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2009-05-31

大恐慌が第二次世界大戦を惹き起こした/『「1929年大恐慌」の謎 経済学の大家たちは、なぜ解明できなかったのか』関岡正弘


 確かな視点で1929年のアメリカ発大恐慌の原因を解こうとした労作。硬質な教科書本。本書は元々、ダイヤモンド社から1989年に刊行されたもの。PHPが復刊させた。大英断。文庫ではなくハードカバーにしたのも正解だ。末永く読まれるべき作品である。


 初版はバブルの絶頂期に発行され、その3ヶ月後に日経平均は天井をつけ、奈落の底に叩き落された。まさに、「バブル崩壊を予言した一書」といえよう。これほどの人物が日本にいたとは驚き。


 1929年の大恐慌は第二次世界大戦の導火線となった――


 大恐慌は大不況につながった。そして世界経済は、重大な影響を受けた。第二次大戦は、大不況がもたらした世界経済のひずみによって惹き起こされたのだ。

 第二次大戦後、GATTやIMFなど、国際貿易の発展を保証するインスティチュート(制度・機関)が創られたのは、記憶にまだ生々しかった大不況への対策だったのである。半面それは、経済に対する政治の干渉であった。しかし生身の経済を政治が押さえ込むことはむずかしい。GATTやIMFは、次第にその限界を露呈し、政治から完全に独立したユーロダラー・マネー(米国外で取引される米ドル建資金のこと)市場が自然に発生して、大発展した。

 ユーロダラー・マネーは、国家の束縛を離れた民間の自由なマネーである。今やそれは、巨大なアミーバーのごとき怪物に成長し、自らをグローバル・マネーなどと称するに至っている。そして、より一層の自由を求めて、日本にも自由化の拡大を迫っている。


【『「1929年大恐慌」の謎 経済学の大家たちは、なぜ解明できなかったのか』関岡正弘(PHP研究所、2009年/ダイヤモンド社、1989年『大恐慌の謎の経済学 カジノ社会が崩壊する日』改題)】


 2007年8月から、サブプライムローン問題によって世界中のマーケットは下落の一途を辿っている。最近は若干戻しているように見えるが、底というものは打った後でなければわからない。日経平均は1989年12月29日に3万8957円をつけた後、ずっと下がり続けている。


 バブル崩壊後、日本国内に投資すべき対象はなくなっていた。数百兆円の預貯金はじっとしているわけにいかず、海外へと動いた。そして、日本から流出したお金が欧米のバブル経済を支えた。また、長らくゼロ金利政策をとったため、外国人は円キャリートレードをするだけで利益を生むことが可能となった。


 グローバリゼーションの成れの果てがこのザマだ。このまま「100年に一度の事態」となることがあれば、いくつかの国が戦争の道を選ぶことは十分考えられる。可能性としては、イスラエルvsパレスチナを表向きとした、アメリカvsイラン戦争か。


 関岡正弘は、今までの大恐慌分析が“富の蓄積”への考察を欠いていたと鋭く指摘している。また、時価総額なるものが想像上の産物であり、決して実現されることのない価値であると言い切っている。卓見。


 金融マーケットで行き交うマネーは、レバレッジを利かしているため膨大な量となっている。手持ちの金の10倍、100倍といったレートで行うギャンブルのような世界だ。アメリカは金融工学と称して、世界中からマネーが集まる賭場を開帳したのだ。


「私には関係ない」と思っている人も多いことだろう。だが、関係は大有りだ。我々の預貯金や保険金だってマーケットに流れているのだから。


 ま、アメリカはそれほど馬鹿じゃないから何とかすることとは思うが、舵取りを誤ると資本主義というシステムが吹き飛ぶこともあり得る。使わないお金があるなら、預金よりも金現物の方が安全だと思う。

「1929年大恐慌」の謎

「国会議員に頼まれた」厚労省元部長が供述…郵便不正


 郵便不正を巡り、厚生労働省係長が自称障害者団体「凛(りん)の会」(解散)に対し偽の証明書類を作成したとされる事件で、係長の上司だった元障害保健福祉部長(57)(退職)が大阪地検特捜部の任意聴取に、「2004年2月頃、国会議員から凛の会への対応を電話で頼まれた」という趣旨の供述をしていることがわかった。

 凛の会元会長・倉沢邦夫被告(73)(郵便法違反容疑で再逮捕)はこの議員の元秘書で、その頃、省内で元部長に面会したことを認める供述をしているという。

 この議員はこれまでの読売新聞の取材に対し、「凛の会は知らない。口利きした事実は全くない」と全面的に否定している。

 関係者によると、元部長は04年2月頃、議員から電話を受け、凛の会について依頼された。その後、倉沢被告は厚労省を訪れ、元部長だけでなく当時の課長(53)(現局長)らに会い、「議員事務所から来た」などと言って証明書の発行を求めたとされる。


【読売新聞 2009-05-31】

 で、旧ネットワーク議連の民主党議員が事情聴取され、小沢の第一秘書の公判が始まれば、メディアは挙(こぞ)って民主党批判に傾くことだろう。話してもいないことを「供述した」と報道される可能性すらある。そして国民は、メディアが吹いた笛に合わせて踊らされるのだ。

Win高速化 XP+


 確かに速くなった。設定変更が容易で、初心者にもわかりやすい。

Dan Osman


 伝説のロッククライマー。ノーロープだってさ。バンジージャンプで1998年に死亡した。


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2009-05-30

視覚は高尚な感覚/『ゲーテ格言集』ゲーテ


 5月11日に父が倒れた。そして、22日に逝ってしまった。短気な性分だったので長く入院することを嫌ったのかもしれない。


 父が倒れたのは脳幹出血によるもので、直後に意識不明となった。数日後、左手・両足などに不随意運動が見られたが、意識が戻ることはなかった。不思議なことに、亡くなる前日突然目が開いた。多分、後頭部にある視覚野が機能し始めたのだろう。家族も皆、手を叩いて喜んたのも束の間、翌日旅立った。


 それにしても何だったのだろう? 意識がないままだったので、通常の認識はできていないと思われる。きっと最後の力を振り絞って、光を求めたのだろう。


 視覚は最も高尚な感覚である。他の四つの感覚は接触の器官を通じてのみわれわれに教える。即ちわれわれは接触によって聞き、味わい、かぎ、触れるのである。視覚はしかし無限に高い位置にあり、物質以上に純化され、精神の能力に近づいている。(「格言と反省」から)


【『ゲーテ格言集』ゲーテ/高橋健二編訳(新潮文庫、1952年)】


 視覚については以前まとめて紹介した――

 目は“むき出しになった脳”であるゆえに、同時並列で情報を処理する。視覚は水平方向を指向する。そして、自分の位置から距離を測る。我々が実感できる世界は、“目で見える範囲”に限られている。古来、旅とは自分の世界を広げる営みであったのだろう。


 目は不思議だ。立派な体格であっても、顔つきに生きざまが現れ、目には心が映し出されている。目のメカニズムよりも、嘘のない目を大切にしたいものだ。


 人生とは、何を見つめるかで決まってしまう側面がある。視点が低ければ障害物だらけになってしまう。高い視点を持てば、いかなる苦難をも悠々と見下ろしてゆくことが可能だ。


 亡くなった父の顔は微笑んでいた。火葬場に着くと、更に口が開いていた。死後3日を経過していたが最後まで柔らかいままだった。「何を見つめて生きれば、こんな風に死ねるのだろう」――私の瞳に父の顔が焼きつけられた。

ゲーテ格言集 (新潮文庫)

2009-05-29

一人セッション


 これは凄い。maruさん同様、「神」になりそうな予感。ラストの映像も芸が細かくて独特のセンスが窺える。


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「長嶋茂雄っぽい感じ」とプラトンのイデア論/『脳と仮想』茂木健一郎


 これは面白かった。小林秀雄の講演「信ずることと考えること」が取り上げられていることを知り、一も二もなく取り寄せた。流麗な文章で実に見事な解説をしている。


 しかし、である。読んでいる時には気づかなかったのだが、いくつかのテキストを入力したところ、底の浅さが目についた。「意識と仮想」というテーマで綴られたエッセイに過ぎないのだ。こりゃ散文だわな。


 茂木健一郎はどこぞの大学の講義でも暴露しているが、「取り敢えず原稿に向かってペンを走らせてから考える」と語っていた。もちろん脳科学者なんだから、今まで温めていた内容もあるとは思う。だが、一定の時間をかけて成熟した思考となっていないことが明らか。実にもったいないと思う。


 その意味では、トール・ノーレットランダーシュ著『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』(紀伊國屋書店、2002年)の足許にも及ばない。


 クオリアとは質感を指す言葉である。概念としてはまだまだ中途半端なもので、一定の共通認識にすらなっていないことを弁えておく必要がある――


 たとえば、「長嶋茂雄っぽい感じ」も、私たちの心の中で、一つのクオリアとして感じられており、その意味ではプラトン的世界の住人である。「長嶋茂雄っぽい感じ」は、昭和の日本において多くの人の脳の中で神経細胞の活動の相互関係として現実化した。しかし、潜在的には、「長嶋茂雄っぽい感じ」は、宇宙の開闢(かいびゃく)以来百億年余りの間、プラトン的世界の住人としてずっと存在し続けて来たのだと言える。ちょうど、正二十面体という数学的概念が時を超えた普遍的実在であるように、「長嶋茂雄っぽい感じ」も、プラトン的世界の住人として、時を超えた普遍的存在なのである。


【『脳と仮想』茂木健一郎(新潮社、2004年/新潮文庫、2007年)】


「プラトン的世界」とはイデア論のことだろう。

 実はここで行き詰まっていたのだよ。紹介したテキストは非常に面白いのだが、どうもすっきりしない。脈絡や根拠が完全に無視されている。大体、「長嶋茂雄っぽい感じ」が普遍的存在のはずがないよ(笑)。


 もう一つ致命的なことを指摘しておこう。そもそも、前半で取り上げられた小林秀雄の講演はイデア論とは正反対の主張をしているのだ。小林は「魂はあるに決まっている」と言い切り、亡くなった母親を小林が懐かしむところに母の魂が存在していると断言する。そして、小林が「経験」に重きを置いていることが明らかだ。


 この問題の詳細を書くだけの力量が私にはない。プラトンとアリストテレスがキリスト教に与えた影響力を調べる必要がある。


 ま、いずれにしてもだ、神の世界(イデア界)を真実として、この世を陰と判じたことは確かだろう。つまり、苫米地流に言えば「あの世の論理」ということになる。


「神」とは完全性であり絶対性を示す存在だ。神が誕生した途端、人間は不完全なものとなり、相対的な立場に追いやられる。そして、有無を言わさず「神の僕(しもべ)」になることを強いられる。


 イデア論は、仏法で説かれる三諦論の中道に似て非なる性質をはらんでいる。クオリアもまた、五蘊仮和合(ごうんけわごう)を想起させるがベクトルが異なっている。


「長嶋茂雄っぽい感じ」は、長嶋茂雄の存在に依っている。だから、長嶋茂雄が存在する以前にそれはない。茂木健一郎の文章がおかしいのは、固有性を普遍性へと無理に拡張しようとするところにある。


 感覚は人によって異なる。同じものを見て美しいとため息をつき、同じものを食べて美味しいと頬を緩めても、感覚は皆異なっている。というよりは、言葉の細かいニュアンスからして、人によって相違があるのだ。


 社会やコミュニティでは、それを擦り合わせる作業が必要となる。これが文化であり価値観であろう。大体、脳自体がネットワークシステムとなっているので、社会も当然ネットワーク化される。ヒエラルキー。


 意識なんて、脳内に飛散している火花のような代物だと私は考える。「あなた」や「私」は確かに存在しているのだが、何が自分を支えているのかは誰にもわからない。経験・反応・学習だけでは推し量ることのできない何かがあるとは思うのだが、悲しいことに我々は無意識を意識することができない。なぜなら、無意識を言葉にすることができないからだ。


 散々悪口を書いておいたが、面白い本だからね(笑)。

脳と仮想 脳と仮想 (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

『「大恐慌型」不況』侘美光彦(講談社、1998年)


「大恐慌型」不況


 今、日本は大恐慌への第1段階を越えた。平成不況は単なる不況ではない。1929年ニューヨーク発「世界大恐慌」と同じ道を進んでいる。恐慌研究の世界的権威が、この異常現象と恐慌になったら何が起こるかを明らかにした。


〔主な内容〕

  • 大恐慌の原因と引き起こされる異常現象
  • 3年間で株価は90パーセント下落
  • 所得は半分に、失業率は25パーセント
  • 大恐慌では銀行の40パーセントが破綻
  • ゆるやかに始まり、しだいに加速する
  • 経済の累積的縮小と銀行恐慌の複合的産物
  • 戦後の大恐慌回避の仕組みが崩れた
  • 不況が大恐慌化する道が日本で開かれた

2009-05-28

「エトピリカ」葉加瀬太郎


 5月22日、父が逝去。山口絵理子を紹介したこともあって、この曲が頭から離れない。本日帰京。


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Sweet Melodies~TARO plays HAKASE 情熱大陸 LOVES MUSIC 10TH ANNIVERSARY SPECIAL ~TARO HAKASE SELECTION~

2009-05-21

山口絵理子


 本当にいい顔をしている。そして言葉に嘘がない。命がきれいな女性だ。




裸でも生きる――25歳女性起業家の号泣戦記 (講談社BIZ)

苫米地英人


 1冊読了。


 65冊目『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて苫米地英人(ビジネス社、2008年)/こりゃ凄い。私の褒め言葉は上位から、「経典本」「教科書本」「参考書本」といった具合だが、本書は経典本(きょうてんぼん)といってよい。資本主義の正体を見事に暴露している。多分、「トンデモ本」という批判が多いことだろう。ま、かような人物の知的レベルが知れるというもの。その意味で、読者を選ぶ書籍であり、苫米地の主張はわかる人にしかわからないことだろう。これは紛れもない傑作。サブプライムローンに関して、信用創造にまで言及しているのは本書以外に見当たらない。

2009-05-19

太田竜氏が死去=評論、社会運動家


 評論家で社会運動家の太田竜(おおた・りゅう、本名栗原登一=くりはら・とういち=)氏が19日午前5時30分、腹膜炎のため東京都豊島区の病院で死去した。78歳だった。樺太出身。葬儀は行わず、後日お別れの会を開く。喪主は妻栗原千鶴子(ちづこ)さん。

 日本共産党を離党し、1957年に日本トロツキスト連盟の結成に参加。続いて第4インターナショナル日本委員会を組織したが、その後はアイヌ解放やエコロジーなど独自の社会運動や評論活動を続けた。


【時事通信 2009-05-19】

2009-05-17

吉田洋一、ゲーテ、小林秀雄、関岡正弘


 1冊挫折、3冊読了。


 挫折29『零の発見 数学の生い立ち』吉田洋一(岩波新書、1939年)/札幌へ行く際、携えていった。文章が読みにくい上、展開が遅い。98ページで挫ける。50ページまでは面白かった。


 62冊目『ゲーテ格言集』ゲーテ/高橋健二編訳(新潮文庫、1952年)/5月10日に読了。これさえ読んでおけば、「ゲーテ曰く――」と書くことができる。素晴らしいのは、一々出典を明記しているところ。『ファウスト』を読んだふりができる。名言はたくさんあるのだが、どうもゲーテという人を私は好きになれない。「テクニックの人」という印象を受けた。胆力が感じられないのだ。「喧嘩のできる人物」には見えなかった。ま、一読の価値はあるんだけどね。


 63冊目『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること小林秀雄(新潮社、2004年)/千歳へ向かう飛行機の中で読了。これは面白かった。講演「信ずることと考えること」の抄録が収められている。テープ起こしではなく本人が書き直したもので、講演の前半部分のみ。講演の名調子を窺い知ることはできないものの、論旨は文章の方が明快である。特に、炭焼きをしている男が二人の子を殺す話は、文章でなければわかりにくい部分がある。小林秀雄は文章になると面白味に欠けるが、対談が実に素晴らしい。常人の言葉づかいと全く異なっている。講演CDはその内買う予定である。


 64冊目『「1929年大恐慌」の謎 経済学の大家たちは、なぜ解明できなかったのか』関岡正弘(PHP研究所、2009年/ダイヤモンド社『大恐慌の経済学 カジノ社会が崩壊する日』1989年の改訂版)/本日読了。硬派な教科書本。ハードカバーで復刊したのはPHPの英断を称讃したい。本書が発刊されてから3ヶ月後に日経平均株価は3万8915円を記録し、その後相場は瓦解した。日経平均の30年間のチャートを見れば一目瞭然だが、今も尚下げ続けている。戻しては下げを繰り返しながら、底を打ってはいない。著者の先見性もさることながら、実学的要素が濃く、理論を弄(もてあそ)ぶところがない。経済学が富のストックを無視したために大恐慌を予測できなかった、という指摘が斬新。末永く読まれてしかるべき一冊だ。

運とは流れ/『運に選ばれる人 選ばれない人』桜井章一


 運命なんぞにはとんと興味のない私だが、20年間無敗の雀鬼が語る「運」には耳を傾けざるを得ない何かがある。「運」というよりは「流れ」であり、「変化」を敏感に感じ取り、つかまえることが大切であると桜井章一は説いている――


 運命を変えるには単に信念を持って行動を続けるとか、真面目にコツコツ努力すればいいというものではありません。変化を感じ取り、流れをつかめばおのずと運命は変わっていきます。すべてのものは絶え間なく変化しているのであり、それにリズムを合わせることが出来れば自然に運命は変わっていきます。運命を変えたいのになかなか変わらないなと思っている人は、周りで起こっている変化を感じようとしないので変わらないのです。変化をつかみ、その上でさらに自分が望む流れをつくっていこうと思えば運命は確実に変わります。


【『運に選ばれる人 選ばれない人』桜井章一(東洋経済新報社、2004年/講談社+α文庫、2007年)】


 一週間ほど更新が滞っていたが、実は札幌の実家で父が倒れた。直ちに救急車で搬送されたが意識不明・四肢麻痺の重態。脳幹出血との診断だった。これだって、一つの「流れ」といえる。父の意識はまだ戻らず、予断を許さない状況ではあるが、今後も小さな変化が何度となく現れることだろう。


 ま、親の病気や死を「運命」などという言葉で大仰(おおぎょう)に語りたくはない。そんなことは、私が子として生まれた時から受け容れなくてはならない既定の事実である。だが、たとえそうであったとしても、「今日、明日がヤマ」と医師から告げられると、今尚生きている現実に感謝の念が湧いてくる。


 誰人たりとも生老病死(しょうろうびょうし)を避けることはできない。これ自体が人生のリズムであり、流れそのものだ。ブッダは四苦として説いたわけだが、これらの苦しみとどのように付き合うかが幸不幸の命運を分かつのだろう。


 もしも、運命なるものがあるとすれば、ある時は甘受し、ある場合は戦う必要が出てくる。「命を運ぶ」と書くのだから、そこに自分の意志を働かせることは十分可能だろう。


 風がなければ凧(たこ)は空高く舞うことができない。波がなければ波乗りを楽しむことも不可能だ。つまり、人生の変化をよりよい方向へリードできる人であってこそ、自分の人生の舵(かじ)を取っているといえよう。


 世界を見渡せば、病気で死ぬことはまだ幸せな部類に入る。しかしそれでも尚、私は運命と対峙し、徹底抗戦するつもりだ。

運に選ばれる人 選ばれない人 運に選ばれる人  選ばれない人 (講談社+α文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

海老沢泰久著『青い空』が文庫化


 江戸時代、キリシタンは改宗しても幕府の監視下にあった。幕末に生きる主人公・宇源太も五代前の祖先が信者だったため、監視を受け、苛酷な生活を強いられていた。友人が殺されその敵討ちを果たした宇源太は、村を出て江戸へ向う。江戸で剣術を学び、尊敬できる宗教家と出会った宇源太。しかしそれは、新たな悲劇の幕開けだった。


 勝海舟と知り合った宇源太は、勝の頼みで浦上へキリシタンの救済に向う。幕藩体制が崩壊すれば、信仰の自由を手に入れることができると信じた敬虔な人たち。しかし、その思いを新政府は無残に打ち砕いていく。数多くの研究書・史料を駆使し、「日本はなぜ神のいない国になったのか」を問いかける傑作時代小説。

青い空〈上〉―幕末キリシタン類族伝 (文春文庫) 青い空〈下〉―幕末キリシタン類族伝 (文春文庫)

2009-05-10

米沢ワイン(直江兼続ラベル)白


 少し甘めだが、口当たりがよく後味が爽やか。嘘のない味だ。真面目、誠実、堅実といった印象を受ける。アルコールよりも果実の味が勝っている。労働の対価として、大地の実りがご褒美をくれたような気にさせられる。つまり、毎日飲むのに相応しいワインだ。

ティッピング・ポイント/『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』マルコム・グラッドウェル

 ネットワーク理論の秀逸な教科書本。ティップ(tip)は「傾く」で、ティッピング・ポイントは「大きな転換点」という意味。防波堤が決壊するイメージ、といえばわかりやすいだろう。


 何かが流行する現象――商品、言葉、文化、病気など――には必ずティッピング・ポイントが存在する。その意味でSB文庫(※ソフトバンクね)のタイトルは、飛鳥新社版(2001年)『なぜあの商品は急に売れ出したのか 口コミ感染の法則』を踏襲しており、本書の価値を単なるビジネス書に貶(おとし)める愚行を犯している。


 ティッピング・ポイントの特徴は次の通り――


 感染とは、換言すればあらゆる種類の事象に備わっている予期せぬ特性のことであり、伝染病的変化というものを理解し、診断するうえでは、まずこのことを念頭に置いておく必要がある。

 伝染病の第二の原理――小さな変化がなんらかのかたちで大きな結果をもたらすということ――もまたたいへん重要だ。


【『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』マルコム・グラッドウェル高橋啓訳(ソフトバンク クリエイティブ、2007年/旧題『ティッピング・ポイント』飛鳥新社、2000年)以下同】


 これら三つの特徴――第一は感染的だということ、第二は小さな原因が大きな結果をもたらすこと、第三は変化が徐々にではなく劇的に生じるということは、小学校での麻疹(はしか)の蔓延や冬のインフルエンザの伝染の仕方と同じ原理に基づいている。この三つの特徴のうち、第三の特徴――すなわち感染の勢いはある劇的な瞬間に上昇したり下降したりすることがありうるという考え――がもっとも重要である。というのも、この第三の特徴こそが最初の二つの特徴を意味あるものにし、現代における変革がなぜこのようなかたちで生じるのか、その理解を深めてくれるものだからである。

 なんらかの感染現象において、すべてが一気に変化する劇的な瞬間を、本書ではティッピング・ポイントと呼んでいる。


 先月から、豚インフルエンザ(※食肉業界からの圧力は私に及んでいない)の世界的な感染が懸念されているが、感染症(エピデミック)がアウトブレイク(感染爆発)して世界中に広がることをパンデミックという。現在、WHO基準ではフェーズ5だが、これがフェーズ6になるとパンデミック期となる。ここでいうアウトブレイクがティッピング・ポイントに該当する。


 そういや、「百匹目の猿」という話がありましたな。今、調べたところ、ライアル・ワトソンによるインチキ話だったことを知った。くそっ、筆を折られた思いがする。

 結局のところ、隣の家で風呂を沸かしても、私のところの風呂は熱くはならないって話だな。とすると、ティッピング・ポイントの鍵は情報の伝播(でんぱ)ということに落ち着きそうだ。


 文明の発達は、人や物の移動、そして情報伝達のスピードを加速させた。グローバリゼーションによって、アメリカのインチキ債券(※サブプライムローンね)が世界各国の経済にダメージを食らわせた。文字通り「世界は一つ」だ。風が吹けば桶屋が儲かり、米国が戦争をすると日本が儲かるってな仕組みだ。


 よくよく考えてみると、文明の発達とは権力保持のための武器だったのかも知れない。我々が受け取る大半の情報は新聞・テレビ・ラジオによるもので、まず自分で確認することがない。各社が発信する情報を鵜呑みにした上で、職場の同僚や友人と情報交換をしているのだ。メディアは大脳だ。そして国民が末梢神経。


 最も恐ろしいことは、高度に情報化された社会が権力者によってコントロールしやすいという事実である。人間という動物は実のところ、情報の真偽にはとんと関心がない。いつだって嘘の情報を信じることができる。歴史上の虐殺は正義の名の下に行われてきたが、いずれも権力者がでっち上げた正義であった。


 人類全体にとって、よりよいティッピング・ポイントを望むのであれば、我々は「正義を疑う」ことから始めなければならない。今日は母の日。カーネーションを贈る風習は、平和に献身したミセス・ジャービスの葬儀で娘のアンナが白いカーネーションを参列者に配ったことに由来している。だが、これもまた商業主義によって捻じ曲げられてしまった。「乗せられる」人々が多いほど、悪しきティッピング・ポイントはなくならない。

急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則 (SB文庫 ク 2-1)


 旅は結婚に似ている。コントロールしようというのが間違いのもとなのだ。


【『チャーリーとの旅』ジョン・スタインベック竹内真訳(ポプラ社、2007年/大前正臣訳、弘文堂、1964年)】

チャーリーとの旅

2009-05-09

Chakuwiki


 恥ずかしながら、先ほど初めて知った。こりゃ面白い。いわゆる街ネタ。

パレスチナ人の叫び声が轟き渡る/『ハイファに戻って/太陽の男たち』ガッサーン・カナファーニー


 ガッサーン・カナファーニーは現代アラブ文学を代表する作家の一人。そして彼はパレスチナ解放人民戦線のスポークスマンでもあった。イスラエル建国に伴って12歳の時に難民となり、二十歳(はたち)の頃から糖尿病に苦しみ、1972年7月18日、車に仕掛けられたダイナマイトに吹き飛ばされて死んだ。享年36歳。


 いやはや凄い小説群だった。中篇二つと短篇五つが収められているが、どれも読ませる。小説好きにとっては堪(たま)らない世界だ。そして、全ての作品に共通するのは、イスラエルに抑圧され、世界から見放されたパレスチナ人の怒りと叫びとため息だ。


 カナファーニーの作品は作家という作家に「文学はどこから生まれるのか?」という命題を短刀のように突きつけている。そして彼が示したのは、「虐げられた人々の血と涙を吸ったパレスチナの大地」であった。真の文学が人間から生まれるものであることを、これほど雄弁に表現した小説を私は知らない。


 広河隆一著『パレスチナ 新版』(岩波新書、2002年)で紹介されていた「彼岸へ」(1962年)が圧巻だった。わずか15ページの小品で、その殆どが一人のパレスチナ人男性の独白となっている。「旦那さん」と呼ばれる人物は、警察の要職にあると思われる。男は「パレスチナ人に未来がない」ことを呪った――


 旦那さん、つい先だって、俺はあることについてずいぶん長いこと考えちまったんですよ。俺たちの中にも、時々はものを考えたりするやつがまだいるってことを、旦那さんにも知ってもらわなくちゃあなりませんよ。俺は通りを歩いていたんですよ。するといきなり、そう、ちょうど大きなガラス板が落ちてきて、粉々になっていくようにね、ある考えが俺の脳天におっこちてきて、それが粉々に割れて、そのかけらが身体の内側に散ってゆくような気がしたんですよ。俺は自分に言ったんです。“おお、なんてこった、どうすりゃあいいんだ?”ってね。

 ねえ、旦那さん、そいつはどんな人間にだって投げかけられる、ちっぽけな問いにすぎないんですよ。たとえそうする前に俺には15年の歳月が過ぎてしまっていたとしてもですよ。けれど驚きましたよ、まったく、今度だけはこの疑問がよく乾かされて固くひきしまった、もうほとんどすっかりでき上がったといってもいいくらいのやつになっているんですよ。そいつは俺の脳天に落ちるやいなや、俺の目の前に、尽きちまうことがないみたいな、暗くて長い長い一筋の裂け目を開いてみせたんですよ。そのとき、俺の口を独りごとがついて出たんですよ。

《たとえ何がどうあろうと、俺がいるってことは動かせねえ事実なんだ。今まで、熱い茶の入ったコップの中にほうりこまれた砂糖のかたまりのように、皆で俺を溶かしちまおうとしていた。そうしようとすることでは、アッラーもとくとごらんになっていることだが、あんた達は驚くほど精魂かたむけましたね。けれども俺は、とにかくまだ溶けちまわずにいるんだ》って。“それじゃあ、どうする?”っていうこの問いはいつまでも鳴りやまないんですよ。こういったたぐいの問いってやつは、ねえ旦那、まったく驚きのきわみってやつですぜ。いったん頭をもたげちまったが最後、完全に渇きがいやされるまでは、絶対にひきさがろうってしねえんですからね。そうなんですよ、“それじゃあ、どうする?”っていう問いなんですよ。大きな声じゃあ言えませんがねえ、旦那さん、俺には“それじゃあ、どうする?”なんてのは、実際には決してありえないことのように思えるんですよ。俺に言わせてもらえば、そうなりますね。すると皆は、俺がはなっからあきらめちまってる逃げ腰の臆病者だっていうんですよ。俺のことを裏切り者だってさえね。俺にはもうこれ以上、俺の返答をおさえとくことはできねえんです。旦那さん、真実ってのは空おそろしいもんですね。ごまかしようのないことってのが俺の中に段々とたまってきて、いっぱいになっちまって、いつかもう俺には持ちこたえられる限度を越えてしまって、爆発しちまうに違いねえって気がするんですよ。


【『ハイファに戻って/太陽の男たち』ガッサーン・カナファーニー/黒田寿郎、奴田原睦明〈ぬたはら・のぶあき〉訳(河出書房新社、1978年〈『現代アラブ小説集 7』〉/新装新版、2009年)以下同】


 正直に書いておくと、この作品をそっくり入力しそうになった。とにかく訳がいい。落語を思わせる小気味のよさがある。ここでは、イスラエルとパレスチナの紛争のもとで、パレスチナ人の抱える実存的な苦悩が吐露されている。つまり、イスラエル(=ユダヤ人)が行ったのは、パレスチナ人の存在を抹消することだった。実際にイスラエルのゴールド・メイア元首相は「パレスチナ人とは、いったい誰のことか?」と問い、「そんなものは、存在しないのだ」と自答している(本書「解説」/出典はP・L・O東京事務所の資料)。


「溶かす」という表現も、砂漠の多いパレスチナ地方の人々にとっては切実な感覚を想起させる言葉だろう。イスラエルは、パレスチナ人を溶かして蒸発させようと目論んだ。それは今も尚続いている。


 男は続ける――


 聞いてますか、旦那さん? “それじゃあ、どうする?”なんてのは金輪際ありゃしないんですよ。俺の生涯、俺だけじゃあねえ、俺たちの生涯ってのは、俺たちの抱えている問題と並んでひっそりとつつましく延びている、もう一本のまっすぐな線のことじゃあねえかと俺には思えるんですよ。俺はこれまでのつらかった時代に、自分の中に備わった自分でも驚くような勇気をふるって、この真相ってやつを口にしてるんですよ。といいますのはね、俺自身には誇りってものがこれっぽっちも与えられていねえんです。俺に許されているのは、せいぜいがまだ物が言えるっていう栄誉くらいのもんですよ。あんた方はものごとをでっちあげるという栄誉を、そっくり大切にしてきましたからね。あんた達は一時間毎に、一日毎に、いや一年刻みに、たえず俺たちに手を加えて、ついにこういう成れの果てにしあげちまったんだということを、知らねえわけではないでしょうね、旦那さん、あんた達は俺を溶かしてしまおうとしましたね! そのためにまあよくも、まるで疲れることも倦きることも知らぬげに、不断の尽力をしてくれましたね。旦那さん、そうは問屋がおろさねえと言うほど、俺たちはうぬぼれちゃあいませんよ。いや、あんた達はまったく驚きいるほど首尾よくやってのけましたよ。あんたがた(ママ)はまったくまんまと俺を変えてしまったってこと、ご自分でわかってますねえ……そう、一人の人間から一つの状態へとね。そう、ですから、この俺というのは、一つの状態なんですよ。それ以上のものでは決してねえんだ。たとえそれ以下であることはあっても。俺は一つの状態なんだ。俺たちは一つの状態なんだ。そうだからこそ俺たちは驚くほど平等なんですよ。旦那、これは驚くべきことですよ、まったく途方もねえことですよ。そりゃあ長い時間かかりましたよ。しかし、ねえ旦那さん、百万人の人間を一緒に溶かしちまって、それを一つの塊りにしてしまうってことは、決して並のことではねえですよ。ですからそれには長い時間が必要だってことには、同意してもらえると俺は思いますがね。あんた達は、この百万人もの人間から一人一人が持ってる各自の特性ってやつを喪わせちまったんですよ。あんた達には、一人一人を見分ける必要なんかねえんですよ。だってあんた方が目の前にしているのは、状態なんですから。もしあんた方がそれを盗っ人の横行する状態だと呼びたけりゃあ、あんたの前にいるのは俺達(ママ)盗っ人の集団てことになるんですよ。もし裏切りの横行する状態だと言えば、俺達は裏切り者の集団てことにだって、なるんですよ。


 私の耳から雑音が消えた。男の声だけが真っ直ぐに響いてきた。新装版(1988年)から20年の歳月を経て本書が復刊された意味を思う。9.11以降のアメリカの行状を知ることなしには、カナファーニーの描く世界に共感することは困難であっただろう。


 半世紀近くも前に、パレスチナの民の声を代弁した男がいたのだ。なぜ、誰も耳を傾けなかったのだろう。それは、1959年から始まったベトナム戦争のためだったと私は想像する。日本の輸入超過は1958年に始まり、1965年以降は大幅な貿易黒字となっている


 私が子供の時分から「パレスチナ」という言葉は「ゲリラ」とセットになっていた。私は大人になるまで「ゲリラ」が悪党を意味していると思い込んでいた。私の眼には「溶かされてしまったパレスチナ人」しか映っていなかったってわけだ。


 男は畳み掛けるように言う。「おれはまた別の見方からいうと、俺達は商品的状態なんじゃあねえかって言いたいんですよ。俺たちにはまず見世物的な商品価値があるんですよ」――観光地化された難民キャンプ。外貨も稼げるので一石二鳥ってわけだ。


 更に痛烈な一撃を加える――


 そのつぎには、俺たちは、リーダーシップをとるための材料ってことになってるんですよ。俺たちはその国の声明文に盛り込むためのものとか、人間性を誇示したり、民衆を競売にだすときの、恰好の材料にされるんですよ。どちらにも御利益(ごりやく)のある、政治生命をつなぎとめておくためには欠かせないものの一つにされちまってるんですよ。俺たちには“それじゃあ”なんて先のことに関するものなんか一つもありはしませんよ。こいつはまったく恐ろしいことだが、ごまかせない事実ですよ。とにかく現にそうなってるんです。俺のこの世での役割ってのは、もうはっきりとした形に決められてるんです。俺個人としては、単なる一匹の豚ってわけです。それから集団としての俺は、商品として、観光客向けに見世物として、また政治ボスとなりたい者たちには、捨てがたい効能を備えた一つの状態、それが俺なんです。俺は自分が気づいたこのことを口に出してはっきり言う前に、ずいぶん長いこと考えましたよ。俺にはわかっているんですよ、こんなことを言えば、演壇にのぼってこういう風に言う人が、ひきもきらずにいるだろうってことはね。


 ダイナマイトで吹き飛ばされたカナファーニーの言葉は、パレスチナの民の怒りを伴って轟き渡る。どれほど惨めな状況に置かれていようとも、人間は言葉で抗議できることを教えてくれる。ガッサーン・カナファーニーは、アラーでさえ見棄てたパレスチナの民衆に寄り添い、死んでいった。


「彼岸にて」は1962年に発表されている。その翌年に私は生まれた。この作品が存在する世界に生まれることができて私は幸せだ。

ハイファに戻って/太陽の男たち

ラマヌジャン


「神についての思索を表現しない方程式は僕にとっては無価値である」


【『無限の天才 夭逝の数学者・ラマヌジャン』ロバート・カニーゲル/田中靖夫訳(工作舎、1994年)】

無限の天才―夭逝の数学者・ラマヌジャン

2009-05-08

山本譲司著『累犯障害者 獄の中の不条理』が文庫化


累犯障害者 (新潮文庫)


 刑務所だけが、安住の地だった――。何度も服役を繰り返す老年の下関駅放火犯。家族のほとんどが障害者だった、浅草通り魔殺人の犯人。悪びれもせず売春を繰り返す知的障害女性たち。仲間内で犯罪組織を作るろうあ者たちのコミュニティ。彼らはなぜ罪を重ねるのか? 障害者による事件を取材して見えてきた、刑務所や裁判所、そして福祉が抱える問題点を鋭く追究するルポルタージュ。

宇宙定数はアインシュタインの生涯最大の過ち/『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン


 猿も木から落ちるという話。アインシュタインは26歳の時に特殊相対性理論を発表した。次いで10年後には一般相対性理論に辿り着いた。


 そして、アインシュタインは「宇宙定数」を導入して一般相対性理論を修正した。これが後にアインシュタインをして「生涯最大の過ち」と言わしめることになる――


 一般相対性理論の方程式は、19世紀の大数学者、ゲオルク・ベルンハルト・リーマンが真っ先に示した、湾曲した空間についての幾何学的洞察にもとづくものだが、アインシュタインはこれらの方程式によって、空間、時間、物質を定量的に記述することができた。たいへん驚いたことに、この方程式を、一個の惑星とか恒星のまわりで軌道を描く彗星といった宇宙のなかの孤立した状況を超えて、宇宙全体にあてはめると、注目すべき結論が導き出される。宇宙空間全体の大きさは時間とともに変わるはずだ、ということになる。つまり、宇宙の織物は拡がっているか、縮んでいるかのいずれかであって、変わらずにいるわけではない。一般相対性理論の方程式はこのことをはっきりと示している。

 この結論は、アインシュタインにとっては到底受け入れがたいものだった。アインシュタインは、何千年にもわたって日々の経験から形づくられてきた空間と時間に関する集合的直観をくつがえしたのだったが、この急進的な考えの持ち主にとっても、つねに存在し、けっして変わらない宇宙という観念はあまりにも深く染みついていて、放棄できなかったのだ。このためにアインシュタインは一般相対性理論の方程式に立ち戻り、宇宙定数と呼ばれる量を導入して、方程式を修正した。この宇宙定数を含む項のおかげで、先の予測を避け、再び、居心地のよい静的宇宙の観念に安住することができた。ところが、その12年後に米国の天文学者、エドウィン・ハッブルが遠くの銀河を詳しく観測して、宇宙が膨張していることを実証した。そこで、これは科学年代記に載っていて今ではよく知られている話だが、アインシュタインは、方程式を一時的に修正したのは生涯最大のへまだったと告白して方程式をもとの形に戻した。アインシュタイン自身が当初、この結論を受け入れるのを渋ったにもかかわらず、アインシュタインの理論は宇宙の膨張を予言していた。


【『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン/林一、林大訳(草思社、2001年)】


 アインシュタイン無神論であったと伝えられているが、キリスト教の影響を完全に払拭してはいなかったと見える。全知全能の神が創造した世界は完成されたものであるはずだった。すると、宇宙が膨張したり収縮したりすることは認め難い。

 エドウィン・ハッブルは、銀河という銀河が地球から遠ざかっていることを発見した。そして更に、地球から遠い銀河ほど猛スピードで遠ざかっていることも発見したのだ。つまり、宇宙は膨張していた。後にこの発見がビッグバン理論につながる。


 アインシュタインってさ、「実験をしない科学者」だったんだよね(ニコラス・ハンフリー著『内なる目 意識の進化論紀伊國屋書店、1993年)。


 それにしても面白いエピソードだ。理論を構築した本人よりも、理論が示す結果の方が正しかったとは。本物の理論は、未知なる世界をも類推することができるという証拠だ。


 アインシュタインにすら思い込みがあった。それも最も基本的な前提においてである。我々の思い込みの量はどの程度になるだろうか? 考えるだけでもぞっとさせられる。


 人の心は信じることで豊かになり、人の頭脳は疑うことで確かな知識を得る。ここを踏み誤るところに猜疑心と誤謬(ごびゅう)が生まれる。

エレガントな宇宙―超ひも理論がすべてを解明する

強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔


 強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔、何のあてなき人生なり。


【ジャズ喫茶「ジャズ・ビレッジ」の壁に書かれていた言葉。ビートたけしの「死んだ犬」という曲の歌詞にも引用されている】

2009-05-07

奥野修司著『心にナイフをしのばせて』が文庫化


心にナイフをしのばせて (文春文庫)


「あいつをめちゃめちゃにしてやりたい」――。40年近くの年月を経ても、被害者はあの事件を引きずっていた。歳月は遺族たちを癒さない。そのことを私たちは肝に銘じておくべきだと思う。『ナツコ 沖縄密貿易の女王』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した著者の、司法を大きく変えた執念のルポルタージュ。

茂木健一郎


 1冊読了。


 61冊目『脳と仮想茂木健一郎(新潮社、2004年/新潮文庫、2007年)/茂木健一郎をまともに読んだのが実は初めてのこと。全体を通して、小林秀雄講演「信ずることと考えること」が基調となっている。とにかく驚くほど文章がいい。話題も豊富で、芸術全般からゲームにまで及んでいる。小林秀雄に対する敬愛の念と、脳科学者という立場からの対抗心が窺えて興味が尽きない。惜しむらくは、最後まで随想風の内容となっていて科学的な見解を示していないため、読後に物足りなさが残る。だがこれは、茂木健一郎の罪ではなくして、タイトルの問題なのかも知れない。エッセイであるなら、エッセイとわかる題名にすべきだ。これは是非とも続編を望みたい。トール・ノーレットランダーシュ著『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』(紀伊國屋書店、2002年)とは一味違うものを期待する。

視聴率に代わるテレビ番組評価 優良放送番組推進会議が発足


 地上波放送の質向上を目指し、トヨタ自動車三井物産など国内大手26社が、テレビ番組を評価する「優良放送番組推進会議」(有馬朗人委員長)を立ち上げた。評価結果はネットで公表。今後も参加企業を募り、将来的には、一般市民の声も反映させる仕組みづくりを目指すという。

 同推進会議は、視聴率至上主義に陥った番組制作に一石を投じることを目的に発足。会員各社が年間20万円を出し合い運営に当たる。顧問には塩川正十郎・元財務大臣が就任した。

 調査方法はアンケート形式で、会員企業の社員らは毎回示されるリストから、興味を持った番組を視聴。「とても興味深く推薦したい」3点「興味深く推薦したい」2点「普通」1点「特に感想がない」0点、マイナスの5段階で評価する。

 月尾嘉男事務局長は「悪い番組をあげつらうのは表現の自由から難しいが、いい番組を推挙して多くの方に関心を持ってもらうことで、良貨が悪貨を駆逐する方向に持っていきたい」と意気込む。番組ごとの合計点、平均点、順位はホームページで公表。男女別、年代別の分析も掲載する。

 第1回(4月1〜7日)のサンプル数は430人で回答数5291件。ニュース番組をテーマに調査が行われた。第1位は企業団体らしく、テレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」だった。

 単なる人気投票に終わる可能性も指摘されるが、月尾事務局長は「今まではビデオリサーチの視聴率が圧倒的に評価の基準だった。だが、社会の中にはいろいろな評価が出てくるべき。経済界の評価があってもいい」と説明。「『よりいい番組にお金を出していきたい』と何社かから意見も出ている」として、資金も出すが注文もつける“もの言う企業”の足がかりとすることも示した。


【産経新聞 2009-05-05】


 妙な動きだ。

世界的な株高、年内に反転する公算大=ルービニNY大教授


【シンガポール】米ニューヨーク大学のヌリエル・ルービニ教授は6日、世界的な株高傾向は弱い企業決算や経済ニュースを受けて年内に反転する公算が大きいと述べた。

 今回の金融危機を予測したことで知られる同教授は、当地で開催された金融セミナーで「今はまだ弱気相場の一時的反発だ」と語った。

 投資家が慎重姿勢を維持すべき理由を3点挙げ、マクロ経済の予想以上の悪化、予想を下回る決算、銀行セクターや新興市場の危機をめぐる一段の悪材料が見込まれることを指摘した。

「まもなく多くの金融ショックが出現する」とし「金融市場が回復する一方、われわれは向こう数四半期にマイナスのサプライズに直面する。市場は先走り過ぎている」と述べた。


【ロイター 2009-05-07

「空耳アビィロード」桑田佳祐


 これは多分、作家が書いたものだろう。桑田の作詞であれば、桑田への評価を上方修正する必要がある。小田嶋隆より凄いよ。この言葉のセンスは。


【追記 2009-05-08】「る」さんからのコメントで、全曲桑田佳祐の作詞であることが判明した。ってことで、桑田佳祐を大幅に上方修正する。桑田は音楽のリズム感だけではなく、言葉のリズム感においても天才であることが証明された。


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男は再び走り出した/『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一

 ボクサーの再起を描いた傑作。飯嶋和一が書いた唯一の現代小説。私はなぜか読むのを躊躇してきた。心のどこかで期待が外れることを恐れていたのだろう。杞憂に過ぎなかった。それどころか、荒削りな筆致が猛々しい勢いで読み手の感情に爪を立てる。ボクシングには、男の孤独な魂が仮託されている。


 何がこれほど心を震わせるのか。主人公の新田駿一は順調にランキングを駆け上がっていた。ところが、いつしかアルコールに溺れるようになってしまった。新田は「修理工場」と呼ばれるリハビリ施設に送られる。奈落の底の近くで彼を引き止めたのは、生まれ故郷の島の記憶だった。


 白濁した意識の中で幼馴染みの記憶が蘇る――「彦兄(に)ィ!」。これだけで怒涛の感動が押し寄せる。『始祖鳥記』(小学館、2000年)で弥作が幸吉に対して言う「ああやん」(※兄ちゃんの意)という声と全く同じ響きだ。


 耳を弄するほどの都会の喧騒は、地方から上京した青年を孤独へと追いやった。彼は心を閉ざした。そしてアルコールにのめり込んだ。リハビリを終えた新田が、意を決して島へ帰る。自分という存在を形成した原点の地へ。そして、彦兄ィに会うために。


 人生の座標軸に回帰した新田は、再びリングを目指す――


 アダンの林が途切れ、白い道は松の防風林に入った。おれはとうとうそこで立ち止まった。しゃがみこんで、深いワークブーツの紐(ひも)を解き、最初から通した。足首をすっかり覆う一番上の穴まで靴紐を通し、きつく締めて足首を固定しようとしていた。もう歩くだけではどうにもならなかった。靴紐を結びながら、不意に耳元まで「戦いたい」という思いがこみあげ、紐を握った指が震えた。革ジャケットのファスナーも喉元まで上げた。歩は次第に早まり、奥歯に力がこもった。久しぶりに顔の筋肉がこわばっていく緊張を覚え、首の付け根のあたりから鳥肌が沸き立つのを感じた。おれの足が走り出そうとしていた。

「走るな」そう声にして自分へ言った。一度走り出してしまえば、どこへその道が通じているのかはわかりきっていた。ただつらいばかりで、報われることの少ないあの道へ、また戻るハメになる。古い血のシミが斑点(はんてん)の模様を創ったキャンバスと、逃げ場をさえぎるロープと、それ以外に何もない、ただ殺風景なあの場所へ戻ることになる。

 とうとう足は地面を蹴(け)りはじめた。すぐ息が上がった。水ぶくれのおれの体から汗が噴き出した。額から頬をつたってアゴの下へ汗がたまった。肺は水が詰まったように重かった。ただ走ることだけが、おれの唯一の避難所へ通じる道のようだった。激しく体を消耗させることだけが、この信じられないことだらけの、ひどい夢のような現在(いま)を消すたった一つの方法のようだった。走れば走るほど時間が逆に流れ、4年位昔の、会長も彦兄(に)ィも元気でいた頃へ、おれのなかの映画のスクリーンのようなピンとこない風景が、まだ生き生きとした輪郭や輝きを備えていた頃へ、突然戻ってくれるような気さえした。長すぎる黒い夢が覚めるとしたらこの道を行くしかないようだった。


【『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1989年/リバイバル版 小学館、2000年/小学館文庫、2003年)】


 嗚呼(ああ)――。私はこの箇所を読んで悟った。読者はいつだって、言葉にならない感動を求めて、ただ「嗚呼」と言いたがっていることを。打ちのめされるような思いで、私は何度も読み返した。


 飯嶋作品はいずれも、自立した魂のふれあいを描いている。それは、甘え、寄り掛かり、もたれ合うベタベタした関係ではない。人生という直線が交錯する時に放つ火花を見事に描き出している。独特のタッチを感じるのは、日本人にありがちなジメジメした湿気がないためだろう。


 失って減ってゆく何かがある。失ってもなくならない何かがある。目をつぶらないと見えないものがある。暗闇の中でも消えない光の記憶――飯嶋が紡ぎ出したのは、そういう世界だ。

汝ふたたび故郷へ帰れず リバイバル版 汝ふたたび故郷へ帰れず (小学館文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-05-06

相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン

 精神疾患を“脳の病”と仕立てることで、薬物治療に弾みがついた。製薬会社がどのようにして、この「仮説」を「既成事実」に変貌させたかを告発した一書。力作である。


 医薬品業界は巨大な利権である。日本のマーケット規模は6兆円を上回る(2006年)。一方、アメリカは2901億ドルで世界の医薬品市場の45%を占めている


 日本の大手製薬メーカーが戦争犯罪に加担した事実を鑑みると、製薬会社の存在自体に国家権力の意思が働いていることは確かだと思われる。


 薬というものは元々は毒である。製薬会社が承認申請を提出し、厚生労働省の審議会が審査する。もうね、これだけで何か胡散臭くなってくる。厚生労働省が「よきに計らえ」なんて言ったら、後は広告戦略を練るだけだ。病院においてあるパンフレットの類いを見れば直ぐに気づくことだが、その殆どは製薬会社が作成しているものである。


 国民が監視できるシステムとしなければ、いつまで経っても許認可による薬害が後を絶たないことだろう。薬害エイズや薬害肝炎は、まだ記憶に新しい。


 では、薬品天国のアメリカで、どのようにして精神疾患の薬が認可されるのか――


 相関関係がいかに強くてもそれがそのまま因果関係とならないことを、たいていの人は知っている。ところがこの事実は容易に忘れられる。傘を携えているからといって雨が降るわけではないことを誰でも承知しているのに、脳の中の何らかの生物学的マーカーと精神障害の間に相関関係があることが発見されると、このマーカーを障害の原因だと信じこむという落とし穴に容易にはまってしまう。脳がすべての精神的な経験において中心的役割を担っていることが知られていることがその一つの理由なのだろうが、論理的には、この関係は傘と雨の関係と変わりがない。人の精神状態や経験は脳に影響を与えうるし、逆もありうる。二つの事柄に相関関係があるとき、どちらが原因でどちらが結果であるか、自分でわかっているつもりになってはいけない。「原因」と「影響」が混同されやすい。また、二つのものに因果関係がなくても、大きな相関関係はありうる。たとえば、ほとんどの国で、名前が母音で終わる人は名前が子音で終わる人より、平均でみると、背が低い傾向が見られる。しかし少し考えてみればわかるように、最後の母音子音と背の高さに因果関係を想定すべき道理はない。


【『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン/功刀浩〈くぬぎ・ひろし〉監修、中塚公子訳(みすず書房、2008年)】


 つまり、臨床データの解釈によって新しい物語を創作するってわけだ。これを「使った、直った、効いた」の“三た式思考法”と呼ぶ(安斎育郎著『霊はあるか 科学の視点から』講談社ブルーバックス、2002年)。これがどれほど危険であるかは、少し考えれば誰でもわかる。例えば、腹痛を訴える人に梅干しを与えたとしよう。10人で実験したところ、その内6人が3時間後に腹痛が解消していた。では、梅干しに腹痛を癒やす効力があるといえるだろうか? 言えるわけがない。


 それどころかエリオット・S・ヴァレンスタインによれば、精神疾患患者に化学的なバランスの崩れがあるという確かな証拠は何ひとつなく統合失調症患者にドーパミン受容体の異常があるという証拠を示した人も誰もいないという。ノルアドレナリンセロトニンについても同様だ。


 企業が利益を追求する以上、当然、実験段階で「きっと効くだろう」「何らかの変化を起こすに違いない」との予断が働く。そこに一定額以上の予算がつぎ込まれていれば、何が何でも都合のいいデータを探し求めるはずだ。彼等にとって、医師や政治家は同じチームメイトだ。ちょっと目配せすれば、わかってくれる――とまあ、こんな具合なのだろう。


 エリオット・S・ヴァレンスタインは決して投薬治療を否定しているわけではない。患者を置き去りにした製薬業界のあり方を告発しているのだ。私も本書を読むまでは、「精神疾患は“心の病”から“脳の病”になった」とばかり思い込んでいた。多くの人々にそう思い込ませたこと自体、アメリカ製薬メーカーによるマーケティングの勝利だった。情報の力は恐ろしい。我々は何となく信じてしまって、医薬品に依存するようになっているのだ。


 世界には、これほどの悪意がはびこっている。

精神疾患は脳の病気か?―向精神薬の科学と虚構

標準語


 もっとも標準語という言い方はおかしいから、NHK訛りということにしておこう。


【『無境界の人』森巣博(小学館、1998年/集英社文庫、2002年)】


無境界の人 無境界の人 (集英社文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

『Memphis』忌野清志郎


 私が最も数多く聴いた清志郎のアルバムだ。アップテンポとバラードのバランスが素晴らしい。オープニングの「Boys」が、ローリング・ストーンズの「ロックス・オフ」を思わせる。


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Memphis(紙ジャケット仕様)

2009-05-05

ガッサーン・カナファーニー


 1冊読了。


 60冊目『ハイファに戻って/太陽の男たち』ガッサーン・カナファーニー/黒田寿郎、奴田原睦明〈ぬたはら・のぶあき〉訳(河出書房新社、1978年〈『現代アラブ小説集 7』〉/新装新版、2009年)/一昨日読み終えていたのだが、書くのを忘れていた。広河隆一著『パレスチナ 新版』(岩波新書、2002年)で紹介されていた一冊。予想をはるかに上回る傑作小説だった。河出書房新社の英断に敬意を表したい。標題作の中篇二つと短篇五つが収められている。どれも読ませる。パレスチナ人が置かれている現実が窺え、彼等が我々と全く変わらない人間であることがよくわかる。ガッサーン・カナファーニーは二十歳(はたち)の頃から糖尿病に苦しみ、1972年7月18日、車に仕掛けられたダイナマイトに吹き飛ばされて死んだ。享年36歳。私の中ではノーベル文学賞級の作品である。

『がんの痛みを癒す 告知・ホスピス・緩和ケア』高宮有介(小学館、1996年)


がんの痛みを癒す―告知・ホスピス・緩和ケア


 最近はがんの告知を受ける人が増えてきているせいか、ホスピス、緩和ケアなどという言葉が行き交うようになりました。本書は、末期がん患者の痛みをモルヒネを使用することによって最小限に押さえ、その患者の余命いく月かのあいだに望む事をさせて、人間らしい最期を迎えさせる大学病院の緩和ケアの4年間にわたる患者と医師たちの人間ドラマともいえる感動のノンフィクションです。登場する患者は6歳から70代まで男女さまざまです。38歳の女性は悪性黒色種で3か月の余命を宣告されるが、一人息子のために体が許す限り仕事をし、最期まで周囲の人々との交流を大事にしながら大晦日に亡くなります。また70代でお酒の好きな男性は最期の数日前まで酒を飲み続けます。もちろんタバコやペットもOKです。「常識を破れ」を合い言葉に、残された時間のクオリティ・オブ・ライフ(生命の質、生活の質)を支えるスタッフの真摯な生き方が、患者やその家族への癒しに繋がっていく様子が読者の胸を打つことと思います。今後の終末医療への提言を含め、人生の最終章を実り豊かに生きるための必読書として、男女・年代に関係なく読むことができます。

画竜点睛を“誤った”一冊/『権威主義の正体』岡本浩一


 薬と毒がセットになったような本だ。前半で緻密に権威主義を批判しておきながら、後半では権力者の走狗になっているような感を覚えた。その意味で、画竜点睛を“誤った”一冊といってよい。


 岡本浩一の著作は2冊しか読んでいないが、いずれも秀逸な「まえがき」から始まり、序盤から中盤にかけては堅実な走りを見せる。ところが、レース終盤で必ず崩れる。つまり、説明能力は長(た)けているが、斬新な見解を示せない人物といってよい。「まとめ屋」なら、それらしくしていればいいのだが、大口を叩こうとして失敗する悪癖があり、最終章でいつも墓穴を掘っている。


 真の権威は、権威主義の異臭を放たぬものである。


【『権威主義の正体』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2005年)以下同】


 こんな痺れるテキストが「まえがき」にあれば、誰だって期待せずにはいられないだろう。


 そして、一章を割いてナチスによるホロコーストを検証しているが、非常によくまとまった資料となっている。続いて、アッシュの同調実験、ジンバルドの監獄実験、ミルグラムの服従実験、アドルノの権威主義的人格の研究などに紙数が費やされている。いずれも有名な実験だが、微に入り細をうがった説明で、予備知識のある人が読んでも飽きさせない工夫を凝らしている。


 ところが、この直後から調子がおかしくなる。あらゆる事象を権威主義で読み解こうとして論調が支離滅裂に傾いてゆく。そして、遂には唖然とするような結論を臆面もなく記している――


 高等教育を受けた人ほど、権威主義的傾向が低いという結果は、これ以外にもさまざま発表されている。有意な関係なしとの報告も散見されるが、逆方向の結果はまず見かけない。教育以外の関連する指標も含めて総括すると、権威主義が相対的に高いのは、教育程度が低い人、老人、田舎に住んでいる人、障害者、教条主義的色彩の強い宗教に関わっている人、社会経済的地位の低い人、社会的に孤立している人という結果が出ている。したがって、一般的に、教育程度が高いほど、権威主義傾向は低くなるものと考えておいて大きな間違いはないだろう。


 何と単なる差別主義に堕してしまっている。まるで、田舎者(※差別用語です)の主張そのものではないか。例えば、権威主義と聞いて我々が真っ先に思い浮かべるのは官僚であろう。官僚システムは高度かつ純粋に権威主義の機能を強化した組織である。ではなぜ、官僚システムに自浄作用が働かないのか? それは、鍛えられた知識・学識が敏感に権力を嗅ぎ分け、自分の将来にとって有用な権威に額づく態度を判断する道具になっているからだ。


 また、中世の魔女狩りもこれでは説明できない。当時、西洋では教会経由でなければ学ぶことができなかった。殆どの科学者が神学などを専攻しているのもこのためだ。魔女狩りは、中世における教会という権威を背景にした異端審問によって生まれた。つまり、「教育程度の高い人」によって引き起こされた側面があるのだ。


 そもそも心理学の実験データは、解釈によっていかようにもこじつけることが可能なものが多い。岡本の主張が稚拙なのは、具体的なデータを示していないこともさることながら、高校・大学進学率の上昇に伴って社会における権威主義的風土が変わった事実を全く証明していないところにある。


 多分、これはケアレスミスだろう。「知性」と書けば何の問題もなかったところを、岡本は「学歴」という“権威”を提示してしまったのだ。


 そして噴飯物の最たるものは以下――


 偉人の言葉や格言をやたらに引用する人は、権威主義である可能性が高い。引用の対象が一人か二人に限られ、引用頻度が高い場合、それが教条になっていることは明らかである。


 岡本は自著の『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』(PHP新書、2001年)で、どれほどミルグラムやアッシュの言葉を引用したか覚えていないらしい。引用に問題があるわけではなく、「引用の仕方」が問われるべきなのだ。ここに至ると、牽強付会すら自覚できなくなっていることが明らかだ。


 最終章の結論は、そのいずれもが権力者に媚びを売る主張となっている。著者がJCO臨界事故の調査委員を務めたこととも関係しているのだろう。「味を占(し)めた」のかもね。いずれも、間違っているわけではないのだが、主張する方向が逆向きになっている。


 また、非常に驚かされたのだが、「あとがき」に「構想は早くから描いていたのに、本書にとりかかる気持ちをととのえるのに数年の時間が必要だった」と綴っているが、実は大半の内容が『無責任の構造』と重複している。


 岡本浩一は多分、「権威主義研究の権威」を目指しているのだろう。その割には自己に対する厳しさが足りない。個人的には、『無責任の構造』をお薦めしておく。

権威主義の正体 PHP新書 330

ないものねだり


 病人は言葉につまりました。いままでまったく気がつかなかったのですが、いつでもそこにないものばかりを欲しがる癖がついてしまったので、さて、いまなにを一番欲しいかということをはっきり、すぐ言うとなると、どうしても言えないのでした。


【『少女パレアナ』エレナ・ポーター村岡花子訳(角川文庫、1962年)】

少女パレアナ (角川文庫クラシックス)

2009-05-04

怠惰理論/『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』トム・ルッツ


 現代の労働倫理からすれば「怠(なま)け者」にしか見えない人々を網羅した労働文化史。大冊だが闊達な文章と豊富な話題でぐいぐい読ませる。


 トム・ルッツの息子が朝から晩までカウチで寝転んでいるシーンから始まる。父親には怒りが込み上げてきた。ここで本書のテーマが読者に問いかけられる。「我々はなぜ、働かない人に対して怒りが湧くのか?」。


 労働は、神がアダムとイヴに与えた呪いだった。古代ギリシャ文化においては、死すべき人間(=奴隷)に課せられた罰だった。そして、宗教改革が「天職」という新しい概念をつくり出した。アウシュヴィッツ強制収容所のゲートには「働けば自由になれる」と書かれていた。


 18世紀、産業革命によって近代が幕を開けた。ベンジャミン・フランクリンが「時は金なり」と言い、サミュエル・ジョンソンは「すべての人間は、怠け者か、怠け者志願者である」と記した。ここに労働と怠惰が火花を散らして向かい合った。


 トム・ルッツはスラッカー(怠け者)こそ文化の担い手であるとして、様々な人物を取り上げている。いつの時代も、常識への抵抗から新しい文化は誕生した。


 怠惰という甘い蜜は、えも言われぬ濃厚な香りを放っている――


「怠惰理論」は、ある面ではかなりシンプルなものだ。「あらゆる生物は、生きていくために働かなければならない。なかには他の人間よりつらい労働をしなければならない者もいる。生存のために働く必要が少ない者は、よりつらく長い労働をしなければならない者よりも、困難な時代を生き抜く可能性が高い。」こうして進化とは「閑者生存」の法則に基づく、と(※クリス・)デイヴィスはサイト上に書いている。


【『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』トム・ルッツ/小澤英実〈おざわ・えいみ〉、篠儀直子〈しのぎ・なおこ〉(青土社、2006年)】


 何という説得力! 私は怠惰理論にあっさりと屈する。喜んで信奉者となろう。王様や貴族に怠惰は付き物だ。女王蜂が蜜を取るために外へ出ることはない。大体、「勤勉は美徳」と義務教育で叩き込まれるのも、それが権力者にとって都合がいいからだ。国家はいつだって奴隷を必要とする。労働者と兵士という名の奴隷を。それしても、「閑者生存」とは見事な翻訳。


 でも、そうじゃないんだよね(笑)。トム・ルッツが揺さぶろうと試みているのは、「義務としての労働」という価値観なのだ。


 動物という次元で考えれば、家族が食う分を確保すればいいわけだが、現代社会の構造はそれを許さない。労働価値は企業を維持する様々な経費を担わされ、流通によって搾取される。


 例えば、10世帯ほどのコミュニティをつくり、分担して食料を自給するとしよう。多分、1日8時間も働かなくていいような気がする。資本主義経済とは、資本の奴隷となることを合意した社会なのかも知れない。そして資本主義は、ヒエラルキーの上層に富を偏在させる


 蛇足となるが、表紙の出来が素晴らしい。

働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち

「ハレルヤ・アイ・ラヴ・ハー・ソー」ジョー・サンプル


 私の一番好きなピアノ曲。ブルージーでファンキーなナンバー。鍵盤が立ち上がってくるような雰囲気がある。レコードが発売されたのは、もう20年以上も前のこと。10代の私はクルセイダーズでフュージョンにはまった。原曲はレイ・チャールズ


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スイング・ストリート・カフェ

川の長さは直線距離×3.14

 曲がりくねった川の長さを測るために、ある数が役に立つのだ。ケンブリッジ大学教授で地球科学者のハンス・ヘンリック・ステルムは、いろいろな川の実際の長さと、水源から河口までの直線距離との比を求めてみた。その比は川ごとに異なっていたけれども、平均すると3よりも少し大きい値になることがわかった。ということは、ある川の実際の長さは、直線距離のおおよそ3倍になるということだ。実をいうと、この比はほぼ3.14なのである。これはπ、すなわち円周と直径の比の値に近い。


【『フェルマーの最終定理 ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで』サイモン・シン青木薫訳(新潮社、2000年)】

フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-05-03

ファシズム全体主義を徹底的に糾弾する一書/『ドラッカー名著集 9 「経済人」の終わり』P・F・ドラッカー


 ドラッカーの処女作である。書き始めたのはヒトラーがドイツ首相となった直後のこと(1933年2月)。ドラッカーは23歳だった。書き上げた後も原稿を温めていた。ドラッカーの予測は次々と的中した。こうして1939年(昭和14年)に刊行されベストセラーとなった。イギリスのウィンストン・チャーチルが最初に書評を書き「タイムズ」で激賞。後に首相となったチャーチルはイギリス軍士官学校の卒業生に与える支給品の中に本書を加えるよう指示した。


 本書は、第二次世界大戦に先駆けて発行された。翌1940年にはパリが陥落。連合国側ではイギリスが最後の砦となった。ということは、20代の無名の青年がファシズム全体主義を徹底的に完膚なきまでに打ちのめした本書によって、連合国側の大義名分を力強く支えた可能性がある。「正義によって立て、汝の力二倍せん」(ブラウニング)。


 正直言って歯が立たなかった。何度か読み直すことが必要だ。世界大恐慌から第二次世界大戦という混乱の中からファシズム全体主義は生まれた。そして今再び、世界が経済的なダメージを受けている。70年後の今こそ本書は読まれるべき傑作である。


 本書は政治の書である。

 したがって、学者の第三者的態度をとるつもりも、メディアの公平性を主張するつもりもない。本書には明確な政治目的がある。自由を脅かす専制に対抗し、自由を守る意思を固めることである。しかも本書は、ヨーロッパの伝統とファシズム全体主義との間にはいかなる妥協もありえないとする。


【『ドラッカー名著集 9 「経済人」の終わり』P・F・ドラッカー/上田惇生〈うえだ・あつお〉訳(ダイヤモンド社、2007年/岩根忠訳、東洋経済新報社、1958年)以下同】


 ドラッカーは烈々たる決意を披瀝している。彼は19歳の時、ナチスが台頭するドイツにいた。若く澄んだ瞳でファシズムが産声(うぶごえ)を上げる様子を見つめていた。それどころか、ドラッカーは同僚記者からナチス入党を勧められた。編集長という好条件つきで。その直後にドラッカーはドイツを脱出する。そのころ既にナチスを批判する記事を彼は書いていた。


 なぜ民主主義諸国は自らの信条のすべてを脅かす重大な脅威を抑制できないのか。臆病だからではない。ファシズム全体主義との闘いのためにスペインで命を捧げた数千の労働者、追悼の歌さえないドイツとイタリアの無名の地下運動家など、英雄的行為は確かに存在した。勇気がファシズム全体主義を止められるものならば、それはとうの昔に止められていたはずだった。

 ファシズム全体主義の脅威に対する闘いが実を結んでいない原因は、われわれが何と戦っているかを知らないからである。われわれはファシズム全体主義の症状は知っているが、その原因と意味を知らない。ファシズム全体主義と闘う反ファシズム陣営は、自らがつくり出した幻影と闘っているにすぎない。

 この無知が原因となって、民主主義国の中に、ファシズム全体主義の過激さは一過性のものにすぎないとの見方が生まれ、さらにはファシズム全体主義そのものも永続しないとの錯覚が生まれている。そしてこの両者が相まって民主主義勢力を弱体化している。したがってファシズム全体主義の原因の分析こそ緊急の課題である。


「知は力」「学は光」というが、これほど骨太の知性を私は見たことがない。ドラッカーはファシズム全体主義と同様に、マルクス経済主義もこてんぱんにこき下ろしている。


 ドラッカーは徹底して「社会」を見つめた。歴史や世界を「人々の動き」から読み解こうとした。ファシズム全体主義の目的は“体制の維持”であり、そこに“社会の発展性”は欠落している。目的地は不問に付され、ただ“走ること”が求められる。


 ドラッカーはヨーロッパ史をひもとき、宗教に言及し、抑圧された大衆がイデオロギーに翻弄される様相を炙(あぶ)り出す。戦後、50年を経たとしても、これほどの書物を著すことのできる人物がいるだろうか? それを開戦前に、しかも20代の青年が著したのだ。


 ドラッカーによれば、13世紀には「宗教人」なる概念の崩壊があり、16世紀には「知性人」なる概念の崩壊があったとしている。そして、20世紀から21世紀にかけて「経済人」なる概念が崩壊しつつある。新しい時代は、情報を価値にできる人=知恵人が求められているように私は思う。


 追伸――表紙は金縁にしておきながら、中身は紙質の悪い紙を使用していて、「名著集」に相応しくない。ダイヤモンド社のあざとさが丸出しだ。本の作りからいえば、1500円でも高いと思う。それと、引用文でもないのに段落下げをする意味が理解できない。

ドラッカー名著集9 「経済人」の終わり

「One more time, One more chance」山崎まさよし


 山崎まさよしの魅力は、「心地よい神経質」ともいうべき性格にある。この歌は、“本当の愛”が仮想というイマジネーションの世界にあることを示していてお見事。

D


HOME


 背は伸びないが、爪は伸びる。年をとると、身体は水平方向を目指す。

ゼロ


 ゼロは静かだ。一も限りなく静かである。二はうるさくなる。

消費としての戦争


 消費が善であると考えられている限り、あらゆる戦争は正当化される。消費の本質は浪費であり、その最たるものが戦争に他ならない。

歴史とは過去を正しく理解すること


 歴史とは過去を正しく理解することで、現在の価値の基準で裁くことではないのです。


【『イメージを読む 美術史入門』若桑みどり(筑摩書房、1993年/ちくま学芸文庫、2005年)】


 そして、過去を正しく理解することが不可能であることを自覚する態度である。

イメージを読む―美術史入門 (ちくまプリマーブックス) イメージを読む (ちくま学芸文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-05-02

訃報:忌野清志郎さん58歳=ロック歌手 がん治療続け


「ベイベー!」や「愛し合ってるかーい!」などの決めぜりふ、奇抜な衣装と演出で知られるロック歌手、忌野清志郎(いまわの・きよしろう、本名・栗原清志=くりはら・きよし)さんが2日、がん性リンパ管症のため死去した。58歳だった。葬儀は9日午後1時、東京都港区南青山の青山葬儀所。喪主は妻の栗原景子(くりはら・けいこ)さん。

 東京生まれ。68年に中学校の同級生らと、忌野さんをリーダーとするバンド「RCサクセション」を結成、70年に「宝くじは買わない」でデビューした。72年には「ぼくの好きな先生」が、82年には坂本龍一さんと組んでリリースしたシングル「い・け・な・いルージュマジック」が大ヒットし、日本の「ロックの神様」としてコンサートのほか、CMや映画などで活躍した。

 一方、「音楽は時代の刺激剤であるべきだ」との信念を持ち、政治的なメッセージを込めた歌も歌った。そのため、反原発を扱ったアルバム「COVERS」やパンクロック風にアレンジした「君が代」が入ったアルバム「冬の十字架」が一時、発売中止になったり、コンサートで突然「あこがれの北朝鮮」「君が代」を歌って、FM中継が中断したこともあった。

 06年7月に喉頭(こうとう)がんと診断され入院。治療を続けた後、08年2月に日本武道館で本格復帰した。しかし、同7月、左腸骨にがんが転移していたことが判明、再び活動を中止し放射線治療などを続けていた。


【毎日新聞 2009-05-02】

桜井章一


 1冊読了。


 59冊目『運に選ばれる人 選ばれない人桜井章一(東洋経済新報社、2004年)/桜井章一は、私が現代の阿羅漢と目する人物の一人。余白が多いため、「出版社に利用されたのか?」と思ったが、杞憂に過ぎなかった。蝶のようにヒラリヒラリと自由な思考が舞う。それにしてもいつも思うのだが、20年間無敗を誇る雀鬼がどうして読者に敬語を使うのだろう? ここに私は桜井章一の謙虚さを感じる。桜井は、見知らぬ誰かに対して自分の考えを述べているのだ。桜井は独善性とは無縁の人物だ。これほどの人物となるまでには、並大抵ではない葛藤があったことだろう。桜井はそれを黙して語ることがない。

15年前に豚インフル蔓延を予測していた米軍?


米空軍大学作成の「未来予測分析報告書」

  • 2009年、インフルエンザによって3000万人が死亡。
  • 2010年、世界中で地域紛争が増大。その結果、もはや対処できなくなった国連は解散する。
  • 2012年、NYの金融街・ウォールストリートを高エネルギー電波(HERF)が襲う。その結果、金融マーケットに欠かせないコンピューター・システムが全て破壊され、大混乱に陥る。

原田武夫国際戦略情報研究所 2009-05-01】

教育という関係性/『問いつづけて 教育とは何だろうか』林竹二


 林竹二は稀有(けう)な教育者だ。教育論といえば、制度のあり方を論じるか、あるいは教師に“神の役割”を押し付けるかといった方向になりがちである。だが林は、「教育技術」を真摯に追求した。


 林竹二宮城教育大学学長を務めた後、全国の学校を行脚(あんぎゃ)した。そこで一教師として生徒と向き合い、勝負を挑んだ。林にとって授業とは真剣勝負そのものだった。学ぶことは変わることであり、生徒が変わらなければ学んだとはいえない――これが林の信念だった。


 本書にはたくさんの写真が配されている。この写真の意味を知りたいなら、本書を開く前に、『教育の再生をもとめて 湊川でおこったこと』(筑摩書房、1984年)を読んでおくことを勧めておく。


“教師という偶像”が保たれていたのは、多分「3年B組金八先生」(TBS、1979年)あたりまでだろう。教育はまだ“美しい物語”だった。しかし、だ。この番組は、教育崩壊の予兆を感じさせる匂いを放っていた。まず、放映当初から指摘されていたが、先生役の武田鉄也が長髪だった。次に、第一シリーズの全23回のうち6回にわたって、浅井雪乃(杉田かおる)の妊娠を巡る内容となっている。命の大切さを教えるために、「中学生の妊娠」という事件を必要としたのだ。これは、やり方が汚いと思う。


 私はこの番組を少ししか見てないが、間違いなく「愛する二人がきちんと責任をとって前向きに生きてゆく」ストーリーになっていたはずだ。こんな単純で馬鹿げた展開であっても、中学生ならコロリと騙される。ま、ゴキブリがホウ酸団子を食らったような状態だろう。つまり、愛があれば妊娠に至る行為は正当化されるってことよ。むしろ「性交化」と言うべきか。ここにおいて教育は、妊娠を取り巻く付随行為に格下げされているのだ。武田鉄也はその後、坊主みたいに説教臭い話し方をするようになった。


 余談が過ぎた。現代においては、その殆どが職業教師であろう。私はそのこと自体を否定はしない。教師というだけで妙な聖性を求めるのは、職業による逆差別であると言ってよいだろう。しかしながら、小中学生という季節に及ぼす教師の人格的影響は決して無視できない。ここに、教育問題の行き詰まりがあるのだと私は思う。


 その意味から、以下のテキストを「教育的関係」にある全ての大人に捧げよう――


 ――とくに切り捨てられるという状況に追い込まれた子どもたちにとっては、先生というのは、何ともこわい存在になっているようですね。


 だから、そうさせるものはいったい何なんだろうかということをじゅうぶん掘り下げて考えてみる必要があると思うんです。もちろんこれは、教師だけの責任にしてそれで片づく問題ではないだろうとは私も考えています。教師だけの力ではどうすることもできない力がいろいろ働いて、それが教育の方向を左右する場合も少なくない。そういう問題が当然かかわってくると思います。そのことはお話の中でだんだん考えていかなければならないと思うんですけれど、私は、教師にとって、子どもというものが教える対象でしかないということ、あるいは教える対象としてしか子どもを見ることができないという事実が根本にあって、教師をひどく冷たい、非人間な存在にしてしまっているように感じているのです。


 ――教える対象でしかないということは、ただ単に一方的に教えるだけ、ということでしょうか。


 そう。「教える」という行為以前の教師の姿勢に問題があると思うんです。子どもにたいして、人間と人間として向き合うという場面がなくて、あらゆる瞬間に、片方が教師であり、片方は生徒であるという、そういう関係でしか子どもに対していないということが、やはり問題ではないかという気がするのですけれど。


【『問いつづけて 教育とは何だろうか』林竹二〈はやし・たけじ〉(径書房、1981年)】


 林の指摘は正しいが、果たして今そこまで教師に望んでいいものだろうか。モンスターペアレントに戦々恐々としながら、学校という学校は教師に対してラインオーバーすることを許さない。ひょっとすると、教師も親も社会の犠牲者なのかも知れない。


 そんなわけのわからない時代になればなるほど、林竹二の影は巨大に伸びてゆく。林の真っ当な正論を読むたびに、「人間がどんどんいなくなってゆく」という不安が私の中で蠢(うごめ)く。

問いつづけて―教育とは何だろうか

『宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体』ブライアン・グリーン/青木薫訳(草思社、2009年)


 ブライアン・グリーンの新著が出た。


宇宙を織りなすもの――時間と空間の正体 上 宇宙を織りなすもの――時間と空間の正体 下


 物理学によれば、私たちの時間と空間に関する常識的な感覚は、どうしようもないほど間違っている。たとえば、「時間は流れるもの」「歴史はひとつのはず」「空っぽの空間ではなにも起こらない」という常識的な考え方は、どれも間違っているというのだ。物理学は、いったいどのように私たちの「常識」をくつがえすのか? この世界の本当の姿は、私たちの「常識」から、どれほどかけ離れているのだろうか? 『エレガントな宇宙』の著者ブライアン・グリーンが、現代物理学のもたらす世界像を鮮やかに描き出した、待望の最新作。


「時間も空間も伸び縮みする」とは、いったいどういうことなのか? 「宇宙は膨張している」とは、宇宙の何が膨張しているのか? あるいは、「宇宙は一枚の膜かもしれない」「量子力学を使ったテレポーテーションが成功した」「ブラックホールを作る実験を行う」など、耳を疑うような物理学の主張は、いったい何を意味しているのか? そして最も重要なことだが、それらの物理学の成果は、私たちの時間と空間に対する見方をどう変えるのだろうか? 『エレガントな宇宙』の著者ブライアン・グリーンが、現代物理学による探究の成果を、一望のもとに描き出す。

リンチの語源


 今でも使われる「リンチ」という言葉は、アメリカ南部で生まれた。これは独立革命期に公衆の場での熾烈な懲罰行為を推し進めたチャールズ・リンチの名前に由来する言葉であり、犠牲者の大半は黒人であった。1892年には1年間だけで162人の黒人がリンチによって命を奪われた。およそ二日に一人が殺されたということになる。


【『世界反米ジョーク集』早坂隆(中公新書ラクレ、2005年)】


世界反米ジョーク集 (中公新書ラクレ)

2009-05-01

外情報/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 世界一短い手紙(※正確には電報)はヴィクトル・ユゴーが書いたもので、「?」だけが記されていた。これに対する出版社の返事が振るっていて「!」のみ。発売されたばかりの『レ・ミゼラブル』の売れ行きをユゴーが尋ね、出版社が「売れ行き良好」と答えたもの。まさに阿吽(あうん)の呼吸だ。


 トール・ノーレットランダーシュは、意図的に省略された情報を〈外情報〉と名づける――


 ユゴーが書いた疑問符は、明白な形で情報を処分した結果だ。もっとも、ただの処分とは違う。彼はたんに全部忘れてしまったのではない。処分した情報を明確に指し示した。しかし、通信文という観点に立てば、その情報はやはり捨てられてしまっている。本書では、この明白な形で処分された情報を〈外情報〉と呼ぶことにしよう。


【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ/柴田裕之訳(紀伊國屋書店、2002年)以下同】


 で、〈外情報〉にはどのような効果があるのか――


 多くの〈外情報〉を含んだメッセージには深さがある。ある人が最終的なメッセージを作り上げる過程で、意識にある大量の情報を処分し、メッセージから排除すれば、そこには〈外情報〉が生まれる。メッセージの情報量からだけでは、そのメッセージがどれだけの〈外情報〉を伴っているかはわからない。メッセージのコンテクストを理解して初めてそれがわかる。送り手は自分の頭にある情報を指し示すように、メッセージの情報を作り上げる。


 こうなると、情報というよりは言葉の本源に関わってくる問題だ。つまり、我々は日常において言語を介して意思の疎通を図っているが、言語に対するイメージは人によって微妙に異なる。同じということはあり得ない。とすれば、ここに言葉の詐術がある。


 人が心の底から感動した時、「言葉にならない」と言う。本来、情感というものは言葉では表現し尽くせないものだ。それを、相手に何とか伝えようとして我々は言葉を駆使し、声に抑揚をつけ、目を丸くし、身振り手振りを交えて――つまり、身体的な言語をも活用して――表現するのだ。


 結局、意図的に言葉を省略することで、「言葉にならない思い」がメッセージとして放たれるわけだ。「見つめ合う恋人同士」に言葉は不要であろう。ま、数ヶ月もすれば互いに言葉尻を捉えて喧嘩するようになるんだけどさ。


 ここで聞き手に求められるのは、コンテクスト(文脈)を読み解く能力だ。心の深い人物は、おしなべて「声なき声」をすくい取ることができる。本当に耳を澄ませば、小さなため息一つからでも相手の悩みを感じ取ることはできる。


 コミュニケーションの上手な人は自分のことばかり考えたりしない。相手の頭に何があるかも考える。相手に送る情報が、送り手の頭にある何らかの情報を指し示していても、どうにかして受け手に正しい連想を引き起こさせなければ、それは明確さという点で十分とは言えない。情報伝達の目的は、送った情報に込められた〈外情報〉を通して、送り手の心の状態に相通ずる状態を、受け手の心に呼び起こすことだ。情報を送るときには、送り手の頭にある〈外情報〉に関連した何らかの内面的な情報が、受け手の心にもなければならない。伝えられた情報は、受け手に何かを連想させなければならない。


 一読すると、「フーン」以上、で終わりかねないが、実は凄いことを言っている。飯嶋和一著『汝ふたたび故郷へ帰れず』(河出書房新社、1989年)を読んで私は悟った。北朝鮮から帰ってきた曽我ひとみさんが、新潟で父上と再会した際のやり取りなんかが、まさにそうだ。


 仏法ではそれを「念」と名づけた。そして、今この瞬間の思いを「一念」と称し、三千の世間(※本質的な差異との意)を内包していると説かれている(一念三千)。


 言葉を圧縮すれば、当然重みが増す。地球を半径2cmまでに圧縮すれば、ブラックホールが出来上がる(ブライアン・グリーン著『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する草思社、2001年)ように。格言や名言が心に響くのも、省略された情報が多いためだと理解できる。そして、〈外情報〉が豊富になればなるほど、メッセージの抽象度は高くなってゆくのだ。

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

小さな積み重ねが大きな差になる


 対局者同士で一つ一つの場面での判断の違いは小さな差であると思う。しかし、それが10個になり20個、50個となると大きな差になる。作戦の考え方、組立て方では大きな違いがなくても、ちょっとした判断の違いが積み重なると、局面に棋士の個性が出てくるのだ。


【『決断力』羽生善治(角川oneテーマ21、2005年)】

決断力 (角川oneテーマ21)