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2009-04-30

飯嶋和一


 1冊読了。


 58冊目『汝ふたたび故郷へ帰れず飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1989年/リバイバル版 小学館、2000年/小学館文庫、2003年)/表題作と短篇二つが収められている。私が読んだのは、リバイバル版だが、小学館は活字がよくない。表題作の中篇が圧巻。荒削りではあるが、その分だけ勢いがある。飯嶋和一は30代にして、これほどの世界をつくり出した。挫折したボクサーが故郷の島へ帰る。そして再起を図るまでの物語だ。飯嶋作品はいずれも自立した孤独を描きながらも、個と個との強い紐帯(ちゅうたい)を紡ぎ出す。そこに流れ通う濃密な感情が、読者をして故郷や少年時代といった原点に無理矢理引き戻す。『始祖鳥記』(小学館、2000年)で弥作が幸吉に対して言う「ああやん」(※兄ちゃんの意)の響きがそこここにある。島に帰った箇所を読みながら、さしたる理由もなく涙が流れて仕方がなかった。多分、私が失いかけた何かがそこにあったからだろう。本書によって、私の中では飯嶋和一丸山健二を完全に超えた。

佐野洋子の『100万回生きたねこ』は『100万回死んだねこ』だった?


 そんな話題を見つけた。

 発行元の講談社が佐野洋子にまで質問したと書かれていて驚いた。これは多分、「おれは、100万回も 死んだんだぜ」というねこのセリフが何度か出てくることから生じた誤解だろう。


 ちょっと考えればわかることだが、『100万回死んだねこ』であるはずがないのだ。なぜなら、ねこは100万1回死んだのだから。

自分のルールに従う生き方/『名残り火 てのひらの闇II』藤原伊織


 私の知る限りでは遺作が傑作であった例(ためし)がない。作家に寄せる思いが「美しい誤解」を生むことは確かにある。逆に言えば、遺作が駄作であった方が読み手はあきらめがつくというものだ。老いて、病んで、そして力尽きて死んでゆく――これが自然の摂理だ。


てのひらの闇』(文藝春秋、1999年)が刊行されてから、もう10年が経つ。読み終えた後の衝撃は今も尚、心のどこかに余韻を残している。


『名残り火』という本書のタイトル通りの出来だと思う。つまり、前作の名残り火。音楽や絵画、そして食事メニューといったチョイスにまで、あざとさを感じてならなかった。通俗的すぎて、とても趣味がいいとは言えない。


 脇役も出来すぎていて、人物の陰影に乏しい。三上の結婚話に至っては、昔の少女漫画を思わせるほど。柿島奈穂子は、まるでヴィーナスそのもの。かような登場人物のせいで、童話みたいな不自然さがつきまとっている。


 だが、それでも面白いのだ。それでも藤原伊織藤原伊織なのだ。藤原が描く男は、おしなべて自己評価が低く、自分を半端者としか思っていない。というよりも、世間の評価というものを嫌悪している節すら窺える。また、相手がどのような人物であろうと臆するところがない。これを暴力シーンに象徴させている。そして、道に外れた行為を絶対に許さない。


「肉体的な問題ではない。なすべきか、なすべきでないか。どちらかを決定する自身のルールの問題なんだよ」


【『名残り火 てのひらの闇II』藤原伊織(文藝春秋、2007年)】


 自分が何かをすることで「よく思われたい」と願うのが人の常である。我々はいつだって、世間の中で生きている。社会の力学に従い、強い者に従い、割り振られた役柄に従っている。


 だが、藤原作品に登場する男は違う。彼が従うのは「自分のルール」だけだ。そのためとあらば、法律すらあっさりと無視できる。しかし、彼は一仕事を終えても、決して「正義」を主張することはない。彼は理念に生きているわけではなかった。ただ、「許せないもの」と闘った。


 ここまで記して初めて気づくのだ。藤原伊織が描く人物が「現代の僧侶」ともいうべき性質をはらんでいることを。多くの人々が共感せざるを得ない生き方は、阿羅漢の悟りに等しい。


 藤原伊織はいくつもの大きな花を咲かせ、そして舞い落ちる花びらのような本書を残して旅立っていった。謹んでご冥福を祈る。

名残り火―てのひらの闇〈2〉 (文春文庫)

未来とは何か? 過去とは何か?


 未来とは何か? 過去とは何か? 何という魔法のような流動体がわれわれを取りかこみ、われわれが知らなければならぬ最も大切な事どもをわれわれに隠していることだろう? われわれはすばらしいものの直中(ただなか)を過ぎてゆき、生きてゆき、死んでゆくのだ。〈26歳〉


【『ナポレオン言行録』オクターブ・オブリ編(岩波文庫、1983年)】

ナポレオン言行録 (岩波文庫 青 435-1)

2009-04-29

傅山の書「老」/『一日一書』石川九楊


 京都新聞連載のコラム。一日一書(一文字)を解説。わずか150字足らずで「書の宇宙」に誘(いざな)うのだから凄い。古代から現代に至るまでの文字を紹介。百花繚乱の趣あり。石川九楊は、農耕を基とする「東アジア漢字言語圏」というパラダイムを主張し続けている。


 私が最も衝撃を受けた文字は以下のもの――



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 明末期、明朝の崩壊とともに、連綿狂草体のくずれつながる書が増えてくる。その一つ「老」。老病を口実に清朝出仕を拒んだ傅山(ふさん)の書。一字の途中で墨はつがないという禁じ手を破り、渇潤、痩肥の大胆な転調をもつ。

 今日、敬老の日。老人を労(ねぎら)う日。歴史と人生の証言を聞き、その知恵に学ぶ日である。


【『一日一書』石川九楊〈いしかわ・きゅうよう〉(二玄社、2002年)】


 墨を足して黒々となった「ヒ」の部分が、介護用具に見えて仕方がなかった。あたかも車椅子の如し。あるいは子におぶられた親の姿か。


 はたまた、人生の最終ステージはそれまでの人生と一線を画したものであるべきだ、という思いが込められているのかも知れない。


 それにしても、不思議な書である。じっと見入ると、様々な想念が呼び起こされる。

一日一書

2009-04-28

飯嶋和一


汝ふたたび故郷へ帰れず飯嶋和一河出書房新社、1989年/リバイバル版 小学館、2000年、小学館文庫、2003年)/表題作と短篇二つが収められている。今日読み終えたのは表題作のみ。その事実を記録しておきたかった。私の中の孤独な魂が震え出し、止まることがなかった。息を飲んだまま読了した。

戦いて勝つは易く、守りて勝つは難し/『呉子』尾崎秀樹訳


孫呉の兵法」と呼ばれ、『孫氏』と並び称されているのが『呉子』である。書いたのは紀元前4世紀初頭に活躍したとされる呉起。見識というよりも智慧といった方が相応(ふさわ)しい。精緻な論理よりも確固たる概念に支えられている。


 120ページ足らずの文庫本でありながら760円という値段はまだ我慢できる。だが、書き下し文が巻末にまとめて掲載してあるのは我慢ならない。こんな不親切があるだろうか。この手の漢文翻訳本というのは、短い書き下し文だから何とか読む努力をし、その時だけ薫り高い文語体にウットリと酔うことができるのだ。その意味で、こんなデタラメな構成はない。


『孫氏』と比較すると、『呉子』は実用に傾き過ぎているとされている。つまり、汎用性に欠けるというわけだ。文章も『孫氏』に軍配を上げる人が圧倒的に多い。でもね、訳文を読む限りではさほど劣った印象は見受けられなかった。どことなく、「ミリンダ王の問い」と同じ匂いすら漂っている。


「然(しか)れども戦いて勝つは易(やす)く、守りて勝つは難(かた)し。故に曰く、『天下戦国、五(いつ)たび勝つものは禍(わざわい)なり、四たび勝つものは弊(つい)え、三たび勝つものは覇(は)たり、二(ふた)たび勝つものは王たり、一たび勝つものは帝たり』と。

 是を以て、数々(しばしば)勝ちて天下を得たるものは稀に、以て亡ぶるものは衆(おお)し」と。


「実際に、戦って勝つのはやさしいが、守って勝つのはむずかしい。そこで『天下の強国のうち、五度も勝ちつづけた国は、かえって禍(わざわ)いをまねき、四度勝利した国は疲弊し、三度勝った国は覇者となり、二度勝った国は王者、一度勝っただけでその勢威を保持し得た国は、天下の統一者となれる』といわれるのである。

 むかしから、連戦連勝して天下を手にしたものは少なく、かえって滅んだ例が多いのもそのためである」


【『呉子』尾崎秀樹〈おざき・ほつき〉訳(教育社、1987年/中公文庫、2005年)】


 アメリカ大統領は『呉子』を読むべきだ。どんな勝負事でもそうだが、勝つと見えなくなるものが確かにある。だからこそ、「勝って兜の緒を締めよ」と戒めたのだろう。また、『孫氏』においては「戦争が長引いて国家に利益があった例(ためし)はない」と長期戦を避けるよう教えている。


 戦争とは略奪行為である。ゆえに大義名分が必要となる。略奪や殺人を正当化できる“大義”がなければ、軍の士気を鼓舞することは不可能だ。大義こそは、戦闘行為の実存に関わる問題である。物語に正当性がなければ、人心が離れてゆく。


 呉子の言葉は、戦争の本質を浮かび上がらせ、戦争による世界征服が無理であることまで示唆している。項羽は最後に敗れ、劉邦は最後に勝って天下統一を成し遂げた。。

呉子 (中公文庫BIBLIO)

天才とは世界という書物を直接読破した人


 学者とは書物を読破した人、思想家・天才とは人類の蒙をひらき、その前進を促す者で、世界という書物を直接読破した人のことである。


【『読書について』ショウペンハウエル/斎藤忍随〈さいとう・にんずい〉訳(岩波文庫、1960年)】

読書について 他二篇 (岩波文庫)

2009-04-27

『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』小林秀雄(新潮社、2004年)


 小林秀雄講演「信ずることと考えること」が書籍になっていた。


小林秀雄全作品〈26〉信ずることと知ること


 昭和49年72歳。真夏の九州霧島で、学生たちに語ったベルグソンの哲学、柳田国男の学問。いまここに、超自然的な事実が報告された。僕らは、これを、どういう態度で聞くべきか――。

時は金なり/『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ


 インチキイタリア人(※翻訳者も見当たらないので多分、本当は日本人)と思われるパオロ・マッツァリーノだが、卓越した諧謔(かいぎゃく)を支えているのは広範な知識である。例えばこう――


 14世紀、ルネサンス期になると、アルベルティーなる人物が「時は金なり」というキャッチフレーズコピーを使い始めます(ただし「時は金なり」を本格的に広めたのは、元祖ベストセラービジネス書ライターでもあった、18世紀アメリカのフランクリンです)。神の所有物であった時間を、人間が労働のために売り買いするようになったのです。労働者が時間で管理されるようになりました。ルネサンスというのは、人間性の尊重、個性の解放などを目指した文化の革新運動だったはずです。でも、尊重・解放されたのは金持ちだけで、貧乏人は皮肉なことに、一層キビシク管理されるようになったのです。


【『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノイースト・プレス、2004年/ちくま文庫、2007年)】


 一般的に「時は金なり」はフランクリンの言葉として知られている。「くろご式 ことわざ辞典」でもそのように紹介している。こういった細かいところに目が行き届いているから、パオロ・マッツァリーノは侮ることができない。


 で、「くろご式」にはフランクリンのテキストが掲載されている――


 時は金なりということを忘れてはならない。自らの労働により1日10シリングを稼げる者が、半日出歩いたり、何もせず怠(なま)けていたりしたら、その気晴らしや怠惰に6ペンスしか使わなかったとしても、それだけが唯一の出費と考えるべきではない。彼はさらに5シリングを使った、というよりむしろ捨てたのである。


「時は金なり」って時給のことだったんだね。この辺りの労働文化史については、トム・ルッツ著『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』(青土社、2006年)が詳しい。


 ベンジャミン・フランクリンが生きたのは、ちょうどイギリスで産業革命が起こった時代である。それまでは農業を営んでいた人々が、大量生産の担い手として新たな労働力となった。つまり、ここから「人生の切り売り」が始まったというわけだ。そして労働は、機械の一部となることを意味するようになった。上級奴隷――これは言い過ぎか。


 でも、現代にしたって、労働そのもので自己実現を可能にできる人は一握りしか存在しないことだろう。とすると、労働には人それぞれに何らかの強制力が働いていると考えられる。働く行為そのものが幸福感に包まれていなければ、「何かのために」働いていることになる。最も多い理由は「食うため」だろう。ほら、やっぱり上級奴隷だ。もちろん私だってそうだ。胸を張って答えるよ。


 人生の半分以上の時間を占める労働が、こんな状態でいいはずがない。一体全体、「自分の人生」はどこへ行ってしまったのだろう? 明日からでも探しに行こうと思う。「時は金なり」なんてえのあ、資本家を利するための虚言であろう。

反社会学講座反社会学講座 (ちくま文庫 ま 33-1)

(※左が単行本、右が文庫本)

真実


 真実はいつもかくれた所にある。壁のうしろ、ベッドの下そしてスカートの奥深くに。


【『我が心はICにあらず小田嶋隆(BNN、1988年/光文社文庫、1989年)】


我が心はICにあらず(単行本)


我が心はICにあらず(文庫本)

2009-04-26

『脳と仮想』茂木健一郎(新潮社、2004年/新潮文庫、2007年)


 小林秀雄講演「信ずることと考えること」に触れているようだ。


脳と仮想 脳と仮想 (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)


 第4回小林秀雄賞(2005年度)受賞。数量化できない微妙な物質の質感=クオリアをキーワードとして、意識の問題に切り込み続ける気鋭の脳科学者が提示した新しい概念「仮想」。心とは何か。どこから生まれてくるのか。小林秀雄を出発点として、漱石、一葉、ワグナー、柳田国男、三木成夫……。幾多の先人の痕跡を辿りながら、近代科学が置き捨ててきた「心」の解明へと迫る、脳科学の最到達点、画期的論考。

大塚英志、玉井禮一郎、トム・ルッツ、岡本浩一


 3冊挫折、1冊読了。


 挫折26『物語消滅論 キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』大塚英志〈おおつか・えいじ〉(角川oneテーマ21、2004年)/オタクによる理屈っぽい評論。話し言葉であるにもかかわらず難解。ついてゆけなかった。20ページほどで挫ける。


 挫折27『大石寺の「罪と罰」』玉井禮一郎〈たまい・れいいちろう〉(たまいらぼ出版、1997年)/部分的な資料として取り寄せたもの。巻末に収められた菅田正昭(すがた・まさあき、宗教史家・離島文化研究家)の論文が興味深い内容だった。日蓮が書写した本尊の写真が十数点掲載されている。内容的には大石寺貫首(かんず)の阿部日顕から寄せられた疑難に答えたものだが、目新しい視点がない上、思想的な深みも皆無だ。


 挫折28『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』トム・ルッツ/小澤英実、篠儀直子訳(青土社、2006年)/これは面白かったのだが、如何せん長すぎる。489ページで余白も少なく3360円は安い。迷った挙げ句、222ページでやめた。労働文化史の決定版といってよい。重いテーマであるにもかかわらず筆致が軽妙。ベンジャミン・フランクリンに始まり、各時代のフリーターやニートみたいなタイプ(本書ではスラッカーと表現されている)の著名人がずらりと勢揃いしている。メルヴィル、ホイットマン、マーク・トウェインなんかも登場する。スラッカーこそは文化の担い手であった。


 57冊目『権威主義の正体』岡本浩一(PHP新書、2005年)/『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』(PHP新書、2001年)と半分以上重複した内容。『無責任の構造』で感じた違和感が、より具体的な形で現われている。岡本浩一は卓越した説明能力の持ち主ではあるが、それだけで終わってしまっているために、骨太の論理を提示できず、結論が必ず些末な方向に終始する癖がある。『無責任の構造』も最終章が全くダメだったが、本書はもっとダメである。アプローチすべきベクトルが逆方向となっているため、安っぽい保守主義に堕してしまっている。更に、岡本浩一自身が“権威主義”という言葉の権威に取りつかれて、あらゆる問題を権威主義で読み解こうとするあまり、偏った方向からの批判に終始している。読み手に旺盛な批判精神が求められる作品だ。

ロスチャイルド家がユダヤ人をパレスチナへ送り込んだ/『パレスチナ 新版』広河隆一


 一般的には「パレスチナ問題」と表現されているが、その実態は「イスラエル問題」であり、ユダヤ人の側に罪があるものと私は考えている。パレスチナからすれば、「軒を貸して母屋を取られる」ありさまだ。

 イスラエルは中東の中央に位置する。今まで知らなかったのだが、中東にはアフリカ大陸の北東部も含まれ(Wikipedia)、北アフリカ諸国の公用語はいずれもアラビア語となっている。


 イスラエルを取り巻く問題には、宗教と民族に端を発したもので、ユダヤ教から派生したキリスト教とイスラム教の兄弟同士が血で血を洗う凄絶な歴史が結晶している。現代の先進国における諸制度は、大半がヨーロッパで誕生したものである。資本主義、議会制民主主義、選挙、憲法、組合、三権分立、人権など、数え上げたらきりがない。ここには正義という概念も含まれる。日本人が何となくこれらのものに、しっくりこない感情を抱くのは、いずれも翻訳語のためと思われる(柳父章著『翻訳語成立事情岩波新書、1982年)。その一方でヨーロッパはキリスト教思想を背景とした帝国主義に走り、アフリカ・アジア諸国を蹂躙(じゅうりん)してきた。世界を知るには、ヨーロッパの歴史を学ぶ必要がある。そして、その“負の面”がイスラエルという国家で噴火しているのだ。


 では、いかなる経緯でユダヤ人はパレスチナへ移り住んだのか――


 1880年代初めから、ロシアではユダヤ人大虐殺(ポグロム)の嵐が吹き荒れていた。このあと起こったユダヤ人の青年運動家たちは、ロスチャイルドの手でパレスチナに送りこまれ、この人々は約20の入植地をつくった。

 ロスチャイルド家は西欧に経済的・政治的影響力をもつユダヤ系大資本家である。彼らにとってユダヤ人の救出と、植民地主義的野心の双方が満たされるこの方法は、願ったりかなったりだった。送りこまれたユダヤ人たちは、現地でパレスチナ人を雇って農園を広げていった。ユダヤ人移民は植民地主義諸国の利益にかなうように働き、現地住民を低賃金で働かせ、搾取していったのである。

 ここで、覚えておかねばならないのは、パレスチナに送りこまれたのがいつも東欧のユダヤ人で、送りこんだのが西欧諸国だったということである。


【『パレスチナ 新版』広河隆一〈ひろかわ・りゅういち〉(岩波新書、2002年)】


 ロスチャイルド家といえば、いつだって陰謀説の主人公だ。世界の金融界を牛耳り、多国籍企業すら膝下に治めている。中丸美繪著『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』(新潮社、1996年)には、こんなエピソードも紹介されていた――


 しかし、ドイツほど、ユダヤ人の経済力に依存した国もなかった。戦費、国家財政、貨幣の鋳造などを押さえ、三十年戦争からナポレオン支配を経て解放戦争にいたるまで、ユダヤ人の資金提供のない戦争はほとんどなかった。ヨーロッパに銀行大帝国を築いたロスチャイルド家の兄弟の母は、戦争の勃発を恐れた知り合いの夫人に対して「心配にはおよびませんよ。息子たちがお金を出さないかぎり戦争は起こりませんからね」と答えたという。


 ということは、数々の戦争すらコントロールしていたことになる。少し前に「信用創造のカラクリ」という一文を書いたが、ここで紹介した動画の冒頭にロスチャイルドの言葉が登場する――「通貨の発行と管理を私に任せてくれ。そうすれば誰が法律をつくろうとも私の知った事ではない」(マイアー・アムシェル・ロスチャイルド)。


 第二次世界大戦以降の戦争は、そのいずれもが経済政策として行われているという指摘がある。そして日本は、アメリカが戦争をするたびに経済的発展を遂げてきた。

 すると、いまだにロスチャイルド家が戦争をコントロールしている可能性がある。そして今、資本という力学が腐食し始めた。マネーの暴走をロスチャイルド家ですら止められなかったのか、それともこの事態までコントロールされたものなのかはわからない。


 パレスチナやチベットの現状が示しているのは、軍事力を持たない国は大国から踏みつけられるという事実である。力弱き者が立ち上がるには、暴力による道しか残されていなかった。その「悲しき暴力」を私は否定しない。

パレスチナ新版 (岩波新書)

独裁とは一人でも闘う/『この大地に命与えられし者たちへ』写真・文 桃井和馬


 1940年6月、ドイツ軍がパリを占領した。凱旋門にはハーケンクロイツ(鍵十字)の旗が翻(ひるがえ)り、フランスの栄光はナチスの軍靴に踏みにじられた。時の首相・ペタン将軍はドイツ軍の前にひざまずいた。


 この時立ち上がったのがドゴールだった。無名の将軍は、ロンドンのBBC放送からラジオを通じてフランス人民に徹底抗戦を呼びかけた。この時、戦っていたのはドゴールだけではなかった――


 フランス人っていうのは、おかしいと思ったら一人でも闘う。

 それがフランス革命を起こしたこの国の伝統で、

 フランス人が一番大切にする気質です。

 1940年、わたしがドイツ軍に捕まった時、それはちょうど結婚した

 ばかりの時期でしたから、指に新しい結婚指輪をつけていたんです。

 で、それを見つけたドイツ兵は、無理矢理、指輪を指から盗ろうとした。


 もう頭にきてねぇ。一人でも闘おうと決心しました。


 捕虜になると、最初に顔写真を撮られます。

 ナチスの連中はたかだか証明写真だっていうのに、

 わたしの身体をカメラの前に置き、ものすごい力で両脇から押さえつけてきた。

 フランス人なら絶対こんな時、闘わなくちゃいけない。

 だから、わたしはシャッターが押される瞬間、カメラの前で目一杯

 舌を出してやったんですよ。……こんな風にね。

 もちろん殴られて、再度写真を撮られることになった。

 でもわたしは抵抗をやめませんでしたよ。

 何度も何度も、彼らが諦(あきら)めるまで私は舌を出し続けた。


 独裁とは一人でも闘う。


 小さなことかもしれませんが、

 それがフランス人の矜持(きょうじ)なんです。


【『この大地に命与えられし者たちへ』写真・文 桃井和馬(清流出版、2007年)】


 年老いたオジサンが舌を出した写真が掲載されている。少しブレているのは、オジサンの迫力に桃井和馬が気圧(けお)されたのであろうか。


 フランス人の矜持――私は羨望の思いを抑えることができなかった。絶体絶命の危地に立たされた時、個人としての誇りは吹き飛ばされてしまう。そこで問われているのは、「自分は何者なのか」というアイデンティティに他ならない。程度の低い帰属意識とは異なる。自分よりも大きい何かと、自己という存在を一体化させた時に、偉大な自覚が生まれるのだろう。


「フランス人っていうのは、おかしいと思ったら一人でも闘う」――このような“大きな物語”が紡ぎ出される背景に、私の興味は掻き立てられる。この際、フランス人の身勝手ぶりは無視して構わない。


 この写真集は世界と歴史を、個々の人間と特定の場所から捉え直す不思議な力に満ちている。「見る」という行為の衝撃が、確かにある。

この大地に命与えられし者たちへ

今やり直せよ。未来を。


 本当にこんな言葉が2chにあったのか――


 10年後にはきっと、せめて10年でいいから戻ってやり直したいと思っているのだろう。

 今やり直せよ。未来を。

 10年後か、20年後か、50年後から戻ってきたんだよ今。


【2ch】


 出典はこの辺りか――

 下のコメント欄にこうある――


27. 通販さん@賛成です 2008年01月27日 16:51


 あなたは十年後にもきっと、

 せめて十年でいいから戻ってやり直したいとおもっていますよ。


 今やり直してください。未来を。


 十年後か、二十年後か、

 五十年後から戻ってきたんですよ、今。


 また、こんな言葉もあった――


23. 通販さん@賛成です 2008年01月27日 15:57


 お前らが無駄に過ごしてきたこの10年間は10年前に病気とかで死んだ人が生きたかった10年だったんだよ。


201-03-10


 yhachisuさんからのコメントで、もっと古くからあることが判明した。詳細は以下のページを参照されよ──

2009-04-25

なぜ夜空は暗いのか?/『夜中に犬に起こった奇妙な事件』マーク・ハッドン


 自閉症の少年が主人公のミステリ。自閉症の内面世界が見事に描かれており、この一点においてはエリザベス・ムーンの『くらやみの速さはどれくらい』(早川書房、2004年)よりも優(まさ)っている。


 ミステリ作品を装っているが、テーマは「自閉症者と一般人」「親と子」「隣人と家族」など、異なる価値観――あるいは世界観――を持つ者同士がどう折り合いをつけるか、である。


 主人公の少年は軽度発達障害に特有の抜きん出た記憶力を武器に、隣家の犬を殺した犯人を探り当てる。物語に挿入された科学ネタが秀逸だ――


 長いあいだ科学者たちは、空が夜暗いという事実を不思議に思っていた、宇宙には何兆という数の星があってどちらの方向にも星はあるはずで、星の光が地球にとどくのをじゃまするものはほとんどないのだから、空は星の光でいっぱいのはずなのになぜ暗いのだろうと思っていた。

 そこで科学者たちは、宇宙が膨張しているのだと考えた、ビッグバンのあと星はたがいにすごい速度ではなれていっている。われわれから遠ければ遠いほど速い速度で動いていく、そのなかのあるものは光の速度くらい速い、だから星の光がわれわれのところにとどかないのだと考えた。


【『夜中に犬に起こった奇妙な事件』マーク・ハッドン/小尾芙佐訳(早川書房、2003年)】


 アインシュタインの「宇宙定数」を知っている人なら、このテキストのユニークさを理解できるだろう。


 一般相対性理論の方程式は、宇宙空間の大きさが変化することを示していた。だがこの事実をアインシュタイン自身が受け入れることができなかった。そこでアインシュタインは「宇宙定数」という量を導入して、方程式を修正した。結局、間違っていたのはアインシュタインだった。一般相対性理論は発案者の予想以上に正しかった(ブライアン・グリーン著『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する草思社、2001年、スティーヴン・W・ホーキング著『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』早川書房、1989年)。


 宇宙が膨張していることを発見したのはハッブルだった(1929年)。ハッブルは大部分の銀河が赤方偏移ドップラー効果の一つ)を示していることを観測し、銀河という銀河が我々から遠ざかっている事実を明らかにした。


 このような科学上の発見については比較的知られていることと思うが、その前提は意外と知らないことが多い。確かに、マーク・ハッドンの記述が事実かどうかは確認する必要があるだろう。それでも、膨大な数の星があることは当時からわかっていたわけだから、「夜空は明るいべきだ」と考える科学者がいても不思議はない。


 こんな一文にも、マーク・ハッドンの物語巧者としての一面が窺える。

夜中に犬に起こった奇妙な事件 (ハリネズミの本箱) 夜中に犬に起こった奇妙な事件

(※左が単行本、右が新書)

警察署ワースト3

 支局などない我々は、日本中の警察を廻って取材をしている。だからこそ分かるのだが、過去の経験で言わせてもらうと、埼玉県警の雑誌取材の対応ぶりはワースト3に入る。

 ちなみに他の二つは「一見(いちげん)さんおことわり」の京都府警と「本部に行って」の北海道警である。


【『遺言 桶川ストーカー殺人事件の深層清水潔(新潮社、2000年)】


遺言―桶川ストーカー殺人事件の深層 桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-04-24

王と奴隷


 人は王となりたがり、奴隷であることを望む。

 人は他人をコントロールしたがり、偉大な人物からコントロールされることを望む。

 人は、王と奴隷との間をフィードバックする。

草なぎ出演CM、損害賠償50億円!?


 SMAPの草なぎ剛容疑者(34)が23日に公然わいせつ容疑で現行犯逮捕されたのを受け、CM界やテレビ界にも大激震が走った。

 広告代理店のキャスティングに関する相談役を務めたこともある芸能評論家の肥留間正明氏(59)は、「SMAPはいまや日本一のテレビタレントという位置づけなので、草なぎ容疑者個人としてもギャラは5000万円ほどか。グループでは1億2000〜5000万円、また楽曲のみの場合はタイアップ戦略としても見なければならないが、それでも5000万円はくだらないのでは」と推定する。同氏の概算から算出すると、CMの打ち切りによって少なく見積もっても4億2000万円のギャラが吹っ飛んだことになる。

 しかし、肥留間氏によると企業側の損害はこの程度ではまったく済まない。「企業のCM戦略を考える場合、タレントへのギャラはほんの一部に過ぎない。テレビ、新聞、雑誌、駅のポスターなど総合するとCM1本で50億円近いカネが動くというのは常識。それが消えるということは企業にとって計り知れないダメージだ。ギャラの10倍ぐらいの損害賠償を、草なぎ容疑者サイドに請求するという考え方もできなくはないのです」。

 となると、4億2000万円の10倍、ざっと50億円の損害賠償が同サイドに突きつけられる可能性もあるというわけだ。代償はあまりにも大きかった。


サンケイスポーツ 2009-04-24

江村洋


 1冊挫折。


 挫折25『ハプスブルク家』江村洋(講談社現代新書、1990年)/期待外れだった。山場に欠ける。56ページで挫ける。「キリスト教が心なら、ハプスブルク家は背骨である。ヨーロッパという肉体の中心、結婚政策により勢力を保ち続けた名門王朝の歴史を探る」(表紙より)――13世紀から何と700年もの長きにわたって、ハプスブルク家はヨーロッパに君臨していたようだ。いずれ、調べ直す必要あり。

ランダムな報酬が“嬉しい驚き”となる/『ゾーン 「勝つ」相場心理学入門』マーク・ダグラス


 評価の高い投資本だ。ただし、翻訳が拙い。随分と損をしていることだろう。具体的な手法については何一つ書かれていない。リスク・テイカーとしての覚悟、心理、概念、思想とはどうあるべきかを追求している。


 売買の厳密なルールを決めていなければ、相場はギャンブルと変わりがない。「流れ」といったところで、いかなるスパンのチャートを見るかで、上げ下げは異なる。5分足チャートでは上がっていても、1時間足で下げていることなどザラにある。マーケットに参加する以上は、キャッシュポジションの比率と、ストップ(損切り)のポイントを決めておく必要がある。これができない人は、あっと言う間に丸裸にされる。というよりも、丸裸にされて当然だ。


 ギャンブルも相場もビギナーズラックというケースがある。ここで勘違いをして図に乗ると、必ず痛い目に遭う。また、儲けが大きくなるほどポジションを膨らませてしまう悪癖がつく。初めから損をしようと思っているプレイヤーは一人もいない。であるにもかかわらず、大半の人々が損をしている現状を重く受け止めねばなるまい。


 サルにランダムな報酬を与え、その心理学的効果を分析した研究が幾つかある。例えば、サルにある調教をし、それをするたびに褒美を与え続けた結果、サルはすぐにその努力が特別な褒美と結びついていると分かる。しかし今度はその作業をしても褒美を与えるのをやめてしまうと、非常に短期間のうちにサルはまったくその作業をしなくなる。褒美がもらえそうにもないのに、やるだけ労力が無駄だと分かるからだ。

 ところが褒美を一貫して与えるのではなく、完全にランダムなスケジュールで与えた場合、褒美がもらえなくなったサルの反応はまったく異なってくる。褒美を与えるのをやめても、その作業をしてももう二度ともらえないとは、サルにはわからない。そして褒美が与えられるたびに、その褒美はサルにとって嬉しい驚きとなる。その結果、サルの頭から仕事をサボる理由がなくなるのだ。たとえそれをしても褒美がもらえなくても、サルはひたすらその作業を続ける。場合によっては、永久的に続けるだろう。

 なぜランダムな褒美にのめり込みやすいのか、はっきりとは分からない。想像するに、予想外の嬉しい驚きがあったとき、脳内に自己陶酔をもたらす化学作用があるからではないだろうか。褒美がランダムだと、いつそれを受け取れるか、はっきり分からない。しかし素晴らしい喜びの感情を期待して、労力と能力を費やすのが苦にならない。事実、こうしたものにおぼれてしまいやすい人は多い。


【『ゾーン 「勝つ」相場心理学入門』マーク・ダグラス/世良敬明(せら・たかあき)訳(パンローリング、2002年)】


 ここでいう「ランダムな報酬」とは、「相場で勝った」ことを意味する。「嬉しい驚き」が相場にのめり込ませる原因となる。そして、トータルでは損をしこたま抱える羽目になるのだ。


「ランダムな報酬」は、岡本浩一著『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』(PHP新書、2001年)に書かれている「ひかえ目な報酬」とよく似た概念だ。


 予測していなかった利益が期待値を高める。一度でもぼろ儲けした経験があると、その記憶に束縛される。中々利益を確定できずに、結局相場は戻してしまう。それどころかチャートは反転する。「ここまで下げれば、そろそろ戻すはずだ」と思ったところから、二段下げ、三段下げと続く。挙げ句の果てに、追証(おいしょう/追加証拠金)寸前で損切りに追い込まれる。で、決済した途端、まるで見計らったかのようにチャートが元に戻る。そんな経験をしたことのある人は多いことだろう。


 一般投資家の基本は中長期にわたる取引である。日計り(デイトレード)で稼ごうなんて思うのは100年早い。既に、頻繁な売買をすれば損をすることが科学的に証明されているのだ。中途半端な気持ちで飛び込めば、間違いなく大火傷する世界である。


 損得に微動だにすることなく、淡々と売買をする明鏡止水の境地を、本書では「ゾーン」と名づけている。素人からすれば神がかりとしか思えないが、マーク・ダグラスの説得力は確かにそうした領域があることを見事に示している。

ゾーン ― 相場心理学入門

アレルギー


 アレルギーという言葉は、クレメンス・フォン・ピルケという学者が1906年に、豊富な臨床の経験と実験的事実をもとにさんざん思索したあげく作った言葉である。ギリシャ語のALLOS(変わる)とERGON(力)を合成して創ったものである。つまり、アレルギーというのは何かのきっかけで反応性が変化してしまった、そういう病的な状態を指す言葉である。アレルギーの本体は、この不明確な言葉でしか表現できなかった。それが、今日免疫反応と読んでいる生体反応のひとつであることがすんなり受け入れられるまでには相当な年月を要したのである。


【『免疫の意味論』多田富雄青土社、1993年)】

免疫の意味論

2009-04-23

『アメリカ重犯罪刑務所 麻薬王になった日本人の獄中記』丸山隆三(二見書房、2002年)


アメリカ重犯罪刑務所―麻薬王になった日本人の獄中記


 一夜で数百万円もの大金を散じる日本人麻薬フィクサーがカリフォルニア州の重犯罪刑務所で服役することになった。殺人を造作なく犯す凶漢、執拗に虐げる悪質な看守を相手に“金と力と知性”を武器に真っ向から渡り合った受刑者マルヤマの記録。98年ルー出版刊『ホテルカリフォルニア 重犯罪刑務所』を改題、加筆訂正。

藤原伊織


 1冊読了。


 56冊目『名残り火 てのひらの闇II藤原伊織文藝春秋、2007年)/藤原伊織の遺作。読むのを躊躇(ためら)っていた。読んでしまえば、もう後はない。藤原伊織の過去を振り返ることしかできなくなる。恐る恐る本を開いた。そして、例の如くあっと言う間に読み終えていた。細かいことを言えば、音楽や絵画の趣味が合わない上、ことごとく鼻につくレパートリーだ。あざとさをも感じてしまう。柿島の細君も出来すぎ。部下の大原も、社長の三上も、刑事の関根までもが理想に傾きすぎている。一歩間違えると少女漫画みたいになりかねないが、辛うじて踏みとどまっているのは堀江の復讐心に否応なく魅了されるためだ。そしていつものように、気の利いたセリフがそこここに散りばめられている。コンビニ業界の詳しい内情にも触れていて、これがまた下らないビジネス書よりもはるかに面白かった。藤原伊織は本書の加筆・改稿作業の途中で黄泉路へと旅立った。合掌。

ネットワーク創造


 はじめに神は高等研究計画局ネットワークを創造され、それはARPAnet(アーパネット)と呼ばれた。ARPAnetは栄えてMilnetを生み、ARPAnetとMilnetはインターネットを生み、やがてインターネットとその子孫であるUsenet(ユーズネット)のニュースグループとワールド・ワイド・ウェブが三位一体となって、神の民の暮らしを未来永劫変えた。


【『青い虚空』ジェフリー・ディーヴァー/土屋晃訳(文春文庫、2002年)】

青い虚空 (文春文庫)

輪廻転生からの解脱/『100万回生きたねこ』佐野洋子


 この作品には思考や価値観を深いところで揺さぶる何かがある。正直に言うと、私はいまだに思いあぐねている。ただ確実なのは、佐野洋子が明らかに何かを破壊しようと企てていることだ。


 私は頭に来ている。この物語を正確に読み解くことができないからだ。まるで、佐野洋子から不敵な挑戦状を受け取ったような気分だ。くわえ煙草で嘲笑する佐野の声すら聞こえてくる。くそっ。


 ねこは100万回生きて、100万回死んだ。ねこは飼い主からは愛されていたが、自分で自分を愛することはなかった。


 ねこは しぬのなんか へいきだったのです。


【『100万回生きたねこ』佐野洋子(講談社、1977年)以下同】


 なぜ「へいき」だったのか? それは、「本当の自分」ではなかったからだ。死が奪ったのは“与えられた幸福”だけだった。100万回の死は実に呆気(あっけ)なく淡々としたもので、あたかも新聞記事で報じられる死と変わらない。日本の交通事故死者数は5744人(2007年)、2003年以降イラク市民は100万人が死亡している(※ロサンゼルス・タイムスの統計)、という類いと一緒だ。私は眉をひそめたり、わずかな瞬間だけ心を痛めたりする。でも、結局は「他人の死」だ。そこには、皮膚感覚としての痛みが伴わない。


 あるとき、ねこは だれの ねこでも ありませんでした。

 のらねこだったのです。

 ねこは はじめて 自分の ねこになりました。ねこは 自分が だいすきでした。

 なにしろ、りっぱな とらねこだったので、りっぱな のらねこに なりました。

(※カンマを読点にした。以下同)


 ねこは自由を手にした。ねこは「本当の自分」になった。幸せは、「恵まれた環境」にあるのではなく、「生き方を選択できる自由」の中にあった。過去の死は、与えられるものが多ければ多いほど、人生が貧しくなることを象徴していた。「宮中で飼われる猫よりも、野良を目指せ」、「物や金に束縛される人生よりも、無一物の自由を欲せよ」――そんな佐野のメッセージが込められている。


 自由になったねこは、恋に陥り、やがて子を儲ける。


 ある日、白いねこは、ねこの となりで、しずかに うごかなく なっていました。

 ねこは、はじめて なきました。夜になって、朝になって、また 夜になって、朝になって、ねこは 100万回も なきました。

 朝になって、夜になって、ある日の お昼に、ねこは なきやみました。

 ねこは、白いねこの となりで、しずかに うごかなくなりました。


 100万回も自分の死を平然と受け流してきたねこが、初めて愛した伴侶の死に苦しみ悶(もだ)える。ねこは悲しみにのた打ち回った。そして悲しみのどん底で死んでいった。ねこは輪廻転生(りんねてんしょう)から解脱(げだつ)した。


 ここにダブル・トラップ(二重の罠)がある。主人公のねこは自分が死ぬことは一顧だにしなかった。しかし、愛する伴侶を喪った時、初めて「死」はありきたりのものではなくなった。「固有の死」は「かけがえのない生」そのものであった。


 こんなものは珍しくも何ともない。誰かが亡くなれば、その人の周囲にいた人々にとってはいずれも「固有の死」である。思い出が駆け巡り、なにがしかの感慨に浸(ひた)った経験は誰にでもあることだろう。それどころか、仏典によれば、愛欲こそが六道輪廻(ろくどうりんね)の因なのだ。


 ここで初めて気づくのだ。ねこの悟りは、「100万回泣いた」ことであることを。「かなしむ」は「愛しむ」とも書く。ねこは「慈悲の一念」によって解脱を遂げたのだ。


 元来、輪廻思想はバラモン教(古代ヒンドゥー教)が下位カーストを正当化するために編み出した物語だった。そこに仏教が現れ、輪廻から解き放たれる方途を指し示した。これが解脱である。仏の別名に「善逝(ぜんぜい)」とあるのは、二度と生れて来ないことを意味し、「如来(にょらい)」も元々は「如去(にょこ)」と称されていた。ねこの死は、まさしく「善逝」に相応しい。こうなったら如去を「ニャンコ」と呼んでもいいぞ(笑)。


「真の幸福は、どれだけの人に対してどこまで悲しむことができたかで決まる」――そんなことを、ねこは教えてくれる。


【※「悲しむ力」については、山下京子東晋平著『彩花がおしえてくれた幸福』(ポプラ社、2003年)を参照されよ】

100万回生きたねこ (佐野洋子の絵本 (1))

2009-04-22

戦場


「戦場は証明の場でもある。人が死ぬ場所であり、新たに生まれ変わる場所だ」


【『メービウスの環ロバート・ラドラム/山本光伸訳(新潮文庫、2004年)】


メービウスの環〈上〉 (新潮文庫) メービウスの環〈下〉 (新潮文庫)

2009-04-21

青木寿幸、井岡亮、佐野洋子、P・F・ドラッカー


 1冊挫折、2冊読了。


 挫折24最新投資組合の基本と仕組みがよ〜くわかる本』青木寿幸、井岡亮(秀和システム、2008年)/「自分にはお金がなくとも、ファンド(投資組合)を作って、他人のお金を集めれば、誰でももうけることができます」(「はじめに」)――いやはや驚いた。青木は公認会計士と税理士の肩書を持ち、井岡はコンサルタントとなっている。よくもまあ、こんなことが書けたものだ。“ものを書く姿勢”が全くなっていない。出版社の見識を疑う。30ページでやめる。


 54冊目『100万回生きたねこ佐野洋子(講談社、1977年)/有名な絵本。広井良典著『死生観を問いなおす』(ちくま新書、2001年)で紹介されていた一冊。面白かった。六道輪廻からの解脱を思わせる。しかしながら、主人公のねこが初めて知った自由や愛情は、仏教だと愛欲の範疇(はんちゅう)となる。ここに佐野のひとひねりがある。難点は、児童向けでありながら読点ではなくカンマを使用しているところ。これは頂けない。初めて佐野作品を読んだが、絵もいい。


 55冊目『「経済人」の終わり』P・F・ドラッカー/上田惇生訳(ダイヤモンド社、2007年)/初版が刊行されたのは1939年(昭和14年)である。日本では岩根忠訳で東洋経済新報社から1958年に発行されている。書き始めたのが1933年(昭和8年)というから、ドラッカーが23歳の時のこと。難解だった。多分、訳もよくないのだろう。それでも、所々に箴言のようなキラメキがある。どこを読んでも第二次世界大戦前に書かれたものとは思えない。その意味では、未来を予言した書と言っていいだろう。ファシズムを政治・経済から読み解き、徹底してマルクス主義を批判している。知性の力を思い知らされる。今こそ読まれるべき作品だと思う。

近藤道生と木村久夫/『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』日本戦没学生記念会編

 昨日、あるお客さんから新聞の切り抜きを手渡された。「後で読んでよ」と。昼休みに目を通した。日本経済新聞で連載されている「私の履歴書」だった。書き手は博報堂最高顧問の近藤道生(こんどう・みちたか)。調べたところ、大蔵省銀行局長、国税庁長官などを歴任した人物のようだ。14回目のタイトルは“「生き残った」自責の念”。

 中ほどに差し掛かって菊池章子の「星の流れに」が出てきた。お客さんは、私がこの歌に惚れ込んでいることを覚えていてくれたのだ。同記事から引用しておこう――


 復員直後から心に懸かっていた靖国神社に詣でたのは2〜3年後のある寒い日だった。歩いて行く途中、どこからともなく歌が流れてくる。

 一番は「星の流れに 身をうらなって」で始まり「こんな女に誰がした」で終わる。二番、三番も、やはり最後は「こんな女に誰がした」と悲しく問いつめる。

 菊池章子が歌う『星の流れに』という曲だった。気がつくと、とめどなく溢(あふ)れる涙を拳でぬぐいながら歩いていた。みすぼらしい身なりで行き交う女性たちに「戦争に負けたのはあなたのせいよ」と責められているような気がして、いたたまれない。

 いや、それだけではなかった。生き残った後ろめたさもまた、激しく自分を責め立てた。靖国神社に祭られた上官や戦友を前にして「なぜ自分は死ななかったのか」と答えのない自問を繰り返した。


【「私の履歴書」近藤道生/日本経済新聞 2009-04-15】

 そして、最後には驚くべき事実が記されていた。


 カーニコバルでは陸海軍混成の現地住民対策部隊があり、私が初代の隊長だった。部下に木村久夫という学徒出陣組の上等兵がいた。京都帝国大学で経済学を学んでいたが哲学の造詣も深く、序列を無視して声をかけ哲学談義に花を咲かせた。

 私がペナンに転属になってから、木村上等兵は後任の隊長からスパイ容疑でインド人夫婦を処刑するよう命じられる。隊長と妻との間に何かあったのではないかという噂(うわさ)が流れる中での命令だった。

 命令は絶対で拒むことはできない。苦悩の末に命に従った木村上等兵は戦争犯罪人としてシンガポールのチャンギー刑務所で絞首刑になった。

 社殿の前の私の脳裏に、多くの人々の面差しと声がにじんでは消えた。

 28歳の若さで逝った木村上等兵の遺書の文面を、長い歳月を隔てて知る。

「音もなく我より去りしものなれど書きて偲(しの)びぬ明日という字を」

 これに続く処刑前夜の二首を読むことはできなかった。


【「私の履歴書」近藤道生/日本経済新聞 2009-04-15】


 私は「木村久夫」という名前を覚えていた。遺書に書かれた歌も記憶に残っていた。『きけ わだつみのこえ』に収められているのだ――


 吸う一息の息、吐く一息の息、喰う一匙(ひとさじ)の飯、これら一つ一つの凡(すべ)てが今の私に取っては現世への触感である。昨日は一人、今日は二人と絞首台の露と消えて行く。やがて数日の中(うち)には私へのお呼びも掛って来るであろう。それまでは何の自覚もなくやって来たこれらの事が味わえば味わうほど、このようにも痛切なる味を持っているものかと驚くばかりである。口に含んだ一匙の飯が何ともいい得ない刺戟(しげき)を舌に与え、溶けるがごとく喉から胃へと降りてゆく感触を、目を閉じてジット味わう時、この現世の千万無量の複雑なる内容が凡てこの一つの感覚の中にこめられているように感ぜられる。(木村久夫 28歳)


【『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』日本戦没学生記念会編(東大協同組合出版部、1949年/岩波文庫、1982年)】


 朝かゆを すすりつつ思う 故郷(ふるさと)の

                 父に許せよ 母よ嘆くな


 指をかみ 涙流して 遙かなる

        父母に祈りぬ さらばさらばと


 眼を閉じて 母を偲(しの)べば 幼な日の

               懐し面影 消ゆる時なし


 音もなく 我より去りし ものなれど

           書きて偲びぬ 明日という字を


 かすかにも 風な吹き来そ 沈みたる

         心の塵(ちり)の 立つぞ悲しき


(木村久夫 28歳)


 以下二首処刑前夜作


 おののきも 悲しみもなし 絞首台

          ははの笑顔を いだきてゆかん


 風も凪(な)ぎ 雨もやみたり さわやかに

               朝日をびて 明日は出でなん


 処刑半時間前擱筆す  木村久夫


 私は戦争を美化するつもりは毛頭ない。ここで、近藤の筆致に“戦争の反省”がないことを指摘するのは簡単だ。この文章には、自分と関係のある人々に寄せる思いはあっても、日本軍に殺された人々に対する想像力が完全に欠落している。


 しかし、だ。これは「私の履歴書」であるのだから、「私」を取り巻く人々に重きが置かれてしまうのは致し方ないだろう。むしろ近藤は、戦時と終戦における“ありのままの生”を綴ることで、戦争の悲惨を伝えようとしているのかも知れない。私は、靖国神社のあり方には甚だ疑問を抱いているが、近藤の心情には共感できる。


 また、木村の行状を知ったところで、『わだつみ』に記された文章の価値を損なうことはない。人間には善悪のバランスシートがある。善だけでも悪だけでも語り尽くせるものではないのだから。

きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (ワイド版岩波文庫) きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫)

(※左がワイド版、右が文庫本)

探偵をしている理由


「どうして探偵をやってるの?」

「誰かが言ったように、歌も踊りもできないからだ」


【『初秋ロバート・B・パーカー/菊池光訳(早川書房、1982年/ハヤカワ文庫、1988年)】

初秋 (ハヤカワ・ミステリ文庫―スペンサー・シリーズ)

2009-04-20

誤報:朝日新聞阪神支局襲撃の手記掲載 週刊新潮の対応に疑問の声


識者ら「第三者委が必要」


 虚偽の証言に基づく誤報が今年、相次いでいる。日本テレビの「真相報道バンキシャ!」が岐阜県庁の裏金問題に絡み、関係者のうそ証言を放送したのに続き、朝日新聞襲撃事件を巡って「実行犯」の手記を掲載した週刊新潮が、誤報だったことを認め謝罪した。新潮社は、事態をどう教訓とするのか。ジャーナリズムの姿勢が問われている。


「説明責任果たした」


 先月、東京都内で開かれた「月刊現代」の休刊を考えるシンポジウム。ノンフィクション作家の佐野眞一さんは週刊新潮の誤報問題を取り上げ「異論を承知で言えば、雑誌を殺したのは編集者だ。偽物か本物か人間を見る目が曇ってしまった。劣化の極みが週刊新潮の大虚報だ」と会場にいる新潮社関係者を前に厳しく非難した。

 その一方で「週刊新潮は『こうしてだまされた』という記事を書くべきだ。同誌の芸風で、雑誌再生につながるかもしれない」と提案した。今月16日発売の同誌(4月23日号)が、誤報の経緯を検証し、謝罪した記事のタイトルは、「『週刊新潮』はこうして『ニセ実行犯』に騙(だま)された」。この記事を巡っては識者らから「不十分な検証内容だ」との批判が相次ぐ。しかし、新潮社の伊藤幸人・広報宣伝部長は毎日新聞の取材に対して「16日発売号の記事をもって会社としても社会に対する説明責任を果たしたと考えている」との姿勢だ。

「バンキシャ!」による裏金報道では、日本テレビは社内調査の結果を会見して公表。放送界の第三者機関「放送倫理・番組向上機構(BPO)」の放送倫理検証委員会が特別調査チームを設けて検証作業中だ。

 メディア界では、報道倫理上の問題が発生した時に救済を図るため、放送界は業界横断的な組織のBPO、新聞界は各社ごとに外部の第三者が関与する機関を設けているが、出版界にはない。

 奈良県田原本町で06年に起きた母子3人放火殺人事件を取り上げた草薙厚子さんの単行本「僕はパパを殺すことに決めた」を出版した問題で、放火した長男らの供述調書が大量に引用された経緯を検証するため、講談社が奥平康弘・東大名誉教授を委員長にした社外の識者による委員会を設置して、検証したケースがあるだけだ。

 04年に田中真紀子・元外相の長女の私生活を取り上げた週刊文春の報道を巡り、長女側が申請した出版禁止の仮処分で東京地裁が妥当とする決定を出した。この問題をきっかけに文芸春秋社は、第三者機関の設置を検討したが、最終的に見送っている。

 朝日新聞が05年に従軍慰安婦問題を取り上げたNHK特集番組が政治家の圧力で改変されたと報道した問題で、同紙も社外の学識者らで構成する「NHK報道」委員会(丹羽宇一郎・伊藤忠商事会長ら4委員)を設置した。メディア界では、読者や視聴者に報道を巡って不信を招いたケースでは第三者委員会による検証を行う流れができつつある、と言える。

 これに対して、新潮社は「外部の識者を入れた第三者委員会の設置は考えていない」(伊藤部長)として、週刊新潮による内部調査で十分だとの立場だ。

 大西五郎・元愛知大教授(ジャーナリズム論)は「週刊新潮の早川清編集長は、だまされたという言い方をしているが、それ自体が週刊新潮には自浄作用がないことを示している。雑誌ジャーナリズムの信頼回復のためにも外部の厳しい目によるチェックが必要だ」と指摘する。


「真実と信じた」


「『自分は実行犯だ』と名乗りを上げた人物がいて、その証言について取材し、『真実相当性がある』と判断し、手記を掲載した」。早川編集長と取材班の連名による検証記事はそう主張した。記事は、その根拠について「事件についての証言が詳細でリアリティーがあったため真実であると思い込んでしまった」とも記している。

 この弁明は、岐阜県庁の裏金虚偽報道問題で、「バンキシャ!」の番組関係者が、日本テレビの内部調査に対して明らかにした内容とよく似ている。「バンキシャ!」に明かした元建設会社役員の男性の証言について、証言や資料に関する角度を変えた質問に対する回答が一貫し、不利益を承知で告発しているとして「信ずるに足る」と判断したという。

 さらに、真実だと信じた根拠の一つに金銭的な要求がなかったことを挙げていることでも共通している。しかし、証言を支える根拠は、同じ人物による物証だったわけだ。

 検証記事は「週刊誌の使命は、真偽がはっきりしない段階にある『事象』や『疑惑』にまで踏み込んで報道することにある」と強調する。だが、その姿勢は、訴訟リスクを抱えることにもつながる。

 田北康成・立教大講師は「名誉棄損裁判で被告となった報道側が勝訴するためには真実相当性を立証する必要がある。裁判所は、報道機関に対して真実と誤認するほどの裏付け取材の証明を求めている。朝日新聞襲撃事件をめぐる手記について、週刊新潮は、掲載時に相当性があったと言っている。だが、検証記事を読む限り、仮に裁判になった場合、裁判所が認めるほどの相当性があったのかは疑問だ」と話す。


「処分はなし」


「当面、この問題での処分は考えていない。処分についての話は社内では一切、出ていない」。伊藤部長は、毎日新聞の取材に対し、こう言い切った。

 早川編集長は「人事処分は会社や役員会が考えること」と取材に答えていたが、会社としても責任は問わず、早川編集長を今月20日付で予定通り、同誌担当役員に就任させる考えだ。休刊や廃刊はない。

 岐阜県庁の裏金虚偽報道問題では、日本テレビの久保伸太郎社長が社長を引責辞任。報道局長が更迭されるなど5人が処分された。また、「僕パパ」の出版問題では、講談社は担当編集者への処分は「現場の萎縮(いしゅく)効果に配慮した」として見送ったが、担当常務ら4人を減給処分にした。

 検証記事には、具体的な再発防止策は示されていない。東京地裁は今年2月に同誌を巡る名誉棄損訴訟で「名誉棄損を防ぐ社内体制が整備されていない」として、佐藤隆信社長個人の賠償責任も認める異例の判断を示した。

 服部孝章・立教大教授(メディア法)は「新潮社は社会が納得できるような再発を防止するためのチェック体制を示し、誤報した責任の所在を明確にすべきだ」と述べる。


ことば


週刊新潮の手記掲載問題

 朝日新聞阪神支局襲撃事件(87年)など一連の警察庁指定116号事件の実行犯を名乗る島村征憲氏(65)の手記を2月5日号から4回掲載。朝日が手記を「虚報」だとする検証記事を掲載するなど信ぴょう性に疑問符が付いた。新潮社は3月19日、手記で指示役とされた元在日米国大使館職員の男性から訂正・謝罪を求められて和解。今月、島村氏は毎日新聞などの取材に「実行犯ではない」と手記内容を否定。4月23日号の検証記事によると、新潮社は手記の原稿料として計90万円を支払ったほか、ホテルの宿泊費などを負担。「自立支援のため」として、島村氏の生活保護申請や健康保険証の入手を手伝ったという。


【毎日新聞 2009-04-20】

血に寄り掛かる親/『寝たきり婆あ猛語録』門野晴子


 門野晴子は幼い頃、母親から虐待されていた。それでも、介護が必要となった母を自分が引き取ることにした。理由は自分でもわからないという。


 とにかく婆さんの偏屈ぶりが凄い。これほどひねくれていれば、もはや笑うしかない領域に達している。著者自身が娘との会話で笑いのネタにしているくらいだ。落語のような趣があって、ピシッと決まっている文句が多い。


 門野晴子といえば、介護に関して一家言を持つ人物で知られている。現実を知ればこそ、安易な理想に飛びついたり、空理空論をもてあそぶところが全くない。


 本当の親子でも関係づくりを努力しなければすぐ忘れて笑えるか、と腹の中で毒づく。

「血」に安住して子どもを支配し、親を看(み)て当然だと頭から思い暮らした家父長(かふちょう)教の親たち。その君臨性は息子の嫁を私物化し、タダ働きの「手間」をもらったと披露(ひろう)する地方が戦前ならともかく現在もある。

 しがみつかれる嫁や娘は戦後民主主義と平和憲法で育った世代である。人としての情ややさしさで老親をすておけないとなっても、「血」によりかかられて当然視される娘は抵抗がある。ましてや血に関係のない嫁においておや(ママ)。


【『寝たきり婆あ猛語録』門野晴子(講談社、1996年)以下同】


(※文末は「をや」が正しい。もう少し言えば「いわんや――においてをや」と使うのが正解)


“血に寄り掛かる親”への批判は猛々しいほどで、通奏低音をなしている。だが、これほど糾弾するところを見ると、門野自身が「血の重み」を感じているに違いない。そのプレッシャーが大きいからこそ、自分を奮い立たせるための理論武装が必要になるのだ。


 しかしながら、「親子であっても関係づくりの努力が必要」という指摘は鋭い。双方が受け身であれば、病状や生活環境が変わるたびに関係性が振り回される羽目となる。積極的に関わる姿勢があればお互いを必要とする関係性となる。ただし、これはコミュニケーションが可能な状態であればの話だ。重度の認知症ともなれば、“自分の関わり方”のみが問われる。これは相当苛酷な世界だ。


 門野晴子は口先だけの人物に非ず。自分の親を反面教師にして、息子の嫁には次のように接している――


 息子のパートナーを私は絶対に嫁視しない。嫁という言葉も内実も私で断(た)ち斬(き)らねばならないと思う。息子の仲立ちで出会った大切な女友だちであると同時に、ありのままのすべて、存在そのものが愛(いと)しいわが子が3人になっただけ。つまり、彼女に教え覚えてもらうようなこちらの「文化」はなに一つ持たない。


 ここでいう「文化」とは「家のしきたり」であろう。古来、「郷に入っては郷に従え」と伝えられる。この俚諺(りげん)に“郷のあり方”を問う視点はない。「長いものには巻かれろ」と同じ姿勢だ。農耕民族は、善悪よりも損得の価値を重んじたのだろう。門野はこれに異を唱え、“平等”であることを優先する。「長幼序あり」とは言えども、長が幼から学ぼうとする姿勢を持つべきだ。


 我々の価値観は、さしたる根拠もないままに、社会に出回っているというだけの理由で採用しているものが多い。門野の指摘は、そういうことにまで気づかせてくれる。

寝たきり婆あ猛語録 寝たきり婆あ猛語録 (講談社プラスアルファ文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-04-19

米、時価会計緩和を決定 1−3月期決算から導入


【ニューヨーク】米国の会計基準を決める米財務会計基準審議会(FASB)は2日、時価会計の適用除外となる金融資産の対象を広げる緩和策を決定した。1−3月期決算から新基準が導入され、証券化商品など手持ちの金融資産の市場価格が大幅に下落しても、損失を計上しなくて済むケースが増える。

 米国基準を適用している日本企業も対象になる。金融機関は評価損を圧縮できるため、損益は改善するが、財務内容が不透明になるとの懸念も根強い。

 FASBが決定したのは3月中旬に提案した時価会計の緩和策。主に金融機関が「売買目的」で保有する金融資産の評価額について、市場取引に基づく時価評価でなく、金融機関の独自の見積もりで決められる対象を広げることなどが柱だ。


日本経済新聞 2009-04-02】


「どんなインチキをしてでも企業を守る」というアメリカの意思表示だ。

スーザン・ボイル


Britain’s Got Talent 2009」の動画を飽きもせず何度も繰り返し観ている。それにしても、スーザン・ボイルの鈴の音を思わせる声が素晴らしい。翻訳つきの動画を見つけたので、ミュージカル『レ・ミゼラブル』の元歌と聞き比べてみよう。

公共の空間に土足のままで入り込む携帯電話/『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆


「面倒な本」がある。小難しい言葉、すっきりしない文章、専門用語の濫用(らんよう)――明晰(めいせき)になっていない思考が文章に表れる。難解な文章は知性の敗北であると私は思っている。この際、私の理解力については不問に付しておこう。面倒な本を読んだ後は、やはり小田嶋隆の作品を開いてしまう。小田嶋はミスター明晰だ。駄洒落や下ネタが多いのは確かだが、これほどすっきりした文章を書ける人物はそうそう見当たらない。いつ読んでも、「初めて経験したウォシュレット」みたいな爽快感を覚える。


 私は携帯電話が嫌いだ。もちろん、それ以前に出回ったポケットベルも嫌いだった。あんなものは「犬の鎖」だ。文明の利器は我々を一人にしてくれない。何が何でも社会につなぎ止めようとする。流行に逆らうのが私の流儀だ。であるがゆえに、仕事以外で携帯電話を使用することは滅多にない。そんなわけで、長らく使用しているのはウィルコムのPHSである。何てったって音質がいいし、通話料が安い。


 時折、電車内でこんな会話を耳にすることがある。「今? 電車。ウン、もう直ぐ着くよ。エ? あと5分くらいかな。フフフ、大丈夫よ」――これから会う人物と話しているのだろう。大体の場合、若い女性である。正真正銘の馬鹿だ。多分、電車内で平然と化粧をするようなタイプだ。価値観の中心には自分が据えられている。腰の細いへなちょこ野郎に騙されて結婚するのがオチだろう。何も考えずに母親となり、婆さんとなってゆくに違いない。10秒ほどの間に私の頭脳がそう判断する。携帯電話の普及によって、丸出しの馬鹿がそこここで見られるようになった――


 電話は、元来、非常にプライベートなものだ。というよりも、我々のような狭っ苦しい土地に群れ集まって暮らしている人間たちにとっては、プライバシーと呼べるようなものは、せいぜいが寝室と便所と電話のまわりの少しばかりの空間の中にしか存在していないのだ。

 だから、我々は、「他人の電話に聞き耳を立ててはならない」という暗黙の了解事項を、必死になって守っている。ベッドサイドに置いてある電話であれ、オフィスの机の上の電話であれ、我々は、誰かが電話に向かって話をしている時には、その人間のことをなるべく無視しようと努めるのだ。

 たとえば、妹が階段の下にある電話で長電話をしている時、私は、なるべく階段に近付かないようにする。どうしても階段を通らなければならなくなったら、「もうすぐそっちを通るぞ」という感じの足音を立てながら、駆け抜けるようにして階段を降り切る。

 もちろん、私とて、妹がどんな男とどんな話をしているのかについて、興味がないわけではない。が、私は、市民社会に生きる人間として、その興味を押し殺す。

「ここで盗み聞きなんかをしたら、オレは最低のクズ野郎になってしまう」

 と、そう思って、私は一目散に階段を駆け下りてトイレに駆け込むのだ。

 ともかく、そうやって、我々は、「電話のプライバシー」を守るべく、日夜努力している。だからこそ、我々は、面と向かってはとても言えない恥ずかしいセリフを、受話器に向かってならば、なんとか吐くことができるのであり、そうであるからこそ、恋は生まれ、人々は生きているのである。

 ところが、携帯電話は、その我々の電話プライバシー死守の努力を、いともあっさりと踏みにじる。病院の待合室、駅のプラットホーム、公園のベンチ……そういう、こっちがわざわざ聞き耳を立てるまでもなく、すべての会話が丸聞こえに聞こえてしまう公共の空間に、携帯電話は、唐突に、ぶらりと、土足のままで入り込んでくる。そして、その携帯電話の持ち主は、臆面もなくプライベート通話を始め、周囲の人間たちのパブリックなモラリティーに泥を塗るのである。


【『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆JICC出版局、1993年)】


 狭い居住空間から生まれたモラルを巧みに捉え、卑近な例で具体性を示している。コントラストが凄い。落差が思考の幅を表している。


 確かに携帯電話の会話は妙に生々しい。日本におけるプライバシーとは権利である前に、公(おおやけ)にではできない特殊な私(わたくし)であった。だから公私の立て分けがあやふやになると、「公私混同をするな」と戒められた。


 公衆の面前で下半身を露出すれば犯罪となる。その意味では、携帯通話は犯罪性の高い内容が多い。取り締まってもらいたいもんだね。

仏の顔もサンドバッグ

2009-04-18

呉子


 1冊読了。


 53冊目『呉子』尾崎秀樹〈おざき・ほつき〉訳(中公文庫、2005年)/高価な本だ。わずか120ページ足らずの文庫本が760円もする。ま、それ以上の価値があるのは確か。内容は文句なし。ただ、構成に難あり。書き下し文が最後にまとまっているのだ。これは不親切だ。翻訳文と交互に掲載するのが王道に決まっている。出版社の間抜けぶりは嘲笑に値する。

TAGるメモ


 明らかに記憶力が衰えている。20年以上もニコチンとタールを摂取し、15年以上も日々欠かすことなくアルコールを嗜(たしな)めば当然か。アイディアの枯渇を防ぐために、記憶媒体を用意することを思い立った。つまり、外付けの脳味噌だ(笑)。


 手っ取り早いのはブログでカテゴリ分類(あるいはタグ分類)すればいいのだが、公開するのは恥ずかしい。アイディアとは往々にして中途半端な状態で、ズボンをはいていないお父さんみたいな姿をしている。つまり、「公開先に立たず」というわけだ。


 はてなダイアリーは非公開にできるのだが、別アドレスが必要となるため面倒臭い。そこで、日記ソフトを探したのだが、複数のカテゴリ分けが可能なものが見つからなかった。


 一旦はあきらめたものの、先ほど偶然このソフトを見つけた次第である。

 タグは複数使用できる。完璧だ。


 早速インストールしたところ、既にインストール済みであった。やはり記憶力が衰えている。


 これで、色々なテキストを多数のタグで分類し、つなぎ合わせ、煮詰める作業が可能となった。一日一アイディアを心掛けたい。

脆弱な良心は良心たり得ない/『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一


 組織のあるところには必ず「無責任の構造」が潜んでいる、と著者は説く。確かにそうだ。まず、責任を支えているのは能力である。そして次に正義感だろう。能力はあっても正義感を欠いた人物はおしなべて、“構造的な無責任”に遭遇しても見て見ぬふりを決め込む。真っ当な責任感は、一段高い位置から自分の業務を部分として捉えることができる。


 岡本浩一はJCO臨界事故の調査委員を務めた。事故の経緯に一章が費やされていて、断片的なニュースでは窺い知ることのできなかった貴重な記録となっている。


 このプロセス(※JCOの工程違反)で、「それは危険だ」と声をあげようとしてその勇気がなくてできなかった人や、声をあげたために地位や人間関係で不利益に耐えねばならなかった人たちが、幾人かいたことだろう。彼らが声をあげ、その声が聞かれていれば、あの不幸な事故は起こらなかったに違いない。彼らの圧殺された良心を思うとき、私は刺すような痛みを心に感じる。しかし、それでも酷なことを書くが、圧殺され表明されなかった良心は、究極のところ、存在しなかったのと同じである。

 脆弱な良心は良心たり得ない。


【『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】


「脆弱な良心」とは、思っただけで行動に移せなかった人々が後から口にする言いわけに過ぎない。なぜなら、勇気はいつの場合でも決意を生み、その決意が極まれば必死の行動に結びつくからだ。私はこれを「小さな革命」と名づける。小さな改革のさざ波なくして、偉大なる変革はなし得ない。惰性は「死」を象徴しているのだ。


 あらゆる組織がそれぞれの論理で運営されている。組織は常識や道徳で動いているわけではない。そこに社会とは異質な価値観が必ず存在している。はびこっていると言ってもいいだろう。若者や女性というだけの理由で軽んじられる場面も多い。営業の世界にあっては文字通りの弱肉強食であり、売れない営業マンに人権なんぞないに決まっている。


 組織はヒエラルキー(階級)で構成されている。職権を階層化したものが組織といえなくもない。サラリーマンは人事と給与で首根っこを押さえられている。上司に逆らうようなことがあれば、当然査定に影響する。こうして威勢のよい若者も牙を抜かれ、事なかれ主義の権化と変貌してゆく。


 結局のところ、“正義の実現”と“失業というリスク”を天秤に懸ける営みを強いられる。多くの場合は葛藤を経て、いかなる煮え湯にも耐え得る強靭かつ鈍感な神経を鍛えることとなる。やっぱり、正義感は安定した生活に勝てないってことだな。


 ってことはさ、同じ会社で何十年も働いている人々は、正義感が弱いのかもね。


 本書は好著なんだが、如何せん文章がよくない。まるで、下手糞な翻訳ものを読んでいるような気にさせられる。同語反復も目に余る。特に最終章は読む価値なし。総体的な内容が素晴らしいだけにもったいない。

無責任の構造―モラル・ハザードへの知的戦略 (PHP新書 (141))

「ブリテンズ・ゴット・タレント2009」


47歳独身女性、世界を驚かす=英TV番組で超絶歌唱力披露


【ロンドン】英国のオーディション番組に出た47歳の冴えない感じのスコットランド人女性が、見事な歌いっぷりを披露して世界中にセンセーションを巻き起こした。動画投稿サイト「ユーチューブ」では16日までに、この女性のビデオクリップが1200万回以上も再生され、クリップを見た米女優デミ・ムーアは感動のあまり涙したほど。さっそく録音契約の話が持ち上がっているという。

 この女性はスコットランドのウェストロージアンで慈善事業のボランティアをしているスーザン・ボイルさん。先週、グラスゴーの会場で行われた番組では、歌う前に舞台裏で「『ペブルズ』という名の猫と暮らしているの。結婚したことはないし、キスしたこともないわ。大勢の聴衆の前で歌いたいと思っていたの」と話したボイルさんだが、いざステージに登場すると、その冴えない様子に客席からは忍び笑いが漏れた。

 しかし、英ミュージカル女優エレイン・ペイジのようになるのが夢と語ったボイルさんがミュージカル「レ・ミゼラブル」の「アイ・ドリームド・ア・ドリーム」を歌いだすと、3人の審査員は明らかにショックを受けた表情となり、観客は総立ちになった。審査員のピアース・モーガン氏は「この番組を3年やっているが、疑いなく最大の驚きだ。歌う前はみんながあなたのことを笑っていたが、今はもう誰も笑っていない。すごいことだ」と絶賛。PA通信によると、別の審査員サイモン・カウエル氏は録音契約に向けて動いているという。

 番組が民放テレビのものだったためか、英国ではライバルのテレビ局がボイルさんのことをあまり取り上げなかったのに対し、米国のCNNテレビやサンフランシスコ・クロニクル紙、オーストラリアのヘラルド・サン紙などはこぞって報道。また、映像クリップを見たデミ・ムーアは「涙が出た」とネット上にコメントを寄せた。ボイルさんが歌ったのと同じ歌は英国でシングルのヒットチャート入りをしたそうだ。


【AFP=時事 2009-04-17】

 この親子のアイリッシュ・ダンスには抱腹絶倒――

 こっちのダンスは圧巻。審査員3人もスタンディングオベーション――

 その他の映像はこちら――

 もっと観たい人は、番組公式サイトのトップページ右上の画面から。

2009-04-17

国民的物語「忠臣蔵」に代表される「意地の系譜」と「集団主義」/『男らしさという病? ポップ・カルチャーの新・男性学』熊田一雄


 文化は世代間で継承される。つまり、世代を超えて継承される普遍性があるわけだ。思い切り簡単に言ってしまえば、「老若男女みんなの好きな物語」となる。


「好き」とは「逆らえない状態」である。なぜか心が惹かれる、魅了される、虜(とりこ)になる――何らかの不満・鬱積・抑圧がカタルシスを求めて、かような内面的状況に至るのだろうと私は想像している。


 熊田一雄は、継承される文化としての「忠臣蔵」に注目する――


 それでは、近代日本における覇権的男性性はいかなる種類のものだろうか。関東学院大学の細谷実の研究をヒントに私なりに考えてみた。それは時代に応じて微修正を繰り返しながらも、基本的には「忠臣蔵」という国民的物語(四十七士的男性連帯)に代表される「意地の系譜」と「集団主義」にかたちづくられているといえないだろうか(そしていまでも依然としてある程度まではかたちづくられている)。

 ここで言う忠臣蔵幻想とは、1702(元禄15)年に起こった史実としての赤穂浪士討ち入り事件のことではなく、事件を題材に日本人が300年間にわたって、時代によって微修正を繰り返しながら延々と紡ぎ続けてきた「国民の物語群」総体のことを指す。討ち入り事件発生直後から、江戸の庶民の世論は四十七士をスーパースターとみなした。庶民はこの事件を幕藩体制に対する「叛乱」の物語としてとらえ、世論に配慮した幕府は事件を「忠義」の物語という解釈を与え、両者は吉良上野介スケープゴートとすることで一致し、この時点で四十七士は当時の日本社会の全階級から「男のなかの男たち」と称賛されることになった。


【『男らしさという病? ポップ・カルチャーの新・男性学』熊田一雄〈くまた・かずお〉(風媒社、2005年)以下同】


「覇権的男性性」とは、オーストラリア人の社会学者ボブ・コンネルが提唱した概念で、「覇権的(hegemonic)/従属的(subordinated)/周縁的(marginarized)」という類型のこと。ジャイアン、スネ夫、のび太が見事に当てはまっている。固定されたヒエラルキー――あるいはステレオタイプによる人間関係――を掻き回すトリックスターがドラえもんなのだろう。


「史実としての赤穂浪士討ち入り」と「国民の物語群としての忠臣蔵」という二重性は、「ナチ・ホロコースト」と「ザ・ホロコースト」(ノーマン・G・フィンケルスタイン著『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』三交社、2004年)と響き合う。事実から創出された物語という点において。


 私は少なからずドラマを何度か見ており、大佛次郎〈おさらぎ・じろう〉の『赤穂浪士』も読んでいるが、まったく感情移入することができなかった。道産子特有の淡白さのゆえかと思ったがそうではない。私の目には、浅野内匠頭が短気な男として映った。であるからしてこの物語は、激情に駆られて刃傷沙汰を起こした主君のために、四十七士が犠牲になったというアウトラインとなり、主従関係という封建時代の矛盾を示した物語にしか見えないのだ。


 しかし、私が何をどう主張しようとも、年末になれば「忠臣蔵」がテレビで放映されることだろう。こうした文化そのものに、私は日本人特有の「短慮」を感じてしまう。


 熊田一雄は、「忠臣蔵」という物語に込められたテーマを、「プロジェクトX」に結びつける――


「意地の系譜」と「集団主義」の持続力を見せつけているのが、NHKのテレビ番組「プロジェクトX」(放映は2000年から)の国民的人気である。この番組では、「挑戦者たち」に女性が参加していても、ナレーションは必ずといっていいほど「その時、ひとりの男が立ち上がった」で始まり、男性の私生活(家事・育児・介護)は基本的には切り捨てられている。もちろん、「集団主義」がある程度は後退し、「男女共同参画社会」と少なくとも表面ではうたわれる時代に対応して、時々アリバイ工作程度には男性の私生活に触れることはけっして忘れられていないのだが。そして、「男の意地」を貫き通して、「挫折から最後には再生した」男たちの「男泣き」で締めくくられ、集団主義の男性の連帯が称揚され、中島みゆきの曲『地上の星』が、男たちを力づける「妹の力」(伝統的民俗信仰において兄弟を支える姉妹の霊力)として利用されている。


 こいつあ、お見事。ジェンダー論の切れ味を鮮やかに示している。思想や価値観は、語り手次第でいかようにでも面白くなるという証拠だ。

男らしさという病?―ポップ・カルチャーの新・男性学

「何も見たくない」アラン・パーソンズ・プロジェクト


 アイザック・アシモフの『アイ・ロボット』をモチーフにしたセカンド・アルバム。この名曲に惚れ込んで私はLPレコードを購入した。もう、25年も前のことだ。まるで、日本のニューミュージックのような調べ。取って付けたように、最後の部分だけプログレっぽくなっている(笑)。今聴いても、胸が苦しくなるほどの感動を覚える。


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アイ・ロボット(紙ジャケット仕様)

2009-04-16

横田勇人、門野晴子


 2冊挫折。


 挫折23『パレスチナ紛争史』横田勇人(集英社新書、2004年)/18ページで挫ける。「パレスチナ紛動を巡る報道では、こうした問題は少なくない。内外のメディア、特に日本のマスコミは、パレスチナ自治区に入って民衆の声を現地取材したいわゆる『ルポ』を好んで載せる傾向がある。こうした記事の性格上、パレスチナ側の声だけを取り上げるため、意図しなくともパレスチナ側の言い分に沿った記事になりがちである。(中略)出来る限り偏らぬよう心がけた」(「はじめに」)――この一文が引っ掛かった。新聞記者特有の傲慢な匂いがプンプンしている。まず、「日本のマスコミ」が何を指しているのか示されていない。著者自身がマスコミの人間であるにもかかわらずだ。「『ルポ』を好んで載せる傾向」についても同様で、具体的なデータが挙げられていない。しかも現実には、イスラエル発、アメリカ経由のニュースソースが圧倒的に多いのだ。意図的に隠しているとしか思えない。本書を読了したわけではないので断定は避けたいが、新聞記者による「ルポ否定」とすら勘繰りたくなる。「紛争史」と銘打っておきながら、「偏らぬ」もへったくれもない。事実や歴史を知れば知るほど「偏る」のが当然なのだ。そんなことは、フリーのジャーナリストが書こうが、新聞記者が書こうが、自分の知り得た情報の範囲で判断するに決まっている。それをこの記者は、まるで教科書でも書くような調子で綺麗事を述べている。また、広河隆一著『パレスチナ 新版』(岩波新書、2002年)が本書の2年前に発行されており、広河批判と取れなくもない。個人的には、広河本の方が100倍以上面白かったし、強烈であった。


 挫折24寝たきり婆あ猛語録』門野晴子(講談社、1996年)/実母の「猛語」を集めた作品だが破壊的な面白さがある。著者の冷徹な観察、静かな自戒も大変味わい深い。それでも40ページで挫けた。挫けたというよりは「やめた」というのが適切だ。ある雑誌に門野晴子のインタビューが掲載されていた。威勢のよさと卓見に私は魅了された。で、本書を読むことにした。にもかかわらず挫けた。このモヤモヤ感を言葉にするのは難しい。門野晴子のあけすけな書きっぷりには、妙な生々しさがある。しかもその大半が現実に支えられたものだ。そこに私は、どうしようもない気持ち悪さを感じてしまう。「面白いオバサンだな」と思いながら話を聞いていたところ、腕を上げた拍子に黒々とした腋毛が見えてしまった――そんな感覚だ。もっと軽いタッチで書けば、べらぼうに売れると思う。実に惜しまれる。

歴史とは何か/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘

 物理学的観点からすれば、絶対的な位置も絶対的な時間も存在しない(「空間内に絶対的位置は存在しない」)。ということは、歴史も相対的なものであり、どこに中心軸を置くかで全く別の物語になる。


 現代にあって我々が学校で学ぶ歴史は、いずれも国家によって記述された歴史である。だが13世紀には、イギリスもフランスもドイツもイタリアもスペインも存在していなかったのだ。岡田英弘はこんな簡単な例を示して、歴史に対する固定観念を打ち破ってくれる。


 そして、「歴史の本質」に迫る著者の筆鋒は鋭さを増す――


 歴史とは何か。

 普通、「歴史」と言うと、過去に起こった事柄の記録だと思いがちである。しかし、これは間違いで、歴史は単なる過去の記録ではない。

 歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである。

 ここでは先ず、歴史は人間の住む世界にかかわるものだ、ということが大事である。人間のいないところに、歴史はありえない。「人類の発生以前の地球の歴史」とか、「銀河系が出来るまでの宇宙の歴史」とかいうのは、地球や宇宙を一人の人間になぞらえて、人間ならば歴史に当たるだろうというものを、比喩として「歴史」と呼んでいるだけで、こういうものは歴史ではない。

 歴史が、時間と空間の両方にかかわるものだ、ということは、広い世界のあちこちで、またこちらで、あるいは先に、あるいは後に、いろいろな出来事が起こっている、そうした出来事をまとめて、何かの順番をつけて語るのが歴史であるということであって、これには誰も異論はあるまい。

 ただ、歴史が対象とする時間と空間が、どちらも一個人が直接体験できる範囲を超えた大きさのものであることは、きわめて大事なことである。全く一個人の体験の範囲内にとどまる叙述は、せいぜい日記か体験談であって、とうてい歴史とは呼べない。自叙伝は一種の歴史と見なしてもいいが、それは自叙伝を書く当人が住んでいる、より大きな世界の歴史の一部分を切り取って来たものだからである。

 歴史の対象になる世界は、一個人が到達出来る範囲をはるかに超えた大きなものである。その中のあちらこちらで同時に起こっている出来事を、一人が自分で経験することは不可能だし、自分が生まれる前に起こったことを経験するのは、なおさら不可能である。そういう出来事を知るためには、どうしても自分以外の他人の経験に頼らなければならないわけで、他人の話を聞いたり、他人の書いたものを読んだりすることが、世界を把握し、解釈し、理解する営みの第一歩になるのである。

 ところで、時間と空間では、空間のほうがはるかに扱いやすい。自分の両手のとどく範囲を超える空間は、歩いて測ることが出来るし、遠い所でも何日かかければ、行って帰って来ることも出来る。つまり空間は自分の体で測れる。

 ところが時間のほうは、そうはいかない。時間は、行って帰って来れるようなものではない。その上、時間は、感覚で直接とらえられるものではない。何か運動している物体を見て、その運動した距離に換算して、初めて「時間の長さ」を感じることが出来る。言い換えれば、我々人間には、時間を空間化して、空間の長さに置き換えるしか、時間を測る方法はない。

 それではどうすれば時間の長さを測れるかというと、それには規則正しい周期運動をしている物体を見つけて、その周期を単位にして、時間を同じ「長さ」に区切るのである。(※一日、一月、一年というように)


【『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘(ちくまライブラリー、1992年/ちくま文庫、1998年)】


 凄い文章だ。学問の世界の険しさまで感じさせる。安易な迎合、踏襲に甘んじるところがない。孤高の矜持(きょうじ)が行間に満ちている。


 歴史とは「認識するもの」であった。歴史という地図によって、自分の位置を知ることが可能となる。一人ひとりが過去の歴史をどう解釈するかで、未来の歴史もおのずと変わってくることだろう。そして親から子へ、人から人へと伝えられる何かが文化を形成し、歴史のうねりと化すのだ。


 情報化時代はどこかチマチマしている。些末かつ煩雑な情報が溢れているためだろう。大人物を育てるためには、やはり歴史に学ぶ必要がある。見識といっても史観に尽きると私は思う。

世界史の誕生 (ちくま文庫)

朝日新聞阪神支局襲撃:週刊新潮誤報 編集長「捏造したわけでない」 「被害者」強調


 朝日新聞阪神支局襲撃事件の「実行犯」の手記を掲載した週刊新潮の早川清編集長は15日、毎日新聞の取材に裏付け取材の不足を認めたが、「結果的に誤報だったが、捏造(ねつぞう)したわけではない」と、島村征憲氏のうそに翻弄(ほんろう)された被害者との立場を強調した。インタビューは各社個別とし、記者1人で30分に限定した。

 早川編集長との一問一答は次の通り。


 ――警察に裏付け取材しなかったのは。


 ◆時効になった事件について警察に取材しても、本物か偽物かを答えることはない。最初から除外した。


 ――朝日新聞から手記掲載前に「(手記内容は)事実と異なる」と回答されながら、なぜ掲載したのか。


 ◆朝日の見解が正しいかどこで証明するのか。島村氏が虚偽のことを言っているのか、本当の犯人が秘密の暴露をしているのか、その検証手段を持っていなかった。


 ――取材の不十分さはどこか。


 ◆手記を掲載した大きい理由は実名告白だった。欠落していたのは周辺取材。そこを徹底して取材していれば彼の経歴からほころびが掲載前に出ていたのではないかと思う。


 ――元米国大使館職員と和解した理由は。


 ◆和解の内容は第三者条項で言えない。そのとき、疑念が生じ始めたが、すべて虚偽だとは思わなかった。


 ――小尻記者の遺族に謝罪はしないのか。


 ◆私たちが一番しなければならないことは読者への説明だ。小尻さんのご遺族にはある意味でお騒がせしたというか、不要な摩擦を起こしてしまったことは申し訳ないと思う。


 ――休刊、廃刊、人事処分は検討しないか。


 ◆捏造とは全く次元の違う問題だ。誤報の責任は編集長として感じていて、大変重く受け止めている。新聞でも雑誌でも誤報したら休刊、廃刊しなければならないのかとなる。人事処分は会社や役員会が考えること。


説明責任を果たしてない――朝日新聞社広報部の話


 週刊新潮は、初報掲載後2カ月余りがたち、ようやく誤報を認めました。しかし、弊社に対してはいまだに正式な謝罪はありません。同誌編集部から事前に問い合わせを受け、島村証言には事件の客観的事実と明らかに異なる点が多数あることを回答したにもかかわらず、「告白手記」を連載し、今になって「週刊新潮はこうして騙(だま)された」と被害者であるかのようなおわび記事を掲載する姿勢は疑問です。取材上の問題点の客観的な検証や再発防止策への言及もなく、説明責任を果たしているとは言い難いと考えます。


経緯の検証、不十分――大石泰彦・青山学院大教授(メディア倫理法制)


 週刊新潮が取材経緯を検証した記事は、島村氏にだまされたとし、被害者の立場を強調するのみで、誤報の経緯を十分検証しているとは言えない。そもそもこれだけ重大な事柄を数人の取材班で、有力な物証も見つからないまま、今年1月初めの直接取材から掲載まで1カ月足らずの短い取材で報じたのは余りに拙速すぎたのではないか。

 検証記事からは最初は島村氏に疑問の目を向けながらも徐々にマイナス材料は無視していく様子がわかり、ジャーナリズムの基本である事実確認を忘れてしまったかのようで、手記を掲載するという企画ありきの意識がうかがえる。その姿勢は、朝日新聞が島村氏の証言を否定したことを無視したり、捜査当局への取材をしなかった理由を言及していないことからも分かる。

 島村氏に宿泊施設を提供するなどして囲い込むとともに、他メディアへの取材を受けないよう助言したことは、島村氏が週刊新潮が期待する情報を出すなどの誘導に応じたり、他のメディアによる事実のチェックを鈍らせるなどの危険性に対する認識が低い。

 ただ、積極的なジャーナリズムには、誤報はあり得る。重要なのはその後にどう生かしていくかで、社会で共有するためにできる限り情報開示が求められる。今回も早川編集長は報道各社の個別取材に応じたものの、記者を1人に制限したり写真取材を拒んだと言うが、閉鎖的で組織防衛的な態度は誠実さを欠いていると批判されてもやむを得ない。(談)


【毎日新聞 2009-04-16】

2009-04-15

陸上の為末選手、新潮社に勝訴 記事巡り220万円賠償命令


 陸上男子400メートル障害の為末大選手が週刊新潮の記事や広告で名誉を傷つけられたとして、発行元の新潮社などに計4500万円の損害賠償などを求めた訴訟の判決で、東京地裁(畠山稔裁判長)は15日、広告が名誉棄損に当たると認定し、新潮社側に220万円の支払いを命じた。

 問題になったのは、2008年4月10日号の週刊新潮の「『詐欺の片棒を担いだ』と告訴されるメダリスト『為末大』」との見出しの記事と、電車内の中づり広告など。実際には為末選手は告訴されなかった。

 畠山裁判長は判決理由で、「記事本文は『為末選手の告訴が間違いない』としたものではない」として、内容が真実だったと指摘。一方、広告については「電車の中づり広告などを見た者のすべてが雑誌を読むわけではない。『告訴される』という断定的な広告は真実とはいえない」として、名誉棄損に当たるとした。


日本経済新聞 2009-04-15】

梅原猛


 1冊挫折。


 挫折22『隠された十字架 法隆寺論』梅原猛(新潮社、1972年)/面白そうなんだが、如何せんテーマに興味が湧かない。『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』で紹介されていた一冊。斎藤秀雄は本書からどんなインスピレーションを得たのか気になるところ。110ページで挫ける。

グリーンピースへの寄付金は動物保護のために使われていない/『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人

 目的にも大中小の種類がある。仏教ではこれを「上品(じょうぼん)・中品(ちゅうぼん)・下品(げぼん)」(九品〈くほん〉)と表した。現在使用している上品(じょうひん)・下品(げひん)の語源である。


 私が言いたいことはこうだ――小目的のために大目的が利用されてはいけない。そりゃそうだろう。今日、明日の何かのために人生を棒に振っていいはずがないのだから。


 動物保護運動の大目的は美しい。だが中身はといえば、保護の対象となる動物は意図的に選び抜かれ、自分達の暮らしにマイナスの影響が及ばないものに限定されていた――


 クジラ、アザラシ、象、海亀……。これらの動物に共通しているのは神秘性があり、十分な愛玩性を備えていることだろう。ペットにはできないが、観賞用としては野生動物の中では上位を占める。

 このような動物が有色人種によって無駄に殺され、資源が絶滅に向かっているとのキャンペーンは、欧米諸国で広く深く、そして急速に受け入れられた。そして「この動物を保護するために寄付を」との呼びかけに数百万人が反応した。グリーンピースは、80年代に年間約200億円のカネを集めている。だが、このカネは動物の保護に使われることはなく、組織の拡大と新たなキャンペーンへの経費に充てられた。


【『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人〈うめざき・よしと〉(成山堂書店、1999年)】


 これが連中のやり方だ。誰も反対できない大義名分を掲げておいて、中目的・小目的はやりたい放題。しかも、環境問題・気候変動対策として国家予算が割り振られている現在においては、その気になればいくらでも金を引っ張り込むことが可能だ。


 人間の脳は納得させられると洗脳状態に陥る。自分の概念になかったテーマや問題を突きつけられると、なぜか逆らい難くなる性質を持っている。キャンペーンはお手の物だ。動物が殺される場面の背景に悲しい音楽を流せば、間違いなく人々の同情を集められる。プロパガンダ。


 ノーマン・G・フィンケルスタイン著『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』(三交社、2004年)によれば、ドイツがユダヤ人に対して行った戦後の賠償金の大半が被害者の手に渡らず、ユダヤ人組織が収奪しているという。


 嘘にも大中小がある。大きな嘘は見抜くことが難しい。

動物保護運動の虚像―その源流と真の狙い

2009-04-14

世界大恐慌 ドラッカー19歳/『ドラッカー入門 万人のための帝王学を求めて』上田惇生


 そろそろピーター・F・ドラッカーを読もうと思い立ったのだが、いずれの内容も重量級と察して本書を選んだ。正解だった。上田惇生は、ドラッカー作品の大半の翻訳を手掛け、ドラッカー本人とも親交があったという。やや礼賛が勝ちすぎていて鼻につくがこれは仕方がないだろう。


 ドラッカーは、“マネジメント”という概念を生んだ人物である。私は勝手に、「長谷川慶太郎を10倍くらい偉くした人」程度にしか思っていなかった。違っていた。「私が間違っていました」と100回書こうかと思った。


 ドラッカーは「文明の観察者」であった。彼は徹底して、政治と経済に影響を与え、そして影響を被る“人間”を見つめた。更に理論と体系化の価値を重んじながらも、それらに捉われることがなかった。


 当然といえば当然だったが、港町ハンブルグでの生活に耐えられなくなったドラッカーは、ドイツの金融センター、フランクフルトへ転居し、大学も名門フランクフルト大学に籍を移した。仕事も英語が話せることでアメリカ系の証券会社に転職した。しかも半年ほどして景気上昇を確信する論文を書き経済誌に掲載された。

 ところが、最新の理論モデルとデータを駆使したその論文が出た直後、あの株式大暴落、世界大恐慌が起こった。1929年、ドラッカー19歳のときだった。それ以来、彼は理論による予測とくに数学モデルを使う予測は一切やめた。


【『ドラッカー入門 万人のための帝王学を求めて』上田惇生〈うえだ・あつお〉(ダイヤモンド社、2006年)以下同】


 実に興味深いエピソードだ。19歳という若さが、素早い方向転換を可能にしたのだろう。これが30代、40代であれば、保身に汲々としていたかもしれない。


 理論を支えているのは統計(データ)である。だが、データというものは全て過去の出来事である。つまり、理論は過去に向かって開かれたものなのだ。であるがゆえに、完璧な理論はこの世に存在しない。理論は常に修正を加えられ、またある時には完全に否定される。


 人間の脳は“類比(アナロジー)”せずにはいられない(養老孟司著『カミとヒトの解剖学法蔵館、1992年)。しかしながら、それは固定した性質のものではなく、生涯にわたって進化し続けるものだ。そして“人間を見つめる視点の高さ”によって、理論の抽象度が高まる。


 その後、ドラッカーはナチス・ドイツと袂(たもと)を分かち、10年後に初めての著作となる『「経済人」の終わり』(1939年/岩根忠訳、東洋経済新報社、1958年)を出版。無名の青年が世に問うた作品を、首相になる前のウィンストン・チャーチルが激賞した。首相になるや否や、「イギリスの幹部候補生学校の卒業生全員に配った」。若きドラッカーの主張が、第二次世界大戦に影響を与えたといっても過言ではない。


 著者はこうも記している――


 日本経済を発展させたのは、日本政府ではなく日本企業であり、その日本企業にマネジメントとマーケティングを教えたのがドラッカーであり、品質管理を教えたのがエドワード・デミングであり、生産システムを教えたのがジョセフ・ジュランである。3人ともニューヨーク大学の教授だった。


 私は少年時代を高度経済成長期の中で過ごした。ドラッカーに恩があることを初めて知った。

ドラッカー入門―万人のための帝王学を求めて

2009-04-13

高橋裕史


 1冊挫折。


 挫折21『イエズス会の世界戦略』高橋裕史〈たかはし・ひろふみ〉(講談社選書メチエ、2006年)/52ページで挫ける。面白くなかった。実にもったいないテーマである。フランシスコ・ザビエルの時代(16世紀)からイエズス会には人種差別的要素が強かったことが確認できた。構成が悪いため、物語として描けていない印象を受けた。

失った少年時代を生き生きと蘇らせる/『ゾマーさんのこと』パトリック・ジュースキント


 パトリック・ジュースキントはドイツの作家。名手といってよい。その作品は職人技の冴える一品となっている。傑作『香水 ある人殺しの物語』とは打って変わった小品で、小中学生向けと思われる。佐野洋子が絶賛していたので読んでみた。


 少年時代の起伏に富んだ喜怒哀楽が、物静かなタッチで描かれている。そこにはゾマーさんという不思議な男性が登場する。ゾマーさんは年がら年中、ただひたすら歩いていた。村の誰人とも言葉を交わすこともなく、何かに取り憑かれたように歩いていた。風が吹こうが、雹(ひょう)が降ろうがゾマーさんは歩いた。


 少年時代のやり場のない怒り――誰もが経験したであろう修羅の炎をパトリック・ジュースキントは巧みに描き出す――


 むしろ一つの腹立たしい認識のせいだった。この世はいやしさにみちている。徹底して不正で、邪悪で、卑劣きわまるいやしさずくめ。そして誰もがこのいやしさに関与している。ひとり残らず、全員がそうなんだ。母さんは、ちゃんとした自転車を買ってくれなかったじゃないか。父さんだってそうだ。いつも母さんのいいなりじゃないか。兄さんも姉さんもそうだ。ぼくが立ち乗りしなくてはならないのに、いつもキャンキャン吠えついてくるだけじゃないか。散歩の人たちがそうだ。用もないのに湖水のまわりをぶらついて邪魔をする。作曲家のヘスラーだってそうだ。手のかかる曲で苦しめる。フランケルさんはありもしない罪を言いたてた。嬰ヘ音のキーに鼻汁をくっつけた……とどのつまりが神さまだ。めったにないこと、せめても一度の頼みごとだというのに、押し黙っていて何もしてくれなかったじゃないか。不正な運命にもてあそばれるままにしてたじゃないか。誰もが悪辣だ。悪だくみをしている。こんな世の中に何の意味がある? 何のかかわりがある? こんな世界がどうなると、何てこともないじゃないか。やつらはいやしさのままに胸をつまらせるがいい!


【『ゾマーさんのこと』パトリック・ジュースキント、ジャン=ジャック・サンペ絵/池内紀〈いけうち・おさむ〉訳(文藝春秋、1992年)】


 世界からのけ者にされたような覚えは、誰しも一度や二度は経験したことがあるはずだ。怒りのあまり、子供の心はすべてを破壊してやろうと企て、残酷な空想に耽(ふけ)る。そして、「自分なんかいない方がいいんだ」と奈落の底へ叩き落されるのだ。


 大人になることは、傷つかなくなることであった。そして酸いも甘いも噛み分けているうちに、段々と心が鈍感になってゆく。世界は徐々にコンクリートの壁のような色と化して、精彩を失う。傷つかないということは、戦っていない証拠であった。牙をもぎ取られた大人は、権力者に逆らうことなく従順な人生を淡々と歩んでゆく。


 最後にギョッとさせられる結末が控えている。「エ、どうして?」と誰もが思うに違いない。ここで初めて読者はゾマーさんの正体を考えざるを得なくなる。当初私は「時間」の暗喩かと思ったが、数日を経た今、「文明」なのだろうと考えている。


 時間も文明もひたすら前へ進む。後戻りできない人生を考えさせられる作品である。


付記 2009-04-15


 何と、ゾマーさんは実在したようだ。しかも子供までいた。内容の殆どが事実に基づいているそうだ。

 それでも不思議なことに私の所感は変わらない。書き忘れたが、主人公の少年が木に登ることで未来(あるいは時間)への垂直軸を示し、歩き続けるゾマーさんは水平軸を巧みに表している。著者が過去を振り返る営みは、「木を下りる」行為でもあった。

ゾマーさんのこと

2009-04-12

出羽桜「一路」:日本酒


 山形県出羽桜酒造の「一路」を呑んだ。正確には「出羽桜 純米大吟醸 しぼりたて生原酒 一路」(500ml)と書かれている。麗々しく「IWC 2008 インターナショナル・ワイン・チャレンジ『SAKE』部門 最優秀賞」と書かれた紙がビンの首からぶら下がっている。


 ビックリした。まず花の薫りが鼻腔をくすぐる。一口呑むや否や、フルーティーな味わいが拡がる。後味もスッキリしている。「待てよ、そんなわけないよな」と思いながら、グビグビ呑んでしまう。「あれ、おかしいな」と感じているうちにビンは空になっていた。


 何がおかしいか? 米が果実であることを思い知らされるのだ。いや、米はもちろん果実ではない。だが一路の味わいは、まったく果実と変わりがないのだ。表現する適当な言葉が見当たらない。


 地元山形県でも入手が困難なようだ。呑めば、「それも当然」と得心がゆく。こんな旨い酒はいまだかつて呑んだことがない。

山形県 出羽桜酒造 出羽桜 一路【いちろ】純米大吟醸酒 720ml

マーク・ダグラス


 1冊読了。


 52冊目『ゾーン 「勝つ」相場心理学入門』マーク・ダグラス/世良敬明〈せら・たかあき〉訳(パンローリング、2002年)/洗脳本。憑依本といってもよい。もちろん褒め言葉だ。思想を改造させられる。ここまでくると唯識(ゆいしき)に近い世界だ。たまげた。中上級者向け。尚、トレード手法についてはまったく触れていない。

歴史の中心軸を転回させる/『〈狐〉が選んだ入門書』山村修


〉こと山村修はとにかく文章がいい。多分、敢えて易(やさ)しい言葉を使い、意図的に豊穣なる部分を割愛しているはずだ。このようにして彫琢(ちょうたく)を極める文体が生まれる。


 以下は、岡田英弘著『世界史の誕生』(ちくまライブラリー、1992年)を評した一文――


 歴史を考えるとき、モンゴルのように、それまで周縁的としか思われてこなかったもの、むしろ排除されてきたものを軸として、歴史の見かたをガラリと転回させることができる。『世界史の誕生』を読み、私はそのことに感動するのです。史料の徹底的な探索をもとに、だれも思いもしなかった方向へ歴史イメージをかえてしまう。地道な学問的努力と、史的想像力の切っ先のするどさに心を打たれるのです。


【『〈〉が選んだ入門書』山村修(ちくま新書、2006年)】


 本書で紹介された作品をいくつか読んだが、『世界史の誕生』が一番面白かった。歴史とはパラダイムそのものであり、歴史の中心軸を転回することはそのままパラダイムシフトとなる。


 それにしても、「史的想像力の切っ先のするどさ」という表現がお見事。岡田本を読んだ人なら、誰もが膝を打つはずだ。山村修の言葉はモヤモヤを払拭してくれる。脳内のシナプスが交通整理されたようなスッキリ感を味わえる。


 ただし注意点が一つあって、山村の文章に酔い痴れるあまり、紹介されている本に次々と触手を伸ばすと、「何だよ!」ってなことになりかねない。本の選球眼に関しては私に分(ぶ)がある(笑)。

“狐”が選んだ入門書 (ちくま新書)

2009-04-11

CIA、民間業者によるテロ容疑者尋問を正式に廃止


 ワシントン(CNN) 米中央情報局(CIA)のパネッタ長官はこのほど、テロ容疑者らの尋問を今後民間業者に委託しないとの方針を、議会に正式に伝えた。長官が9日、CIA職員への通達で明らかにした。

 オバマ大統領がテロ容疑者に対する過酷な尋問の禁止を表明したことを受け、パネッタ長官はCIAとして、業者による尋問を廃止する意向を示していた。

 長官は議会への報告の中で、テロ容疑者への尋問は今後、拷問などを禁じている米陸軍の教則の範囲内で実施すると明言。さらに、「不適切な行動や虐待の疑いは容認せず、ただちに報告する」との方針を、あらためて表明した。

 パネッタ長官によると、ブッシュ政権下で国外に設けられていた秘密収容所は、すでに閉鎖されている。長官は「約2カ月前の就任以来、新たに拘束された者はいない」と強調する一方で、「CIAには依然として、個人を短期的に拘束する権限がある」との認識を示した。

 上院情報特別委員会のファインスタイン委員長はパネッタ長官の報告を受け、「民間業者への委託廃止を歓迎する」と述べた。


【CNN 2009-04-10】


 今までは、「拷問していた」ことを白状している。

儲け話の嘘を見抜く〜豊田商事/『プロカウンセラーの聞く技術』東山紘久


営業する人々」に共通するのは、“儲かる匂い”を意図的に発している点だ。儲け話――これこそが資本主義社会の通奏低音なのだろう。私ならたちどころに悟る。「お前は俺以上に儲け、お前の会社はもっと儲かる算段に違いない」と。


 カウンセラーを長年していますと、いつも人の話を聞いているからでしょうか、言葉と事実の区別がつくようになります。「ペーパー商法」で、豊田商事という会社が摘発されたことがありました。社会的に大事件だったのでおぼえておられる方も多いでしょう。

 当時、あの会社から私のところへも電話がかかってきました。私は、電話の向こうの個人的な感情がほとんど感じられない声を聞いていました。数分間の話は、「いま買えば必ず儲かる。早く買わないと損をする」ということのくり返しでした。私は話に間ができた一瞬のタイミングをとらえて、「必ず儲かるのですね」と念を入れました。そのセールスマンは「ハイ、絶対儲かります」と興奮ぎみの声で返答しました。私は「それなら、あなたが買うといいですよ」と言いました。彼は一瞬、私の言ったことの意味をとらえることができませんでした。私は、「絶対に儲かるのでしょう。それならセールスなどしないで、自分が買うのが最適ですよ」とくり返しました。彼は電話を切り、それ以後私のところへ電話がかかってくることはありませんでした。

 絶対儲かる話は、他人には内緒にするものです。絶対儲かるのなら、人には言わずに自分が買う、これは常識です。自分が儲けようとせずに、人に勧めるときはほとんど詐欺です。そうでないならば、利益誘導かインサイダー取引です。


【『プロカウンセラーの聞く技術』東山紘久〈ひがしやま・ひろひさ〉(創元社、2000年)】


 ここでいうカウンセラーというのは、「コミュニケーション能力に長けた」という程度の意味合いだ。つまり、相手の意図を察知する力だ。向こうは“売りつけよう”としている。何のために? もちろん自分の給料のためだ。じゃあ金のためなら何でもできるのか? テレアポや訪問販売を生業(なりわい)とする奴等はもちろんそうだ。その他大勢も。


 金のために倫理や常識――つまり内なる良心の声――を無視した瞬間から、犯罪に加担したも同然だ。彼、あるいは彼女達は、審判が見てなければ平然とラフプレーをしでかすような人生を歩むことになる。


 スパムメールにしてもそうなんだが、これほど拙い手法がまかり通っているのは、やはり騙される人々が存在するためだろう。判断する基準や能力を欠くと、その人は極端にコントロールされやすくなる。かような人物は日常生活においても「断る」ことができない。


 電話営業や訪問販売業者が来て、一々ビビっているような人は危ない。私なんか、待ち構え、迎え撃ち、散々こき下ろすことを趣味としているのだ。悪い奴を懲(こ)らしめるのは楽しい。

プロカウンセラーの聞く技術

信用創造のカラクリ


 我々の社会における「信用」とは何であろうか? 本来であれば人柄が織りなす言葉や行動に対して向けられるべきものだが、実際は違っている。資本主義社会における信用とは、「どれだけのお金を借りることができるか」という一点に収斂(しゅうれん)される。信用=クレジット(credit)。つまり、“与信枠”を意味する。もちろん、ヒエラルキーの構成要素もこれに準じている。


 資本とはお金のことだ。で、お金は銀行にある。資本主義経済において銀行は心臓の役目を担っている。続いて銀行の機能を紹介しよう。


 一言でいえば、「銀行とは、準備預金制度のもとで信用創造を行う業態」のこと。話を単純にすれば、「銀行が日銀に金を預ければ、その1000倍貸し出しても構わないよ」(※「準備預金制度における準備率」〈500億円超〜5,000億円以下〉を参照)という仕組みになっている。上手すぎる話だ。私にも一口乗らせて欲しい。これに関する苫米地英人の名解説が以下――

 すると理論的には以下のようなことも可能となる――


 例えば、銀行は1ドルの資本につき、12ドルの貸付をするかもしれない。なぜこれが可能かと言えば、貸し出された資金は使われるか、再び銀行システムに預けられるのかの、いずれかだからだ。使われた場合、その資金は再び使われるか、再び預けられる。貸し出された資金はすべて預金として戻ってくるため、再び貸し出すことができる。理論的には、1ドルの資本で世界中の貸付金を賄うことも可能だ(実際にこれを試みる人たちもいる)。


【『ギャンブルトレーダー ポーカーで分かる相場と金融の心理学』アーロン・ブラウン/櫻井祐子訳(パンローリング、2008年)】


ギャンブルトレーダー――ポーカーで分かる相場と金融の心理学 (ウィザードブックシリーズ)


 2007年7月27日からマーケットにサブプライムショックが襲い掛かった。そして昨年9月15日に米大手証券会社のリーマン・ブラザーズが破綻し、世界最大の保険会社AIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)が危機に見舞われた。


 一連の出来事を、「週刊スモールトーク」のR.B氏が絶妙な例えで解説している――


 ここで、今回の問題を整理しよう。個々は複雑だが、全体はいたってシンプルだ。身なりのいいセールスマンが、「100円+50円」と書かれた紙切れを売りさばいていた。曰く、

「この証書を100円で購入すると、1年後には150円になりますよ」

「集めたカネで宝くじを買って、それで支払うつもりです」

「大丈夫かって?」

「ご心配無用。保険をかけてありますから」

「宝くじにはずれても、保険会社が払ってくれますよ」


 こうして、セールスマンはこの紙切れを、世界中に売りさばいたが、運悪く? 宝くじははずれてしまった。ところが、あてにしていた保険会社は、額が多すぎて払えないという。金融世界を守る最後の砦が、いとも簡単に崩壊したのである。


【「世界恐慌I ビッグ3ショック」】


 結局のところ、問題の本質は「信用バブル」にあったという鋭い指摘だ。


 色々とネットを調べていたところ、物凄い動画を発見した。私がダラダラと何かを書くより、こちらを見た方が100倍以上も有益だ。タイトルは「Money As Debt」(負債としてのお金)。メディアが絶対に指摘しない資本主義システムの欺瞞が暴かれている。→Money As Debt

2009-04-10

中丸美繪、パトリック・ジュースキント


 1冊挫折、1冊読了。


 挫折20『杉村春子 女優として、女として』中丸美繪(文藝春秋、2003年)/『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』が傑作であっただけに、本書に物足りなさを感じてしまうのは仕方がないのかもしれぬ。アクセントが欠けていて冗長。取材時間に比例しているのだろうが、それにしても幼少期や出生にまつわる記述が長すぎる。76ページで挫ける。


 51冊目『ゾマーさんのことパトリック・ジュースキント池内紀訳(文藝春秋、1992年)/『香水 ある人殺しの物語』とは毛色の異なる小品。幼い頃の葛藤を生き生きと描き、ゾマーさんという不思議な人物が登場する。ゾマーさんは「過ぎ去った時間」の暗喩か。実は、佐野洋子が絶賛していたので読んでみた。個人的には『香水』の方が好み。ドイツ本国ではクリスマスプレゼントとして売れに売れた模様。

「ギター弾き」BORO


 好きな歌だ。BOROの最高傑作『罪』に収められたナンバー。


D


ほくろ除去で苦情47件、過去10年 国民生活センター調べ


 国民生活センターは9日、エステティックサロンやクリームなどを使った自己処理によるほくろの除去で、やけどを負うなどのトラブルが過去10年に47件あったと発表した。

 同センターは「エステ店で医師資格のない人がレーザー施術などをすることは医師法に違反の恐れがある」として、業界団体に改善を要望した。

 東京都の50代の女性は2008年9月、「オゾンを数回浴びることでほくろが消える」と聞いてエステ店で施術を受けたが、強い痛みを感じ、2日ほどで皮膚が化膿(かのう)した。静岡県の20代の女性は同年1月、レーザー施術を受け、ほくろ以外の部分がやけどのようになった。


日本経済新聞 2009-04-09】

脳の血行障害、女性ホルモンが予防 理研が発見


 動物のメスの体には脳の血行障害を予防する仕組みが備わっていることを、理化学研究所のチームがマウスで見つけた。老化などで脳の血管が縮む異常に見舞われても、女性ホルモンが血管を広げて血流量が減らないようにしていた。脳の血行を促し、記憶障害の治療薬につながる可能性があるという。米科学誌の電子版「プロスワン」に10日、掲載される。

 神経伝達物質にかかわる遺伝子が壊れ、脳の血管が縮みやすくなったマウスのオスでは血流量が2−3割も減るのに、メスは正常だった。研究チームは卵巣が出す女性ホルモン「エストロゲン」に注目。血行障害のオスに女性ホルモンを埋め込むと、血管が広がり、血流の減少を食い止めるという。


日本経済新聞 2009-04-10】

「One Way」NAO


 出だしのMicroとのコーラスが素晴らしい。リラックスした滑らかな動きもグッド。

One Way

2009-04-09

『がんばれば、幸せになれるよ 小児ガンと闘った9歳の息子が遺した言葉』山崎敏子(小学館文庫、2007年)


 品切れとなっていたが、増刷された模様。

がんばれば、幸せになれるよ―小児がんと闘った9歳の息子が遺した言葉 (小学館文庫 や 6-1)


 小児がんのなかで、10万人にひとりといわれるユーイング肉腫を5歳で発病、その後5度の再発、4度の手術を経て、9年という短い生涯を閉じた山崎直也くん。病床にあっても両親や弟への思いやりを忘れず、つらい治療や苦痛に耐え、“生きること”を決してあきらめなかった。明るく懸命に生き抜いた直也くんが遺した言葉の数々を、母・敏子さんが綴った壮絶な闘病記。日本テレビ系『24時間テレビ30「愛は地球を救う」』スペシャルドラマ原作。

桜満開


 自宅のベランダから桜の木が見下ろせる。この界隈は標高200メートルとあって、開花が遅いのだ。非常に贅沢な景色である。本日、携帯にて撮影。


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諸君は永久に生きられるかのように生きている/『人生の短さについて』セネカ

 セネカの言葉は辛辣だ。そして、警句の余韻に満ちていて毒がある。そう。毒をもって毒を制するのだ。毒が変じて薬となるが如し。


 セネカは我々の人生をあげつらう――


 諸君は永久に生きられるかのように生きている。諸君の弱さが諸君の念頭に浮ぶことは決してない。すでにどれほどの時間が過ぎ去っているかに諸君は注意しない。満ち溢れる湯水でも使うように諸君は時間を浪費している。ところがその間に、諸君が誰かか何かに与えている一日は、諸君の最後の日になるかもしれないのだ。諸君は今にも死ぬかのようにすべてを恐怖するが、いつまでも死なないかのようにすべてを熱望する。(※「人生の短さについて」)


【『人生の短さについて』セネカ/茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳(岩波文庫、1980年)以下同】


 ウーム、頭が痛い。私は知らないうちに45歳となっていた。川を流れる一枚の木の葉のように時を過ごしてしまった。何ということだ、既に川の中流を過ぎているではないか。セネカは、「明日はないものと思え」「今日を精一杯生きよ」と教えてくれる。


 更に毒のパワーは増す。消費期限切れの食肉もかなわない――


 誓って言うが、諸君の人生は、たとえ1000年以上続いたとしても、きわめて短いものに縮められるだろう。諸君の悪習に食いつくされない時代は、一時代もないであろう。実際この人生の期間は、本来流れ去っていくものであっても、理性によって延ばすことはできるが、しかし速やかに諸君を見捨ててしまうことは必至である。なぜならば諸君はこれを掴(つか)まえもせず、引き止めもせず、万物のうちで最大の速度をもつ時の流れを遅らせようともしないかわりに、それを無用なもののごとく、また再び得られるもののごとくに、過ぎ去るに任せているからである。


 私のおでこに「無為」というスタンプを捺(お)されたも同然だ。だがそれだけではない。セネカの言葉は時間の本質を考えさせる。そう。「過ぎてしまえば一瞬に過ぎない」ことを。この相対的な概念を絶対と信じ込んでいるところに我々の不幸があるのだ。


「人生とは、不定の執行猶予のついた死刑囚のようなものである」とユゴーは書いた(『死刑囚最後の日』岩波文庫、1950年)。万人が生まれた瞬間から死を目指して生きる。そうであるにもかかわらず我々は、死を敬遠し忌避し、見ないように努めている。無為なる人生の根本的原因がここにある。


 先日、私の後輩が亡くなった。まだ33歳という若さだった。癌が発見された時点で既に転移していた。「余命2ヶ月」という宣告をものともせず、彼は2年以上生き続けた。結果的に癌が彼の命を奪った。だが彼の顔は死して尚、勝利を誇っているように見えた。抑えることのできない微笑が浮かんでいたのだ。私の耳には自分の漏らした嗚咽(おえつ)が聞こえた。


 後輩の人生の充実を思えば、彼の人生が短いものだとは到底思えない。彼は人生を十全に生き抜いた。そして「光の存在」となったのだ。

人生の短さについて 他二篇 (ワイド版 岩波文庫) 生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

(※左が茂手木元蔵訳、右が大西英文訳)

ロジャーズ氏、中国は20年後に米抜き最大の経済国に


 香港経済日報が7日までに伝えたところによると、米著名投資家のジム・ロジャーズ氏はこのほど、中国は20−30年後に米国を抜き、世界最大の経済大国となるとの見方を改めて強調した。

 ロジャーズ氏は中国に関する自著『A Bull in China』の中で、ポテンシャルを秘めた中国企業株を紹介し、中海石油化学、中国食品、中国海洋石油(CNOOC)、中国石油化工(シノペックコーポ)、王朝ワイン、神華能源、超大現代農業、安徽高速道路、嘉里建設、中国石油天然気(ペトロチャイナ)、大唐国際発電、雨潤食品、匯源果汁の13社を具体名として挙げている。


【サーチナニュース 2009-04-07】

ソロス氏:この4週間の米株高は「弱気相場の一時的反発」にすぎず


 昨年、他のヘッジファンド・マネジャーが軒並み損失を被ったなか利益を上げた資産家ジョージ・ソロス氏(78)は6日、米景気収縮が依然続いていることからみて、過去4週間の米株上昇は強気相場の始まりを意味していないとの見解を示した。

 ソロス氏はブルームバーグテレビジョンとのインタビューで、株価のこのところの反発について「われわれはまだ経済を立ち直らせていないので、ベアマーケット・ラリー(弱気相場の一時的反発)だ」と分析した上で、「現在の金融危機は私たちがこれまで経験したものとは異なる」と述べた。

 米S&P500種株価指数は、米リセッション(景気後退)が最悪期を脱したとの楽観的見方が強まり、3月9日以来24%上げている。しかしソロス氏は、米景気縮小は続いており恐慌に陥るリスクもあると指摘した。

 ただ、同氏は「われわれが多国間で、かつ多少なりとも協調した形で対応する限り、乗り越えられると思う」と語った。

 米国株は6日、政府の銀行支援策が予想ほどの効果をもたらさないのではないかとの懸念や貸倒損失の水準が大恐慌時を上回るとの観測から5営業日ぶりに下落。ソロス氏は、銀行が「生命維持装置」を付けた状態にあり、金融システムは「かなりの水面下」に沈んでいると述べた。


【ブルームバーグ 2009-04-07】

ザ・ホロコーストの神聖化/『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン

 著者のノーマン・G・フィンケルスタインは、ホロコースト産業によって後々捏造(ねつぞう)された歴史を「ザ・ホロコースト」と呼び、実際に起こった歴史的事実を「ナチ・ホロコースト」と表現し、厳密に区別している。


 第二次世界大戦の余韻が残っていた時期、ナチ・ホロコーストはユダヤ人だけの事件とは考えられていなかったし、ましてや歴史に唯一無二の事件という役割をあたえられてなどいなかった。組織的アメリカ・ユダヤはむしろこれを普遍的な文脈に位置づけることに腐心していた。ところが六月戦争後、ナチの最終的解決の枠組みに過激な変化が起こった。ジェイコブ・ネウスナーは当時を振り返り、「1967年戦争以後に登場し、アメリカのユダヤ思想を象徴するものとなった主張がいくつかあるうちで、最初の、そしてもっとも重要なもの」は、「ホロコーストは……人類史上に比べるもののない唯一無二のもの」という主張だった、と述べている。また歴史家デイヴィッド・スタナードはその啓発的な論文で、「ホロコースト聖人伝作家の小規模産業が、神学的熱狂の精力と創意を総動員して、ユダヤ人の経験は唯一無二のものだと言い張っていた」と嘲笑している。要するに、唯一無二のものという教義は意味をなさないのである。

 根本的に言えば、あらゆる歴史的事件はどれも唯一無二であって、少なくとも時間と場所はすべて違っている。またすべての歴史的事件には、他の事件とは違う固有の特徴もあれば共通する点もある。ザ・ホロコーストの異様さは、その唯一性を無条件で決定的なものとしていることだ。無条件の唯一性を持った歴史的事件などあるだろうか。概してザ・ホロコーストについては、この事件を他のできごととまったく違う範疇に位置づけるために、固有の特徴ばかりが取り上げられている。しかし、他の事件と共通する多くの特徴が些末なものと認識されなければならない理由は、決して明らかにされない。


【『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン/立木勝訳(三交社、2004年)】


「ナチ・ホロコーストはユダヤ人だけの事件とは考えられていなかった」というのは極めて重要な指摘である。ただし、これは今後も様々な人の手で検証する必要がある。著者の指摘通りであれば、「ナチスによる大量虐殺」が「ナチスによる“ユダヤ人”大量虐殺」と書き換えられたことになる。


 ホロコースト産業は、唯一無二という絶対性を脚色し、被害を誇大にしてみせた。国際的な関心が寄せられれば、当然金も集めやすくなる。まして、国家予算から引き出すことができれば、疑念を抱く人々も出てこない。大衆は自分の財布にしか興味を持たないものだ。


「絶対」という言葉を連発するのは小学生である。それも3年生くらいか。私の記憶によれば、指切りげんまんをしなくなった頃から、「絶対」を使うようになったはずだ。これは、概念や抽象化が不確かなためだろう。言葉の定義すら曖昧なため、「絶対性」に固執するのだ。


 一方、信仰者も「絶対」を濫用(らんよう)する。「神のご加護と裁きは絶対です」――ヘエ、そうかい。じゃあ、ルワンダのクリスチャンが大量虐殺されていた時、神様は昼寝でもしたのか?(レヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記晋遊舎、2006年)


 いずれにせよ、科学的根拠や論理的整合性を欠いた「絶対」ほど危険なものはない。世界中の原理主義という原理主義を支えているのは「絶対性」なのだから。

ホロコースト産業―同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち

2009-04-08

仏生会(ぶっしょうえ)


 今日は釈尊が生誕したとされる日。Hに三好春樹著『老人介護 じいさん・ばあさんの愛しかた』を、SにはMicroの『Yukiyanagi 雪柳 〜We’re watching you〜』を進呈。私の思いが上手く伝わればいいのだが。


 朝一番で浅川の河川敷に枇杷(びわ)の木を3本植える。埋め立ての土がよくないので根づかないかも知れぬ。たとえ育ったとしても、実がなるのは10年後か。

岡本浩一


 1冊読了。


 50冊目『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一(PHP新書、2001年)/面白かった。『服従の心理』(スタンレー・ミルグラム著)の入門篇としても読める。冒頭で東海村JCO臨界事故が紹介されている。著者は科学技術庁からの依頼を受けて事故調査委員会を務めた。一読するとわかるが、かなり頭のいい人である。理路整然としていて澱(よど)みがなく、説明能力が抜きん出ている。ただし、細かい部分になると神経質すぎて異論を挟みたくなる箇所もいくつかあった。最大の難点は最終章の「『無責任の構造』克服の戦略」で、これは完全な蛇足となっている。それまでが見事な展開となっているだけに失速感が否めない。でもまあ、凄いよ。組織に巣食う「無責任の構造」を心理学的アプローチから見事に解明している。オススメ。

デモ死男性、警官が暴行 G20、英紙がビデオ公表


【ロンドン】英紙ガーディアン(電子版)は7日、20カ国・地域(G20)の首脳会合(金融サミット)に対する抗議デモが繰り広げられたロンドンの金融街シティーで1日に死亡した男性が、直前に警官から暴行を受け、地面に倒れる場面を映したビデオを公表した。

 男性は心臓まひで死亡し、これまで病死の可能性が高いと報じられてきたが、同紙の報道を受けて、警察苦情処理独立委員会が真相解明に乗り出した。

 同紙によると、死亡した新聞販売員のイアン・トムリンソンさん(47)は、仕事帰りに英中央銀行近くを通り、デモには加わっていなかった。ビデオは、よろめきながら歩くトムリンソンさんを警官が背後から警棒で殴り、突き飛ばす様子をとらえている。現場に居合わせた金融関係者が偶然撮影したという。

 ロンドン警視庁はこれまで、トムリンソンさんはデモ参加者で、警察の医師と救急隊員が救命活動に当たったと発表していた。独立委員会は「ほかにも目撃証言が複数あり、急死との因果関係を立証する」としている。

 1日のデモでは、約5000人が英中央銀行を取り囲んで警官と小競り合いとなり、32人が逮捕された。


東京新聞 2009-04-08夕刊】


D

ツボは神経の交差点/『一目でわかる! 必ず見つかる! ホントのツボがちゃんと押せる本』加藤雅俊


 身内に障害者がおり、何かの役に立てばと思って読んでみた。私自身は生まれてからこのかた、ただの一度も肩凝りを経験したことがない。マッサージとも無縁で、床屋で肩を揉まれるのもくすぐったくて苦手だ。


 結論から言おう。少しは役に立った。肩凝りなどの不快な症状がある人にはもちろん有益だ。この本が親切なのは、骨の透過イラストが挿入されているため、わかりにくいとされるツボの場所を特定しやすいこと。上手い工夫だと思う。


 何よりも重要なのは、ツボは神経の交差点であり、多くは骨のキワに存在するということ。なぜなら、人間にとって大切な神経の多くは、骨に守られるようにして体内を走っているからです。つまり、ツボは体の表面ではなく、奥にあるのです。


【『一目でわかる! 必ず見つかる! ホントのツボがちゃんと押せる本』加藤雅俊(高橋書店、2008年)】


 つまり、ツボを揉む場合は「骨のキワ」にぐいっと指を押し込む必要があるということだ。ツボが刺激されると、鈍い痛みのような感覚を覚える。ズキーンとくる場所があれば、そこがツボなのだ。


 一つだけ難点があり、項目が症状別となっているためツボの重複が目立つ。探しやすいことは確かだが、三つも四つも同じ写真を掲載するのはどうかと思う。でもまあ、1000円以下の本だから許そう。


 そして大切なのは、ツボ刺激だけに頼ろうとするのではなく、適度な運動と、ストレッチや体操などもしっかりと行うことだ。その前に普段から、「姿勢を正す」ことも必要だろう。


一目でわかる! 必ず見つかる! ホントのツボがちゃんと押せる本

世論は当てにならない/『雍正帝(ようせいてい) 中国の独裁君主』宮崎市定


 雍正帝は清朝の第5代皇帝。在位が1722〜1735年というから、日本の享保年間に当たる。清朝満州族が立てた王朝で、1644年から1912年までの長きにわたって中国を支配した。


 雍正帝は特殊な独裁システムを構築した。信用できなければ、兄弟であろうと容赦なく切り捨てた。その一方で自分自身に激務を課した。一日の睡眠時間は4時間であったという。そして、民を思いやる皇帝でもあった。容易に捉えられないところに、この人物の魅力がある。


 彼は権力を我が身に集中させながら、その務めを限界まで果たそうと奮闘した。それは、一身の栄誉栄達を目指したものではなく、国家を磐石にするためであった。その意味では、独裁というよりもむしろ純粋な中央(=皇帝)集権主義とすべきなのかも知れない。


 宮崎市定の文章には気骨を感じさせるものがある。高い見識が独特の語り口で綴られている。


 世論(=輿論)に関する興味深い記述があった――


 康熙帝(こうきてい)は寛仁大度の君主というので評判がよかった。しかし世の中の評判などというものは実際はあてにならない。輿論は結局有力者の輿論に過ぎないで、世の中には輿論の埒外におかれてどん底に喘いでいる窮民の方が多いのだ。朝から晩まで寸時も休息なく働かなければ食ってゆけない農民には、輿論をつくる余裕なんぞない。輿論というものは知識階級から出た政治家が、政治をほったらかして、酒を飲みながら詩文に興ずるあい間あい間に発散する貴族的な香気にすぎないのだ。


【『雍正帝(ようせいてい) 中国の独裁君主』宮崎市定〈みやざき・いちさだ〉(岩波新書、1950年/中公文庫、1996年)】


 民主主義となった我々の社会では世論が重んじられる。民主主義の目指すところが多数決であるならば、それでもよかろう。しかしながら、そうであってはいつしか衆愚という落とし穴が待ち受けているに違いない。


 特に昨今はメディア情報に翻弄されやすい傾向にある。鬱積の溜まった国民は、わかりやすい論調や勇ましい話に飛びつきやすい。テレビは我々に沈思黙考させない。我々は知らず知らずのうちに、感情の条件反射によって物事の判断を強いられる。


 宮崎市定の指摘は現代に向けられたものと思えてならない。格差などという軽い言葉は統計的な意味合いしか持たないだろう。生活するために呻吟(しんぎん)している人々が政治を論じるとは到底思えない。


 また、政治に過度な期待を寄せるのも危うい姿勢だ。政治というものは、所詮枠組をつくるものであって、運用する人々次第でよくもなれば悪くもなるからだ。もしも完璧な政治体制というものがあったとすれば、これほど不気味なものもあるまい。

雍正帝―中国の独裁君主 (中公文庫)

2009-04-07

アーロン・ブラウン、アーサー・ケストラー、今村仁司、上田惇生


 3冊挫折、1冊読了。


 挫折17『ギャンブルトレーダー ポーカーで分かる相場と金融の心理学』アーロン・ブラウン/櫻井祐子訳(パンローリング、2008年)/350ページで挫ける。あと150ページを残して。ポーカーの記述が長過ぎる。内容がいいだけに惜しまれる。もっと手軽な抄録版にすべきだと思う。著者はモルガン・スタンレーの常務取締役。ビジネスマンでこれだけの文章が書けるのが凄い。やはり役者が違う。


 挫折18『ホロン革命』アーサー・ケストラー/田中三彦、吉岡佳子訳(工作舎、1983年)/難し過ぎる。もう少し鍛えてから読み直す予定。10ページも読んでいない。


 挫折19『交易する人間(ホモ・コムニカンス) 贈与と交換の人間学今村仁司講談社選書メチエ、2000年)/こっちはもっと文章が難解。好きなテーマなんだが、どうしようもない。読み直す自信もあまりない。


 49冊目『ドラッカー入門 万人のための帝王学を求めて』上田惇生〈うえだ・あつお〉(ダイヤモンド社、2006年)/ドラッカーの多くの作品を訳してきた人物による礼賛本。本書が発行された直後にドラッカーが亡くなっている。文章はあまりよくないが、ドラッカーの人となり・著作の流れがよく理解できる。「マネジメントの父」と言われていたことは知っていたが、これほどの人物とは思わなかった。

空間内に絶対的位置は存在しない/『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』スティーヴン・ホーキング

    • 空間内に絶対的位置は存在しない

 スティーヴン・ホーキングが書いた一般向けの最先端宇宙論。思ったよりも、わかりやすい。そして、神に対する揶揄(やゆ)がそこここに散りばめられている。


 アリストテレスが葬られた。『プリンキピア(自然哲学の数学的原理)』という書物によって。犯人はニュートンだった――


 静止の絶対的基準が存在しないことは、違う時刻に起きた二つのできごとが、空間の同じ位置で起きたのかどうか決定できないことを意味する。たとえば、列車上でピンポン玉がまっすぐ上にはねかえって、テーブルの同じ場所に1秒のへだたりを置いて2回ぶつかったと考えよう。線路上にいる人にとってみれば、この2回の衝突はほぼ40メートル離れた場所で起きている。というのは、玉が2回ぶつかる間に列車がその距離だけ動いているからである。アリストテレスは一つ一つのできごとに空間内で絶対的な位置を与えることができると信じていたが、絶対的静止が存在しないことは、それが不可能であることを意味する。できごとの位置とできごとの間の距離は、列車上の人と線路上の人とでは異なっており、一方の見方を他方の見方よりも優先させる理由はないのである。


【『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』スティーヴン・ホーキング/林一〈はやし・はじめ〉訳(早川書房、1989年)】


 絶妙な例えだ。もし宇宙人が観測すれば地球は時速1700kmほどで自転しながら、更に時速11万kmで公転していることになる(「月探査情報ステーション」による)。もっと凄いのは、銀河系の外側にいる宇宙人から見れば、太陽系ですら約2億2600万年かけて銀河系を一周しているのだ(Wikipediaによる)。ピンポン玉が認識できるとすればの話ではあるが。


 アリストテレス自然学はトマス・アクィナスによってキリスト教に結びつけられた(13世紀)。そして教会に受け入れられ、数百年にわたって科学の進歩を妨げてきた(チャールズ・サイフェ著『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』早川書房、2003年)。ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えて異端審問(宗教裁判)にかけられたのも、アリストテレス学派と対立したためだった。


 ニュートン力学が絶対的位置という概念にとどめを刺した。そして今度はニュートンがアインシュタインに襲われる。相対性理論は絶対時間を排除してしまった。光速に近づけば近づくほど、観測者から見れば時間はゆっくりと流れる。


 結局のところ科学の進歩というのは、「どの位置からピンポン玉を観測するか」という問題と同じ意味を持つことがわかる。


 多分、人生も一緒なのだろう。E=mc2乗という式が示唆しているのは、“人生の質量”であり、“思想の質量”なのだろう。そして、空間内には絶対的位置がなかったとしても、思想・哲学の座標軸は必要であるというのが私の考えだ。

ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで (ハヤカワ文庫NF)

(※左が単行本、右が文庫本)

電通:特別損失408億円 3月期最終、赤字の可能性


 電通は6日、09年1〜3月期に有価証券評価損として連結ベースで408億8300万円の特別損失を計上すると発表した。このうち377億円が同社が15%を出資する仏広告会社「ピュブリシス」の株式評価損。4〜12月期に計上した他の有価証券評価損を加え、特別損失は通期で510億円に膨らむ見通し。09年3月期業績への影響について、同社は「集計中」としているが、最終損益の従来予想は110億円の黒字のため、特別損失計上によって最終赤字に転落する可能性もある。

 電通は1901年の創業時期をのぞき、業績が赤字になったことはない。


【毎日新聞 2009-04-07】

2009-04-06

枕には4万匹のダニがいる/『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン

 科学史を俯瞰した作品。700ページほどある大冊だが、小ネタを交えてぐいぐい読ませる。例えばこう――


 実際問題として、これについては悪い面ばかりとは限らない。ベッドのマットレスに微小な壁蝨(だに)が推定200万匹棲みついているとわかっていたら、夜もおちおち眠れなくなるだろうからだ。壁蝨は真夜中になると姿を現わし、皮脂を食べ、人がまどろんたり寝返りを打ったりするあいだにはがれ落ちるさくさくのおいしい皮膚のかけらを堪能する。枕だけでも、4万匹の壁蝨が棲みついている(壁蝨にとっては、人間の頭部は単なる大きな油っこいボンボン菓子にすぎない)。そして、枕カバーを洗うくらいで事態が変わると思ったら大間違いだ。ベッドの壁蝨くらい小さな生物にとっては、どれほど目の詰まった布地でも、船の帆綱のように見える。壁蝨の測定をした英国医療昆虫学センターのジョン・マウンダー博士の言葉を引用すると、実際のところ、枕を買ってから6年――枕の平均耐用年数と考えられる期間――経過した場合、その重さの10分の1は「はがれた皮膚、生きている壁蝨、死んだ壁蝨、壁蝨の糞」で構成されていると考えられる(しかし、少なくともそれは自分の壁蝨だ。モーテルのベッドにもぐりこむ際には、自分が何に寄り添っているのかを思い起こしてほしい)。これらの壁蝨は、太古の昔から人間のそばにいたが、発見されたのは1965年のことだ。


【『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン/楡井浩一〈にれい・こういち〉訳(NHK出版、2006年)】


「ダニとの共生」――あまり嬉しくなるような話ではない。枕を販売している人にとっては大いに有益な情報だ。「奥さん、買い換えるなら今ですよ」(笑)。


 建物の密閉性が高くなってからというもの、ダニは増える一方でアレルギーの原因となっている。とすると、ダニどもと上手に共生してゆくためには、もっと通気性のよい建築構造にした方がいいのだろう。ひょっとすると、ダニは密閉された居住空間が人間にとって不健康であることを教えてくれているのかも知れない。人類が誕生して以来の付き合いなんだから、今頃になって別れるわけにもゆくまい。


 そういえば、小学校の時分に悪さばかりしていたため、担任の先生から「お前達は社会のダニだ!」と怒鳴られたことがあった。「愚連隊だ!」とも。思わず辞書で調べたものだ。私は学級代表という要職にあった。そのため先頭に立って悪さをしたものだ(笑)。


 尚、蛇足ではあるが、ダニを漢字表記にする訳者の感覚はいただけない。

人類が知っていることすべての短い歴史(上) (新潮文庫) 人類が知っていることすべての短い歴史(下) (新潮文庫)

2009-04-05

ドーマル、加藤雅俊


 1冊挫折、1冊読了。


 挫折16『類推の山』ドーマル/巖谷國士〈いわや・くにお〉訳(白水社、1978年)/一昔前の左翼みたいな小難しさを感じた。澁澤龍彦が偏愛した作品らしいが、私は元々澁澤龍彦にすら興味がないのだ。


 48冊目『一目でわかる! 必ず見つかる! ホントのツボがちゃんと押せる本』加藤雅俊(高橋書店、2008年)/身内に障害者がいるので、何か役に立つかなと思った次第。私自身は生まれてよりこのかた、ただの一度も肩凝りの経験がない。床屋のマッサージですら、くすぐったくて我慢できないほど。それゆえ、マッサージとも無縁である。セルフ・マッサージの入門編といった内容。骨の透過イラストが挿入されているので、ツボの場所が実にわかりやすい。難点は、項目が症状別となっているため、重複しているツボが多いところ。でも、まあ1000円しないのだから許せる範囲だ。花粉症や生理痛に効くツボなんてのまで載ってて驚いた。

年をとると個性が煮つまる/『老人介護 じいさん・ばあさんの愛しかた』三好春樹


 三好春樹のエッセイはハズレがない。介護に興味がなくても十分楽しめる。介護従事者であればユーモラスな文章の合い間から深い見識を汲(く)み取ることができる。


 老い先が短くなってくると、外面(そとづら)をよくする必要はなくなる。好かれようが嫌われようが関係ない。恨みを残せば化けて出てやる――とまでは言わないが、極端な頑迷ぶりを発揮する老人は確かに存在する。


 人間が丸くなるどころか、人格が完成するどころか、年をとると個性が煮つまるのだ。真面目な人はますます真面目に、頑固はますます頑固に、そしてスケベはますますスケベに。

 私は自分の中に抱いていた勝手な老人像を打ち壊されたが、なぜかホッとしていた。人間、最後にこんなに個性的になるのなら、若いうちから個性的に生きていけばいいじゃないか、そう思ったのだ。


【『老人介護 じいさん・ばあさんの愛しかた』三好春樹(法研、1998年、『じいさん・ばあさんの愛しかた “介護の職人”があかす老いを輝かせる生活術』改題/新潮文庫、2007年)】


 年寄りの現実に狼狽しながらも、前向きに捉えるところが三好春樹の特長だ。読者も単純に、「そうだよなー、ジタバタしたところでみんな最後は死ぬんだもんなー」と明るく受け止めることができる。


 他人と同じように生きたところで何の面白味もない。一生懸命バランスを取りながら平均台の上を歩くよりも、時にしがみついたり、落っこちたりしながら、好きな人生を歩んだ方が楽しいに決まっている。若者であれば、平均台をタテにしたりヨコにしたりするくらいの元気があってしかるべきだ。


 私がもし二十歳(はたち)であれば、間違いなく平均台を叩き壊そうとするだろう。

じいさん・ばあさんの愛しかた―“介護の職人”があかす老いを輝かせる生活術 老人介護じいさん・ばあさんの愛しかた (新潮文庫 み 37-2)

(※左が単行本、右が文庫本)

9.11テロは物質文明の幻想を破壊した/『パレスチナ 新版』広河隆一


 先進国という立場にあぐらをかき、欧米発信のニュースや情報を鵜呑みにする我々の背骨に、鞭(むち)を入れるような一冊だ。パレスチナ人がなぜ自爆テロをせざるを得なくなったのか、が理解できる。それ以上に、我々が世界の現状をわかっていないことを思い知らされる。


 旧版は1987年に刊行されており、その後イスラエルは激しく揺れた。フォト・ジャーナリストである広河隆一は、虐げられる人々と同じ大地に立って、歴史を観察し記録する。文章に熱い思いが込められているのは、第三者(彼と私という関係)と第二者(あなたと私という関係)の間を揺れているためだ。広河は静かにパレスチナ人に寄り添う。その営みは死を覚悟しなければできないものだ。


 著者は、新版の冒頭でこう記している――


 2001年9月11日に崩れ落ちた巨大なビルは、未来がその本性を現したと感じた人も多かっただろう。心臓を掴まれたようなこの不安感はどこから来るのだろうかと、私も何度も自問した。それはテロリストや、彼らをかくまう者を爆撃して殲滅することで済むものではない。このとき私たちの世界は、もっと深い何ものかの虜囚になったのだ。

 それはこれから人間はどこに行くのかという問題と絡み合っている。事件後イスラエルに飛んで、占領下のパレスチナを歩き回った。そのあとアフガニスタンに行き、難民キャンプで考えた。

 私たちがどこに向かっているのか知るためには、どこに立っているのか知らなければならないのは当然だ。そして今歩いている道がどこにつながっているのか知らなければならない。しかし私たちは、フロントガラスが泥だらけで全く前が見えないのに、運転を続けているようなものなのだ。ワイパーがないのだ。そうした役割を果たしてきた歴史家も、哲学者も思想家も役割を放棄している。革命家もいなくなってしまった。

 そしてどのような未来が人間を幸せにするのか、教える人間は存在しなくなってしまった。

 かつては預言者たちが、そして後には社会主義者たちが未来を指し示した。この方向に歩めば平和や平等や幸福があると。しかし社会主義の転落によって、羅針盤もなくなった。そしてその役割は、資本主義と物質文明がとって代わった。


【『パレスチナ 新版』広河隆一(岩波新書、2002年)以下同】


 この文章で私は一気に引き込まれた。9.11テロを国防やセキュリティの次元で論じる人は掃いて捨てるほどいる。少し頭を働かせればわかることだが、9.11テロによって最も得をしたのはアメリカ国防省に決まっている。セキュリティ会社も利益にありついたことだろう。これは日本においても同様で、北朝鮮がテポドンを発射すれば、防衛省の予算は増え、世論は右側に傾く。そして街中(まちなか)では至るところに監視カメラが設置されるという寸法だ。


 文明論から9.11テロを論じる著者の視点は高い。そしてこう続ける――


 私はベルリンの壁崩壊のとき、現地にいた。あのとき壁が崩壊したのは、決して東側の人々の自由を求める動きではなかった。テレビに映し出される西側の物質の氾濫、きらびやかなショーウィンドウが、壁を壊したのだ。それは社会主義が未来の幸福を保証できなく、代わりに資本主義による物質の氾濫が豊かさと幸福の象徴になった瞬間だった。

 その象徴が、世界に君臨するアメリカと、ツインタワーだった。それが一日で瓦解した。崩壊の喪失感はこうしたことに根ざしていたと思う。

 犯行に及んだ者たちは、こうした物質文明が人間の幸福をもたらすという思想に対し、真っ向から対立するイスラムの「原理主義者」だったのである。

 こうして世界がこのまま発展し続けるという幻想が崩れた。今日の続きが明日であるという確信さえ、幻想であることを思い知らされることになった。西側先進国が動揺したのは、3000人余の死者のせいではない。資本主義が幸福をもたらすという指針が脅威にさらされ、消失しかけているという気持からだったのではないだろうか。


「物の豊かさ」が社会主義を崩壊させ、今度はその「物の豊かさ」が崩壊の憂き目にあっているというのだ。


 確かにそうだ。国家対国家であれば、どうしたって大国が有利である。だが、国家対民族、あるいは国家対個人となった場合、国家に勝ち目はなくなる。なぜなら、個人のテロ行為を国家が事前に防ぐことはできないからだ。


 帝国主義は形を変えて厳然と存在する。大国は国際ルールを自由に書き換え、自分達に有利なゲームを展開するのだ(梅崎義人著『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い成山堂書店、1999年)。エネルギーや食料・水には限りがある。世界全体が豊かになることなどあり得ない。つまり“先進国”というのは、200人で7つか8つの椅子を奪い合うゲームであり、ゲームであるにもかかわらず指定席となってしまっているのだ。


 で、椅子に座れない連中は指をくわえて黙っているのかというとそうではない。殆どの国が椅子の下敷きになっているのだ。本書は、その呻(うめ)き声をすくい取って、我々の耳に届けてくれる。


 私の率直な感想を一言でいおう。「四の五の言わず黙って読め。先を争って読め」――以上だ。

パレスチナ新版 (岩波新書)

2009-04-04

『ハイファに戻って/太陽の男たち』ガッサーン・カナファーニー/黒田寿郎、奴田原睦明訳(河出書房新社)


 1978年に河出書房新社から発行された『現代アラブ小説集 7』(新装版は1988年)が復刊された(2009年2月)。


ハイファに戻って/太陽の男たち


 パレスチナの終わることなき悲劇にむきあうための原点。20年ぶりに再会した親子の中にパレスチナ/イスラエルの苦悩を凝縮させた「ハイファに戻って」、密入国を試みる難民たちのおそるべき末路に時代の運命を象徴させた「太陽の男たち」など、パレスチナ抵抗運動の中心で闘い自動車爆弾によって夭折した作家がのこした、世界文学史上に不滅の光を放つ名作群、待望の復刊。

スティーヴン・ホーキング、宮崎市定


 2冊読了。


 46冊目『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』スティーヴン・ホーキング/林一訳(早川書房、1989年)/難解かと思っていたが、実にわかりやすく面白い内容だった。世界最高峰の知性はさすがに説明能力が違う。こんなに茶目っ気のある人だとは知らなかった。「神」に関する記述は、そのいずれもが創造神に対する辛辣な批判となっている。


 47冊目『雍正帝(ようせいてい) 中国の独裁君主』宮崎市定(中公文庫、1996年)/宮崎市定の文章は気骨を感じさせる。明治人であることがその理由か。雍正帝は1722年、清朝の第5代皇帝に即位。政治手法が進化する過程で独裁制を避けて通ることはできない。そして独裁君主といっても人によって様々なのだ。雍正帝は独裁体制を堅固なものとしつつ、自らも勤勉に働いた。一日の睡眠時間は4時間であったという。悪しき官僚体制を正し、信賞必罰を明らかにした。この時代に搾取とは無縁な政治指導者がいたという事実に驚かされた。

危機管理能力の欠如露呈=麻生政権に痛手−ミサイル誤発表


 政府が北朝鮮のミサイル発射を誤って発表したことは、次期衆院選に向け反転攻勢を狙う麻生内閣にとって大きな痛手となった。国民の信頼が失墜するのは間違いなく、危機管理能力をアピールすることで政権浮揚を目指していた麻生太郎首相の思惑は大きく外れた。

 「今、誰が悪いとか言っている場合ではない」。首相は4日夕、河村建夫官房長官から誤発表に関する経緯の報告を受け、5日以降、確実な情報伝達に努めるよう指示した。

 首相が誤発表と知ったのは、記者団が待ち構える首相官邸に到着する直前のことだった。首相が間違った情報に基づいて北朝鮮を非難していれば、完全な「勇み足」になっていただけに、政府筋は「危機一髪だった」と胸をなで下ろした。

 周辺によると、表向きの表情とは裏腹に首相は不機嫌な様子で、官邸から公邸に戻る際、「情報伝達に不備はなかったのか」と記者団から問われたが、押し黙ったままだった。

 政府は今回、北朝鮮のミサイル発射に備えて万全の態勢を敷いた。特に、国民に発射情報や国内落下の有無などをいかに早く伝えるかに重きを置き、詳細な初動マニュアルを用意。予行演習も繰り返した。

 それだけに、河村長官は「われわれは直接関知していないので、(誤発表か)判断のしようがない。防衛省側もこういうことがないように十分注意はするだろう」と、「責任」は防衛省にあると強調した。

 自民党からも「大失態。内閣支持率に影響する」(幹部)、「緊張感が足りない。大きな責任問題に発展する」(閣僚経験者)などと厳しい声が上がっており、今後の政権運営に影を落とす可能性もある。

 ただ、防衛省では「萎縮(いしゅく)すると必要以上に慎重になる。情報の処理が遅れることが心配だ」(幹部)と、今回のミスが「本番」での初動の遅れにつながることへの懸念もくすぶる。

 一方、情報伝達をめぐる不手際は、ミサイル発射後の対北朝鮮包囲網構築を目指す外交戦略にも影響を与えそうだ。国連安保理での制裁決議に慎重な中国では、新華社通信が日本政府の誤発表を速報。外務省幹部の1人は「中国やロシアは日本のインテリジェンスはこの程度だと思う。北朝鮮は(日本政府のミサイル発射の発表を)『日本の謀略だ』と主張するに違いない」と指摘した。


【時事通信 2009-04-04】


 官僚システムが自民党を切り捨てようとしているのだろうか? はたまた、システムが既に崩壊しているということなのか? ま、いずれにせよ、誤りを認めたのはよかった。そうでなければ、好きな時に戦争を始められることになってしまう。重要なのは、既にアメリカが北朝鮮に歩み寄っており、日米安保が事実上機能していないことだ。

死の瞬間に脳は永遠を体験する/『スピリチュアリズム』苫米地英人


「死んだ後はどうなるのか?」――古(いにしえ)より議論されている大きなテーマである。果たして死後の生命はあるのかないのか。あるとすれば形状が問われ、ないとすれば倫理が崩壊する。


 ところが、だ。苫米地英人は「死ぬ瞬間」に着目する。これは斬新な視点だ――


 二つのことを事実として説明すればわかりやすいと思いますが、まずひとつはドーパミンをはじめとするありとあらゆる脳内伝達物質が、脳が壊れるときに大量に放出されます。ですからまず、気持ちが良い。脳幹の中心の中脳のところ、VTA領域からいくつかの経路が伸びていて、脳幹の中のドーパミン細胞からドーパミンが大量に出ます。要するに、臨死体験のときは超大量の脳内伝達物質が出て、凄く気持ちが良い体感をする。同時にありとあらゆる幻視・幻聴・幻覚が起こります。

 もうひとつは、時間が無限に長くなっていきます。時間感覚が変わっていくわけです。たとえば走馬灯のように自分の人生の歴史を見るとか言いますが、それはあたりまえのことで、脳内の神経細胞が壊れるにあたってとてつもない脳内伝達物質が放出されますから、最後の最後に脳が超活性化されるのではないかと思います。線香花火の最後の一瞬のようなものです。すると、たくさんの記憶を同時に見る。脳は元々超並列的な計算機なのです。我々の脳はふだん生きているときは凄くシリアルに(ひとつずつ順を追って)認識しますが、つまり、ひとつのことを認識しているときは他を認識できません。それが臨死体験のときは、同時に全部認識するわけです。走馬灯のように一生を経験するというのは、一生をシリアルに経験しているのではなく、短い間に一生の体験を全部同時に認識するわけです。内省的には一生を全部ゆっくり体験したかのように感じています。時間の感覚がどんどん変わっていくからです。生という状態から限りなく死に近づいていく、死という接点に向かって永遠に近づき続ける接線のようなものです。死んでいく人にとって、体感としての時間はとてつもなく長くなっていきますから、もしかすると死は永遠にやってきてないかもしれません。


【『スピリチュアリズム』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(にんげん出版、2007年)】


 つまり、大量のドーパミンによって極限まで活性化された脳が、コンピュータのように超並列で動き出すということ。ご存じのように、パソコンというのは複数のアプリケーションやシステムが同時に目まぐるしく動いている。これと同じ働きが脳で起こるというのだ。


 脳内ではニューロンが猛烈なスピードで信号を放つ。そして、思考(無意識も含めて)のスピードは光速に等しくなる(アダム・ファウアー著『数学的にありえない文藝春秋、2006年)。


 この時、観測者(=遺族)から見れば、死者の動きは完全に止まって見える。なぜなら、「光は年をとらない」からだ(ブライアン・グリーン著『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する草思社、2001年)。


「もしかすると死は永遠にやってきてないかもしれません」――これは、人が死ぬ瞬間に光と化すことを示している。


 この指摘は凄い。時間と永遠というテーマは、宇宙の起源や宗教と密接に関わっている。そして歴史の奥底を貫く概念でもある。死の瞬間に向かって永遠(無限)が立ち現れるという発想は、ちゃぶ台を引っ繰り返すほどのパラダイムシフトと言ってよい。

スピリチュアリズム

2009-04-03

文章中の「(ママ)」とは


 質問が寄せられたので、こちらに書いておこう。時折、文章中に現れる「(ママ)」とは「そのまま」という意味である。つまり、「原文に忠実に“誤り”まで写してますよ」ってな具合である。私の場合は、前の方で漢字を使用しているのに、後の方でひらがなになっている箇所にも表記している。「漢字・ひらがな表記に一貫性がないのは私の責任じゃござんせんよ」という意思表明なのだ。ご理解願いたい。

数の概念/『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ

「数を数える」営みが突然意識に立ち現れてくるテキスト――


 オオカミの骨は石器時代のスーパーコンピューターだった。ゴッグの先祖は2まで数えることすらできず、ゼロなど要らなかった。数学が生まれたときには、一つとたくさんを区別することしかできなかった。原始人は槍の穂先を一つもっているか、たくさんもっているかのどちらかだった。つぶしたトカゲを1匹食べたか、たくさん食べたかかのどちらかだった。一つとたくさん以外の数を表現するすべはなかった。やがて原始言語が発達して、一つ、二つ、たくさんを区別するようになり、ついには、一つ、二つ、三つ、たくさんを区別するようになったが、それより大きな数を指す言葉はなかった。今なお、このような欠陥を抱えている言語がある。ボリビアのシリオナ・インディオとブラジルのヤノアマ族は、3より大きな数を表す言葉をもっていない。その代わり、「たくさん」という意味の言葉を使う。

 数というものの性質のおかげで――数を足し合わせて、新たな数をつくりだすことができる――数体系は3で止まってしまうことはない。しばらくして、賢い人が数詞を並べて、新たな数をつくりはじめた。今日ブラジルのバカイリ族とボロロ族が用いている言語では、まさにこのように数がつくられている。この人々の数詞体系は、「1」、「2」、「2と1」、「2と2」、「2と2と1」というようになっている。2をひとかたまりにして数を数えるのだ。数学者はこれを二進法と呼ぶ。


【『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ/林大訳(早川書房、2003年)】


 非常に考えさせられる文章だ。“概念”は多様化し複雑化する。これを進化というのだろう。現代では十進法が基本だが、時計は十二進法、デジタルは二進法と複数の概念を使用している。なんて器用なんだ。


 我々にピンと来る単位は国家予算の「兆」くらいまでだろう。日常で「京(けい)」以上の単位を使うことはない(それ以上は「日本の単位接頭語」を参照されよ)。


 ところが、科学の世界では天文学的数字が取り扱われる。例えば、素粒子の寿命は長短様々で、電子は「6.4×10の24乗」年以上で、タウ粒子は「290×10の-15乗」秒となっている(「高エネルギー加速器研究機構」による)。


 数の概念が多様化されると、人間の幸不幸も多様化されることだろう。あるいは複雑化か。膨大な数字のはざ間で我々は、幸福も不幸も感じ取れなくなっているような気がする。というよりも、平均からの乖離(かいり)という数学的概念でしか幸不幸を判断できなくなったところに、現代社会の不幸がある。マネーという得点で勝ち組・負け組に峻別されてしまう。


 結局のところ、「数の概念」は多量になっただけで、豊かになってはいないのだろう。これは使う側の問題だ。数に罪はない。

異端の数ゼロ―数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 異端の数ゼロ――数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-04-02

4月から負担増、ヒドくなる庶民生活


高齢者、母子家庭、弱者切り捨て


 バラマキ定額給付金や燃油サーチャージ値下げで、「海外旅行だ」「給付金セールだ」と消費意欲が高まっているかのような報道が目立つ。しかし、浮かれるあまりムダ遣いするのは禁物だ。お年寄りなどを中心に、4月から“負担増メニュー”がズラリだからだ。

 全国で「また老人イジメか!」と大ブーイングなのが、後期高齢者医療制度の月額保険料一部負担増。75歳以上で年金収入が年80万超〜168万円以下の場合、均等割り軽減が85%から70%になって負担増となる。これまでの年6000円強ほどの負担から、1万2600円程度にまで倍増する見込みだ。

 また、65歳以上の介護保険料が月平均4090円から4270円程度となり、年2160円ほどの増額。国民年金保険料は月250円アップし、年間にして3000円の負担増である。

「母子家庭も大変です。15歳以下の子供がいる家庭に支給されていた生活保護母子加算が、4月から廃止されます。06年には東京23区で月2万3000円だった支給額が、昨年は7800円に減り、今年はついにゼロ。働きたくても不況で仕事が見つかりません」(母子家庭の40代主婦)

 多くの電力会社は電気代を下げるが、中部・九州電力は値上げ。ガス代も東京や大阪ではアップだ。経済ジャーナリストの荻原博子氏が言う。

「3月決算時期で株価が値上がりしていますが、4月以降は市場は一段と冷え込むでしょう。春闘はベアゼロや賃下げが相次ぎ、多くの家庭では家計が厳しくなると予想されます。パーッと使いたい気持ちも分かるが、油断してはいけません」

 今の状況下、定額給付金でパーッとなんてサラリーマンは、まあいないだろうけど。


日刊ゲンダイ 2009-03-30

超一流の価値観は常識を飛び越える/『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪

 父・斎藤秀三郎は“勉強の鬼”だった。学生時代にはジェイムス・メイン・ディクソン(※後に夏目漱石を教えた)に師事して、学校の英書はすべて読み尽くした。それどころか、『大英百科字典』を二度も読んだという。もはや、学問が格闘技の領域に達している。


 それは、正則英語学校を創設した後も変わらなかった。超一流の人物の価値観(優先順位)は常識を軽々と飛び越える。勉強が一切のことに優先された――


 秀三郎は分秒を惜しんで仕事をした。便所の中にすら見台が備えつけられ、百科辞典が置かれていた。自分には7人の子があるから、その結婚式のために一生の間に7日間だけ勉強時間を犠牲にせねばならないといっていたほどであり、家族と共に食事をすることすらなくなっていた。


【『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪〈なかまる・よしえ〉(新潮社、1996年)】


 人間にはたくさんの立場がある。その中で何を重んじ、優先するかでその人の「使命」が決まる。使命とは“命を使う”と書く。所詮、何に“命を使った”かで人生は決まる。


 例えば池田高校野球部の元監督・蔦文也(つた・ふみや/故人)は、練習試合を優先して4人の子供の結婚式の全てを欠席した


“何かを犠牲にする”というのではあるまい。多分、一つの仕事に集中するあまり、他のものが目に入らなくなるのだろう。何となくわかるような気がする。


 いかなる道であろうとも、その道に生き切った人生は崇高で眩(まぶ)しい。

嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯 嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯 (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-04-01

ナイフで切り裂いたような足の裏/『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア

 戦争はいつだって男達が始め、女と子供が被害者となる。シエラレオネの内戦で家族と離れ離れになった少年達は逃げ惑う。靴を奪われ、裸足でアフリカの大地を歩き続ける――


 熱い砂の上を、夕暮れまで歩いた。あの日ほど、一日の終わりが待ち遠しかったことはない。日が沈めば痛みも治まると思った。ところが、熱が引くとともに、感覚の麻痺も消えていく。足をもち上げるたびに血管が締まって、血のにじむ足の裏に砂粒が食いこむのを感じた。それからの数キロはひどく長かったので、とうてい歩ききれないと思った。汗が流れ、痛みで身体がぶるぶる震えた。ようやく、砂地にぽつんとある小屋に行き当たった。だれひとり口がきけなかった。みんなでなかに入り、炉端の丸太に腰をおろした。ぼくの目には涙があふれていたけれど、泣けなかった。喉がかわききって、声が出せないのだ。ぼくは周囲を見回し、旅の道連れたちの顔を見た。彼らもやはり、声を出さずに泣いている。おそるおそる、自分の足の裏をのぞきこんだ。赤剥(む)けた肉が垂れさがり、血の塊(かたまり)と砂粒が、ぶらさがった皮という皮にへばりついている。まるで、だれかが本当にナイフを使って、ぼくの足の裏の肉を、かかとからつま先にかけて切り裂いたようだった。


【『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア/忠平美幸訳(河出書房新社、2008年)以下同】


 戦争は子供達をここまで追い詰める。いかなる大義や正義があろうとも、戦争は無辜(むこ)の人々を苦しめる。戦争をコントロールする人物から見れば、殺す者も殺される者も使い捨ての駒のようなものだ。他国民を虫けらのように殺害し、自国民を兵士として犠牲にする罪を考えると、「戦争を始めた者」は死刑に処されてしかるべきだろう。


 2〜3時間が過ぎてから、サイドゥはとても深い声で、まるでだれかが乗り移ったみたいに、こう言ったのだ。「あと何回ぐらい死を受け入れれば、安全な場所が見つかるんだろう?」


 壮絶な諦観(ていかん)は「地獄の中の悟り」であった。そして彼等は、“生きるために少年兵”となり、今度は他人を殺す側に回るのだ。憎悪の連鎖。憎しみはスパイラルを描いて、更なる地獄を目指す。

戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった