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2009-08-24

アラブ人向け教科書で「ナクバ」使用を禁止、イスラエル


 イスラエルのギデオン・サール(Gideon Saar)教育相は21日、国内のアラブ人学校で使う教科書で、イスラエル建国をめぐる記述にアラビア語で「大災厄」を意味する「ナクバ(Nakba)」という言葉を使用することを禁止すると発表した。次回の教科書改定時から適用するという。

 サール教育相は、「公立の教育制度においてイスラエル建国を大災厄と表現する理由がない。教育制度の目的はわが国の正当性を否定することでも、アラブ系イスラエル人の間に過激思想を広めることでもない」と説明した。

 イスラエルでは「ナクバ」を記念する集会に対し、国家の補助金をいっさい禁止する法案も準備が進んでいる。アビグドル・リーバーマン(Avigdor Lieberman)外相が提出した草案では、「ナクバ」を記念するすべての行為を禁止し、違反者には最大で3年の禁固刑を科すとなっていた。

 イスラエル国内には、現在120万人以上のアラブ人が住んでいる。


AFP 2009-07-23

死者数が“一人の死”を見えなくする/『アラブ、祈りとしての文学』岡真理


 イスラエル問題を知れば知るほど暗澹(あんたん)たる気持ちになってくる。世界がどうしてこれほどパレスチナを無視するのかが全く理解できない。


 結局のところ、パレスチナってのはイギリスから見た場合、単なる空き地に過ぎなかったということだ。第一次世界大戦においてイギリスの戦費を融資してきたのはユダヤ系銀行だった。


 シオニストは言った――「支払いの一部を割り引くから、あそこの空き地をくれよ」。イギリスは答えた――「あそこでいいなら構わんよ。どうせ大した資源もないことだし……」。こうしてバルフォア宣言がなされた。


 言ってみれば、ヤルタ会談での密約みたいなものだ。ただし、北方領土にいた日本人は引き揚げたが、パレスチナには数多くのパレスチナ人が暮らしていた。


 1948年5月14日、イスラエルが勝手に建国。翌日から第一次中東戦争が始まる。そして、何の罪もない70万人のパレスチナ人が難民となった。この歴史をパレスチナ人は「ナクバ」(大破局、大災厄)と名づけた。


 わかりやすくいえば、静岡市民全員が家を失ったという話だ。この時、2000〜3000人のパレスチナ人が殺されている(※イラン・パペによる)。そして、ナクバとは歴史の一点を指す言葉ではない。今尚継続中であるところにナクバのナクバたる所以(ゆえん)があるのだ。1948年から60年にもわたって、イスラエルのユダヤ人はパレスチナ人を殺戮し続けている。


 イスラエルという人工国家は、ナチス・ドイツよりも悪辣(あくらつ)で、北朝鮮にも劣る国だ。


 では、パレスチナで殺された人々を我々はどう考えるのか――


 4年間に5万もの人々が殺されるなどあってはならないことだ。人間とは決してそんなふうに死んではならない。私たちが生きるこの世界で決してあってはならない、そうした出来事の暴力性を私たちが訴えようとするとき、「4年間に5万人」という数字をつい強調しそうになる。数字は、その桁違いの大きさが喚起する衝撃によって、出来事の重大さを効果的に伝えてくれるだろう。だが、そのとき、数字が与える衝撃の反作用として、たとえば4年間に3000人が殺される出来事の「あってはならなさ」が、私たちのなかでふっと軽く感じられてしまう。

 思想と呼ばれるものを私たちが必要とするのは、このような瞬間、このような場においてではないか。3000人が殺されるより5万人が殺されることのほうがはるかに重大で本質的であると、数の大きさに比例して出来事の重さを表象し、そのように感じてしまうこと。そうした思考、感覚に抗って、私たち自身を「そこ」に、出来事の根源に深く繋留するための思想が。

 4年間で3000人が殺されるよりも5万人殺される出来事のほうが重大であるなら、5万人殺される出来事は、50万人が殺される出来事の前にその重みを失うだろう。さらに、4年間に50万人殺される出来事は、一発の爆弾で15万人が殺される出来事の前に意味の重みを失うにちがいない。こうしてあらゆる出来事は相対化され、すべての出来事が意味の重みを失うことになる。大量死という出来事において死者の数だけが強調されるなら、一人の人間が死ぬという出来事がもつ意味の重み、言い換えるなら、人間一個の重みそれ自体が限りなく希薄になるだろう。このとき、殺される者たち一人ひとりの命の重みを顧みない点において、私たちは殺人者の似姿を我知らず分有することになりはしないだろうか。


【『アラブ、祈りとしての文学』岡真理(みすず書房、2008年)以下同】


 岡真理は筆致を敢えて抑制している。私にはわかる。なぜなら、この私ですら抑制しているからだ。感情を抑えなければ、狂気に取りつかれてしまう。命令に従い、罪なき人々を殺すことを生業(なりわい)とする人間が存在する。これを国家悪と呼ばずして何と表現できよう。


 毎日十数人の命が奪われるのはパレスチナの日常であって、それが日常であるかぎり、特別の関心は払われない。結局のところ「大量殺戮」を私たちが問題にするのは、数字が喚起するセンセーショナリズムのゆえであって、そこで殺される一人ひとりの人間たちの命ゆえではないということになる。他者の命に対する私たちの感覚は、桁違いの数字という衝撃がなければ痛痒を感じないほど鈍感なものだということだ。


 日本においても、交通事故死や自殺に対して全く同じ情況が見られる。人は、自分と縁のない死に関しては「不運」の一言で片づけてしまう。死者が数字と化した途端、死者の顔は失われる。見知らぬ死者はAかBかCでしかない。


 深代惇郎が同じことを書いている――


 このようにして物事を合理的にしてゆくことで、さまざまな問題が起こってくるが、その一つは万物を数字にしてしまうことだろう。数量化しなければ者は合理的にはならないが、数字にすれば一つ一つの持つ意味や質は無視されることになる。

 あなたにとってかけがえのない人も、他の人とまったく同じように「一人」として数えられるにすぎない。「小鮒(こぶな)釣りしかの川」も、水量何トン、長さ何キロの川になってしまう。このようにして、人も物もすべてが「統計数字」となり、同質化されていく。


【『深代惇郎エッセイ集』(朝日新聞社、1977年)】


 数量化が、人間をモノ化する。死を勘定できるのであれば、生もまた計算の対象となる。私の生は1億3000万分の1となる。これでは、誤差以下の範囲といってよい。


 一人の死が何十人もの涙を誘い、何百人もの憎悪を生む。時来れば、パレスチナで一人立ち上がる青年が登場することだろう。その青年がパレスチナ人を糾合し、イスラエルの悪を討つに違いない。その時、資本主義は断末魔の悲鳴を上げ、新しい人間主義の旗が翻るのだ。

アラブ、祈りとしての文学

意志して見る


 窪田空穂『現代文の鑑賞と批評』を読んでいると、あるものを鉛筆を手にして描きながら見るのと、鉛筆を手にしないで見るのとでは、まったくちがうというポール・ヴァレリーの文章(『ドガに就て吉田健一訳、筑摩書房)を思い出します。

 いかに見なれたものでも、いざ鉛筆をもって素描しようとすると、それは必ず、いままで知らないでいた相貌をあらわす。「意志して見ること」は、自分がすでに見ていて、よく知っていると思っていたものを著しく変換せずにはおかない。たとえば「親しい女友だちの鼻の形」も、意志して見るのでなければ、まったく知らずにいるのとおなじである、とヴァレリーはすこしばかりユーモアもまじえて書いています。


【『〈〉が選んだ入門書』山村修(ちくま新書、2006年)】

“狐”が選んだ入門書 (ちくま新書)

国会図書館、書籍をネット配信へ 利用料は1冊数百円程度に


 Googleブック検索やAmazonのなか見!検索など、書籍の中身をインターネット上で検索できるサービスが始まっている。6月には著作権法が改正され、国立国会図書館が図書館内の資料をデジタル化できるようになった。今後はこのデジタル化した書籍をインターネットを通じて誰でも利用できるようにする考えだ。


CNET Japan 2009-08-21】