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2009-09-04

「理想的年代記」は物語を紡げない/『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』野家啓一


 今年、最大の収穫。脳内のシナプスがバチバチと火花を散らしながら、次々と新しい回路を形成した。


 私は20年ほど前から大乗仏教の成立について様々な疑問を抱いていた。最大の疑問は膨大な経典のいずれもが「無署名」であることだった。しかも、それらが「ブッダの説いた教え」として3000年にわたって伝えられてきているのだ。私の眼には、署名を残した龍樹や世親の方が小さく映る。


 法華経見宝塔品第十一の「令法久住」(法をして久しく住せしめん)という言葉には、いかなる歴史の変化にも耐え得る「強靭な物語性」を垣間見ることができる。未来永劫にわたって衆生を救うことがブッダの決意であるならば、ブッダが説く法は「永遠の物語」でなければならなかった。人格神を設定する宗教はおしなべて「神への隷属」を説く。それに対してブッダの教えは「生きる規範」であった。もしも全知全能の神が存在するなら、人間は脇役としての物語しか紡ぎ出せない。翻って仏教は自分が主役となって「新たな物語」を築く方向へ誘(いざな)う。「法に則(のっと)る」とはかような意味合いであろう。


 野家啓一はまず、「歴史という物語」に切り込む。歴史とは人類を縦に貫く糸のことだ。ちなみに、経典の「経」も同様の意味である(現在でも経緯とは縦横の意)。


(アーサー・)ダントの言う「理想的年代記」とは、時間的に継起する出来事を、すべてそれが起こった瞬間に書き記しておく膨大な歴史年表のようなものである。それゆえ、理想的な年代記作者は、他人の心の中までも含めてあらゆる出来事を瞬時に把握し、それを筆者する超人的能力を備えているものと仮定されている。いわば、ラプラスのデーモンの歴史学者版である。しかし、この作者が書き留めることができるのは、歴史の材料であって、歴史ではない。というのも、彼は単独の出来事を記述できるだけであり、複数の出来事を関連づける「物語文」を書くことができないからである。

「神の視点」から見下した歴史とは、おそらくこのようなものであろう。そこには複数の出来事を結び合わせる「人間的コンテクスト」が欠けているのである。


【『物語の哲学』野家啓一〈のえ・けいいち〉(岩波現代文庫、2005年/岩波書店、1996年『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』改題)】


「理想的年代記」は飽くまでも理論的概念ではあるが、仏教の業(ごう)思想と軌を一にしている。身口意(しんくい)の三業(さんごう)はバラバラに為されながらも、「現在の自分」という一点に集積されている。幸不幸の物語は、プラスとマイナスの業によるバランスシートもさることながら、情緒的な衝撃の度合いによって全体の布置結構が決まる。


 つまり、「物語」とは「因果」のことなのだ。もちろん、因果という思想それ自体は仏教以前から存在した。因縁果報という言葉があるせいか、仏教独自の教えと思われているが実は違う。因果という縦軸から、縁起という横軸を広げたところに仏典の独創性があったのだ。


 報恩を説いた「心地観経」(しんぢかんぎょう)という密教経典には次の言葉がある――


 過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ。


 幸不幸の因果があり、善人となり悪人となる因果がある。過去を離れて現在はなく、現在を離れた未来もあり得ない。


 人間が未来に向かって生きている以上、因果という志向――および思考――から逃げられない。「努力は報われる」「頑張れば何とかなる」「明日は明日の風が吹く」といった言葉がそれを象徴している。


 確かにそうだ。野球の練習をすれば、それなりに上達する。だが、我々は決してイチローのようにはなれない。「死ぬ気になったつもりでやれば、何とかなるんじゃねえの?」と考えるのは、その辺の酔っ払いだけだ。絶対になれない。たとえ、人生が300年あったとしても無理だ。


 結論――我々はイチローにはなれないが、イチローに近づくことはできる。イチローとの距離を縮めるトライアル&エラー(試行錯誤)の中にこそ、物語は存在するのだ。そして実は技術の獲得を目指しているにもかかわらず、我々は心技体(まるで身口意と一緒だ)にわたってイチローを目指そうとする。なぜなら、最終的に目指しているものはイチローの技術ではなくして、技術を獲得したイチローが発する「言葉」であるからだ。つまり、我々の人生の目的は「新しい言葉」で自分の物語を紡ぎ出すことってわけだよ。

物語の哲学 (岩波現代文庫)

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