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2009-09-10

柳田國男著『山の人生』について/『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』

 本書の白眉は、柳田國男著『山の人生』を評している件(くだり)である。人間の歴史にはかくの如き事実が在った。なぜ、こんなことが在り得たのか。あるいは起こり得たのか。


 当初私は戦慄した。嘘か作り話であって欲しいと願った。「そんな馬鹿な」という陳腐な感情でいっぱいになった。相前後して私の父が亡くなった。病没であれば人は納得がゆく。物語の結末として相応(ふさわ)しいものと考える。一方、事故死や自殺は、その不条理さでもって我々の「生」を揺るがし、有意味と無意味の反転を企てる。


 小林の講演CDを聴いた。文士とは思えぬ名調子だった。江戸っ子特有のべらんめえ調には逆らい難い響きがあった。そして、いつだって小林は決めつけ、断定し、断言してみせるのだ。


 本テキストは「hengsu殿御返事」第二弾である。この一言が私の胸にくすぶる何かに火を点けた。自分より偉い人は尊敬されてしかるべきであるが、「嫌い」という感情には“直観的な根拠”があるはずだ。言い方を換えれば、「我が遺伝子が危険を報(しら)せている状態」であると私は認識する。


 以下が、小林秀雄の文章である――


「斯(かか)る話を聞き斯る処を見て来て後之(これ)を人に語りたがらざる者果してありや。其様な沈黙にして且つ慎み深き人は少なくも自分の友人の中にはある事なし」と言う。明らかに問題は、話の真偽にではなく、その齎(もたら)す感動にある。伝説の豊かな表現力が、人の心を根柢(こんてい)から動かすところに、語られる内容の鮮やかな像が、目前に描き出される。柳田(※國男)さんが言いたいのは、そういう意味合の事なのです。

 さて、炭焼きの話(※『山の人生』『故郷七十年』で紹介されたエピソード)だが、柳田さんが深く心を動かされたのは、子供等の行為に違いあるまいが、この行為は、一体何を語っているのだろう。こんなにひもじいなら、いっその事死んでしまえというような簡単な事ではあるまい。彼等は、父親の苦労を日頃痛感していた筈である。自分達が死ねば、阿爺(おとう)もきっと楽になるだろう。それにしても、そういう烈しい感情が、どうして何の無理もなく、全く平静で慎重に、斧を磨(と)ぐという行為となって現れたのか。しかし、そういう事をいくら言ってみても仕方がないのである。何故かというと、ここには、仔細(しさい)らしい心理的説明などを、一切拒絶している何かがあるからです。柳田さんは、それをよく感じている。先きに引用した文でおわかりのように、柳田さんは、余計な口は、一と言も利(き)いていない。

 この「山の人生」の話は、「故郷七十年」で、又繰返されているが、その思い切って簡潔な表現は、少しも変っていないのです。「小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末のことであったという」という全く同じ文句が繰返されている。読んでいると、何度くり返しても、その味わいを尽す事は出来ない、と言われているような感じがして来ます。夕日は、斧を磨ぐ子供等のうちに入り込み、確かに彼等の心と融(と)け合っている。そういう心の持ち方しか出来なかった、遠い昔の人の心から、感動は伝わって来るようだ。それを私達が感受し、これに心を動かされているなら、私達は、それと気附かないが、心の奥底に、古人の心を、現に持っているという事にならないか。そうとしか考えようがないのではなかろうか。先ず、そういう心に動かされて、これを信じなければ、柳田さんの学問は出発出来なかった。これは確かな事です。民俗学の、柳田さん自身もうまく行かなかった定義など、少くともここでは、どうでもよろしいのです。

 炭焼きの子供等の行為は、確信に満ちた、断乎(だんこ)たるものであって、子供染(じ)みた気紛(きまぐ)れなど何処にも現れてはいない。それでいて、緊張した風もなければ、気負った様子も見せてはいない。純真に、率直に、われ知らず行っているような、その趣が、私達を驚かす。機械的な行為と発作的な感情との分裂の意識などに悩んでいるような現代の「平地人」を、もし彼等が我れに還るなら、「戦慄せしめる」に足るものが、話の背後に覗(のぞ)いている。子供等は、みんなと一緒に生活して行く為には、先ず俺達が死ぬのが自然であろうと思っている。自然人の共同生活のうちで、幾万年の間磨かれて本能化したそのような智慧(ちえ)がなければ、人類はどうなったろう。生き永らえて来られただろうか。そんな事まで感じられると言ったら、誇張になるだろうか。


【『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』(新潮社、2004年)】


 何と講演CDから起こした記事があった。こちらも読まれよ――

 どう? 凄い文章でしょ?(笑)


 子供達の不意打ちを食らわすような極大の不条理を、小林は「古人の心」に結びつけることで、あたかも「人類の智慧」が発揮されたような瞬間を捉えている。


 この鮮烈な悲劇に対する小林の解釈が気に入らないのは、子供達の死と、それに伴う父親の行為が正当化されてしまうためだ。人間の力ではどうしようもない運命の働きに振り回されることを美化するような節(ふし)すら窺える。


 確かに小林のアプローチは凄い。しかしながら、その結論を歴史という「過去の営み」に結びつければ、物語は完結してしまう。しかし、そこから次なる新しい物語へとつながらなくなる。


 柳田の文章を読む限りだと子供達の行動は「自ら悟った」としか言いようがない。だが、本当にそうだったのか? 例えば、他にも自ら進んで親に殺された子供がいて、そうした情報が子供達の耳に届いていたかもしれない。「学ぶ」とは、情報が思考の枠組みを形成することだ。そして人は思想に束縛される動物である。だからこそ、人は「思想に生きる」のだ。


 つまり柳田の文章には、トール・ノーレットランダーシュが言うところの「外情報」が多すぎるのだ。氾濫した外情報は、読み手の想像力を過剰なまでに刺激してやまない。


 結局のところ、小林の断定は独断であり、傲慢なまでの自信が異様な説得力となって聴衆に襲い掛かるのだ。反論するには、小林以上に豊富な言葉を網羅する必要が生じる。その反撃の労を忌避するために、賢(さか)しらな人々は感動してみせるのだ。


 小林の対談を読むとよくわかるが、とにかく自己主張が勝ちすぎていて、合唱が織りなすハーモニーのような醍醐味に乏しい。知性が個を際立たせるあまり、妥協を徹底的に嫌う。小林は多分、対立から生じるスパークを求めていたのだろう。党派性を嫌悪した小林は、誰かと肩を組み同じ方向に顔を向けることがなかった。そして小林の評論は、情緒でもって論理をうっちゃるのだ。


 検索していたところ、2ちゃんねるに同じ意見を見つけた――


4 名前: 吾輩は名無しである 投稿日: 01/09/04 10:25 ID:/69lD/wY

 小林秀雄。読んでも構はないけれど、読むのなら大正から昭和初めの文壇と思潮に通じ、ドストエフスキーマルクスは一通り読み、古典にも一定の読解力をつけた上で読まないとタブラカサレル。手始めに読むと化かされるから読んぢや駄目。


5 名前: 吾輩は名無しである 投稿日: 01/09/04 10:34 ID:33kBESiM

 古典というと古事記とか史記ですか?


6 名前: 吾輩は名無しである 投稿日: 01/09/04 12:32 ID:/69lD/wY

 さう、和漢の古典。たとへば小林が徒然草論語を引合ひに出してタンカを切つてゐるのを読むと、なんだか分かつたやうな気になるでせう。しかし自分が直に読んでゐないものを論じられては、その批評も原典もどつちも解らない筈です。でも小林秀雄は「解つたかゴルァ」の名人なので……あ、「ひとり2ちやんねる」と思つて読めばいいのか。


【「読むべき本、読んではいけない本はなんですか?」】


 そして、こんな情報もあった――

 私としては、貧苦が生んだ父親の突発的行動であったと思いたい。そうでないと、私が形成してきた「物語性」が無効となってしまうからだ。

小林秀雄全作品〈26〉信ずることと知ること 信ずることと考えること―講義・質疑応答 (新潮CD 講演 小林秀雄講演 第 2巻)

(※左が書籍、右が講演CD)

岡村文昭岡村文昭 2013/03/19 00:01 文章に面白みがない。修辞はつまらない。最大の欠点は、小林秀雄が読みきれていない。そんな難しいことは言っていない。浅い薀蓄をひけらかしているのは貴君のほうではあるまいか。しかし批判しているわけではない。ありていに述べたまでである。

RSRS 2017/01/03 14:08 私も同様の感想を持ちました。子殺しは「生贄」の発想です。柳田はそれを崇高なものとしてるでしょう。集団への忠誠、靖国につながっていくものと思います。
小林秀雄の教祖批判としては、坂口安吾の「教祖の文学」があります。

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