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2009-08-31

人は自分の死を体験できない


 古代ギリシアから今日に到るまで、多くの人々によって唱えられてきた死をめぐる箴言(しんげん)がある。“人は自分の死を体験できない。体験できるのは他者の死だけである”。この箴言が妥当視されてきたからこそ、古代の宗教祭典において人々は動物や時には人間の惨殺を凝視することで自身の死を疑似的に体験し、中世社会では「メメント・モリ(死を想え)」が時代的な標語となった。


【『死は共鳴する 脳死・臓器移植の深みへ』小松美彦〈こまつ・よしひこ〉(勁草書房、1996年)】

死は共鳴する―脳死・臓器移植の深みへ

2009-08-30

ジャン=フランソワ・リオタール、マーク・マックヤング、ドン・ヴィト・クアトロッチ、ドクター・T・ガンボーデラ、国際通貨研究所


 3冊挫折。


 挫折53『こどもたちに語るポストモダン』ジャン=フランソワ・リオタール/菅啓次郎〈すが・けいじろう〉訳(ちくま学芸文庫、1998年)/20ページで挫ける。二度と読むことはないと思う。私は多分、「こども」以下なのだろう。


 挫折54『ザ・秒殺術 都市生活者のための暴力・ケンカ・自己防衛術』マーク・マックヤング、ドン・ヴィト・クアトロッチ、ドクター・T・ガンボーデラ/ハミルトン遙子訳(第三書館、2002年)/20ページ余りで挫ける。タイトルからは、秒殺術の数々がコンパクトに要約されているような印象を受けるが実は違う。しっかりした読み物となっている。この落差が読む気を失わせる。格闘技の欺瞞を暴こうと思って読んだのだが、見事に外れた。


 挫折55『マネーの動きで読み解く外国為替の実際』国際通貨研究所編(PHP研究所、2007年)/これは投資本ではなく経済の教科書的内容。実際の売買に役立つ情報ではなく、為替の仕組みについて書かれた一冊である。50ページで挫ける。やはり、この手の本は用語についてゆけない。

デモ行進をしただけで殺される人々/『シャヒード、100の命 パレスチナで生きて死ぬこと』アーディラ・ラーイディ


 数字は個別の物語を捨象する。例えば、完全失業者数は359万人(2009年7月)、65歳以上の人口は2640万人(2006年9月)、交通事故による死者数は5155人(2008年)、自殺者は3万2249人(2008年)などを見ても明らかなように、個々人の顔が全く浮かんでこない。数字は固有性を消失させる。


 パレスチナ人であるという理由だけでイスラエルのユダヤ人は、1948年以降パレスチナ人を殺戮し続けている。以前、パレスチナ人死者数の累計をネットで調べたが見つからなかった。それが、たとえナチスのホロコーストを上回る数であったとしても驚くには当たらない。

 数字だけでは人の心は動かせない。人の心を揺り動かすのは「物語」である。命を奪われた人々は決して、いてもいなくてもいいような類いの人間ではなかった。彼等は確かに存在し、確かに生きていた。だが、虫けらみたいに殺されていった。


 忘れてはならないものがある。それを忘却することは罪であるといってもいいだろう。本書は、忘却に対する小さな抵抗を試みている。2000年9月に始まったアル=アクサー・インティファーダ第二次インティファーダ〈「インティファーダ」は民衆蜂起の意〉)で最初に殺された100人の紙碑である。


 インティファーダが始まるとアサーフ(※アブドゥルハミードの愛称)は緊急医療チームに志願し、ほとんどの時間を負傷者の救助や彼らの看病に費やすようになった。

 2001年1月7日、彼の遺体はネツァリーム交差点の近くで見つかった。前夜11時に父親の家を出たのちの彼の行方は分からない。翌朝、遺体が発見されたとき、片手の指はすべて切り落とされ、親指がかろうじてぶら下がっているだけだった。もう片方の手と腕とあごの骨は折られ、身体じゅうあざだらけだった。両手首の傷は、彼がきつく縛られていた証拠だった。その晩その地域で、イスラエル兵との衝突は1つも報告されていない。にもかかわらず、アサーフは明らかに拷問された揚げ句、20発以上の弾丸で、身体を穴だらけにされたのだった。(アブドゥルハミード・ハルティー、34歳)


【『シャヒード、100の命 パレスチナで生きて死ぬこと』アーディラ・ラーイディ/イザベル・デ・ラ・クルーズ写真/岡真理、岸田直子、中野真紀子訳(「シャヒード、100の命」展実行委員会、2003年)以下同】


 この本に登場するのは殺害された人々である。当たり前の話ではあるが、殺した兵士がいて、それを命令した将校がいて、軍隊を統制する政治家がいて、その政治家を支持するイスラエル国民が存在する。


 殺人の大いなる矛盾は、殺す者が殺される者の最期を目撃している事実であろう。本来であれば家族に看取られるべき死が、家族を奪う者によって見納められるのだ。引き金を引く瞬間のスコープ越しに、あるいはナイフや鈍器を振り下ろす影の下に、イスラエル兵はパレスチナ人の末期を見届けたはずだ。


 母親と話しながら、シャーディーは携帯電話の受信を良くしようと、宿泊していた家の屋根に上った。その時、大規模な攻撃を準備中だったイスラエル軍の兵士たちが、マシンガンをシャーディーのいる方角に向けて乱射した。母親と電話で話している最中に、シャーディーは何発もの銃弾を浴び、即死した。(シャーディー・アルワーウィー、21歳)


 間接的に殺されたパレスチナ人もいる――


 ガザのシファー病院で警備員をしていたサーミーの父親は、ローカル・テレビで少年がシャヒードになり、誰もその少年の身元確認ができないというニュースを見て、自分ならもしかしたら身元が分かるかもしれないと、病院の遺体安置室に行ってみた。そこで彼が見つけたのは息子サーミーの亡骸だった。サーミーの死後、母親は神経衰弱に陥り、ヨルダンの病院に移送され、11月10日に亡くなった。(サーミー・アル=タラームスィー、17歳)


 ページを繰るごとに死者の年齢は若くなる。そして、物語が美しくなればなるほど悲劇の度合いを増す――


 亡くなる前日、ニザールは小鳥を逃がしてやった。「小鳥の母親が、子どもがいなくなって悲しい思いをしているといけないから」と言って。(ニザール・エイデ、15歳)


 多くの奪われた未来を想う。私に与えられた現在と比較しながら。

シャヒード、100の命―パレスチナで生きて死ぬこと

時代錯誤


 時代錯誤とは、字義どおりには時代を錯誤することである。だが、時代が錯誤していることだっておおいにありうるのである。


【『貨幣論岩井克人〈いわい・かつひと〉(筑摩書房、1993年/ちくま学芸文庫、1998年)】

貨幣論 (ちくま学芸文庫)

2009-08-29

官制経済体制の打破こそ真の構造改革/『日本が自滅する日 「官制経済体制」が国民のお金を食い尽くす!』石井紘基


 石井紘基が生きていれば、私はきっと会いに行ったことだろう。権力の厚い壁を前にして、たった一人で何度も体当たりを食らわせた男だ。そして遂に風穴を空けた。特別会計の存在を明るみに引きずり出し、特殊法人公益法人という魑魅魍魎(ちみもうりょう)を衆目の前にさらした。


 平成19年度(2007年)の歳出を見てみよう。一般会計が81.8兆円、特別会計が353.3兆円となっている(※100億円以下は四捨五入した。データは統計局ホームページによる)。特別会計とは各省庁が行っている事業のための予算である。「一般会計における単一予算主義の原則に対する例外」(Wikipedia)という位置づけでありながら、一般会計の4倍以上の巨額となっている。


 話を単純にしてみよう。お父さんの年収が800万円だとする。お母さんはかつて存在したことのない美貌を保つためにエステに通っている。子供達も塾や習い事で忙しい。こうした支払いが毎年3500万円ほどになる――つまりは、こういうことじゃないのか?


 国家予算は国会の議決で決められることが憲法で定められている。仮に予算を小遣いと考えてみよう。これを使うのは官僚である。小遣いが親の言う通りに使われることは、まずない。実際、子供であっても金を手にした途端、暴君のように無駄遣いをするケースが殆どだ。


 子供の場合は大した問題とならない。一つは少額であるために。そしてもう一つは、何に使おうともそのお金は経済市場に流通するからだ。


 石井紘基は、政官業の癒着構造が日本経済を機能不全に陥(おとしい)れていると糾弾している。政治家は票を獲得し、官僚は天下り先を確保し、企業は公共事業で一儲けというわけだ。


 租税の大きな目的は「富の再分配」にあるはずだ。ところがどっこい、政官業オールスターチームは血税で私腹を肥やしていた。富は、富を持つ者に再分配されていたってわけよ。しかも昨今の企業会計は内部留保に努めているから景気が浮揚する材料とはならない。貧富の二極化を推進したのは族議員と官僚だった。


 いま為さなければならない真の構造改革とは何か。

 それを論ずるには、まず、今日わが国が直面している経済、財政、社会の危機をもたらした要因は何か、について正しい認識を持つ必要がある。この30年間にわたってわが国に浸透し、遂に体制を支配するに至った“官制経済”のシステムこそが、その要因である。

 官制経済体制とは、中央集権、官僚制、計画経済、そして閉鎖財政(国民に見えない財産)を基本構造とする国家の類型である。官制経済体制の下では基本的に経済は権力に従属するため、本来の経済(=市場)は失われる。

 したがって構造改革の目的はただ一つ、国家体制を官制経済から市場経済に移行させることである。経済を権力の浸蝕から解放し、経済(=市場)のものとするのである。

 利権を本質とする官制経済体制を形成する要素は次の四つである。第一に行政が「公共事業」および「経済振興」を展開する“政策”、第二に開発法、振興法、整備法、事業法、政省令、規則、許認可等からなる“法制度”、第三に補助金、特別会計、財政投融資計画で構成される“財政制度”、そして第四に特殊法人、公益法人、許可法人など官の企業群を擁する“行政組織”だ。

 以上の“政策”“法律”“会計”“組織”の四本柱はすべて各省庁の縄張り(所管)となり、それぞれに連なる政治家があり、政治的“力関係”によって機能するのである。これがまぎれもないわが国官制経済のトータルシステムなのである。


【『日本が自滅する日 「官制経済体制」が国民のお金を食い尽くす!』石井紘基〈いしい・こうき〉(PHP研究所、2002年)】


 石井は政治の暗部に切り込んだ。そして殺された。明らかな見せしめであろう。それが証拠に、石井の後に続く政治家は見当たらない。民主党もその後沈黙を保った。


 石井の文章は非常にわかりにくい。複雑怪奇な政治システムの現状もさることながら、一人で情報収集してきた限界が見受けられる。それでも、始めの50ページほどを読めば、驚くべき事実を次々と読者に突きつけ一気に読ませる。


 石井が殺されて、胸を撫で下ろしている連中が間違いなく存在する。その連中が国家を私して崩壊に導くのだ。石井こそは憂国の士であった。石井の無念を想う。石井の無念をまさぐりながら、政治を厳しく監視してゆくことが国民に課せられた義務であり、国家の崩壊を防ぐ唯一の道である。明日は、衆議院選挙の投票日。

日本が自滅する日―官制経済体制が国民のお金を食い尽くす

サブプライムローンの仕組み


 新たな住宅ローンの資金調達:住宅ローン債券を他者に販売するということは、売却代金としてキャッシュが手元に入ってくるということを意味している。つまり住宅ローンを貧困層に貸付け、そのローン債券を売り払い、債券の売却代金をまたもや貧困層に貸しつける(ママ)。このサイクルを回すことで、サブプライムローンのビジネスを無限に拡大することが可能になったのである。


【『ドル崩壊』三橋貴明(彩図社、2008年)】

ドル崩壊!

2009-08-28

長倉洋海


 1冊読了。


 105冊目『マスードの戦い』長倉洋海〈ながくら・ひろみ〉(河出文庫、1992年)/『峡谷の獅子 司令官マスードとアフガンの戦士たち』(朝日新聞社、1984年)に一部加筆した作品。長倉洋海はフォト・ジャーナリストである。『マスード 愛しの大地アフガン』(河出書房新社、2001年)で第12回土門拳賞を受賞している。アフマド・マスードを私は初めて知った。端正な顔つきで、ホセ・マルティを精悍にしたような風貌だ。旧ソ連がアフガニスタンを侵攻した際には反ソ連軍ゲリラの指揮を執り、ソ連軍を退けた。人はマスードを「パンジシールの獅子」と呼んだ。本書はさほど面白くはない。それでも、私はマスードに魅了されてやまない。チェ・ゲバラ以上にシンパシーを感じる。マスードは、9.11テロの二日前に暗殺された。享年48歳。アフガンの大地が生んだ英雄の魂は継承されるのであろうか――。

ノーム・チョムスキー


 いまでは、チョムスキーの提起したさまざまな問題を研究する学者の数が、何千人にも達している。チョムスキーは、人文科学分野でしばしばその言が引用される人物トップテンに(ヘーゲルキケロを抜き、マルクス、レーニン、シェークスピア、聖書、アリストテレスプラトンフロイトに次ぐ8位)入っている。しかも、トップテンでただ一人、存命中だ。


【『言語を生みだす本能』スティーブン・ピンカー/椋田直子〈むくだ・なおこ〉訳(NKKブックス、1995年)】

言語を生みだす本能〈上〉 (NHKブックス) 言語を生みだす本能〈下〉 (NHKブックス)

2009-08-27

不可触民の少女になされた仕打ち/『不可触民 もうひとつのインド』山際素男


 私はタゴールの言葉を想った。「人間の歴史は、侮辱された人間が勝利する日を、辛抱づよく待っている」――。


 で、「侮辱された人」って誰のことなんだろうね? タゴールはマハトマ・ガンディーらのインド独立運動を支持していた。とすると、イギリス支配下のインドにいた上流カーストあたりを意味しているのかもしれない。


 ガンディーの尊称である「マハトマ(偉大なる魂)」は、タゴールが付けたという説がある。ガンディーは確かにインド独立を勝ち取ったが、カースト制度を終生にわたって支持した。彼は偉大なる魂ではなく、“偉大なる下半身”の持ち主だろう。ガンディーは晩年、若い女性を同衾(どうきん)させることを常としていた(※自分が性欲に打ち克つことを証明するために)。


 では、ガンディーが死守しようとしたカースト制度は、不可触民に対してどのような仕打ちをしてきたのか――


「わしの姪っ子二人は、この近くの村にいます。

 上は16、下は14です。二人ともまだ嫁入り前の生娘(きむすめ)だった。

 地主のところで畑仕事をさせてもらっていました。気立てのええ働きもんでの、地主も重宝がってくれとった。

 あれらの日当は、よそより低かったのが不満での。1日、3ルピーさ。いまどきよそはどこでも4ルピーは払うとるよ。

 上の娘は負けん気だったでの、地主に半ルピー(15円)でええから、日当を増やしてもらえんかって頼んだのじゃ。

 地主はまるっきり取り合ってくれなんだ。

 それで娘は、4ルピーで他に働くところはいくらもある、というたそうな。

 その一言が、地主の癇(かん)にさわったのじゃ。

 いきなり、もっとった杖で娘をひどく殴ったら、その娘が怒って、もうあんたんところでは働かん、いうたんだじゃよ(ママ)。

 他に人がいる前じゃったのが悪かったのよ。

 地主は、生意気な小娘じゃ、いうて、手下に命じて、上の娘を素裸にむいて、木にくくりつけた。そして木の枝で散々ぶったんじゃ。

 見物人が集まっての、面白そうに笑って見ておったそうな。だれも助けてくれるもんはおらん。みんな地主を怖れておるし、不可触民の娘なぞいい慰めにしか思うておらんでの。

 地主の家の若いもんが興がって、くくりつけられとるその娘の股倉に棒を押しこんだりはじめた。周りがもっとやれとけしかけ、娘のアソコに棒をムリヤリ突っこもうとしたんだ。

 娘は厭(いや)がってあらがったよ、当たり前じゃ。嫁入り前の小娘に、そんなむごい悪戯(いたずら)をしてええもんかの。娘があんまり暴れるんでロープがゆるんで、娘の足が運悪く、その若いもんの顔に当ってしもうた。

 男は大声で“不可触民がオレの顔を足げにした”とわめきおった。

 周囲は益々面白がって、懲(こ)らしめろ、見せしめにしろ、と騒いだ」

 老農夫は、そこでつばをぐっと呑みこみ、眼を光らせた。

「そいつはあんた、家の鍛冶場(かじば)から真赤な鉄火箸を持ってきて――。

 娘の、アソコにぐいと突っこんだのじゃ。怖ろしい悲鳴を上げて娘は気を失ってしまった。下の娘も気が違うなってその場に倒れてしもったのです。

 可哀そうに、上の娘は家でも病人ですじゃ。人相もなにも変ってしもうた。一生、嫁にもいけん体にされてしもうて――。

 あんた、たったの半ルピーで、どうしてあのような目にあわされんねば ならんのです」

「カーストヒンズーたちは、わしらを慰みもんにして楽しんどるだ」

 その言葉にホールの中の顔が一斉に頷いた。目の前の“母親”も、何度も深く頷いた。

「あいつらの一番の楽しみは、弱いもん苛(いじ)めなんじゃ」別の声がいった。


【『不可触民 もうひとつのインド』山際素男〈やまぎわ・もとお〉(三一書房、1981年/光文社知恵の森文庫、2000年)】


 私の中に怒りは湧いてこない。ただ、静かなる殺意が確固たる形を成すだけだ。法で裁くなどと悠長なことを言っている場合ではない。「速やかに殺害せよ」と私のDNAが命令を下す。宗教だとか文化だとか言語の違いは全く関係ない。罪もない少女にこんな仕打ちをするような手合いは人類の敵なのだ。


 この文章が恐ろしいのは、まず娘の惨状を傍観している親がいて、それを傍観している著者がいて、更に傍観する読者が存在するという点に尽きる。何層にもわたる傍観が、ともすると無力感へと導こうとしている。「どうせ、お前は何もできないだろう?」という問いかけが、「何もできなかった」という事実と相俟(ま)って私から力を奪おうとする。


 結局、ガンディーが守ろうとしたのは、上流カーストが不可触民を虐待する権利だったってわけだ。結果的にそう言われてもガンディーは反論のしようがあるまい。


 人類が犯してきた数多くの虐殺の歴史が教えているのは、「沈黙していれば殺される」という事実である。だから私は、殺される前に殺すことは罪にならないと考える。これは正当防衛なのだ。


 極論かもしれないが、私は人種差別者は死刑に処すべきだと本気で思っている。なぜなら、明日以降「殺されるために生まれてくる人々」による正当防衛であると信ずるからだ。差別とは「相手を殺す」思想に他ならない。


 私は歯ぎしりしながら、自分にできることを淡々と行う。そして、自分にできる範囲を少しでも広げてゆく。そうでなければ、生きている甲斐がないから。

不可触民 もうひとつのインド 不可触民―もうひとつのインド (知恵の森文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

ダイハツ東京


 集合ポストに同じチラシが三つも入っていたよ。しかも、ビニール袋入りで。ダイハツ東京が委託しているチラシ配付業者は三流会社のようだ。「夏だ、海だ、ドライブだ!」という文字が躍っているが、もう秋ですよ。

ジョージ・アームストロング、小松美彦、森沢典子


 2冊挫折、1冊読了。


 挫折51『ロスチャイルド世界金権王朝 極世界支配の最奥を抉る!』ジョージ・アームストロング/馬野周二〈うまの・しゅうじ〉監訳(徳間書店、1993年)/陰謀モノだった。陰謀論はいつも思い詰めている。思い詰めているから一つのストーリーしか想像できない。そして、全ての情報を一つのストーリーに無理矢理はめ込んでしまうため窮屈で仕方がない。イルミナティを出すのが早すぎる(笑)。もっと思わせぶりに描くべきだ。馬野周二という人物を初めて知った。100ページほどで挫ける。


 挫折52『死は共鳴する 脳死・臓器移植の深みへ』小松美彦〈こまつ・よしひこ〉(勁草書房、1996年)/この人は論者だと思う。文章に締まりがない。多分、いい内容だとは思うが性格が合わないと判断した。


 104冊目『「パレスチナが見たい」』森沢典子(TBSブリタニカ、2002年)/これはよかった。パレスチナ入門として最適。幼稚園教諭の著者が、突然パレスチナ行きを断行する。それもたった一人で。現地で広河隆一を訪ねるが基本的に一人だ。3週間の旅で森沢が見たのは、非道極まりないユダヤ人と静かに抵抗し続けるパレスチナ人の姿だった。ここに書かれているのは、「普通の人の視線」に映ったパレスチナの一部である。それゆえ、パレスチナの日常風景といってよい。森沢の筆致は慎重かつ丁寧で、自省が込められている。いたずらに、イスラエルを糾弾する姿勢は微塵もない。その森沢の悲痛な思いを汲んだとしても、私は反ユダヤ主義にならざるを得ない。真のヒューマニズムは必ずや反ユダヤ主義を志向する。

2009-08-26

その男、本村洋/『裁判官が見た光市母子殺害事件 天網恢恢 疎にして逃さず』井上薫


 その男には怒りが燃え盛っていた。圧倒的な怒りが男を衝き動かしていた。怒りの矛先(ほこさき)は犯罪とそれを取り巻く社会に向けられていた。本村洋は単なる被害者ではなかった。「殺害された妻」の夫でもなかった。彼は「正義そのもの」であった。


 本書を読み終えて私は次のように書いた――


 私は事件よりも本村洋という男に興味があった。多分、それまでは真面目でおとなしい性格だったに違いない。自宅で妻の死体を発見して彼は鬼と化した。彼は文字通り正義を体現した。彼は法そのものと化した。少年は彼にこそ裁かれるべきだった。そして彼に裁かれたのだ。本村以外の誰にこんなことができただろうか。たった一つの武器は言葉であった。彼の言葉はまるで聖典だ。私は彼を法律として採用したい。


【「井上薫」2009-08-18】


 本村を賛嘆する声はネット上にも多い。


 本村洋の言葉は本当に素晴らしい。言葉が常に理路整然としていて、無駄がなく、分かりやすく、聴き入るたびに興奮と感動を覚えさせられる。聴きほれる。納得と共感で心が満たされる。何もかもが絶望的なこの日本で、本村洋は私にとって宝石のような美しい貴重な存在であり、この若い、優秀な優秀な優秀な優秀な男を、国会議員にしたいと希(こいねが)う。日本国憲法が想定する国民代表の理念型は、本村洋のような人間的資質をこそ具体要請しているのである。できればこの男を総理大臣にしてみたい。今すぐに日本国の運営を任せてみたい。


【「世に倦む日日」】


 その他の記事も実に読み応えがある。


 本村の顔は南海キャンディーズの山ちゃんと瓜二つだ。彼等が一卵性双生児であってもおかしくないほど。しかし、中身が決定的に違う。天と地よりも離れている(※決して山ちゃんに恨みがあるわけではない)。


 本書は、裁判員制度を考える上でも極めて意義のある一冊といえる。元裁判官の著者は、司法ですら陥りやすい過ちをも指摘しており、極めてテクニカルな内容となっている。


 まず、事件の概要については以下のページを参照されたい――

 本件の事件発生が平成11年4月14日です。そして、被告人の新供述が初めて現れたのが平成18年2月27日、最高裁に事件が係属中で新弁護人の安田・足立両弁護人が初めて被告人に接見したときだと弁護人が述べています。この間流れた歳月は、約6年10か月。この間、本件事件は自白事件でした。つまり、平成18年2月27日に、それまでの自白事件が一朝にして否認事件にひっくり返ったという次第です。


【『裁判官が見た光市母子殺害事件 天網恢恢 疎にして逃さず』井上薫(文藝春秋、2009年)以下同】


 ここでいう「自白」とは、裁判での自白という意味である。つまり、閉ざされた取調室ではなく、何の強制力もない法廷において裁判官と傍聴人を前にして「自ら容疑を認めた」事実を指している。だが、一審、二審判決は「無期懲役」であった。なぜか?


 また、裁判の現場に広がっていた相場主義が、被害者の心をずいぶんと踏みにじってきました。相場主義というのは刑の重さが相場で決まるということです。


 井上は「相場主義」によるものと指摘し、検証を試みている。相場はあってしかるべきだろう。だが、相場感でのみ判決が下されるのはおかしい。それが通るなら、裁判官の仕事はコンピュータに委ねるべきだろう。


 相場主義、前例尊重主義は、「法律に基づく裁判」という憲法上の大原則に違反します。現在司法の世界では、前例尊重、相場主義が幅を利かせていますが、これは根本的に改めなければなりません。相場なんて関係ない、事件を真正面から見て真正面から判断すべきです。一件一件が真剣勝負です。前例があるからそれと同じでいいという安直な考えでは裁判はいけません。当たり前のことが裁判では認められてこなかった。前例だけ調べて、一件落着。そういう安易な裁判が多かったのです。


「安易な裁判」が多かった理由として、井上は勤務評定を挙げている。控訴が少ない裁判官ほど優秀と評価される傾向があるようだ。


 我々一般人はともすると「裁判で正義が明らかになる」と誤解している。だがそうではない。裁判で争っているのは「違法性」に過ぎないのだ。だから仮に法律が誤っていたとしても、裁判はその法律に束縛される。つまり、法律が「絶対的なルール」として機能するゲームなのだ。だから時として、新しい形態の犯罪に法律が追いつけないという馬鹿げた場面が現れる。


 実際に、ゲーデルの方法は、真犯人だとわかっていながら、いかなる司法システムSも立証できない犯罪Gを生み出したイメージに近い。司法システムは、当然その犯罪方法に対処する新たな法を組み込むだろうが、その新システムでは立証できない新たな犯罪を構成できる。これをいくら繰り返して新たな司法システムを作っても、ゲーデルの方法を用いて、そのシステム内部でとらえきれない犯罪を構成できる。したがって、すべての犯罪を立証する司法システムは、永遠に存在しないというイメージである。


【『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論高橋昌一郎(講談社現代新書、1999年)】


 例えばの話、憲法に反した法律だって中にはあることだろう。1997年まで存在した「北海道旧土人保護法」なんて、ネーミング自体が差別意識を声高らかに宣言してしまっている。


 法律は社会常識の合意形成を象徴したものと考えられるが、明白な悪行を裁けないとすればこんな間抜けな話はない。


 だから私は、裁判の席上で「この法律はおかしいよ」と言う機会が与えられてしかるべきだと思う。裁判員6名、裁判官3名全員が「おかしい」と判断した場合は、直ちに国会を召集し法改正を行えばいい。そうすれば法律に柔軟性が増して、社会の常識と整合性を保てる。法律は厳密・緻密・微細であるよりも、柔軟であるべきだ。その方が裁判の重みも増す。


 結局、本村洋が我々に示したのは、「法律なんか当てにするな」ということだ。本村は判決を引っ繰り返してみせた。司法が役立たずであることを証明してしまったのである。犯人の少年にしても、実際に犯した罪ではなく、刑務所内で書いた「不謹慎な手紙」によって死刑にされた感が否めない。

裁判官が見た光市母子殺害事件―天網恢恢 疎にして逃さず

『空の論理 ニヒリズムを超えて』矢島羊吉(法蔵選書、1989年)


空の論理 ニヒリズムを超えて


 西洋哲学の究極にあるニヒリズムの陥穽は龍樹の『中論』に示されている「空」の論理において徹底的に突き詰められ、克服されてゆく。本書は、倫理学・ドイツ哲学の専門家がその生涯をかけて到達し、自己の問題として提示した、哲学を超える新たなフィロソフィーである。

肌の境界感覚


 肌の境界感覚があまりに弱いと、人から影響を受けすぎて自分というものがなくなってしまう。たとえば、自分を主張したり表現することができず、常に他人に合わせることでよい子を演じ続ける「過剰適応」の行動になる。

 逆に肌の境界感覚があまりに強すぎると、自他を隔てすぎてしまって自閉的、あるいは傍若無人な行動傾向が強まる。たとえば、境界感覚が強くてエネルギーが内に向かうと、「引きこもり」のような行動が現われ、逆にエネルギーが外に向かえば、電車内で平然と化粧をするような、傍若無人な行動が出てくる。


【『子供の「脳」は肌にある』山口創〈やまぐち・はじめ〉(光文社新書、2004年)】

子供の「脳」は肌にある (光文社新書)

2009-08-25

多田茂治、藤井厳喜


 1冊挫折、1冊読了。


 挫折50『石原吉郎「昭和」の旅』多田茂治(作品社、2000年)/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』の後に書いておきながら、二番煎じ以下といった内容だ。我慢しながら100ページほど読んだが、読むだけ無駄だった。最終章の「北鎌倉」もざっと目を通したが、スカスカの文章。石原吉郎にもたれながら、そのまま倒れてしまったようなクソ本だ。多田茂治という人物はまったく信用ならない。


 103冊目『ドンと来い! 大恐慌』藤井厳喜〈ふじい・げんき〉(ジョルダンブックス、2009年)/これはamazonで偶然見つけた作品。派手な表紙に福助顔の著者が写っているが侮ってはいけない。日本人の経済モノとしては増田俊男以来の衝撃を受けた。紙質もよく、脚注も行き届いており、各章のまとめページという配慮もグッド。唯一の瑕疵(かし)は誤字が多いこと。それもゴシック体の肝心なところに出てくる。ジョルダンっていう会社は緊張感が無さすぎる。世界経済を学びたいなら、まずはこの一冊で十分だ。よくもまあ、これだけの内容を一冊に詰め込んだものだ。

油麩、仙台麩


 これ、物凄く美味しい。ありきたりでない贈り物にうってつけ。

NIPPV/非侵襲的陽圧換気法


 さらに現在、石川(悠加)が先頭に立って推し進めているのが、「NIPPV」(非浸襲的〈ひしんしゅうてき〉人工呼吸器)と呼ばれる新しい人工呼吸療法である。その日の研究会でも、大きなテーマとして扱われていた。

 これまで人工呼吸器といえば、「気管切開」の手術を受け、気管カニューレを装着する方法がスタンダードとされてきたが、このNIPPVでは手術を行わず、着脱式の「鼻マスク」や「口パイプ」を使用するという特徴がある。


【『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち渡辺一史〈わたなべ・かずふみ〉(北海道新聞社、2003年)】

狂気を情緒で読み解く試み/『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫

 渡辺哲夫は臨床医である。本書において、統合失調症患者が発する言葉を情緒で読み解くという困難な作業に挑んでいる。情緒とは、世代間に営々と受け継がれてきた歴史ともいえる。


「まったく、ご苦労なことだよ」と思うのは簡単だ。「で、何の意味があるんだ?」と疑義を呈することも容易だ。渡辺が試みているのは、異質なものを自分の中へ同質化しようとする作業だ。これは苦しい。なぜ苦しいかというと、自分が変わらなければならないからだ。相手が存在する場所へ自分から歩み寄る苦闘といってよい。


 その苦労が、豊穣な言語として出現している。ここには異質を受容することで人間は豊かになる証左が示されている。


 狂気は死を志向する。コミュニティは狂人を受け入れない。狂気はあらゆるものを破壊し、意味を失わせ、実際に人を殺すことがある。冒頭で渡辺は本書のテーマを謳い上げる――


 死は謎である。いわゆる幽明界を異にするということ、生の絶対的な断絶が起こること、この出来事そのものは決して経験できない。これは確かなことだ。しかし、生き残る者はここで一切の思惟を永遠に停止するであろうか。この謎のまえで沈黙してしまうであろうか。そのようなことはない。死は経験できない。しかし生者は死者を経験できるからである。死と死者、ここには微妙な、だが決定的な差異がある。死という概念は、生者と死者の蝶番、さらに言えば虚なる概念のように私には思われる。蝶番を真正面から問うても、一旦界を異にした二つの世界は見えてこないだろう。私が問題にしたいのは、この二つの世界、この世とあの世の織りなす様相であって、蝶番そのものではない。死の謎は、生者たちの心情を支配し続けるであろうが、それ自体が解明されるはずもなく、解明される必要すらないと言いたい。少なくとも、この謎は哲学者に委託しておきたいと思う。

 私が問いたいのは死者たちの存在性格である。われわれは死者たちを思う。思うことは歴とした経験であろう。そして経験できるということは、死者たちが何らかの様式で存在するということにほかならない。死が存在するとは言えまい。だが死者は存在するのである。ここでは死と死者の差異をこれ以上論じるつもりはない。のちに詳しく考えることにする。ただ一言ここで予め指摘しておきたいのは、狂気が露呈したとき、以上に述べてきたような死と死者の差異が消滅してしまうという事実である。狂気は死者のみならず死そのものを経験するのである。それゆえ、狂気を論じる場合、“死と狂気”と記しても、“死者と狂気”と記しても、結果的には大差がなくなってしまう。おのれの死の経験と他者性の究極の存在性格を有する死者についての経験とが渦を巻いて融合し、逆転してしまう。


【『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫(筑摩書房、1991年/ちくま学芸文庫、2002年)以下同】


 眠りもまた自覚することができない。我々が眠りを意識するのは、常に目覚めた後なのだ。ゆえに「死は経験できない」という断言は重みを増す。我々が知り得るのはいずれも“他人の死”である。死は目撃されるが経験できない。


 狂気は“正気の死”を標榜している。本書に登場する患者は、精神が引き裂かれ、粉砕されたような観を呈している。生と死の境界が曖昧になり、自他の相違すらなくなり、全く新たな文脈で世界を創造し始める。これがネオ=ロゴスだ。


 私は少し論を急ぎすぎているようだ。

 死と狂気について今少し考えておこう。常人にとって、狂気は、それをじかに経験できないという点において、おのれの死と似ている。そして、さらに、常人はいつもおのれの狂気を内に秘め、その露呈を気遣い恐怖しつつ生きている。反論したい人びとは反論するまえに自己の心の奥底をよくよく凝視すべきである。この狂気隠蔽衝迫に追われている常人の姿は、死の影に怯えつつ生きている姿と酷似している。おのれの肉体の腐敗、おのれの精神の解体に対する恐怖は、あたかも通奏低音のごとく、人びとの意識の奥底で響き続ける。死と狂気は、自称正常なる生者たちの存在秩序の根柢を刻一刻とやむことなく浸蝕し続ける双生児のごときものなのである。死と狂気は、その肉体と精神に対する変容力のゆえに、さらに、その余にも親密であることに由来する不気味さのゆえに、相互に深く浸透し合っているのだ。

 それにもかかわらず、死と狂気を統一的な視点から見据えた学問が人間の学の中枢を形成してこなかったことは、事の重大性を考慮するならば、不可思議であると言わざるを得ない。

 死の問題は哲学に委託された。死者の問題は宗教に委託された。そして狂気の問題は医学に委託された。不毛な分裂、安易な分担が起こったのである。優れた文学だけが折にふれて死と狂気の問題に正面から取り組んでいるのが実情である。


 人間が持つ可能性という点から考えれば、狂気はマイナスの可能性といえる。マイナス要素は座標軸を中心にプラス要素の可能性を延長する。そして狂気は嫌悪の対象でありながら、人々を魅了してやまない。脳の新皮質の下では、万人が狂気の焔(ほのお)を燃やしているからだ。剥(む)き出しとなった純粋なるエゴイズム、本能の放出、仮面の下の顔――そこには劣悪な自由が存在する。


 驚くべきことに渡辺哲夫は、野家啓一と同じく柳田國男を手掛かりにして死を手繰り寄せる。生死こそは物語の最たるものであり、そこに因果という脚色が施される。


 柳田國男折口信夫を学ぶ必要がありそうだ。

死と狂気 死者の発見 死と狂気 (ちくま学芸文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-08-24

アラブ人向け教科書で「ナクバ」使用を禁止、イスラエル


 イスラエルのギデオン・サール(Gideon Saar)教育相は21日、国内のアラブ人学校で使う教科書で、イスラエル建国をめぐる記述にアラビア語で「大災厄」を意味する「ナクバ(Nakba)」という言葉を使用することを禁止すると発表した。次回の教科書改定時から適用するという。

 サール教育相は、「公立の教育制度においてイスラエル建国を大災厄と表現する理由がない。教育制度の目的はわが国の正当性を否定することでも、アラブ系イスラエル人の間に過激思想を広めることでもない」と説明した。

 イスラエルでは「ナクバ」を記念する集会に対し、国家の補助金をいっさい禁止する法案も準備が進んでいる。アビグドル・リーバーマン(Avigdor Lieberman)外相が提出した草案では、「ナクバ」を記念するすべての行為を禁止し、違反者には最大で3年の禁固刑を科すとなっていた。

 イスラエル国内には、現在120万人以上のアラブ人が住んでいる。


AFP 2009-07-23

死者数が“一人の死”を見えなくする/『アラブ、祈りとしての文学』岡真理


 イスラエル問題を知れば知るほど暗澹(あんたん)たる気持ちになってくる。世界がどうしてこれほどパレスチナを無視するのかが全く理解できない。


 結局のところ、パレスチナってのはイギリスから見た場合、単なる空き地に過ぎなかったということだ。第一次世界大戦においてイギリスの戦費を融資してきたのはユダヤ系銀行だった。


 シオニストは言った――「支払いの一部を割り引くから、あそこの空き地をくれよ」。イギリスは答えた――「あそこでいいなら構わんよ。どうせ大した資源もないことだし……」。こうしてバルフォア宣言がなされた。


 言ってみれば、ヤルタ会談での密約みたいなものだ。ただし、北方領土にいた日本人は引き揚げたが、パレスチナには数多くのパレスチナ人が暮らしていた。


 1948年5月14日、イスラエルが勝手に建国。翌日から第一次中東戦争が始まる。そして、何の罪もない70万人のパレスチナ人が難民となった。この歴史をパレスチナ人は「ナクバ」(大破局、大災厄)と名づけた。


 わかりやすくいえば、静岡市民全員が家を失ったという話だ。この時、2000〜3000人のパレスチナ人が殺されている(※イラン・パペによる)。そして、ナクバとは歴史の一点を指す言葉ではない。今尚継続中であるところにナクバのナクバたる所以(ゆえん)があるのだ。1948年から60年にもわたって、イスラエルのユダヤ人はパレスチナ人を殺戮し続けている。


 イスラエルという人工国家は、ナチス・ドイツよりも悪辣(あくらつ)で、北朝鮮にも劣る国だ。


 では、パレスチナで殺された人々を我々はどう考えるのか――


 4年間に5万もの人々が殺されるなどあってはならないことだ。人間とは決してそんなふうに死んではならない。私たちが生きるこの世界で決してあってはならない、そうした出来事の暴力性を私たちが訴えようとするとき、「4年間に5万人」という数字をつい強調しそうになる。数字は、その桁違いの大きさが喚起する衝撃によって、出来事の重大さを効果的に伝えてくれるだろう。だが、そのとき、数字が与える衝撃の反作用として、たとえば4年間に3000人が殺される出来事の「あってはならなさ」が、私たちのなかでふっと軽く感じられてしまう。

 思想と呼ばれるものを私たちが必要とするのは、このような瞬間、このような場においてではないか。3000人が殺されるより5万人が殺されることのほうがはるかに重大で本質的であると、数の大きさに比例して出来事の重さを表象し、そのように感じてしまうこと。そうした思考、感覚に抗って、私たち自身を「そこ」に、出来事の根源に深く繋留するための思想が。

 4年間で3000人が殺されるよりも5万人殺される出来事のほうが重大であるなら、5万人殺される出来事は、50万人が殺される出来事の前にその重みを失うだろう。さらに、4年間に50万人殺される出来事は、一発の爆弾で15万人が殺される出来事の前に意味の重みを失うにちがいない。こうしてあらゆる出来事は相対化され、すべての出来事が意味の重みを失うことになる。大量死という出来事において死者の数だけが強調されるなら、一人の人間が死ぬという出来事がもつ意味の重み、言い換えるなら、人間一個の重みそれ自体が限りなく希薄になるだろう。このとき、殺される者たち一人ひとりの命の重みを顧みない点において、私たちは殺人者の似姿を我知らず分有することになりはしないだろうか。


【『アラブ、祈りとしての文学』岡真理(みすず書房、2008年)以下同】


 岡真理は筆致を敢えて抑制している。私にはわかる。なぜなら、この私ですら抑制しているからだ。感情を抑えなければ、狂気に取りつかれてしまう。命令に従い、罪なき人々を殺すことを生業(なりわい)とする人間が存在する。これを国家悪と呼ばずして何と表現できよう。


 毎日十数人の命が奪われるのはパレスチナの日常であって、それが日常であるかぎり、特別の関心は払われない。結局のところ「大量殺戮」を私たちが問題にするのは、数字が喚起するセンセーショナリズムのゆえであって、そこで殺される一人ひとりの人間たちの命ゆえではないということになる。他者の命に対する私たちの感覚は、桁違いの数字という衝撃がなければ痛痒を感じないほど鈍感なものだということだ。


 日本においても、交通事故死や自殺に対して全く同じ情況が見られる。人は、自分と縁のない死に関しては「不運」の一言で片づけてしまう。死者が数字と化した途端、死者の顔は失われる。見知らぬ死者はAかBかCでしかない。


 深代惇郎が同じことを書いている――


 このようにして物事を合理的にしてゆくことで、さまざまな問題が起こってくるが、その一つは万物を数字にしてしまうことだろう。数量化しなければ者は合理的にはならないが、数字にすれば一つ一つの持つ意味や質は無視されることになる。

 あなたにとってかけがえのない人も、他の人とまったく同じように「一人」として数えられるにすぎない。「小鮒(こぶな)釣りしかの川」も、水量何トン、長さ何キロの川になってしまう。このようにして、人も物もすべてが「統計数字」となり、同質化されていく。


【『深代惇郎エッセイ集』(朝日新聞社、1977年)】


 数量化が、人間をモノ化する。死を勘定できるのであれば、生もまた計算の対象となる。私の生は1億3000万分の1となる。これでは、誤差以下の範囲といってよい。


 一人の死が何十人もの涙を誘い、何百人もの憎悪を生む。時来れば、パレスチナで一人立ち上がる青年が登場することだろう。その青年がパレスチナ人を糾合し、イスラエルの悪を討つに違いない。その時、資本主義は断末魔の悲鳴を上げ、新しい人間主義の旗が翻るのだ。

アラブ、祈りとしての文学

意志して見る


 窪田空穂『現代文の鑑賞と批評』を読んでいると、あるものを鉛筆を手にして描きながら見るのと、鉛筆を手にしないで見るのとでは、まったくちがうというポール・ヴァレリーの文章(『ドガに就て吉田健一訳、筑摩書房)を思い出します。

 いかに見なれたものでも、いざ鉛筆をもって素描しようとすると、それは必ず、いままで知らないでいた相貌をあらわす。「意志して見ること」は、自分がすでに見ていて、よく知っていると思っていたものを著しく変換せずにはおかない。たとえば「親しい女友だちの鼻の形」も、意志して見るのでなければ、まったく知らずにいるのとおなじである、とヴァレリーはすこしばかりユーモアもまじえて書いています。


【『〈〉が選んだ入門書』山村修(ちくま新書、2006年)】

“狐”が選んだ入門書 (ちくま新書)

国会図書館、書籍をネット配信へ 利用料は1冊数百円程度に


 Googleブック検索やAmazonのなか見!検索など、書籍の中身をインターネット上で検索できるサービスが始まっている。6月には著作権法が改正され、国立国会図書館が図書館内の資料をデジタル化できるようになった。今後はこのデジタル化した書籍をインターネットを通じて誰でも利用できるようにする考えだ。


CNET Japan 2009-08-21】

2009-08-23

アーディラ・ラーイディ


 1冊読了。


 102冊目『シャヒード、100の命 パレスチナで生きて死ぬこと』アーディラ・ラーイディ著、イザベル・デ・ラ・クルーズ写真/岡真理、岸田直子、中野真紀子訳(「シャヒード、100の命」展実行委員会、2003年)/2000年9月末に始まった第二次インティファーダ(民衆蜂起)で亡くなった最初の犠牲者100人を追悼する作品である。同名の美術展とタイアップしている。左ページには故人の写真が配され、人となりを紹介。右ページには遺品の写真が掲載されている。たったそれだけの、新聞の訃報欄を拡大したような作りではあるが、胸に迫ってくる何かがある。殺されたパレスチナ人が固有の顔を持って私の前に立ち現れるのだ。写真の眼が読み手を見据える。「なぜ、僕が死ななければならかったの?」と。68歳のドイツ人から始まり、ページをめくるごとに死者は若くなる。彼等の未来は失われた。そして読み手は「失った未来」を直視させられるのだ。シャヒードの語源は「誠実な証人」という意味らしい。今では「殉教者」を指している。大半がデモ行進の最中に狙撃されている。罪なきパレスチナ人の紙碑(しひ)といってよい。それにしても、200ページあまりで2100円は高すぎる。発売元はインパクト出版会になっているが紙質もよくない。何らかの事情があったのかもしれないが、パレスチナの惨状を広く知らしめるのが目的であれば、1000円程度にすべきだろう。まったくもって愚の骨頂だ。

重度身体障害者が独り暮らしを断行/『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史


 よもや、活字で「三角山」に出会うとは思わなかった。私は幼少時をこの山の麓(ふもと)で過ごしているのだ。それ以降、苫小牧、帯広と引っ越し、再び札幌の同区内に戻っている。本書は、まだ介護保険が整備されていない時期に、筋ジストロフィー患者・鹿野靖明が独り暮らしを断行する顛末(てんまつ)を描いたルポルタージュである。amazonのリンクを辿って見つけた次第。講談社ノンフィクション賞大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。


 ではまず、鹿野の病状を紹介しよう――


 できないといえば、この人には、すべてのことができない。

 かゆいところをかくこともできない。自分のお尻を自分で拭くことができない。眠っていても寝返りがうてない。すべてのことに、人の手を借りなければ生きていけない。

 さらに大きな問題があった。

 35歳のとき、呼吸筋の衰えによって自発呼吸が難しくなり、ノドに穴を開ける「気管切開」の手術をして、「人工呼吸器」という機械を装着した。筋ジスという病気が恐ろしいのは、脈や腕、首といった筋肉だけでなく、内臓の筋肉をも徐々にむしばんでゆくことだ。

 以来、1日24時間、誰かが付き添って、呼吸器や気管内にたまる痰(たん)を吸引しなければならない。放置すると痰をつまらせ窒息死してしまうのである。


【『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史〈わたなべ・かずふみ〉(北海道新聞社、2003年)以下同】


 手っ取り早くいうと「筋肉が死んでゆく」病気である。その上気管切開をしていた。現在でも気管切開をしている要介護者は、ショートステイや訪問入浴を断られることが珍しくない。事故が懸念されるためだ。痰の吸引は医療行為に該当し、最近ではヘルパーにも認められつつあるが、現状の大半は医師・看護師と家族に限られている。多い場合だと一日に100回もの吸引を必要とする人もいて、家族の負担が大きい。


 鹿野はボランティアの面々を「広い意味での家族」と位置づけることで、牽強付会の論理を押し通した。そして彼は、痰吸引を数多くのボランティアに指導した。ここにおいて介護現場で立場が逆転する。


 重度の身体障害者が独り暮らしを始めるというのは、文字通り自殺行為に等しかった。鹿野はなぜそこにこだわったのか。実は妹が知的障害者だった。彼は親に負担をかけることを嫌った。そして、一日三交替制で4人のボランティアを必要とする生活を開始した。月間だと述べ人数で120人ものボランティアが必要となる。


 鹿野はおとなしい病人ではなかった。暴君といった方が相応しい。彼はわがままだった。だが、わがままを通さなければ生きてゆけない現実が確かに存在した。貪欲なまでに生を貪(むさぼ)り、生にしがみつき、生を堪能した。


 そんな不満が爆発寸前のとき、「バナナ事件」は起こった。


 ある日の深夜、病院の簡易ベッドで眠っていた国吉は、鹿野の振る鈴の音で起こされた。「なに?」と聞くと、「腹が減ったからバナナ食う」と鹿野がいう。

「こんな夜中にバナナかよ」と国吉は内心ひどく腹を立てた。しかし、口には出さない。バナナの皮をむき、無言で鹿野の口に押し込んだ。二人の間には、言いしれぬ緊張感が漂っていた。

「それに鹿野さん、食べるスピードが遅いでしょ。バナナを持ってる腕もだんだん疲れてくるしね。ようやく一本食べ終わったと思って、皮をゴミ箱に投げ捨てて……」

 もういいだろう。寝かせてくれ。そんな態度を全身にみなぎらせてベッドにもぐり込もうとする国吉に向って、鹿野がいった。

「国ちゃん、もう一本」

 なにィ!! という驚きとともに、そこで鹿野に対する怒りは急速に冷えていったという。

「あの気持ちの変化は、今でも不思議なんですよね。もうこの人の言うことは、なんでも聞いてやろう。あそこまでワガママがいえるっていうのは、ある意味、立派。そう思ったんでしょうか」

 そのときの体験を、国吉は入社試験の作文に書いてNHKに合格したという。現在は事件・事故現場からの“立ちリポ”でニュースにも登場する第一線の報道記者である。


 これがタイトルの由来となった事件である。鹿野とボランティアの関係が実に上手く出ている。介護現場は生々しい格闘のリングであった。鹿野がボランティアを罵倒し、ボランティアが鹿野の頭を叩く場面もある。


 取材を重ねる中で著者の渡辺一史もボランティアに加わる。その意味では、巻き込まれ型ノンフィクションともいえる。フィールドワークではない。なぜなら、鹿野靖明は他人を巻き込むエネルギーの持ち主であるからだ。


 渡辺のペンは、鹿野を取り巻くボランティアの生きざまを炙(あぶ)り出す。ボランティアとは、「助けること」と「助けられること」とが密接不可分になり、融(と)け合い、時に立場が入れ替わる営みでもあった。


「そうじゃない、本当はこうしてほしい」

「そうじゃない、本当はこう望んでいる」

 こうした障害者の思いは、往々にして、健常者が「よかれ」と思ってした行為や、安易な「やさしさ」や「思いやり」を突き破るような自己主張として発せられることが多い。介助者にしてみれば、つねに好意が打ち砕かれるような、激しさと意外性の伴う体験なのだ。

 さらに考えなければならないことは、自立をめざす重度障害者たちは、こうした自己主張を対人間関係のみならず対社会にまで押し広げることで、在宅福祉制度の必要性を訴え、自立生活の基盤そのものを生み出してきた点だ。歴史的に見ても、彼らの飛び出した施設とは、障害者を隔離収容することで、安全に一律に“保護”しようという、安易で硬直した健常者の「やさしさ」や「思いやり」が生みだした産物であろう。


 介護や医療の現場において、人間関係は凝縮された姿で現れる。迫り来る死の実感が、人間の本質をさらし出すのだろう。鹿野の偉大さは、制度の不備を嘆いているだけの人が多い中で、自らが打って出て必要な体制を築いた事実にある。中々できるものではない。ボランティアの高橋雅之が撮影した秀逸な写真が配されているが、鹿野はギラギラしている。


「フツウは、死にそうな体験を何度もすると、何があってもニコニコ笑った“おばあちゃん”みたいな、人にやさしく、あんまり欲もなく、不平不満も言わず、みたいな、そういう人物像を思い浮かべますよね。

 でも、シカノさんの場合、何度も死ぬ思いをしてきたにもかかわらず、いまだにギラギラして脂(あぶら)っこいですよね。あれは――なんなんでしょうかね(笑)。オレとか、ワタナベさんより、100倍くらいは生命力が強いんじゃないですか」

 私は斉藤と顔を見合わせて笑った。とても愉快だったのだ。


 本書の完成を間近に控えた2002年8月12日、鹿野靖明は逝ってしまう。享年42歳。鹿野の死を取り巻くボランティアの様子も淡々と描かれている。


 エド・ロングや小山内美智子といった大物も登場し、464ページで1890円は安い。渡辺の文章がとにかくいい。


 人間として生まれた以上、他人の助けがないと生きてゆけない。そんな当たり前のことをドラマチックに教えてくれる一冊だ。

こんな夜更けにバナナかよ

2009-08-22

「わ。美人」と思いたい女性たち


 コンプレックスはいろいろあれど、お洒落して化粧してヒール履いて「わ。美人」と思うことで自分の背中を押して出かける女性は少なくないはずだ。


 化粧品市場は「私ブス」と思う女性がたくさんいるから充実しているのではない。「わ。美人」と思いたい女性たちの、華やぐ感情の市場と言っていい。


「年収4000万円」と引き換えにしたもの遙洋子

組織の底力


 トラブルが起きるとそこの組織の底力が見える。底力は、組織以外の優秀な人たちの大いなるネットワークによって支えられていた。部下からは絶対トップの耳に入れることのない貴重な情報は、外部の人間がトップに入れるのだ。そのネットワーク作りは20代から始まっていた。


 私には、そんな人たちの生き方の方が、ショーよりも華やかできらびやかだった。


トラブルでわかる、組織の底力遙洋子

2009-08-21

『ボウリング・フォー・コロンバイン』マイケル・ムーア監督


 一方、意図的な編集がなされているという批判がなされる事もある。例えばコロンバイン高校での事件を受けてNRAがわざわざコロラド州で集会を開催したかのような演出が為されている。しかしこの集会は事前から予定に組み込まれていたものであり、銃乱射事件の直後に敢えてデンバーを年次集会の会場に選んだわけではない(乱射事件は年次集会予定日のわずか11日前に発生したのである)。全米ライフル協会のサイトを確認すると、年次集会の日程は前年の時点で既に決定済みであることが分かる。さらには銃乱射事件から1年後の集会でチャールトン・へストンが言った台詞を、彼がデンバーでの集会で言ったかのように誤認させる演出が為されている。


Wikipedia


ボウリング・フォー・コロンバイン マイケル・ムーア アポなしBOX [DVD]


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愛国心への疑問/『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆

 かつて掲示板上で愛国心についてやり取りしたことがある。随分前の話だ。愛国心について否定的な論調を私が書いたところ、「あなたに愛国心はないのか?」と質(ただ)された。すかさず「ないね」と応じた。この時、本当に愛国心がないことを自覚した。


 これは、私が道産子であることも関係していると思う。北海道では学校行事において「君が代」を歌う場面がほぼ完全にない。私の場合だと、中学の音楽の授業で歌ったことが一度あるだけだ。だから今でも「君が代」を歌えない。ちなみに「蛍の光」を歌うことも殆どない。私が通った中学の卒業式では、原語で「ハレルヤ・コーラス」を卒業生が歌うのが伝統となっていた。合唱の盛んな学校だったのだ。


 愛国心――ないね。どこを探しても爪の垢ほどもないよ。愛郷心はある。愛町内会心もある。愛国心を売り物にしている連中を見ると、私はどうしようもない嫌悪感を覚える。「だったら、自衛隊に入れよ」と言いたくなる。


 更に二つばかり理由がある。一つは私が海外へ行ったことがないため、日本と外国を比較しにくいこと。つまり、日本人であることを強く自覚する経験が乏しいのだ。


 もう一つは、国から何かをしてもらった記憶がない。「お前な、道路や空港を作ったのは誰だと思ってるんだ?」と言われればそれまでなんだが、如何せん日本国に対して「ありがとう」と思ったことがないのだから仕方がない。例えば、ヨーロッパの一部の国のように無料で高校や大学に行けたり、他国からの侵略行為を防いでもらったりしていれば、愛国心が芽生える可能性もあったことだろう。でも、どちらかといえばやっぱり「税金ばっかり取りやがって」という不満の方が多い。


 小田嶋隆が愛国心をバッサリと斬り捨てている――


 S誌に目を通す。巻頭のコラム子は「日本人には、国のために死ぬ覚悟があるんだろうか」と言っている。ふむ。君たちの言う「国」というのは、具体的には何を指しているんだ? 「国土」「国民」あるいは「国家体制」か? それとも「国家」という概念か? でないとすると、もしかしてまさかとは思うが「国体」か? はっきりさせてくれ。なにしろ命がかかってるんだから。

 もうひとつ。

「死ぬ」というのはどういうことだ? 私の死が、どういうふうに私の国のためになるんだ? そのへんのところをもう少し詳しく説明してくれるとありがたい。

 もうひとつある。「国のため」と言う時の「ため」とは、実質的にはどういうことなんだ? 防衛? それとも版図の拡大? 経済的繁栄? あるいは「国際社会における誇りある地位」とか、そういったたぐいのお話か? いずれにしろ、「これも国のためだ」式の通り一遍な説明で「ああそうですか」と無邪気に鉄砲を担ぐわけにはいかないな、オレは。

 国家権力を掌握している人間の利益を守るために、国民が命を捨てねばならないような国があるんだとしたら、先に死ぬべきなのは国民より国家の方だということになるが、君たちはこの答えで満足してくれるだろうか?


【『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆朝日新聞社、2005年)以下同】


 こんなコラムを巻頭に掲載するのは『諸君!』(文藝春秋)か『正論』(産経新聞社)しかないわな。右寄りの論調というのは愛国心を当然の前提とし、そこに思い切り寄り掛かっている。愛国心を疑ったり、まして愛国心のない野郎は国賊と評価される。


 しかしながら、愛を強制することはできない。街で擦れ違った見目麗しき女性に対して、「あなたは私を愛すのが当然だ」と言っても通用しないのと同じだろう。その昔、『愛される理由』というタイトルの本があったが、確かに愛されるには何がしかの理由や根拠が必要だ。


「国」というのは何だ?

 君たちの想定する「国」と革命分子の想定する「国」が違うものなのだとしたら、そりゃ単に内乱ってことにならないか? 逆に訊ねるが、君たちは、国民に死を要求するような国に対して忠誠を尽くすことができるのか? ついでに言えば、君たちが二言目には口にする「愛する者や家族が目の前で殺されているのを黙って座視するのか」式の設問は、無効だよ。覚えておくといい。質問は、答えを限定する。より詳しく言うなら、質問というのは、時に、回答の思考形式を限定するための手段として用いられるということだ。


 この指摘は実に鋭い。例えば、生まれたばかりの赤ん坊がパレスチナ人であるという理由だけでイスラエル人の手で殺されている。そして、まだお腹の中にいる胎児まで殺されている。殺された赤ん坊に国家という意識があるはずもないし、人種すら自覚していない。結局、国家意識というのは後天的に教育されるものだ。言語を始めとする文化や風習に馴染み、自分がコミュニティの一員であるという自覚が生まれた後に、「異質な別世界」を実感できるようになる。


 戦争が国家単位で行われている事実を踏まえると、国家という単位はない方がいいかもしれぬ。


 枠組みは常に悪用される。「国を守る」ということと「家族を守る」ということが無批判に同一視されているような質問は、発せられた時点で既に罠だってことだ。家族が暴漢に襲われている状況と国が戦争をしている状況は同じものではない。それどこから、逆かもしれない。だって、相手の国にとっては、暴漢はこちらということになるからね。つまり、君たちの質問の意図は、仮想敵国を強盗殺人犯に仕立て上げるところにあるわけで、国防とはまったく関係がないのだよ。

 兵隊が何を守るか知っているか? 国土?

 ははは。幸運な場合、結果として兵隊が国土を守ることもあるだろう。

 しかし、たいていの場合、兵隊が守るのはなによりもまず、軍隊の秩序であり、上官の命令だ。

 そして軍隊の機能はなによりもまず殺人であって防衛ではない。殺人が防衛の手段になるということが事実であるにしろ、軍隊の本意は防衛にはない。あくまでも殺人ということが彼らの動機であり目的であり存在意義です。さらに言うなら、その軍隊が命にかえて防衛するのは、国民の安全ではなくて、権力者の意志だよ。権力者の意志が国防にあればそれでいいじゃないかって?

 そうかもしれない。しかし、その権力者と対立する陣営の権力者の意志もまた国防にある。そして、国防という概念は敵の側から見れば侵略と区別がつきにくいものだ。ってことは、忠良な国民をかかえた2人の権力者は、自分の国防のために互いに侵略をし合うことにならないか?

 国のために命を捨てるのはけっこうだ。が、それが相互侵略のためだとしたら、犬死にどころか無理心中じゃないか。


 戦争の欺瞞を見事に暴き出している。俗に愛憎は紙一重と言う。であれば、愛国心とは他国を敵国と仮想することで成り立っているのかもしれない。とすると、権力者にとっては近隣諸国に敵国が存在した方が都合がいいとも考えられる。


 確かにそうだ。北朝鮮がテポドンを北海道に落としたら、私はたちどころに愛国者となるだろう。北朝鮮に対する憎悪を燃やした瞬間に、私の中の日本人が目を覚ますのだ。単純なもんだね。いや、ホントの話。恐ろしくなってくるよ。


 それでも人類が戦争をやめることはないだろう。戦争こそは人類の業(ごう)なのだ。だから、いっそのこと大掛かりな「戦争シミュレーションゲーム」を開発すればいいと思う。実際の戦争と同じように国会を召集し文民統制の下、自衛隊が戦略を練る。保有する武器や兵力もそのまま反映させて、ネット上のゲームで勝敗を決する。コントローラーを握るのはもちろん首相や大統領だ。


 これが実現すると選挙運動も大きく変わってゆくことだろう。ま、首相はアキバ系で間違いなし。指にはタコができている。また、数ヶ月前まで引きこもりだった青年が突如、首相になることも考えられる。


 皆が手を取り合う平和よりも、犠牲者の少ない戦争のあり方を模索した方が実行可能な気がしてくる。

イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド

エミール・ハビービー


 1冊挫折。


 挫折49『悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事』エミール・ハビービー/山本薫訳(作品社、2006年)/期待が大きかっただけに残念。まず、活字がゴシック体で読みにくい。次に脚注が多すぎて読みにくい。そして、諧謔(かいぎゃく)の中身が全く理解できない。というわけで、50ページほどで挫ける。これは読み直すこともないと思う。値段の割には紙質も悪い。

黒い九月事件


 フセイン国王のパレスチナ人弾圧は70年9月に起こったため「黒い九月」と呼ばれているが、やがて同じ名のパレスチナ人テロ組織が誕生し、これが72年9月にミュンヘン・オリンピック村を襲撃し、イスラエル選手団に犠牲者が出ることになる。

 ヨルダン内戦でPLOは潰滅したと考えた世界の人々は、この事件や同じ年の5月30日に日本赤軍の3人が引き起こしたテルアビブ空港(現ベングリオン空港)襲撃(26人殺害)など熾烈な作戦によって、パレスチナ問題が依然として続いていることを知ったのだった。しかしイスラエル側は、その年9月にレバノンのパレスチナ・キャンプを爆撃、数百人を殺害し、73年2月にはリビア航空機を撃墜し104人を殺害、4月にはベイルートを奇襲し、PLOの幹部を殺害して報復したのである。


【『パレスチナ 新版』広河隆一〈ひろかわ・りゅういち〉(岩波新書、2002年)】

パレスチナ新版 (岩波新書)

2009-08-20

石井紘基


 1冊読了。


 101冊目『日本が自滅する日 「官制経済体制」が国民のお金を食い尽くす!石井紘基〈いしい・こうき〉(PHP研究所、2002年)/もっと早く読んでおくべきだった。せめて、石井が殺される前に。本書が1月23日に発行され、同じ年の10月25日に自宅前で刺殺された。後に犯人の伊藤白水は「殺人を依頼された」と告白した。現職の国会議員で殺された人物はそれまで二人しかいなかった。裏表紙見返しに著者近影が配されているが、実にいい顔をしている。戦う男の風貌だ。出だしが随分読みにくいものの、政官業の癒着が見事に説明されている。そして、思い切った具体策も記されている。民主党がなぜこれを主張しないのか不思議だ。きっと石井は虎の尾を踏んでしまったのだろう。否、虎の尾をつかまえて国民の目の前に引きずり出そうとしたのだ。利権の根はかくも深い。石井は特別会計にメスを入れ、国会で初めて特殊法人公益法人の実態を追求した。日本の国家予算は、特別会計を含めると何とアメリカよりも多いという。にもかかわらず一向に景気がよくならないのは、予算が政官業のトライアングル内で還流しているからである。石井と比べれば沈黙している議員の何と多いことか。石井の無念を思わずにはいられない。

2009-08-19

ジョシュア・キー


 1冊挫折。


 挫折48『イラク 米軍脱走兵、真実の告発』ジョシュア・キー/井手真也訳(合同出版、2008年)/まず、合同出版がまだあったことに驚いた。いや、ホントの話。本書は、ダウド・ハリと全く同じ印象を受けた。米兵が生首でサッカーに興じる件(くだり)まで辿り着けなかったのが残念。50ページほどで挫ける。

法律の表と裏/『反転 闇社会の守護神と呼ばれて』田中森一


 告白スタイルの自叙伝としては、宮崎学の『突破者 戦後史の陰を駆け抜けた五〇年』(南風社、1996年/新潮文庫、2008年)、佐藤優の『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社、2005年/新潮文庫、2007年)などに匹敵する内容だ。


 前半は貧しい少年時代から苦学をして遂に検事となり、撚糸工連事件平和相互銀行事件など名だたる事件を手掛けた。


 長崎県の平戸島で生まれ、定時制高校を経て岡山大学へ進学する件(くだり)は、この時代の濃厚な雰囲気に満ちている。高度経済成長が幕を開けた頃だ。田中は貧しい環境に甘んじる少年ではなかった。止み難い向学の念から奇策をひねり出す――


 しかし、むろん大学受験用の高い参考書類なんて買えるわけがない。中学生のころ、父親が便所に捨てた学習参考書も、買ったものではなかった。学校の教員になりすまして、ただで送ってもらったものだ。教科書の奥付にある発行元の出版社に対し、

「中学校の数学を教えている田中森一という者ですが、私のクラスの授業に御社の問題集を採用したいので、参考のために送付してもらえませんか」

 と、嘘を書いた手紙を3社の出版社に出した。すると、出版社側はてっきり学校の授業に使ってもらえると思い込む。案の定、すぐに送ってくれた。ただし、参考書が家に送られてきたら、そのあとが面倒だし、父親に見つかるから、送り先はバスの停留所止めにしておいた。交通の便が発達していない当時の郵便事情では、そうすることも珍しくなかったからだが、そうしておいて学校帰りに取りに行っていた。


【『反転 闇社会の守護神と呼ばれて』田中森一〈たなか・もりかず〉(幻冬舎、2007年/幻冬舎アウトロー文庫、2008年)以下同】


 これを知恵と見るか悪知恵と見るかで、田中という人物の評価は分かれる。「貧乏に対して徹底抗戦した」とも思えるし、「目的を遂げるためなら、手段を選ばない男」と評価することも可能だ。検事となった後、田中は後者となる。


 田中は大きな事件を次々と手掛けてゆく中で、捜査が政治に支配されていることを思い知る――


 平和相銀事件の本質は、岸組による恐喝事件だったはずだ。それが銀行側の特別背任にすりかわった。本来、被害者が加害者になったようなものだ。その事件が、住銀の首都圏攻防に大きく貢献したのは間違いない。結果的に、われわれ検事は、都心の店舗をタダ同然で住銀に買い取らせるために捜査をしたようにも見えた。伊坂はすでに亡くなっているが、古巣の検察にこんな騙し討ちのようなことをやられて、死ぬに死に切れなかったのではないだろうか。

 この平和相銀事件を体験し、私は東京地検特捜部の恐ろしさを知った。事件がどのようにしてつくられるか。いかに検察の思いどおりになるものか、と。捜査に主観はつきものだが、それが最も顕著に表れるのが、東京地検特捜部である。


 その後、田中が担当する捜査は検察上層部の政治的思惑で潰される。不正を追求すべき検察が、不正の温床となっていた。田中は辞職する。その後、弁護士となり闇社会のスーパースター達と親交を深める。


 本書のタイトルは「反転」であって「反落」ではない。上から下に落ちるのが反落であれば、表から裏に移動したのが反転であろう。だが田中は、検察庁から恨みを買っていた。特に元上司である石川達紘は蛇のような執念を燃やした。(※石川については、西尾敏信の記事を参照のこと)


 田中の言い分は筋が通っている。だが肝心の主張(4分弱の通話)には触れることなく控訴は棄却された。現在、田中は塀の向こう側にいる。


 出る杭は打たれる――所詮そんなレベルの話だ。石橋産業手形詐欺事件の捜査が我が身に及ぶや、田中は狼狽を隠せなかった。自分が検事の時は手段を選ばぬ取り調べを行っていた人物にもかかわらず。その様子はどう見ても「反転」ではなく「反落」である。


 田中森一は貧しさを忘れた瞬間から、転落していったのだ。確かに正義を主張してはいるが、それは個人という範疇にとどまっている。本気であれば、刺し違えても悪を討とうとするはずだ。


 裏情報をひけらかしたところで、世の中が変わるはずもない。「自分の言葉」で他人の心をつかむことで、変革の第一歩が始まるのだから。

反転―闇社会の守護神と呼ばれて (幻冬舎アウトロー文庫)

2009-08-18

井上薫


 1冊読了。


 100冊目『裁判官が見た光市母子殺害事件 天網恢恢 疎にして逃さず』井上薫(文藝春秋、2009年)/昨日読了。本書を読むまで、差戻後控訴審で死刑判決が下ったことを私は知らなかった。テレビを観ないとこういうことが、ままある。弁護側は直ちに控訴したようだが、結局のところ無駄な抵抗に終わることだろう。私は事件よりも本村洋という男に興味があった。多分、それまでは真面目でおとなしい性格だったに違いない。自宅で妻の死体を発見して彼は鬼と化した。彼は文字通り正義を体現した。彼は法そのものと化した。少年は彼にこそ裁かれるべきだった。そして彼に裁かれたのだ。本村以外の誰にこんなことができただろうか。たった一つの武器は言葉であった。彼の言葉はまるで聖典だ。私は彼を法律として採用したい。本書は、元裁判官の井上薫が裁判員制度を前にして、法律制度の矛盾や問題点を指摘した内容である。いささかテクニカルな面に傾きすぎるきらいはあるが読みやすい。裁判員制度入門としてはうってつけだ。

初ゴーヤチャンプルー


 初めてゴーヤチャンプルーを作る。もちろん、クックパッドを参照した。小学校で育てたというゴーヤを数日前にもらったのだ。作り始めてから気づいたのだが、卵を用意するのを失念していた。実は卵アレルギーなのだ。とは言っても、食べることができないのは半熟目玉焼きの黄身だけである。


 数年前の話になるが、野口五郎がテレビ番組で「ある日、突然卵アレルギーになった。以来、身体が卵を受け付けなくなった」と語っていた。私は当時、毎日のようにゆで卵を食べていた。「ったく、野口五郎もだらしがないね」と呟いた。翌日、ゆで卵の黄身を食べた瞬間、頭の中がキーンと痛んだ。あれ、おかしいな? それからというもの、私は黄身を食することが不可能となった。何ということか。情報によるアレルギーの伝染だ。ひょっとすると、五郎を嘲笑った祟(たた)りかもしれぬ。


 結構上手くできた。「隣の奥さんからおすそ分けをもらったよ」とかみさんを騙せるほどの仕上がりだ。もちろん決め手は「ゴーヤチャンプルーの素」である。食べた後で別のページを検索したところ、「木綿豆腐はふきんで絞る」なんて書いてあった。確かに水分はよく切っておいた方がいい。あと、ゴーヤは3〜4ミリが好ましい。私は5ミリくらいにしたので中々火が通らなかった。これなら、豚肉を美味しくいただける。


 チャンプルーは「ごた混ぜ」という意味らしいが、豆腐のプルプル加減とネーミングがマッチしていてグッド。

命懸けの糾弾/『プーチニズム 報道されないロシアの現実』アンナ・ポリトコフスカヤ


 アンナ・ポリトコフスカヤは殺された。自宅アパートのエレベーター内で何者かの手によって蜂の巣にされた(2006年10月7日)。それまでにも彼女は、北オセチア共和国で起こったベスラン学校占拠事件の取材に赴く機中で紅茶に毒を盛られたことがあった。銃口を向けられた瞬間、彼女の口元は引き締まったことだろう。


 一読の価値はある。読みにくい文章は多分、著者と訳者に半分ずつ責任があるのだろう。ポリトコフスカヤは残された時間が限られていることを感じていたのかもしれない。文章は疾走し、時々道からはみ出しながらもスピードを緩めない。怒りの感情は、敵を睨(にら)みつけるあまり、視野が狭くなることもある。表現に多少の問題があったとしても、彼女の正義感は輝いている。


 ウラジーミル・プーチン――初のKGB出身の大統領である。テレビのニュースでその顔を見た時、酷薄な表情に驚いた記憶がある。飢えた狼、あるいは獰猛(どうもう)なのような顔だ。過去に人を殺したか、殺す命令を下したことのある目つきをしていた。


 ロシアは無法地帯と化していた。警察も裁判官も買収され、メディア情報は統制され、軍隊は行き着くところまで腐敗していた。発展する経済を支えているのはニューロシアンだ。彼等はソ連崩壊後の混乱に乗じて資産をものにした新興勢力であり、マフィアでもあった。その一方で貧富の差は極端に拡大した。


 それでもロシアの民はプーチンを支持し続けた。ロシア国民はスターリン時代から何の進歩も遂げていなかった。

 そして、ロシアの軍隊は落ちるところまで落ちた――


 プーチンが実際どのように軍部を支援したのかについて、いくつかの話をしよう。国民の血税でこのような軍隊が維持されている国に住みたいと思うか、それは、あなた自身で考えていただきたい。あなたの息子が18歳になり、「人的資源」として徴集されたとしたら、どう思うか。兵士が群れをなし、時には小隊や中隊単位で毎週のように脱走するような軍隊の実態に満足できるか。2002年の1年間だけで、大隊に匹敵する500人を超す兵士が戦闘ではなく暴行によって死亡した軍隊ならどうだろう。両親から兵士に送られてくる10ルーブル札から、果ては戦車の隊列まるごと将校が盗み取る軍隊なら? 上級将校は下級将校にやりたい放題のことをし、下級将校はその憎しみを兵士に向けている軍隊は? 将校という将校が例外なく兵士の親を憎んでいる軍隊は? そして、この憎しみの理由というのが、将校のひどすぎる行状に息子を殺された母親が憤り、懲罰を求めることも珍しくないからだとしたらどうだろう。


【『プーチニズム 報道されないロシアの現実』アンナ・ポリトコフスカヤ/鍛原多惠子〈かじわら・たえこ〉訳(NHK出版、2005年)】


(※最初のワンセンテンスと後ろの部分がつながっていない。これが本書の特徴である)


 一党支配の大国には、どうしてこれほどモラルが存在しないのだろうか? 中国も同様である。国家としての自浄能力や自制心を完全に欠いている。そして国民はどこまでも忍耐強い。国家の腐敗指数と国民の忍耐力は比例関係にある。


 チェチェン人の少女がロシア将校に強姦された挙げ句に殺害された。こんなことをしでかしても、ロシアでは中々有罪が下らない。罪を問われないのであれば、何だってやるようになるのが当然だ。それ以前から旧ソ連軍は世界に憎悪をばらまいてきた――

 チェチェン人の男は必ず復讐を遂げる――

 アンナ・ポリトコフスカヤの復讐は誰が果たすのか。次に暗殺されるロシアのジャーナリストに期待すべきなのだろうか。それとも、ロシアの民衆が決起するのを待つべきなのだろうか。あるいは、ロシアが滅ぶまで放置すべきなのだろうか。


 ポリトコフスカヤ女史は、権力を批判する自由と引き換えに殺された。であれば、言論の自由に価値があると信ずる者には、彼女の仇を討つ義務があるのだ。

プーチニズム 報道されないロシアの現実

2009-08-17

石原吉郎と寿福寺/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治

 石原吉郎〈いしはら・よしろう〉、鹿野武一〈かの・ぶいち〉、菅季治〈かん・すえはる〉の三人はシベリアの同じ収容所で過ごした時期がある。終戦のどさくさに紛れてソ連は、60万人もの日本人を抑留し奴隷同然に扱った。日本政府はこれを黙認した。


 菅季治は二人に先んじて帰国していたが、徳田要請問題で政治家に利用された挙げ句、中央線の鉄路に身を投げた。シベリア抑留から解放されてわずか5ヶ月後のことだった。


究極のペシミスト”鹿野武一は、勤務先の病院の宿直室で心臓麻痺を起こして死んだ。帰国してから一年半後のこと。石原吉郎は詩人として名を残し、62歳(1977年)まで生きたが晩年は狂気の中を彷徨(さまよ)った。


 不幸と悲劇は一度つかまえた人間を離すことがないのであろうか。シベリアでは目の前に悪が対峙していた。向こう側に存在する悪に自分が犯されないようにすることが彼等の戦いであった。ところが帰国した日本では、そこここに悪が蔓延していた。善と悪に対して鋭く研ぎ澄まされた彼等の感覚は、小さな悪の後ろに広がる巨大な闇を捉えていた。


 夏が終わりを告げそうな今日、石原が足を運んだ鎌倉の寿福寺へ行ってきた。石原と会うために――


 この頃、石原吉郎はよくひとりで鎌倉へ出かけて歩きまわっていた。特に好んだのは、昔の面影が色濃く残る北鎌倉で、なかでもよく訪れたのが、鎌倉五山の中でも最古を誇る寺で、苔むしたやぐら(洞窟)に、北条政子源実朝の墓がある寿福寺だった。

 寿福寺との出会いを、石原は「生きることの重さ」(74年6月、朝日新聞)にこう書いている。


 少し前に、雨の北鎌倉を一日歩きまわったことがある。たまたま立ち寄った寺に、北条政子と源実朝の墓があった。いずれも洞窟の暗がりに凝然と立ちすくんでおり、その荒涼とした気配が気に入ってしばらくたたずんでいたのをおぼえている。

 たぶんその時私が立っていたのは他界への入口のような所であったろう。しばらく生きるために、私はそこを立ち去った


【『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治〈ただ・しげはる〉(社会思想社、1994年/文元社、2004年)※社会思想社版は「シベリヤ」となっている】


 妻の夏休みが今日しかなかったので、海水浴のついでに足を延ばした(吹き出しを消すには地図を左下にドラッグしてから、×印をクリック)。



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 地図を持って行かなかったため、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の左側から建長寺に辿り着き、そこの案内板を見て、長寿寺の手前の道を左に曲がった。入った瞬間、石原もここ(亀ヶ谷坂切通し)を歩いたことだろうと密かに確信した。影の濃い道だった。


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 私の眼が石原の視線を探した。探し回った。そして、やっと目的の場所を見つけた。


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 上が北条政子の墓で、下が源実朝の墓である。実際に足を運べばわかるが、写真からは窺い知ることのできない異様な雰囲気がある。確かに冥界といえる。夏の日差しの中で、そこだけぽっかりと別世界が口を開けていた。大の大人を恐れさせる何かがあった。暗がりや湿度では説明のつかない異質さが佇(たたず)んでいた。


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(※実朝の右隣の墓の内側から撮影)


 石原はここで何を見たのか。沈黙の中で闇を睨(にら)んでいたその時、潮風の向こうから電車の走る音が聴こえた。私は、〈走る留置所〉と呼ばれるストルイピンカを想った。そして、微(かす)かな潮の香りを嗅ぎながら、シベリアの地で望郷の思いを海に託した石原の心に触れたような気がした――


 海が見たい、と私は切実に思った。私には、わたるべき海があった。そして、その海の最初の渚と私を、3000キロにわたる草原(ステップ)と凍土(ツンドラ)がへだてていた。望郷の想いをその渚へ、私は限らざるをえなかった。空ともいえ、風ともいえるものは、そこで絶句するであろう。想念がたどりうるのは、かろうじてその際(きわ)までであった。海をわたるには、なによりも海を見なければならなかったのである。

 すべての距離は、それをこえる時間に換算される。しかし海と私をへだてる距離は、換算を禁じられた距離であった。それが禁じられたとき、海は水滴の集合から、石のような物質へと変貌した。海の変貌には、いうまでもなく私自身の変貌が対応している。


【「望郷と海」(『展望』1971年8月)/『石原吉郎詩文集』(講談社文芸文庫、2005年)】


 源実朝は和歌を嗜(たしな)んだ。詩人の石原も和歌を詠んだ。実朝は甥(おい)の手で殺された。石原は祖国から見捨てられた。


 岩穴の闇を正視する時、石原の心はシベリアに引き戻されたに違いない。そして、生きるためにそこを立ち去った瞬間、今度は闇を背負い込んでしまうのだ。そのまま別の闇に向かって彼は歩き続けた。


 石原の孤独にはブラックホールの如き重量があった。その重みに耐えられなくなった時、精神は狂気へと避難した。石原は独居の浴槽の中で心臓麻痺死した。酷寒のシベリアを生き延びた者に対する神の祝福と思えてならない。

内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史


内なるシベリヤ抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史


(※上が文元社版で、下が社会思想社版)

『百と八つの流れ星』丸山健二(岩波書店、2009年)


千日の瑠璃』(文藝春秋、1992年/文春文庫、1996年)と似て非なるスタイルか? チト、食指が動く。それにしても、岩波書店からの刊行とは驚いた。

百と八つの流れ星〈上〉 百と八つの流れ星〈下〉


 どれほど凡庸な日常、懊悩に満ちた生活、不運に翻弄される生涯であろうとも、人生には闇を走る閃光にも似た煌めきの一瞬が訪れる。突然の啓示、突き上げる衝動、底なしの恍惚、天地との交感、絶望を転覆させる憧憬……。作家生活40年を越え、なおも創作の鉱脈を掘り続ける著者が、戦後から現在までのさまざまな日本を舞台に、老若男女、獣や鳥たちの、命輝く一瞬を百八の物語に凝縮する。書き下ろし短篇百八話を上下2巻に収録。

2009-08-16

野家啓一


 1冊読了。


 99冊目『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』野家啓一〈のえ・けいいち〉(岩波書店、1996年/岩波現代文庫、2005年)/文庫版は副題が削除されている。これは傑作。経典本と言っておこう。2年ほど前から「思想とは物語である」と考えるに至り、それ以来探し求めていたのが本書であったといっても過言ではない。「物語」と「歴史」について、そして科学・文学・宗教との関係性について鋭い考察を加えている。「語る」行為が、「話す」と「書く」の間に位置するという指摘も首肯できる。岡真理著『アラブ、祈りとしての文学』(みすず書房、2008年)を読んだ人は必読である。また、時間論という点からは広井良典著『死生観を問いなおす』(ちくま新書、2001年)との共通点も見られる。各章冒頭のエピグラフが見事なチョイス。引用も多いのだが決して寄り掛かることがない。濃密な文体でありながら、ダレることなく最後まで疾走している。野家啓一が掘り当てた水脈は、大乗仏教の成立を想起させるほど深くに位置している。「大きな物語」が滅び、「小さな物語」のネットワークが新たな歴史を生むならば、ブログをささやかな武器とすることは可能だ。だがその一方で、「物語り」という文化を育むには一定の時間的経過を必要とするゆえ、最終的には地域に密着したコミュニティのあり方を模索すべきだろう。いやあそれにしても、野家啓一恐るべし。

為替の価格変動要因/『矢口新の相場力アップドリル【為替編】』矢口新


 いい本である。値段を除けば。書き手からすれば、異様なまでにコストパフォーマンスが高いことだろう。ってことは、読み手がリスクを背負う羽目となる。誰かの利益は、他の誰かの損失なのだ。これぞ相場道。


 四六判より一回り大きいソフトカバーで、「ドリル」だと? 既に書いた通りで、「説明編」が30ページ、ドリル形式の問題集が100ページほど。問題&メモ欄で1ページを占めているので、正味80ページとなる。読者がメモ欄に書き込むと出版社は本気で考えたのであろうか? そんなことはあり得ない。本のノド(※綴じてある箇所)の部分が傷んでしまう。つまり、分量の足りない原稿で一冊の体裁を繕(つくろ)っただけの話だろう。


 どうも、矢口新はおかしい。有料メールマガジンも発行している。その言い訳が実に胡散臭かった。折からの不況のせいで、大口の顧客を失ったというものだった。しかも、利益を出しているにもかかわらずだ。


 金融マーケットは弱肉強食の世界であり、自分以外の投資家は全て敵である、というのが矢口の教えだった。それがどうだ。「みんなで手をつないで儲けましょう」と、にじり寄っている。きっと、抜き差しならぬ事情があるのだろう。悲しいことだ。


 本書は、為替の価格変動要因について20の問答形式で解説したもの。知っているようで知らないことが多く、そこそこ勉強になった。言わば、風が吹けば桶屋が儲かる理由を示した内容だ。


●日計りの買いはその日の数時間だけ相場を支えているだけなのでいずれは売りがでること

●ヘッジファンドの買いは数日から数カ月相場を支えているが、やはりいずれは売りが出る

(中略)

●輸入(石油会社など)のドル買いには、輸出(自動車産業など)のドル売りでしか対抗できない


【『矢口新の相場力アップドリル【為替編】』矢口新〈やぐち・あらた〉(パンローリング、2004年)】


 ポジションは取った方向に圧力を掛ける。そしてトレンドは、ポジションの保有期間の長さによって決定される。


 これは株式においても同様である。単純に考えてみよう。発行株式数が10株しかない企業があったとする。このうち誰かが3株を取得した。するとマーケットに残っている株式は7株となる。当然、買い圧力が掛かる。つまり値段が上がる。上がった値段の株を他の誰かが2株買う。残った5株は更に上昇する。ま、こんな具合だ。


 上記テキストはポジションの量を無視している。なぜなら、量はトレンドを左右しないからだ。トレンドを支配するのは保有期間、すなわち時間である。


 建てられたポジションは必ず決済される。膨らんだポジションはスクウェア(ゼロ)に向かう。相場は買われ過ぎては売られ、売られ過ぎては買われ、スクウェアを中心に行ったり来たりを繰り返す。


 すなわちここで示されているのは、実需筋の動きがトレンドに大きな影響を及ぼすことである。ま、政府・日銀のドル円介入が最大といっていいでしょうな。だって、売られることないんだから。ちなみに、防衛と称して自国の通貨を売っているのは日本政府だけだ。守られるのは輸出企業だけであって、国民全体の利益にかなうのは、飽くまでも円高であることを銘記しておく。


 徒手空拳でマーケットに挑めば、ケツの毛までむしり取られる。それゆえ、戦略・哲学・論理が不可欠となる。しかし、だ。マーケットを支えているのは熱狂と失望なのだ。買う人が多いから上がる。売る人がいなければ、何段でも値を上げる。このまま無限に上がり続けるのではないか? ――誰もがそう思ったのがバブル景気だった。1989年12月29日の大納会に付けた値段は3万8915円。空前の熱狂の後には「空白の10年」が待ち受けていた。


 買いが買いを呼び、売りが売りを呼ぶ。相場は人気投票だ。その「人の気」を読むところに醍醐味がある。

矢口新の相場力アップドリル 為替編

2009-08-15

「雨降り道玄坂」ふきのとう


 私が中学生の頃によく聴いた曲。北海道のミュージックシーンは独特で、全国区と異なっている。フォークからニューミュージックへと移行する期間でもあり、まだ演歌っぽさが残っている。

D


2000 BEST

意地の悪い引用


 戦後、「利口な奴(やつ)はたんと反省するがいい。俺(おれ)はバカだから反省などしない」と言った高名な文芸評論家がいた。戦時中、古典に沈潜し、「記憶するだけではいけない。思い出さなくてはいけない。でも、心を虚(むな)しくして上手に思い出すことは非常に難しい」と説いた人だ。それこそ反省という営みであるはずなのに、本当は利口なので、いち早く虚心を捨てたらしい。


発信箱:忘れられた追悼式=伊藤智永(外信部)/毎日jp 2009-08-15


 文章はいいのだが、いささか意地が悪い。文芸評論家とは小林秀雄である。セリフが果たして正確といえるだろうか? 「頭のいい人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない」(Wikipedia)、「僕は馬鹿だから反省しない。利口な君達は、好きなだけ反省すればいいんじゃないか」(Street / Fighting / Men)といった表現もある。座談会ということを踏まえると、「俺」という発言は不適切に感じる。新潮社の『小林秀雄全作品』を2冊ほど読んだが、対談では若い頃からの友人である今日出海に対しても「僕」で通している。そういう意味では、悪意が感じられる文章だ。

紙幣とは何か?/『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』河邑厚徳、グループ現代

 我が国における紙幣とは「日本銀行券」のことである。私はこれを小学生の時分にクイズで知った。よもや、こんな妙ちきりんな名前だとは夢にも思わなかった。「券」だと? じゃあ、映画のチケットと変わりがないことになる。しかし、流通の範囲がべらぼうに異なる。ただ、日本全国のお店、会社で取引可能な商品券と考えると腑に落ちる。


「紙幣(しへい)とは、広義には、公的権力(主に国家)により通貨として強制通用することが認められている紙片である」(Wikipedia)――何だ、この素っ気ない言い方は(笑)。まるで、大金持ちの坊っちゃんが「ケッ、こんなモンは所詮紙切れなんだよ」と捨てゼリフを吐いているように聞こえる。


 ミヒャエル・エンデは紙幣の意味を法律家に問い質(ただ)した――


「私は10人の法律家に手紙を書き、法律的見地から銀行券とは何かと尋ねました。それは『法的権利』なのか、国家がそれを保証するのか。もしそうなら『お金』は経済領域に属さず、法的単位ということになります。『法的単位』なら商いの対象にはできません。しかし、そうではなく経済領域に属するものなら、それは商品といえます。10人の法律家からは10通りの返答がきました。つまり、法的に見て、銀行券とは何なのかを私たちはまるで知らないわけです。定義は一度もされませんでした。私たちは、それが何か知らないものを、日夜使っていることになります。だからこそ、『お金』は一人歩きするのです」


【『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』河邑厚徳〈かわむら・あつのり〉、グループ現代(NHK出版、2000年)】


 何ということか。我々は紙幣の意味もわからずに紙幣を使い、紙幣を追い求め、紙幣のためにあくせくと生きていたのだ。もっと混乱させてあげよう。では、紙幣と貨幣はどのように違うのか? 紙幣は日本銀行が発行し、貨幣は国が発行する。で、発行元が異なる理由もわからない。


 疑問はどんどん膨らむ。国立印刷局が紙幣を印刷し、造幣局が貨幣を鋳造すると、どの程度の報酬が支払われているのであろうか? ちなみに、券種を問わず紙幣1枚あたりの印刷代は約16円である(廣宮孝信著『国債を刷れ! 「国の借金は税金で返せ」のウソ彩図社、2009年)。これぞ錬金術(笑)。


 脳がそうした性質を持つことから、われわれがなぜお金を使うことができるかが、なんとなく理解できる。お金は脳の信号によく似たものだからである。お金を媒介にして、本来はまったく無関係なものが交換される。それが不思議でないのは(じつはきわめて不思議だが)、何よりもまず、脳の中にお金の流通に類似した、つまりそれと相似な過程がもともと存在するからであろう。


唯脳論宣言/『唯脳論』養老孟司

 ということは、だ。お金とは「情報」ということに落ち着く。つまり貨幣とは、交換媒介機能、価値尺度機能、価値保蔵機能を併せ持った情報なのだ。永井俊哉氏は貨幣の機能を「コミュニケーションメディアである」としている。


 この情報は、一般的に労働の対価として考えられている。多くの人々がそのように考えることは国家権力にとって甚だ都合がよい。では、目覚めた民衆となるべく二つの疑問を提示して今回は筆を擱(お)こう。


 労働の対価は正当に支払われているのか? 労働以外にお金を獲得する方法はないのか?

エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと (講談社プラスアルファ文庫)

2009-08-14

村上和雄、棚次正和


 1冊読了。


 98冊目『人は何のために「祈る」のか 生命の遺伝子はその声を聴いている』村上和雄、棚次正和〈たなつぐ・まさかず〉(祥伝社、2008年)/村上和雄は分子生物学者で、DNA解明の世界的権威。そんな人物が書いたスピリチュアル系、あるいはサンマーク系ともいうべき作品だ。「祈りは好ましい遺伝子のスイッチをオンにする」という主張が一貫して繰り返される。祈りの道徳本。ま、否定はしないけどさ。でも、そんな簡単なものなのかね? 村上個人にとってのサムシング・グレートが「天理教の親神様」であっても一向に構わないが、祈る対象を不問に付してただ闇雲に祈ればいいというものでもないだろう。結果的に文学作品となってしまっている感を否めない。宗教的感情を論じるのであれば、もっと科学的・歴史的な意図を盛り込むべきだ。

火星で見つかったモノリスは迷子石の可能性、アリゾナ大学が見解


 先月20日、アポロ11号の月面着陸40周年を記念して行われたTVインタビューのなかでバズ・オルドリン宇宙飛行士が火星で人工的に作られたと見られる「モノリス」を発見したと言及したことに関連して、オルドリン宇宙飛行士が言及した火星の衛星画像の管理を行っているアリゾナ大学は、問題の物体は巨礫(きょれき)である可能性が高いとの見解を発表した。

巨礫とは岩石の塊を示す地質学の用語。流水の影響などによって岩塊が平地の真ん中に運ばれることもあり、まるで誰かが意図的にその岩塊を置いたかのように思える事例も地球上では多く見つかっている。特に不自然な場所に位置している岩塊は「迷子石」とも呼ばれている。

地球上で見つかる迷子石のほとんどは氷河期に形成された氷河によって運ばれてきたものと見られている。

 画像ワシントン州ウォータービルにある「イエーガーロック」と呼ばれる迷子石。


テクノバーン 2009-08-13

2009-08-13

貨幣経済が環境を破壊する/『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』河邑厚徳、グループ現代

 お金は不思議な存在だ。お金は本来であれば単なる約束事に過ぎない。ところが等価交換の物差しが、いつしか目的と化してしまっている。「金に物を言わせる」という表現があるように、お金は雄弁だ。そして言葉の如く流通する。


 お金の意味を我々は知っているようで知らない。学校で教わることもなかった。お金に関する何冊かの本を読んできたが、疑問は膨らむ一方だった。しかし、本書を読んで私の蒙(もう)は啓(ひら)かれた。貨幣の欺瞞、信用創造のインチキを本書は十全に暴いている。


 唯一の難点は、ミヒャエル・エンデの言葉にキリスト教的な臭みがあることだ。謙遜が慇懃無礼(いんぎんぶれい)のレベルに達している。ま、死者はいつだって美化されるということか。


 重要な内容を鑑み、何度かに分けて書く予定である。


 まずは、「貨幣経済が環境を破壊する」事実を示す――


「紙幣発行が何をもたらしたのか? 一つの実例が、ビンスヴァンガーの著書に出ています。たしかロシアのバイカル湖だったと思いますが、その湖畔の人々は紙幣がその地方に導入されるまではよい生活を送っていたというのです。日により漁の成果は異なるものの、魚を採り(ママ)自宅や近所の人々の食卓に供していました。毎日売れるだけの量を採っていたのです。それが今日ではバイカル湖の、いわば最後の一匹まで採り尽くされてしまいました。どうしてそうなったかというと、ある日、紙幣が導入されたからです。それといっしょに銀行のローンもやってきて、漁師たちは、むろんローンでもっと大きな船を買い、さらに効果が高い漁法を採用しました。冷凍倉庫が建てられ、採った魚はもっと遠くまで運搬できるようになりました。そのために対岸の漁師たちも競って、さらに大きな船を買い、さらに効果が高い漁法を使い、魚を早く、たくさん採ることに努めたのです。ローンを利子つきで返すためだけでも、そうせざるをえませんでした。そのため、今日では湖に魚がいなくなりました。競争に勝つためには、相手より、より早く、より多く魚を採らなくてはなりません。しかし、湖は誰のものでもありませんから、魚が一匹もいなくなっても、誰も責任を感じません。これは一例に過ぎませんが、近代経済、なかでも貨幣経済が自然資源と調和していないことがわかります」


【『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』河邑厚徳〈かわむら・あつのり〉、グループ現代(NHK出版、2000年)】


 これは、アーロン・ブラウンの主張と全く同じである。

 ブラウンが結論を人間不信に着地させたのに対し、エンデは環境破壊に結びつけている。


 貨幣経済は、将来の価値を先取りするために現在の環境を踏みにじる。人間は未来に生きる動物といえる。そして「未来=蓄え」を意味する時、人は現在を犠牲にする。


 ここで行われていることは「未来を先取りする競争」である。つまり、貯蓄を可能にした貨幣経済は、「未来を奪い合う」社会を招来する結果となる。しかもこの未来は、人類全体のものではない。ということは、「エゴの競争」である。


 エゴイズムは限りなく肥大する。肥大したエゴイズムを地球環境は支えることができない。「自分さえよければ」という生き方が、湖の魚を獲り尽くしてしまった。人間の未来が魚の未来を奪ったのだ。共存の崩壊。


 お金は未来である。とすると、蓄えられたお金は意志を持つようになる。エゴ未来は人間を、畜生道の下の餓鬼道に引き摺り込む。ここにおいて人間は動物以下の存在と化す。


 お金はエゴイズムに火を点ける。お金を持っている人は確かに幸せだ。だが、お金から離れられる人はもっと幸せではなかろうか。


 欲望は否定されるものではなくして、コントロールされるべきものである。「少欲知足の経済」を実現しなければ、地球の寿命は短くなる一方だ。

エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと (講談社プラスアルファ文庫)

『ある神経病者の回想録』ダニエル・パウル・シュレーバー/渡辺哲夫訳(筑摩書房、1990年)


ある神経病者の回想録


 前世紀末の一知識人が書き残した精神病者の内的世界。フロイトが分析し、カネッティが霊感をうけ、ラカンの精神病論の基礎となった古典的ドキュメント。本邦初訳。

ダウド・ハリ、渡辺哲夫


 1冊挫折、1冊読了。


 挫折47『ダルフールの通訳 ジェノサイドの目撃者』ダウド・ハリ/山内あゆ子訳(ランダムハウス講談社、2008年)/スーダンダルフール紛争を私は知らなかった。アフリカ大陸はヨ欧州列強の植民地化によってズタズタにされてきた歴史があるが、これはアラブ系によるアフリカ人虐殺だ。イスラエルの非道ぶりを知ると、私は弱者としてのアラブ側(=パレスチナ)に同情、共感せざるを得ないが、所が変わると我が憎悪はアラブ人に対して向けられることになりそうだ。期待していたのだが50ページで挫ける。文化の違いかもしれないが、ラクダが砂漠を歩き回るように脈絡もなく内容が飛ぶ。この飛躍についてゆけなかった。少年時代の記述も余計である。ソフトカバーで1800円は高すぎる。


 97冊目『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫(筑摩書房、1991年/ちくま学芸文庫、2002年)/これは面白かった。読むにはそこそこの覚悟が必要だ。現実が半音ズレるような感覚に捉われる。著者は真面目で気が弱いタイプと見受けた。6人の重篤な精神分裂病患者が発する言葉を、論理ではなくして情緒で読み解く作業が行われている。渡辺哲夫は最終的に「土着的な言霊信仰」に結びつけているが、宗教的、あるいは哲学的アプローチというよりは、文学的であり歴史的である。社会が拒絶し、隔離された患者を人間的に受け容れようと格闘している。受容という地平の向こう側に、患者達の新しい表情が浮かんでくる。読んでいくうちに、彼等の思考が何となく「失敗した悟り」「神の早過ぎた登場」と思えてくるから不思議だ。しかし渡辺がどんなに頑張ってみせたところで、彼等の世界観が共感を得られることはないだろう。患者等のネオ=ロゴスは下手な実験小説よりもはるかに強烈だ。

2009-08-12

レオナルド・ダ・ヴィンチ

 悲しいかな、レオナルド(※ダ・ヴィンチ)は生きているうちに、いずれの発見も出版したことはなかったが、手稿にして1万3000ページ(のちに写本にまとめられた)もの記述をなし、その3分の1弱が現在まで生き残った。もしも本として出版していれば、「現代の科学技術の水準は100年、もしくは200年も早く到達されていたかもしれない」とアータレイは述べている。


【『黒体と量子猫』ジェニファー・ウーレット/尾之上俊彦、飯泉恵美子、福田実訳(ハヤカワ文庫、2007年)】

黒体と量子猫〈1〉ワンダフルな物理史 古典篇 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ) 黒体と量子猫〈2〉ワンダフルな物理史 現代篇 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

「離したくはない」T-BOLAN、Gackt、素人


 何と、素人のオジサンが一番上手い(笑)。本当に素人なのか? それにしても、CDが1000円とは驚きだ。


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BEST OF BEST 1000 T-BOLAN

2009-08-11

獄中の極意/『アメリカ重犯罪刑務所 麻薬王になった日本人の獄中記』丸山隆三


 丸山隆三は派手なカーチェイスの末に逮捕された。アメリカでのこと。バブル前夜ともいうべき時期に、彼は外車の並行輸入を手掛けて、これが当たった。懐が温かくなると悪い友達が群がるようになる。そして転落の人生が幕を開けた。麻薬売買の仲介者(フィクサー)となったのだ。


 本業で儲けている上に、仲介手数料はうなぎ上りに入ってくる。一時期は年収が10億円を超えていたというのだから凄い。しかもアングラマネーだから銀行へ預けるわけにいかない。当然の如く湯水のように使うこととなる――


 このころは、毎日稼いで毎日使っていた。稼いだ以上に使って、使った以上に稼いだ。

(なんだか、馬鹿な競争をしているみたいだな……)


【『アメリカ重犯罪刑務所 麻薬王になった日本人の獄中記』丸山隆三〈まるやま・たかみ〉(二見書房、2003年/ルー出版、1998年『ホテルカリフォルニア 重犯罪刑務所』を加筆訂正)以下同】


 中々書ける文章ではない。使いっぷりも凄まじい内容である。アメリカでは1ドル紙幣をたくさん持っていると「ヤクの売人」だと思われるため、丸山は1ドル紙幣を嫌った。ある時、貯まりに貯まった1ドル紙幣をバッグに詰めて、海辺で燃やした。そんなエピソードまで紹介されている。


 丸山は、幾度となくクスリに汚染されたアメリカを糾弾している――


 拘置所では、7〜8割の人間が麻薬の虜になっていた。麻薬中毒者は確かに人間のクズかも知れないが、塀の中で、半ば公然と麻薬を売っているのは公務員たるシェリフたちなのだ。これでは、どちらが人間のクズかわかったもんじゃない。


 そんなアメリカの刑務所で丸山は「ゴッド・ファーザー」と渾名(あだな)されるまでに上り詰める。この本は獄中体験記なんだが、秀逸なビジネス書のような趣がある。結果的に、「異なる文化の中で、どのように自分をプレゼンテーションするか」というモチーフになっているのだ。


 丸山がいた刑務所はレベル4で、最も厳重な態勢が布かれている。ここは、看守が警告なしで銃を撃っても構わない場所だ。実際、いたずら半分で射殺される囚人もいるとのこと。そして、塀の中にいるのは命知らずの面々だ。


 まずはルールを覚える必要がある。これを破ると殺される危険性が直ぐ現実のものとなる。次に刑務所内の力関係を知る。そして、利用できる人や物は全て利用する。更にそこから人脈を拡大してゆく。


 例えばこんな話が書かれている。「煙草を一本貸して欲しい」と一人の男が寄ってくる。「一本ぐらい……」と思って返してもらわないでいると、今度は別の男が寄ってきて「俺にも一本貸してくれ」となる。これが、あっと言う間に広がるというのだ。そこで渋ると、直ちに制裁が加えられる。「あいつに貸して、なぜ俺には貸せないのか」と。紹介されている人物は案の定、カモにされ続け、挙げ句の果てに袋叩きにされている。


 犯罪者は身体能力が秀でている。これは運動神経がいいという次元のことではなく、彼等が身体を張って生きていることに起因していると思う。犯罪者は常に現場で学んでいる。不測の事態が起こりやすい現場に身を置くと、勘が研ぎ澄まされてくる。彼等には独特の身のこなし方がある。


 人間は塀の外で自由に暮らしているときには、自分のことをふり返ってみないし、わかろうとしない。自分の中にもうひとりの自分がいて酷使されていたり、粗末にされていても気がつかない。刑務所は周りから完全に遮断されているからそれがわかる。ひとりになると、自分の中の魂と対話するしかない。簡単にいうと、自分を助けてやることができるのは自分しかいないのだ。とことんまでつきつめて考えると人は変わる。俺は変わった。


 丸山を救ったのは一人の女性であった。出会った頃、彼女はウェイトレスだった。歌が好きだった。丸山は金に物を言わせて大物プロデューサーに曲を作らせた。彼女はプロデビューを成し遂げた。丸山はこの女性を妹のように大事にした。男女の関係はなかった。この女性というのが歌手のマリーンである。


 マリーンの存在は、名画に描かれる美少女の如く綴られている。丸山のささくれだった人生に人間の温もりを与えたは、心清らかなウェイトレスだった。


【※本書を知ったのは、村西とおる監督のブログ記事「人間関係の方程式 P=R+A」を読んでのこと】

アメリカ重犯罪刑務所―麻薬王になった日本人の獄中記 ホテルカリフォルニア 重犯罪刑務所

渡辺一史


 1冊読了。


 96冊目『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史〈わたなべ・かずふみ〉(北海道新聞社、2003年)/快作。まさか、「三角山」が出てくる書籍に巡り合うとは思わなかった。私は幼児期をこの地域で過ごした。現在の実家も同じ区内にある。主役の鹿野靖明は、人工呼吸器を装着し、日常的に痰の吸引を必要とする筋ジストロフィー患者である。重度の身体障害者だ。鹿野はまだ介護保険も整っていない時代に、「独り暮らし」を決意。直ちに実行する。だが彼は一人では生きてゆけない。そこで数十人のボランティアを募る。そして鹿野は、「おとなしい障害者」ではなかった。彼は暴君であり、教育者であり、鼻持ちならない病人であり、痰吸引を普及させる伝道師であった。450ページ余りあるが一気読み。とにかく文章がいい。ボランティアの高橋雅之が撮影した写真も秀逸。

2009-08-10

田中森一


 1冊読了。


 95冊目『反転 闇社会の守護神と呼ばれて』田中森一〈たなか・もりかず〉(幻冬舎、2007年/幻冬舎アウトロー文庫、2008年)/一昨日、読了。これは面白かった。数多くの大事件を手掛けてきた鬼検事が、検察庁の恣意的な捜査に異議を唱えて退職する。その後、弁護士に転身。大企業から暴力団に至るクライアントを抱えて大儲け。そして、石橋産業事件で逮捕される。バブルの熱狂が伝わってくる。宮崎学の『突破者』や、佐藤優の『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』に匹敵する内容だ。

『誓い チェチェンの戦火を生きたひとりの医師の物語』ハッサン・バイエフ(アスペクト、2004年)


誓い チェチェンの戦火を生きたひとりの医師の物語


 本書は、チェチェンに生まれ育ち、戦火の中で自らの命を危険にさらして、すべての傷ついた人々を治療し続けた医師の自伝である。世界で最も過酷な戦乱の中にあるチェチェンで、人間の尊厳のために命を賭けた著者の勇気(その功績に、米人権擁護団体H・R・Wは、「ヒューマンライツ・ウォッチ賞」を授与)は、読む者の魂を揺さぶらずにはおかない。


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2009-08-09

多党制と連立政権/『政治を考える指標』辻清明


 25年以上前に読んだ本である。意外とすんなり読み終えたことに驚いた記憶がある。初版は1960年だから、私が生まれる前のこと。


 自由民主党は1955年の結党以来、38年の長きにわたって一党支配を維持してきた。高度経済成長(1955-1973年)を経てバブル景気(1986-1991年)に至るまでは安泰だった。ところが、バブルが弾けて、国民が生活の中で景気悪化を実感するようになった1993年に潮目が変わる。


 1993年6月18日、羽田派の衆院議員が宮沢改造内閣不信任案に賛成し、可決される。6月23日、羽田派は自民党を離党し新生党を結成。8月9日には非自民・非共産8党派による細川護煕内閣発足した。


 1994年6月30日、野に下った自民党が奇策を仕掛ける。社会党の村山富一委員長を首班指名したのだ。これによって自民党は与党に返り咲く(自民、社会、さきがけ政権)。同年12月には新進党が結成されたが、1996年の衆院選で敗北を喫し、1997年12月に解散した。


 1998年、自民党は社会党、さきがけとの連立を解消。その後、1999年に自由党、公明党との連立政権となった。2000年、自由党が離脱。自由党から分裂した保守党を吸収し、自公政権が現在まで続いている。


 われわれは、むしろ、多党制と連立政権の方式をとることによって、政策の弾力性が発揮される長所を、もっと評価しなければならないと思う。異なった諸政党が、自党の基本綱領を将来のために維持しながら、現在の時点では最大限に可能な範囲で相互の主張を調整し、その時々における国民意思の最大公約数を盛りこんだ政策を形成してゆくことが、この方式の下では可能であり、同時に、この方式によって、多党間の利益を調整する政治技術が発達する。そこから生ずる政党間の取り引きや術策は、かならずしも常に非難の対象になるものではなく、むしろこうした技術は、それが腐敗臭を生まぬかぎり、あらゆる議会政治に固有の要件でもある。


【『政治を考える指標』辻清明(岩波新書、1960年)】


 本書を読んだ時、「連立なんて夢のまた夢だ」と思っていた。まして、政権交代が起こる可能性は皆無であった。


 細川政権が誕生した時の興奮は今尚記憶に新しい。新進党は本当にもったいないことをした。本格的な二大政党制が始まることを、皆が信じて疑わなかった。野党となった自民は、なりふり構わぬ攻撃に徹した。きっと官僚の抵抗もあったことだろう。


 私の基本的なスタンスを示しておこう。まず、政党政治に反対の立場である。しかし、反対したところでどうしようもない。次に、小選挙区制にも反対だ。これは死票が多すぎるため。そして、供託金を廃止し、選挙運動の戸別訪問を認める。ま、こんなところだ。


 確かに、自民の一党支配よりは公明との連立の方が望ましい。だが、公明党はブレーキなんだか、下駄の雪なんだかがわかりにくい。


 衆院選挙が今月行われるわけだが、不況下で与党が勝利することは考えにくい。しかし、民主党が勝ったところでバラ色の未来が待っているわけではあるまい。消費税アップや憲法改正といった大きなテーマが待ち受けている。


 選挙というものは、勝てば官軍負ければ賊軍である。野党が有効に機能したという歴史も見受けられない。そこで私は提案したい。「超大連立」を。全部、与党になるのだ。時代遅れのプロパガンダ政党である共産党も含めて。日本の政治における野党にさしたる意味はないのだから、みんなで与党になればよい。その方が駆け引きもスムーズに行えるだろう。これなら、憲法改正も簡単だ。


 その上で政党を解消し、緩やかな派閥とする。更に、派閥間の移動を自由にする。こうなると、政党政治の枠組はなくなり、政治は政治家個人に取り戻される。選挙民は、政治家がどの法案に賛成し、どの法案に反対したかで判断すればよい。そして、「マイナス投票」を認める。


 たったこれだけのことで、民意は反映できる。ってことは今の政治状況は、「民意を反映したくない」ってことになりますな。

政治を考える指標

盗人


「そのとおり」三上がうなずいた。「まったくそのとおりだ。人はみな多かれ少なかれ、盗人であり詐欺師だ」


【『名残り火 てのひらの闇II』藤原伊織文藝春秋、2007年)】

名残り火―てのひらの闇〈2〉 (文春文庫)

「83日間 被曝治療の記録 東海村臨界事故」


 里奈子ちゃんから教えてもらった。事故の詳細については、恩田勝亘〈おんだ・かつのぶ〉著『東京電力 暗黒の帝国』(七つ森書館、2007年)でも紹介されている。


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2009-08-08

最高裁は酒井法子主演、故・原田昌樹監督の裁判員制度広報用映画『審理』の配信及び公共施設での貸し出し、および上映活動の中止を決定した


「恥ずかしくない生き方したい」=裁判員広報映画に主演−酒井容疑者


「恥ずかしくない生き方をしたい」。女優酒井法子容疑者(38)が8日夜、逃走劇の末に逮捕された。最高裁が制作した裁判員制度の広報用映画「審理」の主役や、日中親善大使を務めたほか、薬物乱用防止イベントに参加するなど公的な活動にも取り組んでいた。

 映画の題材は正当防衛が争われた殺人事件の裁判で、酒井容疑者は裁判員に選ばれた主婦を好演。「裁判員は生き方まで問われている気がする。自分も恥ずかしくない生き方をしないと」。映画の中で、同容疑者はそう語っていた。

 試写会後の記者会見では「選ばれたら何とか参加したい」と裁判員に意欲を示した。

 最高裁は約7100万円をかけて約19万枚のDVDを製作し、制度の周知などに活用していたが、広報への利用を自粛。ホームページでの無料配信も停止した。

 アジアでの絶大な知名度を背景に、日中国交正常化35周年を迎えた2007年には日中親善大使を務めた。首相官邸安倍晋三首相(当時)を表敬訪問したほか、記念イベントでは、中国の国会議事堂にあたる人民大会堂で約7000人を前に熱唱した。

 外国人観光客誘致のために中国や香港、韓国で放映されたテレビコマーシャルに「日本の顔」として起用されたこともあった。

 1993年には、千葉県市川市で開催された厚労省などが所管する民間団体「麻薬・覚せい剤乱用防止センター」のイベントに、ゲストの1人として出席。トークショーなどの後、同容疑者のコンサートが1時間にわたり行われた。最後には撲滅運動のキャンペーンソングを参加者約1700人と合唱したという。


【時事通信 2009-08-08】


「『審理』公開停止への疑問」切通理作


 私は批評家、ノンフィクションライターをしております。


 最高裁は酒井法子主演、故・原田昌樹監督の裁判員制度広報用映画『審理』の配信及び公共施設での貸し出し、および上映活動の中止を決定したというニュースを知りました。


 私はただいま、ライターとして原田監督の遺された言葉を集め、関係者の証言をいただいた本を作っております。

 

 その過程で、原田監督の遺作である『審理』は癌で余命を宣告されていた中で、命を刻むようにして作っていった作品であることを知りました。毎日撮影が終わると、監督は自宅で倒れていたといいます。それでも、撮影現場の誰一人重い病気だと気づかなかったぐらい、気力を限界まで振り絞って作られたのです。


 出来上がりは壮絶さのかけらも見せず、裁判を描いて、ここまで心がやわらかくなる映画が他にあっただろうかというようなテイストで、酒井法子演じるごく普通の主婦の視点で、裁判員制度に臨む人たちに、人が人を裁くのではなく、罪を裁くのだということをわかりやすく説いていました。

 

 原田監督が生きているときにはまだ行われていなかった裁判員制度における法廷、つまり「未来法廷」。そこを描くということは、監督からいまの時代に放たれたメッセージ。


 それが、こんな形で「封印」されてしまうなんて。


 裁判員制度の第一回法廷が開かれた直後という、ある意味一番タイムリーな時期に、こんな「未来」が待っていたなんて。


 酒井法子さんは原田組最後の主演女優でした。


 覚せい剤の有罪性について論議があるのは知っています。でも、もし容疑が本当なら、酒井さんには、こういう影響がある立場の仕事なのだということに、もっと自覚を持ってもらいたかった。少なくとも、そういう信頼があっての上でのキャスティングだったと私は聞いています。


 でもその前に、容疑の段階でのこの措置は、公平な裁判について描く広報映画への措置として、他ならぬ最高裁が、性急に下していい判断だったのでしょうか。


 そのことを、疑問に思います。


 また、作品そのものと出演した役者、制作に携わったスタッフの私生活とは区別して考えるべきではないでしょうか。


 そしてこの作品を、最高裁が制作した作品として、歴史から消してしまうようなことに、もしなったとしたら、とても悲しいことです。今回の公開中止はあくまで一時的な措置であることを祈ります。


切通理作 中央線通信

日本は「最悪の借金を持つ国」であり、「世界で一番の大金持ちの国」/『国債を刷れ! 「国の借金は税金で返せ」のウソ』廣宮孝信


 これは勉強になった。しかも、わかりやすい。ネット情報が多いのが気になった程度だ。著作における引用文献は、やはり書籍からにした方が紙価を高からしめる。


 不況対策は大雑把にいえば三つしかない。公共事業、利下げ、そしてバラマキである。利下げは資金需要が高ければ効果はあるものの、銀行が貸し出し基準を緩めなければ意味がない。公共事業とバラマキは何をどうやったところで批判を浴びる。結局のところ、糞づまりだ。進むも地獄、退くも地獄、止まっていても地獄……。


 大体、国家予算が富の再分配を目的としていれば二極化が進むはずがない。つまり、徴収・簒奪(さんだつ)された税金は勝ち組に流れていることになる。


「国債の30兆円枠」は小泉政権が掲げた公約であった。2002年度の予算が既にオーバーした際、「首相としては、もっと大きなことを考えなければならない。大きな問題を処理するにはこの程度の約束を守れなかったのは大したことではない」と開き直って見せた姿は今でも記憶に新しい。


 今尚、国債の30兆円枠に固執する与党の政治家は多いが、こんな連中が言うことを鵜呑みにしてはならない。そもそも、これは一般会計の話である。30兆円枠などと健全な姿勢を見せながら、もっと不透明な特別会計を不問に付そうとする目的があるに違いない。


 余談が過ぎた。本書が明かしているのは、マスコミの経済記事の欺瞞ぶりと、国家と会社は違うんだよ、ってな話だ。


 まず、日本の借金について多くの人々は甚だしい誤解をしている。

 初めて見た時は私も驚嘆した。特に「あなたの家庭の負債額」である。しかしながら、これは完全な大嘘。まず、日本の借金=私の負債額ではない。ちょっと考えてみればわかることだ。国家は誰から借金しているのか? 国民である。つまり、借金時計の正しい表示は「あなたの家庭の貸付額」となるのだ。そして二つ目の嘘は、国家の資産がここには計上されていない。部分的な情報をもって危機感を煽る典型的な事例といってよい。実は「日本は17年連続世界最大の債権国」なのだよ。


 そして、マクロ経済から見た場合に国の借金はいかなる意味を持つのか? 「民間企業の黒字」に決まっている。こんな基本的な事実すらマスコミは報じていない。世界経済を支えているのはアメリカの貿易赤字である。アメリカが黒字になれば世界が赤字となり、国家が黒字になれば民間が赤字となる。


 政府の借金(負債)は確かに大きい。しかし、政府の資産も巨額である。

 そして、借金というものを考えるときには、「誰かの借金は必ず誰かの資産」という原理原則を忘れてはならない。政府の借金のほとんどは民間の資産である。


【『国債を刷れ! 「国の借金は税金で返せ」のウソ』廣宮孝信〈ひろみや・たかのぶ〉(彩図社、2009年)以下同】


 世界全体で「連結」してしまえば、全ての資産と全ての負債は一致するはずである。つまり純資産(=資産から負債を差引いた残額)は全世界で合計すればゼロとなる。


 一方、日本経済全体を俯瞰するとどうか――


 非金融法人企業の金融純負債はピーク時には700兆円近くに達しているのだが、こんなことになってもマスコミは「普通の家庭に例えれば破産寸前」などと騒ぎ立てたりすることはない。

 最新(2008年3月)の政府の金融純負債はいまだ450兆円程度である。しかも、民間の純資産の伸びが政府の純負債の伸びを上回っているし、国全体で連結すれば世界最大かつ過去最高の対外純資産250兆円(資金循環統計では282兆円)があるのだ。

 本来ならマスコミ各社は「普通の家庭に例えれば、日本はビル・ゲイツやウォーレン・バフェット並みの億万長者」とでもいって騒ぎ立てるべきなのである。


 では何が問題なのか――


 問題は国の借金が大きいことではない。

 GDPが伸びないこと、資産効率が落ちていることが問題なのだ。


 サブプライムローン問題が発覚するまで、世界の先進国はバブルに沸いていた。その中にあって日本は「空白の10年」を経て、やっとこれからという時期だった。これほどの貧乏くじはない。


 世界各国を見ても借金は一貫して増えている。日本だけが特別な財務状況となっているわけではない。では、どうすればGDPを伸ばすことができるのか――


 ちなみに、詳しい計算過程は〔図表35〕に示すとおりで、数学的には「無限等比級数の和」の公式から求められる。

 つまり、政府が100万円支出を増やせば、GDPが233万円増えるということになるのだ。このような効果を「乗数効果」という。

 政府の支出は、それ以上のGDPを生み出す。政府が支出を増やせば、GDPはそれ以上に増える。これが、アメリカのGDPが借金以上に伸びていることの原理である。


 これが答えである。政府支出を増やすことで、民間企業に活力を与えれば当然のごとく税収は増える。政府与党の無策ぶりを見ていると、意図的に不況を維持しているようにすら感じてしまう。


 空白の10年のツケは大きい。終身雇用がことごとく破壊され、将来不安を招いてしまった。未来に不安を抱えたままで消費が上向きになることは考えにくい。とすると、「いつでも安心して転職できる」社会基盤が求められる。


 最後にもう一つ。資本主義経済の本質は、効率ではなく無駄(=余剰)にあると私は考える。景気対策には無駄づかいが一番。

国債を刷れ! 新装版-これがアベノミクスの核心だ-

2009-08-07

岩井克人


 1冊挫折。


 挫折46『貨幣論』岩井克人〈いわい・かつひと〉(筑摩書房、1993年/ちくま学芸文庫、1998年)/チト難し過ぎた。40ページほどで挫ける。いつの日か再挑戦する予定。

火星に人類以外による人工物、アポロ11号の宇宙飛行士がTVで暴露


 火星の大地に「2001年宇宙の旅」に出てくる「モノリス(石版)」のような物体が見つかっていたことが6日までに、アポロ11号で月面着陸を果たした著名なバズ・オルドリン宇宙飛行士による発言によって明らかとなった。

 アポロ11号月面着陸40周年を記念して行われたTVインタビューの際にオルドリン宇宙飛行士が明らかにしたもので、番組の中で宇宙開発の重要性を指摘し、これまで公表されていなかった事実として火星の衛星「フォボス」と火星に明らかに人工的な造形物が発見されていたことを暴露。その上で、これらの正体を探る上でも火星探査の実施は欠かせないと述べた。

 オルドリン宇宙飛行士が指摘した人工物のような物体の存在とは、NASAの火星探査衛星「マーズ・リコナサンス・オービター(MRO)」が撮影した映像に含まれているもの。

 画像ファイルは全体で20047x44999ピクセルもある巨大なものとなるが、その内、問題の人工物らしきものは10x20ピクセル程の大きさしかなく、 MROは同じような映像を何千枚も撮影していることもあり、これまで、この人工物らしきものの存在は明らかにはなってこなかったものとなる。

 オルドリン宇宙飛行士はこの人工物らしきものの発見経緯などの詳細は明らかにはしなかったものの、現在に至るまでNASAの有人宇宙計画に強い影響力を持つオルドリン宇宙飛行士の「人工物」発言は、その突飛な内容とも相まって専門家の間でも波紋を呼んでいる。


テクノバーン 2009-08-07】→画像

『日本問題外論 いかにして私はデジタル中年になったか』小田嶋隆


日本問題外論―いかにして私はデジタル中年になったか


 現代っ子の老化、インター熱湯の極楽、国際電脳ちゃんこ鍋試案、シリコンバレーのブルース、テレビの国から、バンカー地獄など、電脳界の鬼才・オダジマが送る日本列島ななめ斬りの最新エッセイ集。

宗門人別帳、寺請証文、戸籍台帳


 宗門人別帳の記載形式が全国的に統一されるのは、寛文11年(1671)10月「宗門改之儀ニ付御代官江達」という法令が出されてからである。これでは、一人ずつに宗派・生国・年齢・名前・続柄・檀那寺名が書き上げられ、家ごとにまとめ、巻末に寺名と台帳が村単位で統一的に作成されることになったわけである。この頃になると、寺請証文作成の段階におけるキリシタン摘発業務という、追いつめられた檀家と寺の関係から、むしろ村の戸籍台帳の手続として寺が介在するというきわめて形式的な方向に変ってきた。そのことは、宗門人別帳作成の責任者が村役人に移ったことによっても裏付けることができる。


【『庶民信仰の幻想』圭室文雄〈たまむら・ふみお〉、宮田登(毎日新聞社、1977年)】

庶民信仰の幻想

「日本病」の正体 石井紘基の見た風景


 石井紘基が遺した資料や情報を民主党は無視した。ゴミ同然に扱ったといってよい。「真相究明」を本気で行えば殺される羽目になることを石井は証明した。右翼の役どころもよく理解できよう。日本は国家の態(てい)を成していない。アメリカの下部組織、あるいは孫請けといった位置に甘んじている。それにしても、石井の死が惜しまれる。


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2009-08-06

東京電力の暗部/『東京電力 暗黒の帝国』恩田勝亘

 本日より、カテゴリーを変更することにした。理由は、記事が多過ぎて自分でもワケがわからなくなってきたためだ。どんな本を読んで、何を書いたかすら思い出せなくなりつつある。ま、四十半ばを過ぎれば認知レベルが上がることは考えにくいので、転ばぬ先の杖ってやつだ。


 私は仕事柄(古本屋は副業である)、東京電力へ行く機会が多い。窓口やカスタマーを除けば、確かに有能な人間は多い。だが所詮はサラリーマンである。与えられた仕事をそつなくこなし、首までどっぷりと官僚主義に浸(つ)かっているようなタイプが殆どだ。彼等は「業務の目的を疑う」ことを知らない。ほぼ独占状態という業態では尚更だ。


 そうしたことを踏まえると、あまりにも東電を糾弾する本が少ない。少な過ぎると言ってよい。きっと怖いのだろう。出版業界は様々な企業と取引があり、新聞や雑誌におけるスポンサーを軽々しく扱う真似はできない。資本主義経済とは、スポンサーシップを競うレースなのだ。だから、最大のスポンサーである国家には皆が群がる。血税はばらまかれた瞬間に甘い蜜と化すのだ。もちろん、国家に逆らおうとする人間はいなくなる。


 まず、その事業規模の大きさ、広さを表しているのが連結子会社だ。不動産管理や電気通信事業とその保守管理はもとより、船会社から放送、電話、人材派遣、果ては介護事業まで手がけていて、その数は145社に上る。(※2006年現在)


【『東京電力 暗黒の帝国』恩田勝亘〈おんだ・かつのぶ〉(七つ森書館、2007年)以下同】


 さらに独占事業ゆえに本来なら広告宣伝費を必要としないはずだが、日経データベースで調べると10年前の243億円が、2007年3月期は286億円とさらに増えている。

 不可解なのが「拡販費」「その他販売費」なるものが、宣伝広告費と別にほぼ同額が毎年(約240億円)支出されている。本来は電力供給エリアを他電力会社と争っているわけでもなければ、新聞販売店並みに「拡財」を使って契約を取る必要もないだけに不思議な話である。


 子会社が100社以上あることは知っていたが、145社とはね。ここから仕事をもらっている企業となると、数百社、数千社に及ぶことだろう。代表的なのは、関東電気保安協会や関電工などだ。もちろんトップエリート達の天下り先となっている。


 資本主義における広告は、共産主義におけるプロパガンダと意味は同じである。体制への迎合ってやつだ。大企業へと飛躍するための通過儀礼とも考えられる。「いらっしゃいませ、ようこそ経団連へ」ってな具合だ。この国の産業を牛耳っているのは、テレビのゴールデンタイムにCMを流している企業や、三大紙の一面に惜しげもなく広告を打っているような会社に決まっている。ビッグ・ブラザーの手先だ。


 本書の前半は、2007年に起こった新潟県中越沖地震による柏崎刈羽原子力発電所での事故に費やされている。東京電力の隠蔽(いんぺい)体質を、過去の事故からも検証している。それにしても、おかしくないか。なぜ、東電の原発が地方にあるんだ? それは――危険だからです。通常だと、墓や宗教施設、ゴミ処理場や化学プラントを建てるといっただけで住民の反対運動が起こるものだ。しかし、原発用地に指定された市町村は歓迎している雰囲気すら見受けられる。結局は金だ。経済的に疲弊した地域に白羽の矢を立て、「ま、安全だからさ。大丈夫だよ、多分……」と言いくるめられているのだろう。


 原子力発電は、ウランやプルトニウムが核分裂する際の熱を利用して水を沸騰させ、その蒸気でタービンを回すことで発電している。神は細部に宿る。つまり、原子核に宿った神の怒りが、とてつもない爆発力と途方もない放射能を発しているのだ。ウラン235半減期は8億年だってさ。


 原子力発電所が建設された地域はどうなるか――


(※福島県)浜通りでは70年代から通称“TCIA”(東電CIA)が暗躍。原発反対派の集会では車のナンバーを調べ、選挙では反対派候補の家や事務所に出入りする住民のをチェックする。原発批判、とくに東電絡みの記事が載った週刊誌、雑誌は町の書店では買えない。TCIAが買い占めてしまうからだ。その結果、86年のチェルノブイリ事故について、当時の中学校教師が生徒たちに聞くと、知っていたのはクラスで3〜4人しかいないという驚くべき状況になっていた。職場はもとより、家庭内ですら、原発イコール東電となって話題にするのもはばかられるのだ。

 それは柏崎市や刈羽村でも同じだ。


 チェルノブイリ事故を知らない、というのは大袈裟な話だろう。ペンが滑ったに違いない。テレビを観ていれば少なからず情報は入ってきたはずだ。肝心なことは、東電が社員に工作員の真似をさせている事実だ。これは巨大企業による暴力の変種というべきだ。田舎(※差別用語)の人の好いオジサン、オバサン達は、放射能汚染よりも直接的なプレッシャーを恐れてしまうのだ。逆に考えると、東電には「そこまでしなければならない」何らかの理由が存在することになる。「東京や関東で事故が起これば一気に広まってしまうだろ? その点、お前らは金でどうにかなるし、口も堅い……」ってところだろうよ。


 敵に対して厳しい組織は、味方には甘くなる――


 それでいて労使一体、身内には優しいのが東電。福利厚生施設も充実している。たとえば東京・港区の8階建てオフィスビルの6〜8階は小洒落た和食料理店、気楽な居酒屋、しっとり落ち着いた雰囲気のサロンがそれぞれのフロアで営業している。いずれも会員制で一般の客は入れない。すべて東電および関連会社の社員やその連れのための店である。もちろんタダではないが、同じレベルの一般の店より2〜3割は安い印象だ。経営しているのは100パーセント子会社の東京リビングサービスだ。


 子供ができたら、東電に入れよう(笑)。恩恵の力が社員を結束させる。株式会社は利益という運命の共同体だ。自分達だけが得をすればいい。東京にいる限り、放射能に汚染されることはない。


 恩田勝亘はあとがきで「物足りなさを感じられる読者も少なくないと思うが」とわざわざ書いている。多分書けなかったことも多かったことと想像する。東電に関する問題のアウトラインをなぞっただけの印象が強い。それでも尚、この国の仕組みについて貴重な情報が記されている。


 競争のない地域独占と発送電一体こそ日本の電力業界の命である。それによって各社それぞれが、地域の産業界トップに君臨。政治家には政治献金で、多くの子会社、関連会社、業界で組織する各種団体は自社OBはもとより、多数の経産省OBの受け皿になっているのだ。政財界のこのトライアングルも発送電一体だからこそ維持されるシステム。欧米諸国のように発電、送電、小売り、とそれぞれ専業化されたうえに競争を強いられたら「鉄のトライアングル」も吹き飛んでしまう。


 これこそ東電最大の問題だ。電力会社は自由化されたものの、託送コストが高いため次々と撤退していった。もう半分も残っていない。電力業界というのはとにかく嘘が多い。自然エネルギーが見直されているが、大体、太陽光パネルを作るエネルギーを、太陽光発電10年分で賄えるのだろうか? 「バイオエタノールカーボンニュートラル」ってのもインチキだ。蒸留する段階で石油を燃やしているのだから。「やがて水素の時代が来る」ってのも欺瞞に過ぎない。自然界の純粋な水素は存在しないため、水素を抽出する際にも必ず石油燃料が必要となるのだ。


 これを解決するには「電池」である。電気は貯めることができないのだ。試行錯誤が繰返されているが、まだまだ各家庭での実用段階には遠く及ばない。


 でも、やっぱり「電気を使わない生活」にシフトすべきなんだろうな。よし、これからは太陽と共に生きることにしよう。

東京電力・帝国の暗黒

2009-08-05

「save your dream」華原朋美


 華原朋美はさほど好きではなかったが、この曲だけはハマった記憶がある。突き抜けた上声(※女声の場合「裏声」とは言わない、と山下達郎が言ってた)が素晴らしい。


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Super Best Singles~10th Anniversary

米国人の6割「原爆投下は正しかった」、米世論調査


 米キニピアック大学(Quinnipiac University)が4日に発表した世論調査によると、米国人の約3分の2が、第2次世界大戦中の64年前、米国が広島と長崎に原爆を投下したことは正しかったと考えていることが明らかになった。

 この世論調査によると、当時のハリー・トルーマン(Harry Truman)米大統領が原爆投下を命じたことは間違いだったと回答したのは、回答者のわずか22%だった。

 米国は1945年8月6日に広島に原爆を投下し、14万人以上が死亡した。同9日には長崎にも投下され、7万人が犠牲になった。

 世論調査によると、原爆投下を支持する意見は年齢が上がるにつれ顕著に増加しており、55歳以上の回答者では4分の3近くが支持している。一方、18-34歳では50%、35-54歳では60%にとどまった。

 キニピアック大学のピーター・ブラウン(Peter Brown)氏は、「第2次大戦の恐ろしさが記憶に残っている回答者は、圧倒的にトルーマン大統領の決断を支持している。その一方で、冷戦時代の核の恐怖の下で育った世代以下の回答者では支持する意見は少なくなっている」と指摘した。

 今回の世論調査は、全米の2409人を対象に7月27日から今月3日までの期間に行われた。誤差はプラスマイナス2%。


AFP 2009-08-05

矢口新


 1冊読了。


 94冊目『矢口新の相場力アップドリル【為替編】矢口新〈やぐち・あらた〉(パンローリング、2004年)/価格変動の概念がよく理解できる。「説明編」が30ページ、ドリル形式の問題集が100ページほど。問題&メモ欄で1ページを占めているので、正味80ページとなる。コンパクト過ぎるよな。A5版ではあるが、何というダウンサイジング。スカスカ。これで1575円はねーだろーよ。その上、本の表紙には「JTI代表」という肩書まで付けている。で、JTIのサイトを見ると既に矢口の名前はなくなっている。なあんか、みっともないよね。最近は、まぐまぐで有料メールマガジンを発行している。私は「超」が三つ付くほど尊敬していたが、損をさせられたような気分である。損切り。

2009-08-04

三橋貴明、桜井章一、小田嶋隆


 1冊挫折、2冊読了。


 挫折45『新世紀のビッグブラザーへ』三橋貴明〈みつはし・たかあき〉(PHP研究所、2009年)/気取った文章にうんざりして10ページほどで挫ける。主語と述語が離れ過ぎていて、文章の行方がわかりにくい。


 92冊目『「勝負強い人間」になる52ヶ条 20年間勝ち続けた雀鬼がつかんだ、勝つための哲学桜井章一(知的生きかた文庫、2006年)/実際に読んだのはハードカバーで『20年間無敗の雀鬼が明かす「勝負哲学」』(三笠書房、2004年)と、タイトルが異なっている。昨日、読了。読んだのは二度目。時々、青臭い表現が出て来て鼻白むものの、それでも学ぶことは多い。この人は偉大なる常識人だと思う。


 93冊目『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド小田嶋隆朝日新聞社、2005年)/前原さんオススメの一冊。確かに面白かった……が、「ア・ピース・オブ・警句」よりは落ちる。ブログの記事を編んだものゆえ、どうしても散漫な印象を拭えない。更にサッカーネタに私はついていけなかった。その意味では、同じく妖怪ネタについていけなかった『安全太郎の夜』(河出書房新社、1991年)と五分。活字がゴシック体なのも気に入らない。私の中では6位ってところだな。

2009-08-03

こぶ平議員


 ということでどうだろう、世襲議員については、その呼称を改めて「こぶ平議員」と呼ぶことにしようではないか。そうすれば問題がはっきりするはずだ。

「麻生さんも、ああ見えてこぶ平だからなあ」

 と、先代の先生の遺影に惑わされることなく、現役の候補者の立ち位置にこぶ平の顔を重ねて見るようになれば、もう少し冷静な判断ができるようになる。

「むしろカズシゲじゃね?」

 と、別方向からの突っ込みが入れば、世襲論議はさらに豊かなものになる。

 いずれにしても、立候補の制限には反対だ。

 勝手に立たせて、存分に落とすべきだ。


小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句

逃げるのではなく戻る


 行き詰まると前方に道がないように思うのですが、逃げるのではなく戻るという選択肢があることを忘れてはいけません。

 困った考えにとらわれていると、選択の十字路が現れても気がつかず、そのまま行き過ごしてしまいます。一つの道を行ったら行ったきりになってしまいます。それで「困った」とか、「運がない」と言うのです。ダメなら引き返したり、別の道を選ぶ柔軟さが必要です。


【『運に選ばれる人 選ばれない人』桜井章一(東洋経済新報社、2004年/講談社+α文庫、2007年)】

運に選ばれる人 選ばれない人 運に選ばれる人  選ばれない人 (講談社+α文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-08-02

ジョー・ヒル、多田茂治


 1冊挫折、1冊読了。


 挫折44『20世紀の幽霊たちジョー・ヒル白石朗安野玲、玉木亨、大森望訳(小学館文庫、2008年)/今ひとつだった。これは、amazonのレビューで読む気になった作品。才能は感じられるが、文章がピンと来なかった。スティーヴン・キングの息子だったとはね。「解説」で東雅夫が「押しも押されぬ」と書いていた。ま、かような日本語を使う人物が絶賛する作品ということで。


 91冊目『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治〈ただ・しげはる〉(社会思想社、1994年/文元社、2004年)/私が読んだのは社会思想社のものでタイトルは『内なるシベリヤ抑留体験』となっている。石原吉郎を知ったのは今年の大収穫だ。私は名前すら知らなかったのだ。石原の文章は脳を揺らす。常識を覆す。石原の感受性は新しい言葉を紡ぎ出す。石原は平凡な人物でありながら、非凡な表現力で言葉を綴る。彼はシベリア抑留で言葉を失った。石原が綴っているのは“取り戻された言葉”の数々である。

アメリカ経済界はファシズムを支持した/『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』菅原出

 ナチス・ドイツというファシズム国家を誕生せしめたのはアメリカだった、という衝撃的な内容。一読して、日本人の発想では欧米に太刀打ちできないことを痛感させられる。奴等は清濁併せ呑むレベルを軽々と凌駕している。政界と経済界との利益が一致しない時、表の歴史は政治で動く。だが、裏の歴史を牽引しているのは経済界だ。国益とは経済の異名である。国益という大義名分のもとで、政治は経済に膝を屈する。歴史を経済で読み解けばこれほどすっきりするというお手本のような一冊。


 第一次世界大戦が起こったのが1914〜1918年。そして1922年12月30日にソビエト連邦(-1991年)が産声を上げた。当時と現在のヨーロッパを比較してみよう――

 ソ連は近隣諸国に“革命”を輸出した。各国の共産党に指示を下し、武器を与えた。東欧は赤く染められた。アジアでは中国、ベトナムが社会主義国となった。だがこれは、第二次世界大戦後(1939-1945年)のことである。


 ソ連が成立した1922年には、イタリアのファシスト党党首ムッソリーニが権力を奪取した。これに影響を受けたドイツのヒトラーは、クーデターを起こすも未遂に終わる(ミュンヘン一揆)。ヒトラーが首相となるには10年という時間を要した(1933年1月30日/1934年8月19日に国家元首となる)。


 簡単に歴史のおさらいをしておくとこうなる――

 ソ連は生まれながらにして“資本主義経済の脅威”だった。特に我が世の春を謳歌していたアメリカのエスタブリッシュメントにとっては――


 アメリカには、共産主義の台頭に尋常ならざる危機感を抱き、この「赤」の脅威に対抗するために、ヨーロッパ大陸で生まれつつあったファシズムに共鳴する一群のエリートが存在した。このエリート集団の存在は、アメリカ合衆国の対欧州政策に大きな影響を与え、ナチス・ドイツという強力なファシズム国家の誕生を可能にした。


【『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』菅原出〈すがわら・いずる〉(草思社、2002年)以下同】


 第一次世界大戦の特需で沸いたアメリカは、1920年代に対独投資がブームとなった――


 この20年代の対独投資ブームでは、ごくごく少数のウォール街の投資銀行や法律事務所のエリートたちが、米独間の多岐にわたるビジネス関係をとりまとめ、莫大な利益をものにした。こうしたいわばウォール街の「仕掛人」たちが、ドイツ経済の復興を助け、ドイツ産業界を甦らせ、そしてヒトラーの再軍備に間接的に協力していったのである。

 戦争の「種」をまいたともいえるこうしたウォール街の「仕掛人」の一人が、ジョン・フォスター・ダレスである。

 1920年代の対独投資ブームは、アメリカの銀行に莫大な富をもたらし、ドイツはカナダを除けばアメリカン・マネーの最大の受け入れ国になった。1925年から1930年の間に、アメリカの民間銀行はドイツに対し30億ドル近い資金を貸し付けたが、この金額は、第二次世界大戦後のマーシャル・プランでドイツが受けとった額13億ドルの、実に2倍を超える莫大な金額であった。こうしてアメリカから資金を得たドイツの産業界は、前例のないほど強力な企業連合を生み出し、そしてそれが後にヒトラーの重要な財産となっていくのである。


 ジョン・フォスター・ダレスは後にアメリカ国務長官(1953年1月)となった人物である。


 20年代の対独投資ブームで活躍したウォール街の「仕掛人」ジョン・フォスター・ダレスは、30年代に入ると欧米の大企業間の破滅的な競争を廃し、マーケットを分割する国際カルテルのとりまとめに邁進し、ドイツの大企業をこうしたカルテルに組み入れることに力を注いでいく。カルテル協定を結ぶことにより、アメリカの大企業がドイツ企業の進んだ科学技術を入手することができたという利点もあったが、特筆すべきは、こうしたカルテル協定により、ドイツ企業が軍事関連技術や戦略物資を入手することが可能になり、結果としてヒトラーの戦争準備に大いに貢献したという点である。

 ダレスが最初にとりまとめたカルテルは、ニッケルに関する協定であった。


 反共を理由にして、アメリカのエスタブリッシュメントはドイツのファシズムにテコ入れした。ところが、凶暴な猫だと思われていたドイツがいつの間にか虎に成長していたのである。


 ネットで調べた情報を先に記しておいたが、アメリカ経済界が最初から意図的にヒトラーを支持していたわけではない。経済力をつけたドイツが、ヒトラーを選んだことになる。だが後にヒトラーを支持した人々が確実に存在した。ジョン・F・ケネディの父親ジョセフ・P・ケネディや、ジョージ・W・ブッシュ大統領の曽祖父にあたるジョージ・ウォーカーがそうだった。


 資本主義経済においては、儲かれば誰とでも組むのが鉄則だ。なぜなら、資本主義は利益を出すことが目的であるからだ。だから、金儲けが正義となる。


 その後アメリカは、チャーチルが送り込んだイントレピッドというスパイの工作によって、連合国側に引きずり込まれる。アメリカ経済界がこれに抵抗するも、フランクリン・ルーズベルト大統領に押し切られてしまう。そして、第二次世界大戦に突入した。


 歴史のいたずらがアメリカ・エスタブリッシュメントに味方する。終戦直前にルーズベルトが死去したのだ。彼等は息を吹き返した。ドイツの戦後処理は経済的見返りが優先された。戦争犯罪は不問に付して、ドイツの技術者をアメリカに連れて帰った。西側連合国がドイツから搾取した資産は100億ドルに上ると算定されている。


 まったくもって恐るべき歴史だ。国益とは、ウンコ(共産主義)よりもゲロ(ファシズム)を選択する営みなのだ。そして資本主義は、戦争をも経済活動として捉える。スクラップ・アンド・ビルド、結んで開いて手を打って、と。


 関岡正弘は「大恐慌が第二次世界大戦を惹き起こした」と指摘している。で、大恐慌の直接的な原因は、第一次世界大戦が生んだ富である。つまり第一次世界大戦以降、人類は富(あるいはマネー)に翻弄されていると考えられる。20世紀は、マネーが人間をコントロールする時代の幕明けとなったのだ。

文庫 アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか (草思社文庫)

沈黙を破って:イスラエル兵の証言


「ガザでの軍事行動では、戦闘員と民間人を区別する必要はない」とイスラエル兵は命令されていた。


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2009-08-01

三橋貴明、アンナ・ポリトコフスカヤ


 1冊挫折、1冊読了。


 挫折43『ドル崩壊! 今、世界に何が起こっているのか?』三橋貴明〈みつはし・たかあき〉(彩図社、2008年)/面白くなかった。文章が一本調子で教科書みたいに味気がない。完全な期待外れ。我慢しながら150ページほど読んだが挫ける。


 90冊目『プーチニズム 報道されないロシアの現実アンナ・ポリトコフスカヤ/鍛原多惠子〈かじわら・たえこ〉訳(NHK出版、2005年)/プーチン政権下でロシアがここまで腐敗していたとは。法という法は無視され、裁判官や判事は買収され、ギャングと新興貴族が大手を振って歩く国――これがロシアだ。激した感情のせいで読みにくい文章となっているが、それでも“ジャーナリズムの魂”が脈打っている。アンナ・ポリトコフスカヤは毒殺されそうになったが、何とか一命を取り留めた。しかし2006年10月7日、自宅アパートのエレベーター内で何者かに射殺された。

思想と理論/『リハビリテーション・ルネサンス 心と脳と身体の回復 認知運動療法の挑戦』宮本省三


 リハビリテーションの思想と、イタリアのカルロ・ペルフェッティが提唱する認知運動療法の啓蒙書である。宮本省三の文章は機関銃のように怒りを放っている。畳み込む理論が時に破綻することもある。実に強引極まりない。私は本書を読んで、宮本省三の評価にクエスチョンをつけざるを得なかった。「心意気は買う。しかし表現が拙い」――率直にそう感じた。


 しかしそれでも尚、端倪(たんげい)すべからざる文章が散りばめられている――


 もっと明確に語ろう。リハビリテーション医療はリハビリテーション思想に基く社会復帰の手段であって、運動療法理論に基く治療ではない。ある治療が科学的であるためには、思想ではなく理論が不可欠である。なぜなら、思想は方法論を規定しないが、理論は方法論を規定するからである。


【『リハビリテーション・ルネサンス 心と脳と身体の回復 認知運動療法の挑戦』宮本省三(春秋社、2006年)】


 これには心底驚かされた。ここ数年にわたって私が何となく考えていたことが、明快な言葉となっていた。はたと膝を打った。その時の手形がまだ膝に残っている(ウソ)。


 宮本省三はきっと、リハビリ効果の個別性・特殊性に配慮したのだろう。否、段階の異なる身体障害者をリハビリ理論にはめ込むことを斥(しりぞ)けたのだ。ある人には効果があっても、別の人には全く効果がないこともあり得る話だ。


 このテキストは期せずして「科学と宗教」のあり方をも示唆している。思想と理論はイコールではない。しかし、理論を無視した思想は万人が受け容れることはできないし、思想なき理論にも人は嫌悪感を覚える。「情と理」とも言えるし、「信と理」とも言い換えることができよう。


「神の名」のもとに一切が正当化されてしまう世界観は危険だ。理は信を生み、信は理を求め、求めたる理は信を高め、高めたる信は理を深からしむ――これが正しい信仰のあり方であろう。理と信とが乖離するところに邪教の邪教たる所以(ゆえん)がある。


モルモン教の創始者ジョセフ・スミスの素顔/『信仰が人を殺すとき』ジョン・クラカワー


 大乗仏教はブッダの言葉を理論化しつつ、哲学性を止揚するに至った。小乗教はシステマティックな教条を500もの戒律に細分化して、民衆から見離された。つまり問題は、方法化にあるわけではなく、方法化の基盤となる思想にあるのだ。とすると、思想と理論とは別々に論じることができない。


 私が宮本省三という人物を信用するには、『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』(講談社現代新書、2008年)を読む必要があった。未読の方はこちらから読むことをお薦めしておこう。


 本書には宮本の焦燥感のようなものが見受けられる。そこから、日本のリハビリの現状を読み解くことも可能だ。

リハビリテーション・ルネサンス―心と脳と身体の回復、認知運動療法の挑戦

7月のアクセスランキング


順位記事タイトル
1位そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記』ウィリアム・ノースダーフ
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4位レイプを研究対象とする愚行/『人はなぜレイプするのか 進化生物学が解き明かす』ランディ・ソーンヒル、クレイグ・パーマー
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9位ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記レヴェリアン・ルラングァ
10位昭和の脱獄王・白鳥由栄/『破獄』吉村昭


もう少し読まれてもいい記事(笑)


順位記事タイトル
1位公衆便所のウンコをプロファイリングする
2位攻防900日 包囲されたレニングラードハリソン・E・ソールズベリー
3位彼らの誇りと勇気について 感情的ボクシング論佐瀬稔
4位胃カメラ奮戦記
5位「昭和のこどもたち 石井美千子人形展」を見て
6位奴隷とは』ジュリアス・レスター
7位「安楽死」を問う!
8位記者の窓から 1 大きい車どけてちょうだい』読売新聞大阪社会部〔窓〕
9位昭和の根っこをつかまえに北尾トロ
10位HERO/英雄

『地球交響曲(ガイア・シンフォニー)』龍村仁監督


地球交響曲第一番 スペシャルエディション [DVD]


出演者について


野澤重雄(植物学者)

「トマトは心を持っている。私は、そのトマトの心にたずね、トマトに教わりながら、成長の手助けをしただけなんです」。たった一粒のごく普通のトマトの種から、バイオテクノロジーも特殊肥料も一切使わず、1万3000個も実のなるトマトの巨木を作ってしまった野澤重雄さんはそう語る。この映画では、トマトの種植えから1万3000個も実のならす巨木に成長するまでの過程を克明に記録しながら、野澤重雄さんのトマト生命哲学を聞く。科学の実証主義的方法を踏まえながら、科学の常識では理解できない奇跡を現実に見せてくれる野沢さんとトマト。


ラッセル・シュワイカート(元宇宙飛行士)

 アポロ9号の乗組員だったシュワイカートは、月着陸船のテストを兼ねて宇宙遊泳中に、ある不思議な体験をした。その体験は彼の人生観を大きく変えてしまった。「それは、頭で考えたのではなく、感じた、というのでもなく、私のからだの全ての細胞の中に、それこそ一気に奔流のように流れ込んできたのです」。宇宙遊泳中の彼を撮影するカメラが突然故障し、修理する間、全くすることがなくなり、宇宙の完全な静寂の中に一人取り残された時のことだった。「ここにいるのは私であって私でなく、眼下に拡がる地球の全ての生命、そして地球そのものをも含めた我々なんだ」人類はナゼ宇宙に向かおうとするのか? 人類の宇宙進出と地球の未来をどのように両立させることができるのか? アメリカの超エリートだった宇宙飛行士が科学技術の最先端で理解した生命観を語る。


ラインホルト・メスナー(登山家)

 頂上への最後のアタックを開始するときの到来を、メスナーはいつもその「少女」との対話の中で語る。濃い霧の中で方角を見失ったときも、クレパスからの脱出ルートを探すときも、その「少女」はいつもメナーの側に現われる。酸素ボンベも無線機も持たず、たった一人で登るメスナーにとって、その幻の少女だけが、唯一の、真のパートナーだ。ラインホルト・メスナーは世界で唯一人、単独で世界の8,000メートル級の山全てを登り尽くしたアルピニストの王者。そのメスナーが、臨死体験や人間の生命力の限界について語る。


ダフニー・シェルドリック(動物保護活動家)

 体高3メートルを越える巨大な野生のアフリカ象と一人の人間の女性との間に「言葉」を超えた深い愛情と信頼の関係が今も続いている。ダフニーはアフリカのケニアで、象牙密猟者のために親を殺された象の赤ちゃんを育て、野生に還す活動を過去30年以上続けている。エレナは、30年前、ダフニーに初めて育てられ、野生に還って行ったメスの象。ダフニーが3歳まで育てた孤児達を預かり、野生で生きる知恵を教えながら一人前に成長するまで養母の役割を果たす。象は人間にも価する高度な知性を持っている。しかし、その知性は人間のように自然を支配しようとする知性ではなく、自然と調和し自然を受容しようとする知性である。ダフニーとエレナの感動的な再会のシーンを中心に人間社会へのメッセージをダフニーが伝える。


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出演者について


佐藤初女

 1921年生まれ。日本の女性の生活と、そこに息づく食の叡智を語り続ける。老人ホームを訪問し、「心だけは人々に与えることができる」との思いから自宅を開放、心を病んだ人々を受け入れてきた。心を込めた料理で多くの人を癒す彼女を母のように慕う人々によって、1992年10月、岩木山麓に完成したやすらぎの場が「森のイスキア」。


ジャック・マイヨール

 1927年上海生まれ。10歳の時に佐賀県・唐津の海で初めてイルカと出会う。30歳の時、マイアミ水族館でメスのイルカ“クラウン”と運命的な出会いをする。そのクラウンから自然に、イルカのように、長時間の素潜りや水中遊泳をするやり方を学ぶ。 1976年、素潜りで水深100メートルを超える記録をつくり、人間の生命力に関する科学の常識を破る。ヨガ、禅など東洋の叡智を学び、人間は心の持ち方ひとつで常識をはるかに越えた能力を発揮しうることを身をもって示した。2001年12月23日、イタリア領エルバ島カローネの自宅で自らの命を絶った。享年74歳。


フランク・ドレイク

 1930年生まれ。アメリカ国籍。ハーバード大学で天文学の博士号を得た後、国立電波天文台とコーネル大学に籍を置き、コーネル大学時代には世界最大のアレシボ電波望遠鏡を運営する天文台の所長も務めた。60年世界で初めてSETI計画(オズマ計画)を実施。以来、広大な宇宙でのET探しを続けている。宇宙から降り注ぐ様々な電波の中から、人工的な電波信号を見つけ出す基本的な方法や、地球外文明の数を見積もる式となる「ドレイク方程式」の生みの親である。74年には2万4千光年彼方のヘラクレス座M13に向かって、地球人類からのメッセージも発信した。現在、カリフォルニア大サンタクルズ校天文学・宇宙物理学名誉教授。SETI(地球外知的生命探査)研究所長。著書に『Is Anyone Out There』がある。


14世ダライ・ラマ法王

 ダライ・ラマとは、モンゴル語で「大海のような深い知恵を持つ聖人」という意味。観音菩薩の化身としてこの世に遣わされたと言い伝えられる。初代ダライ・ラマは15世紀に出現、代々転生を重ね、現法王は第14世。1935年7月6日チベット東北部の寒村タクシュに生まれた現法王は、4歳の時に14世として即位し。チベット仏教の厳しい修行を重ねる。中国によるチベット合併以来、世界各国の政治指導者、文化人、科学者との対話を通じ、東洋と西洋の調和に基づく全人類の宇宙的覚醒を説く。1989年、ノーベル平和賞受賞。


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出演者について


星野道夫(写真家)

 1952年千葉県市川市生まれ。96年8月8日ロシアのカムチャツカで熊に襲われて死亡。19歳で初めてアラスカの土を踏み、25歳でアラスカ大学留学。アラスカに移り住んでの20年、フェアバンクスに拠点をおき、マイナス40度の氷河地帯にひとりで数か月もテントを張り、天空の音楽、オーロラの写真を撮り、何万年もの間、この極北の地で続けられている、クジラ、クマ、カリブーなど動物達の営みを撮り続けてきた。彼の眼差しの中には、個体の死を越え、種の違いを越えて連綿と続く、大いなる命、悠久の命への畏怖と愛があった。ネイティブの古老たちが語り伝える神話の中に秘められた、人間が宇宙的なスケールで動いている大自然の営みと調和して生きてゆくための様々な叡智を、未来の世代にどう伝えてゆくべきかを探す旅を始めていた。


フリーマン・ダイソン(宇宙物理学者)

 1923年生まれ。弱冠24歳の時、相対性理論量子力学を統合する数式を発見、若くしてプリンストン高等学術研究所の物理学教授となった。科学、芸術、宗教、哲学など、あらゆる分野に深い造詣を持ち、人という種の未来について、宇宙的な視野から語ることの出来る今世紀最大の叡智の持ち主。ひとり息子のジョージは、アラスカ・アリュート族のカヌーを20世紀に復元した世界的に有名な海洋カヤック・ビルダー。16歳の時、父のもとを飛び出し大自然の中での生活を選んだ。撮影は、21年前、その親子が劇的な和解を果たした思い出の島、鬱蒼とした古代からの森に囲まれ、野性のオルカ達の集まってくるカナダ・ハンソン島で行われた。


ナイノア・トンプソン(外洋カヌー航海者)

 1953年ハワイ生まれ。伝統に基づいて復元された古代の遠洋航海カヌーを駆って、海図、羅針盤、磁石などの一切の近代器具を使わず、星を読み、波や風を感じることで正しくナビゲーションして、かつて祖先達が数千年前に渡ってきた、タヒチからハワイまでの5000キロの海の旅を現代に蘇らせた。この航海は、ハワイの先住民の人々に、かつてない勇気と誇りを与え、自然の大いなる営みと調和しながら生きてきた祖先たちの、高度な技術的、精神的文明のあり方を学びなおそうとする運動に結びついていった。はるか彼方の「見えない島を見る力」を養うことこそ、21世紀を生きる子供たちにとって一番大事なことだと、ナイノアは信じている。


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出演者について


ジェームズ・ラブロック(生物物理学者)

 1919年イギリス生まれ。生物物理学者。「ガイア理論」の創始者。映画『地球交響曲』はラブロック氏の理論に勇気づけられ、89年にスタートした。彼の「ガイア理論」を実証する上で大きな役割を果たしたのが57年に作った電子捕獲検知器、ECD。長さ10cmほどの小さな検知器は、大気中に1%しかないような微量の毒性の化学物質だけを検出できるというもの。彼は、この装置を積んだ調査船シャックルトン号で世界中を回り、農薬などに使用されている殺虫剤の毒が世界中の大気に残存することを証明した。このデータを元にレイチェル・カーソンはあの有名な『沈黙の春』を書いたという。主な著書に『地球生命圏 ガイアの科学』、『ガイアの時代 地球生命圏の進化』(共に工作舎)、『HOMAGE TO GAIA』(Oxford University Press)など。


ジェリー・ロペス(レジェンド・サーファー)

 1948 年ハワイ・オアフ島(ホノルル)生まれ。イタクラ・ケンという日本名を持つ、父はラテン系の新聞記者、母は日系三世の教師。10歳でサーフィンを始め、 23歳でハワイマスターズ優勝。冬のハワイ・ノースショアの巨大な波を自在に乗りこなす彼を、人々は「パイプライン・キング」と呼ぶ。18歳でヨガに出会う。荒れ狂う巨大な波に逆らうことなく、やわらかく乗りこなす彼のスタイルはヨガの修業に負うところが多い。循環するガイアのエネルギー“プラナ”の通り道になることによって、身体の内側から大自然のエネルギーと調和する道を見つけていく。


ジェーン・グドール(野生チンパンジー研究家)

 1934年イギリス生まれ。野性チンパンジー研究家、子どもたちのための環境教育活動家。23歳で初めてアフリカに渡り、有名な人類学者ルイス・リーキーの秘書となる。60年より母ヴァンヌと共にタンザニア、ゴンベの森で野生のチンパンジーの生態調査を開始。チンパンジーが道具を使うことを発見して世界的な霊長類学者となった。62年ケンブリッジ大学でR・ハインド教授のもと、生態学の博士号取得のため学ぶ。65年動物行動学で博士号取得。67年ゴンベ・ストリーム研究センター所長となる。91年より21世紀を担う子どものための教育プログラム、ルーツ・アンド・シューツ(根と芽)運動を開始。命を貴び、霊性を高め、環境問題に自分で取り組む子どもたちを育てるこの運動は、現在世界50か国に拡がり、1,100以上の支部が生まれている。著書に『森の旅人』(角川書店)など。


名嘉睦稔(版画家)

 1953年沖縄、伊是名島生まれ。琉球第二王朝の始祖尚円王の生まれた伊是名島は、知る人ぞ知る神々の島。御獄(ウタキ)が88か所もある。名嘉氏は、語り継がれる様々な神話、伝説の中で、大自然の営みから学び、遊び、鍛えられて育った。彼のダイナミックかつ繊細な表現による作品群は、私たち現代人の見過ごしてしまいがちな大自然の機微、生きとし生けるものの魂の声を、時に優しく、時に力強く、私たちに伝えてくれる。


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出演者について


石垣昭子(染織作家)

 1938年沖縄竹富島生まれ。西表島在住。竹富島生まれの石垣昭子さんは、一度島を出て、東京の美大で学びながら、伝統の染織の奥深さに目覚め、島に戻って廃れかけていた草木染の技術を甦らせた。生きている生命(芭蕉、蚕)から糸を紡ぎ出し、生きている生命(福木、藍、紅露)に秘められた色を誘い出し、太陽の巡りに寄り添い、月の満ち欠け波長を合わせながら仕事を続けている。工房のある西表島、うなり崎、月ヶ浜は、龍宮(海)からやって来た女神を祭る西表島最大の聖地。浦内川の真水と海の水が混ざり合う汽水域で、織り上げた布に新しい生命(魂=マブヤー)を吹き込む最後の作業“海ざらし”を行う。島の人々の普段着を染め、織り上げるために受け継がれてきたこの伝統の技は、今、石垣さんの染織に依って、地球の女神と交感し、21世紀に新しい生命を誕生させる儀式にまで進化している。


アーヴィン・ラズロ(哲学者・未来学者)

 1932年ハンガリー生まれ。イタリア在住。世界賢人会議「プダペストクラブ」主宰、哲学者、物理学者、音楽家。ラズロ博士の主宰する「プダペストクラブ」には、ダライ・ラマ法王(宗教)、ジェーン・グドール(霊長類学者)、アーサー・C・クラーク(作家)、ピーター・ガブリエル(音楽家)、ジョセフ・ロートブラッド(科学者)等々、40人にのぼる世界の賢人達が参加し、未来への提言を行っている。ラズロ博士自身はもともと天才的なピアニスト、7歳でリストアカデミー推薦入学、9歳でプダペストフィルと共演、天才ピアニストとして一世を風靡した。20代にコロンビア大学で物理学、エール大学で哲学を学び、30代にはローマ・クラブの創始者アウレリオ・ペッチェイの右腕として「成長の限界」などのレポート作成に参加。40〜50代には国連の調査訓練研究所(UNITAR)の所長として発展途上国の問題に取り組み数々の業績を上げた。


大野明子(産科医 お産の家明日香医院院長)

 岐阜県出身。東京大学理学部化学学科卒業後、東京大学大学院理学系研究科化学専門課程修士および博士課程修了、理学博士。無機地球化学専攻。出産後、子どもを母乳で育てる体験から産科医を志し、愛知医科大学医学部医学科へ編入、卒業する。日本赤十字社医療センター日本医科大学付属病院、愛育病院、東部地域病院に勤務。1997年出張分娩(自宅出産)専門の「九段お産相談室」(98年明日香医院と改称)を開設する。99年杉並区高井戸に「お産の家明日香医院」開院。入院分娩も扱う。主な著書に『分娩台よ、さようなら あたりまえに産んで、あたりまえに育てたい』『子どもを選ばないことを選ぶ いのちの現場から出生前診断を問う』(共にメディカ出版)など。


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出演者について


ラヴィ・シャンカールシタール奏者)

 1920年インド・ワーラーナシー生まれ。若くしてヨーロッパ文明の洗礼を受け、17歳の時インドに帰って7年間、師に全てを捧げる苛酷な修行生活を送り、常にインド数千年の叡智に立ち還りながら、西洋近代文明との橋渡しを続けて来た。60年代、モントレー、ウッドストックなどのフェスティバルに出演。ニューエイジの若者達から圧倒的な支持を受ける。ビートルズの故ジョージ・ハリスンは、シャンカールの音楽に触れ、一介の弟子となる。74年インド音楽の原点に回帰する運動を開始。以後、世界の音楽家、政治家、経済人とも交流を深める。バイオリンの名手、故ユーディ・メニューインは、彼のことを「20世紀最大の楽聖」と評した。


ケリー・ヨスト(ピアニスト)

 1940年米国アイダホ州ボイジ生まれ。6歳よりピアノを始める。アイダホ大学で音楽と哲学を学んだ後、南カリフォルニア大学大学院でピアノを専攻。87 年、チャネル・プロダクションを設立。デビュー・アルバム『Piano Reflections』を発表。幼い頃から大自然の山や川、森や湖との超越的な交感を何度も体験した。有名になることも、喝采を浴びることも求めず、ただひたすらピアノの中から“光の音”を紡ぎだすことに全霊を捧げてきたケリーの生き方が、そのまま、優しさと気品にあふれたピアノ音楽となって私達のもとに届けられる。アイダホの自然と環境の保護運動においても中心的な役割を果たしている。


ロジャー・ペイン(海洋生物学者)

 1935年ニューヨーク生まれ、ハーバード大卒、コーネル大学で“音で世界を見る動物”コウモリやフクロウの研究で博士号を得る。67年、初めてザトウ鯨と出会い、得意のチェロでその歌を採譜し、彼らが人間と同じ作曲法で歌をつくることを発見した。鯨と海の環境保護をすすめる団体、“Ocean Alliance”を設立。彼が提唱する鯨達の知力、知性に関する考察は、大きな反響を呼び、当時出版した『ザトウクジラの唄』は世界中で1050万枚を超える大ベストセラーとなった。調査船「オデッセイ号」に依る海洋調査航海は延べ100回を超える。


ポール・ウィンター(ソプラノサックス奏者) 友情出演

 ロジャー・ペインの無二の親友。世界的なサックス奏者。87年にはロジャーと協力して世界的ベストセラーとなったアルバム「ホエールズ・アライブ」を発表した。「第六番」では、ロジャーがコネチカットのポールの自宅を訪れ、21世紀の新しいクジラの歌の作曲について話し合った。


アヌーシュカ・シャンカール(シタール奏者)

 81年ロンドン生まれ、カリフォルニアで育つ。7歳からシタールを学び、西洋音楽とインド数千年の叡智を融合する新しい音楽を生み出し、今、世界的に注目されている。05年に発表した「Rise」はグラミー賞にノミネートされた。


『地球交響曲』関連リンク


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