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2009-03-22

侵略者コロンブスの悪意/『わが魂を聖地に埋めよ アメリカ・インディアン闘争史』ディー・ブラウン


 コロンブスが最初の航海に出たのは1492年のこと。当時、地球は丸いと考えられていたが、実際に確認した者はいなかった。中々陸地に到着せず、乗組員が暴動を起こした。彼等は地球が平らな世界だと思っていた。きっと帰れなくなることを恐れたのだろう。


 この時代の航海には「命知らず」の覚悟が求められた。世界はまだまだ未知なるものだった。コロンブスはなぜ海に向かったのか――それは金と地位のためだった。「コロンブスは航海に先んじて、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰う契約を交わしていた」(Wikipediaによる)。


 先住民についてコロンブスはスペイン国王に報告した――


「これらの人びとは非常に従順で、平和的であります」と、コロンブスはスペイン国王と王妃に書き送った。「陛下に誓って申し上げますが、世界中でこれほど善良な民族は見あたらないほどです。彼らは隣人を自分と同じように愛し、その話しぶりはつねにやさしく穏やかで、微笑が耐えません。それに、彼らが裸だというのはたしかですが、その態度は礼儀正しく、非のうちどころがないのです」

 当然こうした事柄は、未開のしるしではないにしても、弱さのあらわれとして受けとられ、廉直なヨーロッパ人たるコロンブスは、確信をもって、「これらの人びとが働き、耕し、必要なすべてのことをやり、われわれのやり方に従う」ようにしむけるべきだと考えた。


【『わが魂を聖地に埋めよ アメリカ・インディアン闘争史』ディー・ブラウン/鈴木主税訳(草思社、1972年)以下同】


「われわれのやり方」だってよ。侵略者は本質において暴力団と変わりがない。「われわれ」がクリスチャンを指しているのは明らかだ。なぜなら、その後先住民が「人間であるか否か」がヨーロッパで議論されたからだ。ここで言う“人間”とは、「アダムとイブの末裔(まつえい)」という意味であり、“理性”とはキリスト教を理解できること(つまり神を信じること)だった。


 コロンブスが最初に上陸したのはサン・サルバドル島と伝えられている。「聖なる救世主」という意味だ。最初っから侵略根性丸出し。米軍の作戦名と同じレベルだ。


 私は思う。船に乗った時点で「ノアの箱舟」が彼らの意識にあったのではないだろうか。彼等は選ばれた神の僕(しもべ)であった。箱舟に乗れない人々は死ぬ運命にある。「クリスチャンに非(あら)ずば人に非ず」――かような思い上がりが今でも欧米には存在する。


 こうして、1492年12月12日にコロンブスがサン・サルヴァドル島の岸に足を踏み入れてからわずか10年たらずのうちに、数十万の人びとがほろびてしまったのである。


 コロンブスにとって先住民は単なる労働力に過ぎなかった。利用する対象でしかなかった。キリスト教には侵略(あるいは差別)を正当化する力学が働いている。


 イエスは立派な人物であったことだろう。しかし、聖書はイエスが記したものではない。そこには当然、政治的意向も反映されていることだろう。イエスは多分正しかった。だが、イエスの弟子は道を誤った。キリスト教が犯した歴史上の暴虐を断罪し、欧米が土下座をして許しを請わない限り、人類の新たな歴史は幕を開かない、と私は思う。


 アメリカ人に告ぐ。「カエサルのものはカエサルに、神の物は神に納めよ」(新訳聖書)。先住民のものは先住民に返すのが当然だ。アメリカ人は聖書に背いている。

わが魂を聖地に埋めよ―アメリカ・インディアン闘争史 (上巻) わが魂を聖地に埋めよ―アメリカ・インディアン闘争史 (下巻)

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