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2009-04-19

公共の空間に土足のままで入り込む携帯電話/『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆


「面倒な本」がある。小難しい言葉、すっきりしない文章、専門用語の濫用(らんよう)――明晰(めいせき)になっていない思考が文章に表れる。難解な文章は知性の敗北であると私は思っている。この際、私の理解力については不問に付しておこう。面倒な本を読んだ後は、やはり小田嶋隆の作品を開いてしまう。小田嶋はミスター明晰だ。駄洒落や下ネタが多いのは確かだが、これほどすっきりした文章を書ける人物はそうそう見当たらない。いつ読んでも、「初めて経験したウォシュレット」みたいな爽快感を覚える。


 私は携帯電話が嫌いだ。もちろん、それ以前に出回ったポケットベルも嫌いだった。あんなものは「犬の鎖」だ。文明の利器は我々を一人にしてくれない。何が何でも社会につなぎ止めようとする。流行に逆らうのが私の流儀だ。であるがゆえに、仕事以外で携帯電話を使用することは滅多にない。そんなわけで、長らく使用しているのはウィルコムのPHSである。何てったって音質がいいし、通話料が安い。


 時折、電車内でこんな会話を耳にすることがある。「今? 電車。ウン、もう直ぐ着くよ。エ? あと5分くらいかな。フフフ、大丈夫よ」――これから会う人物と話しているのだろう。大体の場合、若い女性である。正真正銘の馬鹿だ。多分、電車内で平然と化粧をするようなタイプだ。価値観の中心には自分が据えられている。腰の細いへなちょこ野郎に騙されて結婚するのがオチだろう。何も考えずに母親となり、婆さんとなってゆくに違いない。10秒ほどの間に私の頭脳がそう判断する。携帯電話の普及によって、丸出しの馬鹿がそこここで見られるようになった――


 電話は、元来、非常にプライベートなものだ。というよりも、我々のような狭っ苦しい土地に群れ集まって暮らしている人間たちにとっては、プライバシーと呼べるようなものは、せいぜいが寝室と便所と電話のまわりの少しばかりの空間の中にしか存在していないのだ。

 だから、我々は、「他人の電話に聞き耳を立ててはならない」という暗黙の了解事項を、必死になって守っている。ベッドサイドに置いてある電話であれ、オフィスの机の上の電話であれ、我々は、誰かが電話に向かって話をしている時には、その人間のことをなるべく無視しようと努めるのだ。

 たとえば、妹が階段の下にある電話で長電話をしている時、私は、なるべく階段に近付かないようにする。どうしても階段を通らなければならなくなったら、「もうすぐそっちを通るぞ」という感じの足音を立てながら、駆け抜けるようにして階段を降り切る。

 もちろん、私とて、妹がどんな男とどんな話をしているのかについて、興味がないわけではない。が、私は、市民社会に生きる人間として、その興味を押し殺す。

「ここで盗み聞きなんかをしたら、オレは最低のクズ野郎になってしまう」

 と、そう思って、私は一目散に階段を駆け下りてトイレに駆け込むのだ。

 ともかく、そうやって、我々は、「電話のプライバシー」を守るべく、日夜努力している。だからこそ、我々は、面と向かってはとても言えない恥ずかしいセリフを、受話器に向かってならば、なんとか吐くことができるのであり、そうであるからこそ、恋は生まれ、人々は生きているのである。

 ところが、携帯電話は、その我々の電話プライバシー死守の努力を、いともあっさりと踏みにじる。病院の待合室、駅のプラットホーム、公園のベンチ……そういう、こっちがわざわざ聞き耳を立てるまでもなく、すべての会話が丸聞こえに聞こえてしまう公共の空間に、携帯電話は、唐突に、ぶらりと、土足のままで入り込んでくる。そして、その携帯電話の持ち主は、臆面もなくプライベート通話を始め、周囲の人間たちのパブリックなモラリティーに泥を塗るのである。


【『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆JICC出版局、1993年)】


 狭い居住空間から生まれたモラルを巧みに捉え、卑近な例で具体性を示している。コントラストが凄い。落差が思考の幅を表している。


 確かに携帯電話の会話は妙に生々しい。日本におけるプライバシーとは権利である前に、公(おおやけ)にではできない特殊な私(わたくし)であった。だから公私の立て分けがあやふやになると、「公私混同をするな」と戒められた。


 公衆の面前で下半身を露出すれば犯罪となる。その意味では、携帯通話は犯罪性の高い内容が多い。取り締まってもらいたいもんだね。

仏の顔もサンドバッグ

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