古本屋の覚え書き このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 古本屋の覚え書きを検索

2009-07-31

イラクチームの快進撃を政治利用したブッシュ大統領/『蹴る群れ』木村元彦


 私はサッカーをまったく観ない。多分、日本代表がワールドカップの決勝戦に進出したとしても観ることはないだろう。そんな私が本書を開くや否や、一気に引きずり込まれ、貪(むさぼ)るように読んだ。


 彼等は紛争という大地に立っていた。彼等は人種差別というフィールドを駆け抜けた。そして彼等は同胞の希望を託してボールを蹴り上げた。世界各国のサッカー選手が、これほどの困難な状況下でプレーしていることを私は初めて知った。政治・宗教・民族にまつわる問題がチームを引き裂き、翻弄する。彼等にとってサッカーができることは、文字通りの自由を意味した。


「サッカーというスポーツで世界は一つになれるかも知れない」――そんな青臭いことを本気で思わせるほどの内容だ。高校の教科書に採用すべきだ。世界が置かれた現実を、これほど雄弁に物語っている作品はそうない。


 では、イラク戦争を見てみよう――


 5月、アブグレイブ刑務所での米兵による虐待行為が明るみに出た。世界中に発信されたその写真は、おぞましさに目をおおいたくなるような代物(しろもの)だった。イラク人捕虜を全裸にした上での自慰行為の強制、覆面(ふくめん)をさせた上で殴打し、踏みつける、人間ピラミッド、タブーである豚肉を食べさせる等々。しかも、実行している米兵は指をさして笑っている。人間の尊厳を踏みにじった、この同胞への蛮行。

 その話題に変えると、(イマード・)リダはとたんに声を荒らげた。耳にするや否や、まるで目の前に米軍部隊がいるかのように、今まで理性的だった男は激しく興奮しだした。

「おまえたちはイラクを解放すると言っておいて、こんなひどい仕打ちをする。おまえらが言っていることは全部嘘だ! 世界はこんな蛮行は許せないと言っているぞ!」

 私は米兵の代わりに、怒鳴られる格好となった。

 アブグレイブで起こった出来事が、メディアを通じて流されたことで、当事者であるイラク人たちが、どれほど屈辱的な思いをさせられたことか。民族的トラウマといっていい。五輪出場を決めることで、同胞に蔓延(まんえん)したこの屈辱感を一掃(いっそう)したかったのだと、リダは言う。


【『蹴る群れ』木村元彦〈きむら・ゆきひこ〉(講談社、2007年)以下同】

 イラク代表選手の多くは明朗かつ知的だった。その彼等がアメリカに対しては一様に怒りを露(あら)わにした。温厚なラザク・モサも「あの虐待の様子がテレビに映しだされたとき、もしも、すぐそばにアメリカ人がいたら、私はそいつを殺していたかもしれない」と語っている。


「無差別攻撃を受けて、サドルシティに住む私の友達は、3人が死に、2人が重症(ママ)を負った。デモクラシーとやらはどこにあるんだ?」(MFハイタム・タヘル)

「アメリカは、バグダッドに自由を授けにきたと言っている。そんな嘘を、絶対に私は認めはしない」(セルマン)


 これが“被害者の声”だった。アメリカは“現代の十字軍”といってよい。自分達の勝手な正義を掲げて、彼等は他の国々を蹂躙(じゅうりん)する。冷戦構造が崩壊して、世界はアメリカの縄張りと化した。


 ところが、このイラクチームの快進撃を、こともあろうにアメリカのブッシュ大統領が政治利用しようとした。大会期間中、再選を目指す選挙広告にこのようなコピーを流したのだ。

「今回のオリンピックより、自由になった国が2つ出場します。テロリストが牛耳(ぎゅうじ)っていた政権は、2つ減りました」

 2つとは、アフガニスタンとイラクを指す。このキャンペーンにイラクチームは猛反発した。激怒したMFのサリフ・サディルはアメリカのスポーツイラストレイテッドのインタビューにこう答えている。

「自分を宣伝するなら、ほかにやり方があるじゃないか。私たちの国に米軍がいることを、私たちは望んでいない。米軍には出ていってもらいたい」

 ファルージャの地獄を知っているムナージドは、もっと過激に言い切った。

「よそ者がアメリカを侵略し、それに抵抗したら、そのアメリカ人はテロリストってことになるのか? ファルージャの人は皆、テロリストというレッテルを貼られている。全部嘘っぱちだ。もし、自分がサッカーをやっていなかったら、間違いなくレジスタンスに加わっていただろう」

 アメリカに追随し、この戦争を肯定した日本のメディアも、ブッシュの思惑に加担した。8月29日の産経新聞は、イラク=ベスト4の快挙を〈産経抄〉でこう書いた。

『「四強は大きな成果だ」。こう胸を張った監督も選手も、内心は敗戦の悔しさより、何の恐怖心もなく帰国できる喜びを噛みしめたに違いない』

 米国のイラク攻撃が平和をもたらしたと喧伝(けんでん)したいのだろう。冗談ではない。戦闘がますます激化しているイラクに何の恐怖心もなく帰国できるはずがない。実際、シュタンゲの後を継いだハマド監督は、BBCに対して、

「オリンピックが終ったら、我々は街路を歩くのも怖い場所に帰っていかねばならない。多くの人たちがアメリカを憎んでいる」

 と発言しているのだ。スポーツ選手が負けて悔しくないはずがない。取材もせずに、勝手に「内心」を憶測で「違いない」と言い切る傲慢(ごうまん)さ。


「良好な日米関係」とはこういうことを指すのだ。アメリカの国家的犯罪を正義と信認し、細部にわたって理想の物語を紡ぎ出すのが日本の役目だ。アメリカンドリームはいつだって力によって支えられている。そう。暴力だ。


 イラク選手の言葉を“民族的な感情”に過ぎないと斥(しりぞ)けることは難しい。その民族感情をはっきりと自覚させたのはアメリカの攻撃に他ならない。たとえ国家の指導者に罪があったとしても、その国の民を殺していい道理など存在しない。


 それにしてもブッシュという男は、猿回しの猿同様に判断力を欠いている。親子二代にわたって戦争を遂行した大統領として歴史に名を残すことだろう。ブッシュの祖父はヒトラーのビジネスパートナーだった。曽祖父もまた親ナチス派だった(菅原出〈すがわら・いずる〉著『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか草思社、2002年)。

 イラク選手の言葉から“民の声”が聞こえてくる。彼等が発する言葉には力強い真実の響きがある。私は彼等に阿羅漢を見出す。


 世界がいかなる閉塞状況に追いやられようとも、フットボール選手は芝の上で躍動する。フィールドを駆って彼等が蹴るのは不自由と不条理だ。

蹴る群れ

『知覚の呪縛 病理学的考察』渡辺哲夫(ちくま学芸文庫、2002年)


知覚の呪縛―病理学的考察 (ちくま学芸文庫)


 重篤な分裂病者の言葉に徹底的に耳を傾け、その世界に身を投じ、自らを変容させ、その変容を論理的に記述、分析、哲学的考察を加えることで、初めて立ち現れてくる分裂病者の世界。私たちが抱く「分裂病」の一般的イメージを根底より破壊する衝撃の一冊。

『死と狂気』渡辺哲夫(ちくま学芸文庫、2002年)


死と狂気 (ちくま学芸文庫)


 ここに6人の重篤な精神分裂病者がいる。“死”にとりまかれた彼らの狂気を診るにつけ、その病の本質がみえてくる。“死者”を死者たらしめることができないとき、人は狂気の淵をのぞきこむ。翻って、私たちの生は、無量無数の死者たちに支えられ、歴史として構造化される時初めて、主体性を贈与されるのだ。私たちは死者によって生かされている。日本独自な民俗的土着信仰、他界観を規定する死者たちをも射程に入れながら展開するわれわれの精神史の古層からの狂気論。

2009-07-30

ままにならないのが人生だ


 私は今年で40歳になったが、人生とは何だ? と聞かれたら、多分こう答えるだろう。

「ままにならないのが人生だ」

 笑いたい人は笑えばいい。私は40歳になっても、いまだに“人生とは何か”などということを、こういう表現でしか答えようがない。

 しかし、“ままにならない”ということだけは胃が痛くなるほどよくわかっている。


【『回想』王貞治勁文社、1981年/ケイブンシャ文庫、1983年)】

回想

究極のペシミスト・鹿野武一/『石原吉郎詩文集』〜「ペシミストの勇気について」

 石原吉郎〈いしはら・よしろう、1915-1977〉の詩・散文・日記が収録されている。岡真理著『アラブ、祈りとしての文学』(みすず書房、2008年)で「望郷と海」が紹介されていて、そこから辿り着いた一冊。


 シベリア抑留版『夜と霧』(V・E・フランクル)、あるいは『溺れるものと救われるもの』(プリーモ・レーヴィ)といっていいだろう。極限状況からの生還者は、生還後の思索によって再び極限状況を生きることになる。彼等にとっての現実は、極限状況の中にしか存在しない。彼等は常に、迫り来る死を自覚しながら生にしがみついた過去へと否応なく引き戻される。山男にとっての現実は山頂にしか存在しない。それと同様に彼等は極限状況を志向する。


 人間は追い詰められると“卑小な存在”と化す――


 入ソ直後の混乱と、受刑直後のバム地帯でのもっとも困難な状況という、ほぼ2回の淘汰の時期を経て、まがりなりにも生きのびた私たちは、年齢と性格によって多少の差はあれ、人間としては完全に「均らされた」状態にあった。私たちはほとんどおなじようなかたちで周囲に反応し、ほとんど同じ発想で行動した。私たちの言動は、シニカルで粗暴な点でおそろしく似かよっていたが、それは徹底した人間不信のなかへとじこめられて来た当然の結果であり、ながいあいだ自己の内部へ抑圧して来た強制労働への憎悪がかろうじて芽を吹き出して行く過程でもあった。おなじような条件で淘汰を切りぬけてきた私たちは、ある時期には肉体的な条件さえもが、おどろくほど似かよっていたといえる。私たちが単独な存在として自我を取りもどし、あらためて周囲の人間を見なおすためには、なおながい忍耐の期間が必要だったのである。


【『石原吉郎詩文集』石原吉郎〈いしはら・よしろう〉(講談社文芸文庫、2005年/初出は「思想の科学」1970年4月)以下同】


 これほど恐ろしい表現は他にあるまい――“均(な)らされた状態”。権力者の手によって、シベリアに抑留された人々は均された。それに加えて、堕落という重力も日常以上に強く働いたに違いない。平均化、均質化、一般化された人々は個を失う。もはや彼等は人間ではない。ただの労働力だ。


 良識も自制心も道徳心も破壊される状況にあって、一人の男が異彩の光を放った。鹿野武一〈かの・ぶいち〉その人である――


 このような環境のなかで、鹿野武一だけは、その受けとめかたにおいても、行動においても、他の受刑者とははっきりちがっていた。抑留のすべての期間を通じ、すさまじい平均化の過程のなかで、最初からまったく孤絶したかたちで発想し、行動して来た彼は、他の日本人にとって、しばしば理解しがたい、異様な存在であったにちがいない。

 しかし、のちになって思いおこしてみると、こうした彼の姿勢はなにもそのとき始まったことでなく、初めて東京の兵舎で顔をあわせたときから、帰国直後の彼の死に到るまで、つねに一貫していたと私は考える。彼の姿勢を一言でいえば、明確なペシミストであったということである。


 ここで石原吉郎が使う「ペシミスト」は、悲観論者ではなく厭世主義者の意味であろう。では、鹿野武一は具体的にどのように振る舞ったのか――


 バム地帯のような環境では、人は、ペシミストになる機会を最終的に奪われる。(人間が人間でありつづけるためには、周期的にペシミストになる機会が与えられていなければならない)。なぜなら誰かがペシミストになれば、その分だけ他の者が生きのびる機会が増すことになるからである。ここでは「生きる」という意志は、「他人よりもながく生きのこる」という発想しかとらない。バム地帯の強制労働のような条件のもとで、はっきりしたペシミストの立場をとるということは、おどろくほど勇気の要ることである。なまはんかなペシミズムは人間を崩壊させるだけである。ここでは誰でも、一日だけの希望に頼り、目をつぶってオプティミズムになるほかない。(収容所に特有の陰惨なユーモアは、このようなオプティミズムから生れる)。そのなかで鹿野は、終始明確なペシミストとして行動した、ほとんど例外的な存在だといっていい。

 後になって知ることのできた一つの例をあげてみる。たとえば、作業現場への行き帰り、囚人はかならず5列に隊伍を組まされ、その前後と左右を自動小銃を水平に構えた警備兵が行進する。行進中、もし一歩でも隊伍を離れる囚人があれば、逃亡とみなしてその場で射殺していい規則になっている。警備兵の目の前で逃亡をこころみるということは、ほとんど考えられないことであるが、実際には、しばしば行進中に囚人が射殺された。しかしそのほとんどは、行進中つまずくか足をすべらせて、列外へよろめいたために起っている。厳寒で氷のように固く凍てついた雪の上を行進するときは、とくに危険が大きい。なかでも、実戦の経験がすくないことにつよい劣等感をもっている17〜18歳の少年兵にうしろにまわられるくらい、囚人にとっていやなものはない。彼らはきっかけさえあれば、ほとんど犬を射つ程度の衝動で発砲する。

 犠牲者は当然のことながら、左と右の一列から出た。したがって整列のさい、囚人は争って中間の3列へ割りこみ、身近にいる者を外側の列へ押し出そうとする。私たちはそうすることによって、すこしでも弱い者を死に近い位置へ押しやるのである。ここでは加害者と被害者の位置が、みじかい時間のあいだにすさまじく入り乱れる。

 実際に見た者の話によると、鹿野は、どんなばあいにも進んで外側の列にならんだということである。明確なペシミストであることには勇気が要るというのは、このような態度を指している。それは、ほとんど不毛の行為であるが、彼のペシミズムの奥底には、おそらく加害と被害にたいする根源的な問い直しがあったのであろう。そしてそれは、状況のただなかにあっては、ほとんど人に伝ええない問いである。彼の行為が、周囲の囚人に奇異の感を与えたとしても、けっしてふしぎではない。彼は加害と被害という集団的発想からはっきりと自己を隔絶することによって、ペシミストとしての明晰さと精神的自立を獲得したのだと私は考える。


 鹿野武一は「世を厭(いと)い」、そして嘲笑したのだ。しかも彼は、行動をもってそれを示した。吠え立てる犬によって羊の群が同じ方向へ進む中で、鹿野武一は事もなげに反対方向を目指した。


 ここにあるのはペシミズムではない。ニヒリズムだ。私は、ニヒリズムが肯定的なユーモアを生ましめる瞬間を“ヒューマニズム”と呼びたい。石原が「ペシミズム」と表記したのは、鹿野に対する感傷が強すぎたためであろう。


 鹿野武一の生が凄まじいのは、彼は抑留された同胞に対して範を垂(た)れたわけでもなければ、何らかのメッセージを放ったわけでもないという一点に尽きる。鹿野は徹底して“個”に生きたのだ。“個”は“孤”の内側で完結している。


 それが証拠に、鹿野は誰に言うこともなく収容所内で絶食を始めた。鹿野は絶食しながら強制労働に従事した。まったく狂気の沙汰という他ない。しかし、シベリア抑留それ自体が狂気であった。すなわち、狂気が支配する世界で発揮される狂気は、正真正銘の正気となる。鹿野はたった一人で世界に向かって「異を唱えた」のだ。


 地獄の中にあって、これほどの孤高に辿り着いた人物がいた。人間がどこまで崇高になれるかを彼は示した。真の人間は、真に偉大である。


 鹿野武一は、シベリアから帰還してから1年後に急死した。まだ37歳という若さであった。

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)

2009-07-29

ゲーデルの不完全性定理


 たとえば、「ゲーデルの不完全性定理」といいますが、これは正確にいえば、「ゲーデルによって証明された、ペアノの算術公理系を含む無矛盾な形式的体系――簡単にいえば、算術を含む無矛盾な体系――に関する不完全性定理」のことです。なんに関するというところが明示できなければ、「不完全」という概念は宙に浮いてしまいます。


【『ゲーデル・不完全性定理 “理性の限界”の発見』吉永良正(講談社ブルーバックス、1992年)】

ゲーデル・不完全性定理―

回帰効果と回帰の誤謬/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 回帰効果とは、不完全な相関関係における極端な数値に対して、もう一方の数値が平均へと回帰する現象をいう。エ、わかりにくい? 確かに。


 例えば、身長が195cmの父親から生まれた子供は、195cm未満である可能性が高いということ(※遺伝学者のフランシス・ゴルトンが実際に調べた)。あるいは、今月の交通事故死亡者数が極端に低下すれば、来月は上回ることが予想される。はたまた、今回の試験の平均点が90点であれば、次回は90点未満であること。そう。大きく振れた振り子は必ず戻ろうとする。


 ところが人間は往々にして回帰効果を無視して、勝手な物語を作り上げる傾向が強い――


 こうした予想を行なう際に回帰効果を無視してしまうという傾向は、偏りの錯誤と同様に、代表制にもとづく判断のせいであると考えられる。予想されるものと予想の根拠となるものは限りなく類似しているはずだという直観が人々の判断に影響して、両者の得点をほぼ同じものとさせてしまうのである。身長195センチの父親に対しては、身長195センチの子どもが最も代表的だと思われてしまうのである。(実際には、身長195センチの父親を持つ子どもの大半は、これより低い身長となる。)ここでもまた、代表性にもとづく判断が、過度の一般化を引き起こしている。


【『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ/守一雄、守秀子訳(新曜社、1993年)以下同】


 ということは、だ。鳶(とび)が鷹を生み、今度はその鷹が鳶を生むことはあり得るが、鷹が鷲を生み、鷲が鳳(おおとり)を生むことはないってことだな。ここで重要なのは、極端にいい結果が出た後は、少々悪い結果が出やすいし、その逆もまた真なりってことだ。


 回帰効果を無視すると、今度は回帰の誤謬が生じる――


 回帰の概念を本当に理解できていないときに人々が直面する二つの問題点のうちのもうひとつは、「回帰の誤謬」として知られている。回帰の誤謬というのは、単なる統計学的な回帰現象にすぎないものに対して、複雑な因果関係を想定したりして余計な「説明」をしてしまうことを言う。素晴らしい成績の後、成績が落ち込むと怠けたせいであるとされたり、反対に、凶悪犯罪が頻発した後で犯罪件数の減少が見られると、新しい法律の施行が効を奏したためと考えられたりすることである。回帰の誤謬は、偏りの錯誤と似たところがある。どちらも、偶然に生じたできごとに人々が余計な意味づけをしてしまう現象だからである。統計学的な回帰の結果生じたにすぎない現象に、無理な説明づけをしようとするあまり、間違った信念が形成されることにさえなってしまう。

 政治の世界では常套手段といってよい。「相関関係と因果関係の混同」と言い換えることも可能だ。具体的な例も示されている――


 言い替えれば、回帰効果は、「ほめることを罰し、罰することをほめる」ことに一役買ってしまうのである。

 こうした現象を見事に示してみせた実験研究がある。この実験は、参加者に教師の役割を演じてもらい、コンピュータが演ずる架空の生徒たちをほめたり、叱ったりするものであった。コンピュータが演ずる生徒は、毎朝8時20分から8時40分までの間に登校し、その登校時刻がディスプレイに表示される。教師は、生徒が朝8時20分から8時30分までに登校して来るよう努めなければならない。生徒の登校時刻が表示されるごとに、参加者は、生徒をほめるか、叱るか、何もしないかのどれかを選択できる。そこで、生徒が8時30分より前に登校してきた時には、参加者は生徒をほめ、遅刻してきた時には叱るであろうと予想される。しかし、実際には、生徒の登校時刻は実験前にあらかじめ決められており、実験に参加した被験者がほめたり叱ったりしても、まったくその影響はない。それにもかかわらず、回帰効果があるために、生徒の登校時間は、遅刻して叱られた後では向上し(つまり、平均の8時30分の方に回帰し)、早く登校してほめられた後では悪くなる(つまり、ここでも平均の8時30分の方に回帰する)ことになる。さて、こうした実験の結果、参加者の7割が「叱ることの方が誉めることよりも登校時刻を守らせる効果がある」という結論を出した。回帰によって生じた、ほめることと叱ることの見かけの効果にだまされてしまったのである。


 以下のリンク先も参照されよ――

 病気で考えてみよう。いくつもの原因が重なって発症する病気を「多因子疾患」という。遺伝要因と環境要因とが複雑に絡み合っているため、治療をしても一定の効果が現れない場合が多い。ところがアメリカの製薬会社は、相関関係を因果関係に見立てて、「精神疾患は“脳の病気”であり、薬を服用することで治る」という物語を作ることに成功した。

 こうした意図的なマーケティング手法にも、回帰の誤謬が含まれていると考えられる。というよりも、最初っから「誤謬の物語」を創作している節すら窺える。


 選挙においても回帰効果は見られる。以下はWikipediaのデータである――

 定数の変化はあるものの、自民党が単独で衆議院の過半数を獲得したのは2005年だけとなっている。来る8月30日の投票において、自民激減は必至と予想されているが、民主党による回帰の誤謬は既に見受けられている。選挙結果を政争の具に利用するようなことがあれば、直ちに国民からそっぽを向かれることだろう。


 ただし、これは統計学の世界の話である。経済学的見地からすれば、金にものを言わせて、誤謬を真実にしてしまうことが多い。

人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)

2009-07-28

中田宏横浜市長


 ――(週刊誌の報道は)すべて間違いなのか。

「全く身に覚えない。(係争中の女性と)面識はあるが、交際は全くありえない。そういう話は裁判でやるしかない」


産経ニュース 2009-07-28


 中田関連のファイルを発見。トップページはないようだ。

暴力が破壊するもの 3/「黒い警官」ユースフ・イドリース(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』所収)

  • 暴力が破壊するもの 1/「黒い警官」ユースフ・イドリース(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』所収)
  • 暴力が破壊するもの 2/「黒い警官」ユースフ・イドリース(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』所収)

「私」とシャウキーは、往診のためアッバースのもとを訪れる。アッバースの夫人に病状を確認している最中、奥の部屋から突如叫び声が上がった――


 我々が突如襲われたものというのは叫び声だった。と、最初我々は思った。だが、それはやがて長く尾をひき、別種のものへと変じていき、獣の吠(ほ)える声に似たものとなっていった。もし我々が森とか畑にいるのなら、狼(おおかみ)の吠える声だと考えて、ことは落着しただろう。だが我々は今カイロの街の直中(ただなか)にいるのだ。そしてそこの一軒の家の中にいて、狼の吠える声を聞いているのだ。それは一人の男から発せられている声なのだ。人を恐(こわ)がらせようと冗談でやっているのではなく、本当に吠えているのであり、吠えることによって内に潜んでいて、彼自身を切り刻むものを外へ吐き出そうとしているのだ。彼はもはや本当の狼の声と自分の声とを、ほとんど区別できなくなった吠え声をただ果てしなく続けることによって、内に潜むものを何とか拭(ぬぐ)い去ろうとしていた。



【「黒い警官」ユースフ・イドリース/奴田原睦明〈ぬたはら・のぶあき〉訳(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』1991年、所収)以下同】


 思うがままに暴力を振るった「黒い警官」は既に廃人と化していた。アッバースと対面したシャウキーは、もはや無気力な男ではなかった。


 ――アッバース・マフムード・アルザンファリーなのか?

 シャウキーの口から、轟(とどろ)くような叫び声が発せられ、すぐその後に別の叫び声が続いた。

 ――何とか言え。

 私はシャウキーがこれほどまでに大声を上げて叫ぶのを耳にしたことは絶えてなかった。またこのように均衡を失った彼を見たこともなかった。

 私の内には歓喜がこみ上げてきていた。願望が現実になりつつあったのだ。何年もの間捜し求めていたあの声が私を歓喜させ、同時に不安にもさせた。というのは、その時シャウキーの目からは異様な光が発せられていたからだ。次第に私の歓喜はこれだけではすまないぞという、恐怖感と混じり合い始めた。


 シャウキーは蘇生した。遂に「殴り返す時」が到来したのだ。それは疑問の余地がない報復だった。しかし暴力ではなかった。アッバースが狂気に避難することを、シャウキーは許さなかった。


 ――馬鹿のふりをしても駄目だぞ!……忘れたふりなんかするんじゃないぞ!……あの牢獄(ろうごく)を忘れたのか?……朝から5時までぶん殴ったこと覚えてないのか?……あの9階を忘れたのか?……棍棒(こんぼう)はどこへやった?……鞭(むち)はどこへやった?……あの血のことは覚えていないのか?……お前のあの鞭はどこにあるんだ? 何処へ隠したんだ?……この獣め! あの喚き声はどうした?……鉄を打ち付けたあの半長靴はどこへやったんだ?……お前の拳(こぶし)はどこへいった? お前の指は?……あの火はいったい何処なんだ?……俺を見て、なんとか言ってみろ! 話してみろ! 喚いてみろ! 忘れたふりをするつもりか? よし、それなら、思い出させてやるぞ! 今すぐにな!

 あのごく短い、瞬きをするしかないかの間にどうやってシャウキーはジャケットとシャツを脱ぎ、下着をたくし上げ、背中を見せることができたのか、私には分からない。だが、それを見た者は如何なる恐怖に襲われたことだろうか?

 彼の背中にはどこにも皮膚または、皮膚らしきものが一カ所とてないのだ。そこで皮膚というのは、縦横に延びる傷痕で、それらは隆起した瘢痕(はんこん)と抉(えぐ)られたそれとの集積で、深く抉られた底には肋(あばら)の骨が見えるかと思うばかりだった。その様はすさまじいもので、一目見た者は体の中を虫唾が走るのを覚えずにはいられないほどだった。それは単に見かけからのみそうなるのではなく、そうあらしめた残忍非道な行為を思い抱かせる故であった。それはあたかも狂った狼か、あるいは悪鬼の類が牙(きば)や爪をシャウキーの背中でほしいままにして、爪を立て、引きちぎり、噛(か)み裂いたかのようであった。

 1秒の何分の1かと思われる間に、彼はそうしたのだった。そして彼はくるりとアッバースの方へ向き直って、彼を見つめ、なおも叫んだ……

 ――この俺を忘れたとしても、これは忘れられないはずだぞ! お前がしたことは忘れられんはずだぞ! さあ、思い出したか?

 突如そうしたように、彼はあっという間に背中を覆い隠し、彼の方を振り向きざま、叫んだ。

 ――ようく考えるんだぞ! いいか! 俺は忘れはしないんだぞ! 誰一人忘れる奴なんかいないんだぞ! 誰一人な! 言ってみろ! 話してみろ! 喚くんだ! 覚えているって言うんだ! 言え!

 私は目の前で生じている事態にただ愕然としていた……シャウキーの喚く様に。甲高く神経を逆撫(な)でして響きわたる声に。きんきんとつり上がっていく喚き声に。そこで吐き出された言葉の意味に。

 だが、やがて彼の発する言葉は、不鮮明で不可解なものになり、どういう訳かきんきん甲高くなってついに言葉としての形態を失っていった。そしてついに、彼が発するものは皆、それが憎悪なのか、呻きなのか、苦痛なのか、号泣なのか分からぬが、とにかくそれから成る長く繋(つな)がった一本の糸となってしまった。いったいどのようにしてその糸は捩(ねじ)れ、咆哮(ほうこう)に似たものに変形していったのだろうか? 否、それはまちがいなく咆哮そのものだった。戦(おのの)き震え、必死で助けを求める、極限的苦痛を嘗(な)めさせられた者にしか発せられぬ咆哮だった。その苦痛は人間にはもはや耐えられぬもので、喉(のど)から訴えられるのではなく、肉体自身、肉や骨や神経が訴えるのだ。苦痛はそれらを強いて、最後の死にものぐるいの絶叫を絞り出させるのだ。

 恐るべきことは、これらすべてがシャウキーから発せられているということだった。


「一本の糸」――暴力にさらされた者の叫び声は一本の糸と化した。一本の糸は高音を発して振動していた。言葉は既に意味を成さなかった。思考でもなく、概念でもなく、善悪でもない。シャウキーが発したのは“生命の波動”だった。不条理に意味は存在しない。不条理に対して「なぜ?」と問うのは愚かなことなのだ。不条理は突然やってきて、あっと言う間に走り去ってゆく。不条理は“不条理な事実”に過ぎない。そして、その不条理に対して抵抗しようとする時、人間は一本の糸が振動するような反応しかできないのだ。だが、何という振動であろう! 虐げられた者が発する振動は、時間や距離を越えて人々の心を共鳴させる。


 無表情だったアッバースが、ベッドの縁へ後ずさりし身を丸く縮める。人間がこれほど小さく丸まれるのかというほど縮まってゆく。そして今度はアッバースが叫び始める。シャウキーの咆哮と交わり、遂にシャウキーを黙らせる。するとアッバースは「ワウワウ」と犬のように吠え出した。それから彼は自分の身体に爪を立て、殴り始めた。更に自分の腕の肉を噛み千切った。


 血は唾(つば)と混ざりながら、口から滴り落ちていた。ぱくりと開かれた口から剥き出しとなった歯の間に、血だらけの肉片があった。彼が自分の腕から噛み切った肉片だった。彼の腕は依然として膝の上の元の所にあった。そして噛み切られたところは見るも無残な傷痕を残していた。アッバース・アルザンファリーは上下の歯の間に肉を噛んだまま、肉に籠(こも)った声でワウワウと吠えたが、まるで声そのものから血が滴り落ち、血が彼の吠え声を濡らし、息詰まらせているかのようだった。


 暴力はアッバース自身を滅ぼした。暴力を振るわれた側は部分的に死んでゆく。そしてまた、暴力を振るった側も行使した時点で部分的に死んでいるのだ。暴力とは“小さな死”を容認することである。人間の死を操る行為といってよい。ここにおいて、死は「操作されるもの」となる。死の意味合いは軽んじられ、生をも翻弄する。


 アッバースもシャウキーも二度と人間に戻ることはできなかった。イドリースはものの見事に暴力を描いて、読者に暴力的な満足を与えている。「ざまあみろ」と少しでも思った瞬間に、読者はアッバースと化すのだ。何というパラドックスだろう!


 この作品が生まれざるを得なかったアラブ世界の苛酷さに思いを馳せる。そして、世界に存在する「何億本もの糸」を思わずにはいられない。


 1962年の作品。岡真理が『アラブ、祈りとしての文学』(みすず書房、2008年)で卓抜な解説をしている。

中国・アジア・アフリカ/集英社ギャラリー「世界の文学」〈20〉

 

『マスードの戦い』長倉洋海(河出文庫、2001年)


マスードの戦い (河出文庫)


 アメリカの同時多発テロ事件はなぜ起こったのか? ひとりの青年がなぜ歴史を背負わなければならなかったのか? 諸外国の干渉、民族間の対立抗争を超えて、祖国統一のため闘う英雄マスード。その卓越した指導力と測り知れない人間的魅力を、ゲリラの根拠地に分け入って、マスードとその戦士たちと共に生活をしながらアフガニスタンの真実をレポートする。

2009-07-27

意外とデタラメの多い新聞記事


 かように、新聞というものは、専門的な分野について触れたが最後、実にあっさりと馬脚をあらわしてしまうことになっている。彼らの体には馬の脚がついている。で、顔にはヤジ馬の眼と、ロバの耳がついていて、頭の中には、古新聞が詰まっている。


【『安全太郎の夜』小田嶋隆河出書房新社、1991年)】

安全太郎の夜

自殺者、半期で1万7000人超…最悪ペース迫る


 警察庁は27日、今年1〜6月に全国で自殺した人は1万7076人(暫定値)に上り、昨年同期より768人増えたと発表した。

 今年に入って6か月連続で昨年同期を上回っており、年間の自殺者が過去最悪だった2003年(3万4427人)に迫るペースとなっている。景気の落ち込みが影響しているとみられ、対策が急務となっている。

 今年半年間の自殺者のうち、71%にあたる1万2222人が男性。月別では、1月が2660人(昨年比118人増)、2月2482人(74人増)、3月3084人(145人増)、4月3048人(194人増)、5月2980人(184人増)、6月2822人(同53人増)。企業の決算期や派遣労働者の契約が切れる年度末に増加する傾向も見受けられる。

 都道府県別で多いのは、東京都1569人、大阪府1057人、埼玉県971人、神奈川県938人、愛知県844人など。29都府県で昨年同期を上回った。増加率が高いのは沖縄県の51.3%のほか、山口県30.2%、高知県21.6%、岡山県17.5%、埼玉県16.7%など。鳥取県は19.8%減で減少率が高かった。

 全国の自殺者数は昨年まで11年連続で3万人を超えた。このままのペースだと、同庁が統計を取り始めた1978年以降で2番目に多かった07年(3万3093人)を上回り、最悪だった03年並みになることになる。


YOMIURI ONLINE 2009-07-27

暴力が破壊するもの 2/「黒い警官」ユースフ・イドリース(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』所収)

  • 暴力が破壊するもの 1/「黒い警官」ユースフ・イドリース(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』所収)

 前回は登場人物のシャウキーを紹介した。今回はアッバースを取り上げる。実は彼こそが「黒い警官」だった――


 このアッバース・マフムード・アルザンファリーなる者の任務とは殴ることであった。自白させるために殴るかと思えば、ただ殴るのが目的で殴ることもあり、殴られた者は壊滅してしまうのだ。彼は様々なやり方で殴る。棒、鞭(むち)、靴、警棒、素手で。


【「黒い警官」ユースフ・イドリース/奴田原睦明〈ぬたはら・のぶあき〉訳(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』1991年、所収)以下同】


 仕事の一部に暴力が含まれる時、それまで眠っていた獣性が目を覚ます。火が点いた獣性は加速度を増して、“純粋な欲望”と化す。そして、ブレーキが利かなくなった欲望は、刺激を求めて暴走する。


 では、一方的に振るわれる暴力にはどのような意味があるのか――


 彼の殴打の何と醜悪なことか! 普通、人はよく喧嘩し殴り合うが、実はこれは“殴る”ということではない。殴られた者は殴り返せると思う気持ちによって、受けた打撃の大部分を軽減できるのだ。殴られることに起因する苦痛はすぐに蒸発し、殴られた者を反撃へ駆り立てる衝動という形をとる。つまり人は殴り返す自由がある時には、殴られてもこたえない。だが殴り返す自由も権利も力もなく、ただただ殴られるだけの時、受けた殴打は骨身にこたえるのだ。その時人は殴られたことを真に感じ取る。殴られる苦痛を。殴られた箇所に感ずる痛みや、それによる一般的な痛みのみではなく、侮蔑(ぶべつ)されたことによりもたらされる、これ以上ないほどひどくすさまじいもう一つの苦痛を。その時人は自分の体の一部に向けられた殴打と共に、もう一つの殴打が自分の存在全体に、人間としての感情と自己の尊厳にも向けられていることを感じとる(ママ)のだ。その殴打からくる打撃は痛烈である。なぜならそれは殴られた者の内部を直接打ちのめし、皮、肉、骨、そしてそのような時の人間的反応である殴り返すという権利、これらのすべてがその打撃を覆ってくれたり、減じてくれるということがないからだ。


 殴られた際に感じる痛みからは、相手の怒りや憎しみが伝わってくる。そして、殴られた側も痛みの中から怒りと憎悪を反射する。だが、単なる仕事としての殴打や、ただただなぶり、もてあそぶことを目的とした暴力にさらされると、人間は壊れる。そこに存在するのは一人の人間ではなくして、暴力を受動する肉塊となる。つまり、“モノ”だ。


 人間が無理やりこのように覆いを奪われ、暴力によって沈黙させられたなら、苦痛を一方的に受けることと沈黙を強いられ、何も言えぬまま人間性のみか、動物としての特性さえ放棄しなければならぬとしたら、一体どうであろうか?

 その時人間は噛(か)みつくことも、蹴(け)り返すこともできぬただ恐れ戦(おのの)く剥(む)き出しの肉塊に変じてしまう。

 苦痛をうけつつ沈黙せねばならぬことは、苦痛それ以上に激烈な痛みを与えるものだ。とりわけ、この種の殴打に対しては、その苦痛と恥辱を阻止するためには、堪え忍ぶか、さもなくば自殺によって自ら命を絶つしかない。それは多くの人間が可能かもしれぬと思っているが、実際にはできないことなのだ。たとえできるとしても、それは生命の法則自身が拒否し、その遂行を阻止するのだ。自分自身とその存在をもとより防御すべく創られている者が、自らを葬り、その存在を抹殺しようとするならば、いったい、そこには如何(いか)なる合理的な説明がなされるというのだ?

 いや、事実はそれとは逆で、最も惨憺(さんたん)たる事態を招来したことには、その時耐え、忍ぶどころか、生命への執着がますます募っていき、甘美な魂の声が生命力の極みにおいて、破廉恥な域へ生き永らえんとして誘うのだ。かくして、ひどい苦痛を伴う、苛烈で、屈辱を与える殴打が外部から振り下ろされるごとに、それに対し内からは、自分自身の中から生じる、千に及ぶ罵倒(ばとう)、我が身を突き刺す矛先、臓腑(ぞうふ)を引き裂き、硫酸が鉄を溶かすように魂を溶解してしまう屈辱と侮蔑感に見舞われるのだ。それというのも、死なずに、死ぬのは嫌だとして、生き永らえ、屈辱的に生命に執着し続ける故なのだ。

 この世で最も酸鼻なものは、彼のアッバース・アルザンファリーのいる風景だ。上エジプトから来た黒い警官が殴打を加えている最中の。生きた人間の存在を破滅に追い込みつつ、それを愉(たの)しむ彼の姿だ。殴られる者は彼の眼前で盲目的な恐怖の中で、絶叫する怯(おび)えきった肉塊と化す。そしてその様は彼を一層殴打に駆り立て、破壊の喜悦は一層募っていく。大きな喜びの軌跡を辿(たど)りつつ彼は殴り、そして殴り続ける。構造物の一部を破壊した者が、こんどは全壊させんものと凶暴な喜びに駆り立てられているかのように。

 殴打、この種の殴打においては、殴られる者が怯えきった人間のスクラップ、苦痛に呻吟(しんぎん)し怯えながら殴り返すまいとし、意識的に下へ下へと身を低くくずおれさせるスクラップと化していく時に、殴る方は別の人間スクラップと化していく。そこにはあたかも破壊しつつより高くへ登りつめていく人間の姿がある。同じ種に属す者の身に生じる苦痛が彼に至福をもたらし、自らの意志で喜悦に浸り、さらに苦痛に対して自分の内に生じる人間的反応をも意思的に抹殺するのだ。そして彼の犠牲となった者がこれ以上ないほどの凄惨(せいさん)な姿で崩壊し破壊されていく時、他方彼の方は、神の被造物にはできかねる、人間の中で最も低劣に堕した者にして初めて悦にいれる卑しく罪深い陶酔へと、彼の殴打は止むことを知らぬのだ。


 一方的な暴力が、もしも運命であるとすれば、暴力は神と似ている。神はいつだって生殺与奪の権限を握りながら、運命の鉄槌(てっつい)を下す。まさしく暴力だ。


 それにしても、何という文章だろう。人間の堕落と悲惨とをあますところなく描写しながらも、文学性の薫りに満ちている。読む者に息を止めるほどの緊張感を強いておきながら、興奮という名のスパイスで鼻をくすぐっているのだ。静と動、苦痛と喜悦、堕落と上昇という相反する方向性が交錯し、読者の感覚は麻痺させられてしまう。イドリースは目も眩(くら)むような毒を放っている。


 アッバースが体現する暴力は、権力に守られた位置から振るわれている。そもそも警察自体が“国家の暴力装置”である。権力と暴力とは密接不可分な関係にある。世に暴力と無縁な権力は存在しない。


 よく考えてみよう。「力」と名のつくものは何らかの暴力性を伴っている。大体、資本主義経済というシステム自体、資本という力にものを言わせる構造となっている。


 イエスは言った。「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」と。んなのあ、綺麗事だ。そもそも、キリスト教国である欧米がこれを実践していないじゃないか。イスラエルがパレスチナに対して行っているのは「自分の家を破壊されたら土地を差し出せ」ってなもんだよ。


 イスラエルはパレスチナを殴打している。アメリカはイラクを殴打している。イギリス、ロシア、中国もやりたい放題だ。それ以外の国々はこれらの陣営に頭を下げ、おもねり、這いつくばって、貿易や経済協力という名前でみかじめ料を支払っている。「核の傘」だってさ。日傘は紫外線を避けるのが目的であるが、我が日本は“放射線を降らせる傘”に守られている。


 しかし、「黒い警官」ことアッバースは廃人になっていた。この後で、アッバースとシャウキーが再会することになる。

中国・アジア・アフリカ/集英社ギャラリー「世界の文学」〈20〉

イスラエルの蛮行を撮れ


 イスラエルの人権団体が100台のビデオカメラをパレスチナ人に渡し、日常生活を撮影してもらった。


D

『アラブ・イスラム世界における他者像の変遷』八木久美子(現代図書、2007年)


アラブ・イスラム世界における他者像の変遷


 アラブ世界のイスラム教徒の手によるエッセー、小説、旅行記、ならびに映画を分析し、広く共有される他者のイメージがどのようなものであるかを紹介する。さらにアメリカに代表される他者批判が、実際にはその多くが自己批判的な性格を持つものであること、また他者に対抗する自己像の鍵として浮上する「イスラム」という概念も多様な捉え方がされていることを提示する。

文庫化『反転 闇社会の守護神と呼ばれて』田中森一(幻冬舎アウトロー文庫、2008年)


反転―闇社会の守護神と呼ばれて (幻冬舎アウトロー文庫)


 数々の事件を手掛けた伝説の特捜エース検事は、なぜ闇社会の代理人となったのか。極貧の幼少時代から、弁護士転身後に親交を深めた安倍晋太郎ら政治家との秘話、裏社会に広がる黒い人脈、7億円のヘリコプターや豪華マンションを棟ごと購入したバブル時代の享楽まで赤裸々に告白。石橋産業事件で許永中とともに、現在服役中の男の衝撃的な自叙伝。

2009-07-26

『悪霊にさいなまれる世界 「知の闇を照らす灯」としての科学』カール・セーガン/青木薫訳(ハヤカワ文庫、2009年)/『人はなぜエセ科学に騙されるのか』(新潮文庫、2000年)改題


悪霊にさいなまれる世界〈上〉―「知の闇を照らす灯」としての科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) 悪霊にさいなまれる世界〈下〉―「知の闇を照らす灯」としての科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)


『コンタクト』などの科学啓蒙書で著名なカール・セーガンはその生前最後の著作として、現代の反科学、ニセ科学、反知性的な動きに鋭く警鐘を鳴らす本書をあえて選んだ。それはなぜか。セーガンはこう論ずる――科学的な考え方はわれわれの方法論のなかでベストの持ち駒である、なぜならそこには「人類は誤りを犯すもの」という前提が組み込まれているからだ、と。根気よく堅実な論旨と秘められた情熱が知的感動を呼ぶ科学解説。


 古代の神話から魔女狩り、そしてニセ科学の跳梁……。反科学、反理性の傾向は歴史を通じてさまざまな仮面をつけて現れる。本書ではUFOによる誘拐譚、ミステリーサークル、偽の記憶症候群など、一見雑多な現象に通底する反理性的傾向が鮮やかに結びつけられ、そうした傾向の危険性が鋭く指摘される。自分の頭で考え、懐疑の心を持ち続けることの重要性を豊富な実例を紹介しながら説く、「科学界の良心」による渾身の一冊。

文庫化『人類が消えた世界』アラン・ワイズマン/鬼澤忍訳(ハヤカワ文庫、2009年)


人類が消えた世界 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)


 もしある日人類が忽然と消えたら、地球には一体何が起きるのだろう。地上を覆う人工物、自然、生命がたどる運命は?私たちが環境に与えてきたダメージはどう癒えるのか? そしてこの星が消滅した後も宇宙を漂い続ける、人類最後の痕跡とは? 世界をまたにかけた実地調査と科学資料を駆使して放つ、類まれなる未来予測の書にして究極の環境本。あなたの世界を見る目を変えるベストセラー・ノンフィクション、待望の文庫化。

文庫化『妻を帽子とまちがえた男』オリヴァー・サックス/高見幸郎、金沢泰子訳(ハヤカワ文庫、2009年)


妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)


 妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとする音楽家、からだの感覚を失って姿勢が保てなくなってしまった若い母親、オルゴールのように懐かしい音楽が聞こえ続ける老婦人――脳神経科医のサックス博士が出会った奇妙でふしぎな症状を抱える患者たちは、その障害にもかかわらず、人間として精いっぱいに生きていく。そんな患者たちの豊かな世界を愛情こめて描きあげた、24篇の驚きと感動の医学エッセイの傑作、待望の文庫化。

大岡昇平、恩田勝亘、マーク・レーン


 1冊挫折、2冊読了。


 挫折42『野火』大岡昇平(創元社、1952年/新潮文庫、1954年)/『石原吉郎詩文集』で紹介されていた一冊。文体が肌に合わなかった。50ページほどで挫ける。旅人さん、すんません。


 88冊目『東京電力 帝国の暗黒』恩田勝亘〈おんだ・かつのぶ〉(七つ森書館、2007年)/期待したほどではなかった。多分、書けないことも多かったに違いない。原発事故の隠蔽体質に関する資料的内容。それでも尚、社会の仕組みを知るためには有益な作品である。佐藤優帯文を書いている


 89冊目『人間の崩壊 ベトナム米兵の証言』マーク・レーン/鈴木主税〈すずき・ちから〉訳(合同出版、1971年)/何と読み終えるのに一年ほど掛かってしまった。これは、メールマガジン「PUBLICITY」で竹山哲朗さんが紹介していた一冊。読むこと自体に勇気を必要とする内容。ベトナム戦争で米兵が何を行ったか。惨(むご)たらしい拷問と殺戮、そしてナパーム弾による焼き尽くしであった。もはや人間以下、獣以下の所業だ。そしてアメリカは、自分が育てた兵士が帰還することで、暴力と犯罪を国内で抱え込む羽目となった。因果応報。

暴力が破壊するもの 1/「黒い警官」ユースフ・イドリース(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』所収)


 暴力を振るう側と振るわれる側との関係、暴力の様相、暴力の意味、暴力の影響、そして暴力の成れの果て……。この小説の主人公は暴力である。


 広河隆一著『パレスチナ 新版』(岩波新書、2002年)で、ガッサーン・カナファーニー岡真理を知った。そして、岡真理からユースフ・イドリース(エジプト)に辿り着いた。


 中東は暴力にさらされている。まず西側諸国からの暴力、次に軍隊や警察からの暴力、そして性差という暴力。圧力が掛かるほど反発する力は強くなる。抑えても抑えきれない何かが弾けた時、暴力の大地から文学という間欠泉が噴き出した。


 この小説の主要人物は3人である。語り手であり観察者でもある「私」と、「私」の同僚シャウキー、そして病人のアッバースだ。まずはシャウキーから紹介しよう――


 そうだ! 私はシャウキーに注意を向け始めたのだ。最初に気付いたのは、彼の眼差(まなざ)しには以前にはなかったものが備わっているという点だった。かつて、彼の目には常に輝きがあり、彼の相貌(そうぼう)には独特の魅力があった。自ずと光を放つに至る真実を信奉する者の魅力が。彼の相貌は内的な光によって、辺りを照らすという風情だった。彼の目にはしっかり焦点を結んだ光があり、周囲の世界に、何かを信じきった者の心を映し出していた。その輝きが今は失せてしまっていた。それはあたかも、根絶させられてしまったかのようであった。生きているものすべてにとってその証(あかし)となる目の光さえも、彼の目には残っていなかった。私は彼の目を覗(のぞ)き込むたびに、自分にはそれが何であるのか理解し得ず、不安に投げ込まれるある奇妙な感情に襲われるのだった。そしてついに、その感情が何であるのかを私が知ることができるのは、何年も後の、しかも予想だにし得ない、ある時と場所においてのみ可能になることを知るに至ったのだ。


【「黒い警官」ユースフ・イドリース/奴田原睦明〈ぬたはら・のぶあき〉訳(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』1991年、所収)以下同】


 シャウキーは変わった。変わり果てていた。素行にも問題があった。シャウキーが出入りした部屋からは必ず何かが無くなっていた。シャウキーは文字通り生ける屍(しかばね)のようであった。同僚の多くが彼を疎(うと)んでいたにもかかわらず、「私」はシャウキーを観察し続ける。シャウキーが変貌せざるを得なくなった“秘密”を知るために。


 だが、現実は由々しく重大な何かが生起したことを私に確信させた。私はシャウキーを見、彼と彼の性向に目を凝らした。すると私は彼が傷を負っていることを感じ取った。胸や頭に受けた小さな傷ではない。それは彼の性向の頭の天辺から足の爪(つめ)の先にまで至る傷なのだ。私の前にいるのはシャウキーではない。それはその傷を受けた後にとり残された大きな傷痕(きずあと)なのだ。


「傷痕」とは「裂け目」である。それはかつて「穴」として存在したものだ。穴は消失したものの、裂け目は決して一つに戻っていない状態が「傷痕」である。シャウキーは「引き裂かれた状態」にあった。


 物語の後半で「私」の疑問は一気に解消する。シャウキーは「黒い警官」から拷問されていたのだ。「黒い警官」はサディストだった。殴打は朝から夕方まで続いた。拳(こぶし)で、鞭で、棍棒で……。殴り返す自由を奪われた人間が、ひたすら殴打にさらされた時、人間は部分的に死んでゆく。それも確実に。


 この作品は実話に基づいている。暴力が破壊するものは一体何か。そして、暴力という作用が振るう者と振るわれる者との間で、時を経ながらどのように反響してゆくのか。人間が人間らしさを放棄した後に何が残るのか。こうしたことを劇的に描き出している。


 過去40年間にわたって様々な小説を読んできたが、文句なしの最高傑作だ。

中国・アジア・アフリカ/集英社ギャラリー「世界の文学」〈20〉

2009-07-25

キヨスクとキオスク


 KIOSKの綴りを日本語読みして「キオスク」と表記する場合があるが、この場合は鉄道弘済会の「キヨスク」以外の業者による店舗を含めた駅売店の総称としての意味合いを込めることが多い。


Wikipedia

議席を相続する二世議員/『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆


 政治家の世襲が問題視されている。今までの批判とは異なっていて与野党内からも大きな声が上がっている。な、な、なんと、“世襲の権化”ともいうべき鳩山邦夫総務相(当時)まで叫んだ――


 政界の名門、鳩山家4代目の鳩山邦夫総務相は24日の記者会見で民主党の世襲制限案をやり玉にあげた。

「非常に中途半端だ。どうせ提案するのなら、次の選挙で小沢一郎(民主党代表)さんも鳩山由紀夫(同党幹事長)も出ないから麻生太郎首相も鳩山邦夫も出るな、というのなら徹底しますわね」


産経ニュース 2009-04-24


 中々小気味がいい。しかし残念なことだが、売り言葉に買い言葉の域を出ていない。小泉純一郎が首相になってからというもの、メディアはわかりやすい言葉に飛びつき、国民がやんややんやと喝采を送る風潮が強まっている。


「国民の声を代弁する」と言えば確かに聞こえはいい。だが、政治家が口にする国民は蜃気楼(しんきろう)のようなもので、どこに存在するのかもわからない。「――と国民の皆さんは感じてますよ」なあんてやられた暁には、「そりゃ、国民じゃなくて、てめえの意見だろうが!」と言い返したくなる。


 政治家が関心を抱いているのは、自分の選挙区の選挙民だけだ。それ以外の国民はどうでもいい存在である。メディアに露出した場合は虚勢で押し切る。言動の内容よりも、衝撃度を競うことで知名度アップを図ろうとする。


 それにしても腑に落ちないのだが、「議員は儲かる」といった類いの話を私の周囲で聞いたことがない。多分大半の議員は持ち出しが多いため、給料すら自由に使えないことと察する。儲かっている政治家は、自民党と元自民党の一部の代議士に限られているのではないか。


 そして「儲かる」となれば、簡単には手放せなくなる。議員を引退するとなれば、誰に“遺産相続”するかってな話になりますわな。で、当然の如く自分の身内から選ぶというわけ。出来れば息子が望ましい――


 二世議員のすべてが悪いというつもりはない。が、建前論を申し上げるなら、議席は、本来、相続すべきものではない。

 逆に言えば、議席の相続をはかる政治家は、代議士の職務を「モノ」と考えているのである。つまり、私物化だ。

 彼らは、権力を私物化しているからこそ、元来、職責でしかない議員という職業を、個人的な資産と同じ感覚で、譲渡したり相続したりできるわけなのだ。


【『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆(BNN、2003年)】


 小田嶋が指摘するように、世襲は「権力を私物化している」証拠であろう。親が築いた地盤・看板・カバンを、労せずして手に入れることができる。まさに「濡れ手で粟」。


 民主党の菅直人は、日本の改革が遅れている理由は、守旧化した官僚主導の政治と世襲政治に最大の原因があると叫んできた。その矛先(ほこさき)は1999年の代表選挙で味方にまで突きつけられ、世襲議員の2名の対立候補者に向かって「銀のスプーンをくわえて生まれた」と皮肉った。ところが、2003年の衆院解散で自分の長男が出馬するとなった途端、「たまたま優れた人材が二世だったというだけ」と開き直ってみせたのだ。


 世襲問題の根っこは、日本人全員が実は世襲を好んでいるところにある、というのが私の見解だ。日本人は家・格式というブランドを重んじる傾向が強い。村長の息子は幼い頃から優遇される社会構造なのだ。


 芸能界やスポーツ界も同様に世襲が好まれている。日本社会で「鳶(とび)が鷹を生む」ことは、まずないと思っていい。世襲の最たるものは家元制度であろう。


 ストレンジャー(英語)やエトランゼ(フランス語)を日本語に訳すと「馬の骨」になる。この言葉が最も多用されるのは、娘に彼氏ができたことを知った父親のセリフとしてである。「そんな、どこの馬の骨かわからん男に、うちの娘をやるわけにはいかん」ってな具合だ。


 村意識はファミリーという偶像が大好きだ。ボクシングの亀田兄弟が一世を風靡(ふうび)したのも、亀田父子の絆という演出があったればこそ。ま、失敗したけどさ。


 このように、メディアでは世襲を批判する向きが圧倒的多数を占めているが、文化としての世襲は殆どの人々が認めているというジレンマがある。


 それでも、やはり二世議員は認め難い。はっきり言えばただの「税金泥棒」だよ。世襲議員が当選するようなところは“ド田舎”だ。たとえ東京であったとしても。

かくかく私価時価―無資本主義商品論1997‐2003

河邑厚徳、グループ現代


 1冊読了。


 87冊目『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』河邑厚徳〈かわむら・あつのり〉、グループ現代(NHK出版、2000年)/ これは本物。苫米地英人著『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』(ビジネス社、2008年)を「マネーという病理の解剖本」とすれば、本書には哲学書の風格がある。世界各地の地域通貨が後半で紹介されている件(くだり)が、少々わかりにくく、内容的にはダレている。ただ、理論本ではないため、何らかの証拠を必要としたのだろう。この世のありとあらゆるものは諸行無常のリズムを奏でて、磨耗・衰退・減却・崩壊してゆくにもかかわらず、お金だけは利子によって増えるという奇怪な現象を示している。なぜ、お金は減らないのか? そして、利子には如何なる意味があるのか? こうした疑問に答える内容となっている。そして、ミヒャエル・エンデによるシルビオ・ゲゼル入門といってよい。林秀彦著『おテレビ様と日本人』(成甲書房、2009年)で紹介されていた一冊。

北海道の言葉は過去形が多い


 私は若者言葉に嫌悪感を覚える者の一人だ。ニュアンスを強調した稚拙な省略形に違和感を覚えてならない。思考は言葉で織りなされる。つまり、言葉が思考を支配しているといってもよい。その言葉が崩れる時、思考も安易になってゆくことだろう。


 正確な言葉は、何といっても気持ちがいい。言葉にも立ち居振る舞いがある。やはり、立ち姿は美しくありたいものだ。


 一方、正確性に固執するあまり、時に東京中心の発想となって方言までが貶(おとし)められることがある――


 つづいて、「よろしかったでしょうか」に代表されるおかしな「過去形」について報告したい。先月、羽田空港内の出発ロビーにいたところ、奇妙なアナウンスが流れた。女性の声で「日本航空9時○分発×行きで出発の予定でした○○様、〜」と、搭乗客に呼びかけている。内容は、もうすぐ飛行機が出るからゲートに急いで来てくださいだったと記憶している。しかし、その時、壁の時計を見れば、まだ9時にもなっていない。アナウンスはこれからのこと(未来)について言及していたのだ。なのに「予定でした」というのだ。どういうことか、これも「〜よろしかったでしょうか」の悪影響なのか。


【鏡の言葉 第5回 なんでも「〜させていただく」社会の裏にあるもの/川井龍介】


 この筆者は、北海道の言葉に過去形が多いことを知らなかったのだろう。道産子の夜の挨拶は「おばんでした」と言うのだ。お得意さんからの電話には「毎度さんでした」と言う。

 上のリンク先では、断り文句として「よかったです」を挙げている。確かに言いますな(笑)。


 同様に「ら抜き言葉」というのも北海道ではザラである。つまり、若者言葉と方言を同じ俎上(そじょう)で論じてしまえば、地方特有の言葉は「悪しきもの」となりかねない。


 川井龍介の文章がすっきりしないのは、何となく頑迷の匂いがするためだ。私は美しい言葉を好む者であるが、「崩す」営みから新しい文化が生まれることまで否定するつもりはない。日本の文化といえば平仮名であるが、これだって漢字を崩しまくったものだ。


 さまざまなものが崩壊する中で、本物だけが残ればいい。

2009-07-24

仏教


 カテゴリーに「仏教」を追加。

大乗仏教の仏は“真実(リアリティ)の神話的投影”/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男


 案外知られていないと思われるが、実はブッダやイエスは著作を残していない。ソクラテス孔子も同様。枢軸時代のメインキャストは一様に文字を残さなかった。


 何といっても昔の話である。ブッダの生没年さえ定かではないのだ。当時のインドには歴史という考え方が存在しなかった――


 インド文明には都市があり、王権があり、文字があったのだから、歴史も成立してよさそうなものである。それなのに、歴史という文化がインドについに生まれなかったのはなぜか。この謎を解く鍵は、インド人の宗教にある。

 イスラム教が入って来る前からのインドの宗教では、仏教でも、ジャイナ教でも、ヒンドゥ教でも、輪廻(サンサーラ)の思想が特徴である。六道の衆生(天、人、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄の6種類の生物)は、それぞれの寿命が終わると、生前に積んだ業(カルマ)の力によって、あるいは上等、あるいは下等の生物の形を取って生まれ変わり、一生を再び最初から最後まで経験する。この過程は、繰り返し繰り返し、永遠に続くのである。この考え方で行くと、本来ならば歴史の対象になる人間界の出来事は、人間界の中だけで原因と結果が完結するのではなくて、神や、鬼や、幽霊や、ほかの動物や、死者たちの、人間には知り得ない世界での出来事と関連して起こることになる。これでは歴史のまとまりようがない。その上、この考え方では、時間の一貫した流れの全体は問題にならなくて、そのどの部分もそれぞれ独立の、ばらばらの小さなサイクルになってしまう。つまり、初めも終わりも、前も後もないことになって、ますます歴史など、成立するはずがない。

 もう一つ、インド文明に歴史がない原因として考えられるのは、カースト制度の存在である。カースト制度の社会の生活の実感では、自分と違うカーストに属する人間は、同じ人類ではなく、異種類の生物である。しかもそのカーストは際限なく細分化して、ほとんど無数にあるものなので、カーストの壁を越えた人間の大きな集団を扱うのが性質の歴史は、こういう社会ではまとまるはずがない。カーストを認めないイスラム教が入って来て、初めてインドで歴史が可能になったのは、その証拠である。


【『世界史の誕生岡田英弘(ちくまライブラリー、1992年/ちくま文庫、1998年)】


 こうした背景もあって、仏教史を調べる際にはアショーカ王の石柱から逆算することが多い。


 仏教の歴史は教団分裂の歴史といってよい。まず、ブッダの死後100年頃に上座部(じょうざぶ)と大衆部(だいしゅぶ)が分裂する(根本分裂)。一般的には小乗と大乗の対立と考えられているが、「小乗(=小さな乗り物との意)」というネーミング自体が、大乗側から貼り付けたレッテルであり、政治的思惑が絡んでいると思われる。その後の分裂の様子は以下――

 ま、色んな説があるわけだが、実際のところは誰にもわからない。確実なのは、ブッダの直説は存在しないことだけだ。それでも、小乗大乗の無署名性を踏まえると、死後100年を経ても尚、ブッダを思慕する人々が多かったに違いない。つまり、いずれにしても仏教全体がブッダという一人の人物から生まれ、整理され、止揚され、今日にまで伝えられたことは確かであろう。


 古来、大乗非仏説という考え方がある。ま、林秀彦が言うところの理工系的発想であろう。しかしながら、上座部が仏の説であるという証拠も存在しない。大乗の特徴は、ブッダを神格化したことであると考えられており、仏の姿は三十二相八十種好(さんじゅうにそうはちじっしゅこう)と説かれている。まるで化け物みたいな姿である。では、なぜそのような仏を描いたのか――


 それにしても一体、なぜ大乗仏教はこのような仏を説いたのであったろうか。

 よくいわれるのは、後世の人々が釈尊を神格化していって、そのように超人的な仏をつくりだした、というものである。釈尊(歴史上)を信仰し、釈尊を讃仰するあまり、等身大の釈尊をはるかに超える空想上の存在を付与していったのだ、というのである。仏塔に釈尊の遺骨をお祀りすることによって、民衆はそこに現存する釈尊を感得し、常住の釈尊を見出していったであろうことはよくうなづけることである。

 こうした経緯も、確かに全然なかったわけではないのであろう。しかしその神格化が、ひとえに外側からの仏陀の讃美にすぎないものであって、しかも大乗仏教はこの立場での仏陀を受けいれたにすぎないのだとしたなら、大乗仏教は釈尊を慕う人々の共同幻想にすぎず、単なる誇大妄想、空想にすぎず、かえって仏教としての内実を何も持たない、ということにならざるをえない。

 果して、常住の大悲としての仏は、単に想像上の、実のところ虚妄な存在であり、実はそれほど意味を持たないものなのであろうか。それともそうでないのだろうか。この問題を我々は真摯に考えてみなければならない。

 このことについて、私自身が考えるところは、次のようである。

 まず、文学と歴史と宗教ということをよくよく考えてみなければならない。大乗仏教には、仏教文学運動が相当流れこんでいる。仏伝文学の燃灯明授記物語や、釈尊の過去世物語等々、文学の中での釈尊の追求が大乗仏教の基盤となっているといっても過言ではない。

 たとえば、大乗仏教で強調される十地(の修行の道程)や六波羅蜜(の修行の徳目)は、仏教文学で用いられたもので、この一事を見ても、大乗仏教徒文学運動の密接な関係を見ることができる。あるいは、大乗仏教興起の一つの淵源をなすと考えられている仏塔には、その欄楯や壁面等には、本生譚や仏伝がレリーフで表現されていて、仏塔のガイドはくり返しその釈尊を民衆に語った。そうした中で、釈尊のあるべき姿が深く追求されていった、と考えられている。

 そのように、文学運動における釈尊の追求は、宗教的にあるべき釈尊、真実の釈尊の追求であり、決して単なる讃美、神格化ではない。むしろこの追求の中で、人間性の真実に出会っているのであり、人間存在の奥深くに隠れていた真実を掘り出しているといいうる。とすれば、大乗経典の釈尊ないし仏陀(阿弥陀仏等)の物語は、その真実(リアリティ)の神話的投影であるといえよう。


【『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男(大東出版社、1997年)】


 竹村牧男の思索自体が、大乗仏教の成立を想起させる内容となっている。確かに人間が想像するには、何らかの縁(=きっかけ)となるものが必要になる。大乗非仏説は、人間の想像力を妄想と斥(しりぞ)ける考え方だろう。


 ブッダの思想に傾倒し、その人格を尊敬し、ひたすら思慕し、ブッダの心を求めに求め抜けば、ブッダに等しい人物が生まれることだってあっておかしくはない。例えば、天台・伝教・日蓮といった思想的巨人は、仏教を止揚しながらもブッダに回帰するという双方向性を持ち合わせている。


 竹村牧男の思想的格闘は、大乗仏教を興した弟子達の思想的格闘でもあったことだろう。


 ブッダが文字を残さなかったのは、こうした思想的発展を見据えていたからに他ならない。もしも、ブッダ本人が経典を残していたとすれば、経典が教条と化し、時代の変化に対応しきれない場面も出たことだろう。だからこそブッダは原理原則だけを示して、意図的に体系化を避けたのではなかろうか。


 仏教思想が示唆しているのは、教えを守ることよりも、教えを開いてゆく営みである。

仏教は本当に意味があるのか

マインドコントロール理論への批判的見解


 ある種の宗教団体が信者に対してマインドコントロールをしているといういわゆる「マインドコントロール理論」は、米国の裁判においては採用されなかった。この理論の主唱者であった心理学者のマーガレット・シンガーは、米国心理学会内の有志によって、彼女の主張は科学的な裏付けが乏しく心理学者の間で一般に認められてはいないことを指摘する法定助言書が提出されたことにより、裁判で専門家として証言することを裁判官から許されなかった。このように、この理論は疑似科学と見なされるべきだとする学者もいる。


Wikipedia

一生の時間は体重の1/4乗に比例する

 このような相関関係を「べき乗則」という。


 時間は体重の1/4乗に比例するのである。

 体重が増えると時間は長くなる。ただし1/4乗というのは平方根の平方根だから、体重が16倍になると時間が2倍になるという計算で、体重が16倍なら時間も16倍という単純な比例とは違い、体重の増え方に比べれば時間の長くなり方はずっとゆるやかだ。

 この1/4乗則は、時間がかかわっているいろいろな現象に非常にひろくあてはまる。たとえば動物の一生にかかわるものでは、寿命をはじめとして、おとなのサイズに成長するまでの時間、性的に成熟するのに要する時間、赤ん坊が母親の胎内に留まっている時間など、すべてこの1/4乗則にしたがう。

 日常の活動の時間も、やはり体重の1/4乗に比例する。息をする時間間隔、腸が1回じわっと蠕動(ぜんどう)する時間、血が体内を一巡する時間、体外から入った異物をふたたび体外へと除去する時間、タンパク質が合成されてから壊されるまでの時間、等々。


【『ゾウの時間ネズミの時間 サイズの生物学』本川達雄中公新書、1992年)】

ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学 (中公新書)

2009-07-23

理工系人間は正確さにこだわり、人文系人間は意味を尊重する/『おテレビ様と日本人』林秀彦


 林秀彦は、人気テレビドラマ『鳩子の海』や『七人の刑事』の脚本を書いた人物。後に、バラエティショーの司会やFMのディスクジョッキーも務めた。その“テレビ側の人物”が、怒りを込めて完膚なきまでにテレビの毒性を糾弾している。


 この本は賛否両論が極端に分かれることだろう。時に著者の感情が激しく振れ、極論に走っているためだ。やたらと「白痴化」という言葉が出てくる。林は激怒する。日本を滅ぼしつつあるテレビに対して。林は歯軋(はぎし)りする。自分の人生を狂わせたテレビに対して。そして林は涙する。テレビの圧倒的な力の前であまりにも無力な自分に対して。著者は憤怒(ふんぬ)の形相で、さめざめと涙を流し続けているのだ。


 著者が自殺未遂に至る過程や、テレビ界を去って日本を脱出した後の人生を知り、私は「この人物は信用できる」と判断した。


 林秀彦は意図的に話を単純化する。既に白痴化しつつある衆生(しゅじょう)に向かって二者択一の選択を強いる目的で――


 たぶん神は、最初から人間を、理工系に作ったのだろう。だが神自身は、あくまで文科系である。と同時に、実に矛盾することだが、その神を祀(まつ)るあらゆる種類の教会的存在の建立者と運営者は、理工系である。そこに、非常に大きな人類の問題、葛藤、悲劇が生まれている。神自身はテレビを見ない。伝道者はテレビが大好きだ。文科系の神を宣伝するために、進んで理工系の手段を講じる。

 ジャパングリッシュで誤用されているのは、ヒューマニズムの使い方だ。人道主義とか博愛といった意味でこの英語を使うが、間違っている。その意味ならばヒューマニタリアニズム(humanitarianism)を使わなければならない。人間尊重を本義とするヒューマニズムはキケロに始まり、ヨーロッパの伝統的な思想であり、意味の変遷はあったが根本は変わっていない。すなわち、その時代時代で、人間性を損なうものすべてに対して抵抗する思想である。現代で言えば過度な科学の進歩、つまりおテレビ様、コンピューター、核兵器、その他もろもろ、に対する挑戦的姿勢と、それからの守備思想だ。

 そこで簡単に言い切れないことを、簡単に言い切る。

 ヒューマニズム信奉者は人文系の人間性であり、敵対者が理工系の人間である。職業的な意味でないことは前に断った。思考癖とでも言えるだろうか。性格、性癖と取ってもいい。意識・無意識は別にして、理工系の人間は非人間思考であり、人間性を失うことが進歩だと錯覚している。

 その顕著な現れのひとつは、間違いを嫌う性格だ。無謬をもって人間の最善とする「癖・へき」を持っている。彼ら・彼女らは、分析力と思考力の区別をつけていない。

 たとえばひとつの情報の正誤は分析できるが、そのいずれの場合にも含まれる「意味」は考えられない(考えたと錯覚しているが、それは分析である)。人文系人間、真の意味のヒューマニストには、正確は二義的な問題である。いずれであろうと、彼らが集中する対象は、それらが持つ「意味」である。正は正なりに、誤は誤なりに。

 理工系人間はヒューマニタリアンになりえても、決してヒューマニストにはなれない。なぜならば、理工系人間は高貴であってはなりえず、また、高貴になりえない。無論この「高貴さ」は人間の定めた身分的なものではない。神の定めた人間性の一部である。ヒューマニズムを支える根本こそ、人間の高貴さなのだ。

 高貴さは正誤と無縁であり、無謬も問題の範疇(はんちゅう)から外れる。

 正しくないこと、間違ったことをあえてすることによって高貴さが生まれる場合もある。この道筋はヒューマニタリアンの持ちえないものだ。


【『おテレビ様と日本人』林秀彦(成甲書房、2009年)】


 実に強引な文章である。さしずめ、無理な体勢からの上手投げといったところか。しかしながら、論理の軸足は辛うじて土俵内に残っていて、上手に乗せたメッセージは力強い。


 もう一度読んでみよう――林は「知識」と「知恵」の違いを主張しているのだ。知識には重量がある。増え続ける知識の重さに耐えかねる時、人は知識に額(ぬか)づき奴隷と化す。知識は“使うもの”ではなくして、思考を束縛する鎖となる。脳味噌は単なる記憶媒体の役目を担う。こうして百科事典に手足が付いたような人間が出来上がる。一方、知恵には浮力・揚力がある。本気でものを考えると行動が変化する。そして、新たな行動が新たな思索につながる。知恵は生きざまに結晶する。


 林が言うところの「理工系人間」は、知識や理論に自分の人生をはめ込もうとする。だから、自分に対する批判や落ち度を気にして正確さを競う。そして「人文系人間」は無謬性よりも意味の有無を問う。


 正確性が求められるのは機械である。あるいは時計だ。無論、正確な知識は必要であろうが、そのために人間性を犠牲にするようなことがあれば本末転倒だ。


 理論と実践は異なる。プロ野球監督の采配にケチをつける野球ファンは山ほどいるが、彼等が監督になることはあり得ない。イチローのバッティングセンスを解説する人物が、イチローのように打てるわけでもない。


 湖の上に足を一歩踏み出す。その足が沈む前にもう片方の足を前に出す――理屈であれば湖の上も歩けることになる。


 現代人に欠けているのは、合理を踏まえながら合理を跳躍する脚力なのだ。そして、それこそが“智慧”と呼ばれるものに違いない。

おテレビ様と日本人

2009-07-22

丸山隆三


 1冊読了。


 86冊目『アメリカ重犯罪刑務所 麻薬王になった日本人の獄中記』丸山隆三〈まるやま・たかみ〉(二見書房、2003年/ルー出版、1998年『ホテルカリフォルニア 重犯罪刑務所』を加筆訂正)/一気読み。文章がカラッとしていて好ましい。日本人にありがちな陰湿さがない。丸山隆三は渡米し、外車の並行輸入をしていた。事業は順調だったが、ふとしたきっかけから麻薬売買のフィクサー(仲介役)となる。一度の取引で、何と1000万円の現金収入が転がり込んだという。やがて年収は10億円を超えた。しかし、ブラックマネーは預金をすることができない。だから、散在の限りを尽くす。1ドル紙幣をたくさん持っていると犯罪者だと睨(にら)まれるため、海辺で燃やしたというエピソードまで紹介している。人気絶頂時の松田聖子と、歌手のマリーンが実名で登場する。麻薬の世界と、重犯罪刑務所の双方で著者は頂点に登りつめる。その意味では、ビジネス書として読むことも可能だ。一人の日本人男性の破天荒な人生が、アメリカ社会の暗部を見事に照射している。

世界中でもっとも成功した社会は「原始的な社会」/『人間の境界はどこにあるのだろう?』フェリペ・フェルナンデス=アルメスト


「成功の要素」を考えてみよう。スピード、技術革新(※イノベーションだよ)、富(=食料やエネルギーなどの余剰)の獲得といったところか。異論は出さないでくれ給え(笑)。


 これらに共通するキーワードは「変化」である。スピードと技術革新は、社会の変化に対応するものであり、富の獲得は、社会の激変に備える蓄積であると考えられる。


 実のところ我々は「変化」を恐れている。だからこそ、機先を制すべく身構えているのだろう。


 共産主義は崩壊した(ことにしておく)。ソ連が崩壊した時点で、人類は計画経済よりも自由競争を選んだ。出てきたモグラの頭を先に叩けば勝者だ。資本主義は早い者勝ちである。バーゲンセールに群がる主婦を見れば一目瞭然だ。あれこそ帝国主義の縮図だ(笑)。


 1972年、世界に一石が投じられた。ローマクラブの第一報告書『成長の限界』が発表されたのだ。日本が高度経済成長の最終コーナーからゴール直線に差し掛かった頃だ。その一方でベトナム戦争はまだ終結していなかった。


 環境意識が高まったのは、1997年の京都議定書以降のこと。で、アル・ゴアのドキュメンタリー映画『不都合な真実』で花を開かせた感がある。ゴアは2007年のノーベル平和賞を授与された。満開。あとは散るのみか……。


 どうも、きな臭い。ローマクラブの指摘は早すぎる。しかも、環境に負荷を与え続けているのは先進国なのだ。先進国には応分の責任がある。


 これに対して、梅崎義人〈うめざき・よしと〉は「環境ファッショ」であり、「環境帝国主義」であると糾弾している(『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』成山堂書店、1999年)。つまり、エネルギーと食糧には限りがあり、これ以上先進国を増やすわけにいかなくなったために、環境保護という美しいテーマを掲げて、自分達だけ椅子に座ろうという魂胆なのだ。資本主義の実態は椅子取りゲームだ。


 本来であれば、まず先進国から脱石油社会を目指すべきであり、電気を消して太陽と寝起きを共にすべきであろう。


 結局のところ、スピード・技術革新・富の獲得といった価値観が環境を破壊することに、人類はようやく気づいたのだ。“真の成功”とは「持続可能」という永続性にあった――


 もしも、「世界中でもっとも成功した社会はどれか?」という質問を発するならば、私たちは、変化することこそが成功の証という、浅はかな自己満足的仮定に飛びついて、劇的に進歩し、拡大し、環境を改変してきた社会を「偉大な文明」と賛美し、まねるべきモデルとみなすのだ。たとえ、それが活力を失ったり、廃墟となってしまったりしても、である。しかし、存続が目的であるとすれば、もっとも成功した社会とは、もっとも変化しなかった社会、彼らの伝統とアイデンティティとを保持してきた社会、または、環境の搾取を合理的に制限することで、存続をはかってきた社会なのだ。これまでもっとも長く続いてきた社会、変化の恐れにうまく抗してきた社会とは、今でも狩猟採集生活をしている社会である。南アフリカのクン・サン、またはブッシュマンと呼ばれる人々、オーストラリアの先住民、森の奥深く、めったに出会わない人々などだ。


【『人間の境界はどこにあるのだろう?』フェリペ・フェルナンデス=アルメスト/長谷川眞理子訳(岩波書店、2008年)】


「もっとも成功した社会とは、もっとも変化しなかった社会」という指摘が凄い。我々は、スピードを捨て、技術革新を放り投げ、富の獲得を否定する必要に迫られている。一気に作ったものは、一瞬で崩壊する可能性があるからだ。

人間の境界はどこにあるのだろう?

2009-07-21

菅原出、廣宮孝信


 2冊読了。


 84冊目『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』菅原出〈すがわら・いずる〉(草思社、2002年)/一昨日、読了。歴史を経済で読み解くと、驚くほど理解しやすくなる。菅原出の作品は初めて読んだが、意図的に抑制した筆致で衝撃的な歴史を淡々と綴っている。アメリカ経済界のエスタブリッシュメントとナチスの緊密な関係から、ブッシュ父子と石油業界に至るまでの表には決して出ない経済の深層に迫る。瑕疵(かし)を挙げるとすれば、表紙装画のみ。傑作だ。


 85冊目『国債を刷れ! 「国の借金は税金で返せ」のウソ』廣宮孝信〈ひろみや・たかのぶ〉(彩図社、2009年)/とても勉強になった。国会議員は必読のこと。竹中平蔵が提唱した「プライマリーバランス(基礎的財政収支)の黒字化」は現政府にも引き継がれているが、それよりも政府支出を増やした方が効果的であることが検証されている。不況対策といえば利下げと公共事業が真っ先に上げられるが、国債発行がこれほど景気にインパクトを与えるとは知らなかった。「政府が100万円支出を増やせば、GDPが233万円増える」そうだ。日本の景気がいつまでもよくならないのは、GDPが伸びていないため。青木秀和著『「お金」崩壊』(集英社新書、2008年)よりも、10倍はためになる内容だ。

政府に奉仕する記者クラブ/『ジャーナリズム崩壊』上杉隆


 世界に類を見ない記者クラブ制度を徹底的に糾弾している。私が初めて記者クラブ問題を知ったのは、カレル・ヴァン・ウォルフレン著『日本/権力構造の謎』(早川書房、1990年/ハヤカワ文庫、1994年)を読んでのこと。ウォルフレンは外国人記者を排除する日本の悪習を指摘した。


 記者クラブというのは、日本新聞協会が牛耳る仲良しグループのこと。メンバーは大手の新聞社・通信社・放送局に限定されている。ま、“報道の護送船団方式”と言ってよかろう。ここから、政府及び官僚が発信する情報が速やかに伝えられる。日本における報道とは、政府スポークスマンが発表する情報の伝言ゲームと化しているのだ。つまり記者クラブは、大政翼賛的な御用メディアの役目を果たしている。


 所詮は村だ。だからこそ、記者クラブという村によそ者を入れるわけにはいかないのだ。よそ者は“取材”を試み、“批判”を企てる。垂れ流される情報を決して鵜呑みにしない。村長からすれば非常に目障りだ。そして、村長を支える輩にとっても好ましくない。それゆえ村の掟に従わない連中は排除されてしまうのだ。


 記者クラブは政府に奉仕する。例えばこんなふうに――


 新テロ特措法成立以前、新聞は、仮に自衛隊によるインド洋での給油活動がストップすれば、日本の国際的信用力は低下する、と書いていた。

 だが、現実は、艦船2隻が日本に戻ってきている間もインド洋でのオペレーションは不断に行われ、日本政府の国際的信用が低下するという事態には発展しなかった。

 日銀総裁人事でも同様だ。政府の人事案を野党が蹴り、一時的に総裁が空席になる前、新聞は野党の国会対応を責めたてた。もしも中央銀行総裁が空席になったら、日本の金融市場は混乱し、国際的信頼性が損なわれる、というものだった。

 結果は、もちろんそうはならなかった。ところが、自らの非を認めたくない新聞は、欧米のメディアは日銀総裁の空席によって、日本経済は打撃を被るだろうと報じている、として危機を煽(あお)ったのだ。

 実際は、英誌『エコノミスト』が「JAPAIN」というテーマで書いたように、単に、日銀総裁も決められないほど日本の政治は弱体化しているというものばかり。つまり、新聞は、存在しない危機を勝手に作り出し、政府の言い分を補完する役割を自ら担ったに過ぎなかったのだ。


【『ジャーナリズム崩壊』上杉隆(幻冬舎新書、2008年)】


 私は驚いた。こんな事実すらすっかり忘れていたからだ。「日本人は歴史健忘症である」という指摘があるが、「ニュース健忘症」でもあるようだ。記者クラブが排泄(はいせつ)する情報は、私という便器に落下したまま臭気を放っている。そして私はいつしか臭気に慣れ、異臭を嗅ぎ分けられなくなっている。


 情報は伝えられる際に必ず歪む。これをメディア・バイアスという。だが、記者クラブが行っているのは、「意図的に歪められた情報の伝達」である。つまり、我々の手元に来た情報は二重三重のバイアスが掛かっているのだ。


メディアは下水管だ」と小田嶋隆が喝破しているが、全く同じ理由から「メディアはケツの穴だ」と私は言いたい。


 上杉隆には気骨がある。傑作『官邸崩壊 安倍政権迷走の一年』(新潮社、2007年)にまつわるエピソードも記されているが、非常に興味深いものだった。かつて上杉本人が勤務したNHKに対する苦言も真摯である。


 読書の目的は、「世の中の仕組み」や「世界の構造」を知ることにある。本を読まないと、知らず知らずのうちに権力者のコントロール下に置かれる羽目となる。本書は間違いなく“目を開かせてくれる”一冊である。

ジャーナリズム崩壊 (幻冬舎新書) 官邸崩壊 (幻冬舎文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-07-20

「共感のうた」みちゃこ


 モンスターエンジン・西森の「鉄工所ラップ 4」で、さわりが挿入されていた歌。探したことを後悔するほど酷い代物であったが、これをヒャダイン氏が見事にアレンジしていた。それでもやはり、共感できない。


D


D

実際の死


 死は人間にとって重大事件であるように幼い頃から教育されて来たけれど、実際の死は、生きることよりずっと簡単なものに思えた。


【『恍惚の人有吉佐和子(新潮社、1972年/新潮文庫、1982年)】

恍惚の人 (新潮文庫)

郵貯・簡保・厚生年金で戦費調達/『「お金」崩壊』青木秀和


 歴史を動かしているのは何か? 人の心だ。人と言ったって万人を指すわけではない。もちろん権力者である。では、権力者の心を動かすのは何か? 金だ。金に決まっているよ。


 歴史というものは、経済で読み解くと非常にわかりやすい構図となる。どこからどこへ金が動いたか、誰が得をして誰が損をしたのか、そして得をした者は次にどう動いたのか――こうしたことは歴史を読んでもわからない。そりゃそうだ。権力者にとっては都合の悪い話だからね。わざとわからないように工夫を凝らしているに違いない。


 例えばキリスト教の歴史や、産業革命や、第二次世界大戦なども、経済という視点から見れば、世界の仕組みが一目瞭然となることだろう。株式会社という手法は、メイフラワー号でアメリカという新天地を目指したピューリタンに投資したのがそもそもの始まりだった。


 歴史を司っているのは宗教だ。そして歴史を大きく動かすのは戦争だ。文明が発達してからというもの、戦争の勝敗は武器によって決まった。織田信長が勝ったのは鉄砲を持っていたからだった。


 戦争の規模が拡大するにつれ、社会のあちこちに“税の網”が張り巡らされた。戦費はいつだって足りないのだ。現在、我々がさして疑問を抱かないシステムも、元をただせば戦費調達を目的としたものだった――


 ところが、アジア太平洋戦争という大消耗戦において、国家財政はさらに逼迫(ひっぱく)する。政府はこの苦境を乗り切るために、郵貯・簡保に加えて、次なる預金部への強制預入制度の導入に踏み切る。それが「厚生年金」である。


【『「お金」崩壊』青木秀和(集英社新書、2008年)】


 わたしゃ知りませんでしたよ。郵貯も簡保も、そして厚生年金までもが戦費として使われていたとは。どうせなら、年金問題もこの辺から議論してもらいたいもんだね。

 日本が戦争をしていないからといって油断してはいけない。国内で武器が製造されている上、日本の税金がアメリカの戦争を支えているケースが殆どだ。


 国際的な人道保護団体であるアムネスティ・インターナショナルはこんな報告書を発表している。「世界中で、毎日毎日、政府や武装政治集団の手により、男性や女性や子どもが、家を追われ、拷問を受け、殺害され、失踪している。多くの場合、アメリカはその責任の一端を担っている」。この報告が発表されたおが1996年。アフガニスタン空爆、イラク戦争を経た現在、その傾向がさらに強くなっているという印象を持つ人は少なくないだろう。


【『世界反米ジョーク集』早坂隆(中公新書ラクレ、2005年)】


 ということは、アメリカと友好関係にある国々は、アメリカの暴力とも関わりを持っていることになる。そして、アメリカの基幹産業は軍産複合体である。アメリカが世界を牛耳っている限り、アメリカ経済が崩壊することはない。

「お金」崩壊 (集英社新書 437A)

RICOH デジタルカメラ GR DIGITAL II 1000万画素


RICOH デジタルカメラ GR DIGITALII 1000万画素 GRDIGITALII


 新製品「GR DIGITAL II」は、「GR DIGITAL」で追求した、周辺部までの優れた解像力、低ノイズ、低色収差を実現した「高画質コンパクトカメラ」というコンセプトを継承した上で、さらに画質、表現力、操作性、拡張性を高めたものです。また、カメラにこだわりをお持ちのお客様のニーズにきめ細かくお応えするため、「GR DIGITAL」を発売して以来ご提供している、レリーズボタンの重さやAE/AWBの微調整などを行うカスタマイズサービスを、「GR DIGITAL II」でも継続して実施いたします。

『どうして郵貯がいけないの 金融と地球環境』グループKIKI(北斗出版、1993年)


どうして郵貯がいけないの 金融と地球環境


 日本の市民運動の古典的名著 環境問題をはじめ、各種の市民運動や住民運動をしている人々に出会い、北斗出版の名前を出すと、「ああ、『どうして郵貯がいけないの』を出した出版社ですね」といまだにいわれることがある。本は、著者名やタイトルは覚えている人は多いが、書名と出版社名までを関連づけて覚えていただける本を出すのは至難のことで、そう意味では大変うれしい。


 この本が、それほどに強い印象を与えた理由は、それまで多くの市民団体が扱ってきた個別の問題、たとえば森林破壊や原発や各種の巨大公共事業などの背景にあるお金の流れを解明したことにある。個別の事業をストップさせたとしても、巨大な資金がある限り、どこか別のところに投資されなくてはならない。だから住民運動や反対運動はもぐらたたきゲームになってしまう。個別の事業の裏にあるお金の動き全体に注目したことに著者の独創性が光る。しかも、民間銀行は信用できないので、郵便貯金の方がいいだろうと判断して郵貯を使っているという人にとっては、そこに預けたお金がめぐりめぐって自分の反対している事業に使われているという事実を知り、衝撃を受けた人も多い。金融や行政、研究者などの専門家の中にはそうした仕組みを知っている人もいたが、金融に精しくない学生や主婦にまでわかるように、そうした問題の本質を読み解いた本書は、1990年代の日本の市民運動の中の基礎的な文献となった。

2009-07-19

今日の夕焼け


 買い物帰りに、車中からかみさんの携帯電話で撮影。


f:id:sessendo:20090719222926j:image


f:id:sessendo:20090719222927j:image

「日本の“原爆歴史観”を問う」


 出演しているのは宮崎哲哉、大谷昭宏橋下徹の三氏。大谷昭宏が議論をなし崩しにしている。ネット上の掲示板でよく見掛けるタイプだ。“悪しきリベラリズム”を感じてならない。


D


D

『巨匠が解く日本経済の難問』日本経済新聞社編(日経ビジネス人文庫、2003年)


巨匠が解く日本経済の難問 (日経ビジネス人文庫)


 日本が直面する難問と、経済学の流れを創った巨匠が格闘した問題には多くの共通点がある――「需要創造と構造改革」「不況対策と技術革新」「個人の能力と賃金」など今の日本の学者が現状打破のヒントを抜き出し、平易に解説。“喰わず嫌い”にこそ最適な経済学入門書。

『天才スマリヤンのパラドックス人生 ゲーデルもピアノもマジックもチェスもジョークも』レイモンド・スマリヤン/高橋昌一郎訳(講談社、2004年)


天才スマリヤンのパラドックス人生 ゲーデルもピアノもマジックもチェスもジョークも


 哲学者・論理学者・数学者・音楽家・手品師・ユーモア作家 そしてパズル作家の融合した唯一の人物が語る笑える自伝。脳を刺激する論理パズル33問付き。


 男の一人が、私に尋ねた。「あなたの絶対音感の感覚はどのくらい正確なんですか?」。奇妙なことに、なぜか私には彼の質問がよく聞こえなかった。それで、彼は再び少し大きな声で繰り返した。「私は、あなたの絶対音感の感覚が、どのくらい正確なのかを伺ったのですが?」。マーヴィンが振り返って言った。「君たちに言うのを忘れていた。彼は耳は遠いんだよ!」【本書より】

50万ヒット


 本日達成。駄文を読んで下さる物好きな皆さんに感謝(笑)。

オシムが背負う十字架/『オシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見える』木村元彦


 スポーツ選手や職人の言葉が胸を打つのは、思考に身体性が伴っているためであろう。そう。人生とは“行為”なのだ。時に学者の言葉が軽く感じられるのは、私の人生とは無縁な能書きに過ぎないからだ。


 イビツァ・オシム。身長191cmの偉容。猫背なのは知性が重すぎる証拠か。表情にはどこか憂愁がつきまとっている。しかし眼光は鋭い。そして彼が発する言葉には賢者の響きがある。


 オシムユーゴスラビア(現・ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエヴォで生まれた。この国の複雑な歴史と運命が、オシムの人格に深い影響を及ぼしている。サッカーですら政治とは無縁でいられなかった。


 祖国で紛争が起こるサラエヴォは包囲された(1992年)。妻と長女がサラエヴォにいた。オシムと長男は戻れなくなっていた――


 オシムは内戦時に自分がサラエボにいなかったことを、強烈な負い目として感じている。心から愛して止まなかった故郷で人が殺されている時、別の場所にいたことを「一生かかっても消えない自分にとっての障害(ハンディキャップ)だ」とまで言い切る。公務、つまり代表監督として包囲される前にたまたまベオにいたこと、帰ろうにも戻れなかったことは、彼の中では言い訳にならない。死んだのは撃たれた者だけではない。隣人が殺し合う惨い状況に絶望して、自らを手にかけた自殺者の数がいかに多いことか。絶望、そう、皮肉なことに理想郷だったサラエボを知る者だけが、感じられる感情。ベオにいた代表監督も間違いなくその淵をのぞいていた。


【『オシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見える』木村元彦〈きむら・ゆきひこ〉(集英社インターナショナル、2005年/集英社文庫、2008年)】


 ユーゴ代表チームにはセルビア人、クロアチア人、アルバニア人がいた。紛争が始まるや否や、チームメイトは敵国の人間となった。ジャーナリズムは国威発揚を隠そうともせず、好き勝手なサッカー記事を綴った。


 そんな中でオシムはチームを牽引し、国家をも牽引した。サッカーの世界に人種は関係がなかった。


 ユーゴスラビア紛争終結後もわだかまりの残る旧ユーゴスラビア構成諸国家内各民族の間で、今なおどの民族からも尊敬を集め得る人物の一人であるといわれている。これは数々の困難を乗り越えてユーゴスラビア代表に栄光をもたらした功績によるものである。


Wikipedia


 崇高な責任感と高貴な正義感が、オシムに十字架を背負わせた。監督としての務めは果たしていたが、同胞が経験した地獄に居合わせなかった。オシムはサッカーチームの監督である前に一人の民であった。


 ここにおいてオシムの発想が逆転していることに気づくのだ。凡人であれば、サラエヴォから脱出していたことを僥倖(ぎょうこう)と感じたことだろう。もしも、ユーゴスラビアの政治家にオシムほどの責任感があれば、紛争は間違いなく回避できたはずだ。


 サラエヴォは人種と宗教の坩堝(るつぼ)である。オシムは言う――「バルカン半島の人間はアイディアを持ち合わせてないと生きてゆけない。今日は生きれた。でも明日何が起きるかわからない。バルカン半島では、問題解決のためのアイディアがないと生きてゆけないのだ」と(※本書に掲載されているのだが入力していなかったため、「チャンネルアジア」より借用)。


 オシムが語る「アイディア」とは、傷ついた者が生き延びようとする強靭な意志から生まれる智慧なのだ。乾いたユーモア、絶望を達観するニヒリズム、聞き手が考えざるを得ない言葉の数々……。私にはオシムの姿がブッダと重なって見える。

オシムの言葉―フィールドの向こうに人生が見える オシムの言葉 (集英社文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-07-18

『どこまで許される? ホームヘルパーの医療行為』篠崎良勝(一橋出版、2002年)


どこまで許される?ホームヘルパーの医療行為


 生きるためには、医療行為が欠かせない利用者。求めに応じれば、違法行為となる介護職。いったい介護は誰のためのものなのか。現場の苦悩を通して、「システム」に切り込んだ一冊。

「鉄工所ラップ」モンスターエンジン・西森


 これは面白い。華のなさを上手く武器にしている。西森は俳優の素質があると思う。東貴博を無表情にしたような顔だが、柄本明タイプの役者になれると私は見ている。


D


D


D


D

神と悪魔


 神と悪魔、彼らと政府やマクドナルドがどれほどちがう? どちらも地元の人間が依存できるものを何かしら提供することで金を得てる、ただのフランチャイズじゃないか。

  ――エドワード・コンスタンザ

(〈ロスアンジェルス・ヘラルド・エグザミナー〉紙読者投稿欄より。1984年)


【『神は銃弾』ボストン・テラン/田口俊樹訳(文春文庫、2001年)】

神は銃弾 (文春文庫)

ユースフ・イドリース、ナギーブ・マハフーズ、木村元彦


 2冊読了。


 82冊目『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』朝鮮短編集、魯迅、巴金、茅盾、クッツェー、ナーラーナン、イドリース、マハフーズ(集英社、1991年)/A5判で1435ページ、4935円也。もちろん読み終えたわけではない。私の目的は、ユースフ・イドリースの「黒い警官」「肉の家」(奴田原睦明訳)と、ナギーブ・マハフーズ(※最近の翻訳では「ナギーブ・マフフーズ」となっている)の「花婿」「手品師が皿を奪(と)った」(高野晶弘訳)にあった。いずれも、岡真理著『アラブ、祈りとしての文学』(みすず書房、2008年)で紹介されていた作品。いやはや、これは凄かった。特にイドリースの両作品は甲乙つけ難く、私が読んできた小説の中で1位と2位にランクされた。「黒い警官」は暴力を、「肉の家」は性を描いた内容だが、丸山健二が辿り着けなかった世界がここにある。まったくもってアラブ文学は底が知れない。いずれも、エジプトの作家である。


 83冊目『蹴る群れ木村元彦〈きむら・ゆきひこ〉(講談社、2007年)/ベストセラーとなった『オシムの言葉』(集英社インターナショナル、2005年/集英社文庫、2008年)に続いて著したサッカー・ノンフィクション。こっちの方がはるかに面白かった。私はサッカーをまったく観ないし、興味すらない。それでも、ここで紹介されている20人になんなんとする人生の春秋には、涙を禁じ得なかった。世界を股にかけるサッカー・プレイヤーの何と逞しいことか。彼等は同じフィールドにあっても立っている大地が異なっている。そして彼等は、サッカーボールではなく“理不尽な運命”を蹴飛ばしているのだ。短篇小説さながらの完成度である。全体のレベルが高すぎるため、土田尚史田北雄気を紹介した一章が明らかに見劣りしている。日本人の卑屈な一面が実に醜悪だ。

コミュニケーションの第一原理/『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー


「はじめて読むドラッカー【自己実現編】」と表紙にある。ドラッカー入門という位置づけの抄録。しかしながら単なる抜粋の寄せ集めではなく、ドラッカー思想のエッセンスが結実している。


 ただし、やはりと言うか、案の定と言うか、思想のドライブ感に欠ける。うねるような勢い、高鳴るリズム、沈思と昂奮のせめぎ合い、といったものが感じられなかった。


 もう一つ。上田惇生の訳がよくないと思う。略歴に経団連会長秘書、ものつくり大学教授とあることからもわかるように、所詮権力側の人物だ。悪人だと決めつけているわけではないが、コントロールする側にとって都合のいい考えが盛り込まれている可能性がある。また、ドラッカーの著作を翻訳する際は、思想的背景や価値観の根拠といったものを補強する必要があると私は思う。その意味で、民間の――できればベンチャー企業の――ビジネスパーソンによる新訳に期待したい。


「翻訳」とは一種のフィルターである。それゆえ、「翻訳された情報」はバイアスが掛かっている。だから、文にとらわれて義や意を見失えば、著者を知ることはできない。翻訳の信頼性を私が判断する基準は「腑に落ちるか否か」という一点である。ドラッカーの場合だと、部分的には痺れるテキストもあるのだが、全体的には肚(はら)にストンと落ちてこない。


 それでも、十分示唆に富んでいる。例えば、「コミュニケーションの第一原理」として次のように書いている――


 仏教の禅僧、イスラム教のスーフィ教徒、タルムードのラビなどの公案に、「無人の山中で木が倒れたとき、音はするか」との問いがある。今日われわれは、答えがノーであることを知っている。たしかに、音波は発生する。だが、誰かが音を耳にしないかぎり、音はしない。音は知覚されることによって、音となる。ここにいう音こそ、コミュニケーションである。神秘家たちも知っていた。「誰も聞かなければ、音はない」と答えた。

 このむかしからの答えが、今日重要な意味をもつ。この答えは、コミュニケーションの内容を発する人間、すなわちコミュニケーターではない。彼は発するだけである。聞く者がいなければ、コミュニケーションは成立しない。意味のない音波があるだけである。これがコミュニケーションについての第一の原理である。


【『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー/上田惇生編訳(ダイヤモンド社、2000年)】


 私が10代の頃、この問いを友人のシンマチから聞いた覚えがある。よもや、禅の公案だとは思わなかった。シンマチは確か「木の枝が折れた音」と言っていた。私は少し考えてから「する」と答えたように記憶している。シンマチはしてやったりという表情になった。ただし、あいつからの説明に納得した憶えがない。


 実はこの問いがずっと心に引っ掛かっていた。実に四半世紀も引き摺っていたことになる。


 ドラッカーはこの問いから、コミュニケーションは受け手がいることで初めて成立すると主張している。この前段では、組織における上意下達型コミュニケーションに対して警鐘を鳴らしている。そして、「大工と話す時は、大工の言葉を使わなければならない」というソクラテスの言葉(※プラトン著『パイドン』)も紹介されている。


 ドラッカーの主張は正しいと思う。しかし、私がどうしても腑に落ちないのはその前提である。この問いに限らず禅の公案が胡散臭いのは、思考を揺るがすところに問いの目的があるからだ。このため、「答えはどうでもよく、お前の先入観がグラグラすればオッケー」といったあざとい印象を受けてしまう。問いに切実さがない。真剣さを欠いている。仏教の智慧とは、決して頓知ではないはずだ。


「無人の山中で木が倒れたとき、音はするか」――するに決まっているよ。鳥や虫達が確実に聞いているはずだ。あるいはその音波がバタフライ効果を生むかも知れない。関連性・相互性の思想に「仏教の縁起」があるが、縁起という思想は“人間の認識”という範疇にとどまるものではない。


 もっと簡単に私の考えを述べよう。「無人の山中」を想像した途端、そこに私自身が存在している。つまり、私の脳内において木が倒れる音が発生するのだ。認識・知覚というレベルを推し進めれば、バーチャルであろうと、認知症であろうと、幻聴・幻覚であろうと、本人にとっては「存在する」ことになってしまう。なぜなら、存在の本質は情報であるからだ。また反対に、実際に存在する放射能や超音波を我々が知覚することはできない。


 ドラッカーが説いているのは、企業組織におけるコミュニケーションである。私が首をかしげてしまうのは、苦悩に喘ぐ人々の声が社会に届いていない現実があるためだ。教育委員会の認識によれば、いつだって「いじめの事実はない」ことになる。この一点において、ドラッカーのコミュニケーション論は人間の本質を探るものではなく、有機的な会社組織のあり方を論じたものであると考えるべきなのだろう。


 人間同士のコミュニケーションの前提は、情報の有益性にあるのではなく、互いを人間として見つめる視座に存在する。今時ときたら、互いを貶(おとし)め合うような、マイナスコミュニケーションが多すぎる。


 尚、最後に付言しておくと、こうした考えに至ったのは、「小林秀雄は真っ当なことを言ってるのに、好きになれないのは何故だろう」というhengsu氏からのブックマークコメントの影響が大きい。記して感謝申し上げる。

プロフェッショナルの条件―いかに成果をあげ、成長するか (はじめて読むドラッカー (自己実現編))

2009-07-17

手柄岡持


 暑にまけずかみもそゝけずはたらきのその骨柄(こつがら)も一器唐扇(とうせん)

 手柄岡持(てがらのおかもち)


 麻生・小池編『川柳・狂歌』(昭和33年)所収。「唐扇(中国の扇子)をもらひて」と題した狂歌。「暑さに負けず、紙も手ずれでそそけだったりせず、骨組みも使い具合がよく、まさに一騎当千の唐扇だ」。さらに別の意味も詠みこむ。「暑気に負けず、髪も乱れてそそけたりせず、働きのいい体格で、まったく君は一騎当千の士だ」。扇を贈ってくれた相手をもほめたのだ。岡持は武士で黄表紙作者としても有名な人だった。


【『折々のうた 第十』大岡信編(岩波新書、1992年)】

折々のうた〈第10〉 (岩波新書)

言葉の重み/『時宗』高橋克彦


 北条時頼と時宗、時輔(※時宗の異母兄)父子(おやこ)を描いた政治小説。飽くまでも歴史小説という形を用いた政治小説である。鎌倉時代を築いた武士とそれ以前に栄華を誇っていた公家との違い、天皇・将軍・執権というパワー・オブ・バランス、関東における武士の合従連衡などがよく理解できる。


 親子にわたる政(まつりごと)を縦糸に、そして国家という枠組が形成される様を横糸にしながら、物語は怒涛の勢いで蒙古襲来を描く。時頼と日蓮との関係を盛り込むことで、政治・宗教・戦争という大きなテーマが浮かび上がってくる仕掛けだ。お見事。


 私は以下の件(くだり)を読んで衝撃を受けた――


「そなたが関白でよかった」

 上皇は言って基平を見詰めた。

「近衛の一族はそなたを今に生み出すために代々我らの側にあったのじゃな」

 なにを言われたのか基平には分からなかった。それが最上級の褒めの言葉であると察したのは少し間を置いてのことである。

「ははっ」

 感極まって基平は泣きながら平伏した。抑えようにも涙は止まらない。五度に及ぶ混迷の合議、しかも半ば以上諦めていた裁定をたった一通の意見書が覆(くつがえ)したのだ。


【『時宗』高橋克彦(NHK出版、2000年/講談社文庫、2003年)以下同】


 北条家の意向を受けた近衛基平が「蒙古からの国書に返書を出すべきではない」と折衝する。これには、蒙古に対する北条父子の深慮遠謀があり、基平は命懸けで訴え抜いた。最後の最後でようやく基平の意見は採用される。そして、上皇が感謝の意を表明するシーンである。


 真の褒賞(ほうしょう)は「感謝の言葉」であった。何という言葉の重み。金品でも土地でもない。国家を守るために命を張り、それに報いる言葉があれば、人は幸福になれるのだ。日蓮は門下に宛てた手紙の中で「ただ心こそ大切なれ」(「四条金吾殿御返事」弘安2年/1279年)と記しているが、まさしく心を打つものは心に他ならない。


 まだ天下が統一される前の時代に、国の行く末を思い、犠牲を厭(いと)わぬ人々が存在した。歴史に記されることがなかったとしても、礎石になる人生を選んだ男達がいた。


 泰盛は時宗の肩に手を置いて言った。

「そなたがここにおるではないか。そなたであればどんな山とて乗り越えられる。国は皆のものと言い切る執権じゃぞ。そういうそなたの言なればこそ皆が命を捨てたのだ」

 時宗は泰盛を見詰めた。

「そなたが気付いておらぬだけ。新しき国の姿はそなたの中にある。皆はそれを信じて踏ん張った。そなたが今の心を持ち続けている限り、我らも失うことはない」


 安達泰盛の言葉もまた最高の褒賞となっている。真実を知る者からの称賛が、喝采なき舞台を力強く支える。地位でも名誉でもなく、人間と人間とが交わす讃歌こそ究極の幸福なのだ。

時宗〈巻の1〉乱星 (講談社文庫) 時宗〈巻の2〉連星 (講談社文庫) 時宗〈巻の3〉震星 (講談社文庫) 時宗〈巻の4〉戦星 (講談社文庫)

2009-07-16

風俗は裁判所がつくる


佐藤優法の下の平等に反するじゃないか。どう考えてもおかしいじゃないですか。カラダの一部だけが猥褻(わいせつ)だとして、他の部分と区別されているというのは、チ○○ンとかオ○○コがかわいそうだ。


安田好弘●風俗という話になっていくと、立証不能、不要とされているわけですよね。風俗というものは国家が作る、社会が作るという話ではなくて、最初から裁判所が作っているもですから。


魚の目 2009-07-16

緒方貞子


 最悪なのは、自分が見殺しにしていたことすら知らなかったという点だ。当時国連高等難民弁務官の地位についていたのは日本人外交官緒方貞子である。彼女は日本の国連外交のチャンピオンであり、国内の政治家や官僚の腐敗と無能とは一線を画した存在ではなかったのか? 100万人が死ぬあいだ彼女はなにもせず、殺害犯たちに「人道援助」をおくり、そのことを日本人は誰一人気にもとめていなかった。それはなにを意味するのだろう?(※訳者あとがき)


【『ジェノサイドの丘』フィリップ・ゴーレイヴィッチ柳下毅一郎〈やなした・きいちろう〉訳(WAVE出版、2003年)】

ジェノサイドの丘〈新装版〉―ルワンダ虐殺の隠された真実

新訳『一九八四年』ジョージ・オーウェル/高橋和久訳(ハヤカワ文庫、2009年)


 村上春樹の『1Q84 BOOK 1』『1Q84 BOOK 2』に便乗した恰好になっている。


一九八四年[新訳版]


 ビッグブラザー復活! 20世紀世界文学至高の傑作が新訳版で登場!


〈ビッグ・ブラザー〉率いる党が支配する全体主義的近未来。ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改竄(かいざん)が仕事だった。しかし彼は、以前より完璧な屈従を強いる体制に不満を抱いていた。ある時、奔放な美女ジュリアと出会ったことを契機に、伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが……。

ビデオ:Mac「1984」CM 今なお衝撃的な映像を振り返る


 CM映像は53秒から始まる。まあ、とにかく凄いよ。リドリー・スコットが制作した作品。2004年のリニューアルバージョンでは、女性がiPodとイヤホンを身に付けている。

「万物と共に踊る」ものは何か?/『高村光太郎詩集』


 東京は梅雨が明けた。夾竹桃(きょうちくとう)が色めき、ひまわりがスッと背丈を伸ばしている。灼熱の太陽と我慢比べをするみたいに蝉が鳴き始めた。


 私はどんなに暑くともエアコンを使わない。「夏に負けてなるものか」と意地を張り、夏のエネルギーを体内に取り込む。メシさえしっかり食べていれば、夏は恐れるに足らない。


 そして、いよいよ耐えられない暑さに遭遇すると、私は高村光太郎の「冬が来た」と「冬の詩」を読むことにしている。これぞ、“脳内クーラー”だよ(笑)。


 では、夏にぴったりの詩を紹介しよう――


万物と共に踊る


 彼は万物を見る

 また万物を所有する

 重いものをもち又軽いものをもつ

 明るいものを見また暗いものを見る

 人のいふ矛盾が矛盾にならない

 砂糖の中へ塩を入れる

 燃える火から水を取る

 あらゆる対立は一つに溶ける

 あらゆる差別は一つに輝く

 相剋と戦闘と

 排擠(※はいせい)と鍛錬との

 身を切る苦しさに七転する時も

 彼は共を成し遂げる必勝の気魄を持つ

 最も忠実であつてしかも背叛する

 最も真摯であつてしかも悪謔する

 最も激烈な近代人であつて

 しかも最も執拗な古代人である

 最も精霊的であつて

 しかも最も肉体的である

 女と共に泣き

 女と共に踊る

 女を憎み

 女を愛する

 愛憎を超へた永遠を知る

 その一源をつねに掌中に握る

 それゆゑ

 女の信頼し得る最も堅固な胸である

 純一であつて単調でない

 複雑であつて乱多でない

 つねに死身(しにみ)で

 しかもつねに笑つてゐる

 貞潔であつて又多情である

 自由を極めてしかも或る規律がある

 そしてあらゆる凡俗と妥協とを絶してゐる

 万物は彼に押しよせ

 彼は万物と共に乱舞する

 天然の素と交通し

 天然の実(じつ)を実とする

 すべての瑣事はみな一大事となり

 又組織となる

 彼は自らに信憑(しんぴょう)し

 自らの渇慾に羅針を据ゑる

 彼にとつて

 生長は生長の意識でなくて

 渇慾の感覚である

 そして遂行(すゐかう)の喜悦である

 そして又剰残(じやうざん)の不満である

 現状の不安である

 あらゆる刺戟は彼の空虚をめざめしめ

 あらゆる養ひは彼の細胞にひびき渡る

 幺微(えうび)に入り

 不可思議にせまる

 彼は万物と共に踊り

 彼は万物を見

 また万物を所有する

 彼は絶えず悩み、絶えずのり越す

 ――偉大の生れる時だ


【『高村光太郎詩集』(岩波文庫、1981年)】


 まるで、真夏のカーニバルだ。この詩を時々読み返しているのだが、「万物と共に踊る」ものが何かを探しあぐねている。


「熱」か。あるいは「生命力」か。はたまた、「神」か「精霊」か。もしくは、「振動する分子」か「スピンする素粒子」か。


 情動と情緒が均衡を保ちながらも、理性と思考を吹き飛ばす勢いに溢れている。どこかで見たことがある。そして、いつか感じた憶えがある。


「意識下で燃え盛っている何か」――今の私に考えつくのは、こんなところだ。そして、いつまで経っても「偉大」は生まれてこない。難産にさせているのは、取るに足らない常識に縛られているためだろう。


 狂喜乱舞する精神の躍動がなければ、人間とは言い難い。この詩を読んで、つくづくそう思う。

高村光太郎詩集 (岩波文庫)

2009-07-15

バルカンのホスピタリティ/『終わらぬ「民族浄化」 セルビア・モンテネグロ』木村元彦


 コソボ紛争は複雑である。まず、ユーゴスラビア紛争を理解しなくてはならない。

 ユーゴスラビアという国家は、チトー大統領の傑出したリーダーシップによって諸民族が微妙なバランスを取ることで成り立っていた。チトーの死(1980年)によってこの均衡が崩れる。1991年、ユーゴスラビア紛争が始まる。


 で、ユーゴ紛争の内容は以下――

 コソボ紛争は、セルビア人とアルバニア人の長年にわたる憎悪が衝突したものだった。そして、セルビア人大統領ミロシェヴィッチ率いるユーゴに対して、1999年3月24日、遂にNATO(北大西洋条約機構)軍が空爆を開始した。


 要はこうだ。まずセルビア人がアルバニア人を迫害した。そしてNATO軍と国際世論を味方につけたアルバニア人が今度はセルビア人を迫害している。木村元彦によれば、何と3000人ものセルビア人が行方不明となっているとのこと。


 取材に応じているセルビア人は皆冷静であり、フェアな考え方をしている――


 ジンジッチ(※セルビア共和国大統領)の決断は、米国からの援助(約5000万ドル)と引き換えに国内法を無視したものだとベリツエは憤る。

ミロシェビッチ戦争犯罪については、私たちセルビア人も何が行われたのか知りたいし、彼は裁かれるべきです。しかし、一方で同じように私たちセルビア民族の民間人を誘拐したり、殺したりしてきたKLA(※コソボ解放軍)の幹部たちが、今やコソボで要職に就いているのを見ると悔しくて涙が出る。ミロシェビッチの首をよこせと言うのならハシム・タチ(KLA元司令官、現在は独立強硬派のPDK・コソボ民主党党首)もハーグに送るべきではないのか」


【『終わらぬ「民族浄化」 セルビア・モンテネグロ』木村元彦〈きむら・ゆきひこ〉(集英社新書、2005年)以下同】


 実は大きな問題が二つある。


 まず、ミロシェビッチ大統領を悪党に仕立て上げたのは戦争広告代理店だった。

 次に、NATO軍の空爆はアメリカ軍需産業の在庫処分が目的だった。人も建物もない場所で、雨あられを降らすように旧式となった爆弾が落とされた。

「人道」「国際援助」という大義名分を掲げて、アメリカはいつだって好き勝手な真似をしている。


 尚、アメリカの手口については以下を参照されよ――

 セルビア人が著者をもてなす場面がある――


 家に上がれと言うのでバラックの中にお邪魔する。台所に腰掛けて改めて話を聞いた。流しの上にはジュース一本と豚肉のペーストの小さな缶詰が三つ。

「朝昼晩とこればかりなのよ。でも肉は身体が温まる。飢えと寒さにはこれが一番」

 そして客人にはまずこれを、と自家製のラキヤ(梅で作ったブランデー)を取り出しグラスに注いだ。バルカンのホスピタリティーを凄いと思うのはこういう時だ。貧窮極まる難民の家庭で幾度もてなされたことか。しかし、それが彼らにとっての尊厳なのだ。こういう時はありがたく頂く。一気に煽ると強烈なアルコールが胃壁にぶつかってくるのが分かる。


人間とは「ケアする動物」である”という広井良典の指摘や、「ブッダはどのような人も分け隔てなく歓待した」(後日紹介)という友岡雅弥の考察を彷彿とさせる。


 国家エゴの犠牲となった人々が、美しい人間性を発揮している事実に心を激しく打たれる。果たして我々は“最後のパン”を客人と分け合うことができるだろうか?

終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ (集英社新書)

「Try Jah Love」Third World


 スティーヴィー・ワンダーがプロデュースしたこの曲をレゲエだと勘違いした者が多かった。私もその一人である。まだ10代だったからね。だが、サード・ワールドを介して、ボブ・マーリーに辿り着いた者もまた多かった。いずれにせよ名曲である。


D


D


Ultimate Collection

2009-07-14

青木秀和、石原吉郎


 1冊挫折、1冊読了。


 挫折41『「お金」崩壊』青木秀和(集英社新書、2008年)/視点は非常にいいのだが、文章の構成力に難あり。略歴にも「中村敦夫川田龍平両参議院議員の政策ブレーンも務める」などと余計なことを書いている。苫米地英人著『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』(ビジネス社、2008年)に書かれているテーマの一つを丁寧にフォローした内容である。すなわち、国家は予算と称して国民の預貯金を好き勝手に使っているというもの。ゴーストライターに書かせれば、間違いなくベストセラーになると思われる。60ページで挫ける。


 81冊目『石原吉郎詩文集』石原吉郎〈いしはら・よしろう〉(講談社文芸文庫、2005年)/震え慄(おのの)きながら一気に読了した。詩はエリアス・カネッティアフォリズムのように思考の枠を解体する。「ペシミストの勇気について」で圧倒され、「望郷と海」で気圧(けお)され、「棒をのんだ話」で唖然とさせられた。私と同い年の日記があった。私が生まれた年に書かれた日記もあった。46歳にして出会うべくして出会った一冊である。まだ、余韻が冷めやらない。

『内なるシベリヤ抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治(社会思想社、1994年)


内なるシベリヤ抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史


 第二次大戦敗戦とともに多くの日本人がシベリヤに抑留された。その時の苛酷な体験をもとに戦後詩作を続けた石原吉郎と、彼の敬愛する戦友鹿野武一、戦後政争の渦に巻き込まれて自死した菅季治の精神の軌跡を追い、日本人にとっての抑留体験の意味を問う。

人間とは「ケアする動物」である/『死生観を問いなおす』広井良典

 リクエストがあったので広井良典のテキストを紹介する。尚、以下の記事を先に読んでいただきたい――

 本書は時間という概念から死生観を捉え直した一冊。豊富な話題で多様な角度から「永遠」を思索している。その上で4年前に著した『ケアを問いなおす 〈深層の時間〉と高齢化社会』(ちくま新書、1997年)ともリンクさせており、著者の気迫を感じさせる――


 いうまでもなく人間は社会的な生き物であり、他者との様々な関わりの中で自分の存在を確認していく存在である。ケアとは本来「気遣い、配慮、世話」といった意味をもつ言葉で、情緒的な面を含めた他者との関わりを広く含む概念であるが、このように考えていくと、人間とは「ケアする動物」である、という理解が可能になってくる。より詳しく言えば、こうしたケアの関係は、社会性が大きく発達した哺乳類に既に現れているものであるが――「哺乳」という言葉がよく示しているように、そこでは母親との関係が「ケア」の原型となっている――、そうしたケアの関係が個体の成長(情緒的な面のみならず学習あるいは認知的な側面を含む)にとって全面的に大きな役割をはたすようになっているのが人間という生き物においてである。

 いずれにしても、このように人間は「ケアへの欲求」をもっており、その中には「ケアされたい欲求」というものが含まれる。ケアされたい欲求というのは、いいかえると、自分という存在を確かに認めてもらいたい、あるいは自分という存在を肯定され受け容れてもらいたい、という欲求といってよいものであろう。そして人間の場合、そのように自分という存在がしっかりと「ケア」され肯定されているという基本的な感覚があってこそ、自分がいま生きている「この世界」自体がプラスの価値をもって立ち現れ、生への肯定感が強固なものとなる。


【『死生観を問いなおす』広井良典(ちくま新書、2001年)】


 人間の“社会性”を“ケア”として捉える発想が極めて斬新だ。「親の死に目に会う」「最期を看取る」といった感覚もこう考えると腑に落ちる。


 大事なのは、「ケアへの欲求」が「したい、されたい」という双方向性を持っていることである。「相身互い」という古めかしい日本語を想起させる。


 実際に介護をするとよくわかるのだが、こちらが介護しているにもかかわらず、妙に癒(いや)されることがあるものだ。非常に不思議な感覚に捉われ、「あ、介護を必要とする人がいるから、自分は介護をすることができるのだな」とたちどころに悟る。それはあたかも、「説法するから偉いわけではなく、衆生がいるおかげで法を説くことができる」とする仏教本来の精神に近い。


 よく考えてみよう。最も人間らしいあり方――つまり動物とは異なる生き方――とは、努力をすることであり、苦痛に耐えることであろう。偉人という偉人はいずれも過酷な運命と対峙し、勇猛果敢に乗り越えている。そうであるならば、身体に障害を抱える方々や難病と闘う人々は英雄と言える。


 ある日の朝礼で、私の上司であり、主治医でもある義兄が、全職員を前にして言った。

「ここに入ってこられる方は、病気やけがと闘って、脳に損傷を受けながらも生き残った勝者です。勝者としての尊敬を受ける資格があるのです。みなさんも患者さんを、勝者として充分に敬ってください」


【『壊れた脳 生存する知山田規畝子〈やまだ・きくこ〉(講談社、2004年)】


 その上、人間らしさが他者に尽くす利他の行為にあるとすれば、こうした営みを人々から「引き出して」いるのも障害者や病人と言えよう。


 もちろん、介護現場に様々な問題が山積していることは知っている。政府が要介護者を切り捨てようとしている現実も確かに存在する。しかしながらヒトが「ケアする動物」であれば、誰も見ていない介護という営みに「限りない豊かさ」があるはずだ。


 思想とは、行為を捉え直し、行為に意味を付与し、行為を昇華させるものである。思想なき人は、行為に引き摺られ、生き方が些末(さまつ)になってゆく。本書には、蒙(もう)を啓(ひら)く確かな思想性がある。

死生観を問いなおす (ちくま新書)

2009-07-12

林秀彦


 1冊読了。


 80冊目『おテレビ様と日本人』林秀彦(成甲書房、2009年)/林秀彦はテレビドラマ『鳩子の海』や『七人の刑事』の脚本を書いた人物。テレビ側の人間としてスポットライトを浴びていたさなかに自殺を試みた。その後、日本を脱出しオーストラリアの山中で暮らしていた。18年ぶりに帰国すると、日本人が白痴化してる事実に打ちのめされた。テレビの光と闇を知る著者が、真っ向からテレビを批判している。単純に見えるが、実は複雑性をはらんでいる。二元論に傾いているのも、白痴化した大衆を見据えてのことだろう。その意味で、読者の知性を試す主張であり、容易にイエスとは言いにくい内容となっている。林は多分、単純vs単純という構図を企図したに違いない。松山善三に師事したことからも硬骨漢であることが窺える。本書には「熱い怒り」がたぎっている。

『要人(VIP)を守れ! プロ・ボディーガードの驚異の世界!』清水伯鳳(近代映画社、1995年)


要人(VIP)を守れ! プロ・ボディーガードの驚異の世界!


 オウム真理教によるサリンの恐怖、警察庁長官狙撃事件、さらには都庁爆弾テロ事件等々、続発する反社会的行為に対応するにはどうしたらいいのか…。知られざる裏の社会で生きてきた著者がその体験的知識にもとづいて鋭く説く、これぞ必読の警世の書。『極限を生き抜く!』の改題改訂版。

『モンテ・クリスト伯 7冊美装ケースセット』アレクサンドル・デュマ/山内義雄訳(岩波文庫、2007年)


モンテ・クリスト伯 7冊美装ケースセット (岩波文庫)


 200年の長い間、世界各国で圧倒的な人気をあつめてきた『巌窟王』の完訳。無実の罪によって投獄された若者ダンテスは、14年間の忍耐と努力ののち脱出に成功、モンテ・クリスト島の宝を手に入れて報恩と復讐の計画を着々進めてゆく。この波瀾に富んだ物語は世界大衆文学史上に不朽の名をとどめている。1841-45年。

世間にひれ伏すインナーマザー/『インナーマザーは支配する 侵入する「お母さん」は危ない』斎藤学


 インナーマザーとは「内なる母」のこと。虐待、過干渉、ネグレクトなど、さまざまな形で子供の心を踏みにじり、侵略し、遂には変形させる悪魔のような存在だ。親子の姿は支配関係となり、日常的に親が子をコントロールし続ける。プレッシャーに耐え切れなくなった子供は、心を歪(いびつ)な形に変えることで適応しようとする。幼児にとっては、文字通り生存に関わる問題だ。


 しかしながら、インナーマザーとは実際の母親を指すものではない――


 インナーマザーは、実際の母親とは少し違います。親そのものというより「世間様」といってよいかもしれません。というのは、母親も父親も、「自分の」考えで子どもを教育する前に、「世間様」にひれふしている場合が多いからです。自分の本音では「そのくらいいいんじゃないか」と思っても、「世間様」に後ろ指をさされないよう、「世間様」に恥ずかしくないよう、「そんなことをするとご近所に笑われるから、してはいけません」としつける。「良い子母親」をやっているわけですが、子どもも親の意向を汲み取り、「世間様」と取り入れるようになります。親が考えるであろう恐れや不安を、子どもは自分の恐れや不安として取り入れるようになるのです。

 こうして親と同様、「世間様」にひれふす子どもができあがります。彼らにとって「世間様」は教祖なのです。教祖に従うよう親が子どもを躾(しつけ)という名目で支配してしまいます。

 これを私は「親教」と呼んでいます。


【『インナーマザーは支配する 侵入する「お母さん」は危ない』斎藤学〈さいとう・さとる〉(新講社、1998年)】


 つまり、世間の奴隷と化した母親が、我が子を奴隷化させる営みが行われているというのだ。子供本人も大きくなるにつれ、奴隷を求めるようになることだろう。このあたりに、いじめの本質があるのかも知れない。


 インナーマザーは仏教で説かれる他化自在天(たけじざいてん)と似ている。「他を化(け)すること自在」とは、自由自在に他人をコントロール下に置くという意味である。


 他化自在天は第六天の魔王とも言われ、欲望世界の頂点に存在する。ということは、権力者を意味しているとも考えられる。権力者はいつだって他人を意のままに操ろうと目論んでいる。


 三世代が同居しなくなり、兄弟の数も減り、地域がコミュニティ機能を果たさなくなった現在、子供が依存する対象は母親しか残っていない。その母親が誤った価値観に基づいて、“正しいと錯覚している教育”を施すところに悲劇が生まれる。子供は「冷酷な視線」と「音を立てない暴力」にさらされる。


 子供の本能はひたすら母親を愛する方向へ慣性が働く。

 子供は母親を愛さずにはいられない。そうしなければ生きてゆけないからだ。ヒトは15年から20年にわたって親の庇護を受け、やっと一人前の大人になる。この時、自分という存在を親に受け容れてもらえなければ、子供の人生の基盤は大きく揺らぐ。で、揺らぐものだからしっかりと立てない。


 江戸時代にあって徳川幕府は、戸主に権限を与える家制度を布(し)いた。家父長制は家庭内にまで及んだ行政ヒエラルキーであり、権限を持つことで戸主は幕府側の位置に立たざるを得なくなるシステムだった。ところがインナーマザーの場合は、権力による統率ではなくして、世間に額(ぬか)づく自発的行為となっている。ここが恐ろしい。


 多分、メディアによる情報統制が完璧になりつつあるのだろう。子供にとって「ホッとできる場所」が家庭でなくなったとすれば、逃げ場はどこにもない。既に、「生きにくい」(生きることが難しい)という妙な日本語がまかり通るようになった。


 では、打開する方途はあるのか? ないね。これっぽっちもない。だから、自分で何とかするしかない。いつまでも被害者の立場に甘んじていれば、犠牲者としての一生しか歩めない。自分の意志で「自分を変えよう」と心を決めれば、必ず何らかのタイミングで「よき出会い」が訪れる。心が傷ついている人には、以下の言葉を贈ろう――


「待て、しかして希望せよ!」(アレクサンドル・デュマ著『モンテ・クリスト伯岩波文庫山内義雄訳)。

インナーマザーは支配する―侵入する「お母さん」は危ない


関連書


毒になる親―一生苦しむ子供 (講談社プラスアルファ文庫) インナーマザー―あなたを責めつづけるこころの中の「お母さん」 子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方

2009-07-11

暗闇


 暗闇では物を直視してはならない。じっと見すぎると想像上の動きを作り出してしまうからだ。


【『あなたに不利な証拠として』ローリー・リン・ドラモンド/駒月雅子訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、2006年/ハヤカワ文庫、2008年)】

あなたに不利な証拠として (ハヤカワ・ポケット・ミステリ) あなたに不利な証拠として (ハヤカワ・ミステリ文庫)

(※左がポケミス、右が文庫本)

木村元彦


 1冊挫折。


 挫折41『終わらぬ「民族浄化」 セルビア・モンテネグロ』木村元彦〈きむら・ゆきひこ〉(集英社新書、2005年)/期待していたのだが読みにくかった。80ページで挫ける。多分、圧倒的な事実を前にして、著者が物語化できなかったのではないかと思う。文章が、『オシムの言葉』に遠く及ばない。コソボ紛争は調べる必要あり。

ネアンデルタール人も介護をしていた/『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠


 人類の進化をコンパクトにまとめた一冊。やや面白味に欠ける文章ではあるが、トピックが豊富で飽きさせない。


 例えば、こう――


 北イラクのシャニダール洞窟で発掘された化石はネアンデルタール人(※約20万〜3万年前)のイメージを大きく変えた。見つかった大人の化石は、生まれつき右腕が萎縮する病気にかかっていたことを示していた。研究者は、右腕が不自由なまま比較的高齢(35〜40歳)まで生きていられたのは、仲間に助けてもらっていたからだと考えた。そこには助け合い、介護の始まりが見て取れたのだ。「野蛮人」というレッテルを張り替えるには格好の素材だった。


【『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠(講談社現代新書、2005年)】


 飽くまでも可能性を示唆したものだが、十分得心がゆく。私の拙い記憶によれば、フランス・ドゥ・ヴァール著『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』(早川書房、2005年)には、チンパンジーがダウン症の子供を受け入れる場面が描かれていた。


 広井良典は『死生観を問いなおす』(ちくま新書、2001年)の中で、「人間とは『ケアする動物』」であると定義し、ケアをしたい、またはケアされたい欲求が存在すると指摘している。

 つまり、ケアやホスピタリティというものが本能に備わっている可能性がある。


 ネアンデルタール人がどれほど言葉を使えたかはわからない。だが、彼等の介護という行為は、決して「言葉によって物語化」された自己満足的な幸福のために為されたものではあるまい。例えば、動物の世界でも以下のような行動が確認されている――


「他者の苦痛に対するラットの情動的反応」という興味ぶかい標題の論文が発表されていた。バーを押すと食べ物が出てくるが、同時に隣のラットに電気ショックを与える給餌器で実験すると、ラットはバーを押すのをやめるというのである。なぜラットは、電気ショックの苦痛に飛びあがる仲間を尻目に、食べ物を出しつづけなかったのか? サルを対象に同様の実験が行なわれたが(いま再現する気にはとてもなれない)、サルにはラット以上に強い抑制が働いた。自分の食べ物を得るためにハンドルを引いたら、ほかのサルが電気ショックを受けてしまった。その様子を目の当たりにして、ある者は5日間、別のサルは12日間食べ物を受けつけなかった。彼らは他者に苦しみを負わせるよりも、飢えることを選んだのである。


【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源フランス・ドゥ・ヴァール/藤井留美訳(早川書房、2005年)】


「思いやり」などといった美しい物語ではなく、コミュニティ志向が自然に自己犠牲の行動へとつながっているのだろう。そう考えると、真の社会的評価は「感謝されること」なのだと気づく。これこそ、本当の社会貢献だ。


 人間がケアする動物であるとすれば、介護を業者に丸投げしてしまった現代社会は、「幸福になりにくい社会」であるといえる。家族や友人、はたまた地域住民による介護が実現できないのは、仕事があるせいだ。結局、小さなコミュニティの犠牲の上に、大きなコミュニティが成り立っている。これを引っ繰り返さない限り、社会の持続可能性は道を絶たれてしまうことだろう。


 既に介護は、外国人労働力を必要とする地点に落下し、「ホームレスになるか、介護の仕事をするか」といった選択レベルが囁かれるまでになった。きっと、心のどこかで「介護=汚い仕事」と決めつけているのだろう。我々が生きる社会はこれほどまでに貧しい。


 せめて、「飢えることを選んだ」ラットやサル並みの人生を私は歩みたい。

人類進化の700万年―書き換えられる「ヒトの起源」 (講談社現代新書)

2009-07-10

エンロン破綻という経済戦略/『大相場、目前!! これから株神話が始まる!』増田俊男

    • エンロン破綻という経済戦略

 まず、以下の記事をご覧いただきたい――

 有罪と確定したわけではないが、出資者との間にトラブルが起こっているのは確かだ。出資すべきでないのは当然だが、有料情報の類いも疑って掛かるべきだろう。


 それでも私は増田俊男の著作を読む。多分、最新刊以外は全部読んでいるね。マクロ経済の仕組みやファンダメンタルを知ることができるからだ。個人的には長谷川慶太郎よりも実力が上と見ている。


 長らく「なぜ、基軸通貨がドルなのか?」という疑問を抱えていたが、それを解消してくれたのは、『史上最大の株価急騰がやってくる!』(ダイヤモンド社、2005年)だった。初めて読んだ増田本である。これ以降、のめり込むようにして読み漁った。


 増田は自分自身がマネーになったつもりで、マネーの動きを予測する。時にその予測がマネーの意志をピタリと当てることがある。増田は、9.11テロサブプライムショックを正確に予言してみせた。


 アメリカは経済政策として戦争を行っている(アメリカ軍国主義が日本を豊かにした/『メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会』ノーム・チョムスキー)。そして、定期的に大企業が破綻しているが、これまた経済戦略の一環であった――


日本からの資金流入がなければアメリカ経済は成り立たない


 アメリカは、海外から資金を呼び込んで自国の経済を活性化させるだけではない。入ってきた資金は、自分たちで使ってしまって返さない。

 そんなことができるのかと思うかもしれないが、実際に2000年に日本などからアメリカに投資された資金はアメリカ市場で消えてしまった。

 次に、そのカラクリについて説明することにしよう。

 クリントン政権終盤の2000年、ITバブルははじけ、アメリカは景気後退に向かい始めた。2001年に入ってブッシュ大統領は就任するとともに大規模減税を打ち出したが、景気はいっこうに回復の兆しをみせなかった。NASDAQも下降を続けた。

 しかし、低金利政策と住宅取得時の減税によって、住宅需要が刺激され、株式市場のITバブルが完全にしぼまないうちに、住宅バブルが始まった。

 住宅を買うときにはローンを組むことになる。この住宅ローンの担い手は、連邦抵当金庫(FNMA、ファニーメイ)や連邦住宅金融抵当公社(FHLMC、フレディマック)や政府抵当金庫(GNMA、ジニーメイ)といった住宅金融公社である。

 これらの公社は、日本の住宅金融公庫と違って、住宅購入者に対して直接投資するわけではない。民間銀行の住宅ローン債権を買い取るかたちになっている。

 これら公庫の原資は、住宅抵当債権のかたちで主に海外から調達されるが、その最大の出資者が日本の金融機関である。すなわち、ファニーメイやフレディマックといった住宅金融公社は、アメリカの景気を支えるための資金を日本から吸い上げるポンプの役割を果たしていたのである。

 当時日本の銀行は、国内に融資する先がなかった。上場企業はリストラや債務圧縮に取り組んでいて、運転資金を借りたい企業はあっても、前向きの設備投資資金を借りたいという企業はほとんどなかった。銀行は国内では国債くらいしか、運用できるものがなかったのである。

 その一方、長引く不況のなかで将来不安を抱える国民は、消費を抑え、銀行預金に虎の子の資金を預けた。日本の銀行は、預金残高がふくれ上がる一方で運用先がないという状態のなかで、アメリカへの投資を余儀なくされることになった。そして、その資金はアメリカの株式市場が先行き不透明ななかで債券市場に流れ込むことになった。

 債券市場では米国債のほか、堅い運用先として住宅金融公社などの債券にも日本の金融機関の資金は投資されることになった。日本人がせっせと働いて貯めたお金は、貯蓄もしないで浪費ばかりしているアメリカ人が家を買うための資金に使われたのである。

 しかし、フレディマックについて、2003年6月SEC(米証券監視委員会)は粉飾決算をしている疑いがあると発表した。そしてほぼ時を同じくして、アメリカでは債券市場に入っていた資金が株式市場に流入し始めると同時に、債券バブルの崩壊が起きて、長期金利が上昇し始めた。

 この流れのなかで、フレディマックが発行していたMBSモーゲージ担保証券)は、大幅に値を下げることになった。このフレディマックの会計疑惑に関しては、同公社の幹部が交替して真相は究明されることがなかった。

 日本の銀行は、ウォール街とヘッジファンドが一体化したといわれたルービン財務長官の金融政策に引き続き、またしてもアメリカに資金を巻き上げられることになった。

 フレディマックのみならず、ブッシュ大統領が就任してからアメリカでは、数多くの会計疑惑が噴出した。

 2001年12月には、総合エネルギー会社エンロン、光通信網大手のグローバル・クロッシング、そして2002年6月にはケーブルテレビ大手アデルフィア・コミュニケーションズ、同7月にはAT&Tに次ぐ規模の長距離通信会社ワールドコムが破綻した。

 さらに、医薬品大手のブリストル・マイヤーズ・スクイブ、自動車世界第2位のフォード、通信大手クエスト・コミュニケーションズ、AOLタイム・ワーナーなどの会計疑惑も表面化する。

 エンロンの破綻に関連しては、アメリカの大手会計事務所アンダーセンが、SECの調査妨害で有罪判決を受け、顧客流出により廃業を余儀なくされている。

 これら一連の破綻、そして会計疑惑の噴出は、ITバブルの崩壊とその後の景気後退だけが原因ではない。これこそ、アメリカの経済戦略の一環なのである。

 アメリカはドル高政策によって世界中の資金を自国の市場に集中させた。その資金でインフラ整備などを進めて今度は企業を破綻させ、金集めの役割を終えた企業が破綻すれば、日本やヨーロッパの金融機関などが投資した資金は返さなくていいことになる。そして、破綻企業がアメリカ国内に投資したインフラはそのまま残る。

 相次ぐ会計疑惑で、ニューヨークダウやNASDAQなどの株式市場も大幅に下げることになった。これにより、世界中からアメリカに流れ込んでいた資金はアメリカの好況を支えた後、大幅に減価することになった。

 このようにアメリカという国は、海外の資金をマーケットに取り込んでは減価させることで、かろうじて経済を維持しているのである。


【『大相場、目前!! これから株神話が始まる!』増田俊男(アスコム、2004年)】


 アメリカは我電引水に長(た)けていた。世界中から用水路を引きマネーという水が流れ込んだ。そして、田んぼは潰してマネーだけかっさらおうという算段だ。壮大な謀略がお見事。大掛かりすぎて、大衆の視界には収まり切らない。


 わかりやすく言えばこういうことだ。あるサラリーマンが1億円の借金をつくる。返済の目途が立たなくなったので自己破産した。ところが借り入れた1億円はそっくりそのまま同居していた父親に渡っていた。これを国家単位で行えば、世界中から集めた資産が国外に流出することはなくなるのだ。


 振り返れば、BIS規制によってバブル経済が崩壊した。明らかに邦銀を狙い撃ちにした規制であった(増田俊男著『日本経済大好況目前!』アスコム、2005年)。その後日本経済は「空白の10年」を迎える。不況下に資金需要はない。日本人の資産(預貯金)は高い利益率を求めて海外を目指す。こうしてアメリカは、棚からぼた餅、濡れ手で粟という状況に持ってゆく。アメリカン・ドリームを支えているのは、諸外国の悪夢であった。


 数日前からドルが値を下げてきた。だが、基軸通貨の地位を追われることはないだろう。ドル不信を国際会議で声高に主張する連中は、きっとドルを買い漁っているに違いない。


 世界は金で動いているといえる。しかし、金融マーケットは思惑で動いているのだ。大事なのは正確な情報ではなく噂だ。経済の実態ではなく、人々の動向だ。この世界は、どれほどの欺瞞に満ちているのだろうか。


 尚、増田の予言はその大半が外れていることは本書のタイトルからも明らかである。その意味では、まだ天気予報の方が正確だ。

これから株神話が始まる!―大相場、目前!!

「異邦人」久保田早紀


 1979年のヒット曲。エスニックなイントロに衝撃を受けたものだ。歌唱力はないものの、少しハスキーで涼しげな声が日本人好み。


D


夢がたり

『映画覚書 vol.1』阿部和重(文藝春秋、2004年)


ダンサー・イン・ザ・ダーク』のレビューが収められていると思う。それにしても、この表紙は何とかならなかったのかね?


映画覚書 Vol.1


 タランティーノからゴダールスピルバーグ北野武黒沢清……を同一の地平で論じ尽くす新世紀の映画批評。デビュー10周年にして初の映画論集。

2009-07-09

時事評論家・増田氏の出資問題、送金先はタックスヘイブン


「時事評論家」の増田俊男氏が、パラオ共和国に設立した銀行で集めた約16億円が返済困難に陥った問題で、増田氏が出資を募った約20件に上る海外投資案件の送金先が、タックスヘイブン(租税回避地)であるカリブ海の島とハワイに登記された二つの企業の口座だったことが分かった。

 この2社の代表は増田氏と知人女性で、投資家たちには資金の流れをほとんど公開していなかったため、投資家の代理人の弁護士は「送金先は、架空の会社の疑いが強く、実態が不透明」と指摘している。

 増田氏と返金トラブルになっていた投資家2人は、パラオの銀行に預金を募る行為などが出資法違反(預かり金の禁止)に当たるとして24日、警視庁に告訴状を提出した。

 関係者によると、増田氏や知人女性は、ベルギーのダイヤモンド加工会社や米・シリコンバレーのIT企業の未公開株などの出資も勧めていたが、会社が消滅するなどして計画が頓挫したため、最近は、ハワイのコーヒー園とカナダのハイテク企業への出資を熱心に推奨していたという。

 しかし送金先に指定されるのは、いずれも投資先の企業ではなく、香港など海外にある二つの口座で、名義は、それぞれカリブ海の英領タークスカイコス諸島とハワイに登記された会社になっていた。

 投資家には、この2社が発行した「株式保有証明書」などと記された証書が送られ、不審に思った投資家が指摘したところ、増田氏側は投資家は株主になっていないことを認めたという。投資家の代理人は「増田氏らの会社が消滅すれば、証書は紙くず同然になり、問題がある取引だ」と話している。出資金トラブルが明らかになった24日、増田氏のレギュラー番組(月〜金曜日)を放送していた「ラヂオもりおか」(盛岡市)は当面、番組を休止すると発表。今月26日に開催が予定されている増田氏の「目からウロコの会」と題した講演会で、ゲスト講演するとしていた評論家・竹村健一氏の事務所も「出席は取りやめる」とコメントした。


【読売新聞 2008-01-25】

『生命の起源 科学と非科学のあいだ』ロバート・シャピロ/長野敬、菊池韶彦訳(朝日新聞社、1988年)


生命の起源 科学と非科学のあいだ


 地球上の生命はどうやって生まれたのか――この問いは人類の歴史と同じほどに古いが、現在も解答は得られていない。生化学を専攻する著者はユーモアあふれる語り口で、化学物質スープ説、粘土起源説、宇宙飛来説から宗教、神話にいたるまで、さまざまな考えを見事に紹介する。それぞれがよって立つ根拠は何なのか、どの説が「科学の基準」をみたすものなのかを検証し、解答への道すじを示唆する。「科学の方法」を導きの糸に、地上で最大の謎にいどんだ論争の書。

NY証取、サイバー攻撃の対象に 被害確認されず


 米ニューヨーク証券取引所NYSE)などの運営会社のNYSEユーロネクストは8日、NYSEのウェブサイトがサイバー攻撃の対象になっていると関係当局から連絡を受けたと発表した。具体的な被害は確認されておらず、取引やデータシステムへの影響は出ていないという。

 韓国政府は同日、ホワイトハウスや米国務省を含む米政府機関のサイトに対する韓国からのアクセスが急増、米国側が異常を感知して韓国からの接続を遮断したことを明らかにしている。


共同通信 2009-07-09】


 ジュセリーノの予言が当たりそうな気がしてきたぞ(笑)。


 アメリカ市場の暴落は、「サイバー攻撃」を口実に行われることと推測する。このニュースがその前振りだ。だが実際は、用意周到に準備を重ねて行われるのだ。アメリカで起こる大きな事件はいずれも演出の可能性が高い。


 私がアメリカの支配者であれば、ジュセリーノの予言を的中させた恰好にしておいて、その後ジュセリーノを丸め込んで利用するよ。

束縛要因/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム


 社会心理学を確固たる学問の領域に高からしめた名著。人類が犯してきた虐殺の歴史や、オーウェルが『一九八四年』(あるいは『動物農場』)で描いた全体主義の構造を説き明かしたといっても過言ではない。(※『一九八四年』は高橋和久訳で今月復刊予定


 美しい言葉で人権の重みを説かれるよりも、「人間はこのように反応するのだ」という現実が衝撃的だ。


 ミルグラム実験アイヒマン実験とも言われる。新聞広告で「記憶に関する実験」の被験者を募集。被験者は教師役と生徒役に振り分けられる。そして、生徒が質問に間違えると電気ショックを与えるというもの。間違いが続くと、電流の強いショックが与えられる。電流は15ボルトから始まり、450ボルトに至る。


 実は生徒役がサクラだった。電流も実際は流れていない。システマティックな実験手法は、被験者が躊躇した際、あらかじめ決められたセリフで実験を促すことになっていた。生徒役が苦痛の叫び声を上げ、反応しなくなっているにもかかわらず、教師役の多くが指示に従ってしまう。ミルグラムはまず、道徳的判断の脆弱(ぜいじゃく)さを指摘する――


 この状況での適切な行動について道徳的判断を下せと言われたら、みんな非服従が正しいと言うだろう。だが実際に進行中の状況で作用するのは、価値判断だけではない。価値観は人に影響するあらゆる力の中で、非常に狭い幅しかない動因の一つでしかない。多くの人は行動の中で自分の価値を実現させられず、自分の行動に不服だったのに、実験を続けてしまった。


【『服従の心理』スタンレー・ミルグラム山形浩生訳(河出書房新社、2008年/同社岸田秀訳、1975年)以下同】


「自由な世界」とは「たった一人の世界」であろう。人間社会は人の数に応じて力学が働き、それぞれのコミュニティが形成する別々の世界がある。「郷に入っては郷に従え」。「実験室に入ったら管理者に従え」。


 個人の道徳観の力は、社会的な神話で思われているほど強いものではない。道徳律の中で「汝、殺すなかれ」といった能書きはずいぶん高い位置を占めるが、人間の心理構造の中では、それに匹敵するほど不動の地位を占めているわけではない。新聞の見出しがちょっと変わり、徴兵局から電話があって、肩モールつき制服の人物から命令されるだけで、人々は平然と人を殺せるようになる。心理学の実験で動員できる程度の力でさえ、かなりのところまで個人の道徳的抑制を取り除いてしまう。情報と社会的状況を計算ずくで再構成すれば、道徳的要因はかなり簡単に脇に押しやれるのだ。


「情報と社会的状況を計算ずくで再構成すれば」とは、評価基準を変えることである。たったそれだけの操作で、殺人を競い合わせることが可能になるのだ。では、あっさりと道徳を踏みつけて服従する背景には何があるのか。ミルグラムは「束縛要因」を指摘する――


 では、人が実験者に服従し続けるのは何が原因なのだろうか。まず、被験者をその状況に縛りつける「束縛要因」がある。被験者自身の礼儀正しさ、実験者を手伝うという当初の約束を守りたいという願望、途中で止めるのが気まずいといった要因だ。第二に、権威と手を切ろうとする決意を弱めるような、各種の調整が被験者の思考の中で起こる。こうした調整は、被験者が実験者との関係を保つ一方で、実験的な葛藤から生じる緊張を和らげる働きを持つ。これは抵抗できない第三者を害するような行動を権威に指示されたとき、服従的な人物の中で生じがちな考え方の典型となる。


 これは、マズローの欲求段階説と照らし合わせるとわかりやすい。我々は平和を享受しながら自己実現を望むが、こんなものは三角形の上の狭い部分に過ぎない。戦争ともなれば、食うことが先決であり、生きることとは相手を殺す意味になるのだ。状況は一変する。


 基本的欲求は三角形の下層になるほど生死に関わっていて深刻だ。つまり、服従心理の深層には、「生理的欲求」「安全の欲求」「所属と愛の欲求」「承認の欲求」が複雑に絡み合っていると考えられる。これを、「生きるための経済的合理性」と言い換えてもいいだろう。


 服従実験は、ヒトという動物が簡単にコントロールされることを証明してしまった。少なからず実験に抵抗した人物も存在した。だが、この人々に妙な理想を託すべきではないだろう。集団力学に抗しきれない人間心理の現実を受け入れるのが先決だ。

服従の心理 (河出文庫)

2009-07-08

「総裁は命をかけるもの」東国原氏発言に小渕氏不快感


 小渕優子少子化担当相は26日午前の記者会見で、宮崎県の東国原英夫知事が衆院選出馬の条件として自民党総裁候補にすることを挙げたことについて「意図が十分に分かりかねる」とした上で、「首相・総裁を目指すのは本当に大変だし、命をかけて役割を果たしていくということだ。軽々しく口にできることではない」と不快感を示した。

 小渕氏の父、恵三元首相は在任中の平成12年5月、過労が原因とされる脳梗塞(こうそく)で死去している。


【産経新聞 2009-06-26】


 所詮、2世議員の軽口。笑止千万。

「レッテルをはがす」湯浅誠


 湯浅誠という論客を、私は前原政之さんのブログ記事で知った。


湯浅●重要なのは、いかにそうしたレッテルをはがして、問題を普遍化していけるかということなのかな、と思います。


編集部●「レッテルをはがす」ですか?


湯浅●たとえば、僕はずっと野宿者の支援などの活動をやっていて、2007年に生活保護基準額の引き下げがあったときにも、その反対運動をやりました。そうすると、そもそも政治家が会ってもくれないんですよ。与党の自民・公明だけじゃなくて、民主党も。要は、「共産党がやってること」みたいなレッテルを貼られてしまっていたわけです。あの手この手を使って、「共産党員だけがやっている運動じゃないんですよ」ということを分かってもらうところから始めるしかなかった。

 もちろん、別に共産党が悪いというんじゃないですよ。ただ、そうしてレッテルを貼られちゃうと、何も話を聞いてもらえない。「何を言ってるか」よりも、「誰が言ってるか」のほうが重みを持っちゃうんです。本当はおかしいけれど、実際にはそういうことは常にあるんですよね。

 だから、そうして貼られた「レッテル」をはがして、いかに国会の平場で普通に議論できるテーマにするかが重要なんだと思います。そのための接点はこちらから見つけていかないと、向こうは絶対に見つけてくれない、見つける気なんかないんですから。


【「マガジン9条」】

「“ショック療法” にはなるかもしれないが、政権交代しても、本質は何も変わらない」森達也


 最初に断っておくと、僕は民主党にまったく期待してません。政権交代して民主党政権ができたとしても、いまの政治の枠組み自体が変わらない限りほとんど何も変わらないでしょう。

 正直、民主党っていまだによくわからないんです。その正体も、なにがやりたいのかも。よく言われることだけど、憲法や安全保障の問題にしても左右の両端が全部そろっている。護憲派には民主党が政権をとったら「改憲」へ一気に突き進むんじゃないかという危機感があるかもしれないけれど、それもわかりませんよね。そういうわからない政党に、あまり権力を与えたなくないって気持ちもあるんだけれど……。

 結局、民主党の中枢にいるのは元自民党の人たちで、その意味では自民党のコピーでしかない。周辺には面白い人もいると思うけれど、それは自民党も同じ。それに結局周辺だから、どうしても発言力は弱くなる。(中略)

 いまの日本の政治はどうしようもないんだから、民主党も自民党もほとんど違いはないけれど、政権交代すればどこかできっと摩擦が起きるから、その摩擦に期待して、このまま自公政権が続くよりは民主党を中心とした政権のほうがいいかな、ってそのレベルの認識ですね。


【「マガジン9条」】

個性が普遍に通ずる/『小林秀雄全作品 25 人間の建設』小林秀雄

    • 個性が普遍に通ずる

 世界的な数学者・岡潔との対談『人間の建設』が収められている。初めての対談でありながら、肝胆相照らす趣あり。小林は例の如くずけずけとものを言っているが、岡潔も黙って聞いちゃいない。互いの個性が真っ正面からぶつかり合う対談となっている。酒席で行われているため、ややまとまりに欠けるきらいはあるが、格式張るよりも談論風発を意図したものと思われる。


 小林秀雄が質問する。「数学に個性があるのか?」と。これに対して岡潔は「個性しかない」と断言する――


小林●そうすると、やはり個性というものがあるのですか。


岡●個性しかないでしょうね。


小林●岡さんがどういう数学を研究していらっしゃるか、私はわかりませんが、岡さんの数学の世界というものがありましょう。それは岡さん独特の世界で、真似することはできないのですか。


岡●私の数学の世界ですね。結局それしかないのです。数学の世界で書かれた他人の論文に共感することはできます。しかし、各人各様の個性のもとに書いてある。一人一人みな別だと思います。ですから、ほんとうの意味の個人とは何かというのが、不思議になるのです。ほんとうの詩の世界は、個性の発揮以外にございませんでしょう。各人一人一人、個性はみな違います。それでいて、いいものには普遍的に共感する。それが個人の本質だと思いますが、そういう不思議な事実は厳然としてある。それがほんとうの意味の個人の尊厳と思うのですけれども、個人のものを正しく出そうと思ったら、そっくりそのままでないと、出しようがないと思います。一人一人みな違うから、不思議だと思います。漱石は何を読んでも漱石の個になる。芥川の書く人間は、やはり芥川の個をはなれていない。それがいわゆる個性というもので、全く似たところがない。そういういろいろな個性に共感がもてるというのは、不思議ですが、そうなっていると思います。個性的なものを出してくればくるほど、共感がもちやすいのです。


【『小林秀雄全作品 25 人間の建設』小林秀雄(新潮社、2004年)】


 以下、Wikipediaより引用――。岡潔は「多変数解析函数論において大きな業績を残した」。「そこでは幾何、代数、解析が三位一体となった美しい理論が展開される」。「多変数複素関数論には一変数の時にはなかったような本質的な困難がともなう。これらの困難を一人で乗り越えて荒野を開拓した人物こそ岡潔である」。


 その強烈な異彩を放つ業績から、西欧の数学界ではそれがたった一人の数学者によるものとは当初信じられず、「岡潔」というのはニコラ・ブルバキのような数学者集団によるペンネームであろうと思われていたこともあるという。


数学者としての挑戦:Wikipedia】


 数学の内容に関してはチンプンカンプンだが、エピソードからは偉大な仕事の片鱗が窺える。


 その岡潔が「数学の世界といえども、結局個性しかない」と断言しているのだ。これは凄い。岡潔は数学という広野(こうや)を自分らしく歩いたということではなく、我が個性を数学的という言語によって表現したという話になる。つまり、初めに個性ありきなのだ。


 岡潔がいう個性とは、「足下を掘れ、そこに泉あり」という意味合いであろう。自身の根源を深く掘り下げてゆけば、万人に共通する基盤を発見することができる。内なる宇宙への探究が、外部世界に共感を及ぼす。小我(しょうが)を叩き破って現れた大我(たいが)は、見紛(まが)うことなき個性であり、人類の可能性を開発した姿となるのだ。


 エベレストへの初登頂、100メートル走の世界新記録、アポロ11号の月面着陸などが我々に深い感動を与えるのは、それらが個人に帰すべき功績ではなく、人類の可能性を示した偉業となっているからであろう。


 その意味から言えば、岡潔もまた人類未踏の大地に立ったのだ。個性が普遍に到達すると、一人は人類と化すのだ。無限は天文学的数字の彼方にもあるが、0と1の間にも存在する(0.1、0.01、0.001……)。


 更に、個性を「正しく出す」という表現も、岡潔の哲学を示している。


 社会というものは、「皆と同じである」ことを強要する。だから、出る杭は打たれ、村の掟に逆らう者は村八分となる。こうして、「寄らば大樹の陰」「長い物には巻かれろ」といった処世術が身についてしまうのだ。


 個性は自由から生まれる。帰属意識に束縛された思考に個性は存在しない。そこで私から新しい格言を進呈しよう――


「さらば大樹の陰」


「長い物を巻き返せ」


「出過ぎた杭は打ちようがない」


 以上(笑)。

小林秀雄全作品〈25〉人間の建設 人間の建設 (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-07-07

イスラエル軍が「人間の盾」使用、ガザ攻撃のNGO調査報告


 ロンドンに拠点を置く国際人権団体アムネスティ・インターナショナル(Amnesty International)は2日、前年12月〜今年1月のイスラエルによるパレスチナ自治区ガザ(Gaza)地区攻撃に関する報告書を発表し、イスラエル軍が子どもたちを「人間の盾」として使い、民間人に理不尽な攻撃を行ったと非難した。

 一方、パレスチナ自治区のイスラム原理主義組織ハマスHamas)についても、イスラエル南部に向けて住宅密集地からロケット弾を発射し続けたことは、市民を危険にさらす行為で、戦争犯罪に当たると批判している。 

 ただ、イスラエルが主張しているような、ハマスが使用する建物内に民間人を強制的にとどまらせるなどして「人間の盾」に使った証拠は、見つからなかったことを明らかにした。

 逆に、イスラエル軍が子どもを含むパレスチナ民間人を自宅の一室にとどまるように命じた上で、建物の残りの部分を攻撃用拠点に使用し、「結果的に民間人を人間の盾として使い、危険にさらした」数々の事例があると指摘。「軍事目標の盾として市民を故意に使う『人間の盾』は戦争犯罪だ」とした。

 また、「破壊行為の多くは過剰で、民間施設を直接狙ったもの」だとも指摘。国際社会に対し、イスラエルとハマスに対する武器禁輸と戦争犯罪の調査をあらためて要請するとともに、戦争犯罪が行われた十分な証拠がある場合は、国際的な司法機関の下で調査が行われる必要があると述べた。

 報告書は、22日間のガザ攻撃によるパレスチナ側の死者は1400人以上、うち300人以上が子どもだとしている。一方、イスラエル側の犠牲者は13人だという。


AFP 2009-07-03

四方田犬彦、木村元彦、高橋克彦


 1冊挫折、2冊読了。


 挫折40『見ることの塩 パレスチナ・セルビア紀行』四方田犬彦〈よもた・いぬひこ〉(作品社、2005年)/20ページで挫ける。文章が冗長で肌に馴染まない。著者の周りにいるユダヤ人がイスラエル・コンプレックスを持っているとのこと。


 78冊目『オシムの言葉』木村元彦〈きむら・ゆきひこ〉(集英社インターナショナル、2005年/集英社文庫、2008年)/私はサッカーには全く関心がないのだが、オシムには以前から興味を抱いていた。何とはなしに「ブッダはこんな感じの人だったんだろうな」と思った。知性とユーモア、そして通奏低音に流れるニヒリズムオシムサラエボで生まれた。紛争が暗い影を落とす中でオシムは監督として指揮を執った。やがて祖国は戦乱の舞台と化した。スポーツが政治に翻弄される。チームメイトの国が敵国となる。日本人プレイヤーとは背負っているものが違う。それにしても、オシムの言葉は含蓄に富んでいる。


 79冊目『時宗 巻の四 戦星』高橋克彦(NHK出版、2001年/講談社文庫、2003年)/これが最終巻。一気読み。政(まつりごと)小説がこの巻に至って戦争小説と化す。創作と思われるが、北条時輔とマルコ・ポーロの邂逅が面白かった。タイトルは時宗となっているが、内容は北条時頼父子鷹(おやこだか)である。縄田一男が解説で「この作品が正(まさ)しく21世紀の歴史・時代小説の劈頭(へきとう)を飾るにふさわしい偉容とスケールを誇っている」と書いているのも頷ける。いまだ天下が統一されていない時代に、国を背負った男達が存在した。

鮭の一生


 鮭の一生で、もっとも壮絶哀切をきわめるのは、ふるさとの川をのぼるときである。

 鮭が、じぶんの生まれた川を上ってゆくのは、そこで結婚するためであり、その初夜があけた朝、まちがいなく、死ぬためである。

 それは、鮭の生涯のうち、もっとも花やかなフィナーレであり、そのフィナーレは、突如として、一切の歌声も踊りも停まり、まっくらな中に、ぶざまな幕が下りて、終りを告げるのである。(昭和39年12月)


【『一戔五厘の旗』花森安治(暮しの手帖社、1971年)】

一戔五厘の旗

「貧しいユダヤ人」だけがナチスに殺された/『新版 リウスのパレスチナ問題入門 さまよえるユダヤ人から血まよえるユダヤ人へ』エドワルド・デル・リウス


 物語には作者が存在する。そして、物語には意図が託されている。ユダヤ人を取り巻く物語は、ユダヤ人が創作したものが殆どで、脚色のレベルを超えて歴史捏造(ねつぞう)の領域に達している。


 シオニズムというペンで書かれた物語を流布させたのはロスチャイルド家だった。


 ドレフュス事件(1894年)は、明らかな人権蹂躙(じゅうりん)でありユダヤ人差別であった。ところが、この事件をテコにして新聞記者のヘルツルシオニズム運動を提唱した。創作開始は1896年のこと(ヘルツル著『ユダヤ人国家』が出版される)。


 その後全く同様の手口で、第二次世界大戦のナチスによるホロコーストをきっかけにして、シオニズム運動は盛んになった。それ以前から西欧諸国は、東欧のユダヤ人をパレスチナへ送り込んでいた。

 こうして1948年5月15日、イスラエルはまんまと建国してしまった。


 ユダヤ人は3000年もの長きにわたって迫害され続けてきた。ヨーロッパ中から差別された。そして、決定的な事件が起こる。イエスの処刑である。


 なぜ、イエス キリストがユダヤ人迫害を決定づけたのか? 映画『パッション』を観れば、2時間で理解できる。

 この映画のテーマはたった一つ、「イエス キリストの受難」だ。イエスは、ひたすらムチ打たれ、血まみれになり、ゴルゴダの丘で十字架刑に課せられる。そして、その執行人はユダヤ人だった。あらに、銀貨30枚でイエスをうったユダも、ユダヤ人。イエスを迫害し、抹殺したのは、ローマ帝国でも、ヘロデ王でもなく、ユダヤ人である、という主張がそこにある。

 このことは、キリスト教本流をなす宗派や、イスラム教の信者たちに、ユダヤ教徒への根強い不信感と憎悪を植えつけた。そして、このユダヤ人への黒いフィルタは、差別と迫害とともに、イエスの死後2000年経過した現代まで存続している。


【週刊スモールトーク「ユダヤ人が迫害される理由 I ユダヤ人の歴史」】


 つまり、物語創作によって真っ先に被害を受けていたのはユダヤ人の側だった。目には目を、物語には物語を。「約束の地」――。


 数多くのユダヤ人がナチスに殺された(※殺されたのはユダヤ人だけではない)のはなぜか――


 ヒトラーとユダヤ系銀行の交渉は、値段で折り合いがつかずに失敗し、ヒトラーはユダヤ人問題に対して、もうひとつの「解決」を実行することにした。それがユダヤ人絶滅策である。

 ニュールンベルクの裁判において、シャハト(※ヒトラー政権下の経済大臣)は最後にこう述べている。

「私の計画がうまくいっていたら、ドイツ系ユダヤ人はひとりも生命を失わないですんだろう」

 シオニスト銀行が値段を値切ろうとしたおかげで、30万人のドイツ系ユダヤ人が(もちろん貧しい)強制収容所において、殺されることになった。


【『新版 リウスのパレスチナ問題入門 さまよえるユダヤ人から血まよえるユダヤ人へ』エドワルド・デル・リウス/山崎カヲル訳(第三書館、2001年/旧版、1983年)以下同】


 一部のユダヤ人が莫大な資産を所有していた。ユダヤ人を追放することで資産がドイツ国外へと移動することを恐れたヒトラーは、出国税を徴収しようとした。そして、ヒトラーはユダヤ系銀行に36万人分の出国税を支払うよう交渉した。これを銀行側が値切ったのである。


 ヨーロッパ諸国もユダヤ人に対して冷淡な態度をとった。


 1938年夏、32ヶ国の代表者たちがユダヤ難民問題を話し合うための会議を開こうとしたとき、スイスはこの会議の主催国になることを拒んだ。そのため会議はフランスのエビアンで開催されることになった。

 この会議(エビアン会議)では、スイスに限らず大半の国がユダヤ難民に門戸を開くことに消極的で、結局、何の具体的な政策も打ち出せないまま幕を閉じた。


【ヘブライの館 2「ナチスとスイスの協力関係」】


 結局のところナチスによるホロコーストは、ヨーロッパ中の不作為の結晶と言っていいのかも知れない。


 以下は、本書に引用されている興味深いデータである――


ヨーロッパ各地でナチスが虐殺したユダヤ人の数


 ドイツ 18万人

 オーストリア 5万人

 チェコスロヴァキア 25万人

 フランス 6.5万人

 ルクセンブルク 3000人

 スカンディナビア 7万人

 オランダ 10.2万人

 イタリア 9000人

 ユーゴスラヴィア 5.1万人

 ギリシャ 6.2万人

 ルーマニア 20.9万人

 ハンガリア 19万人

 ブルガリア 5000人

 ソ連 75万人

 ベルギー 3万人

 計 447万9700人


 本書は、メキシコの漫画家リウスが、1983年3月東京の「イスラエルのレバノン侵略に関する国際民衆法廷(IPTIL)」に出席した際に書き上げた作品である。本の作りが非常に雑で、出典が一つも記されていない。「IPTIL」がどのようなものかも示されていない。信憑性については確認の要あり。


「俺達にとっては“約束の地”なんだから、お前達は出て行け」――これがパレスチナ人に対するユダヤ人の言い分だった。


 西暦135年にはイギリスも、フランスも、米国も、ポーランドも、ロシアも、ドイツも国家としては存在していなかったのだ! それなのに、ユダヤ国家だけは特別扱いされる!

 20世紀のまっただなかで、こんな時代錯誤を真剣に主張するなんておかしなことだ。2000年近い昔に消滅した国家をどんな権利で再建できるのだろう!!


 パレスチナ人は今日も殺されている。そして、明日も殺されるのだ。

新版 リウスのパレスチナ問題入門

2009-07-06

韓国観光公社「Korea Sparkling」のCMが凄い


 一年ぶりにテレビをつけた。部屋中に散乱した新聞紙を整理しながら眺めた。このCMを見たのはラッキーだった。まず、音楽に惹かれた。東洋と西洋の邂逅(かいこう)といった雰囲気があった。ネットで動画を見つけた。まるで、クリストファー・ドイルの世界だ。物語がカットによって構成されていることを思い知らされる。起承転結という解釈を強いながら、記憶の断片をつなぎ合わせることで物語は完成する。何度見ても飽きることがない。



レイプを研究対象とする愚行/『人はなぜレイプするのか 進化生物学が解き明かす』ランディ・ソーンヒル、クレイグ・パーマー


「進化論は後だしじゃんけんだ」というのが私の持論である。進化論は生き残った種を勝者と位置づけ、残された機能を有利と判断する。しかしよく考えてみよう。淘汰という概念から見ても、果たしてヒトが進化しているかどうかは不明だ。人類が地球の歴史に登場してから高々700万年しか経っていないのである。恐竜のようにならないとは誰も保証できないだろう。要はこうだ。過去を振り返れば現在生きている生物は勝者となるが、未来から見れば滅びつつある種になっているかも知れないのだ。


 本書を知ったのは、「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」というブログでのこと。


 一部引用させて頂く――


 つまりこうだ。女は妊娠、出産、授乳に多大な時間とエネルギーを費やさなければならない。だから男選びも慎重になる。レイプは父親を選べず、子育てを困難にするため、女に大きな苦痛をあたえることになる。いっぽう男は養育投資が少ないことから、繁殖のため、多数の相手に関心を向けることになる。そんな男のセクシュアリティの進化が、レイプの究極要因だという。要するに男は色を好み、女は選り好みするんだね。

 ただし、レイプそのものが適応なのかどうかについては、判断を保留している。レイプとは、男の性淘汰の中における、偶然の副産物だという考えと、ずばりレイプは適応であるという仮説の両論を併記している。性淘汰における繁殖に有利な形質として、レイプが選び取られていたなんて、考えるだにゾッとするのだが、それが生き物としての雄の姿なのだろうか。


【「人はなぜレイプするのか」】


 この書評に賛否両論のコメントが殺到した。それに対して再び書かれた記事が以下――


 しかし、そうした勇み足の一つを攻撃して、本書の全てを否定できたヤッホーと能天気に勝利宣言するほど、わたしはおめでたくない。あるいは、竹内久美子のエッセイのような「分かりやすさ」に飛びついてこと足れりとするほど、この分野の研究は進んでいない(はずだ)。だから、「進化・適応からレイプを説明する」可能性は残し、精進に励もう。


【「レイプは適応か」】


 で、リンク先にはこんな記述がある――


 この話題が欧米ではどのような苛烈な政治的な論争を巻き起こす危険があるかを十分に理解した上で、真摯にレイプとはどのような現象であるかを解説している書である。


shorebird 進化心理学中心の書評など


 本書の原題は『A Natural History of Rape』(強姦の自然史)である(※「EP: 科学に佇む心と身体」を参照した)。これをわざわざ『人はなぜレイプするのか?』と改題するとは見上げた根性だ。売るためなら、何でもやってのけるような出版社なのだろう。「青灯社」という名前は、何となく殺虫ライトを思わせる。きっと、害虫みたいな読者を募ろうって魂胆なのだろう。


 では、私の考えを述べよう。まず、レイプを研究対象とすること自体が愚行であると考える。これがレイプ防止とか、レイプ被害者のケアであればまだ理解できる。しかし本書は、「レイプという行為」を研究対象にしているのだ。


 これがおかしいのは、レイプを犯罪に置き換えるとよくわかる。レイプが進化的適応だとすれば、窃盗や詐欺には経済的合理性を、暴力にはリーダーシップを認めねばなるまい。


 大体が適応であるはずがないのだ。なぜならば、レイプという行き掛かりの行為によって自分のDNAを遺せたとしても、経済的な支援がなければ子供は育つことができないからだ。つまり、殆どの人々がレイプをしないのは、「好き」という感情をベースとした持続的な関係性があって、初めて育児が可能になることを本能的に知っているためだろう。


 では、レイプした側に経済力があったとしよう。そうであったとしても、無理矢理子供を孕(はら)ませてしまえば、生まれてきた子供が母親に殺されるリスクが生じる。そう考えると、進化的に有利とは決して言えないはずだ。それ以前に寝首を掻(か)かれる可能性が大だ。


 レイプといえば、以下の記事が忘れられない――

 もしも私に娘ができたら、こう教えるだろう。「女として生まれた以上、レイプされる可能性は常にあると考えよ。だが、いくら心を構えたとしても、いざとなれば組み伏せられてしまうことだろう。そうなったら逆らうな。静かに迎え入れて、相手の隙(すき)を窺え。そして、一瞬の間に相手の両目を指で抉(えぐ)り取れ。ほんの少しでも躊躇すれば逃げられる。レイプされた後で殺される可能性があることを忘れてはならない。否、レイプされた時点で自分は殺されたものと思え」――。


 レイプという行為は、種というコミュニティを破壊する可能性がある。とすれば、加害者は殺されてしかるべきだろう。本気でそう思う。


 尚、私は本書を買ってもいないし、読んでもいない。もちろん、読む予定もない。所詮、センセーショナリズムに訴えて注目を浴びようとしている程度の研究に過ぎないと思う。実に唾棄すべき研究だ。


 女性は万一に備えて護身用の催涙スプレーなどを持ち歩くべきだ。

 進化生物学に関しては、以下の書籍が有益である――

人はなぜレイプするのか 進化生物学が解き明かす

2009-07-05

キティ・ジェノヴィーズ事件〜傍観者効果/『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス

 28歳の魅力的な女性キティ・ジェノヴィーズが1964年に刺殺された。この事件が注目されたのは、38人もの目撃者がいながら、誰一人警察に通報する者がいなかったためだ――


 もっと前の1964年には、ミルグラムとポール・ホランダーは、キティ・ジェノヴェーゼ事件についての「解説記事」を『ザ・ネイション』に共同で執筆している。

 キティ・ジェノヴェーセ(ママ)は28歳の魅力的なバーの経営者で、1964年3月13日の夜、クイーンズのキュー・ガーデンにある自分のアパートへ帰る途中に殺された。犯人は彼女の後をつけ、30分以上もの間何度も刺したのである。その後、ジャーナリストが調べたところわかったのは、近所に住んでいた38人がその殺人事件を少なくとも一部分を目撃したか、あるいは「助けて」という叫びを聞いていたが、一人も助けに出てこなかった。これには国中が衝撃を受けた。そして、これは都市生活がもたらす疎外の象徴となったのである。また、この事件は、ニューヨークの二人の心理学者であるコロンビア大学のビブ・ラタネとニューヨーク大学のジョン・ダーレイが「傍観者の効果」についての一連の実験をはじめるきっかけとなった。こうしたことから、一般の人たちも社会心理学に対する興味を持ち始めたのである。

『ザ・ネイション』の記事は、キティ・ジェノヴェーゼが襲われて殺される間、住民たちが何もしないという状況を生んだのが、都市に住むことがもたらす行動上の帰結の一つであるということを指摘する概念的な分析であった。ミルグラムとホランダーが論じたのは、このような治安のよい地域では、暴力行為のようなものが発生するということは思いもかけないし、また、その地域には似合わないということだ。そこで、住民たちの多くは、若い女性が殺されるというような非常事態が発生していることを受け入れることさえもできなかったのである。かわりに人びとはこの出来事を、よりもっともらしく、心を悩ますことのないものであると考えようとした。たとえば、恋人同士のケンカや、酔っぱらいが騒いでいるだけであるというような解釈をしがちになるのである。こうした悲劇的な事件が起こると怒りのために一般大衆の見解は焦点がぼやけてしまうことが多いが、この記事は、合理的でなおかつ断罪的ではないほかでは見られないような考え方を示している。「この38人の目撃者に対して正義という概念から非難をするときには、目撃者たちは殺人を犯したのではなく、それを阻止するのを失敗したに過ぎないということを忘れてはならない。この間には道徳的な点での違いがある」。


【『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス/野島久男、藍澤美紀訳(誠信書房、2008年)】

(※尚、表記に関しては、キティ・ジェノベーゼ、キティ・ジェノヴィーゼなどがある)


 昨年、日本でも同様の事件があった(「バスで携帯を注意の男性に暴行、死なせた58歳を送検」)。尚、Wikipediaのリンク先にJ-CASTニュース「車内レイプしらんぷり 『沈黙』40人乗客の卑劣」という記事があるが、「男が泣いている女性を連れて行ったのだから、レイプを予測できたはずだ」という勝手な憶測に基づいており、読み手のマイナス感情を煽るだけの稚拙な内容となっている。


 ミルグラムの服従実験が1963年に行われている。そして、翌年に起こったこの事件で、それまで軽んじられていた社会心理学がクローズアップされることとなった。つまり、都市化が進むに連れて孤独な人間が増えたという背景があった。


 アッシュの同調実験や、それを発展させたミルグラムの服従実験は、社会という関係性から同調や服従の心理メカニズムを読み解いている。だが、キティ・ジェノヴェーゼ事件における「傍観」は、テレビの影響もあったのではないかと私は考える。テレビという媒体はスイッチを入れた途端、我々に傍観を強いる装置である。決して参加することはできない。それどころか、テレビ局のスタジオにいるギャラリー――あるいはサクラ、またはアルバイト――を第一傍観者とするならば、テレビ視聴者は二重の意味で傍観していることになるのだ。傍観地獄。手も足も出ない。


 日米間の衛生中継が開始されたのが1963年11月22日(日本時間は23日)だった。この時、流れてきたのが何とケネディ大統領暗殺というニュースだった。

 実は、私が生まれた年の父の誕生日でもあった。


 当然、アメリカ国内においてテレビは普及していたと見ていいだろう。それまでは、映画やスポーツ観戦など、直接足を運んで見物していた(=傍観者)わけだが、テレビによって傍観は日常的な行為へと昇格した。これ以降、確実に「傍観する癖」がついたはずだ。


 マスコミュニケーションやマスメディアの「マス」とは、「多数、大量」「一般大衆」との意味である。テレビの前で呆(ほう)ける私は自動的に「大衆の一部」となり、細分化・断片化される。この自覚が傍観を強化しているのではないか。ブラウン管の向こう側にいるみのもんたと私との間には、彼岸と此岸ほどの乖離(かいり)がある。


 その意味から言えば、ミルグラムの「阻止するのを失敗した」という指摘は十分冷静なものであるが、私の考えだと「コミット(関与)できる立場を自覚できなかった」ということになる。


 キティ・ジェノヴィーズは、あと10分早く病院に運ばれていれば命が助かったという。しかし、刺されてから既に1時間も経過していた。

服従実験とは何だったのか―スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産

2009-07-04

バスで携帯を注意の男性に暴行、死なせた58歳を送検


 当ブログは匿名報道を原則としているが、この事件については例外としておく。


 三重県警松阪署は28日、バス内で携帯電話の通話を注意した男性に暴行を加え、死亡させたとして同県大台町佐原無職中田義一容疑者(58)を傷害致死容疑で津地検に送検した。

 調べによると、中田容疑者は26日午後4時40分ごろ、同県松阪市愛宕町を走行中のバス内で、同県四日市市小杉町無職鈴木護さん(61)から、携帯電話の声が大きいと注意されて立腹し、鈴木さんの胸ぐらをつかんだり体を座席に押さえつけたりする暴行を加えた疑い。

 バスの運転手が交番に駆け込んで通報し、同署員が中田容疑者を現行犯逮捕した。鈴木さんは病院に運ばれ、27日に死亡した。

 司法解剖で死因は腹膜炎とわかり、同署は胸ぐらをつかまれた際に首が圧迫され、呼吸困難になったとみている。

 中田容疑者は「大声で注意されたことに腹が立った」などと話している。

 バスには約30人の乗客がいたが、仲裁に入らなかったという。


【読売新聞 2008-03-28】

日常の重力=サンカーラ(パーリ語)、サンスカーラ(サンスクリット語)/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥


 生き生きと躍動する「人間ブッダ」の姿が浮かび上がってくる。三十二相八十種好という化物じみた様相もなければ、仏像みたいな金ぴかの姿もない。ありのままのブッダは、ふてぶてしいまでに自分を信じ、人間を信頼した。それでいて、独善とは無縁であった。横溢(おういつ)する智慧はトリッキーな角度から、相手の先入観を揺さぶる。ブッダは「問う人」でもあった。ここには、救済する仏の側から救済される衆生の側へという一方通行は存在しない。「対話」こそブッダの魂であり真骨頂であった。


 ブッダは何と戦ったのか。そして、何を打ち破ろうとしたのか――


 この“日常の重力”が、仏教の“サンカーラ(パーリ語)”、“サンスカーラ(サンスクリット語)”の概念に通じてゆくことを、後に理解していただけるでしょう。疑われずに続く常識、慣性の法則にしたがって、今までやっていたから、みんながやっているからと続く習慣。それがサンカーラです。ブッダはこれをうち破ることを主張したのです。バラモンが行っていた水浴が、まさにその一つです。


【『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥第三文明社、2000年)以下同】


「サンカーラ」というのは、通常は「行」とか「反応」と訳されているようだが、友岡雅弥は「皆が当たり前と考えている常識および社会構造」という意味合いで使っている。


 人は生を享けた途端、緩やかに動く巨大なエスカレーターに乗せられる。そして躾(しつけ)や教育という名のもとで、共同体(家族、地域、国家)の文化や価値観を押し付けられる。義務教育が終了するまでの間に、善悪の基準を叩き込まれ、正邪のルールを刷り込まれるのだ。「何が正しいか?」「お国のために死ぬことだ」――つい半世紀ほど前にはこんな正義がまかり通っていた。


 ブッダが見据えたのは、人間を抑圧する「悪しき文化」だった。それは、「権力者にとって都合のいい文化」と言い換えることもできる。いつの時代でも権力者が必要とするのは兵士と労働者だ。早い話が“奴隷”だ。


 友岡雅弥は、西洋の英知がブッダの智慧を志向していることを検証しつつ、エリアス・カネッティの言葉を枕にして更に踏み込む――


 その様な「すでにつくられた理想」がサンスカーラであり、またその「理想像」にあわせるために目の前の人を鍛造(たんぞう)し、改造してゆくさまざまな慣習、儀礼がサンスカーラなのです。

 人はその社会の位置づけに応じた身体を訓練(ディシプリン)によって形成してゆく、というのはミシェル・フーコーの鋭い指摘です。

 フーコーの指摘は近代についてのものです。が、その指摘はやがて「権力論」しかも、bio-pouvir' つまり特別な権力者が行使する権力ではなく、健康的でソフトで“自主規制的”な「生にまとわりつく権力」の分析に進んでゆきます。とすれば、まさに、虚構された「社会制度」が持つ暴力の問題を真っ正面からとらえたブッダの認識の先駆性には、驚きを禁じえません。

 社会がみとめたものを“善”とし、一列に並んでそれを目指す。そうでない人を異者として排除するようになる。ある集団に属し、“一人前に”生きることがもたらす「習慣」という名の「生命の変形」――なんと不気味なのでしょう。ブッダは人の心の深層に潜む、この欲望の不気味な影を見たのです。


 教育システムが権力者にとっての濾過(ろか)装置だとすれば、東大出身者は権力者の思惑通りに完成したフィギュア(人形)ということになる。そして、エリート官僚に至っては「完成されたサンスカーラ人」といってよい。彼等の目的は何か? ヒエラルキーの維持に決まってるよ。こうして組織の目的が組織の維持となった瞬間から、組織は崩壊し始める。これが歴史の鉄則である。


「自主規制的」に権威に従う心理構造を岡本浩一は「内面化」として次のように考察している――


「同調」「服従」「内面化」は、人が集団に従うときの、不本意さの程度に応じた用語である。もっとも不本意なものが服従である。不本意だという感覚がある限り、服従は服従以上にはなり得ず、「無責任の構造」も拡大はしない。他方、不本意ながら、従っているうちに、やがて、従っている不本意な行為の背景にある価値観を、自分の価値観として獲得してしまうことがある。それが内面化である。服従や同調から内面化が生じるプロセスが、少なくとも一握りの人たちの心に起こることによって、「無責任の構造」が維持されるのである。


【『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】


 社会の常識を疑うことは何とか可能だ。しかし、自分の価値観を疑うことは容易な作業ではない。仮にできたとしても、独善性という落とし穴が待ち受けている。それ自体が「新たなサンスカーラ」となるかも知れないのだ。


 ここまで考えてようやく気づかされるのだ。ブッダがなにゆえ、人間の中へ飛び込んで対話を重んじたのかを。対話とは単なる話し合いのことではない。互いの生き方を厳しい問いかけによって再構築する熾烈(しれつ)な魂の打ち合いなのだ。

ブッダは歩むブッダは語る―ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う

2009-07-03

須田慎一郎×高野孟:かんぽの宿騒動の真相を語る


高野●麻生さんは盟友の中の盟友である鳩山邦夫を斬り、返す刀で西川も辞任させようと思ったけど、半年もダラダラ続けて西川さんは自発的辞任もなし、会長への棚上げもダメ。結局は減給処分だけで、虻蜂取らずになってしまった。


須田●最終的に誰が決断をするのかも分からず、ダラダラと続けてしまいましたね。


高野●それで、最後はどうなったのでしょう? 私が思うに、小泉純一郎元首相が「本当に西川のクビを切るのか! それなら俺は党を出るぞ」といったようなことを言ったのだと思いますが。


須田●最終的には小泉さんが動いたのですが、それ以外に奥田碩日本経団連名誉会長がブレず、「西川続投支持」ということで決着がついたと私は思っています。


News Spiral 2009-06-28

文庫化『オシムの言葉』木村元彦(集英社文庫)


オシムの言葉 (集英社文庫)


「リスクを冒して攻める。その方がいい人生だと思いませんか?」「君たちはプロだ。休むのは引退してからで十分だ」――サッカー界のみならず、日本全土に影響を及ぼした言葉の数々。弱小チームを再生し、日本代表を率いた名将が、秀抜な語録と激動の半生から日本人に伝えるメッセージ。文庫化に際し、新たに書き下ろした追章を収録。ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞作。

帝国主義による経済的侵略/『ギャンブルトレーダー ポーカーで分かる相場と金融の心理学』アーロン・ブラウン


 ポーカーとトレードに共通する心理に迫りながら、「経済とはギャンブルに過ぎない」と断言している。具体的なポーカーネタが多いのだが、無視してもお釣りが来る内容だ。とにかく文章が闊達で警句の趣がある。


 私は以下のテキストを帝国主義による経済的侵略の姿として読んだ――


 昔ながらの生活を送っているある先住民が、10枚の鹿皮と引き換えに、20頭の鹿を殺せるだけの銃と弾薬の提供を受けたとしよう。

 これは素晴らしい取引のように思われる。銃を使えば弓矢を使うよりも狩りがずっと簡単になる。これだけの鹿肉があれば村中を一冬養えるし、取引の後に残った10枚の鹿皮を使って、金属製のナイフや毛布や、そのほか手作業で作るのは骨が折れるか不可能な物品を買うこともできる。

 問題なのは、鹿皮に換算した弾薬の価格がどんどん上がっていくことだ。彼はほどなくして、働きどおしても何とか生きていけるだけの物品しか得られないことに気づく。もはや村中を養うどころか、一家族を養うことすらできない。彼は弾薬の提供者のなすがままになり、飢え死にしたくなければ、いかなる屈辱にも甘んじなければならない。

 とはいえ、元の生活に簡単に戻れるわけでもない。そもそも伝統的な生産環境は複雑で、長い時間をかけてものを収集し、植え付け、乾かしたり風味を付けたりなどして加工する必要がある。こうしたことをおろそかにすると、一からやり直すことは難しい。技術は忘れ去られ、専門家も散ってしまった。

 獲物も捕らえにくくなった。集中的な銃猟が鹿の頭数を減らし、鹿を用心深くさせてしまったからだ。そしておそらく何よりも重要なのは、今や隣人たちが銃を持っているということだ。つまり銃を持たなければ、自分の身を守れない。


【『ギャンブルトレーダー ポーカーで分かる相場と金融の心理学』アーロン・ブラウン/櫻井祐子訳(パンローリング、2008年)】


 経済的発展が伝統文化を破壊する。それだけではない。今まで仲良く暮らしていた人々の間に、不信感を渦巻かせ、敵意を抱かせ、遂には反目させ合うまでに至るのだ。内部に撹乱(かくらん)要因をつくるという手口は、現在のアメリカが中東に対して行っているものだ。


 麻薬や覚醒剤の類いだってそうかも知れない。エシュロンがあるにもかかわらず、いまだに撲滅することができないのは、やる気がないという問題などではなく、大国を動かす権力者のコントロール下にあることを示しているのではないか? きっとアヘン戦争で味を占めたのだろう。販売窓口となっているギャングや暴力団の類いは、完全な支配化に治められている。


 資本主義というシステムの問題は銀行にある。

 銀行が行っているのは、レバレッジ1000倍の貸付業務なのだ。


 だが、アーロン・ブラウンの指摘を踏まえると、お金そのものが問題なのかも知れない。尚、著者はインチキギャンブラーではなく、モルガン・スタンレーの常務取締役である。


 貨幣は等価交換を可能にした。だが、「等価」とは何なのだろう? それを誰が判断するのか? 等価の代表選手といえば金融マーケットである。株式にせよ、為替にせよ、売買が成立するには必ず一対の合意が形成されている。上げ相場だろうが、下げ相場だろうがそれは変わらない。最終的には同じ数だけの売り手と買い手が存在する。だから、「トレード」(交換)というのだ。


 つまり、マーケットが自由競争というルールで機能していれば、価格には根拠があると考えられる。しかし、だ。自由競争で動いているのかね? 例えば、国家単位の年金運用なんぞが恣意的な売買をしちゃいないだろうかね? しているよ。間違いなくしている。それが証拠に、日本は米国債を絶対に売れない。売らないのではなく、「売れない」のだ。


(※1997年)6月23日、米コロンビア大学で講演した橋本首相が「私は何回か、日本政府が持っている財務省証券を大幅に売りたいという誘惑に駆られたことがある」と発言、これを受けてニューヨーク市場の株価が急落した。


【「橋龍『米国債発言』の真意」高尾義一(野村総合研究所研究理事)】


 もちろん、橋本龍太郎は本気で言ったわけではない。所詮ブラフだよ。だが彼はその後どうなったか? 日歯連からの闇献金(※2004年7月に発覚)で葬られてしまった。そして2006年に死去。田中角栄同様、CIAが動いたという噂がある。


 等価交換によって、アメリカは他国を手なずけるのが巧みだ。米国債を保有しているのは、1位が中国で、2位が日本という現状。アメリカを滅ぼすことは簡単だが、心中する覚悟が必要となる。しかも、だ。アメリカが崩壊すれば、「これからは誰が物を買ってくれるんだ?」ってな話になってしまう。


 人類の未来を長期的に見渡せば、物々交換にした方がいいのかも知れない。

ギャンブルトレーダー――ポーカーで分かる相場と金融の心理学 (ウィザードブックシリーズ)

2009-07-02

建設と破壊


「建設に従事しない男は、破壊を仕事にすることになる」


【『華氏451度』レイ・ブラッドベリ/宇野利泰訳(早川書房、1964年/ハヤカワ文庫、1975年)】

華氏451度 (ハヤカワ文庫SF)

斎藤学、渥美國泰、P・F・ドラッカー、高橋克彦


 2冊挫折、2冊読了。


 挫折38『インナーマザーは支配する 侵入する「お母さん」は危ない』斎藤学〈さいとう・さとる〉(新講社、1998年)/久し振りに斎藤学を読んだが相変わらずだった。淡々とした説明調、ツルツルした講義調である。43ページで挫ける。「私は患者ではないぞ」と言いたくなるような文章だ。世間にひれ伏した親の価値観が、子供の心を束縛し歪(いびつ)な形に変える。これを斎藤は「親教」と名づけている。それにしても、紛らわしい出版社名だ。


 挫折39『大田南畝・蜀山人のすべて 江戸の利巧者 昼と夜、六つの顔を持った男』渥美國泰(里文出版、2004年)/小田嶋隆が目指しているのは蜀山人大田南畝)ではないかと思い、入門書を探したが見つからなかった。これは資料といってよい。B5版で書や落款(らっかん)の写真が多数。私としては、特に『寝惚先生文集』を知りたかったため、何の役にも立たなかった。18ページまで。


 76冊目『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか(はじめて読むドラッカー 自己実現編)P・F・ドラッカー/上田惇生(うえだ・あつお)編訳(ダイヤモンド社、2000年)/期待外れだった。これは多分、上田訳の文体に問題ありと見た。入門書として抄録という発想はいいのだが、胸に響いてくる何かが欠けている。


 77冊目『時宗 巻の参 震星高橋克彦(NHK出版、2000年/講談社文庫、2003年)/やっと時宗が主人公となる。虚々実々の駆け引きと政治的思惑が交錯する。まだ天下が統一されていない鎌倉時代である。天皇と将軍、そして執権が権力の鼎(かなえ)を形成している。時宗は二十歳前後であるが、要職を全うし執権に就く。蒙古からは幾度となく使者が送られてきた。時宗は父・時頼から教えられた起死回生の手を打つ。そして鎌倉では日蓮が国難を叫んでいた。日蓮の首を刎ねようとした時に現れた竜の口の光り物と、北条時輔の乱について高橋史観から新しいドラマが誕生した。

世界の株式時価総額、アジアが14年ぶりに欧州を逆転 6月末


 金融危機後の株価の回復をアジアの新興国が先導する構図が鮮明だ。経済成長への期待感からこの半年で中国やインドの株価指数は5割以上上昇。この結果、6月末の株式時価総額の地域別構成比はアジアが全体の3割強に上昇し、約14年ぶりに欧州を上回ったようだ。一方で株価の反発が鈍い日本の構成比は1割弱と、世界市場での存在感の低迷が続いている。

 国際取引所連盟(WFE)の最新データによると、アジア(太平洋地域含む)の時価総額は5月末時点で、昨年末比26%増の11兆6000億ドル。欧州(アフリカ・中東含む)は11%増の10兆5100億ドルで、アジアのほうが大きくなった。


日本経済新聞 2009-07-02】

自爆せざるを得ないパレスチナの情況/『アラブ、祈りとしての文学』岡真理

 傑作である。人権を土足で踏みにじられ、日常的に殴打され、今日(こんにち)も尚、虫けらみたいに殺されるパレスチナ人にとって、文学がどれほどの意味を持つのか自問している。底の浅いイスラエル批判には非ず。殺す側と殺される側の間に立って、懊悩(おうのう)しながら自分自身の生きる意味を探り、呻吟(しんぎん)しながら答えを見つけ出そうと格闘している。


 かつてサルトルは、アフリカで子どもが飢えて死んでいるとき『嘔吐』は無力であると語った。では、パレスチナでパレスチナ人が非常事態を日常として生きているとき、小説を書き、小説を読み、小説について語ることに、いったいいかなる意味があるのだろうか――。


【『アラブ、祈りとしての文学』岡真理(みすず書房、2008年/新装版、2015年)以下同】


 これほどの本には、そうそうお目にかかれるものではない。レヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』(晋遊舎、2006年)に匹敵する内容だ。深い内省によって世界を捉え直し、人間にとって普遍的な価値を手探りしている。そして、その“厳しい瞳”が私を見つめている。


 パレスチナ問題(=イスラエル問題)に関しては以下の順番で読むことをお薦めする――

 人類の歴史は虐殺で血塗られている。

 その殆どが“過去の歴史”であるのに対して、イスラエルによるパレスチナ人虐殺は終焉を告げてはいない。1948年の第一次中東戦争(ナクバ)以降、半世紀以上を経た現在も進行中の歴史なのだ。ここにパレスチナの特殊性がある。終わっていないがゆえに検証することもできない。パレスチナ人の眼差しは、襲い掛かる今日明日のトラブルに向けられ、過去を振り返ることも許されない。


 岡真理はパレスチナの青年と対話をする。「なぜ、自爆テロを思いとどまっているのか?」と――


 占領下で若いパレスチナ人の男性であることは潜在的テロリストであることと同義であり、日々、恥辱にまみれることにほかならない。

 ジハード(※という名前の青年)にとって生きるとは、ただただ己れの無力を思い知らされるだけの毎日を送ることだ。未来への展望など何ひとつ思い描けない。自らの努力によってこの八方塞がりの情況が好転する望みはどこにもないのだから。外出禁止令がしかれていなくても、フェンスに囲まれた小さな街の囚われの人生であることに変わりはない。25歳の青年が生きるには残酷すぎる、まさに飼い殺しのような人生。ジハードの人生を想像して思った。彼がある日、自爆したとしても、私はちっとも不思議に思わないにちがいないと。祖国解放のために抵抗者となって殉じることは、生きているかぎり彼から奪われている社会的尊敬を手に入れる、唯一残された手立てなのだから。むしろ不思議なのは、このような救いのない情況のなかで、それでもなおジハードが、そしてほかにも無数にいるであろう彼のような青年たちが、自爆を思いとどまっていることのほうだった。

 あなたが置かれている情況を考えれば、自爆しても何の不思議もないと思う。いったい何があなたに自爆を思いとどまらせているの? そう率直に訊ねると彼は言った。

「ぼくはテロリズムには反対です。ぼく自身死にたくはないし、人も殺したくない。でも、分かりません。ぼくの友人にも、そう言いながらある日、突然、自爆攻撃をした者がいます。ぼくも同じようにしないとは言い切れません……。でも、ぼくは生きたい。パレスチナ人が正当な権利を回復するという希望がある限り……」。

「希望があるの?」

「希望は……あります」

「いったいどこに? どんな希望があるというの!?」

 残酷にも重ねて訊かずにはおれなかった。未来への展望などまったくない、どう考えても救いのないこのような情況のなかで、それでもジハードや、彼のような青年たちに自爆を思いとどまらせているものがあるとしたら、それは何なのか。いかなる力が彼らをこの世界に踏みとどまらせているのか。その力を明らかにすること、それは今、この時代の思想的急務であるように私には思われた。

「どこにどんなとは言えないけど……希望はあると信じています」。

 それは決して確信に満ちた口調ではなかった。むしろ、懐疑と苦渋のなかから絞りだされた言葉だった。希望を託したいと思う現実の何事も、理性による吟味に決して耐ええないことを彼自身よく分かっている。しかし、だからこそ、希望はあると信じないなら、あとに残されているのは他者の命を巻き添えに自らの肉体をダイナマイトで木っ端微塵に吹き飛ばすことだけだ。希望とは今日を生き延びる力のことであるとすれば、明日また新しい日が始まるから、新しい別の未来がありうるかもしれないと根拠なく信じることこそが、今日を生きのびる(ママ)ためには、どうしても必要なのではないか。


「善良なる魂」はいつでも輝いているものだと私は思い込んでいた。だが、そうではなかった。善と悪の波間で心が揺れ、戸惑い、迷う中で陶冶(とうや)される人格もあるのだ。パレスチナ青年の善良なる魂は石のようにざらついている。決して光ってはいないものの、確かな手触りが伝わってくる。


 自爆テロを迫られる情況を想像してみよう。自分が住んでいた家はブルドーザーで跡形もなく破壊される。妊婦は腹を切り裂かれ、胎児を引きずり出される。そんな現実があるにもかかわらず、国際機関は何もしようとしない。しかもこれらの暴虐が、後から勝手に引っ越して来た連中(=ユダヤ人)によってなされているのだ。「軒(のき)を貸して母屋(おもや)を取られる」どころの騒ぎじゃない。「軒を貸して母屋を破壊され、家族を殺された」というのがパレスチナ人の実感であろう。


 イスラエルのユダヤ人がパレスチナ人に対して行っていることは、ナチス・ドイツがユダヤ人に対して行った残虐ぶりより酷い。その根源にあるのは、ヨーロッパ社会の伝統的な差別主義であり、ユダヤ教による選民思想である。帝国主義は滅んでいない。十字軍も健在だ。

アラブ、祈りとしての文学 【新装版】

2009-07-01

印鑑販売:会社社長らを起訴 特定商取引法違反で東京地検


 印鑑などの販売会社「新世」(東京都渋谷区)による特定商取引法違反事件で、東京地検は1日、法人としての同社と社長の田中尚樹(51)、営業部長の古沢潤一郎(40)両容疑者を同法違反(威迫・困惑)で起訴した。

 20〜40代の販売員の女5人も略式起訴され、東京簡裁からそれぞれ罰金100万円の略式命令を受けた。

 東京地検によると、7人とも世界基督教統一神霊協会統一教会)の信者と話し、起訴内容を認めているという。

 起訴状などによると、田中被告らは07年10月〜今年2月、JR渋谷駅近くの路上で30〜60代の女性5人に声をかけ、「先祖が武家で多くの人を殺している。因縁があなたの家に降りかかっている」などと不安をあおり、「因縁を振り払うため」として印鑑を16万〜120万円で売りつけたとされる。

 東京地検によると、田中被告が作成したマニュアルには◎配偶者に先立たれていないか◎親族や本人が事故に遭っていないか◎配偶者の浮気や離婚経験の有無――などを相手から聞き出し、「先祖の因縁」に結び付けて印鑑購入を勧誘するパターンが詳細に決められていたという。

 同社の07年度の売り上げ約2億円のうち印鑑販売による収入は約9700万円。

 販売員は30人程度なのに125人分の人件費を計上するなど不自然な点があり、東京地検は売り上げの一部が統一教会に流れた可能性もあるとみて捜査を継続する。

 統一教会は「当法人は宗教法人であり、いかなる営利事業も行っていない。新世とは関係がない」とコメントしている。


【毎日新聞 2009-07-01】

モルモン教の経典は矛盾だらけ/『信仰が人を殺すとき』ジョン・クラカワー


 数年前のことだが近所に教会ができた。見るからに清々しいたたずまいで、垢抜けた瀟洒(しょうしゃ)な建物だった。最近になって気づいたのだが、実はモルモン教(正式名称は「末日聖徒イエス・キリスト教会」)だった。もちろん建物と教義は別であろう。だが、建物から一度受けた好印象は、確固たる情報となって脳へ入力されてしまっている。


 元々モルモン教の創始者ジョセフ・スミスは一夫多妻制を“重要な教義”として自ら実践していた。彼の妻は33人――あるいは48人――もいた。信徒の間で娘が生まれると、10代で教団内の知り合いに嫁がせるため、近親婚となるケースも珍しくなかったようだ。


 その後、州や市から法的な規制を受け、一夫多妻の教義を手離した。ところが、原理主義を重んじる徒輩が今尚存在している。


 教団という閉ざされたコミュニティに属していれば、判断力が失われ価値観が変容する。これは、会社や家族というコミュニティにしても同様である。“閉ざされて”いれば、おのずと権力者に従う道しかなくなるのだ。対話による納得がなければ、道理が軽んじられている証拠である。


 初期モルモン教の行為は明らかに反社会的で、道理に反していた。女性信者には全く自由がなかった。では、その教義はどうだったのか――


 そればかりではない。『モルモン経』には、歴史的に観て、とんでもない年代の誤りや相容れない矛盾が数多くあるのだ。たとえば、車輪つきの馬車のことがたくさん出てくるけれども、コロンブス以前の時代、西半球には、そうしたものは存在していなかった。鋼鉄や7日の周期のような発明も、古代史のなかに登場しているが、それらは実際、まだ発明すらされていなかった。レーマン人はアメリカ先住民の祖先とされているが、彼らがヘブライ人の子孫でないことは、現代のDNA分析ではっきり証明されている。マーク・トウェインは、『モルモン経』には「ということになった」というフレーズが2000回以上も使われていると言って、その退屈な、聖書風の文章を「活字のクロロホルム(催眠薬)」のようだと痛烈に揶揄している。


【『信仰が人を殺すとき』ジョン・クラカワー/佐宗鈴夫訳(河出書房新社、2005年)】


 結局、ただのインチキ宗教だったわけだ。まるで、詐欺紛いの健康食品を毎月買わされて、それでも騙されている自覚のない高齢者みたいだ。人は、「何ものかを信じたがる動物」なのかも知れない。


 人を騙すには、信用させなければならない。そのために、ありとあらゆる手練手管を弄(ろう)し、巧妙な物語をつくり上げてみせる。判断力を欠いた人々は、判断力を欠いているがゆえに嘘をまんまと信じ込まされる。そして、自分の判断を疑うことを知らない。


 テレビショッピングなどで買い物をすることが多い人は危ない。営業マンを必要以上に恐れる人も危険だ。先祖の祟(たた)りなんぞを信じてしまうようなタイプは完全にアウト。


 邪悪な連中は、必ず恐怖感に訴えてくる。人生には浮き沈みがあるものだ。長く生きていれば、沈む機会が立て続けに現れることだって珍しくない。ところが人間の脳というのは、何かが続けて起こるとそれを勝手な物語に変換してしまうのだ。そして今度は、構成された物語が脳を束縛するようになる。何かを恐れて、消極的になっているのだから、やることなすことが上手くいかなくなる。かようにして「祟り」は完成する。


「騙される人に罪はない」――こんな呑気なことを言うのは、騙されていない人と相場は決まっている。人間が幸福を目指している以上、騙されてはいけないのだ。日本人特有の奥床しさや遠慮というものは、美徳でもあり悪徳でもある。

信仰が人を殺すとき 上 (河出文庫)信仰が人を殺すとき 下 (河出文庫)