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2009-05-29

「長嶋茂雄っぽい感じ」とプラトンのイデア論/『脳と仮想』茂木健一郎


 これは面白かった。小林秀雄の講演「信ずることと考えること」が取り上げられていることを知り、一も二もなく取り寄せた。流麗な文章で実に見事な解説をしている。


 しかし、である。読んでいる時には気づかなかったのだが、いくつかのテキストを入力したところ、底の浅さが目についた。「意識と仮想」というテーマで綴られたエッセイに過ぎないのだ。こりゃ散文だわな。


 茂木健一郎はどこぞの大学の講義でも暴露しているが、「取り敢えず原稿に向かってペンを走らせてから考える」と語っていた。もちろん脳科学者なんだから、今まで温めていた内容もあるとは思う。だが、一定の時間をかけて成熟した思考となっていないことが明らか。実にもったいないと思う。


 その意味では、トール・ノーレットランダーシュ著『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』(紀伊國屋書店、2002年)の足許にも及ばない。


 クオリアとは質感を指す言葉である。概念としてはまだまだ中途半端なもので、一定の共通認識にすらなっていないことを弁えておく必要がある――


 たとえば、「長嶋茂雄っぽい感じ」も、私たちの心の中で、一つのクオリアとして感じられており、その意味ではプラトン的世界の住人である。「長嶋茂雄っぽい感じ」は、昭和の日本において多くの人の脳の中で神経細胞の活動の相互関係として現実化した。しかし、潜在的には、「長嶋茂雄っぽい感じ」は、宇宙の開闢(かいびゃく)以来百億年余りの間、プラトン的世界の住人としてずっと存在し続けて来たのだと言える。ちょうど、正二十面体という数学的概念が時を超えた普遍的実在であるように、「長嶋茂雄っぽい感じ」も、プラトン的世界の住人として、時を超えた普遍的存在なのである。


【『脳と仮想』茂木健一郎(新潮社、2004年/新潮文庫、2007年)】


「プラトン的世界」とはイデア論のことだろう。

 実はここで行き詰まっていたのだよ。紹介したテキストは非常に面白いのだが、どうもすっきりしない。脈絡や根拠が完全に無視されている。大体、「長嶋茂雄っぽい感じ」が普遍的存在のはずがないよ(笑)。


 もう一つ致命的なことを指摘しておこう。そもそも、前半で取り上げられた小林秀雄の講演はイデア論とは正反対の主張をしているのだ。小林は「魂はあるに決まっている」と言い切り、亡くなった母親を小林が懐かしむところに母の魂が存在していると断言する。そして、小林が「経験」に重きを置いていることが明らかだ。


 この問題の詳細を書くだけの力量が私にはない。プラトンとアリストテレスがキリスト教に与えた影響力を調べる必要がある。


 ま、いずれにしてもだ、神の世界(イデア界)を真実として、この世を陰と判じたことは確かだろう。つまり、苫米地流に言えば「あの世の論理」ということになる。


「神」とは完全性であり絶対性を示す存在だ。神が誕生した途端、人間は不完全なものとなり、相対的な立場に追いやられる。そして、有無を言わさず「神の僕(しもべ)」になることを強いられる。


 イデア論は、仏法で説かれる三諦論の中道に似て非なる性質をはらんでいる。クオリアもまた、五蘊仮和合(ごうんけわごう)を想起させるがベクトルが異なっている。


「長嶋茂雄っぽい感じ」は、長嶋茂雄の存在に依っている。だから、長嶋茂雄が存在する以前にそれはない。茂木健一郎の文章がおかしいのは、固有性を普遍性へと無理に拡張しようとするところにある。


 感覚は人によって異なる。同じものを見て美しいとため息をつき、同じものを食べて美味しいと頬を緩めても、感覚は皆異なっている。というよりは、言葉の細かいニュアンスからして、人によって相違があるのだ。


 社会やコミュニティでは、それを擦り合わせる作業が必要となる。これが文化であり価値観であろう。大体、脳自体がネットワークシステムとなっているので、社会も当然ネットワーク化される。ヒエラルキー。


 意識なんて、脳内に飛散している火花のような代物だと私は考える。「あなた」や「私」は確かに存在しているのだが、何が自分を支えているのかは誰にもわからない。経験・反応・学習だけでは推し量ることのできない何かがあるとは思うのだが、悲しいことに我々は無意識を意識することができない。なぜなら、無意識を言葉にすることができないからだ。


 散々悪口を書いておいたが、面白い本だからね(笑)。

脳と仮想 脳と仮想 (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

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