古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

名誉心について/『人生論ノート』三木清

 ・幸福は外に現れる
 ・現代人は健康を味わえない
 ・名誉心について
 ・人間の虚栄心は死をも対象とすることができる
 ・真の懐疑は精神の成熟を示すものである
 ・断念する者のみが希望することができる


 去る9月から読書サークルを立ち上げた。これが2冊目の課題図書だ。ちなみに1冊目はロバート・B・パーカー著『レイチェル・ウォレスを捜せ』である。いずれも選者は私だ。


 20代で一度読んでいた。警句の如き余韻に痺れた。思考を攪拌(かくはん)し、思想が滑走するような心地よさを感じた。四十半ばで再び開くと、全く異なる感慨を覚えた。


 最初は「短文だもんなー、ずるいよなー」と思ったことを白状しておこう。確かにずるい。短文は読者の想像力任せになるところがある。勝手にどうぞ、ってわけだよ。


 最大の収穫は「懐疑について」の件(くだり)であった。本当にドンピシャリと心にはまった。人生も後半になると社会を疑い、歴史を疑い、価値観を疑い、自分まで疑うようになるものだ。絶対的な真理を探す気は更々ないが、生の意味と無意味とを見つめざるを得なくなってくる。何とはなしに「騙(だま)されてきた感」が募ってくるのだ。形成されてきた自我の動揺。そしてぬかるみに築いてしまった自己の再構築。人はいくつになっても成長できるものだ。


 三木清は戦前、マルクス主義者であったが転向したとされている。そうだとすれば、彼は人並み以上に「人間の弱さ」を知悉(ちしつ)していたことだろう。大政翼賛会に刃向かうためには、宗教的信条ともいえるほどの強靭な信念を必要としたはずだ。時代が騒然とする中で冷静な判断――あるいはヒューマニズムを標榜すること――などできるものではない。


 大衆が何かに熱狂している時は暴徒と化している。交通整理を試みようとする人は、まずいない。そんなことをすれば、たちまち袋叩きにされてしまう。


 三木は弱かった。であればこそ、これほど深い内省に辿り着くことができたのではないだろうか。


 若き日に感銘を受け、ノートに記し、人にも伝えてきた言葉を再確認したい――

 虚栄心はまず社会を対象としている。しかるに名誉心はまず自己を対象とする。虚栄心が対世間であるのに反して、名誉心は自己の品位についての自覚である。


【『人生論ノート』三木清創元社、1941年/新潮文庫、1954年)以下同】

 名誉心は個人意識にとっていわば構成的である。個人であろうとすること、それが最深の、また最高の名誉心である。


 古来、武士は恥のために命を捨てた。恥の感覚もまた、対世間によって生まれるものである。とすれば、恥は名誉と似ていながら、実は虚栄心の隣に位置している。


「自分自身に対して恥ずかしい場合もあるのではないか?」という反論が聞こえてきそうだが、確かにそれはあり得る。でもさ、実際は家に一人でいて「恥ずかしさ」を覚える状況は、まず存在しない。パンツ一丁でも全然平気だもんな(笑)。朝起きて顔も洗わないとかさ。


武士は食わねど高楊枝(たかようじ)」とも言う。やっぱり、見栄坊っぽい。俺は嫌だね。そういう生き方は。


 20年前に痺れた言葉だが、今なら静かに受け止めることができる。「最深の、また最高の名誉心」とは“真の自由”を意味している。世間の足枷(あしかせ)に縛られることなく、本来ありのままの自分に生きる時、人は自由な境涯を獲得でき、どこにあろうと自在の振る舞いができる。自由と自在はセットだ。


 現実の生活は多くの人々に依存している。しかし、たった一人で立ち上がり、たった一人で歩み、たった一人で生きてゆく覚悟がなければ、生を十全に味わうことはできない。自分が自分であることの意味は、孤独の豊かさとも言うべき性質のものであろう。