎は無謬の将軍ではない――谷沢


 これは日本海海戦のときですが、この「算」のために憂き目を見た将軍がいます。それは海戦に秘められた嘘から始まっている。日本海で日露両軍の艦隊が出会います。バルチック艦隊の旗艦スワロフには司令長官のロジェツトウェンスキーが乗っている。その舵のところに日本の連合艦隊の砲弾が命中して、スワロフは迷動します。

 ところが海戦の難しいところは、味方の被害はよく分かるのですが、敵の被害が分からない。それで連合艦隊司令長官の東郷平八郎は、〈これはスワロフが日本の第一艦隊をすりぬけて、ウラジオストックへ行こうとしているのだ〉と判断し、「左へ回れ」と命令を下す。

 ところが、第二艦隊の参謀長藤井較一が東郷の判断を無視して、「違う! 方向転換ではなく、あれは迷走しているのだ」と叫び、第二艦隊司令長官上村彦之丞に「わが艦隊は直行すべきです」と訴えます。上村は「分かった」と答えて、そのまま真っ直ぐスワロフへ突っ込んでいく。

 これは大変なことです。間違っていれば、軍法会議です。

 第一艦隊は北へ向かって大きく迂回している。軍艦はいったん方向を転換すれば、すぐにそれを修正することはできません。結局スワロフは沈没し、連合艦隊は大勝利をおさめます。

 したがってこの海戦の死命を決したのは、藤井較一と上村彦之丞ということになります。ところがこの二人は、顕彰されません。

 二人を顕彰すれば、東郷が間違っていたことを天下に広めることになります。だから藤井は中将どまり、上村は大将どまりで、功績を消されてしまうわけです。こうして、無謬(むびゅう)の将軍としての東郷の名が残ることになるわけです。

 日露戦争では同じようなことが、他にもあります。旅順の二百三高地で多くの兵士の無駄な血を流した第三軍の司令官は乃木希典、その参謀長は伊地知幸介で、この二人は乃木が伯爵、伊地知は男爵になります。

 ところが、伊地知の無能のために殺した兵士の数は無数です。日本陸軍としては、聖将乃木を讃えるために、乃木は間違わなかったことにしなければならない。そこで間違いに間違いを重ねた乃木に伯爵を与え、無能以上の罪悪だと司馬遼太郎が言うほどの伊地知に男爵を与えています。つまり、まっとうな論功行賞は、すでに日本では行われなくなっていたのです。


【『孫子 勝つために何をすべきか』谷沢永一、渡部昇一(PHP研究所、2000年)】


 目的はただ一つ――体制擁護である。システム維持と言ってもよい。いかなる組織においても、現場や最前線にいる人々は何がしかの矛盾に悩まされている。なぜなら、「自分がやりたいこと」と「上司がやらせようとしていること」は往々にして一致しないためだ。システムはピラミッドで構成されている。つまり、上司の言いなりになることが最も正しい価値となる。


 組織は、合理的かつ効果的に目的を果たすために形成される。だが一旦組織が出来上がってしまうと、組織を維持する方向へと慣性が働く。そして組織は、いつだって構成員に犠牲を求めてやまない。


「人体こそ理想的な組織」という話もよく耳にする。そうであれば、平然と手足を犠牲にするような組織が発展できるわけがない。足が痺れていれば走れない。指先がかじかんでいれば自由に物をつかむこともできない。


 公正な信賞必罰が行われなければ不平等が蔓延する。それは、もはや組織ではなく村に過ぎない。

孫子・勝つために何をすべきか (PHP文庫)

宮本省三


 読書中。『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』宮本省三(講談社現代新書、2008年)/先日、『リハビリテーション・ルネサンス 心と脳と身体の回復 認知運動療法の挑戦』の悪口を書いたばかりだが訂正しておこう。宮本省三は本物だった。つまり、あれは本物が書いた拙い文章の一つに過ぎなかった。思想に重きを置いた内容であるために、チェックが甘くなったのだろう。本書はスピーディな展開で実にわかりやすい。脳と身体に興味がある人や、医療・介護関係者は必読。

2009-03-12

将来は過去の繰り返しにすぎない/『先物市場のテクニカル分析』ジョン・J・マーフィー

 相場本の面白さは、マーケットの論理が人生の本質を浮かび上がらせるところにある。人生は割り切れないものであるが、相場は秒単位で1円の誤差もなく割り切られてしまう。評価損、追証……(笑)。


 まあ、この一文を読んでごらんなさいよ。見事な哲学である――


 過去において役に立ってきたことから、将来においても役に立つものと思われる。なぜなら、チャート・パターンは人間心理の研究に基づくものである。人間心理は変らないからである。“歴史は繰り返す”というこの最後の前提を言いかえれば、将来を理解する鍵は過去を研究することにある。すなわち、将来は過去の繰り返しにすぎないということである。


【『先物市場のテクニカル分析』ジョン・J・マーフィー/日本興業銀行国際資金部訳(金融財政事情研究会、1990年)】


 人間心理は変わらない。成長と堕落を繰り返しながらも、基準線はフラットなのだ。あな恐ろしや。ドイツの宰相ビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言った。賢者とは“変わらぬ人間心理”を読み解くことができる人物だ。


 敢えて断言しているところに、ジョン・J・マーフィーの達観が窺える。

先物市場のテクニカル分析 (ニューファイナンシャルシリーズ)

広井良典


 1冊読了。


 37冊目『ケアを問いなおす 「深層の時間」と高齢化社会広井良典(ちくま新書、1997年)/介護保険の導入が2000年なので、それに合わせて発行したものと思われる。このタイミングで広井良典という人物を得たことは、介護関係者にとっては僥倖(ぎょうこう)と言ってよい。発行された時に読んでおきゃよかった。それでも半分以上は、10年というタイムラグに耐えるだけの内容。本書の思索は『死生観を問いなおす』(ちくま新書、2001年)で更なる飛翔を遂げる。

『群衆 モンスターの誕生』今村仁司(ちくま新書、1996年)


群衆―モンスターの誕生 (ちくま新書)


 群衆とは何か。近代資本主義の誕生とともに、歴史と社会の表舞台に主役として登場してきた群衆。20世紀のナチズムもスターリニズムも群衆社会がつくりだした全体主義の脅威であったことは記憶にあたらしい。一体われわれは、激流のような群衆化傾向に対して抵抗できるのだろうか。ポー、ボードレールニーチェ、メアリー・シェリーらの群衆への驚き、カネッティやモスコヴィッシの群衆分析、トクヴィルの民主主義論、ルボン、タルドフロイトらの心理学的考察など、さまざまな視点からその怪物的性格を明らかにし、現代人の存在のあり方を根源から鋭く問う群衆社会批判。

2009-03-11

ガンジーは民族主義者に過ぎなかった/『ガンジーの実像』ロベール・ドリエージュ

アキバ系OL うちこのヨガ日記」で本書を知った。それにしても、文庫クセジュは紙質が悪いね。これじゃあフランス人に怒られちまうよ。


 フランス人はイギリス人を猿だと思っている。そして、イギリス人は日本人を猿だと認識している。以前、そんな話を聞いたことがある。つまり、フランス野郎はいけ好かないってことだわな。文化の宗主国にして、革命とレジスタンスの国。ナポレオン、ジャンヌ・ダルクユゴー……。わかったよ。私の負けだ。


 ってなわけで、フランス人作家によるガンジー伝は、「ハハン、所詮アジアの小男だろう?」的なムードが漂っている。冷徹。誇張もなければ矮小もない。等身大とまでは言わないが、ガンジーにまつわる新聞記事を読んでいるような気分になる。これはこれで可とすべきだろう。


 作家のV・S・ナイポールが記しているように、『自伝』のうち250頁が南アフリカに費やされているが、この国の黒人問題についてはほぼ一言も触れていないことは注目に値する。あたかも彼らは存在していなかったかのようである。南アフリカの問題は、白人とインド人の平等認識問題に帰している。当時のガンジーを動機づけていたのは、社会正義そのものというよりは、南アフリカ社会における同郷インド人の権利であった。


【『ガンジーの実像』ロベール・ドリエージュ/今枝由郎訳(白水社文庫クセジュ、2002年)】


 ガンジーは民族主義者だった。ガンジーが心を砕いたのは南アフリカにおける「インド人の権利」だった。ガンジーは政治家だった。そして彼はインドの国益のために戦った。だが、ガンジーは不可触民の敵であった。

ガンジーの実像 (文庫クセジュ)

リストラ


 会社全体の仕事量を増やすのが社長の仕事である。不況を理由に社員をリストラするのは本末転倒である。まず、社長を切るのが本筋だ。

三好徹


 1冊読了。


 36冊目『チェ・ゲバラ伝』三好徹(文藝春秋、1971年)/面白くなかった。それでもゲバラを知るためには読む必要がある。私が読んだのは98年の改訂版原書房)だが、表紙はこちらの方がよい。憂愁とも呻吟(しんぎん)とも受け取れる面影だ。ゲバラとカストロの出会いと友情、そして二人の違いがよくわかった。ゲバラは高潔な革命家であった。そして、アメリカ帝国主義と本気で戦い、39歳で花と散っていった青年でもあった。ゲバラの理想は正しかったと思う。しかし、正しいだけでは勝つことができなかった。正義が敗れるところに、この世界が抱える問題の本質がある。

職務質問 兵庫県警新港交番


 ♪イヌの〜 おまわりさん 困ってしまって ワンワンワワーーン ワンワンワワーン


 イヌのお巡りさんが困っているぞ。そう。権力の犬だ。奴等は絶対正義原理主義者だ。いつだって体制に額づき、職務に忠実であろうと日夜奮闘している。ハンディカメラは市民にとって武器となり得る。メディアが使うと凶器になるんだけどね(笑)。映像を見る際の留意点は、カメラがどちらの側から撮影しているかということ。


D

2009-03-10

反社会性人格障害の見事な描写/『香水 ある人殺しの物語』パトリック・ジュースキント


 主人公のグルヌイユは、マダム・ガイヤールの育児所に引き取られた。マダム・ガイヤールは明らかに反社会性人格障害だった。

 マダム・ガイヤールはまだ30にもなっていないのに、もうとっくに人生を卒業していた。外見は齢相応にみえた。と同時にその倍にも見えたし3倍にも見えた。100倍も歳月を経たミイラ同然だった。心はとっくに死んでいた。幼いころ、父親に火掻き棒で一撃をくらった。鼻のつけ根のすぐ上。それ以来、嗅覚がない。人間的なあたたかさや冷たさ、そもそも情熱といったもの一切に関心がない。嫌悪の感情がない代わりにやさしさもない。そんなものは、あの火掻き棒の一撃とともにふきとんだ。絶望を知らない代わりに喜びも知らない。齢ごろになって男と寝たとき、何も感じなかった。子どもが生まれたときもそうだった。生まれた子が次々と死んでいっても悲しいとは思わなかった。生き残ったのがいても、うれしいというのではない。夫に殴られているとき、からだをすくめたりしなかった。その夫がコレラのために収容所で死んだとき、ホッとしたりもしなかった。彼女が感じる唯一のものは月経のはじまり。ほんの少しだが気分がめいる。月経が終わると少しばかり気が晴れる。ほかにこの女は何一つ感じない。


【『香水 ある人殺しの物語』パトリック・ジュースキント池内紀訳(文藝春秋、1988年/文春文庫、2003年)】


 死んだ表情、幼児期に振るわれた暴力、極端な感覚の欠落――これらの要素が簡潔にして見事な人生描写で綴られている。結局社会というものは、いつの時代も“本当の意味での個性”を拒んでいることがわかる。「同じ反応」こそ社会が要求する性質だ。


 そしてグルヌイユも同じ種類の人間だった。彼は生まれながらにして善悪の概念を欠いていた。その後、香水作りの天才は匂いを武器に社会を混乱させる。キリスト教社会であることを踏まえれば、グルヌイユは「悪魔」の象徴である。

香水―ある人殺しの物語 香水―ある人殺しの物語 (文春文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-03-09

日本仏教は鎮護国家仏教として出発した/『鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮』戸頃重基


 鎌倉仏教の3大スター親鸞・道元・日蓮の思想と生きざまを、やや批判的(あるいは学術的)に捉えた好著。タイトルの「仏教」がなぜ旧漢字なのかは不明。何の知識もない人が読むと、毒される可能性あり(笑)。仏教思想の俯瞰が巧みで、見識を感じさせる。


 釈迦(しゃか)を開祖とする仏教が、百済(くだら)からはじめてわが国にもたされたのは、ようやく安定した国家が生れつつあった6世紀のなかば、538(欽明天皇の7)年であった。日本の朝廷がこの仏教をうけいれたのは、天皇が宗教的だったからでも、異国の高い文化に憧れていたからでもない。部族や氏族の対立をのりこえ、天皇中心の統一国家をめざしているちょうどそのとき、普遍的な宗教をうけいれることが、政治的に国民を支配するためにも便利だったからである。このことは、日本仏教が輸入の当初から、政治的な鎮護国家仏教として出発したことを意味している。


【『鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮』戸頃重基(中公新書、1967年)】


 宗教は政治に利用される。最澄と空海による平安仏教は輸入思想であった。それを日本民族的に昇華させたのが鎌倉仏教である、というのが戸頃重基の見解。で、日本の民族性は何かというと「シャーマニズム」。


 共同体の枠組みが大きく変わる時、新たな思想が求められるという指摘は興味深い。世界が一つになる時、今までにない新しい宗教が必要になることだろう。

鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮

孫子


 1冊読了。


 35冊目『新訂 孫子』金谷治(かなや・おさむ)訳注(岩波ワイド文庫、2001年)/作者が孫武か孫臏(そんひん)か不明。近年、竹簡資料が発見され、やや孫武説が有力なものの、実際は「孫子学派ともいうべき伝承のなかで育まれたもの」と考えるべきだ、と金谷治は指摘している。原形は2500年前に著された。その普遍性にたじろぐ。兵法という名の哲学。必勝の将軍学。「兵とは詭道なり」と言い切るところが凄い。

2009-03-08

ロベール・ドリエージュ、スタンレー・ミルグラム


 2冊読了。


 33冊目『ガンジーの実像』ロベール・ドリエージュ/今枝由郎訳(白水社文庫クセジュ、2002年)/アンベードカルの本しか読んでなかったので、平等を期すために読んた。ガンジーという偶像を破壊するには十分な内容。前半はガンジーの生涯で、後半は思想についてまとめられている。紙数が足りないせいか、アウトラインをなぞったような代物だが、コンパクトでわかりやすい。ただし、ガンジーの思想については、ヒンドゥー教の改革者であることはわかったが、思想の中味がよくわからなかった。アンベードカルにも少し触れているが、分離選挙に関して踏み込んだ考察は皆無。文庫クセジュは紙質が悪い。


 34冊目『服従の心理スタンレー・ミルグラム山形浩生訳(河出書房新書、2008年)/昨年の11月に刊行された新訳。山形浩生とは相性が悪いので恐る恐る読んだ。多分、原文が優れているのだろう。すんなりと読めた。初めてのことである。気になったのは「真逆」くらいか。言葉のセンスを疑う。それと、「蛇足」と題された文章が見事な蛇足となっている。本書の内容は文句なし。これほど面白いとは思わなかった。ミルグラム服従実験は多くの著作で引用されているが、結論部分を引っ張り出しただけのものであることがわかった。それにしても、ミルグラムのアイディアは恐ろしいほどだ。様々な実験パターンを用意して、服従心理のメカニズムを明らかにしている。被験者との生々しいやり取りも緊迫感に満ちている。まるで、映画の台本のようだ。尚、300ページ余りで3200円という値段は高いが、これは紙質が良いため。河出書房新社の意気込みが窺える。

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宇宙人に誘拐されたアメリカ人は400万人もいる/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング

 アメリカには色々な人がいる――


 理性的で科学的な考えのもとに築かれていると自負してはばからないアメリカ社会においても、じつに国民の17パーセントは幽霊を見たことがあると言い、10パーセントが悪魔と話したことがあると言い、そしてなんと400万人が宇宙人に誘拐されたことがあると告白しているという。超常現象は今の時代も健在なだけでなく大きなビジネスになっているという事実は、あらゆる雑誌に星占いのコーナーがあること、新聞の心霊相談の広告、地球は七日で創られたとする創造説の人気、大企業がダウジング(訳注 振り子や棒を使って水脈などを探し当てる方法)は風水専門のコンサルタントを雇っていることなどを見れば一目瞭然だ。1986年にフィラデルフィアの陪審員が出したある判決は、疑り深いアメリカ人にとっては本当にショッキングだった。大学の医学部でCTスキャンを受けたときに霊能力にダメージを受けたと主張した女性に、90万ドルを超える損害賠償金が支払われることになったのだ。彼女の主張は、「専門的」な立場から証言を行なった医師に支持されたという。


【『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング/有沢善樹、他訳(アスペクト、2004年)】


 不思議大好き、ってところか。事実とは「脳の解釈」であるとすれば、彼等にとってはきっと“事実”なのだろう。その実体は、キリスト教思想に対する反動ではあるまいか。つまり、理性では聖書を信じながらも、承服できない感情を抱えているのだ。ジレンマ。


 もっと極端に言ってしまえば、いびつな思想が奇妙な体験を求めてしまうということなのだろう。江原啓之とかが好きな人も同類だ。

本当にあった嘘のような話 (アスペクト文庫 B 19-1)

少年兵は自分が殺した死体の上に座って食事をした/『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア

 レヴェリアン・ルラングァは被害者の立場からルワンダ大虐殺を書いた。イシメール・ベアは被害者であり加害者でもあった。シエラレオネ――世界で最も寿命が短い国。12歳で戦乱に巻き込まれた少年は何を見て、何をしたのか――


 弾薬と食べ物のある小さな町を襲いに行く途中だった。そのコーヒー農園を出てすぐ、廃墟となった村のすぐそばのサッカー場で、別の武装集団と鉢合わせした。敵方の最後の一人が地に倒れるまで、ぼくらは撃ちまくった。そしてハイタッチを交わしながら、死体のほうに歩いていった。向こうの集団も、ぼくらと同じように幼い少年ばかりだったが、そんなことはどうでもよかった。やつらの弾薬を奪い、その死体を尻に敷いて、やつらが持ち歩いていた糧食を食べはじめた。あたり一面、死体から流れ出た血の海だ。


【『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア/忠平美幸訳(河出書房新社、2008年)】


 イシメール・ベアは政府軍に参加していた。そこには何がしかの大義名分がありそうなものだが、読み進むうちに大差のないことが明らかになる。政府軍も反乱軍も少年達を薬物漬けにして、殺人へと駆り立てた。


 血まみれの死体は、生きているうちからモノと変わらなかった。憎悪は人間を単なる標的にする。そして暴力が感覚を麻痺させる。


 彼等は誤った政治のもとで、誤った教育を受けたとも言える。子供は教えられれば、英知を発揮することも可能だし、殺人マシーンと化すことも可能なのだ。


 それにしても、西欧の植民地として散々蹂躙されたアフリカの傷は深い。キリスト教に巣食う差別主義の恐ろしさを改めて思い知らされる。

戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった

2009-03-07

政府高官「自民に波及せず」発言、宗男“実名”批判


 西松建設による違法献金事件で、東京地検の捜査が自民党議員には拡大しないとの見通しを示した政府高官は6日夜、自らの発言について、「自分は検察情報を知る立場にはない。一般論として検察はよくやったということを言った」などと釈明した。

 この政府高官、オフレコ取材の取り決めで実名は明かされていなかったが、新党大地鈴木宗男代表は同日夜のBS放送の番組で「漆間巌官房副長官が『自民党に発展しない』と言うのはおかしい」と実名批判。

 民主党も週明け9日の参院予算委員会に政府参考人として漆間氏の出席を求め、直接追及する構えを見せる。政府は応じない方針という。

 漆間氏は警察庁長官を経て、昨年9月の麻生太郎内閣発足に伴い、官僚機構を統括する官房副長官(事務担当)に就任した。


【夕刊フジ 2009-03-07】

読書という営み/『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬


 20代半ばで読んだ。私は感覚的・感情的・条件反射的な性質が強いこともあって、カルチャーショックを受けた。澤瀉久敬(おもだか・ひさゆき)を「先生」と呼びたくなったほどだ。


 そこに何が書かれているかを要約できなければ、本を読んだことにはならないとした上でこう綴る――


 ラスキンは読書を鶴嘴(つるはし)をふるって金礦(きんこう)を求めゆく坑夫になぞらえております。そして、奥にある金礦に達するためには、外側にある固い鉱石を打ちくだかなければならないと申しております。ともかく、文字という固い、不動なものをつき貫(ぬ)いて、その奥にある動的な、というよりも燃えていると言ったほうがいいと思われる思想そのものをとらえねばならないのです。もしここでさらに別の比喩をもってまいりますなら、書物を読むとは、火山の上に噴き出しているエネルギーそのものを知ることであります。


【『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬〈おもだか・ひさゆき〉(文藝春秋新社、1961年/第三文明レグルス文庫、1991年)】


「言葉ではなく意図を、そして意図よりも思想に触れよ」というのだ。私は恥ずかしさを覚える。精神がフリチン状態になったような気分だ。真に正しい意見には人を恥じ入らせる作用がある。


「著者の魂を鷲づかみにして、それを自分の魂に取り入れよ」――澤瀉久敬の轟くような声が私には聞こえる。

「自分で考える」ということ

テクニカル分析は結果主義/『先物市場のテクニカル分析』ジョン・J・マーフィー

 ジョン・J・マーフィーはテクニカル分析をこう定義する――


 テクニカル分析とは何か? それは価格チャート(出来高、建玉を含む)を使い、市場の新たなトレンドを察知し、それを利用する技術である。

 そこではファンダメンタル要因は市場に“織り込まれている”と仮定する。すなわち、ファンダメンタルが強気であったからこそ現に市場は上昇しているのであり、逆に、ファンダメンタルが弱気であったからこそ市場は下落しているのだと考える。テクニカル分析は、変化の原因よりもむしろ最初からその変化自体に注目することによりファンダメンタル分析の省略を可能とするのである。さらにこの考えを進めれば、チャート上の価格の動きこそ、実はファンダメンタルの先行指標であるという重要な結論に到達する。


【『先物市場のテクニカル分析』ジョン・J・マーフィー/日本興業銀行国際資金部訳(金融財政事情研究会、1990年)】


 つまり結果主義ということだ。これはこれで説得力がある。マーケットには実需筋もいるわけだから、彼等をファンダメンタル要因と見ることは可能だ。そこから、チャートがファンダメンタルの先行指標であるとするところが凄い。いかに市場が歪んでいたとしても、価格こそは真実なのだ。


 マーケットでの売買は必ず一対で成立する。つまり、売りたい人と買いたい人が同数いればこそ取引が可能となる。暴騰しようが暴落しようが一対一の売買が成り立っている。


 その価格にあらゆる材料が凝縮している。ただし、明日の値段はまた別の話(笑)。

先物市場のテクニカル分析 (ニューファイナンシャルシリーズ)

2009-03-06

人間は偶然を物語化する/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 これはランダムウォーク理論といっていいだろう。ランダムとは無作為という意味で、ランダムウォークとは酔っ払いの千鳥足のこと――


 人は、偶然によるできごとがどのようなものであるかについて、間違った直観をもっていることが心理学者によって明らかにされている。たとえば、投げ上げたコインの裏表の出方は、一般に考えられているよりも裏や表が連続しやすい。そこで、裏表が交互に出やすいものだという直観に比べて、真にランダムな系列は、連続が起こりすぎているように見えることになる。コインの表が4回も5回も6回も連続して出ると、コインの裏表がランダムに出ていないように感じてしまう。しかし、コインを20回投げたとき、表が4回連続して出る確率は50%であり、5回連続することも25%の確立で起こりうる。表が6回連続する確率も10%はある。平均的なバスケットボールの選手は、ほぼ50%のショット成功率なので、1試合の間に20本のショットを試みるとすれば(実際、多くの選手はこれくらいショットを試みる)、あたかも「波に乗った」かのように、4本連続や、5本連続、あるいは6本連続でショットを決めるようなことは偶然でも充分起こりうることなのである。


【『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ/守一雄、守秀子訳(新曜社、1993年)】


 人間は単調さに耐えられない。変化を好むのが人間の性分だ。例えばこんなことはないだろうか。信号待ちでウインカーを点灯する。カチッカチッとメトロノームのように規則正しい音が鳴る。すると、その音から微妙にずらしたリズムでハンドルを指で弾く。こうして独創的な音楽が誕生する。私の指が単調なリズムを破壊したのだ。


 株価のチャートを見てみよう。これは日経平均の9ヶ月間にわたる日足チャートだ。昨年8月上旬に底を打って揉み合いが続いている。2本の移動平均線を超えれば反転しそうだ。株価は上がるか下がるかのどちらかである。とすると、損得の確率は1/2となる(横ばい、手数料は無視して考える)。つまり、コインの裏表と確率的には一緒なのだ。もっとわかりやすく言おう。コインを放って出た裏表の結果を1と計算してチャートにすれば、株価と同じような山と谷ができるってわけだよ。コインを投げる回数はまったく問題ではない。1日1回だって構わない。それでも、チャートの山が形成される。


 人間は物語なしで生きてゆけない。不幸にも幸福にも物語がある。目に見えない運や不運で説明し、他人の実力を羨み、自分の非力を嘆き、昔よりも今の方がいいとか悪いとか言い募る。


 翻って、動物には固有の人生が存在するのだろうか? あまり考えたことがない。「我が家の犬は幸せだ」と思っている飼い主は多いだろうが、それは一方的な幻想に過ぎない。


 大数の法則が恐ろしいのは、「人間の人生なんて、それほど変わるもんじゃないよ」と我々をたしなめているからだろう。


 それでも人は「自分だけの物語」を生きる。人間は、平均を個性に変える天才だ。

人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)

暗闇の速度/『くらやみの速さはどれくらい』エリザベス・ムーン


 近未来SF。主人公のルウは自閉症である。味わい深い文章であるためスラスラ読み進めることができない。文体とストーリー展開が見事に一致している。稀有。難点はただ一つ。時折、語り手が一人称になったり三人称になっているところ。これが少しわかりにくい。


 ルウは製薬会社に勤務し、専門的な研究をしている。会社にとっては障害者雇用の補助金をもらえる上、特定の分野で才能を発揮する彼等は一石二鳥ともいえる存在だった。


 ルウは色や数などのパターンを細密に読み解く。にもかかわらず自閉症のため、人の表情を読むことができない。表情と意味がつながらないのだ。会話も苦手である。隠喩はまったく理解できない。言葉に込められた感情がわからないためだ。それでも、職場の同僚である自閉症の面々とは会話が繰り広げられる――


「暗闇の速度ということについてずっと考えている」と私はうつむいて言った。彼らは私が話しているあいだは、たとえちらりとではあっても私を見るだろう。私は彼らの視線を感じたくないのだ。

「暗闇に速度はない」とエリックが言う。「光のないところは単なる空間だ」

「重力が1G以上ある世界でピザを食べるとしたらどんな感じかな?」とリンダが言う。

「わからない」とデイルが心配そうな声で言う。

「わからないということの速度」とリンダが言う。

 私はちょっと考えこむが、その意味が解ける。「知らないということは知っているということより早い(ママ)速度でひろがる」と私は言う。リンダはにこりと笑って首をすくめる。「それゆえ暗闇の速度は光の速度より早い(ママ)かもしれない。光のまわりにいつも暗闇があるのであれば、暗闇は光の先へ先へと進んでいかなければならない」


【『くらやみの速さはどれくらい』エリザベス・ムーン/小尾芙佐訳(早川書房、2004年)】


 暗闇は「見えないもの」、光は「見えているもの」を象徴している。新しい自閉症治療が開発された。ルウと同僚は実験モデルになるよう上司から強制される。ここでストーリーはひと山つくり、最終的には希望者だけが治療を受けられることとなる。ルウは思い悩む。


 ダニエル・キイス著『アルジャーノンに花束を』(早川書房、1978年)を「選択後」とすれば、本書は「選択前」に重きが置かれている。


 選択によって人は成長し、堕落する。浅きを去って深きに就くことは中々容易ではない。だが、小さな挑戦を繰り返してゆく中で、ここ一番という場合に肚(はら)を決めることが可能になる。


 人は変わる。よくも悪くも。否、常にそうした変化にさらされているのが人生ともいえよう。我が境涯の地平が開かれた瞬間に、世界も一気に広がりを増す。幸不幸の尺度もおのずと変わってゆく。

くらやみの速さはどれくらい (海外SFノヴェルズ) くらやみの速さはどれくらい (ハヤカワ文庫 SF ム 3-4) (ハヤカワ文庫SF)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-03-05

マーシャル・ゴールドスミス、イシメール・ベア


 1冊挫折、1冊読了。


 挫折12『コーチングの神様が教える「できる人」の法則』マーシャル・ゴールドスミス、マーク・ライター/斎藤聖美訳(日本経済新聞出版社、2007年)/24ページで挫ける。本文の冒頭に「私についてお話ししよう」と書いてあるのを見て、思わず「いえ、結構です」と声に出した。鼻持ちならないヤンキーの匂いに耐えかねた。また、そういう顔つきをしているんだよな。タイトルの付け方も品が無さ過ぎる。


 32冊目『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア/忠平美幸訳(河出書房新社、2008年)/今日一日で読み終えた。シエラレオネの元少年兵による手記。レヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』を彷彿とさせる。しかも同時期である。前半は戦乱の渦中で家族を殺された12歳の主人公が、逃げ続けた果てに政府軍に参加して反乱軍を殺戮する内容。後半は政府軍から放り出され、リハビリテーション施設で治療を受け、新しい人生を歩む様子が描かれている。とにかくプロットと文章が巧み。イシメール・ベアは1980年生まれ。戦場でマリファナやコカインなどの薬物を常習してきた少年達は、リハビリ施設内でも元反乱軍と聞くや否や、相手を刺し、目玉を抉(えぐ)り抜き、隠し持っていた手榴弾を放つ。子供の視点から描かれているため深刻さが稀薄で、そのことが問題の深さを一層鮮やかにしている。イシメール・ベアはリハビリ治療を受けた後、叔父に引き取られるが、またしても戦乱に巻き込まれる。その後、一人でシエラレオネを脱出し米国に渡る。現在はアメリカの国際人権NGOの職員として活躍している。

米国クレジットカード事情

  • クレジットカード保有枚数 1人当たり8.6枚(20歳以上人口、1人当たり6.9枚) 米商務省センサス局の2006年の統計
  • カード保有者1人当たりで見たクレジット残高は5123.5ドル(約50万円)
  • 日本/1人当たり3枚(20歳以上) 日本クレジット産業協会調査
  • 日本/9割以上が1回払い 三菱UFJニコス2006年調査
  • 米国家計の貯蓄率は、1980年代以降一貫して下がり続け、今回の金融危機の直前である2005〜06年にはほとんど「ゼロ」

日経ビジネス

医薬品ネット規制に潜む厚労省の裁量


「医薬品の販売等に係る体制及び環境整備に関する検討会」のメンバーは、北里大学の井村伸正名誉教授を中心とする「井村グループ」で構成されている。「行政の最大の受益者、国民を無視した政策プロセスを、厚労省が進めている」。

ガンディーは「死の断食」をもって不可触民の分離選挙に反対した/『不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール


 アンベードカルは巨象の尾を踏んだ。それがどんな事態を招くことになるかを知っていながら。獄中にあったガンディーは国民的人気を利用して、不可触民の分離選挙をトリッキーな方法で妨げた。ハンガーストライキ(死の断食)を強行したのだ。命懸けのパフォーマンスであったが、これほどまでにガンディーはカースト制度を信奉していた。そして、インド中からアンベードカルに対し非難中傷の嵐が吹き荒れた――


 各界の指導者、友人、その他様々な人びとが彼(アンベードカル)の下に押し寄せ、彼との話合いを求めた。猛烈なアンチ・アンベードカルキャンペーンが開始され、彼は再び化物、裏切者になった。

 アンベードカルはしかし落着き払っていた。彼は別の声明を発表し、不可触民問題は比較的重要性が小さく、インド新統治の付帯的なものだ、という円卓会議でのガンディーの言葉を紹介しつつ、

「円卓会議であれほど主張していたインドの独立のためにこそ、このような非常手段を採ればよろしかろうに」といい、「自己犠牲の理由として、コミュナル裁定の中で不可触民特別代表制だけを取り上げるとはなんとも奇妙で痛ましい話である。分離選挙は不可触民階級だけではなく、回教徒、シク教徒、クリスチャン、アングロインディアン、ヨーロッパ人にもあたえられているのに」と皮肉った。

 更に、もし回教徒、シク教徒への分離選挙が国家を分裂に導かないのなら、不可触民階級への分離選挙もヒンズー社会の分裂をもたらすこともないだろうといい、

「これまでも不可触民制を廃止し、不可触民階級を向上させ、そのような忌わしい階級を無くそうとひたすら努めた多くのマハトマはいた。しかしことごとくその使命は失敗に帰した。いつの世にもマハトマは現れ、去っていった。そして不可触民だけが常に不可触民として残されてきた」と結論した。


【『不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール/山際素男訳(三一書房、1983年)】


 アンベードカルは巨象の尻尾を踏みつけたまま、泰然自若としていた。彼はマハトマの権威を恐れることがなかった。ただただ、不可触民が苦しみ続けることを恐れた。


 分離選挙とは、不可触民が独自の候補者を立てて、かつ、独自の選挙を不可触民だけの選挙区内で実施しようという方法である。


【「松本勝久の部屋」による】


 他宗教の人々には認められている分離選挙であったが、ガンディーは同じヒンドゥー教徒であるにもかかわらず、不可触民という理由だけで絶対に容認しなかった。

アンベードカルの生涯 (光文社新書)

ジョージ・フォアマンの復讐/『彼らの誇りと勇気について 感情的ボクシング論』佐瀬稔


 佐瀬稔はムラが多い作家だ。というよりはむしろ、本書の完成度が高過ぎたのかもしれない。「ファイト」という名の詩を前にした途端、他の作品は色褪せてしまう。ジョージ・フォアマンは引退後、宣教師となった。それから10年後、青少年の更生施設の建設費用をつくるために再びリングへ上がった。フォアマンの復活劇を佐瀬は謳い上げる――


 絶対にラッキー・パンチのたぐいではない。ロドリゲスのアゴが弱過ぎたせいでもない。120kgの巨体が持つ力と、そして失われた歳月の間に蓄えたもの、すなわち、おのれの身を捨てる勝負度胸、相手を罠にかける狡知、何よりも、効果的なパンチを打つ技術。それらのすべてを、一個の凶悪な弾丸に凝縮してのワンパンチ・ノックアウト。

 リングサイドのイードニー・ロドリゲスがわっと涙にくれた。友人たちは、なぐさめる言葉を知らず、茫然と立ちすくむ。

 41歳の真実がギラギラッと光った一瞬である。

 リング上で、フォアマンが意識不明のロドリゲスを冷やかに眺め下ろしている。あわれなギーガーではない。肥った道化師でもない。大きくて強くて重くて、狡知にたけた王。キンシャサでアリのしかけた罠に落ち、暗殺された王が、人生に立ち向かっていく勇気と、絶対に諦めない執着心のゆえに蘇(よみがえ)って歳月に復讐をとげた。


【『彼らの誇りと勇気について 感情的ボクシング論』佐瀬稔世界文化社、1992年)】

彼らの誇りと勇気について 感情的ボクシング論

2009-03-04

ジョン・J・マーフィー


 1冊挫折。


 挫折11『先物市場のテクニカル分析』ジョン・J・マーフィー/日本興業銀行国際資金部訳(きんざい、1990年)/300ページで一旦中止。ポイント・アンド・フィギュアで少々混乱したため。チャート分析の教科書。値は張るものの、テクニカルの基礎を学ぶにはこれ一冊で十分。消化不良を起こしているので、まずは前半部分をマスターするのが先決と判断した。

アンベードカルに対するガンディーの敵意/『不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール


 不可触民はガンディーの欺瞞を知った。


 アンベードカルの要求に対するガンディーの敵意は、インド各地の不可触民に大きな衝撃をあたえずにはいなかった。

 全印被抑圧者会議で、ラオ・バハーズール・ラージャは、ガンディーは不可触民問題を正しく伝えておらず、会議派が初めから不可触民のために尽し、その大義を背負ってきたというガンディーの主張を激しく非難し、会議議長の名によって、ガンディーのそのような主張は“虚偽”であると明言した。

 同会議は、アンベードカルの提出した諸要求を支持し、被抑圧階級への分離選挙制度を認めない新統治は受け入れないと宣言した。インド各地で開かれた沢山の集会、会議、指導者、協会などから、ガンディーと会議派を信用するなというメッセージがアンベードカルの下に殺到した。この洪水のようなメッセージは、不可触民の代表が誰であるかを如実に物語っていた。


【『不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール/山際素男訳(三一書房、1983年)】


 ガンディーが不可触民に示したのは、上流カーストによるアウトカーストへの哀れみ程度だったのだろう。だが、インド独立という功績によって、ガンディーの欺瞞は歴史の影に葬られてしまった。


 その後、ガンディーは聖人と化した。批判することも許されない偶像となった。真実を知っているのは虐げられた不可触民だけであった。

アンベードカルの生涯 (光文社新書)

社会を形成するために脳は大きくなった/『内なる目 意識の進化論』ニコラス・ハンフリー


 ヒトの脳は大きい。いや大き過ぎる。ではなぜ、身体の大きさに不釣合いなほど巨大な脳を必要としたのか。そこにどのような進化の必然があったのか――


 大型類人猿の生物学的な成功の鍵を握っているのは、明らかに社会的な知能である。こういった動物が、頭の中で物事を考え、記憶し、計算し、評価しなければならないのは、お互いどうしの付き合いにおいてである。そして社会的な知能は、彼らが手に入れた頭脳の最後の一滴までをも必要とするのである。


【『内なる目 意識の進化論』ニコラス・ハンフリー/垂水雄二〈たるみ・ゆうじ〉訳(紀伊國屋書店、1993年)】


 ゲンナリ。つまり、愛想を振りまき、おべっかを使い、ゴマをすり、他人の顔色を窺い……と社会のバランスを維持するために脳味噌はフル回転しているということか。


 まったく嫌な話であるが、確かに我々が普段考えていることの大半は「人間関係」にまつわることだ。単純化してしまえば、「何かしてくれた」「何もしてくれない」といった損得の次元であることが多い。


 しかも、だ。近代国家における教育は、勤労・真面目・協調性という価値観に支配されていて、国民を労働者か兵士――つまり現代の奴隷――に仕立て上げようと目論んでいる。そう。我々庶民は「国家の手足」だ。


 複雑な人間関係で悩むは多い。だが本質は違っていた。人間関係に悩むからこそ、脳が発達したのだ。そういや、「悩む」と「脳」の字は似ている。ヘンは「心」と「身体」の違いに過ぎない。そして「凶」の字が不安を掻き立てる。


 あ、わかった。「凶」という不安を予測できることが、人間の脳の最大の武器ってことね。武器というよりは凶器か(笑)。

内なる目 意識の進化論

2009-03-03

エリザベス・ムーン


 1冊読了。


 31冊目『くらやみの速さはどれくらい』エリザベス・ムーン/小尾芙佐訳(早川書房、2004年)/傑作。自閉症のリアリティはマーク・ハッドン著『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(早川書房、2003年)に分(ぶ)があると感じたが、ストーリー性については本書に軍配が上がる。ネビュラ賞受賞作品。時期を同じくして発行されていることも興味深い。ダニエル・キイス著『アルジャーノンに花束を』(早川書房、1978年)を「選択後」とすれば、本書は「選択前」に重きが置かれている。人生は常に選択という十字路に立たされている。感情と理性が交錯し、時に過ちを繰り返しながらも、人は「よりよき人生」を歩もうと努める。主人公のルウは自閉症治療を受けるのかどうかが、大きなテーマとなっている。人生のほろ苦さを巧みに描いて秀逸。

法の生命は闘争である/『権利のための闘争』イェーリング


 法律を学ぶ者にとっては古典か。随分とまた威勢のいいヤンキーがいたもんだ。


 法の目標は平和であり、それに達する手段は闘争である。法が不法からの侵害にそなえなければならないかぎり――しかもこのことはこの世のあるかぎり続くであろう――、法は闘争なしではすまない。法の生命は闘争である。それは、国民の、国家権力の、階級の、個人の闘争である。

 世界中のいっさいの法は闘いとられたものであり、すべての重要な法規は、まずこれを否定する者の手から奪いとらねばならなかった。国民の権利であれ、個人の権利であれ、およそいっさいの権利の前提は、いつなんどきでもそれを主張する用意があるということである。法はたんなる思想ではなくて、生きた力である。だから、正義の女神は、一方の手には権利をはかるはかりをもち、他方の手には権利を主張するための剣を握っているのである。はかりのない剣は裸の暴力であり、剣のないはかりは法の無力を意味する。はかりと剣は相互依存し、正義の女神の剣をふるう力と、そのはかりをあつかう技術とが均衡するところにのみ、完全な法律状態が存在する。

 法は不断の努力である。しかも、たんに国家権力の努力であるだけでなく、すべての国民の努力である。法の生命の全体を一望のもとに見渡せば、われわれの眼前には、すべての国民の休むことのない競争と奮闘の情景がくりひろげられている。その光景は、すべての国民が経済的な、および精神的な生産の分野でくりひろげているものと同じである。自分の権利を主張しなければならない立場に立たされた者は、だれしもこの国民的作業に参加し、それぞれのもつ小さな力を、この世で法理念の実現にふりむけるものである。


【『権利のための闘争』イェーリング/小林孝輔、広沢民生訳(日本評論社、1978年)】


 まるで、シェリフ(保安官)だ。できれば、これを先住民の人々に伝えて欲しかった。きっと、法律で飯を食っている連中は、法律を絶対視したがるのだろう。では尋ねるが、法律がハンセン病患者に何をしたか? 薬害エイズの人々に何ができたか? はたまた、首相の靖国参拝は違憲なのか合憲なのか?


 法律が絶対的な権威と化す社会は怖い。しかし、年がら年中改正される法律も当てにならない。そして我々日本国民は「陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない」という憲法を持ちながら、自衛隊の存在を認め、米軍という戦力を間接的に保持しているのだ。


 解釈次第で権力者に都合のよい判決を下すような法律であれば、「この町じゃ、俺が法律だ」という方がわかりやすい。真の義人が権利を裁定し、善悪を判断すればよい。本気でそう思う。「酋長(しゅうちょう)制」とかにすりゃいいんだよな(笑)。

権利のための闘争 (岩波文庫)

ピアノを弾く探偵/『ピアノ・ソナタ』S・J・ローザン


 ミステリにしては随分と内向的な主人公だ。アルバート・サムスンをおとなしくしたような印象。で、中味が面白くないかというとそうでもない。個性的な脇役がぐいぐいストーリーを引っ張ってゆく。


 探偵のビルはピアノが趣味だ。ただし、人前では弾かない。折に触れてピアノのシーンが挿入される――


 タイマーが鳴る前に弾き終えたが、とくに終盤での速度が足りなかった。タオルで顔を拭(ぬぐ)いながら、その部分をもっと弾き込まなくてはと思った。だが、全般に、いい気分だった。今朝よりはるかにうまく、曲の核心に迫って弾いている。間もなく、曲を十分理解し、時計職人のように小さな部分を調整し、磨き上げることができるだろう。その時、音楽がわたしにもたらしたもの、わたしが音楽にもたらしたものが、指から紡(つむ)ぎ出されてくる。

 もう一度弾きたいと無性(むしょう)に思った。形を成しつつあるものが実際に姿を現すまで、何もせずに数日弾き続けたい。今のままでは、あっという間に曲が消え失せるかもしれないし、そうなるともう取り戻せないことがある。このソナタを弾く心構えができるまで何年もかかった。今さら、それを失いたくない。


【『ピアノ・ソナタ』S・J・ローザン/直良和美訳(創元推理文庫、1998年)】


 いいねー。文章の底に何とも言い難いリリシズムが流れている。シューベルトの「ピアノ・ソナタ」を聴いて驚いた。主人公ビルの雰囲気にピッタリだ。


 不正を働くインサイダーとアウトサイダーの狭間で、ビルは執拗な捜査を続ける。この物語の真の主人公は「常識」だ。

ピアノ・ソナタ (創元推理文庫)

2009-03-02

「オオカミ狩り」ウラジミール・ヴィソツキー


 だみ声シリーズ、その三。タイトルは多分合っているだろう。CD『大地の歌』は持っているのだが、確認していない。ヴィソツキーのナンバーは新井英一が何曲かカバーしている。

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ガンディーは不可触民制撲滅運動を起こしていない/『不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール


「会議派」とはインド国民会議のこと。第一次世界大戦後、ガンディーが主導権を握り、ネルーが後に続いた。ガンディーは政治家だった。

 会議派について、アンベードカルは、「会議派は不可触民の廃止を党員に義務付けていない。ガンディーは不可触民制撲滅運動を起こしてもいないし、カーストヒンズーと不可触民間の友愛のために断食をしてもいない。不可触民階級の安全は、政府、会議派から自由であるというところにある。われわれの道はわれわれ自ら選ばねばならない。自分たちの不満は中央議会を通じて反映し解決しよう」と述べ、会議派は本来国民的運動であり、一政党であってはならない。しかし、時がくれば、会議派の多くは、その属する階級の陣営に戻り、一般大衆の下に帰らぬのは確実だと断言した。


【『不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール/山際素男訳(三一書房、1983年)】


 インドにあってガンディーは正しい光を放っていた。しかし、アンベードカルという太陽が昇ると、星の光のように見えなくなった。「より正しき人」が出現すると、それまで正しかった人物が悪人となる場合がある。善悪の反転。ポジとネガ。薬と毒。オール・オア・ナッシング。


 思想の吟味は、金メダルと銀メダルというわけにはゆかない。アンベードカルを知れば知るほど、ガンディーの欺瞞に対する怒りの念が沸々とたぎってくる。正義の拠り所は「悪に対する怒り」だ。

アンベードカルの生涯 (光文社新書)

宗教とは「聖なるもの」と「俗なるもの」との相違を意識した合目的的な行為/『はじめてのインド哲学』立川武蔵


 忙しくて書く時間がない。「忙=心を亡くす」――ウム、わかっている。わかっていながら忙しさにかまけているということは、2乗の加速度をつけて心が亡んでいるのだろう。今は5日の早朝だ。


 現世拒否的態度の緩和とならんで、タントリズムの特性として、儀礼の重視をあげることができる。第2期(※紀元前1500-500年/バラモン中心の時代)のヴェーダの宗教は、儀礼中心主義の立場をとったが、第3期(※紀元前500-後600年/仏教などの非正統派の時代)の仏教の時代には、少なくとも出家者集団の中では、儀礼が彼らの究極的な目的、つまり、悟りを得るための重要な手段として考えられることはなかった。だが、第4期(※紀元600-1200年/ヒンドゥイズム興隆の時代)においては、ヴェーダの宗教の儀礼中心主義がかたちを変えて復活するのである。

 ところで、儀礼とは、宗教の行為エネルギーが一定の型に流れるようにあらかじめ設定された回路であるといえよう。宗教は常にある目的を達成しようとする行為形態として現れる。水が高いところから低いところに流れるように、宗教行為は、「聖なるもの」と「俗なるもの」との区別があってはじめて行われる。「聖なるもの」と「俗なるもの」という「宗教における二つの極」の間に「落差」がないときには、宗教現象はあり得ない。それは単なる日常あるいは俗化された世界である。

 宗教とは、「聖なるもの」と「俗なるもの」との相違を意識した合目的的な行為である。そして、儀礼とは、その「宗教における二つの極」の間の相違を利用して、あるいはその相違がよりいっそう明白になるように仕組まれた行為の型なのである。したがって、儀礼行為は、社会あるいは集団の生活の仕組、あるいは季節ごとの行事というかたちで現れたり、それらの一部となったりする。


【『はじめてのインド哲学』立川武蔵講談社現代新書、1992年)】


 タントリズムとは密教のことである。様々な見方があるのだが、最澄も空海も密教とするのが一般的だ。それぞれ天台密教(台密)と真言密教東密)と呼ばれている。キーワードは「曼荼羅」と「儀式」。この平安期の二大スターからもろに影響を受けたのが鎌倉仏教なので、日本仏教は全体的に密教化していると言ってよい。


 立川武蔵はインド思想という枠組で仏教を捉える傾向が顕著で、やや矮小化が行き過ぎている。そうであるにもかかわらず説得力があるのは、文章が明晰なため。歴史や文化の変遷を巧みに捉えているものの、思想的吟味に欠けるきらいがある。


 儀式が重要視されると、儀式は細分化し煩雑化する。250とか500にも上る戒律がそうだ。「緩やかな自制」が「教団の規則」と化した時、儀式は教条主義となって人間を束縛する。エントロピーは増大し、ルールは細分化されるってわけだ。


 理想(=聖なるもの)と欲望(=俗なるもの)との溝を埋め、煩悩を菩提へと転じる儀式性が望ましい。聖なるものが「あの世」にしか存在しないとすれば、そんな場所には行きたくない。いかなる聖人君子であろうとも、ウンコをしている事実を忘れてはなるまい。

はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)

2009-03-01

『荒野の庭 言葉、写真、作庭』丸山健二(求龍堂、2005年)


 ま、年を食っても丸山は丸山だが、児玉清の如才なさ、反応のよさ、抑制の効いた誠実ぶりに驚いた。こういう年齢の重ね方は、そうそうできるものではない。


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荒野の庭―言葉、写真、作庭

家族の目の前で首を斬り落とされる不可触民/『不可触民 もうひとつのインド』山際素男


 30年ほど前、不可触民はこのように扱われていた――


「この村の不可触民の一人が、地主の虐め方がひどいと抗議したのです。そのときは他の不可触民も一緒にいたので、地主も手を出さなかったのです。

 2〜3日後、地主の手のもの何人かがその農夫の家へやってきて、無理矢理引っ張ってゆきました。彼等はライフルや槍で武装しているので家族や仲間も手が出せなかったのです。

 そいつらは、農夫を村のホールに連れてゆき、予(あらかじ)め打ちこんであった杭(くい)にしばりつけました。

 農夫は必死に大声をあげ、助けを求めました。

 周りには“見物”の村人が総出でつめかけていたのです。家族は人びとの足にすがりついて助けを乞うたのに、だれも見向きもしなかったといいます。

 やつらは、泣き叫ぶ家族の目の前で、鶏の首を打ち落とすように、斧(おの)で農夫の首をはねてしまいました。

 しかも、その人殺し共は、屍体の始末をその農夫の家族にやらせたのです。

 わたしたちが駆けつけたときには、杭はありませんでしたが、地面は血を吸ってどす黒い跡を残していました。

 首のない亡骸(なきがら)を前に、わたしも男泣きに泣きました」

「警察は、どうしたのです?」

「きません」

「どうしてです?」

「通報するものがいないからです。暗くなって、われわれダリッツ支部に知らせにくるのがやっとだったのです」

「……」

「警察にはわれわれが届けました。村の不可触民は後の報復を怖れて警察にもいけないのです。

 われわれは、州首相にも報告書を提出しました。

 裁判にはかけられるでしょうが、地主が実刑をくらうことはまずないでしょう。その地主は大変な金持ちで、警察や政府関係者を完全に買収していますから ね。

 州政府はこの事件に関して未だに返事を寄こさず、なしのつぶてです」


【『不可触民 もうひとつのインド』山際素男〈やまぎわ・もとお〉(三一書房、1981年/光文社知恵の森文庫、2000年)】


 私は生まれて初めて「戦争をすべきだ」と思った。「インドは滅ぶべきだ」とも思った。人道に関する罪に対して取り締まることのできる「国際警察組織」が必要だ。そうでなければ、いつまで経っても世界はチェ・ゲバラを必要とするだろう。

不可触民 もうひとつのインド 不可触民―もうひとつのインド (知恵の森文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

早期リハビリの危険性/『リハビリテーション・ルネサンス 心と脳と身体の回復 認知運動療法の挑戦』宮本省三


 早期リハビリの危険性に関する情報。ま、参考程度にしてもらいたい。


 早期リハビリテーションと称して急性期に早期起立や早期歩行を求めると、脳の自然回復を遅らせる可能性がある。さらに、早期起立や早期歩行は「痙性(spasticity)」という異常な緊張感を増悪させる主原因となる。痙性がどれほど患者の動きを制限するか、また一度発現するとその異常な筋緊張の制御がどれほど困難であるかは、臨床で働くセラピストなら誰もが知っているはずである。


【『リハビリテーション・ルネサンス 心と脳と身体の回復 認知運動療法の挑戦』宮本省三(春秋社、2006年)】


 宮本省三の文章はことごとくこんな調子だ。「脳の自然回復を遅らせる可能性がある」→「早期起立や早期歩行は痙性の主原因となる」→「痙性が大変なのは周知の事実」――具体的な因果関係を示すことなく、あたかも関連性があるように書いている。


 まず、「可能性」の程度が不明だ。次に、「痙性の主原因」となる根拠が示されていない。そして、「セラピストなら誰もが知っているはず」という牽強付会ぶり。


 極めて悪質な文章だが、これがもし事実であるとすれば、早期リハビリが麻痺を促進していることになる。それゆえ、情報としては価値ありと判断した。

リハビリテーション・ルネサンス―心と脳と身体の回復、認知運動療法の挑戦