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2009-11-02

めくるめく匂いの世界


 そんなふうにしてことばを学んだ。匂いと関係のないことば、抽象的な概念をあらわして、とりわけ倫理や道徳とかかわっていることばがグルヌイユには苦手だった。記憶できず、使おうとするとまちがえた。大人になってからも用いるのを好まなかった。しばしば言いまちがった。権利とか良心、神、よろこび、責任、謙虚さ、感謝といったことばだが、そもそも何を意味しているのやら、いつまでたっても呑みこめない。

 その一方でグルヌイユには間もなく、自分が嗅ぎとった事物を表わすのに世のことばでは足りなくなった。彼は単に木を嗅いで知っただけでなく、やがて木の種類までも嗅ぎわけた。欅(けやき)やオークや松や楡(にれ)や梨(なし)はもとより、古木や新木、枯れ木や朽ち木や苔むした木、さらには薪や木切れや木屑の場合でも――ほかの人なら目で見ても区別のつかないものも、匂いではっきり嗅ぎわけた。むろん、木ばかりとはかぎらない。マダム・ガイヤールが毎朝、食卓に配る白い飲み物、ミルクとは称していたが、グルヌイユの鼻によれば朝ごとにまるきり別のしろもので、暖めぐあい、どんな牝牛の乳をしぼったものか、その牝牛はいかなる餌をあてがわれているか、クリームをどれほど入れたか……等々によって一日として同じ味がすることはない……あるいは煙はどうだ。何十、何百ものさまざまな臭いがまじり合って、あわただしく変化する。火事のときの煙のように千変万化するあのものが、単に〈煙〉と呼ばれるだけでいいものか。……土地や風景や空気にしても、一歩ごとに変化するではないか。一息つくごとに匂いが入れかわり、まるで別個のものになるというのに、およそたわいない命名にとどまっているのはどうしてか。匂いで嗅ぎとった世界のゆたかさと、ことばの哀れむべき貧弱さ。そのおそろしいかけ違いを前にして、グルヌイユはことばの方を疑わないではいられなかった。他人との交わりでどうしても必要なとき、彼はしぶしぶそれを用いるだけだった。

 6歳のとき、彼は嗅覚を通して周りの世界を完全に了解していた。匂いによって知り、再び匂いで識別して、それぞれをしっかりと記憶に刻みつける。そんなふうにして彼はマダム・ガイヤールの家にあるものすべてを知り尽くしていた。シャロンヌ通りの北に関して、隅から隅まで舐めるように承知していた。人や石や木や茂みや屋根、またほんのちょっとした場所であれ、彼の鼻が嗅ぎわけないものはないのだった。何万、何十万もの匂いの種類を嗅ぎとって、はっきりと記憶のなかに収めている。その匂いを再び嗅いだとたん、当のそのものを思い出すばかりでなく、思い出したとたんに、まざまざとその匂いを鼻で嗅いだ。それだけではない。少年は空想のなかで匂いを組み合わせるすべを心得ており、現実には存在しない匂いですら生み出すことができたのである。いわばひとり当人が独習した膨大な匂いの語彙集といったところで、それでもって思いのままに新しい文章を綴ることができるというもの。しかもこの幼さにしてである。ほかの子どもたちが、ようやく習得したことばでもって、およそたわいないこの世の認識の結果をたどたどしい作文に綴るのがせいぜいの齢ごろ。この点、グルヌイユの異才は、ときとして音楽の世界に現われる神童と較べるのがふさわしいかもしれない。メロディーやハーモニーのなかに音階のことばを聴きとって、みずからまったく新しいメロディーやハーモニーを生み出せる――ただし、あきらかに匂い語の方が音階のことばよりも、はるかに強烈で複雑だろうし、それにこちらの神童グルヌイユの場合、創造の傑作はただ彼の心のなかにだけ表現をみて、当人以外の誰の耳にとどくわけでもなかったのである。


【『香水 ある人殺しの物語』パトリック・ジュースキント池内紀訳(文藝春秋、1988年/文春文庫、2003年)】

香水―ある人殺しの物語 (文春文庫)

「祝婚歌」高野建一 feat. ネーネーズ


 私は声量のない高音の男性ミュージシャンが苦手だ。しかも、歌詞が恐ろしいまでに陳腐である。それでも紹介するのは、ネーネーズのコーラスに痺れたからだ。もうね、呪術の領域に達しているよ。日本人の心を揺さぶるのは、声量ではなく節回しであることに気づくだろう。



祝婚歌