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2009-11-28

一読者からクリシュナムルティの料理人となった青年/『キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン

 マイケル・クローネンはドイツで生まれ育ち、高校卒業と同時にアメリカに移り住んだ。そして、23歳でクリシュナムルティと遭遇する――


 1966年、カリフォルニアのサンディエゴでのある運命的な朝、私はJ・クリシュナムルティという人物や、『沈黙せる心』という彼の哲学について書かれた一冊の本に出くわした。気をひかれて、私はそれを読み、そして、彼の哲学の解釈よりはむしろ逐語的な引用句に魅了された。彼の言葉は私の心中の深い耐久性に富む絃を打った。直き(ママ)に私は彼によって書かれた数冊の本を見つけ出し、そしてたちどころに、ここにこそ私が今まで聞いたこともない理性と、人間の状態への深い洞察の声があるのを悟った。信念の体系、方策、解釈を一切提供することなく、彼は宗教的、国家的組織の破滅性を呈示しながら、人間の世界的様相を明確かつ単純な言語で正確に描写していた。どの人も心理は自分ひとりで自分のために見出すものであることを強調し、彼自身のも含めて、どのような形式の精神的、宗教的権威をも否定していた。

 新しく全的な眺望を提供するかたわら、私がぼんやりと感じ、不思議がっていたことを明確な言葉で表していた。彼の著作に出会ったことは貴重な宝石の発見にも似ていて、私は彼の言に完全に感電させられ、この人物のすべてを見つけ出そうと決意し、もしまだ彼が存在しているなら、是非探し出して会ってみたいと強く思った。


【『キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン/高橋重敏訳(コスモス・ライブラリー、1999年)以下同】


 本書はクリシュナムルティの評伝であると同時に、一読者から世界中を飛び回る追っ掛けとなり、遂には料理人として側近で働くまでに至った無名の青年の成長譚でもある。文章が繊細で奥床しく、クリシュナムルティの思想が確かに息づいている。何にも増して、素のクリシュナムルティが描かれており、著作からは窺い知れない「振る舞い」が多数記されている。


 マイケル・クローネンが受けた衝撃は、私が受けたものと殆ど一緒だ。思わず、ハンドルをマイケルに変えようかと思ったほどだ――小野舞蹴(笑)。


 著者が熱烈なファンだったために、浮き立つ心情が綴られている場面も多いが、詩的な表現によって抑制されている。予備知識があればこそ思い込みが強化され、出会いの場面で圧倒されることは十分考えられる。だが、こうしたことは長く続くものではない。まして料理人として日常で接するようになると、そりゃ色んな場面にも出くわすことだろう。ところが、著者が寄せるクリシュナムルティへの思いは強くなる一方だった。彼(か)の人物が本物である証拠だ。


 クローネンは、クリシュナムルティが生存していることを確認するや否や、直ちに講話が行われる予定のインドへ飛ぶ。居ても立ってもいられない様子が微笑ましい。そして、この行動力こそが青春の持つエネルギーなのだ。


 クリシュナムルティは静かに入ってきた――


 彼は急いで話し始めようとはしていないように見えた。むしろ聴き手の顔を一人ずつ充分に時間をとりながら眺めていた。私と眼が合ったとき、私はエネルギーの流れが私と彼との間で突然点火されたようなショックを覚えた。私は50名中の一人にすぎず、外側の端に坐っていたのだが、短い視線の接触は並々ならぬ直接的な衝撃だった。

 部屋の中の静寂はますます深まって、時計の時間では1〜2分も続かなかったのだが、まるで触知できるほどだった。圧迫感はなかった。私はむしろその中で静かに私自身に気づき、私の身体とその動きに気づき、私のまわりの人たち、外の街路のざわめき、そして私の絶え間ない思考の動きに気づきながら、心地よい静寂を味わっていた。しかし、そのどれよりも私は、私たちを熱心に眺めながら、ユーモア感にあふれて、片隅に坐った人物に気づいていた。私は少年のような彼の身体が何と小柄でデリケートなのか、そして彼の存在の微妙な力が、黙ったままなのにどれほど部屋一杯に染み渡っているのかに驚くばかりだった。

 やっと彼は沈黙を破ってこう尋ねた。

「今朝はどんな話をしようかな」


 これだよ。どうだい、わかる? 多分私は普通の人よりは演説する機会が多かった。1000人くらいを前にして話したことも珍しくはない。だからこそわかるのだが、普通なら肩をそびやかして虚勢を張り、睨(ね)め付けるように場内を一瞥(いちべつ)し、威勢よく話すところだ。


 たとえ数十人の集いであったとしても、一人ひとりに目を配り、参加者を隈(くま)なく見渡すことなど、まず不可能である。そして、その静かな沈黙が支配するわずかな時間に、濃密なコミュニケーションが図られているのだ。しかも言葉を介さずして!


 で、「今朝はどんな話をしようかな」と来たもんだよ。もうね、わたしゃ鼻血が出そうなほど昂奮しているよ(笑)。この一言こそ、常々導師(グル)を否定しているクリシュナムルティの面目が躍如としているのだ。この場には、「私(クリシュナムルティ)が語り手で、集まった人々は聴き手」という構図が存在しないことを宣言している。しかも、「声高らか」にではなく飽くまでも「静かに」「普通に」「自然に」語っているところが凄い。


 日蓮は「一代の肝心は法華経法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(「崇峻天皇御書」建治3年/1277年)と説いている。ブッダの膨大な経典のホシが「人の振舞」にあるというのだ。


 クリシュナムルティの振る舞いは、「賢き人」がどのようなものであるかを教えてくれる。


 尚、訳者の高橋重敏は日本でクリシュナムルティ・センターを主催していたようだが、2006年に鬼籍に入り自然消滅したようだ。付言しておくと、「訳者あとがき」には何となく思い上がった調子が見受けられ、本書に瑕疵(かし)を付けている。また、セリフなどの括弧の後に句点を打っていないのも違和感を覚える。

キッチン日記―J.クリシュナムルティとの1001回のランチ

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