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2009-03-03

法の生命は闘争である/『権利のための闘争』イェーリング


 法律を学ぶ者にとっては古典か。随分とまた威勢のいいヤンキーがいたもんだ。


 法の目標は平和であり、それに達する手段は闘争である。法が不法からの侵害にそなえなければならないかぎり――しかもこのことはこの世のあるかぎり続くであろう――、法は闘争なしではすまない。法の生命は闘争である。それは、国民の、国家権力の、階級の、個人の闘争である。

 世界中のいっさいの法は闘いとられたものであり、すべての重要な法規は、まずこれを否定する者の手から奪いとらねばならなかった。国民の権利であれ、個人の権利であれ、およそいっさいの権利の前提は、いつなんどきでもそれを主張する用意があるということである。法はたんなる思想ではなくて、生きた力である。だから、正義の女神は、一方の手には権利をはかるはかりをもち、他方の手には権利を主張するための剣を握っているのである。はかりのない剣は裸の暴力であり、剣のないはかりは法の無力を意味する。はかりと剣は相互依存し、正義の女神の剣をふるう力と、そのはかりをあつかう技術とが均衡するところにのみ、完全な法律状態が存在する。

 法は不断の努力である。しかも、たんに国家権力の努力であるだけでなく、すべての国民の努力である。法の生命の全体を一望のもとに見渡せば、われわれの眼前には、すべての国民の休むことのない競争と奮闘の情景がくりひろげられている。その光景は、すべての国民が経済的な、および精神的な生産の分野でくりひろげているものと同じである。自分の権利を主張しなければならない立場に立たされた者は、だれしもこの国民的作業に参加し、それぞれのもつ小さな力を、この世で法理念の実現にふりむけるものである。


【『権利のための闘争』イェーリング/小林孝輔、広沢民生訳(日本評論社、1978年)】


 まるで、シェリフ(保安官)だ。できれば、これを先住民の人々に伝えて欲しかった。きっと、法律で飯を食っている連中は、法律を絶対視したがるのだろう。では尋ねるが、法律がハンセン病患者に何をしたか? 薬害エイズの人々に何ができたか? はたまた、首相の靖国参拝は違憲なのか合憲なのか?


 法律が絶対的な権威と化す社会は怖い。しかし、年がら年中改正される法律も当てにならない。そして我々日本国民は「陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない」という憲法を持ちながら、自衛隊の存在を認め、米軍という戦力を間接的に保持しているのだ。


 解釈次第で権力者に都合のよい判決を下すような法律であれば、「この町じゃ、俺が法律だ」という方がわかりやすい。真の義人が権利を裁定し、善悪を判断すればよい。本気でそう思う。「酋長(しゅうちょう)制」とかにすりゃいいんだよな(笑)。

権利のための闘争 (岩波文庫)

プリンプリン 2009/03/12 22:17  
イェーリングが言いたいことは、こういうことです。
 
例えば、お金に困った私が、手持ちの法律書を雪山堂さんに買ってもらうとします。
すると、例えば、千円で売りたい私と、百円で買いたい雪山堂さんとで価格交渉が始まりますよね。
この時、コワモテの雪山堂さんに怯えて(笑)、言い値の百円で私が売ってしまったら、それは私が受け取れなかった九百円の損失だけではない。
自分の利益を守れなかった惰弱な精神が身についてしまいますよ。
得るべき利益は、自身でキチンと主張しなければ、誰も守ってくれませんよ。
……と、イェーリングは言うわけです。
 
ここで、雪山堂さんとの価格交渉に私が成功し、五百円で売ることができたなら、それは私だけの利益にとどまらない。
それを見習って、別の人も交渉に成功するだろう。
皆で団結すれば、もっと高く売れ、皆で利益を享受できるだろう、ともイェーリングは言うわけです。
 
この「価格交渉」を権利に置き換えたものが「権利のための闘争」であり、
合意し獲得できた「五百円」こそが「法」であると。
 
例えば、薬害事件も同様で、薬品の粗悪さや検査の不当性を、国会や官庁に訴え、裁判で主張し、世論に働き掛けていく、そうすることによって、製薬会社の「権利」を排除でき、一方で被害者の「権利」が保たれるのだ、ということになります。
結果、得ることができた判決、生じた規制立法こそが「法」なのだと。
権利のための闘争が互いになされれば、法もそれに倣って改正されていく……。
これこそが「法」の本質だ、ということにもなります。
 
ですから、たとえ「酋長制」にしても、その酋長に自己の権利をアピールできなければ権利は守れない、と言うことでもありますね。
アピールして「権利のための闘争」をするのだと。
なぜなら、完全無欠な「酋長」なるものは、永久に存在しえないからです。

sessendosessendo 2009/03/13 00:18 結局、法は犠牲者を必要するってことなのか?
俺はそこが我慢ならないわけだよ。

プリンプリン 2009/03/13 08:54  
うーん。( ̄〜 ̄;)
「法」は、別に、天から降ってくるものじゃないんですよ。
生け贄が必要というわけでもないです(笑)。
 
「法」とは、要は、『契約』です。
契約ですから、交渉が必要で、その交渉次第でどうにでもなるということです。
交渉で負ける、すなわち「犠牲者」になりたくなければ、しっかり自分の利益を相手に主張せよ、しっかり主張して利益を勝ち取れ、ということになります。
 
これは例えば、小野さんが御友人と待ち合わせの時間を決めるのと一緒です。
小野さんは自分の都合の良い時間を主張し、御友人も同様に自己に都合の良い時間を主張する。
これを調整して、相互に都合良く決められた時間が「法」です。
 
ただ、「交渉」とはいっても、実際には相手との力関係がありますよね。
例えば、大昔の封建制の時代は、象と蟻とが闘うようなもので、蟻は一顧だにもされずに踏み潰されてきたわけです。「犠牲者」も多かった。
ところがある時(市民革命時)、これではいけないということで蟻同士が団結し、一億匹ぐらいの束になって(笑)、象を倒すまでになった。
そして今現在は、ライオンと犬の争いぐらいになって、大昔に比べて「犠牲者」もかなり少なくなったし、時にライオンを倒せるまでになったというわけです。
 
要は、法とは、ある種の契約であり、対立利益を調整した結果生まれるものであって、それは相手と交渉し「闘争」することにより“自らが”勝ち取るものだ、ということになります。

sessendosessendo 2009/03/14 11:04 だから、イェーリングはアメリカ先住民にそれを説けばよかったんだよ。
それから、プリン君の論理は先進国でしか通用しないと思うよ。

プリンプリン 2009/03/15 23:08 うわー、なんか苛立ってますね。すみませんです、はい。(;^_^A
 
で(笑)、私も本勝を読んだクチなんで、WASPの連中がアメリカに植民したために、先住民にとり如何に悲惨な出来事が生じたのかは一応は知っています。
しかもそれは、連中が持ち込んだ「法」を一方的に使い、不毛な土地に「合法的に」先住民を追いやった結果生じたのだと。
その意味では、「イェーリングはアメリカ先住民にそれを説けばよかった」というのは、確かにその通りかもしれませんね。
 
ただ、イェーリングの論理が「先進国でしか通用しない」というわけではないですよ。
なぜなら、法の本質を彼は論じているだけですから。
そして、法は社会あるところ“必ず”存在するものです。
だから例えば、アンベードカルの闘いこそは、「権利のための闘争」の典型ですし、古代中国における王朝への蜂起や日本の封建時代の一揆も同様です。
権利のための闘争の最大のものは「革命」ですから。
 
もっとも、民主主義や人権の思想が根付いた社会では、より合理的かつ実効的な権利のための闘争が、日常的になされているとは言えますよね。

sessendosessendo 2009/03/16 07:23 苛立っているのは、頭のおかしな人物が馬鹿馬鹿しいコメントをたくさん書いているため。
「法は権力者の都合で骨抜きにされる」というのが俺の基本的な考え方だ。
尚、アンベードカルの闘いは、イギリスからの独立と同時期であった背景が、最大の要素だったと思う。
そもそも、「他人が決めたルールを知らない」というのが法律の現状ではなかろうか。

sessendosessendo 2009/03/16 07:24 俺はこの本を読み終えてないので、これ以上は偉そうなことを言えない(笑)。

プリンプリン 2009/03/17 10:06  
うはは。ひでっ(笑)。
 
「法は権力者の都合で骨抜きにされる」というのは、確かにその通りですね。
「骨抜き」というのは、要は、より実力のある者の利益が優先されるということですから。
だからこそ、「蟻」は団結せよ!とイェーリングは言うわけです(笑)。 これは例えば、民主主義の発展した国であっても同様ですよ。
「多数派」という名の権力者の意向が優先されますから。
ちなみに、違憲立法審査権というのは、かかる多数派による権利侵害から少数派を保護しよう、ということでもありますね。
この「少数派の権利保護をいかに図るか」というのは、現代憲法論の課題でもあります。
 
「他人が決めたルールを知らない」というのは、言い換えると「何故に他人が決めたルールに従わねばならないのか」ということだと思います。
例えば“最高法規”とされる憲法だって、それは小野さんも私も生まれる前に作られた法律ですからね。
そんなものに、なんで拘束されなければならんのだ!という疑問は当然に生じるわけです。
実はこれは、法学上の非常ーーに深いテーマで、学者の言い分にもあまり説得力がない(笑)。
憲法を例にすれば、それは「普遍的価値を表しているから」とか。
他によく使われるのは『擬制』というコトバですね。
実際には異なるのに同一の法的効果を与える、ということです。
「唯一の立法機関」たる国会が定立した法律は、国民が定立したように「擬制」する、みたいな(笑)。
これが実際には、“選民”という名の権力者にとり如何に都合がいいことなのかは、小野さん御指摘の通りです(笑)。
 
長々と失礼しました。

sessendosessendo 2009/03/17 12:22 プリン君や、もっと簡単な話だよ。
例えば、労働基準法を守っている企業はどのくらいあるか?
俺は「無い」と思うよ。
法律は、神棚みたいな代物だと思う。
手の届かないところに祀(まつ)ってあるだけ。

プリンプリン 2009/03/17 23:55  
また、極端ですねぇ(笑)。
 
ちなみに、労働基準法を使って“本気で”闘おうとすれば、実際にはかなりの確率で労働者側が勝つというのが、法律家の一致した見方だと思いますよ。実は。
労働基準法は、労働者保護のための法律だからです。
 
では。

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