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2009-11-30

鷲田清一


 1冊読了。


 130冊目『悲鳴をあげる身体鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)/課題図書3冊目。限られたスペースでありながらも様々な情報を網羅しており、それが一種のスピード感とキレを生んでいる。これぞ新書の醍醐味。自傷行為や飲食、はたまたファッションや感覚器官といったテーマから切り込んでいる。鷲田は身体から「ゆるみ」と「すきま」がなくなりつつあることに警鐘を鳴らす。書誌情報も豊富で読書案内としても秀逸な作品だ。本書を読むと、仏教で説かれる「五陰」(ごおん)がよく理解できるようになる。

あなたは「過去のコピー」にすぎない/『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ


 彼は一瞬私を優しく見つめ、それから言った。「あなた――あなたの身体、感情、思考――は、過去の結果です。あなたの身体はたんなるコピーなのです。例えば羨望や怒りなどのどんな感情も、過去の結果なのです。羨望について、それを抑圧したり、それを何かあるいは何らかの行為にしようとするなど、あなたが何をしようと、それもまた過去の結果なのです。そのように、あなたはたんに経験の輪のなかを動いているだけなのです」


【『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】


 肺の中が空っぽになるほどのため息が出たよ(ウソ)。気持ちとしては肺の粘膜も吐き出したいくらいだ。いや、いっそのこと肺を吐いても構わない。


「経験の輪のなかを動いているだけなのです」――つまり我々は「学習済みの反応」を繰り返しているだけに過ぎないという指摘だ。考えてみよう。我々は物心ついた時から、躾(しつけ)と称して「こうしなさい」「ああしなさい」と矯正されながら育てられた。続いて学校教育では学力を中心にしてランク分けされ、「あるべき姿」を叩き込まれた。そして完全に協力・協調・共同といった価値観に支配された。まるで横一列の手つなぎ鬼だ。あるいは、日本列島のはじからはじまで続く金太郎飴。


 このように歴史や社会からは目に見えない万力のような力があちこちに働いている。これをクリシュナムルティは「条件づけ」と名づけた。例えば「理想を持つことは正しい」と万人が思っている。ところがクリシュナムルティは理想を否定する。なぜなら、何かに「なろう」とすること自体が、現在の否定であり、なろうとしている「何か」は既に「条件づけ」された価値観であるからだ。そして、その「何か」が型となって再び社会の条件づけを強化する結果になる。


 このようにして我々は無意識のうちに「社会的成功」を望む生き方を強いられているのだ。地位・財産・名誉――これ以外の幸福を見出すことは難しい。我々は他人に頭を下げることの多い人生から一発逆転を狙っている。他人に頭を下げさせることこそ人生の目的なのだ。


「フン、金さえあれば幸せだと思っているのか?」などと言いながら、我々はいつでも金のためにあくせくと働いている。なぜなら、「働くことは正しい」ことだし、「労働は社会貢献」であるからだ。誰一人、疑問を持たない。不変の金科玉条だ。


 でも本当はそうじゃないかもしれない。そんなことすら、我々は確認しようともしない。確かに分業制にした方が効率はいい。だが、働いた分の対価を我々は受け取っているのだろうか? 所得税と住民税以外の税金をどれだけ支払っているか我々は知らないのだ。いくら稼いで、いくら搾取されているのかもわからないのだから、怒りようもない。


 君の人生に感動はあるか? ひょっとしてテレビの前でしか泣いたり笑ったり出来なくなってやしないか? 決まりきった日常、決まりきった人生、決まりきった自分……。これこそ「過去の経験のコピー」であろう。我々は「現在」を生きることができなくなっているのだ。クリシュナムルティは「反逆せよ!」と静かに語っている。

私は何も信じない―クリシュナムルティ対談集

ウォルター・リップマンの策略

 その代表が、アメリカ報道界の長老で、内政と外交政策の評論家にして自由民主主義の理論家でもあった、ウォルター・リップマンである。リップマンのエッセイ集を開いてみれば、あちこちに「自由民主主義思想の進歩的理論」というような副題が見つかることだろう。

 実際、リップマンはそうした組織的宣伝を進める委員会にもかかわっており、その効果を充分に認識していた。「民主主義の革命的技法」を使えば「合意のでっちあげ」ができる、と彼は主張した。すなわち、新しい宣伝技術を駆使すれば、人びとが本来望んでいなかったことについても同意を取りつけられるというわけだ。

 彼はこれをよい考えだと思ったし、必要だとさえ思っていた。なぜならば「公益に関することが世論から抜け落ちている」ように、公益を理解して実現できるのは、それだけの知性をもった「責任感」のある「特別な人間たち」だけだと考えていたからである。

 この理論からすると、万人のためになる公益は少数のエリート、ちょうどデューイ派が言っていたような知識階層だけにしか理解できず、「一般市民にはわからない」ということになる。こうした考え方は何百年も前からあった。

 たとえば、これは典型的なレーニン主義者の見方でもあった。革命をめざす知識人が大衆の参加する革命を利用して国家権力を握り、しかるのちに愚かな大衆を、知性も力もない彼らには想像もつかない未来へ、連れていくのだとするレーニン主義者の考えと、これはそっくりではないか。自由民主主義とマルクス・レーニン主義は、そのイデオロギーの前提だけをとってみると非常に近いのだ。私の思うに、それが一つの理由で人びとは自由民主主義からレーニン主義、あるいはその逆へと、自分では転向したという意識もなしにあっさりと立場を変えてしまえるのだろう。単に、権力がどこにあるかの違いだけだからだ。


【『メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会』ノーム・チョムスキー/鈴木主税〈すずき・ちから〉訳(集英社新書、2003年)】

メディア・コントロール―正義なき民主主義と国際社会 (集英社新書)

2009-11-29

文庫化 『数学的にありえない』アダム・ファウアー/矢口誠訳(文春文庫、2009年)


数学的にありえない〈上〉 (文春文庫) 数学的にありえない〈下〉 (文春文庫)


 ポーカーで1万1000ドル大敗し、マフィアに追われる天才数学者ケイン。だがその時、彼を悩ませていた神経失調が、驚異の「能力」に変わった。それを狙う政府の秘密機関と女スパイ。彼らが権力を駆使して追う「能力」とは? 執拗な追手にケインはどう立ち向かうのか? 幾つもの物語が絡み合う超絶ノンストップ・サスペンス。


 数学者ケインとCIA工作員ナヴァ。窮地に陥った二人の共闘に、戦闘のプロが動員され、捕捉作戦は激化した。非力な民間人にすぎないケインの唯一の「武器」が引き起こす、ありえない連鎖反応。炸裂する伏線また伏線、予想を裏切る拷問と人体実験。長く壮絶な戦いの行方は? 世界が興奮した徹夜必至の傑作。

セゾンファクトリーのジャム


 山形県のメーカー。ここのジャムが美味いの何のって。プレゼントにすれば、「何だ、ジャムかよ」と相手は侮り、食べた瞬間感涙にむせぶことだろう。


245g 謹製ジャム つぶつぶワイルドブルーベリージャム 240g 謹製ジャム 濃厚なマンゴージャム 235g 謹製ジャム 真っ赤な甘いあまおういちごジャム 240g 岡山・広島県産 ぷちぷちいちじくジャム


【SJK-31】 謹製ジャム3個詰合せ 【JG-27S】 155gジャム4個詰合せ

欲望が悲哀・不安・恐怖を生む/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

 いかなるレベルでも、ほしい、なりたい、獲得したいという欲望があるかぎり、そこには必然的に心配や悲しみや恐怖があるのです。豊かになりたい、あれやこれやになりたいという野心は、野心自体の不潔さや腐敗性が見えるときにだけ、なくなります。どんな形の権勢欲も……首相、裁判官、宗教家、導師(グル)としての権勢欲も根本的に悪いとわかったとたんに、もはや権勢欲は持ちません。しかし、私たちには野心が腐敗的なこと、権勢欲が悪いことが見えません。反対に、善いことのために権力を使おう、と言うのです。これはまったくのたわごとです。まちがった手段は正しい目的のためには決して使えません。手段が悪ければ、目的もまた悪いでしょう。善は悪の反対ではないのです。悪いものがまったくなくなったときにだけ、善は生じてくるのです。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


 欲望が満たされないと不安に駆られ、欲望が満たされると今度は失うことを恐れる。つまり欲望の充足を我々は部分的な幸福と思い込んでいるが、完全な錯覚だということ。それが証拠に、満たされた欲望によって獲得された幸福感は長く続かない。いわゆる相対的幸福(他人と比較して得られる幸福)は相対的である以上、上には上がいるわけだから絶対に幸福になれないという矛盾をはらんでいる。村一番の美人が日本一の美人にかなわないのと同じ話だ。しかも欲望というのは釣られて生じる性質があり、メディアは大衆消費社会の扇動に余念がない。鮮やかな色彩と刺激的な音楽や効果音でもって知覚できない領域に揺さぶりをかける。サブリミナル情報にさらされた我々は、必要でもない商品に向かって夢遊病者のようにさまよう。「あると便利」な品物が、「ないと不便」に変換される。所有する人が増えると今度は「ないと恥ずかしい」レベルにまで変化する。世の中に豊富な商品が出回れば出回るほど、我々は何となく居心地の悪さを感じている。物が空間を浸蝕しているためだ。たとえこの世のすべてを手に入れたとしても、我々の欲望は月を欲しがることだろう。ブッダは少欲知足(欲を少なくして足るを知る)と説いた。欲望を否定するのではなく、欲望から離れる生き方を勧めた。

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

クリシュナムルティへの手引


 クリシュナムルティの思想は簡明であるところに落とし穴がある。そこで、クリシュナムルティ理解の手引となる書籍を紹介しよう。


世界が置かれている現状を知る


累犯障害者 獄の中の不条理山本譲司

動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い梅崎義人

戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア

ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記レヴェリアン・ルラングァ

パレスチナ 新版広河隆一

ハイファに戻って/太陽の男たち』ガッサーン・カナファーニー


歴史の欺瞞を知る


不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール

ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたちノーマン・G・フィンケルスタイン

洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて苫米地英人

聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世


科学という世界を知る


人類が知っていることすべての短い歴史ビル・ブライソン

異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ

ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論高橋昌一郎

理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性高橋昌一郎

複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線マーク・ブキャナン

急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則マルコム・グラッドウェル

進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線池谷裕二

ユーザーイリュージョン 意識という幻想トール・ノーレットランダーシュ


進化の仕組みを知る


あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源フランス・ドゥ・ヴァール

迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのかシャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス

なぜ美人ばかりが得をするのかナンシー・エトコフ


物語という文脈を知る


アラブ、祈りとしての文学』岡真理

物語の哲学野家啓一

人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるかトーマス・ギロビッチ

脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース


権力と条件づけの関係性を知る


華氏四五一度レイ・ブラッドベリ

一九八四年ジョージ・オーウェル

無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略岡本浩一

服従の心理スタンレー・ミルグラム

人生の短さについて』セネカ


仏教とキリスト教を知る


魔女狩り森島恒雄

死生観を問いなおす広井良典

空の思想史 原始仏教から日本近代へ立川武蔵

仏教とキリスト教 イエスは釈迦である堀堅士

ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う友岡雅弥

2009-11-28

一読者からクリシュナムルティの料理人となった青年/『キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン

 マイケル・クローネンはドイツで生まれ育ち、高校卒業と同時にアメリカに移り住んだ。そして、23歳でクリシュナムルティと遭遇する――


 1966年、カリフォルニアのサンディエゴでのある運命的な朝、私はJ・クリシュナムルティという人物や、『沈黙せる心』という彼の哲学について書かれた一冊の本に出くわした。気をひかれて、私はそれを読み、そして、彼の哲学の解釈よりはむしろ逐語的な引用句に魅了された。彼の言葉は私の心中の深い耐久性に富む絃を打った。直き(ママ)に私は彼によって書かれた数冊の本を見つけ出し、そしてたちどころに、ここにこそ私が今まで聞いたこともない理性と、人間の状態への深い洞察の声があるのを悟った。信念の体系、方策、解釈を一切提供することなく、彼は宗教的、国家的組織の破滅性を呈示しながら、人間の世界的様相を明確かつ単純な言語で正確に描写していた。どの人も心理は自分ひとりで自分のために見出すものであることを強調し、彼自身のも含めて、どのような形式の精神的、宗教的権威をも否定していた。

 新しく全的な眺望を提供するかたわら、私がぼんやりと感じ、不思議がっていたことを明確な言葉で表していた。彼の著作に出会ったことは貴重な宝石の発見にも似ていて、私は彼の言に完全に感電させられ、この人物のすべてを見つけ出そうと決意し、もしまだ彼が存在しているなら、是非探し出して会ってみたいと強く思った。


【『キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン/高橋重敏訳(コスモス・ライブラリー、1999年)以下同】


 本書はクリシュナムルティの評伝であると同時に、一読者から世界中を飛び回る追っ掛けとなり、遂には料理人として側近で働くまでに至った無名の青年の成長譚でもある。文章が繊細で奥床しく、クリシュナムルティの思想が確かに息づいている。何にも増して、素のクリシュナムルティが描かれており、著作からは窺い知れない「振る舞い」が多数記されている。


 マイケル・クローネンが受けた衝撃は、私が受けたものと殆ど一緒だ。思わず、ハンドルをマイケルに変えようかと思ったほどだ――小野舞蹴(笑)。


 著者が熱烈なファンだったために、浮き立つ心情が綴られている場面も多いが、詩的な表現によって抑制されている。予備知識があればこそ思い込みが強化され、出会いの場面で圧倒されることは十分考えられる。だが、こうしたことは長く続くものではない。まして料理人として日常で接するようになると、そりゃ色んな場面にも出くわすことだろう。ところが、著者が寄せるクリシュナムルティへの思いは強くなる一方だった。彼(か)の人物が本物である証拠だ。


 クローネンは、クリシュナムルティが生存していることを確認するや否や、直ちに講話が行われる予定のインドへ飛ぶ。居ても立ってもいられない様子が微笑ましい。そして、この行動力こそが青春の持つエネルギーなのだ。


 クリシュナムルティは静かに入ってきた――


 彼は急いで話し始めようとはしていないように見えた。むしろ聴き手の顔を一人ずつ充分に時間をとりながら眺めていた。私と眼が合ったとき、私はエネルギーの流れが私と彼との間で突然点火されたようなショックを覚えた。私は50名中の一人にすぎず、外側の端に坐っていたのだが、短い視線の接触は並々ならぬ直接的な衝撃だった。

 部屋の中の静寂はますます深まって、時計の時間では1〜2分も続かなかったのだが、まるで触知できるほどだった。圧迫感はなかった。私はむしろその中で静かに私自身に気づき、私の身体とその動きに気づき、私のまわりの人たち、外の街路のざわめき、そして私の絶え間ない思考の動きに気づきながら、心地よい静寂を味わっていた。しかし、そのどれよりも私は、私たちを熱心に眺めながら、ユーモア感にあふれて、片隅に坐った人物に気づいていた。私は少年のような彼の身体が何と小柄でデリケートなのか、そして彼の存在の微妙な力が、黙ったままなのにどれほど部屋一杯に染み渡っているのかに驚くばかりだった。

 やっと彼は沈黙を破ってこう尋ねた。

「今朝はどんな話をしようかな」


 これだよ。どうだい、わかる? 多分私は普通の人よりは演説する機会が多かった。1000人くらいを前にして話したことも珍しくはない。だからこそわかるのだが、普通なら肩をそびやかして虚勢を張り、睨(ね)め付けるように場内を一瞥(いちべつ)し、威勢よく話すところだ。


 たとえ数十人の集いであったとしても、一人ひとりに目を配り、参加者を隈(くま)なく見渡すことなど、まず不可能である。そして、その静かな沈黙が支配するわずかな時間に、濃密なコミュニケーションが図られているのだ。しかも言葉を介さずして!


 で、「今朝はどんな話をしようかな」と来たもんだよ。もうね、わたしゃ鼻血が出そうなほど昂奮しているよ(笑)。この一言こそ、常々導師(グル)を否定しているクリシュナムルティの面目が躍如としているのだ。この場には、「私(クリシュナムルティ)が語り手で、集まった人々は聴き手」という構図が存在しないことを宣言している。しかも、「声高らか」にではなく飽くまでも「静かに」「普通に」「自然に」語っているところが凄い。


 日蓮は「一代の肝心は法華経法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(「崇峻天皇御書」建治3年/1277年)と説いている。ブッダの膨大な経典のホシが「人の振舞」にあるというのだ。


 クリシュナムルティの振る舞いは、「賢き人」がどのようなものであるかを教えてくれる。


 尚、訳者の高橋重敏は日本でクリシュナムルティ・センターを主催していたようだが、2006年に鬼籍に入り自然消滅したようだ。付言しておくと、「訳者あとがき」には何となく思い上がった調子が見受けられ、本書に瑕疵(かし)を付けている。また、セリフなどの括弧の後に句点を打っていないのも違和感を覚える。

キッチン日記―J.クリシュナムルティとの1001回のランチ

バチカン「神の銀行」に捜査の手 資金洗浄に関与か


バチカン銀 マネーロンダリング疑惑


 ローマ法王庁(バチカン)の財政管理組織「宗教事業協会」(IOR、通称バチカン銀行)がイタリアの民間銀行を通じて巨額のマネーロンダリング(資金洗浄)を行っていた疑いがあるとして、イタリア司法当局が捜査を始めた。「神の銀行」とも呼ばれるバチカン銀行をめぐる不透明な金の動きは、これまでにも度々指摘されてきたが、法王庁があるローマ市内のバチカン市国は独立国家であるため、捜査の手はほとんど及んでこなかった。司法当局は、民間銀行の捜査を尽くし、その過程でバチカンにも捜査協力を要請する方針だ。“アンタッチャブル”な世界の核心にどこまで迫ることができるか。

 伊ANSA通信などによると、バチカン銀行は過去3年間にわたり、イタリアの民間銀行最大手、ウニクレディトのサンピエトロ広場(バチカン市国内)にある支店の複数口座を通じ、多額の送金を行ったが、このうち少なくとも約6000万ユーロ(約80億円)分について、受取人や口座の実質的管理者名を明らかにしていなかった。イタリアでは2007年から施行されたマネーロンダリング対策新法により、これらの明示が義務づけられている。不透明な資金の流れは、イタリアの中央銀行のイタリア銀行が把握、司法当局に通報した。


マフィアと関係の取引先も


 ローマ法王は19世紀のイタリアの国家統一の過程で、すべての法王領を失ったが、1929年にムッソリーニ政権下のイタリア政府とラテラノ条約を結び、バチカン市国以外の領地を放棄する代償として7億5000万リラ(現在の約1200億円に相当)の補償金を得た。この補償金と世界中の信者からの献金を原資に、投資銀行などを通じてバチカンの資産運用を行っているのがバチカン銀行で、前身の法王庁財産管理局が改組されて1942年に設立された。

 だが、取引のあるイタリアや米国の銀行の担当者の中にはマフィアの世界とつながりのある者もおり、他国の捜査機関が原則として指一本触れることのできないバチカン銀行は、麻薬資金などの巨大な洗浄装置として悪用されるようになったとされる。法王庁は一貫して否定しているが、一説によれば、バチカン銀行は資金洗浄額の10%以上を手数料として取り、得た利益を東欧や中南米の反共組織に送金していたともいわれている。


調査中に不審死相次ぐ


 1978年9月には、バチカン宮殿で法王就任からわずか33日目のヨハネ・パウロ1世が65歳で謎の急死。遺体は解剖もされないまま、あわただしく埋葬された。ヨハネ・パウロ1世はバチカン銀行の改革と大規模な担当替えを表明したばかりだった。その後、翌79年にかけて、バチカンの不正な金融取引を調査していたイタリア当局の検事、刑事ら5人が、相次いでテロの犠牲者となった。

 82年6月には、バチカン銀行の主力取引行で13億ドルの不正融資が発覚したイタリアのアンブロシアーノ銀行の頭取が、銀行破綻直前にロンドンで変死体となって発見された(英当局は後に他殺と断定)。

 こうしたスキャンダル、疑惑は小説の題材にもなっているが、実態はベールに包まれたままだ。今回、イタリアの司法当局者は「まずは地道に口座の名義人と管理者を特定し、突破口を開く」と話している。

 法王がベネディクト16世(82)に代わってからは初めて及ぶ捜査の網。成り行きが注目される。


産経ニュース 2009-11-27

新しい芽

 やっと見つけたよ。クリシュナムルティの著作の末尾に、東京勉強会、三鷹勉強会、八王子勉強会ってなことが書いてあった。散々検索してみたのだが一向にヒットしなかった。で、やっとの思いで「クリシュナムルティの会」を見つけ、そこから辿り着いたってわけ。SEO(検索エンジン対策)を考慮していないことが明らか。これだけの情報量がありながら、実にもったいない話である。ま、そんなわけで都合がつけば12月の勉強会に参加する予定。

通販レトルトカレー


 意外と安い。全国のお母さんへ――手間の掛かるおせち料理が終わったら、カレー三昧で一気に家事の手を抜いて下さい(笑)。


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しょうゆ風調味料「味マルジュウ」


 もらい物である。これが美味い。取り敢えず私は次のように使っている。フライパンに少量の油で餅を焼く。餅が焼き上がったら火を止める。少し冷ましてから味マルジュウを裏表にかける。最後に刻み海苔をまぶして出来上がりだ。これがまた信じられないほど美味。山形県の名産品とのこと。お試しあれ。

丸十大屋 味マルジュウ 1.8L

2009-11-27

神の怒り


 人間は、想像しえないものを想像することの不可能性を認めるよりは、むしろ神を擬人化するという誤りを犯してきた。たとえば『旧約聖書』の作者たちは、素朴にも怒りや復讐などの人間的性質を神に帰した。「神(ロード)はそのような人間を容赦しないだろう。かわりに、神の烈火のごとき怒りは彼に対して燃えあがり、そして神が彼を滅ぼすまで、この書にかかれているすべての災いが彼に降りかかるだろう」(モーセ五書の第五書「申命記」29/20)。ついでながら、そのような激怒や暴力の傾向のある神が、いかにして同時に慈悲深くありうるのだろう? 神は精神分裂病的二重人格の持ち主なのだろうか?


【『気づきの探究 クリシュナムルティとともに考える』ススナガ・ウェーラペルマ/大野純一訳(めるくまーる、1993年)】


 そう言われてみると、確かに神様は短気だ。

気づきの探究―クリシュナムルティとともに考える

2009-11-26

クリシュナムルティの会


 クリシュナムルティの『学校への手紙』(UNIO、1997年)を検索したところ、「Noosphere BLOG」を見つけ、そこから大野純一のテキストへジャンプし、コラムのトップページから「クリシュナムルティの会」があることを知った。タイミングが合えば、足を運んでみようと思っている。

新装版で復刊 『狙われたキツネ』ヘルタ・ミュラー/山本浩司訳(三修社、2009年)


狙われたキツネ 新装版


 2009年ノーベル文学賞受賞作家ヘルタ・ミュラー氏唯一の邦訳。チャウシェスク独裁政権下のルーマニアを舞台に家宅侵入、尾行、盗聴。つきまとう秘密警察の影に怯える日々。そうしたなかで、ひとりの女が愛にすべてを賭ける。しかしそれは、親友との友情を引き裂くものだった……。ノーベル文学賞受賞! 祖国を追われた女性作家ヘルタ・ミュラーが描くチャウシェスク独裁政権下のルーマニアを舞台に繰り広げられるあまりに切ない物語。

「神の銀行」、巨額の資金洗浄疑惑 伊当局が本格捜査へ


【ローマ】イタリア司法当局は、ローマ法王庁バチカン)の財政を握る宗教事業協会(IOR、通称バチカン銀行)がイタリアの民間銀行を通じて巨額の資金洗浄を行っていた疑いがあるとみて、本格的に捜査に乗り出すことを決めた。ANSA通信などが伝えた。

「神の銀行」とも呼ばれるIORは、サンピエトロ広場近くにある伊最大手ユニクレジットの支店に口座を開設。少なくとも過去3年間で6千万ユーロ(約80億円)の不透明な資金の流れが確認されているという。

 検察関係者によると、口座の名義人の特定とともに、誰が口座を実質的に管理していたかなどを中心に捜査するとともに、ユニクレジット側に資料の提出を求めている。今後、バチカンにも捜査協力を要請する方針という。ただ、IORの実態はベールに包まれているうえ、市国は独立国家だけに、全容解明は困難との見方が強い。

 イタリアでは82年、アンブロシアーノ銀行(当時)による13億ドルの不正融資が発覚。IORが不正に関与していた疑いが浮上し、銀行倒産後には頭取が変死するなど、戦後最大の金融スキャンダルとなった。伊司法当局はIOR総裁の逮捕状を取ったが、バチカンは引き渡しを拒否。頭取に対する殺人罪などに問われたマフィア幹部らも無罪判決となった。


asahi.com 2009-11-26

知覚の無限

 吸う一息の息、吐く一息の息、喰う一匙(ひとさじ)の飯、これら一つ一つの凡(すべ)てが今の私に取っては現世への触感である。昨日は一人、今日は二人と絞首台の露と消えて行く。やがて数日の中(うち)には私へのお呼びも掛って来るであろう。それまでは何の自覚もなくやって来たこれらの事が味わえば味わうほど、このようにも痛切なる味を持っているものかと驚くばかりである。口に含んだ一匙の飯が何ともいい得ない刺戟(しげき)を舌に与え、溶けるがごとく喉から胃へと降りてゆく感触を、目を閉じてジット味わう時、この現世の千万無量の複雑なる内容が凡てこの一つの感覚の中にこめられているように感ぜられる。(木村久夫、28歳)


【『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』日本戦没学生記念会編(東大協同組合出版部、1949年/岩波文庫、1982年)】


 なぜ我々は日常生活でこのように知覚できないのか? 何が感覚や感受性を鈍らせているのだろうか? 彼と我との違いは何か?

きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (ワイド版岩波文庫) きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫)

(※左がワイド版、右が文庫本)

手段と目的

 間違った手段はけっして正しい目的をもたらすことはできません。目的は手段の中にあるからです。


【『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】


 我々が生きる世界は「暴力を正当化」している。あるいは、嘘、偽り、インチキを咀嚼(そしゃく)もせずに飲み込むことが「大人」とされる。「酸いも甘いも」とか、「清濁併せ呑む」とか、「泥をかぶる」とか言って、訳知り顔を奨励する。クリシュナムルティの痛烈な寸言(すんげん)は、「悪しき手段」の正当化を完膚なきまでに粉砕する。

クリシュナムルティの教育・人生論―心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性

2009-11-25

辺見庸


 1冊挫折。


 挫折92『私とマリオ・ジャコメッリ 〈生〉と〈死〉のあわいを見つめて辺見庸〈へんみ・よう〉(NHK出版、2009年)/半分ほど読んで中止。これは後でまた読む予定。クリシュナムルティに取り掛かっていて、それどころではなくなってしまった。ちょっと鼻につく文章が気になる。

真の勇気


「それは勇敢だな」

 ある晩、雪の小道で養父リュックにばったり出くわした。私が、この冷え切った暗闇を歩きながら幽霊を追い払おうとしていたのだと打ち明けると、リュックはこう言った。

「そうさ、怖がらないことが勇気なんかじゃない。恐怖に耐え、苦しみを受け入れることが勇気なんだよ」


【『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ/山田美明訳(晋遊舎、2006年)】

ルワンダ大虐殺 〜世界で一番悲しい光景を見た青年の手記〜

気づきは炎のようなものだ


「いったんはじめられ、正しい環境を与えられると、気づきは炎のようなものです」 クリシュナムルティの顔は生気と精神的活力で輝いた。「それは果てしなく育っていくことでしょう。困難は、その機能を活性化させることです」


【『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J.クリシュナムルティ/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】

私は何も信じない―クリシュナムルティ対談集

2009-11-24

大野純一と大野龍一


 別人だったのね(笑)。


大野純一


 1944年、東京浅草生まれ。一橋大学経済学部卒業。翻訳家。訳書にクリシュナムルティ『生と覚醒のコメンタリー 1〜4』(春秋社)、『楽園の蛇』(平河出版社)、『気づきの探究』(めるくまーる社)、『グルジェフクリシュナムルティ』『覚醒のメカニズム』『スピリチュアル・レボリューション』『クリシュナムルティの生と死』(コスモス・ライブラリー)他多数。


大野龍一


 1955年和歌山県生まれ。早稲田大学法学部卒。英国の精神科医アーサー・ガーダムの自伝『二つの世界を生きて』をきっかけに翻訳の仕事を始める。主な訳書に、J・クリシュナムルティ『人生をどう生きますか?』『生と出会う』『既知からの自由』、ドン・ミゲル・ルイス『パラダイス・リゲイン』、M・C・ネルソン『恐怖を超えて』(以上、コスモス・ライブラリー)などがある。現在、宮崎県延岡市で高校生対象の英語塾を営む。

『既知からの自由』ジッドゥ・クリシュナムルティ/大野龍一訳(コスモス・ライブラリー、2007年)


 これも微妙な感じ。品切れが近そうな予感。


既知からの自由


 私たちの生はどうしてこうも空虚、断片的で、混乱したものになってしまったのか? たんなる言葉でも観念でもない、全的な自由と生の変容は果たして可能なのだろうか? 本書でクリシュナムルティは私たちの苦悩、悲しみ、痛み、恐怖のまさにその根源にメスを入れ、セルフ=思考の罠と自己欺瞞を暴き出す。一切の権威、判断、逃避を排してじかにそれを見、見ることによって条件づけが脱落するとき、何が起こるのか? 彼は読者をその探求への旅へと誘う。M・ルティエンスが彼の教えへの最適のガイドとすべく、最大限の情熱を込めて円熟期の講話記録から編集したエッセンス集。メリー・ルーチェンス編、十菱珠樹訳『自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法』(霞ケ関書房、1970年)の新訳。

十妙と十不二門(じっぷにもん)


「じゅうふにもん」ともいう。天台(智ギ)の『法華玄義』に説かれた本迹の十妙(境・地・行・位・三法・感応・神通・説法・眷属・利益)を、妙楽(湛然)が十の不二門によって解釈し、『法華玄義釈籖』巻十四に詳説したもの。

  • 色心(しきしん)不二門/色法(肉体、目に見える世界)、心法(精神、目に映らない世界)
  • 内外(ないげ)不二門/内境と外境
  • 修性(しゅしょう)不二門/修行と本性(仏性)
  • 因果不二門/因位(衆生)と果位(仏)の仏性
  • 染浄(ぜんじょう)不二門/染心(無明)と浄心(法性)
  • 依正(えしょう)不二門/依報(環境)と正報(生命主体)
  • 自他不二門/自(能化〈のうけ〉の仏)と他(所化の衆生)
  • 三業(さんごう)不二門/身口意〈しんくい〉の三業
  • 権実(ごんじつ)不二門/権教(三乗)と実教(一乗)
  • 受潤(じゅにん)不二門/眷属妙によって受け、利益妙によって潤うとの意か?

新約聖書「働かざるもの食うべからず」


 労働に対する嫌悪は、時の始まり以来の規範であったとすら言えるかもしれない。創世記のなかで、神はアダムとイヴをエデンの園から追放するとき、彼らに多くの呪いを掛ける。イヴには出産の苦しみと夫への服従を与え、ふたりには「君は額に汗してパンを食(くら)う」と告げ、労働生活を与える。つまり生存に不可欠な労働とは、ユダヤ−キリスト教の伝統にあっては原初の呪いであり、原罪に対する罰なのである。古代ギリシャ文明において神々と人間とを峻別するのは、神々が「労苦と不幸から遠く離れて」いることだとヘシオドスは書いている。彼は金の時代に生を受けられず、堕落した鉄の時代に「昼夜の絶え間ない苦痛のなかで」苛酷な労働をしながら生きるよう呪われたみずからに絶望したのだった。古代ギリシャ文化における労働とは、堕落した世界のなかで死すべき人間に課せられた呪いであり、奴隷の領分、頽廃の罰、あるいは債務であった。そこには今日の私たちが知るような労働観はなく、ただ強制のかたちがあるだけだ。農奴や召使いたちが労働について何を思ったのか、私たちには知る由もない。彼らの読み書き能力のなさに加えて、知識人たちは奴隷や召使いの経験に思いを馳せる価値を見いださなかったことから、彼らの記録はほとんど残されなかったためだ。アリストテレスにとって、こうした労働者はたんなる「人間の道具」であり、彼らにはただ敏捷さや効率の良さの違いがあるだけだ。プラトンは『国家』のなかで、彼らにできるのは働くことだけで、それが彼らに適したことであり、それに対し「市民」はより高次の物事に適していると述べている。

 旧約聖書には、怠惰や無精さを禁ずる箴言がいくつかあるが、そこでも労働は主として障害、面倒、必要、よくて義務とされる。それは自己価値や自己愛を根づかせるための機会や、純粋な満足の源泉などではまったくなかった。新約聖書のパウロ書簡にある教訓は、私たちの耳に聞き憶えのあるものだ――「働きたくない者は、食べてはならない」と彼はテサロニケ人に向けて書いている――日曜礼拝の何千という説教が示唆するように、パウロは創世記にある神の呪いからの重要な変化を象徴している。彼は労働の価値を最初に広めたスポークスパーソンであった。とはいえ、パウロはまだ、労働はなによりもまず義務であると主張している。その後の説教者たちの教えにより、勤労のモラルが内面化していくのは、宗教改革期になってからのことだ。それ以前の労働は依然として強制であり、悪魔の誘惑を避ける道であり、よくて人間の本分であった。労働は人間の表現というよりも、第一に人間を貶めるものだった。


【『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』トム・ルッツ/小澤英実〈おざわ・えいみ〉、篠儀直子〈しのぎ・なおこ〉(青土社、2006年)】

働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち

根源的な経験


 過去により汚染されていない経験はあるのでしょうか。過去に汚染されているのなら、経験は単に過去の継続にすぎません。したがって根源的な経験ではないのです。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2009-11-23

J・クリシュナムルティ


 1冊読了。


 129冊目『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ/竹淵智子〈たけぶち・ともこ〉訳(UNIO、1998年)/クリシュナムルティ6冊目。ブランダイス大学、カリフォルニア大学バークレー校、スタンフォード大学、カリフォルニア大学サンタクルーズ校での講話が収められている。少々難解ではあるが、脳味噌が掻き回されるような刺激に満ちている。華厳経的な位置にある作品だと思った次第。若き知性は劇的に揺さぶられたことだろう。しかし、理解できたとは思えない。基本的にクリシュナムルティのトークを理解するには、ある程度の仏教知識が求められると思う。そうでないと、「ニューエイジ思想」と安易に判断するしかなくなる。私はクリシュナムルティに触れて、信じ難いほど仏教への理解が深まった。

慈悲心は培うべき性質のものではない


 慈悲心を作為的に培うことはできない。それは、憎悪のすべての痕跡から精神を浄化しゆくにつれて、自発的に咲く花である。


【『気づきの探究 クリシュナムルティとともに考える』ススナガ・ウェーラペルマ/大野純一訳(めるくまーる、1993年)】

気づきの探究―クリシュナムルティとともに考える

戦争犯罪を「自分の問題」として問い直す


 湯浅謙さんは、過去の自分の行為を自分の問題として意識し続けてきた。いつも、させられた行為、皆で行ったのだから仕方がないと弁明している限り、結局は、自分の人生も無かったことになる。それでは個人としての一生を生きたのではなく、ある集団に固定された、単なる集団のなかの一人としての人生が終っていく。自分の行為として、良いことも悪いことも引き受け、その意味を問うことによって、自分の一回限りの生を取り戻す。それが湯浅さんの戦後の日々であった。


【『戦争と罪責』野田正彰岩波書店、1998年)】

戦争と罪責

2009-11-22

ポピュリズムによるナショナリズムの昂揚


 第二は、ポピュリズム現象によるナショナリズムの昂揚だ。

 田中(眞紀子)女史が国民の潜在意識に働きかけ、国民の大多数が「何かに対して怒っている状態」が続くようになった。怒りの対象は100パーセント悪く、それを攻撃する世論は100パーセント正しいという二重図式が確立した。ある時は怒りの対象が鈴木宗男氏であり、ある時は「軟弱な」対露外交、対北朝鮮外交である。


【『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』佐藤優〈さとう・まさる〉(新潮社、2005年/新潮文庫、2007年)】

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)

連続的に気づく


「創造的なものを解放するためには、正しく考えることが重要です。正しく考えるには、自分自身のことを知らなければなりません。自分自身を知るためには、無執着であること、絶対的に正直で、判断から自由でなければなりません。それは、自分自身の映画を見守るように、日中、受け入れも拒みもせずに、自分の思考と感情に連続的に気づくことを意味するのです」


【『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J.クリシュナムルティ/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】

私は何も信じない―クリシュナムルティ対談集

2009-11-21

ルワンダ大虐殺に関与したミッテラン大統領の息子


 ヨランド・ムカガサナが『知ることを恐れてはならない』の中で明らかにしたフランス・ルワンダ関連の年代記を読むと、ジャン・クリストフ・ミッテランの果たした役割に気がつく。ジャン・クリストフはミッテラン元フランス大統領の息子で、「パパマディ」というあだ名がついている(訳注:Papamadi=Papa m'a dit「パパが言ってたよ」の意)。彼は1983年にはすでに歴史の流れに、つまり、フツ族の利益に沿った流れに影響を与えていた。ルワンダの、やはり大統領の息子であり、無二の親友であったジャン・ピエール・ハビャリマナと密接な関係にあったからだ。そして、1990年6月にはフランソワ・ミッテランがラボールにて「アフリカ諸国の民主化、ことにルワンダの民主化」を呼びかける宣言を発表したにもかかわらず、フランスは同年10月5日、当時の政権を支持する作戦を計画した。

「これがやがてノロワ・オペレーションとなる。このオペレーションの目的は、ルワンダ軍を支持して、ツチ族が帰国できないようにすることだった。武器がルワンダに渡り、フランス兵はルワンダ兵を訓練した。このルワンダ兵が1994年のジェノサイドを引き受けることになる。フランスは公式には1993年にルワンダから引き上げる。しかし、武器の調達はそのまま継続され、フランス兵は民間人としてルワンダに残った」


【『山刀で切り裂かれて ルワンダ大虐殺で地獄を見た少女の告白』アニック・カイテジ/浅田仁子訳(アスコム、2007年)】

山刀で切り裂かれて ルワンダ大虐殺で地獄を見た少女の告白

アラスター・グレイ、マイケル・クローネン


 1冊挫折、1冊読了。


 挫折91『哀れなるものたち』アラスター・グレイ/高橋和久訳(早川書房、2008年)/『一九八四年』の訳が素晴らしかったので高橋和久訳出の別作品を読みたくなった。ところが、クリシュナムルティと取り組むことになってしまったので後回しにせざるを得ない。そのうち再読する予定。まだ数ページしか読んでいない。


 128冊目『キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン/高橋重敏訳(コスモス・ライブラリー、1999年)/クリシュナムルティ5冊目。著者は、クリシュナムルティの著作と出会い、世界を股にかけて講話に馳せ参じ、遂にクリシュナムルティの料理人となった人物である。興味深いエピソードが多数紹介されており、またクリシュナムルティの周辺がよく窺える内容となっている。デヴィッド・ボームとの会話も登場。圧巻は何といっても逝去に至る件(くだり)だ。活動的だったクリシュナムルティが静謐の中でこの世を去る。死の十日前に記録されたメッセージは実に辛辣極まりないもので、誰一人として彼の話を理解できた者はいなかったことを力説した。全体的には「クリシュナムルティ小噺集」といった趣で、キリスト教や共産主義を揶揄するジョークが多い。それにしても何と巨大な人物なのだろう。

Lullaby:The UNICEF Anthem/子守り歌:ユニセフ讃歌


 右側のタイトルは直訳したもの。Kちゃん、こういう写真を目指せ。


D

うつ病


 うつ病は病気でないと思う。それは単なる事実だ。

「手紙 親愛なる子供たちへ」樋口了一


 何度か聴いているうちに腹立たしくなってきた(笑)。とどのつまり、「お前を育ててやったんだから、認知症になったら面倒をみてくれよ」といったレベルの歌詞なのだ。親子の情に甘え、寄り掛かり、依存する様が醜悪極まりない。感動させられてしまうのは、しなやかで誠実な響きのある歌声で、認知症の具体的な行動が丹念に描写されているためだろう。だが本当は、老いの入口で不安に怯える初老のだらしない姿を紹介しているだけである。既に団塊の世代がリタイアしつつあるが、高齢者の人口比が高くなっている現在、皆がこのように甘え始めれば、社会全体が機能不全となるほどのブレーキが掛かるに違いない。


D


手紙~親愛なる子供たちへ~

学ぶとは


 学ぶとはどういうことか、知っていますか。本当に学んでいるときには、一生を通して学んでいて、特に学ぶ教師はいないのです。そのときには、あらゆるものが教えてくれるのです。枯れ葉、飛んでいる鳥、香り、涙、豊かな者と貧しい者、泣いている人、女の微笑み、男の傲り。君はあらゆるものに学びます。そのために、指導者も思想家も導師(グル)もいないのです。生それ自体が君の師で、君は絶えず学んでいる境地にいます。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

2009-11-20

この世界には隠れているもの、見えないものがいっぱいある


 ホースの角度をちょっと変えると、縁側からも小さな虹を見ることができた。太陽の光の七つの色。それはいつもは見えないけれど、たったひと筋の水の流れによって姿を現す。光はもともとあったのに、その色は隠れていたのだ。たぶん、この世界には隠れているもの、見えないものがいっぱいあるんだろう。虹のように、ほんのちょっとしたことで姿を現してくれるものもあれば、長くてつらい道のりの果てに、やっと出会えるものもあるに違いない。ぼくが見つけるのを待っている何かが、今もどこかにひっそりと隠れているのだろうか。


【『夏の庭 The Friends』湯本香樹実〈ゆもと・かずみ〉(新潮文庫、1994年/徳間書店、2001年)】

夏の庭―The Friends 夏の庭―The Friends (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

明晰な精神


 精神が充分に明晰であるということには、いかなる報いも利益もない。明晰さそれ自体が精神に対する報いである。悟りはそれ自体が歓喜である。


【『気づきの探究 クリシュナムルティとともに考える』ススナガ・ウェーラペルマ/大野純一訳(めるくまーる、1993年)】

気づきの探究―クリシュナムルティとともに考える

2009-11-19

『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)


 2005年の新版が絶版となっており既に高値が付いている。私は先日、旧版をヤフーオークションで入手したが、amazonの古本の方がずっと安いことに気づいた(涙)。まだ、安いものがあるので、気になる方は速やかに入手すべし。

生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より


生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より


生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈1〉

著者が唱える「顕密体制」に異議あり/『戦国仏教 中世社会と日蓮宗』湯浅治久


 込み入った話題が多く一般向けではない。またテーマが曖昧なため、締まりを欠いた内容となっている。歴史の断片を取り上げることに異論はないが、意味性・物語性を示さなければ些末な事実で終わってしまう。


 中ほど以降は飛ばし読みのため、思いつくままに書くことを許されよ。


 奈良や京都といった古都の大寺院はさておき、地域にある寺院の成り立ちを考えた時、まず思い浮かべるのは鎌倉仏教である。鎮護(ちんご)国家を旨とする古代仏教に対して、民衆の救済を掲げ、すぐれた宗教家が唱えた浄土宗・日蓮(にちれん)宗などのことで、まさに中世を代表する仏教、それが鎌倉仏教、または鎌倉新仏教というものである。

 しかし現在、こうした「通説」を支持する日本中世史の研究者はほとんどいない。中世に普遍的な仏教は、顕密(けんみつ)仏教である。それは何かというと、かつては古代的といわれていた比叡山(ひえいざん)や高野山(こうやさん)などが、じつは中世的な変貌(へんぼう)をなしとげ、莫大(ばくだい)な荘園を擁する宗教勢力として社会に君臨する。それらを顕密仏教というのである。そしてそのイデオロギーは民衆を呪縛(じゅばく)し、貴族や僧侶(そうりょ)、そして武士の支配を補充する役割を果たしていた、という。


【『戦国仏教 中世社会と日蓮宗』湯浅治久(中公新書、2009年)以下同】


 初耳だ。全く知らなかったよ。今検索したところ、黒田俊雄という歴史学者が唱えた説のようだ。「顕密体制」だってさ。


 しかし、戦前から戦後を通じて、ごく常識的に唱えられてきたこうした鎌倉仏教観は、現在、大きな修正を迫られている。それは古代以来の八宗(いわゆる南都六宗と天台・真言宗を指す)を中心とする顕密仏教こそがじつは中世の主要な仏教である、という主張による。鎌倉仏教などは、顕密仏教の社会における影響力を考えると、せいぜい顕密仏教の異端の一つにしかすぎないというのである。


 これが非常に胡散臭いのは、湯浅治久の立ち位置が不明なためだ。つまり、政治的な影響力から歴史を捉えるのか、あるいは経済的な視点から人々の動きを見つめるのか、はたまた宗教的な思想性から鳥瞰するのかが全くわからない。実にいい加減な姿勢である。


 黒田説の詳細を私は知らないが、きっと財政&軍事力から展望したものであろう。もしそうであれば、「寺社勢力」という言葉は腑に落ちる。


 中世の二大スターといえば、最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)である。これに異論を挟む者はあるまい。そして、この二人はともに密教を伝えたのだ。とすると、思想的には「密教体制」になってしまうのだ。


 鎌倉仏教の最大のポイントは、鎮護国家を目的として平安時代に輸入された中国仏教を、「日本化」したことに尽きると私は考える。特に鎌倉時代最大の反逆者であった日蓮は、断固たる態度で仏教思想を吟味し法華経を宣揚するに至った。諸宗への徹底した批判を貫き、遂には幕府権力者をも諌(いさ)めた。日蓮は終生にわたって権力による庇護を拒絶した。


 日蓮は二度命を落としそうになり、更に二度の流罪が科せられている。法然もまた流罪の憂き目を見た。つまり、平安時代の二大巨頭が権力者に守られていたのに対して、鎌倉時代の宗教リーダーは権力者から迫害された分だけ、思想的格闘を経ていると私は考えている。


 もちろん、どちらが上でどちらが下などということを論じるつもりはない。ただ湯浅が、何とはなしに誰かの唱えた説に乗っかって、歴史を大雑把に捉えようとするのが気に食わないだけだ。更には、鎌倉時代の民の苦悩を見逃しているとしか思えない。真の宗教とは、苦悩に呻吟(しんぎん)する民の中から生まれるものだ。そこを外してしまえば、「勢力としての教団」しか見えてこないであろう。

戦国仏教―中世社会と日蓮宗 (中公新書)

正しく見る


 日蓮の二大論文といえば、「開目抄」と「観心本尊抄」である。いみじくも、双方ともに視覚を象徴するタイトルとなっている。


 対象そのもの、問題そのものをありのままに、ゆがめずにとらえるということであります。正しく考えるよりも前に、正しく見ることが必要なのであります。これは容易なことのようで、実際は非常にむずかしいことなのであります。元来、考えるということは何かについて考えるのであります。その何かを正しくとらえずに、ただ頭だけ、理論だけで考えては、それは無内容な、抽象的な思惟になります。ドイツの文豪ゲーテは「目を開いて考えよ」と申したのでありますが、これは深く味わうべき言葉ではないかと考えます。


【『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬〈おもだか・ひさゆき〉(文藝春秋新社、1961年/第三文明レグルス文庫、1991年)】

「自分で考える」ということ

2009-11-18

なぜ!? 『mixi』に市橋容疑者を応援する人が増加


 ざっと調べただけでも、『頑張れ市橋達也支援コミュニティ』(会員数約1400人)、『市橋達也さんの社会復帰を願う』(会員数約550人)、『イケメン市橋達也』(会員数約350人)、『☆市橋達也擁護隊集まれ☆』(会員数約280人)、『【市橋達也】親衛隊♪』(会員数約90人)、『市橋ファンクラブ@mixi』(会員数約20人)、『市橋達也に同情する』(会員数約20人)が存在する。


サーチナ 2009-11-17

自由の問題 3/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

 クリシュナムルティは前回の部分で、「私達は安心したいがゆえに地位を欲し、肩書きによって自信や自尊心を手中にし、権力と権威を目指して生きている」。しかしながら、「何かに【なろう】という要求がある限り、自由はどこにもない」と語った。


 そして、「何かに【なろう】」――つまり、「理想」「模範」「目標」だ――としている姿勢を「模倣」であると鋭く糾弾する――


 そこで、教育の機能とは、君たちが子供のときから誰の模倣もせずに、いつのときにも君自身でいるように助けることなのです。これはたいへんに行いがたいことです。醜くても、美しくても、妬んでいても、嫉妬していても、いつもありのままの君でいて、それを理解する。ありのままでいることはとても困難です。なぜなら君は、ありのままは卑劣だし、ありのままを高尚なものに変えられさえしたらなんとすばらしいだろう、と考えるからです。しかし、そのようなことには決してなりません。ところが、実際のありのままを見つめて、理解するなら、まさにその理解の中に変革があるのです。それで、自由とは何か違ったものになろうとするところにも、何であろうとたまたましたくなったことをするところにも、伝統や親や導師(グル)の権威に従うところにもなく、ありのままの自分を刻々と理解するところにあるのです。

 君たちは、このための教育を受けていないでしょう。君たちの教育は、何かになるようにと励ましますが、それでは君自身を理解することにはなりません。君の「自己」はとても複雑なものなのです。それは単に学校に行ったり、けんかをしたり、ゲームをしたり、恐れている存在というだけではなく、隠れており明らかではないものでもあるのです。それは、君の考えるすべての思考だけではなく、他の人たちや新聞や指導者から心に入ったすべてのことからできています。そして、えらい人になりたがらないとき、模倣をしないとき、従わないときにだけ、そのすべてを理解することができるのです。それは本当は、何かになろうとする伝統のすべてに対して反逆しているとき、ということです。それが唯一の真の革命であり、とてつもない自由に通じています。この自由を涵養することが教育の本当の機能です。

 親や教師、そして君自身の欲望も、君が幸せで安全であるために何らかのものと一体化してほしいのです。しかし、智慧を持つには、これらの君を虜にし、潰してしまうすべての影響力は打ち破らなくてはならないでしょう。

 新しい世界の希望は、言葉だけではなくて実際に、何が偽りなのかを見て、それに対して反逆しはじめる君たちにあるのです。それで、正しい教育を求めなくてはならないわけです。というのは、伝統に基づいたり、ある思想家や理想家の体質にしたがって形作られたりしていない新しい世界を創造できるのは、自由の中で成長するときだけですから。しかし、君が単にえらい人になろうとしていたり、高尚なお手本を模倣しているかぎり、自由はありえません。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


 ありのままの自分であれ、一切の伝統と権威に反逆せよ――まるでブッダ、まるで日蓮そのものである。違いを見つけることの方が難しそうだ。カーストという差別制度が社会に張り巡らされた後にブッダはインドに生まれ、武力に物を言わせる武家政治が台頭し、天変や地震が相次ぐ鎌倉時代に日蓮は登場した。双方ともそれまでの常識を徹底的にあげつらい、批判に批判を加え、人間という人間に語り抜いた。民の呻吟(しんぎん)に耳を傾け、苦悶をひたと見つめる中から真実の思想は生まれ出る。


 インドのバラモン教(古代ヒンドゥー教)は「過去世(かこぜ)の業(ごう)」を持ち出して「今世の差別」を正当化した。そして鎌倉時代の念仏は「この世で幸せになることは決してできないが、死んだ後に西方十万億の彼方の極楽浄土へ往生(おうじょう)できる」と説いた。いずれも、我々が知覚・思考し得ない「前世」や「あの世」の論理をもって、人々を「現状維持」の方向へ誘導する邪論ともいうべき代物だ。こうした思想が結果的に権力を容認し、擁護し、強化していることを見逃してはならない。


 印刷技術、通信、マスメディアが発達した現代社会において、「条件づけ」はますます容易になっている。隠された広告戦略が大衆の欲望に火を点ける。そして、否応(いやおう)なく情報の受け手という立場に貶(おとし)められた視聴者は、テレビの前でどんどん卑小な存在と化してゆく。我々は毒性が高いことを知りながらも、五感が刺激されるために依存性から抜け出すことがかなわなくなっている。まるで、LSD覚醒剤のようだ。


「まだ殺されたわけではないから何とかなる」――甘いね。既に「生ける屍(しかばね)」だよ。あるいは、とっくに何度も死んでいる可能性すらある。


 偽りを見抜け。さもなければ、自分自身が偽りの存在となってしまうからだ。まなじりが裂けるほど目を見開いて、闇の向こう側にあるものをしかと捉えよとクリシュナムルティは教えている。


(※「自由の問題」は今回にて終了)

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)


D

完全に民主的な投票システムは存在しない


 とすると、選挙制度は常に何らかの問題を抱えていることになる。すなわち、一定数の人々の意向は絶対的に無視されてしまう。


司会者●投票方式に応じて異なるタイプの候補者が選ばれるなどとは、これまで考えたこともありませんでしたが……。


会社員●なんだか民主主義の根底が揺るがされているような気がしますね……。


数理経済学者●実は、事態はもっと深刻なのです。というのは、完全に民主的な社会的決定方式は、存在しないからです! この事実は、1951年にコロンビア大学の数理経済学者ケネス・アロウの証明した「不可能性定理」によって明らかになりました。


【『理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性』高橋昌一郎〈たかはし・しょういちろう〉(講談社現代新書、2008年)】

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

2009-11-17

自由の問題 2/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

「深い洞察」とは、自分の思考・精神・生の過程を束縛している“鎖”を自覚することだとクリシュナムルティは語った。深海の如き深さに達した時、精神は波立つことがなくなる。すると、鏡に映し出されたように「己の歪(ゆが)んだ姿」が自覚されるのだ。そこに「気づくか」「気づかないか」の違いが人の運命を分かつ。


「君たちは恐れている」ともクリシュナムルティは語った。我々が人生で目指しているのは成功であり、地位であり、人々からの称賛である。「周囲の人々からよく思われたい」「願わくは羨望の的となりたい」と日々涙ぐましい努力を重ねている。全員が同じゴールを目指しているため、好むと好まざるとにかかわらず順位が定まる。少しばかり運のよかった者は「勝ち組」と呼ばれているが、彼等は数多く存在する「負け組」の労働力から搾取しているだけに過ぎない。資本主義社会の競争原理とは、「資本の奪い合い」のことなのだから。


 伝統的な価値観は人々を、なかんずく子供達を画一化する。あたかも、スーパーの商品棚に陳列されている商品のように。少しでも傷があれば不良品として棚から外され、捨てられる運命にある。だからこそ、我々は社会という名の棚に必死でしがみつく。外されてしまえば、親兄弟からも白い目で見られる。このようにして我々は「世間の目」にどう映るかという価値観しか持てなくなったのだ。


 安心を求めるのは、「恐怖」と「不安」の裏返しである。居心地のいいソファに座っていても、心が休まることは決してない。社会、集団、コミュニティから受ける圧力によって、心は常にささくれ立っている。そして、傷つき、万力のような力でもって変形させられるのだ。この「変形」に従わせることが、実は教育の目的となっている。


 私たちのほとんどは、安心したいのではないですか。なんてすばらしい人たちだ、なんて美しく見えるんだ、なんととてつもない智慧があるんだろう、と言われたいのではないですか。そうでなければ、名前の後に肩書きをつけたりしないでしょう。そのようなものはすべて、私たちに自信や自尊心を与えてくれます。私たちはみんな有名人になりたいのです。そして、何かに【なりたく】なったとたんに、もはや自由ではないのです。

 ここを見てください。それが自由の問題を理解する本当の手掛かりだからです。政治家、権力、地位、権威というこの世界でも、徳高く、高尚に、聖人らしくなろうと切望するいわゆる精神世界でも、えらい人になりたくなったとたんに、もはや自由ではないのです。しかし、これらすべてのことの愚かしさを見て、そのために心が無垢であり、えらい人になりたいという欲望によって動かない人――そのような人は自由です。この単純さが理解できるなら、そのとてつもない美しさと深みも見えるでしょう。

 というのも、試験はその目的のために、君に地位を与え、えらい人にするためにあるからです。肩書きと地位と知識は何かになることを励まします。君たちは、親や先生たちが、人生で何かに到達しなければならないよ、おじさんやおじいさんのように成功しなければならないよ、と言うのに気づいたことがないですか。あるいは君たちは何かの英雄の手本を模倣したり、大師や聖人のようになろうとします。それで、君たちは決して自由ではないのです。大師や聖人や教師や親戚の手本に倣(なら)うにしても、特定の伝統を守るにしても、それはすべて君たちのほうの、何かに【なろう】という要求を意味しています。そして、自由があるのは、この事実を本当に理解するときだけなのです。(※強調点の箇所を【 】で括った)


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


 我々が思い描いている自由は、名聞(みょうもん)や名利(みょうり)に支配された世界だった。静かに振り返ってみよう。どのような綺麗事を吐いたところで、我々が望む自由は間違いなく欲得づくで好き勝手なことができる立場ではないのか? つまり、「欲望を発散する自由」だったってわけだよ。どうりで、醜さと底の浅さが蔓延しているわけだ。


 真の自由とは「状況」や「環境」を意味するものではない。「魂の自由」のみが真の自由であろう。自由な人は獄につながれていても尚自由である。ネルソン・マンデラは27年間に及ぶ獄中生活を経て自由になったわけではない。彼の精神は牢獄の中でも自由であったはずだ。魂の牢獄につながれていたのは、塀の外側にいる南アフリカ国民であった。


子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

資本主義と罪の意識


 このほかいろいろな論文をしらべてみると、初期の資本主義がさかんになってきて、キリスト教で禁じているようなさまざまな現世の利欲を追求し富や地位を築く信者が増加してくるにつれて、地獄はいきいきとした残忍なものになっていくようです。それはひとつには人びとの間に罪の意識が強まってくるからでしょうし、またいっぽうでは救われたいという願望もはげしくなってくるのであろうと思われます。


【『イメージを読む 美術史入門』若桑みどり(筑摩書房、1993年/ちくま学芸文庫、2005年)】

イメージを読む―美術史入門 (ちくまプリマーブックス) イメージを読む (ちくま学芸文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-11-16

自由の問題 1/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

 私にとって「運命の一冊」となった。それまでに3冊読んできたが、本書から受けた衝撃とは比べるべくもない。心の奥からせり上がってくる何かがある。そして、どうしようもない勢いで奔流の如くほとばしる何かがある。やがて渦を巻き、上下に振り回され、螺旋(らせん)状に精神が拡散されるのだ。


 深い感動を及ぼすのは、その思想ではない。言葉でもない。それは、クリシュナムルティの「一念」としか言いようがないものだ。


 訳者の解説によれば、本書での質疑応答はいつどこで行われたものか明記されていないが、1950年代末から1960年代初めのものと推測され、その内容からインドのラジガートにあるクリシュナムルティ・スクールで行われた可能性が高いとのこと。27のテーマでまずクリシュナムルティが短い講話(本文ではいずれも4ページ前後となっている)をし、その後で子供達からの質問を受けている。


 次に紹介するのは「自由の問題」というテーマの講話であるが、少々長いので3回に分けて掲載する。クリシュナムルティ思想のエッセンスが凝縮している――


 君たちと自由の問題について話しあいたいと思います。これはとても複雑な問題なので、深い研究と理解が必要です。自由については信教の自由や自分のしたいことをする自由について、多くの話を聞くでしょう。これらについて学者は多くの書物を書いています。しかし、私たちはとても単純、率直にこの問題に迫れるし、たぶんそれによって本当の解決に到るだろうと思うのです。

 日が沈み、恥ずかしそうな新月がちょうど木立に掛かる頃、君たちは立ち止まり、西のすばらしい夕焼けを観察したことがあるのでしょうか。その時刻にはしばしば、河はとても穏やかですし、その国には橋や橋を渡る列車、優しい月、まもなく暗くなって星と、あらゆるものが河面に映っています。まったく美しいのです。そして、美しいものを眺め、観察し、注意のすべてを向けるには、心は心配事から自由でなくてはならないでしょう。問題や悩みや思考に囚われていてはなりません。本当に観察できるのは、心がとても静かなときだけです。そのとき、心はとてつもない美しさに敏感であるからです。そして、自由の問題への手掛かりは、たぶんここにあるでしょう。

 そこで、自由とはどういうことなのでしょう。自由とは、たまたま自分に合ったことをしたり、好きなところに行ったり、何であろうと好きなように考えるということなのでしょうか。このようなことはどちらにしてもするでしょう。単に自立していさえすれば、自由ということになるのでしょうか。世界の多くの人々は自立はしていますが、ほとんどが自由ではありません。自由とは大いなる智慧を意味しているでしょう。自由であるとは智慧があることなのですが、自由になりたいと願うだけでは智慧は生じません。それは、環境のすべて、絶えず自分に迫りくる社会、宗教、親と伝統の影響力を理解しはじめるときにだけ、生じてきます。しかし、さまざまな伝統の影響力――これらすべてを理解して、そこから自由になるには、深い洞察が必要です。しかし、君たちは内的に怯えているために、たいがいはそれらに屈してしまいます。人生で良い地位が得られるのか、と恐れています。宗教家が何と言うだろうかと恐れています。伝統に従っているのか、正しいことをしているのかと恐れています。しかし、自由とは本当は、恐怖や衝動がなく、安心したいという欲求のない心境です。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】


 自信に満ちた言葉から始まり、あっと言う間に深い領域に辿り着いている。クリシュナムルティは自分の心の動きを観察することで、一切の答えは見つかるとしている。この他にも「敏感」「智慧」「愛」「条件づけ」などのキーワードがあるが、根本は「観察」「洞察」だ。それは明鏡止水の境地から為される。


「自由の問題への手掛かり」として、「心配事からの自由」「問題からの自由」「悩みからの自由」を説いている。いずれも「執着」している精神状態を指している。つまり、何かに囚(とら)われている心の様相といえる。「気になる」というのがその人の生命の境涯を示している。


 それにしても、何と美しい情景だろう。これこそクリシュナムルティの「内なる世界」なのだ。美しい何かは、美しい心にしか映らない。外なる美と内なる美との感応が、さざ波のように伝わってくる。


 大衆消費社会は幸福を「物の中」へ追いやってしまった。幸不幸の違いは、持てる者と持たざる者の違いでしかなくなってしまった。そして、金で買える幸福はいつだってはかないものだ。例えば新車を購入したとしよう。あなたは幸福だ。さぞかし幸福であろう。ところがその新車で死亡事故を起こしたらどうなるか? 幸福は不幸へと呆気(あっけ)なく反転する。むしろ、新車を購入したこと自体が不幸であったようにさえ思えてくる。


 人々が飽くことなく競争する社会では、成功することが幸福の要件となる。すわわち「地位」だ。地位にはお金も名誉も付いている。学校教育の目的は「成功者」を輩出することだ。だから、小学校・中学校はいかに名門校に生徒を送り込んだかを競い、高校はといえば東大を始めとする一流大学に何人の合格者を出したかを争っているのだ。


 本当に確固たる地位を築けば幸せなのか? そんなことはない。地位があっても病気になればアウト。地位があっても家庭不和とかね。地位があるから強請(ゆす)られる場合もあるだろうし、地位があるために殺されるケースまである。


 それでも尚我々は地位の獲得に余念がない。なぜなら、それ以外の価値観を知らないからだ。


「安心への欲求」は恐怖の裏返しである。恐怖を感じればこそ安心したいと願う。今この瞬間、心に安心を抱いている人は多分何も望まないはずだ。そのような人は自分のことよりも、他人のために何ができるかを考えていることだろう。


 成功を欲するのは、我々が伝統的な価値観に「条件づけ」されている証拠に他ならない。つまり、幸不幸の尺度すら自由に持てなくなってしまっているということだ。


 今日はここまで。疲労で頭が回らないが、クリシュナムルティを紹介したいあまり意を決してキーを叩いた次第である。読みにくい部分はご容赦願いたい。

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

真の思索者は権威を認めない


 したがってこのかぎりでは、真の思索者は君主に類似している。彼は誰の力も借りず独立の地位を保ち、自らの上に立つ者はいかなる者も認めない。その判断は君主が決定する場合のように自らの絶対的権力から下され、自分自身にその根拠をもつ。すなわち君主が他人の命令を承認しないように、思索者は権威を認めず、自分で真なることを確かめたこと以外は承認しないのである。

 ところが、その他大勢的な頭脳の所有者たちは、世間通用のあらゆる意見や偏見、権威にとらわれていて、法や命令に黙々と服従する民衆に近い。


【『読書について』ショウペンハウエル/斎藤忍随〈さいとう・にんずい〉訳(岩波文庫、1960年)】

読書について 他二篇 (岩波文庫)

2009-11-15

宮崎英修


 1冊挫折。


 挫折90『日蓮とその弟子』宮崎英修〈みやざき・えいしゅう〉(毎日新聞社、1971年/平楽寺書店、1997年)/最後まで目を通したものの、半分ほどは飛ばし読み。日蓮の死去および死去後の資料(日興が書いた「御遷化記録」など)が目を引いた。読み物としての面白さは皆無で、一般人が読んでもチンプンカンプンであろう。日蓮は亡くなる直前に6人の高僧を指名した(六老僧)。だが結局、この6名は袂を分かった気配が濃厚である。日蓮は、クリシュナムルティが説いた「反逆者」そのものだった。

埼玉県上尾警察署には「人間」がいなかった

 いくらやっても私との距離をまるで詰めようとしない副署長。怒鳴っている私を無視して事務仕事に没頭する他の刑事や職員達。なんなんだここは。

 あの日、詩織さん達がここに相談に来て、絶望したのがよく理解できた。ここはまったくダメだ。「人間」がいないのだ。詩織さんは二つの不幸に遭遇した。一つは小松に出会ったこと。もう一つは上尾署の管内に住んだことだ。


【『遺言 桶川ストーカー殺人事件の深層』清水潔(新潮社、2000年/新潮文庫、2004年)】

遺言―桶川ストーカー殺人事件の深層 桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

世界中の教育は失敗した/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一

 クリシュナムルティのトーク(講話)、質疑応答と大野純一の解説で構成されている。質疑は教員から寄せられており教育論に重きが置かれているが、未来に対して何らかの責任を感じる者に向けたメッセージとなっている。ちなみに本書の解説によれば、クリシュナムルティが立ち上げた学校はインドに大小7校、イギリスとアメリカにそれぞれ1校あるとのこと。


 教員を前にしたクリシュナムルティは質疑応答に先立って、教育問題の本質に切り込んだ――


 周知のように、世界中の教育は失敗したのです。なぜならそれは、歴史上で最も大規模かつ破壊的な戦争を二度も起こしたからです。そしてそれは失敗に帰したのですから、単にある方式を別のに取って代えることは、私にはまったくの無駄のように思われます。これに対して、もし教師の思考、感情、態度を変える可能性があれば、そのときには多分新しい文明がありうるのです。なぜなら現代文明は完全な崩壊へと向かっているからです。次に来る戦争は、われわれが知っているものとして西洋文明をおそらく清算することでしょう。多分われわれは、それによってこの国においても深甚なる影響を受けるでしょう。しかしこのいっさいの混沌、不幸、混乱、争いのただ中で、教育者の責任は確かにとてつもなく大きいのです――彼が公務員だろうと、宗教的教師だろうと、あるいは単なる情報伝達者にすぎなかろうと。ですから、もし新しい秩序が作り上げられるべきなら、生計の資を得る手段として教育の上で肥え太るだけの人々は、私に言わせれば現代の社会構造の中で何の居場所もないのです。そしてわれわれの問題は児童、少年少女というよりはむしろ教師、教育者であり、彼の方が生徒よりはるかに教育を必要としているのです。そして教師はすでにできあがり、固定しているので、教育者を教育することのほう(ママ)が、生徒を教育するよりははるかに困難なのです。彼は単に日課通りに機能しているにすぎません。なぜなら彼は実際のところ思考過程、英知の涵養に関心がないからです。彼は単に情報を与えているのにすぎません。そして全世界が自分の耳のまわりで音を立ててくずれているとき単に情報しか与えない人間は、確かに教育者とは言えません。皆さんは、教育とは生計の資を得る手段だとおっしゃりたいのですか? それを生計の手段とみなし、自分自身の幸福のために児童を利用することは、私には教育の真の目的とまったく相反するように思われます。(1984年の講話)


【『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2000年)以下同】


「世界中の教育は失敗した」――なぜなら戦争を支持し、賛同し、遂行するような人間をつくってしまったからだ。脳天にツルハシを打ち込まれたような凄まじい指摘だ。


 教育の目的が人間の英知を磨くことにあるとすれば、人々の目は教育を受ける前よりも開いているはずである。いわゆるエリートと目される人々にあっては尚更で、国民を不幸のどん底に追いやる戦争に対しては身体を張ってでも阻止するべきなのだ。


 ところが現実はそうなっていない。それは、教育が行政下に置かれているため、国家の意図に沿った教育方針が実施されているからだ。では国家が求める理想的国民像はどういったものか? そりゃあ、兵隊と労働者に決まっているよ。つまり、形式を変えた奴隷だ。


 教育の隠された目的は、社会のルールを叩き込み、社会の枠組みにはめ込み、反社会性を憎む価値観を植えつけることなのだ。それゆえ子供も親もドロップアウトすることを異常なまでに恐れる。世間から「反社会的」だと思われるためだ。


 考えてみれば確かにおかしい。わずか7歳にして、さしたる説明もないまま我々は「協調」「協力」「助け合い」といった概念を刷り込まれているではないか。「個性を伸ばす」なんてのは欺瞞だ。義務教育期間においては、徹底的に個性を奪われてしまう。横に伸びた枝という枝は全て剪定(せんてい)され尽くし、後は材木になるだけという寸前まで刈り込まれる(笑)。で、社会に出たら裁断されるってわけだよ。我々は「国家を支える材木」という存在なのだ。


 教育こそが国の、そして世界の行く末を決定する。未来は子供達の中にしか存在しないからだ。否、目の前にいる子供が未来そのものなのだ。だからこそ教育の責任は思い。


 ある面から見れば教員も犠牲者である。しかしクリシュナムルティは、そんな言いわけを認めない。「大人の責任」を糾弾する――


 ですから、質問にお答えする上で、要点は教育者であって子供ではないということを銘記いただきたい。正しい環境、必要な道具等々を備えることはできますが、しかし重要なことは教育者自身が、この生存全体が何を意味するのかを見出すことです。なぜわれわれは生きているのか、なぜわれわれは苦闘しているのか、なぜわれわれは教育を施しているのか、なぜ戦争があるのか、なぜ人と人の間の宗教的紛争があるのか? こういうすべての問題を研究し、英知を働かせること、それこそは真の教師の役割なのです。自分自身には何ものも求めず、教育を地位、権勢、権威を得るための手段として用いない教師、利益のためではなく、一定の方針に沿ってではなしに真に教えるところの教師、自分自身の内に英知を培っているがゆえに生徒の内部にも英知を育て、目覚ましている教師。確かにこのような教師こそは文明の中で主要な居場所を持っているのです。なぜなら結局のところ、すべての偉大な文明は、技師や技術者ではなく、教師の上に築かれたからです。


 教育問題は大人の問題に帰着する。そして、教育されるべきは大人であった。大人自身が自らの成長を通して、子供達の成長を促すところに本来の教育がある。大人と子供が向き合っているうちはダメだ。同じ方向を見つめながら手を携え、肩を組んで共に歩むべきなのだ。そして大人の役目は、進むべき方向を指し示すことである。だがそれは、大人の都合や国家にとって有意といった方向であってはいけない。クリシュナムルティは「理想を持つ」ことすら否定しているのだ。


 真の教育は、断固として「ノー」と叫ぶ人間をつくることであろう。世界は混乱している。人々の心も穏やかになってはいない。この世界を容認しているのは我々大人なのだ。クリシュナムルティが説く「反逆」の意味はここにある。おかしいことに対して、煮え湯を飲まされるような思いをしながらも、地位や給料のために従う時、人間の心は着実に腐敗し死んでゆく。


 まず、自分自身の心に革命を起こすことだ。自分自身のエゴイズムに「ノー」を叩きつける必要がある。弱さ、ずるさ、卑劣さと真摯に向き合い、心をくまなく観察しよう。「答えは自分の中に見出される」とクリシュナムルティは教えている。

クリシュナムルティの教育・人生論―心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性

2009-11-14

石井紘基著『日本が自滅する日 官制経済体制が国民のお金を食い尽くす』が増刷


日本が自滅する日―官制経済体制が国民のお金を食い尽くす


 小泉首相が進めている構造改革で本当に日本は再生できるのか。7年も前から構造改革の必要性を直言してきた衆議院議員である著者が調べあげた事実を基に検証すると――。日本の「経済」は極端にいえば、国と地方と合せて、国民の税金と貯金、年金、保険積立金など350兆円を上から流し込んで消費しているだけのものだ。つまり、市場特有の拡大再生産機能によって生み出される果実はないに等しい。“市場”が死亡状態となり、借金が借金を呼ぶ財政破綻構造に陥っている。積もり積もったほんとうの借金額は1000兆円を超えている。日本再生の鍵は国家体制を官制経済から市場経済に移行させることである――。小泉首相は構造改革を経済政策や金融政策と混同していると批判し、著者渾身の真の構造改革のための25のプログラムを提示する。日本を破産させる利権システムの全貌を踏まえた提言には、著者の日本再生への思いがこもっている。

あらゆる信念には精神を曇らせる効果がある/『気づきの探究 クリシュナムルティとともに考える』ススナガ・ウェーラペルマ


 各章の冒頭にクリシュナムルティの言葉を掲げ、思索をめぐらしている。ススナガ・ウェーラペルマはスリランカ出身で、若き日よりクリシュナムルティに師事した。訂正しよう。クリシュナムルティのように生きた。


 実に表現が難しいのだが、「クリシュナムルティの思想」というのは言葉としてはおかしくないが、どうも腑に落ちない。彼は思想や教えを説いたわけではないからだ。その「反逆の精神」は一切の権威、教義、組織、文化、伝統、概念、価値観を否定した。これらは社会的・歴史的な「条件づけ」に過ぎず、精神の宇宙をひたすら観察し、内なる真理に従えというのがクリシュナムルティのメッセージだ。クリシュナムルティが語ったことは、たったこれだけなのだ。


 先ほど「師事した」と書いて訂正した。彼は「ありとあらゆる執着から離れ、私の言葉からも離れよ」と言い切っており、いくつかの学校はつくったものの、教団や組織という形態を断じて認めなかった。実際、14歳の時に神智学協会の指導者によって〈世界教師〉として見出されたクリシュナムルティは、後に「星の教団」のリーダーとなったが自らこれを解散している。

 では、本書の内容に触れよう――


「精神が信念から自由なとき、精神は見ることができる」

 ――クリシュナムルティ


 信念とは、精神が熱心に受け入れるけれどもそれ自体はなんの実体ももたないもののことである。信念とは、本当だと見なされてはいるが、しかし信頼できる証拠や事実によって支持されていない仮説や理論のことである。信念とは、精神が当然のことと思ってきた格言や第一原理のことである。本章での討論は、もっぱら宗教的および心理的性質の信念に関わっている。科学者はなんらかの仮説で調査を開始するかもしれないが、しかしもしそれが実証できなければ、それを後で放棄するだろう。いやしくも有能な科学者は、たんに幾世紀ものあいだの受容によって信念が是認されてきたからといって、あるいは彼が感情的にその信念に執着しているがために、その信念に固執する、などということはない。が、宗教的信念の場合は、厳しい精査にかけられることは稀である。それらはめったに問い正(ママ)されない。ある種の信念は試験され、立証されうる。私は一度もモスクワに行ったことはないが、しかしそれでもその存在を信じる。が、神の存在や再生の可能性といったものを含む宗教的性質の信念は、実際にチェックできるだろうか? これらの「事実」は立証が困難なので、それらは信念の領域、証明されない領域に追いやられねばならない。


【『気づきの探究 クリシュナムルティとともに考える』ススナガ・ウェーラペルマ/大野純一訳(めるくまーる、1993年)以下同】


 言われてみるとその通りだ。我々の思考はいつだって二元論に毒されている。「あるかないか」「強いか弱いか」「高いか低いか」……。では信念について考えてみよう。信念とは「反応の仕方」に過ぎない。つまり鏡に例えるならば、一定の反射角度を維持しているだけの話だ。で、角度が変わらないことを我々は「信念の人物」として認定し、おかしな角度の場合は「頑迷固陋(がんめいころう)」と嘲笑うことになっている。この違いは何かというと、「より多くの人々に受け入れられるかどうか」という一点に尽きる。いわゆる社会性ってやつだ。


 では、「社会性」とは何か?

 多くの人が納得する道理のことだ。

 で、誰が決めたんだ?

 多分、古(いにしえ)の賢者と我々のご先祖様だ。

 本当に?

 そう訊かれると実のところはわからない。ただ何となく……。

 すると、何となく賛同しているのか?

 ったく、お前はガムテープみたいにしつこい野郎だな。今日からお前のことを「ねんちゃ君」と呼ばせてもらうよ。だから、社会性ってのはだな、「みんな」と一緒に歩いて行くことなんだよ。お前だって一人じゃ生きてゆけないだろう。

 とすれば、ただ「みんな」に付き従っていることになるよな?

 そうだよ、それが社会性だよ。


 我々は親や学校から教育されることで、精神を鋳型(いがた)にはめ込まれ、否応(いやおう)なく社会の枠組みに閉じ込められる。幼児は自分がどう振る舞うべきかを大人の反応から学ぶため、善悪という価値観は自動的に刷り込まれる(インプリンティング)。このようにして自我は形成されてゆくわけだが、教育期間を終えて社会に出ると今度は、「成功」という価値観に支配される。資本主義というフィールドで人々は走り続ける。いつだって競争、競争、競争だ。これぞ競争原理。


 実はこの競争に勝つことが「信念」と考えられている節があるように思う。


 引き続き、宗教的信念について――


 ほとんどの人々は、容易に宗教的信念や説明を受け入れる。なぜなら、受け入れることによって、調査する手間が省けるからである。今日、静かに坐って宗教的問題を無執着に、学究的情熱をもって吟味する時間とエネルギー、いわんや気組みをもっている人は、ごくわずかである。哲学的探究はきわめて骨が折れる。懐疑の海で揺れ動いている精神は、信念の錨に繋がれると、突然休らぎ(ママ)を見出す。信念は人に安全・安心感を与えるので、慰めになる。安定を渇望している精神は、信念の不可欠の一部である不合理な要素によってその渇きが癒されることを見出す。人生の根本的問題に直面したとき、われわれは「私はじつは知らない」という謙虚さを欠いている。己の無知を正直に認めるよりは、むしろ精神は、自分が集めてきた信念は一定の知識の満足すべき代用品だと傲慢にも思い込むことによって、自己欺瞞を犯す。信念は、迷った精神にとって鎮痛剤なのだ。が、遅かれ早かれ信者は、たんに彼のもともとの信念を維持するために、補足的信念を考案しなければならないことを見出す。かくして精神は精緻な空想の殿堂、現実の世界からかけ離れた夢の世界を構築しはじめる。人は、信念によって損なわれねじ曲げられた精神が、いかに明確に考えうる力を失うかに気づく。信者は膨大な知識を集めるかもしれないが、しかししばしばそうであるように、もしそのすべてが、すでに彼の精神が傾倒している信念を支持するために用いられるのなら、いったい何の価値があるのだろう?


 端(はた)から見れば、明らかな邪教であっても「安心感があるからオッケー」という人々が確かに存在する。だが、ここで吊るし上げられているのは宗教そのものである。つまり、教義を受け入れた――信じた――時点で「教義の奴隷」となっているという指摘だ。


 信じることは考えなくなることだ。なぜなら、考えることは「疑う」ことであるからだ。恋する二人を見てみろよ。何も考えちゃいないよ。


 ただし、考えることで深まってゆく「信」を否定することはできない。つまり、信と懐疑とは常に繰り返しながら、止揚される関係にある。


 だが、そうであったとしても最後の件(くだり)は信仰者にとって頂門の一針ともいうべき指摘で、自省が求められる。要は「与えられた教義」を懐疑しながら、「自分の内側に確固たる教義を再構築する」姿勢が不可欠なのだ。これが著者のいう「自分で考える力」であろう。


 では、信念が精神にどのような影響を与えているのか――


 あらゆる信念は、意識のスクリーン上の暗い影のようなものである。より多くの信念を人が蓄積すればするほど、精神はより暗くなり、そして濁ってゆく。信念は精神の盲点である。信念は、人が平静を乱されないよう、けっして暴露すまいとする精神の暗部を占めている。ある国々では、一定の大事な信念を「冒涜する」こと、あるいはそれについて不信心、不敬なことを言うことすら禁じられる! あらゆる信念には精神を曇らせる効果があるというのに、なぜ「よい」信念と「悪い」信念をしきりに区別したがるのか? 人間は同胞を愛するべきだという信念のほうが、すべてのテロリストは処刑すべきだという信念より、ともかくも優れているというもっともらしい見解がある。ある信念のほうが他の信念よりもよく、それゆえ維持する価値があるということが含蓄されているのである。さて、実際には人間がもっているのは同胞愛以外のあらゆるものであるとき、なぜたんなる理論にすぎない人間の同胞愛を信じるのか? 人間は利己的で、暴力的で、残忍である。それが「あるがまま」の状態である。が、同胞愛への信念は、「あるがまま」の醜さを隠蔽するのを助ける。もしわれわれが心から兄弟のように親密だったら、同胞愛への信念を考え出す必要が生じただろうか? 同胞愛を信じる人は、テロリストは殺されるべきだと主張する人と根本的には異ならない。なぜなら両者の精神は暴力によってそこなわれているからである。前者のひそかな暴力と、後者のあからさまな暴力には、本質的な相違はない。問題を心理的に見るなら、すべての信念は、精神に対するそれらの影響に関するかぎり同じなのではないだろうか? なぜなら、ある種類の条件づけと、他のそれとのあいだには、ほとんど優劣はないからである。われわれの関心を呼び起こすに値する唯一のことは、ある種の条件づけが他のそれより望ましいかどうかではなく、精神がすべての条件づけからまったく自由であるか自由でないかである。そのうえ、人はたんに規範や基準を適用するだけで、信念を評価することができる。われわれの倫理的基準が、「正しい」ものと「間違った」もの、「善」と「悪」とを判別するのに用いられる判断基準である。たとえすべての人工的基準が、太古から神聖不可侵と見なされてきたとしても、それを疑ってみる必要があるのではないだろうか? それらは精神の条件づけの一部なので、必然的に疑わしいのではないだろうか? 信念という、同様にして条件づけの産物であるものを判断するのに、なぜ条件づけの物差し(すなわち基準)を用いるのか? それゆえ、信念は「正しい」ものでも「間違い」なのでもない。すべての信念は微妙に精神に影響し、それゆえ明晰な知覚を妨げる。


 参りました。私の負けだ。大地に膝を屈してから既に3時間が経過している(ウソ)。私はそこまで「考えて」いなかった。結局善悪を対立する二元論として思考する限り、世界から紛争がなくなる日は来ない。そして、信念の正当性・絶対性が高まれば高まるほど、争いは激しくなってゆく。遂には「大量殺戮」をも肯定するようになってしまう。これこそが人類の歴史であった。ちなみに日蓮は「善悪一如」(ぜんあくいちにょ)と説いている(「御義口伝」〈おんぎくでん〉)。


 教育がシステム化されるほど人間は劣悪な形状に歪められる。赤道に近い南の島で文明の恩恵に与(あずか)っていない人々が、なぜああも豊かな表情をしていられるのか? ものが豊かになればなるほど、何かを失ったような気になるのはどうしてなのか? そんな疑問の答えがここには示されている。


 我々の信念は、「条件づけされた反応」に過ぎない。まず、この事実に気づくところから本当の自分の道を歩んでゆきたい。

気づきの探究―クリシュナムルティとともに考える

神と悪党


 われわれの中には、神が最高に恵み深いことに安心して、最低の悪党になる者が少なくない。


【『蝿の苦しみ 断想』エリアス・カネッティ/青木隆嘉〈あおき・たかよし〉訳(法政大学出版局、1993年)】

蝿の苦しみ 断想

2009-11-13

堀米庸三


 1冊挫折。


 挫折89『正統と異端 ヨーロッパ精神の底流』堀米庸三〈ほりごめ・ようぞう〉(中公新書、1964年)/湯浅治久絶賛の一冊。最初は滅法面白かったのだが、中盤からわけがわからなくなり、後半はお経を読んでいるような感覚に捉われた。160ページほどで完敗。古典的名作のようだが、史実がてんこ盛りでドラマ性や意味性を欠いているように感じた。もちろん、私の知識が不足しているためであろう。まるで歯が立たなかった。ただ、前半だけでも一読の価値はある。

手足を縛る安静看護vs手足を無理矢理動かすリハビリ


 老人が動かないよう手足を縛る安静看護。それが誤りだといって出現してきたリハビリテーションが、こんどは老人を無理矢理動かしている。やれやれ、と私はため息まじりに思う。安静看護にせよ、リハビリにせよ、老人は専門性を押しつけられる対象でしかないじゃないか、と。ちっとも、老人が主体として登場していないのだ。


【『老人介護 じいさん・ばあさんの愛しかた』三好春樹(法研、1998年、『じいさん・ばあさんの愛しかた “介護の職人”があかす老いを輝かせる生活術』改題/新潮文庫、2007年)】

じいさん・ばあさんの愛しかた―“介護の職人”があかす老いを輝かせる生活術 老人介護じいさん・ばあさんの愛しかた (新潮文庫 み 37-2)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-11-12

最高峰を登攀(とうはん)するにはそれだけの準備が必要だ


 クリシュナムルティという最高峰をどのようなルートで登るか? 4冊を読了し、5冊目を閉じて考えた。今せっせと3冊目を入力しているが、既に15万字を超過している。このままでは写経に等しい。思想を獲得するには受持・読・誦(じゅ=暗唱)・解説(げせつ)・書写の五種の修行が必要となる。


 まずは全ての著作を通読し、メッセージをストレートに受け止めようと思う。だが、じっくりと行わなければなるまい。拙速な取り組み方をしてしまえば、わかったような気になって思索が途絶える。


 その作業の中で、仏法との類似性を明らかにしながら、仏と阿羅漢の悟りの相違を検証する。知と愛(あるいは慈悲)の違いについても同様だ。


 クリシュナムルティは諸天善神か、はたまたブッダか。

現実認識は「自己完結的な予言」/『クラズナー博士のあなたにもできるヒプノセラピー 人生を成功に導くための「暗示」の作り方』A・M・クラズナー


 一般向けに書かれた催眠療法の入門書である。中盤からは結構難解。


 昨今は、科学的な検証性や論理的な整合性を欠いたものを「トンデモ」と嘲笑う風潮が見られるが、少しばかり優(まさ)っている知識に任せて小馬鹿にしているだけのレベルだ。大体が専門バカの類いで、サブカルチャーを気取っているが実際は全くカルチャーの名に値しない。「と学会」だってさ。最初は成金(=と金)のことかと思ったよ。


 理知を重んじることはもちろん大切ではあるが、傾き過ぎてしまうと単なる「科学信仰」「理論教」となってしまう。科学といったところで、その本質は「解釈」に過ぎないのだ。


 というわけで催眠療法である。あらかじめ断っておくが「療法」であって「術」にあらず。ニタニタしながら「ひょっとして、可愛いあの子を意のままにできるのかな?」などと妄想を逞しくするだけ無駄だからね(笑)。


 戦略があるのかもしれないが、催眠療法というネーミングがよくないと思う。実態は深層心理療法であり無意識療法といってよい。効果のほどは多分、薬と同様で人によって様々なのだろう。ただ、本書に示されている「具体的なイメージを喚起させる言葉」は大変参考になる。


 アメリカの社会学者W・I・トーマスは「人がある状況を『現実』として定義すれば、結果的にそれが本人の現実となる」ととなえた最初の人物だ。コロンビア大学の社会学教授R・K・マートンはその概念をさらに発展させて「自己完結的な予言」と言った。あるできごとを予測すると、そのできごとへの期待が私たちのふるまいを変える。つまり、そのできごとが起きやすくなるような行動をとるというのだ。


【『クラズナー博士のあなたにもできるヒプノセラピー 人生を成功に導くための「暗示」の作り方』A・M・クラズナー/小林加奈子訳(VOICE、1995年)】


 現実は事実と一致しない。事実は人の数だけ存在する。そして現実を支配するのは自分である。五官からの情報は事実として知覚され、脳内では現実という名の物語が構成される。「これも愛、あれも愛、たぶん愛、きっと愛」ってわけだな。


 ヒトという動物の特徴は言葉を使うところにあり、言葉は事物をシンボル化することで成立している。つまり、アナロジー(類推、類比)だ。先祖から代々伝えられてきた物語は文化として形成され、価値観として社会に根づく。こうした遺産が実は現代を生きる我々の「条件づけ」として機能している。


 ゲゲッ、時間切れだ。結論だけ簡単に述べよう。全ての知覚は錯覚である。以上。

クラズナー博士のあなたにもできるヒプノセラピー―催眠療法

2009-11-11

アーサー・S・デモス財団/パワー・フォー・リビング


 2002年1月18日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』によれば、アーサー・S・デモス財団には5億6300万ドル(当時の為替で約740億円)にものぼる莫大な資産があります。同財団は1955年、米国の生命保険会社ナショナル・リパブリティ・コーポレーションの社長だったアーサー・S・デモス氏の資産を元手に設立されています。フロリダ州ウェスト・パーム・ビーチに拠点を置き、世界各国で"Power For Living"を無料配布する活動を繰り広げている団体です。デモス財団を財務面から見ても、違和感は増すばかりです。公開されている2003年と2004年の財務諸表を見ると、次のことがわかります。

 2003年の財団時価総額は約4億ドル、当時の1ドル=110円で440億円であり、これをファンド運用した運用益が、約3600万ドル(約40億円)となっています。年利9%の運用で、財団運用としては、日本の常識からするとかなりの高金利であり、「さすが米国のファンド」というレベルの運用を毎年継続しています。これに対して、2004年度分の納税額は、なんとたったの20万ドル(2200万円)です。40億円稼いで2000万円程度の納税、そのからくりは、寄付金による税の免除です。この寄付金の内訳は、次のとおり。


 "Power For Living"へ 約470万ドル

 その他活動へ 約530万ドル

 キリスト教右派、タカ派政治団体へ 約1900万ドル

 合計約2900万ドル(32億円)


 このように、米国の寄付金による税の減免措置を利用して時価総額が毎年1割近く増大している効率的な巨大ファンドというのがデモス財団の実態です。この中でいわゆるキリスト教原理主義への活動援助と、タカ派ロビイストへの寄付金となっているのです。アメリカでは、宗教団体の税務免除を利用して、極右勢力が巨額の資金を集めて活動している事に対して、「クリスチャン・マフィア」という用語で警戒が高まっていますが、こういった活動である可能性も否定できません。また、慈善事業の名目を利用した税金逃れの可能性も指摘されています。たとえばボストンの名門紙『ボストン・グローブ』は、デモス財団が慈善事業に寄付したとする多額の資金が、高額の旅行費用や贅沢品の購入に使われていると批判しており、例として2001年にプライベートジェット機を40億円で買うなどしたことをあげています。可能性としては、巨大なポートフォリオのリストの中にトンネル企業をいくつか入れておき、そこで何らかの活動資金や贅沢品の購入資金を作っていることもありうる話です。


【『スピリチュアリズム苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(にんげん出版、2007年)】

スピリチュアリズム

宮崎哲弥


 1冊挫折。


 挫折88『新書365冊』宮崎哲弥(朝日新書、2006年)/mm(ミリメートル)で褒めていたので読んでみた。パラパラとページをめくり、気になる書名を探し、ところどころを飛ばし読みして本を置いた。ウーーーム、微妙(笑)。ちなみに今まで宮崎の著作は読んだことがない。宮崎の知的興味に傾き過ぎているというのが私の見解だ。ま、評論家なんだから仕方がないか。ただ、もう少し宮崎の人としての顔を出してもいいんじゃないか? 「人間・宮崎」が全く見えてこないのだ。だから、この人は説明能力は高いのだが翻訳能力に欠けているように感じた。知性とは、難解な真理をわかりやすい喩えに変換する力であるというのが私の持論だ。面白いのは、幼児期から少年期における特異な体験くらいか。岡本浩一の『権威主義の正体』を「Better」と評価するのは噴飯物だ。また、熊木徹夫の『精神科医になる 患者を〈わかる〉ということ』は一読に値する本ではあるが、エリオット・S・ヴァレンスタインの『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』を読めば吹き飛ばされてしまうようなレベルに過ぎない。宮崎哲弥は常々仏教徒である旨を語り、ナーガールジュナ(龍樹、竜樹)に入れ込んでいるが、仏教に対しても信仰という次元ではなく知的アプローチに傾斜していることが見て取れる。松山俊太郎の『蓮と法華経 その精神と形成史を語る』を宮崎に薦めておこう。

2009-11-10

肉体労働の非情さ


 高校生の頃、友人と二人で1週間ほど土工のアルバイトをしたことがある。生まれて初めての飯場生活をした。体力にはそこそこ自信があったものの、高校生の筋肉が通用するような世界ではなかった。疲労は思考力を奪う。確かに飯は美味かったが、ただそれだけのことであった。人はヘトヘトになると獣と化す。それを巧みに描写した団鬼六の名文――


 しかし、この飯場の中に溶け込んで、朽ち果てていく気にはどうにもなれなかった。ここは人間の魂が日一日と蝕まれて人間的な情念が喪失し、肉体だけの人間になり果ててしまう社会なのだ。


【『真剣師 小池重明 “新宿の殺し屋"と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯』団鬼六〈だん・おにろく〉(イースト・プレス、1995年/幻冬舎アウトロー文庫、1997年)】

真剣師小池重明 (幻冬舎アウトロー文庫)

名誉心について/『人生論ノート』三木清

 去る9月から読書サークルを立ち上げた。これが2冊目の課題図書だ。ちなみに1冊目はロバート・B・パーカー著『レイチェル・ウォレスを捜せ』である。いずれも選者は私だ。


 20代で一度読んでいた。警句の如き余韻に痺れた。思考を攪拌(かくはん)し、思想が滑走するような心地よさを感じた。四十半ばで再び開くと、全く異なる感慨を覚えた。


 最初は「短文だもんなー、ずるいよなー」と思ったことを白状しておこう。確かにずるい。短文は読者の想像力任せになるところがある。勝手にどうぞ、ってわけだよ。


 最大の収穫は「懐疑について」の件(くだり)であった。本当にドンピシャリと心にはまった。人生も後半になると社会を疑い、歴史を疑い、価値観を疑い、自分まで疑うようになるものだ。絶対的な真理を探す気は更々ないが、生の意味と無意味とを見つめざるを得なくなってくる。何とはなしに「騙(だま)されてきた感」が募ってくるのだ。形成されてきた自我の動揺。そしてぬかるみに築いてしまった自己の再構築。人はいくつになっても成長できるものだ。


 三木清は戦前、マルクス主義者であったが転向したとされている。そうだとすれば、彼は人並み以上に「人間の弱さ」を知悉(ちしつ)していたことだろう。大政翼賛会に刃向かうためには、宗教的信条ともいえるほどの強靭な信念を必要としたはずだ。時代が騒然とする中で冷静な判断――あるいはヒューマニズムを標榜すること――などできるものではない。


 大衆が何かに熱狂している時は暴徒と化している。交通整理を試みようとする人は、まずいない。そんなことをすれば、たちまち袋叩きにされてしまう。


 三木は弱かった。であればこそ、これほど深い内省に辿り着くことができたのではないだろうか。


 若き日に感銘を受け、ノートに記し、人にも伝えてきた言葉を再確認したい――


 虚栄心はまず社会を対象としている。しかるに名誉心はまず自己を対象とする。虚栄心が対世間であるのに反して、名誉心は自己の品位についての自覚である。


【『人生論ノート』三木清創元社、1941年/新潮文庫、1954年)以下同】


 名誉心は個人意識にとっていわば構成的である。個人であろうとすること、それが最深の、また最高の名誉心である。


 古来、武士は恥のために命を捨てた。恥の感覚もまた、対世間によって生まれるものである。とすれば、恥は名誉と似ていながら、実は虚栄心の隣に位置している。


「自分自身に対して恥ずかしい場合もあるのではないか?」という反論が聞こえてきそうだが、確かにそれはあり得る。でもさ、実際は家に一人でいて「恥ずかしさ」を覚える状況は、まず存在しない。パンツ一丁でも全然平気だもんな(笑)。朝起きて顔も洗わないとかさ。


武士は食わねど高楊枝(たかようじ)」とも言う。やっぱり、見栄坊っぽい。俺は嫌だね。そういう生き方は。


 20年前に痺れた言葉だが、今なら静かに受け止めることができる。「最深の、また最高の名誉心」とは“真の自由”を意味している。世間の足枷(あしかせ)に縛られることなく、本来ありのままの自分に生きる時、人は自由な境涯を獲得でき、どこにあろうと自在の振る舞いができる。自由と自在はセットだ。


 現実の生活は多くの人々に依存している。しかし、たった一人で立ち上がり、たった一人で歩み、たった一人で生きてゆく覚悟がなければ、生を十全に味わうことはできない。自分が自分であることの意味は、孤独の豊かさとも言うべき性質のものであろう。

人生論ノート (新潮文庫)

カテゴリーを追加


 カテゴリーに「生と死」を追加した。

2009-11-09

匂いや爪で病気を判定する


 私はK・V・シルヴェンガダム博士という教授が、患者のにおいだけで病名を判定する方法を教えてくれたのを想い出す。糖尿病性のケトン症患者に独特のマニキュア液のような甘い息。焼きたてのパンのようなチフス患者のにおい。気のぬけたビールのような嫌なにおいがする腺病。むしったばかりのニワトリの羽のようなにおいの風疹。肺膿瘍の腐敗臭。ガラス洗浄剤のようなアンモニア臭のある肝臓病患者。(最近の小児科医なら、シュードモナス感染のグレープジュースのようなにおいや、イソバレリアン酸血症の汗臭い足のようなにおいを、これにつけ加えるかもしれない。)手の指を注意深く調べなさい、とシルヴェンガダム教授は言った。肺癌になったとき臨床的な徴候があらわれるずっと前に、指と爪床の角度がほんの少し変化して、その予兆となることがあるからだ。驚くべきことにこの徴候――ばち指形成――は、外科医が癌を切除したとたんに手術台の上で、たちまち消えてしまう。この原因は今日もまだわかっていない。また別の恩師である神経学の教授は、パーキンソン病の診断をするときは目を閉じて患者の足音で診断するようにと、いつも強調していた(パーキンソン病の患者は特徴的な足を引きずる歩き方をする)。このような臨床医学の探偵めいた側面は、現代のハイテク医学のなかでは、滅びゆくわざであるが、私の心のなかにはしっかりと植えつけられている。患者を注意深く観察し、聞き、触れることで、そしてそう、においをかぐことでも、妥当な診断に到達できる。検査はすでに知っていることを確認するために使うだけだ。


【『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー/山下篤子訳(角川書店、1999年)】

脳のなかの幽霊 (角川文庫)

サティシュ・クマール


 1冊読了。


 127冊目『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール/尾関修、尾関沢人〈おぜき・さわと〉訳(講談社学術文庫、2005年)/サティシュ・クマールは少年時代にジャイナ教の僧侶となり、18歳でガンジー思想に目覚めた。世界各地を巡礼し識者との対談を重ねている。バートランド・ラッセルマーチン・ルーサー・キングシューマッハーなど。注目すべきは前半に次々と登場する母親の言葉と、クリシュナムルティー(本書表記のママ)との出会いだ。本書は思想的なまとまりを欠いているが、これだけでも読む価値がある。また、ジャイナ教裸形派のストイックなまでの非暴力も実に新鮮だ。仏教、ヒンズー教、ジャイナ教などを融合した土俗的な思想という印象を受けた。日本の八百万(やおよろず)の神的曖昧さが目立ち、何でもありの寄せ鍋状態。このため確かに平和を志向してはいるのだが、思想的なキレが欠如している。元々インドでは独りで覚った人をブッダ(目覚めた人)と呼称していたが、その後阿羅漢と呼ばれるようになる。サティシュ・クマールは声聞だ。真面目で謙虚だが面白くない。読み書きのできない実母があれほどの智慧の言葉を語りながらも、著者が僧侶の道から外れた時の混乱ぶりには考えさせられた。

直観


 これ、直達正観(じきたつしょうかん)なり。


クリシュナムルティ●直観は、英知の極致、頂点、精髄なのです。


【『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J.クリシュナムルティ/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】

私は何も信じない―クリシュナムルティ対談集

2009-11-08

過去は終わらない


 過去は終わらない。記憶の中で現在へと流れ通う。


 蒼いお月様が泣いております

 未だ終わらぬ過去があります


【「平和の琉歌サザンオールスターズネーネーズ

逃げ惑う少年の悟りの如き諦観


 2〜3時間が過ぎてから、サイドゥはとても深い声で、まるでだれかが乗り移ったみたいに、こう言ったのだ。「あと何回ぐらい死を受け入れれば、安全な場所が見つかるんだろう?」


【『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア/忠平美幸〈ただひら・みゆき〉訳(河出書房新社、2008年)】

戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった

人間に自由意思はない/『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二


 脳科学の最新トピックを紹介する軽めの科学エッセイ。といっても、軽いのは文体であって内容はヘビー級だ。恐るべきスピードで進展する科学の世界は刺激に満ちていて昂奮させられる。


 では早速本題に入ろう――


 科学的な見地としては、自由意思はおそらく“ない”だろうといわれています。


【『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二〈いけがや・ゆうじ〉(祥伝社、2006年/新潮文庫、2010年)以下同】


 マジっすか? ってこたあ、人間はただ反応しているだけなんスか? 池谷さんよ、証拠を出して下さいよ、証拠を!


 ヒトと違って、ヒルの脳は単純です。神経細胞も全部で数万個しかありません。これらの神経はどうネットワークを作っているのかもだいたいわかっています。つまり、実験のツールとして、ヒルというのは優れた標本なのです。この神経回路をしらみ潰(つぶ)しに調べていくと、泳いで逃げるか、這って逃げるかを、どの神経細胞が決定しているかがわかります。

 実際に、突き止められたのです。208番という番号のついた神経細胞がそれでした。


 神経細胞には、電気活動としての「ゆらぎ」があります。

 神経の細胞膜の電気が、ノイズとして、とくに理由なく「ゆらぐ」のです。空中の風と同じで、明確な原因があるというわけではなくて、システムというのは、そこに存在するだけでゆらいでいます。つまり、神経細胞の膜の電気が、たくさん溜まっているときと、少ないときとがあるわけです。

 そして、わかったことはこうだったのです。細胞膜の電気がたくさん溜まっているときに、刺激が来ると泳いで逃げる。逆に、溜まっていないときに刺激が来ると、今度は別の行動、つまり這って逃げたのです。実にそれだけのことだったのです。〈自由意思〉、〈選択〉をとことん突き詰めていくと、要は、「ゆらぎが決めていた」にすぎなかったのです。刺激がきたときに、たまたま神経細胞がどんな状態だったかによって行動が決まってくるわけです。

 私たちの高度な〈選択〉もよく考えてみると、絶対的な根拠なんてものはありません。


 エ? ヒルと人間を一緒にするんですか? 確かに他人の生き血を啜(すす)っているような連中はいる。ヌラァーっとした性格の男も存在する。やっぱりヒルと遜色がないのか? ないね。違うとすれば記憶の量だけだろう。


 文化、価値観、善悪、損得、好き嫌い、欲望、願望、希望、理想、そして時間の概念――これらは全て記憶に依存しているのだ。決断とは、記憶の中から瞬間的に整合性を導き出す瞬発力を意味する。実は足し算引き算程度の関数しか働いていないように感じる。


 これがだ、脳内の電気信号による「ゆらぎ」に過ぎないとすれば、我々の人生――つまり選択の積み重ね――ってえのあ、風まかせということになる。「愛は風まかせ」なのは知っていたが、よもや脳まで風まかせだったとは……。


 でも、よく考えてみると自然界の一切がゆらめいている。光と風、雲や波、そして川……。何も気体と液体に限ったことではない。固体だって時間とともに風化するのだ。長大な時間軸から見ればやはり流動的なのだ。フーム、諸行無常か。そして万物は流転する。


 結構ショッキングな事実ではあるが、「なあんだ、ゆらぎだったのね」と安心するような気持ちにもなる。決断には責任が伴うが、ゆらぎだと思えば何度でもやり直しができそうな気になってくる(笑)。昨日のゆらぎで失敗したなら、今日反対方向に揺さぶればいいだけの話だ。


 ただ、こんな話を知ってしまうと選挙結果なんか、まるで信用できなくなる。日本人の脳がたまたま民主党にゆらいでしまったということなのだろう。


 どうやら、条件反射の能力を磨く必要がありそうだ。

脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!? 脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!? (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-11-07

マスメディア自身に改善能力はないかもしれない


(※フジテレビ系列「発掘! あるある大事典II」の“納豆ダイエット”で捏造があったことが報じられた日に、著者は畜産セミナーで講演を行っていた)

 会場から質問の声があがりました。

「メディアは農業に関する知識を持たず、初歩的な質問を繰り返した挙げ句、間違ったことを書く。どうしたらあのような報道を止められるのですか。業界として何をしたらよいのでしょうか」

 これに対して私は、「恥ずかしいことですが、マスメディア自身に改善能力はないかもしれません。まず皆さんが、正しい情報を、誠意をもって公開し、消費者に届けることが大事です。メディアの人たちは勉強しようとしないので、勉強する場をお膳立てしてあげることも効果があるでしょう。一部の業界は、メディアセミナーを定期的に開いて一定の効果をあげています。情けないのですが、そういう場をこちらから用意してあげなければならないのが、メディアの実状です」と答えました。


【『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学松永和紀〈まつなが・わき〉(光文社新書、2007年)】

メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 (光文社新書)

教会と大学による諜報活動/『インテリジェンス 武器なき戦争』手嶋龍一、佐藤優


 期待したほどではなかった。丁々発止(ちょうちょうはっし)、侃々諤々(かんかんがくがく)、喧々囂々(けんけんごうとう)とまでは言わないが、対談というものはもっと緊張感があってしかるべきだ。それがあって初めて、対話の妙が生まれる。基本的に手嶋の姿勢がまるでなってない。礼を失すること甚だしい。面と向かって佐藤を「ラスプーチン」呼ばわりしている。


 ま、挨拶、あるいは情報交換といった程度の内容となっているが、それでもやはりこの二人ならではの薀蓄(うんちく)には目を瞠(みは)るべきものがある。国際社会がどのような政治力学で動いているか、そしてそのための情報収集、情報の取捨選択、情報発信について考えさせられる。


手嶋●(東京は)これだけ生活コストがかかる街にもかかわらず、これはという情報組織は一級の人材を送り込んできている。意外な、と思われるでしょうが、ヴァチカン市国は、隠れた情報大国です。近世の対日諜報報告は、古典に挙げられるほどの水準です。軍事力は皆無に等しいのですが、彼らが全世界に張り巡らしている聖職者のネットワークは、実に整ったものです。そのインテリジェンス能力にはいまも侮りがたいものがある。


【『インテリジェンス 武器なき戦争』手嶋龍一〈てしま・りゅういち〉、佐藤優〈さとう・まさる〉(幻冬舎新書、2006年)以下同】


 例えば十字軍(1095-)、またはテンプル騎士団(1096-)、あるいはイエズス会(1534-)――キリスト教会の歴史はキリスト教による世界制覇の歴史であった。特にイエズス会は、大航海時代(15-17世紀)を背景にして貿易に従事するとともに、相手国の内情を本国に報告していた。そもそも、世界中を航海して回るには莫大な資金が必要となる。すると当然ながら教会としては「先行投資」的意味合いを持たせる必要が生じる。取り敢えずのところは珍しい物があれば構わないが、資源や食料があれば投資結果は倍増する。あるいは奴隷――。

佐藤●では、ニュースソースは誰か。この種の話はきちんとしておいたほうがいいと思うので、あえて踏み込んでお話ししますが、ロシアには科学アカデミーという組織があります。ロシアの最高学府はモスクワ大学で、そこでは東京大学よりもエリートの絞り込みが行われていますが、そのモスクワ大学よりもさらに絞り込んでいるのが科学アカデミーですね。たとえば民族学人類学研究所なら研究員は600人、大学院生は6〜7人しかいない。年によっては入学試験合格の該当者なしということもあります。つまり、そこの大学院(3年制)に入学すれば研究者もしくは大学講師の道が保証される。大学は教育研究機関ですが、科学アカデミーはそれより一段上の研究機関なんです。

 その科学アカデミーの中に、東洋学研究所というのがあるんですね。日本の仏教研究などを行っているのですが、それと同時に、いわゆるオリエンタリスト(東洋学者)というのは各国の植民地支配の手先になったので、常に諜報と深く関係している。諜報員が擬装に使う研究所でもっとも多いのは、科学アカデミーの東洋学研究所なんです。


 何とアカデミーの世界でも諜報活動は行われていた。っていうか、これがグローバルスタンダードなんだよな、本当は。日本の脳天気ぶりがよくわかる。つまり世界の宗教、学術機関には明快な「戦略」があるということだ。そしてそれは、いずれも「対外戦略」となっている。


 日本のエリートはどうしても「内向き」になる。大学は一流企業に就職するための通過儀礼であり、官僚選抜のふるいに過ぎない。これでは、「自分の栄誉栄達」が目的になってしまうのは致し方ないだろう。国際社会の荒波に向かっていける力量はなく、巨大なコンクリートの建物の中で座り心地のいい椅子に納まっているの関の山だ。あるいはせいぜい狭い世界で居丈高に振る舞うくらいのことしかできない。きっと日本人のDNAには「島国根性」と筆文字で書かれているに違いない。


 我が国が世界において抜きん出ているのは、やはり高い技術性であろう。せめて、これらの技術を戦略的に活用することを望みたい。

インテリジェンス 武器なき戦争 (幻冬舎新書)

2009-11-06

紙屋克子


 1冊読了。


 126冊目『紙屋克子 看護の心 そして技術/課外授業 ようこそ先輩・別冊』NHK「課外授業 ようこそ先輩」制作グループ、KTC中央出版編(KTC中央出版、2001年)/fwikさんから勧められた一冊。好著。紙屋の人柄が素晴らしく、何となく涙が出てきてしまう。言葉の端々に「寄せる思い」が現れている。意識障害の患者が、録音された友人のメッセージを聴いて泣き出すシーンを私はテレビで観ていた。一つだけ残念なのは、意識障害の回復に対してさほど新しい情報がないこと。声掛け、座位、立位、食事、体位変換など現在では既に常識となっている。医療ではなく看護という視点からのアプローチが、紙屋の創造的なところで今まで以上に患者と家族に寄り添う位置で奮闘している。紙屋と宮本省三がつながると面白い。それにしても、KTC中央出版ってのは何なのかね? NHKの天下り先か?

途方もなく巨大な建築物は崩壊の影を投げかけている


 一度、とアウステルリッツは言い添えた。建築物の大きさの順に並べたリストを作ってみるといいのです、この国の建物でふつう以下の大きさのもの――たとえば野中の小屋、庵、水門のわきの番小屋、望楼、庭園の中の子供のための別荘(ヴィラ)――がいずれも少なくとも平和のはしくれ程度は感じさせてくれるのに、ひるがえってかつて絞首台が置かれていた通称首吊り丘、あそこに立つブリュッセル裁判所のような巨大建造物について、これを好きだという人は、まともな感覚の持ち主にはまずいないでしょう。驚くというのがせいぜいのところで、そしてこの驚きが恐怖に変わるのは、あともう一歩なのです。なぜなら、途方もなく巨大な建築物は崩壊の影をすでにして地に投げかけ、廃墟としての後のありさまをもともと構想のうちに宿している、そのことを私たちは本能的に知っているのですから。


【『アウステルリッツ』W・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳(白水社、2003年)】

アウステルリッツ

2009-11-05

クリシュナムルティとの出会いは衝撃というよりも事故そのもの/『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ


 読み始めたのは10月の19日か20日だった。私はクリシュナムルティの名前は知っていたが、いかなる人物なのか皆目見当もつかなかった。ところが、『Zeitgeist Addendum/ツァイトガイスト・アデンダム』を観て一変した。プロローグとエピローグでクリシュナムルティが登場したのだ。ということは、この映画作品自体がクリシュナムルティからの思想的影響を受けていることになろう。私は居ても立ってもいられなくなった。


 今日、4冊目のクリシュナムルティ作品を読み終えた。クリシュナムルティとの出会いは、「智慧との遭遇」であった。私の人生に及ぼした深度を踏まえると、それは“衝撃”というよりは、“事故”といった方が相応(ふさわ)しい。


 私は6歳から本を読み始めた。今でもありありと覚えているが、二十歳(はたち)くらいの従姉(いとこ)と児童向けの雑誌を読んでいた時、突然文字が読めるようになった。文字を指でなぞり、おもむろに声を上げた――「タンクローリー」と。長い読書遍歴はこうして幕を開けた。


 小学生の時分は図書室の半分以上の本を読んだ。怪盗ルパンシリーズを経て、SFジュブナイルへと進み、中学の教科書で夏目漱石の『坊っちゃん』を知り、生まれて初めて買った文庫本となった。当時、90円だったと記憶している。10代後半から20代は乱読の季節だった。手当たり次第何でも読んだ。やや、ミステリに傾くきらいはあった。この頃からノートに抜き書きをするようになった。


 一昨年から経済・金融関連に手をつけ始め、以前から読んできた仏教書も開くようになった。昨年は科学モノを渉猟し、ゲーデル不完全性定理トール・ノーレットランダーシュ著『ユーザーイリュージョン』が私にとってはエポックメーキングとなった。


 そして今、40年に及ぶ読書遍歴がクリシュナムルティに帰結したと思えてならないのだ。辿り着いたという確かな手応えがある。広々とした世界が見えるのは山頂に達した証拠だ。さて、ここからどうしたものか(笑)。あとは、降りるか飛ぶかしかないわな。


 本書の冒頭に収められているのは、フィラデルフィア・オーケストラの著名な指揮者レオポルド・ストコフスキーとの対談である。この時、クリシュナムルティは33歳。ストコフスキーの戸惑いが随所に見られる。


クリシュナムルティ●ですから質問はこうです。もし個人の目標が自由と幸福なら、集合的な目標は何か? それはまったく同じだ、と私は言います。個々人間を区別するものは何でしょう? 形態です。あなたの形態は私のそれとは違いますが、しかしあなたの奥の生と私の奥のそれは同じです。ですから、生は結合(ユニティ)です。それゆえ、あなたの生と私の生は同様にして、永遠なるもの、自由、幸福であるところのものに極まらねばならないのです。


【『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】


 世界中の人々が自由と幸福を求めているにもかかわらず、人々の集合体としての国家は自由と幸福を奪い侵略する。例えば会社においてもそれは同様だ。社員は皆、「気持ちよく仕事がしたい」と思っているにもかかわらず、会社の利益のために社員は交換可能な部品として扱われる。そして動力を持たない歯車は、回りの動きに支配されてしまう。


 集団には集団の力学が働く。組織は好むと好まざるとにかかわらずヒエラルキーを生み出す。人体という組織は脳が支配しているのだ。どんなに頑張ったところで足の裏はおでこにはなれない。


 時代劇でよく「頭(ず)が高い!」というセリフを耳にする。人体のネットワークが上位に脳を配しているため、社会構造も上意下達(じょういかたつ)型のピラミッド構造とならざるを得ない。このセリフは社会の上下関係を示すとともに、権力者が個人の内部における上下関係をも自在に操れることを意味している。頭が上に付いているのに、「下げろ」って言うんだからね。


 ところがクリシュナムルティは、集団の目的も「同じだ」と断言している。これは、「現在の」ではなく「本来の」といった意味合いなのだろう。そして、世界を覆う差別意識が「形態」に由来していることを示唆している。更に「生の本然」が形態を超えて平等であることを宣言する。凄い……。もうね、グウの音も出ないよ。


「此の十法界(じっぽうかい)は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり、一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し」(「三世諸仏総勘文教相廃立」〈さんぜしょぶつそうかんもんきょうそうはいりゅう〉)――日蓮の思想とクリシュナムルティは完全に一致している。


 クリシュナムルティを通して仏教を捉え直すことが、これからの私のライフワークとなりそうだ。

私は何も信じない―クリシュナムルティ対談集

J・クリシュナムルティ


 1冊読了。


 125冊目『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)/クリシュナムルティ関連4冊目を読み終えた。クリシュナムルティとの邂逅(かいこう)は、もはや私にとって衝撃というレベルを軽々と凌駕し、「事故」そのものといってよい。クリシュナムルティという巨大なトラックにはね飛ばされ、砕け散ったのは私の卑小な自我である。40年間に及ぶ読書遍歴において、遂に頂点に達した感を抱く。これは、「途轍(とてつ)もない一冊」である。

妄想の具体性


 私は思わず、これは現実の会話なんだろうか、それとも『権力――その獲得と活用』なる本の168ページでも読んでいるんだろうかと考え込んだ。たぶん、現実なんだろう。


【『ピアノ・ソナタ』S・J・ローザン/直良和美訳(創元推理文庫、1998年)】

ピアノ・ソナタ (創元推理文庫)

2009-11-04

『正統と異端 ヨーロッパ精神の底流』堀米庸三(中公新書、1964年)


正統と異端 ヨーロッパ精神の底流


 目的は手段を正当化しない。たとえそれが人類救済のためであっても。すでに11世紀のローマ法王は、教会の腐敗をただし正統の信仰をたてるため、異端的手段を用いた。その結果は、12〜13世紀の一大異端運動となり正統を標榜する己れにはね返った。キリスト教会をめぐるこのような正統と異端の激烈な争いは、そのまま現代のイデオロギーの問題にかかわる。西洋中世史家が20年来抱き続けてきたテーマの成果がここにある。

視覚には複数の機能がある


 その後、「神経をつなぎ変えた」カエルを人工的な獲物を用いてテストしたところ、カエルは向きを変え、獲物を捕獲するためにすばやく舌を伸ばしたが、その方向は獲物が提示された側とは逆方向であった。この「左右逆の」行動が生じたのは、カエルの獲物捕獲システムが誤って配線し直されたことによる。

 しかしこれは、カエルの視覚世界全体が左右反転しているということではない。イングルがこの同じカエルを用いて、行く手を阻んでいる障壁を避けてジャンプする能力をテストすると、その運動はまったく正常だった。獲物の捕獲でエラーをおかした同じ場所に障壁が置かれても、ジャンプは正常だった。あたかも、カエルが障壁を回避するときには外界を正確に見ているが、獲物を捕獲するときには外界を左右逆に見ているかのようである。実際イングルは、視神経が依然として障害物回避モジュールと正常に連絡していることを発見した。


【『もうひとつの視覚 〈見えない視覚〉はどのように発見されたか』メルヴィン・グッデイル、デイヴィッド・ミルナー/鈴木光太郎、工藤信雄訳(新曜社、2008年)】

もうひとつの視覚―〈見えない視覚〉はどのように発見されたか

悩める人々に示す戦略の数々/『インテリジェンス人生相談 社会編』佐藤優


 この人は実務家だ。その点で佐藤優伊勢崎賢治は似たタイプだと思う。実務家は仕事や任務の範囲に明快な線を引き、何をどうすることで目標が達成できるかに集中する。彼等は障害が発生するたびに戦略を練り、駆け引きに応じ、自分が泥をかぶる場面があってもそれを厭(いと)わない。そう。プラグマティズムの体現者なのだ。


 個人編とは打って変わって、やはり格差問題が多い。相談者は資本主義の犠牲者といえるだろう。富は偏在する。だからこそ国家が税を徴収し再分配するわけだが、これが上手く機能していない。再分配先が大企業――すなわち官僚の天下り先――となっているためだ。偏在する富は国家の手によって、更に隅っこの方へ片寄ることとなる。ま、少々の犠牲には目をつぶろうってわけだよ。


 佐藤は相談者に対して、何ができて何ができないかを同じ目線で考え、具体的な戦略を提示する。読みやすいこともあって素通りしてしまいそうになるが、大事な情報があちこちに散りばめられている。


 例えばネットカフェ難民に対するアドバイスはこうだ――


 人間は環境順応性の高い動物です。ネットカフェ難民は、太陽の光の下でスーツや下着を干さないので、独特の臭いが生じます。踊り場や屋上に服を干して、ネットカフェ生活から抜け出す決断をすることです。


【『インテリジェンス人生相談 社会編』佐藤優〈さとう・まさる〉(扶桑社、2009年)以下同】


 ね、凄いでしょ。恐るべき想像力である。佐藤の脳には多分、相談者の映像が浮かび上がっているのだろう。あるいは意図的に映像化しているのかもしれない。


 また、こんな言葉もある――


 自分のことを「ダメ人間」と思っている人は決してダメ人間ではないのです。どうしてかというと、ダメである自分を外側から観察しているもう一人の自分がいるからです。もしほんとうのダメ人間ならば、自分がダメであるということに気づきません。


 心理的・哲学的でありながらも心優しいメッセージだ。佐藤は相談者と向かい合った位置に身を置かない。相談者と同じ方向を見つめながら、寄り添っているのだ。


 この男は、ひょっとしたら獄中で何かを悟ったのかもしれない。いや、ホントに。

インテリジェンス人生相談 [個人編] インテリジェンス人生相談 [社会編]

2009-11-03

働く人、働かざるを得ない人、働かされる人の意味/『地球のハローワーク』フェルディナンド・プロッツマン


 フェルディナンド・プロップマンの文章が余計だ。所詮、デスクの上で写真を眺めながら書いている文章に過ぎない。しかも、彼はそれを書くことで報酬を得ているはずだ。二重に許し難い。


 それでも、いい写真集である。生きる糧(かて)を獲得するための生業(なりわい)はこんなに豊富なのだ。「何をしてでも、食っていけるな」――そんな気にさせられる。


 豪華な休憩室で寛ぐ証券トレーダーがいると思えば、裸のまま物乞いをさせられている赤ん坊もいる。険しい表情でカメラを睨(にら)みつけているのは、1世紀以上も前に紡績工場で働く少女達だ。奴隷のような扱いを受けていたことが一目瞭然である。ルーブル美術館で働く人々の左側に「モナ・リザ」が写っている。ここでは天下の名画も脇役だ。


 迫力に満ちているのは、やはり肉体労働である。真っ黒になった炭鉱労働者の後ろ姿は疲労そのものだ。そして圧巻は金鉱で働く男達の脚がアップになった写真。異様なまでに発達した筋肉が黒光りしている。彼等は食うために働き、金のために働いているのだろう。金鉱を所持する資本家にすれば、彼等は「経費の一部」に過ぎない。資本主義が等価交換で成り立っていると思ったら大間違いだ。必ず資産を持つ人間が有利になるゲームに過ぎない。だからこそ労働者の脚は怒りでパンパンに膨(ふく)れ上がっているのだ。


「写真はとりわけ写実性が強く、ほかの表現形式にはない固有の魅力がある。そのため、一般の人たちはつい、写真が必ず事実を写しとっているものと信じ込んでしまう。もちろん、私たちは写真に対する信頼が、激しく揺らいでいることを承知している。というのは、写真は嘘をつかなくても、嘘つきが写真を撮ることは可能だからだ。だからこそ、私たちは真実を明らかにするうえで、カメラを悪用しないよう責任を持たねばならない」(※写真家ルイス・W・ハインが1909年に語った言葉)


【『地球のハローワーク』フェルディナンド・プロッツマン/関利枝子、伯耆友子、岡田凛、小林洋子訳(日経ナショナルジオグラフィック社、2009年)】


「写真は嘘をつかなくても、嘘つきが写真を撮ることは可能だからだ」――痺れる言葉だ。ということは、100年以上も前から嘘つきがいたことになる。それ以降は増加の一途を辿っている。もはや、嘘つき以外を探すのに苦労するほどだ。


 写真は事実を写し出している。だが、いつシャッターを切るかは撮影者に委ねられている。意図がタイミングを計る。その意図が問題なのだ。今時ときたら、劣悪な表情、邪悪な態度、隠しておきたいプライバシー、物珍しい光景、悲惨な事故現場、戦地の遺体、そして裸の女……そんな写真が求められるようになってしまった。


 大衆は刺激を欲している。なぜか? 日常生活が退屈だからだ。ゆえに、写真や映像に対して非日常・非現実を求めてやまない。


「お前の眼は節穴(ふしあな)なのか?」「その通り」――そして節穴から薄汚れた世界を眺めていたのは「黒い欲望」であった。曇った瞳に真実が映し出されることはない。


地球のハローワーク

ムッソリーニは英国のスパイだった、英紙報道


 英ガーディアン(Guardian)紙は14日、イタリアの独裁者ベニト・ムソリーニ(Benito Mussolini)が一時期、英国のスパイとして働いていたと伝えた。英ケンブリッジ大(Cambridge University)の歴史家ピーター・マートランド(Peter Martland)氏の研究で明らかになったという。

 1917年、記者として働いていたムソリーニ氏は、英情報局保安部(MI5)から週100ポンドを受け取り、イタリアが第1次世界大戦(World War I)の戦線から離脱しないよう運動したという。

「革命を受けロシアが戦線から離脱した後、英国が最も信頼できない同盟国と考えていたのがイタリアだった」

 マートランド氏によると、「ムソリーニは1917年秋から少なくとも1年間、毎週100ポンドを受け取り、戦争支持のプロパガンダを続ける活動をした」。当時の100ポンドは現在の6000ポンド(約86万円)に相当する。

 当時ローマ(Rome)で英国情報員100人ほどを指揮していたMI5のサミュエル・ホア(Samuel Hoare)卿の書類を研究し、この事実をつきとめたという。

 報道によると、ムソリーニは自らが編集を務める「ポポロ・ディタリア(Il Popolo d'Italia)」紙上に戦意高揚の記事を掲載しただけでなく、イタリア退役軍人を送り込んで反戦デモ参加者らに暴行を加えることにも同意したという。

 マートランド氏は、「ただのジャーナリストに支払う金額としては高額だが、英国の1日あたりの戦費400万ポンドからみれば小銭だった」と説明し、「証拠はないが、女好きのムソリーニのことだから、愛人たちにも多額を使っただろうね」と語った。


AFP 2009-10-14】 

2009-11-02

めくるめく匂いの世界


 そんなふうにしてことばを学んだ。匂いと関係のないことば、抽象的な概念をあらわして、とりわけ倫理や道徳とかかわっていることばがグルヌイユには苦手だった。記憶できず、使おうとするとまちがえた。大人になってからも用いるのを好まなかった。しばしば言いまちがった。権利とか良心、神、よろこび、責任、謙虚さ、感謝といったことばだが、そもそも何を意味しているのやら、いつまでたっても呑みこめない。

 その一方でグルヌイユには間もなく、自分が嗅ぎとった事物を表わすのに世のことばでは足りなくなった。彼は単に木を嗅いで知っただけでなく、やがて木の種類までも嗅ぎわけた。欅(けやき)やオークや松や楡(にれ)や梨(なし)はもとより、古木や新木、枯れ木や朽ち木や苔むした木、さらには薪や木切れや木屑の場合でも――ほかの人なら目で見ても区別のつかないものも、匂いではっきり嗅ぎわけた。むろん、木ばかりとはかぎらない。マダム・ガイヤールが毎朝、食卓に配る白い飲み物、ミルクとは称していたが、グルヌイユの鼻によれば朝ごとにまるきり別のしろもので、暖めぐあい、どんな牝牛の乳をしぼったものか、その牝牛はいかなる餌をあてがわれているか、クリームをどれほど入れたか……等々によって一日として同じ味がすることはない……あるいは煙はどうだ。何十、何百ものさまざまな臭いがまじり合って、あわただしく変化する。火事のときの煙のように千変万化するあのものが、単に〈煙〉と呼ばれるだけでいいものか。……土地や風景や空気にしても、一歩ごとに変化するではないか。一息つくごとに匂いが入れかわり、まるで別個のものになるというのに、およそたわいない命名にとどまっているのはどうしてか。匂いで嗅ぎとった世界のゆたかさと、ことばの哀れむべき貧弱さ。そのおそろしいかけ違いを前にして、グルヌイユはことばの方を疑わないではいられなかった。他人との交わりでどうしても必要なとき、彼はしぶしぶそれを用いるだけだった。

 6歳のとき、彼は嗅覚を通して周りの世界を完全に了解していた。匂いによって知り、再び匂いで識別して、それぞれをしっかりと記憶に刻みつける。そんなふうにして彼はマダム・ガイヤールの家にあるものすべてを知り尽くしていた。シャロンヌ通りの北に関して、隅から隅まで舐めるように承知していた。人や石や木や茂みや屋根、またほんのちょっとした場所であれ、彼の鼻が嗅ぎわけないものはないのだった。何万、何十万もの匂いの種類を嗅ぎとって、はっきりと記憶のなかに収めている。その匂いを再び嗅いだとたん、当のそのものを思い出すばかりでなく、思い出したとたんに、まざまざとその匂いを鼻で嗅いだ。それだけではない。少年は空想のなかで匂いを組み合わせるすべを心得ており、現実には存在しない匂いですら生み出すことができたのである。いわばひとり当人が独習した膨大な匂いの語彙集といったところで、それでもって思いのままに新しい文章を綴ることができるというもの。しかもこの幼さにしてである。ほかの子どもたちが、ようやく習得したことばでもって、およそたわいないこの世の認識の結果をたどたどしい作文に綴るのがせいぜいの齢ごろ。この点、グルヌイユの異才は、ときとして音楽の世界に現われる神童と較べるのがふさわしいかもしれない。メロディーやハーモニーのなかに音階のことばを聴きとって、みずからまったく新しいメロディーやハーモニーを生み出せる――ただし、あきらかに匂い語の方が音階のことばよりも、はるかに強烈で複雑だろうし、それにこちらの神童グルヌイユの場合、創造の傑作はただ彼の心のなかにだけ表現をみて、当人以外の誰の耳にとどくわけでもなかったのである。


【『香水 ある人殺しの物語』パトリック・ジュースキント池内紀訳(文藝春秋、1988年/文春文庫、2003年)】

香水―ある人殺しの物語 (文春文庫)

「祝婚歌」高野建一 feat. ネーネーズ


 私は声量のない高音の男性ミュージシャンが苦手だ。しかも、歌詞が恐ろしいまでに陳腐である。それでも紹介するのは、ネーネーズのコーラスに痺れたからだ。もうね、呪術の領域に達しているよ。日本人の心を揺さぶるのは、声量ではなく節回しであることに気づくだろう。



祝婚歌

2009-11-01

「恋人がサンタクロース」


 12月になると、街にユーミンの歌声が溢れかえる。これは、もう10年も前から進行しているこの国の病気のようなものだ。

 なかでも「恋人がサンタクロース」というあの不穏な主張を含んだ歌は、最も高い頻度で、まるでシュプレヒコールみたいに脅迫的な調子でスピーカーから連呼される。

「ふざけるな、女に尽くすだけが男の甲斐性だってのか?」

 まだ20代だったころ、私はこの歌に出てくるサンタ野郎に大いに反発して、「恋人が編んだズロース」という替歌を作ったことがある。恋人のために毛糸のズロースを編む男の哀れな姿を描写した歌だ。

 いい歌だった。

 が、だれもほめてくれなかった。

 何人かが片頬で笑っただけだった。


【『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆JICC出版局、1993年)】

仏の顔もサンドバッグ

大野純一


 1冊読了。


 124冊目『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2000年)/クリシュナムルティ3冊目。ススナガ・ウェーラペルマには若干かなわないが、それでも大野の解説は気魄(きはく)のこもったもので、心を打たれる。クリシュナムルティが「現代のブッダ」と呼ばれたのも得心がゆく。真の対話、真の英知、真の目覚めが脈打っている。それでいて、クリシュナムルティはグル(導師)となることを拒絶しているのだ。一切の束縛を打破し、自分自身の中に必ず答えがあると教えている。我々に真実が見えないのは、ありとあらゆる「条件づけ」に支配されているためだ。

2009年10月のアクセスランキング


順位記事タイトル
1位日本は「最悪の借金を持つ国」であり、「世界で一番の大金持ちの国」/『国債を刷れ! 「国の借金は税金で返せ」のウソ』廣宮孝信
2位ジニ係数から見えてくる日本社会の格差/『貧乏人のデイトレ 金持ちのインベストメント ノーベル賞学者とスイス人富豪に学ぶ智恵』北村慶
3位山崎豊子の盗作疑惑
4位その男、本村洋/『裁判官が見た光市母子殺害事件 天網恢恢 疎にして逃さず』井上薫
5位アインシュタインを超える天才ラマヌジャン/『無限の天才 夭逝の数学者・ラマヌジャン』ロバート・カニーゲル
6位昭和の脱獄王・白鳥由栄/『破獄』吉村昭
7位少年兵は流れ作業のように手足を切り落とした/『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』後藤健二
8位ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記レヴェリアン・ルラングァ
9位巧みな介護の技/『古武術介護入門 古の身体技法をヒントに新しい身体介助法を提案する』岡田慎一郎
10位そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記』ウィリアム・ノースダーフ

民族という概念は「創られた伝統」に過ぎない/『インテリジェンス人生相談 個人編』佐藤優


 まずは、1050円という値段に抑えた扶桑社に拍手を送りたい。文章で行う人生相談は不利なところがある。相手の表情や声がわからないためだ。それゆえ答える側はどうしても一般論に傾きやすい。私は今まで開高健北方謙三のものを読んだが、面白かったという記憶がない。雑誌で連載される以上は「読み物」となるため、相談も答えも散漫で無責任だと読むのが苦しい。本当は作家の別な顔にスポットライトを当てるのが編集部の目的なのだろう。


 売れっ子作家という点では共通しているが佐藤優は違う。何と言っても佐藤は獄に繋(つな)がれた経験がある。権力との攻防に身をさらした人物は、一線を画した人生観・社会観を見出す。それは、彼等がビッグ・ブラザーを知ってしまったがためだ。


 佐藤の博覧強記と国際センスはいつもと変わらない。人々の相談に対して国際情勢を語り、神学を引用し、全力で応じている。佐藤が本気であることはページをめくって直ぐに気づく。「求婚されているが躊躇している」という女性からの相談に対し、「手鏡で自分の顔とオマンコをよく見ることです」(趣意)と答えているのだ。佐藤は決して馬鹿にしているわけではなく、「現実を知れ」という強烈なメッセージが込められている。そしてそれが、「もっと素敵な男性が現れるかもしれない」と考えている女性の甘さや思い上がりを一刀両断するのだ。このように、佐藤は実務家としての態度を貫いている。


 対中憎悪を持つ若者からの質問に対しては、次のように応じる――


 人間は自らの利害得失を冷静に計算できなくなると、周辺に次々とトラブルを呼び寄せるようになります。


【『インテリジェンス人生相談 個人編』佐藤優〈さとう・まさる〉(扶桑社、2009年)以下同】


 民族という現象は実に厄介です。誰にでも眼、鼻、口、耳があるように、民族的帰属があると考えるのが常識になっていますが、このような常識は、たかだか150年か200年くらいの歴史しかないのです。アーネスト・ゲルナーたちの研究(※『民族とナショナリズム岩波書店、1983年)の結果では、民族というものが近代的な現象であると、はっきりとした結論が出ています。民族的伝統と見られているものの大半が過去百数十年の間に「創られた伝統」に過ぎないのです。


 アイデンティティがあやふやな人々の砦(とりで)は国家となる。「お前は何者なんだ?」と尋ねられた時に、「俺は日本人だ」という程度の規定しかできないからだ。彼等には確固たる自分がなく、「俺は俺だ」と大きな声で言うことができない。


 日本人としての自覚は、外国を意識することで生まれる。歴史を振り返ってみよう。日本人が嫌でも日本人を意識したのは、間違いなく「戦争」の時だ。国威発揚、国旗掲揚、戦意高揚、欲しがりません勝つまでは、ときたもんだ。で、最後は一億玉砕。つまり、国家と命運を共にするということは自滅することを意味しているのだ。俺は嫌だね。


 国家は戦時において死ぬことを強要し、平時において税金収奪装置として機能する。証拠を一つ示そう。我々は自分が支払っている税金の総額を知らない。所得税や住民税は知っているものの、ありとあらゆる財やサービスに含まれる税率を自覚していない。酒類や煙草に至っては二重三重の税が掛けられている。


 権力者は民族主義が大好きだ。国民がまとまってくれるからね。それゆえ、国家周辺で諸外国の不穏な動きが起これば、実に好都合だ。口角泡を飛ばして危機感を煽り、専守防衛に備え、国内における外国人犯罪をフレームアップすることに余念がない。


 敵は多ければ多いほど好ましい。国民の民族意識はいやが上にも高まる。そして、右翼の街宣車はボリュームをアップしながら街中を疾走する。


 私は日本人である。だが、これは私が選択したものではない。将来、私がアメリカ人になることも、中国人になることも可能性としては残されている。そもそも、DNAのレベルでは民族的な違いというものが確認されていない。


「お前にも日本人の血が流れているはずだ」――確かにそうなんだが、実は過去にフランスで輸血をしてもらったことがある(ウソ)。

インテリジェンス人生相談 [個人編] インテリジェンス人生相談 [社会編] 民族とナショナリズム